不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  ヒトと神社、神の意思 


現代の神社、パワースポットとか言われ、老若男女に高い関心を

得ているのだが、意外と神社を知らない人が大部分である


「それでは お前はどれだけ知っている?」

そう問われると胸を張って自慢できるほどの事は解ってはいない

ただ・・・「おかしいこと」、「理に適わないこと」がある事だけは

長屋の爺は断言できるのである


前回書いた出雲大社の祭神の変更などもその一つであろう

祭神が神社に「留まっている」というなら、新しく祭神とされた

(勧請された)神は、沢山の神体を持っていることになる

それまでの祭神とされた神は何処を浮遊しているのか・・・・


Aという神社とBという神社の祭神が同じなら、同時に二か所で参拝したなら

そのどちらで参拝者を迎えるのだろう?

それとも神さまは同時に百や千もの神体を持つというのか?

誰がそう決めたのか?

これを「屁理屈」と思う方には、永久に理解できない疑問なのである


私は神さまが居ます場所が神社などではないことは明白だと思う

理解しにくい話かもしれないが、神社に祭神が鎮座しているという観念

こそ、神を「もの」扱いしていることに、なりはしないだろうか・・・


この神社に**という神さまが鎮座している

そう断言しているのは神ではない

人間なのである

神はヒトに非ず 神は物に非ず

神社を統合したり、合祀したり、祭神を変更したりするのは

人間の勝手な都合であり、神を愚弄することにも等しいと思っている


神を人工の建物に封じ込め、人間の欲や都合でもてあそぶことが

神に対する接し方とは思えないのである


日本人にとっての神とは?

キリスト教徒などは、教会に足を運ばなくとも【神に祈る】事が可能だ

十字を切り神に願いをするだけで、神と向き合える

神は常に自分の胸の中に居る

私は笑われそうで稚拙な、そう云う解釈をしているが、違うだろうか?

日本人はと言うと、神さまに会うために「神社」という限定的な場所に

足を運ぶ必要がある

日本人にとって神さまとは、神社で向き合うものなのである

毎日朝から参拝する敬虔な信徒でも、いったん神社の鳥居を出てしまえば

神さまの事は意識の隅にも残らない人が殆どである

日本人にとって神社こそ神さまと向き合う場所であり、神さまはどのような時も

【神社に居る】という意識なのである


その原因を作ったのが、8世紀の策士・藤原不比等だったのではないか

神さまを神社と言う限定的な場所に祭った

そう聞くと好印象を抱いてしまうが、何のことは無い自分達の都合で

神さまを「封じ込めた」というのが真相のような気がしている


ヤマトの人々にとって、野に山につねに身近に居ると感じていた神たちを

ある日突然、社殿という建物の中に封じ込められ、気が付けば精霊では無く

人の姿をした「神」に祈れと言われたのに等しい・・・


神がほんとうに怒り、人間に警鐘を鳴らすのは、他人を殺めた時ではない

この地に生きる諸々の命に危険が迫った時に、時の為政者に向かって

警鐘を鳴らすのだと思っている



日本が日本で有り続けることに大きな障害が起こりそうなときに

息を整え足元を見よ、眼を大きく開き周りをよく見よ

私は神の怒り(神罰・天罰)とはそういうものだと思えてしまうのである


自然を破壊してまで、住宅地を広げなければダメなのか・・・

自国の民を後回しにしてまで、他国に阿る必要があるのか・・・

「足るを知る」努力を為政者は成しているのか・・・・

国民が皆、「感謝の心」を保持しているのか・・・・

神は今、日本人に対し、そう問いかけているのではないだろうか・・・。

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