不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  天の意思と神風 

久々の更新になりました

先週仕事の最中に背中と腰を痛めて、左肩から左大腿にかけて

痛みがひどい爺でありましたが、何とか右手だけでキーボードを

叩けるまでに回復しました


またぞろ沖縄に猛烈な台風が接近しているらしいです

沖縄の政(まつりごと)が天の意思に適っていないから・・・

などと軽率な事を言ってはは沖縄県民に対し失礼かもしれませんが


雷と天罰は「狙った場所」に落ちてくるとは限らないそうです

もし、天罰と言うものが有り、天の怒りと言うものが存在するなら

ピンポイントで落ちてほしいと願わずにはいられません


軍事を否定し武装をせずに平和を唱えるのは古代日本の貴人の

特徴だと井沢元彦氏はいう

その理論からいうと、憲法9条を護れ、軍備反対を唱えている左翼脳の

人々は「貴人」だと言う事になる

(間違っても奇人とは言っていないですから)


隣の国の女性酋長が「正しい歴史認識をせよ」と日本に発したが

まさしく護憲派と言われる左翼脳の人たちは「歴史に疎い」し、歴史の

不勉強が際立っているかもしれない


警察権力を否定し、軍事装備を排した結果、日本がどういう状況になったのか

若しかして防衛などしなくても、平成の時代に「神風」が吹くとでもいうのか?

貴族と言う言葉は日本と諸外国では全く意味が違っている

諸外国の貴族や王は「戦う武人」である


どの時代、どの文明、どの帝国の王たちは「戦う支配者」だった

記紀に残る日本の古代天皇も自ら先頭に立ち、武器を振るって敵を

殺してきたとされる

私たちが辛うじて知っている西欧の王侯貴族の姿は、鎧兜(よろいかぶと)に

身を包んだ武人の姿であるが、綺麗な衣をまとい優雅な姿なのは平安以降の

日本だけなのである


最近やたらと「死刑の廃止」などと言って死刑制度に否定的な「人権派弁護士」が

横行しているが、奈良時代には死刑が当たり前のように行われ、対象が親王であろうと

妃であろうと、名門貴族であろうと容赦なく死刑にした

その反動かどうかは不明だが、平安になると死刑が行われなくなってしまった

国家反逆罪で罰せられた(冤罪だったが)、菅原道真も流罪ですんでいるのである


平成が平安に近くなっていると思ってしまうほど、平安の政治と平成の政治は

非常に似通ってきていると考えています


現代の国会議員が平安の貴族と仮定するなら、自分の手を汚さずに綺麗事ばかりを

並べて、目の前の「国難」「危難」から眼を遠ざけ、自己保身と無責任な言動で

その場凌ぎに躍起になっていると見えてしまう

尖閣に押し寄せるシナの艦船も、ある日「神風」が吹いて蹴散らしてくれる

冗談では無く本当に国会議員の先生たちは、そう考えている気がしています


自分が議員の職にある間に「事が起きなければ」OKなのである

そんな日和見先生たちに、私たちの日本を任せてよいものか?

野党ばかりが悪いとは思っていない長屋の爺

自民党支持者には申し訳ないが、この状況を作ったのは誰でもない

自民党の中に潜む「無責任な国賊議員」たちなのである


異常気象は続いても「平成の神風」は吹くことは無い


私は「神風特攻隊」という言葉大嫌いである

鎌倉時代の【神風】とは貴族が武士(もののふ)たちの功績で元寇を撃退したと

認めたくなくて「神のご加護」「神威」によって、敵を撃退したことにすり替えた

とても卑劣な言葉なのである

そして・・・大東亜戦争において、親・兄弟・妻子を人質に取られた形で

国のために命を捨てて来いと命令したのが「神風」なのである

それはお前たちの行跡では無く、神の思し召し、神の意思であると

意義をすり変えたかった事に寄る「命名」に過ぎない・・・・

敵艦特攻は神の意思なんかじゃない

一部の無責任な権力者による「自死命令」だったと私は思っている

そんな御霊が眠る靖國に足を運ばない人間は天皇であろうと総理であろうと

私は認めたくないし、尊敬も恭順の気持ちも微塵も持てないのである。

◎  孤独を恐れない生き方 


 【徳は弧ならず 必ず鄰あり】 

*とくはこならず かならずとなりあり

道徳は孤立しない、きっと親しい仲間ができる

論語に在る言葉である


自由と勝手の違いが混同されている時代

私の考える自由とは、制限された範囲の中で、個の意思に従って

振舞う事が許されることだと・・・・


悪い事だと薄々感じていても、流れに身を任せ仲間でいることを

選択し、批判をうければ「私の自由だ」と言い放つ現代人

イジメの根底に潜む主因は「自由」という【見えない魔物】が

引き起こしているのかもしれません


道徳とは

狭く 真っ直ぐな道の事だと言います

その道を外れると、広く平坦な視界が開けてきます

人は少々曲がりくねっていても、楽で平坦な道を選んで歩く生き物です

(かく言う長屋の爺も例外ではありません 笑)


悪いと知っていながら不正を働く地方議員や公務員さらに自治体首長など

最近は当たり前のように毎日、眼にしています


私の有権者としての選択肢は、どれだけ悪い事をしないかではなく

どれだけ有権者の望みをかなえるかでもなく、どれだけ自分を律することができるか

それが「淡い望み」であるかはわかっていますが・・・

道徳心があれば、件のような醜態を有権者に見せることは無いと思っています


選挙戦で時折見かける「候補者の涙の訴え」「夫婦で土下座のお願い」

私はこのような候補者には投票しません

なぜそこまでして当選したいのか?

其処に「ヒトとしての誇り」というか、有権者を代表して政を背負う

不動の意思を感じないからです

その先に待っているだろう「特権」「待遇」「うまみ」「利権」に眼がくらみ

恥も外聞も無くするそのような行為は、「道徳心」があればできない話

だと思っています


道徳心が無くなった日本人

覚悟の無くなった日本人

弧を恐れる日本人

日本人を観れば、日本の政治家がイメージできます

今の国会議員や地方議員を批判する有権者たちは

その議員を誕生させたのは自分ではないと自信を持っているようですが

議員を批判する前に、日本人そのものを批判するべきなのかもしれません

(私は日本を愛する爺で、日本人を侮辱する意図など無いですが・・・)


一人になっても曲げない信念

一人になって己を律する強い心

大勢に流され道徳を顧みない現代人

私は偏屈ですから、できる妥協とできない妥協が有り

大勢に迎合することを恥と思っていて、一人になる事を恐れてはいません

だからと言って、人間本当の一人になる事など無いと経験上悟っています

そういう意味で冒頭の論語の言葉になっています


私が寂しがり屋で、一人になるのが嫌で、仲間とつるむしか生きる術がない

のであれば、楽で簡単でそれまでの日常を変える必要も無いのです


私は楽しい時、勢いがあるとき、順風満帆な時に寄る人は、苦しい時、

困難に向かっているとき、精神的・経済的に窮したときには離れて行くもの

だと自分の経験から強く感じています


しかし、どんな事を言っても「鄰あり」だったことも経験として感じているのです

私が一人で生きているなどとは思っていませんし、孤独の辛さも知っていますが

孤独を恐れるあまり、意に添わない事に迎合して生きて後悔しないのか・・・

私はこの齢になってそれを強く意識しています


知ると言う事は「識る」ことでもあります

  しき・しょく・し

もとは  (しょく)

戠とは 戈(ほこ)に飾りをつけた形で、目印・しるしの意味

その目印は見分けて知ることができることから、言を加えた文字

識 のことを「しるし・しるす」とされ、「しる・わかる」の意味となった

「知る」と同じ意味のようだが、知は神に誓うことで「さとる」の意味を持ち

識るは「わかる」、「正しく理解する」というような意味にも使う

知るのは自ら望まなくても「知ることはできる」

しかし、「識る」ことは望んでこそ得ることができる「しること」だと

わたしは勝手に解釈している

知識とは、受動的でも能動的でも自己が知ることのできる「もの」で

その両方から得たものを知識と言うのではないだろうか


巾 と合わさって  (旗につけるもの)となり、燃え盛る火の

様子は、火を加えて  (し・さかん)という

戠(しょく)が目印であるならば、食(しょく)は動物であることの目印なのかもしれない

◎  長屋の爺のルーツは長屋 

60数年前、私は長屋で生まれました

4軒長屋でいわゆる「炭住(炭鉱住宅)」と言われる場所です

水道は各家庭に無く、共同水場という小屋があって

其処から天秤棒で運んで、水瓶を満タンにするのが子供たちの

役目だったのです

今のように家にテレビやゲームなど無く、勉強もせず家の手伝い

薪(まき)割りや石炭出し、水汲み、子守り、新聞配達のバイト

春や秋になると山に入り「キノコ」「山菜」「木の実」などを

採って来るのも子供の仕事でした

冬になるとなぜかクリスマス用の「モミの木」を伐り出しに行かされたり

家の前の雪かきは当然で、大きな通りまで歩く道を確保するのも

我が家の子供の仕事でした

障子の張替えの手伝い、布団の打ち直しの手伝いなどやるべきことは多く

子供といえど遊んでなど居られない時代でした


カレーライスは年に一度、クリスマスの夜に街に仕事に行っている姉が

帰省して作ってくれるカレーが唯一ですごい「御馳走」でした

当然ケーキなるものも、その日だけであり、外国の宗教行事であろうと私たち

子供にとって「特別な日」だったのです

節分はなぜか盛大にやって、普段食べられないような菓子類を、父親が

家中に撒いて歩くのです

その菓子を「蓋付きの缶」のなかに拾い集め、それから長い間自分達の

「おやつ」として食べるように各自が保管したのでした

バナナは遠足の時に一本だけ、メロンは病気になった時だけだったのですが

叔父が夕張で「メロン」を栽培していましたので、年に一度だけ一人半分

のメロンを食べられるようになったのは、今でも記憶に在ります


親類が雪*乳業に努めていて、訪れるたびに持参するチーズやバターなど

で我が家は乳製品には不自由しなかったと思います

(因みに私は牛乳・ヨーグルト、牛肉が苦手で今も食べられません)


言葉で書くと何やらほのぼのとした田舎生活に感じると思いますが

貧しかったのは想像を絶するものでした

小学校に入ったばかりのころ、我が家には米を買うお金が有りませんでした

詳しくは書けませんが、父が部下の使い込みの責任を取らされて、父の給料は

天引きされて0円だったのです

毎日「ジャガイモとカボチャ」・・・来る日も来る日も「白と黄色」

それ以来私は、好物は?と聞かれたら・・「銀シャリ」と答えています

何も豪華なおかずなど無くても、美味しいコメが食べられることが

何よりの贅沢・・・・

貧しいというのは、コメが食べられない事をいいます

新しい何かが買えないから貧しいのではありません

そういう意味からいえば、今の日本人で貧しい人は一握りです


私がジャガイモを口にするようになったのは家庭を持った後でした

四半世紀の間、ジャガイモが喉を通らないようになっていたのです

最近では「新じゃが男爵」が出回ると、「イモ団子」を作って食べます


どんな辛い過去でも・・・時間が過ぎれば笑い話にできる

たしかに、そういうものかもしれません


その日その日が食べられることが、どんなに素晴らしい事で

喜ぶべきことか・・・・

食べることが何よりも優先されるのが本来あるべき姿だと思います


現代は、衣 > 住 > 食

最新家電 >  遊興費 > 嗜好品 >三度の食事 

になっているような気がします


物と情報が氾濫していると言われていますが、まがい物・粗悪品・不用品や

業界の戦略に上手い事載せられ、流行と言う言葉に振り回されているだけ

私はそんな気がしています

人の生活にはそれぞれ違いがあるのに、同じものを購入して不思議に感じない

そういう人々が増えています

仕事で伺うお宅にも、この家族構成でどうしてこの品物を購入したのか不明な

ものが多々あります

テレビショッピングで「その気」にさせられたのかもしれませんが・・・(笑)


最近の日本人は、ちょっと考えることが「苦手」になってきたのかもしれません


映画やテレビドラマは、何から何まで説明し「見せて」くれるのが特徴で

考える時間も与えずに、次から次へと視聴者の脳に情報(映像)を送り込みます

その瞬間にQとAを的確に見せてくれるのですから、考える必要は無く

考える行為こそ「邪魔者」となります


日本人が考えなくなった原因は、映像媒体の進歩と読書の衰退です

本を読むときに、主人公のイメージは各読み手(読者自身)によって

違いが出てきます

ところが映像では美男子な俳優だったり、美人女優だったりするわけですから

個人のイメージも創造力も邪魔なだけです

家の描写一つとっても、個人によって微妙な差異が出るはずですが、映像は

視聴者の誰にも平等に、寸分違わぬ「モノ」を提示してくれます


私は原作本を呼んだ作品の映像(映画・ドラマ)は観ない事にしています

逆に映像を観た作品の原作本は読まない事にしています

だから比較することもなく、不満を口にすることも無く、楽しませてもらえる

偏屈な長屋の爺ならではと言う事でしょうか・・・


そのうち日本人は日本語の大部分を使わなくなっていくでしょう

語彙が少ないと嘆く日本人が多くなったそうです

日本には「話し言葉」「書き言葉」「尊敬語」「丁寧語」「謙譲語」「ヤマト言葉」

「熟語」「慣用句」など、日本人として知っておくべき言葉が山ほどありますが

その多くは「紙媒体」から様々な知識を得るのが一般的です

難しい専門書を読まなくたって、日本語を正しく使っている書物は多くあり

日本語を丁寧に正しく使っている作家の本は読んでいて飽きることが無い

のも特徴です

映像とともに流れてくる言葉が解らなくても、映画・ドラマを観終わるのに

不自由は感じません

ところが小説で意味の解らない言葉が出てくると、それが解らなければ次の

頁に集中できなくなることが有ります

ではどうするか?

辞書を引いたり、ネットで意味を調べたり・・・・そうやって、言葉を覚えて行く

私が普段心がけていることなので、それが正しい事かどうかは分かりませんが

少なくとも10年前の長屋の爺より、日本語を多く知って、多く使えていると

思っています

テレビが悪いとは言いません

映画を侮辱するつもりもありません

もうすこし 自分自身の頭で小さなことでも良いから、考える習慣にしたら

違った世界が見えてくるかもしれない・・・

そういう事だと私は思っています。

◎  長屋の爺の持論 

本来なら台風一過の秋晴れになるはずだが、秋雨前線の影響から

どんよりとした一日になり、今日はまたしても雨・・・

雨が嫌いではないとは言っても、降り過ぎるのは考え物ですね


読者の方は「ブログを止めて、爺は何をして暮らす?」

そう思っているかもしれないですが・・・

私は十数年前に一度ネットから引退した身です

そんな爺が懲りもせずネットに帰ってきて、また去ろうとしています


私は人生に対し欲張りな性格の持ち主なのか、何でも経験しないと

気が済まない「癖」があり

あれも一度やってみたい、これも経験してみたいという思いが強く

飽きっぽいのとは別の「経験主義者」だと自分で勝手に思っています



そんな爺は落ち着いたらもう一度【木彫】、【模型造り】、【写真撮影】、【切り絵】

【版画】、【写経】と妄想は際限が無く、何でもやってみようと息巻いています


今読んでいるのは【禅】、【禅宗】、【日本語】、【漢字】に関する書籍ばかりで

古代史はしばし休憩中です


漠然と待っていて得た知識、情報はなかなか吸収できない性分で

自ら欲して得る情報・知識は乾いた身体にどんどん吸い込まれていく

そんな気分でいます

それが身になるかどうかは、また別の話なのですが・・・



経験が無駄になる事は無いと、私は信じていて

「芸は身を助ける」と言うそうだが、さしづめ「経験は身を助ける」

と言う事だろうと思っています

とは言うものの、私は人生の歩み方が不器用で数々の失敗や

挫折を経験してしまいました

「もう少し利口に振舞えたなら、しなくてよい苦労は少なかったのに」

そんなアドバイスをもらったこともあるが、不器用な生き方しかできない

長屋の爺は反省も後悔もしていないです(笑)




人生は産まれた時が「スタート」で、死ぬ時が「ゴール」である

これは人間であれば、人種も性別も国籍も関係なく定まっていることではないでしょうか

ただし解っていることはスタートの時期だけで

ゴールは誰にも見えない事だと思っています

人によって短距離であったり、長距離のような人生もあり

これは自分では決められない【ルール】といえます


一つだけ不変なのは必ず全ての人間はゴールを迎えること

そういう意味からすると、何処にゴールがあるか考えずに人生を歩むのが

人間と言う生き物なのかもしれません


10年の人生とは知らずに過ごすのも、70年の人生と知らずに過ごすのも

だれにも分からない事であるから、人によっては「明日があるさ」と今日を

無意味に過ごしたり、明日にも人生が終わるが如く「生き急ぐ」人もいます


しかしどう生きても人生であり、その先には必ずゴールは存在するのです

そのゴールである「死」について考えたり、死を想定することは

意外とタブーにされている気がしています

そのゴール(死)を不吉だとか悲しみの種と思い込み、意識しない事が

良い事なのかどうか・・・私にはわかりません


ある日突然目の前に現れるかもしれないゴールがあると自覚し

日々を過ごすのは容易なことではないですし、私にそれができるかと

問われても自信を持って「過ごせます」とは言えません・・・

だが、その日は誰にも必ず来るのが現実です


自己中心的な人間は否定されるが、その自己中の向く先に在るのは

他人である


私は自分に向かって「自己中心的」になろうと思っています

自己中心に振舞うのは相手にではなく、自分の気持ちに対し「自分が」

「俺が」という主張をしたいという意味で・・・

何とも上手く説明できないですが、自分に優しく、自分に厳しく、自分と言うものを

大切に、許してあげる生活とでも言うのでしょうか・・・


最近街で見かける若い子たちは、まるで金太郎飴のように髪形も服装も言葉遣い

も同じような人ばかり・・・・

人と同じでなければ「ヒトでは無い」と思っているかのように周りに似せて生きてます

社会や自分の周りばかり意識して生きることが楽なのでしょうね

自分という存在が何処にあるか理解できないのか、あえてしないのか・・・・

現代人は自分を観ることより、他人ばかり意識して生きている気がします

自分より他人を意識していて、他人と違う事に意識が向けば当然似せようと

考えるのかもしれませんが

同じ色 同じ匂い 同じ形の中にしか住めなくなった現代人

他人と違う事がまるで罪でもあるかのように・・・・




私は引きこもる若者を強くは否定しません

金太郎飴の世界、クローンばかりがもてはやされる世界に嫌気がさしても

当然だと思っているからです

(単なる怠惰な者 その環境に甘えている者は別ですが)


今の若者は自分で自分の人生を決められないのかもしれませんが

人と同じことを続けていても、その先に在るゴールは各々違っていることに

気づいていないのでしょう

自分に自信が持てないのではなく、他人と同じになるしか術を知らないから

他人と「つるんで」生きるという楽な道を選んでいるだけかもしれません


世間という言葉が有りますが、私は世間というものを観たことが

在りません

世間は何処に行けば観ることができるのでしょう

私たちが常に意識している世間という物の正体は何でしょう


私も正確には分かっていませんが、世間というのはギルドのような

モノではなく、自分が勝手に作り上げた仮想空間のような気がします



私が思うに、世間という空間を意識したときから、人は自分を蔑(ないがし)ろ

にして自分に冷たく、他人に優しく接しようともがいている気がしています

自分に優しくできない人間が、他人に優しくできる道理はないのですが・・・



自分に優しく 他人に厳しいのは 理に適っているとは思いますが

ただし・・・意識の上で、言葉の表現での話だけでしょう


理解してもらえるかどうか解りませんが・・・

外に向かって自分に甘く、他人に厳しいのはお門違いであり、自分に

対し他人より自分を大切に思う事は至極当然のことだと思っています


私はボランティアとかチャリティーが苦手で

ユニセフなんて偽善の塊だと思っている変人です

動物愛護と言いながら、ケンタッキーを頬張る人間が哀れであり

ベジタリアンと豪語する人間が植物という命を口にするのを軽蔑しています



現実でも世間や国のために自分を粗末にする人など居ないでしょうし

職務や責任感・誇りという言葉で自分自身を律するのも、きっと深い理由が

在るのかもしれません


名誉や誇りだけで人は生きていけません

自分に生きる糧である「ご褒美」を与えなければ、生き続けることはできないでしょう

食べることが何よりも優先されるのは、自分にご褒美を与え自分に優しくすることと

同じだと思っています

自分が大切だから明日のために「モノを食べる」

自分がどうなっても良いなら、食べることを止めても差し支えないことに

なるでしょう

食費を削って他人と同じものを買い、同じ格好をする人間は自分という

存在に対しとても失礼な事をしていると思っています


お米を最低価格のものにして、一円でも安い隣町のスーパーまで行き

浮いたお金で「高い外食」をする日本人・・・・

月に一度の散財のために、毎日を軽視して自分に優しくできない日本人

これが日本製品が売れない原因にもなっています


安物が似合うと思っていますか?

中国製の安価で粗悪なものが自分に相応しいと思っていますか?

本当に不味いお米で満足していますか?

外食する金額のほんの一部で、一月美味しいお米が食べられるように

なります(計算してみてください)

これが世間を意識した大きな「害」だと思っています


「安い」「お得」「儲かる」は日本人が観ていると思いこんでいる「世間」という

ものから発信される風聞でしかないのでは・・・

私にとって安い高いの判断基準は、自分が納得できるかどうかであって

世間がどう言おうと、自分が納得したらそれが「適正価格」で、どんなに

評判が良くても、自分が納得できなければ「不適正価格(高い)」となります


簡単に言うと、もっと自分に対しご褒美を与える生き方がしたい・・・

そう考えている長屋の爺なのです。


* 念のため、これは私の持論であり、人はそれぞれ考え方が有ります

 私は他人がどう考えているかを問うているわけではありません

 コメントに持論を書かれても、お応えする事は無いと思います。

◎  台風上陸 

よりによって台風がこの地に上陸するというので、久しぶりにNHKの台風情報を

夜中まで観て、今日は寝不足の長屋の爺です



車で10分足らずの地域に土砂災害警戒情報、避難勧告まで出た時は

どうなる事かと思いましたが幸いにも大事には到らずホッとしています

本当に今年は自然災害が多いと実感するのですが、内心では

天の怒りの矛先が我々と言う事が、理不尽な話に感じています(笑)


さて、

他人には言えない秘密の一つや二つを持っているのが普通ですが

心に傷を持つ人はそれ以上に多いと思っている爺です


心に傷を持つ人は往々にして口数が少なく

その原因は常にその事が頭の中の重要な部分を占めて

時には口にできない心配となり、人に対する抵抗や遠慮

さらには自己嫌悪などを起こしてしまう気がしています


そんな人を傍から観ると気になるもので・・・

人々は原因を知らないばかりに、そんな人に対し「影のある人」「ミステリアスな人」

などと思ったりすることさえあったり(笑)


何でも正直に話しているようで、ある部分だけは固く閉ざす部分を持っている

そういう人なら周りに沢山いるはずなのだが、意外と気づかない事が多い


ニッポンが日本だった頃・・・

こういう人を指して「あの人は屈託があるようだ」と言った

すでに死語になったような言葉で、最近は「屈託のない笑い顔」などとは

言わなくなってしまったが、早い話一つの事を思い詰めたり、心配事や

人には言えない悩みがある事をいった言葉だった


あかるい話題で盛り上がっているときでも、どこか「冷めた」表情をする人

きっと身近にいるかもしれないですね


【進退谷まる】 しんたいきわまる

進退窮まると書くこともあるが、本来の意味から言うと「谷まる」が正しい

孔子が書いたとされる「詩経」の中の文で、【進退維谷】(進退これ谷まる)

から出た言葉だから「谷まる」があっていると思います

谷に挟まって行くも退くもできない状況ということでしょうか・・・

何やら長屋の爺の現状そのものではないか? なんて思っていませんか(笑)

同じ意味の言葉として【のっぴきならない】という言葉もあります

退き引きができない→のっぴきならない


【片腹痛い】

誰もが一度は聞いたり使ったことがある言葉かもしれません

この言葉は「かたわらいたし」と発音すべき言葉でした

この言葉は元来は【傍痛】と書いて「かたわら・いたし」と使った言葉です

「は」は音にすると「わ」ですけど、いつの間にか「かたはら」と読むようになり

「傍」も「片腹」に代わってしまいました

意味としては、言動や態度があまりにも身の程知らずで、見苦しく滑稽で

傍から観ていると苦々しく思う様を表現する言葉でした

だから「おなかが痛い様子」の言葉ではないのに片腹が痛いとは何とも

複雑な思いが・・・ 

チッ ちゃんちゃらおかしいぜ! (これも同じような意味です)



亭主・旦那・夫たちが自分の妻を指して【かみさん】と呼ぶことがある

これを不思議に思わない人が結構いるようで、本来は「上さん」と書きます

これは本来、上位者の奥方を呼ぶ尊敬語でした

それが一般の人妻に対して使うようになり、料理屋の店主にも使うように・・・

今では料理屋の店主を指して「女将」と書いて「おかみ」と読むようになった


ちなみに、年を重ねた奥方は「山の神」と呼ばれる

本来、山の神は怖くて大きな力を持ち、里人から絶大な信仰を集めていた

頭の上がらない亭主にとって、時に怖くて、我が家の実権(財布)を握る女性は

山の神にも匹敵する存在だったのでしょう(笑)


犬や猫を飼っている人が良く使う言葉「モフモフ」

ペットのやわらかい毛は誰が触っても心地よい感触ですね

この柔らかい毛のことを古き日本では【和毛】と書いて「にこげ」と云いました

和毛と書いて「にこげ」なんて素敵な表現が日本には存在したのです

毛繕い(けづくろい)もグルーミング、飼い主がするとブラッシングというのも

どこか粋じゃないと思うのは爺だからなのか・・・・・

「毛繕いするから こっちへおいで」とペットに言ってみては? 


【さかしら】

現場でプロの職人たちが精いっぱい仕事をしている場所に

経験も技術も無い「頭でっかち」な監督がしゃしゃり出てきて

職人たちを見下した態度で、段取りを指示するのは何とも腹立たしい事です

こういう「利口ぶって」「生意気で」「自信過剰」な話しぶりを「さかしら」といいます

大手ハウスメーカーの監督などその代表と言えますね(笑)

問題が起きると決まって職人に「しりぬぐい」をさせる事になることが殆どなのに・・・






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