不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  日本らしさと開かれた皇室 

以前から不思議に思っていることがある

俄か古代史を拙ブログで書き散らしている身のくせに

浅く 狭く の無教養とは言いながら、疑問は解消されてない


日本の皇室は日本の伝統をどこまで理解し、実践しているのか

つまりは、何か日本らしいことを続ける家風が有るのかという

素朴な疑問なのである

バレーやオペラ、コンサートの観賞の話題は頻繁に耳にするが、

日本の古典芸能を観賞する機会が少なすぎるのではないか

という個人的感想を持っている


千代田の中で執り行われる行事以外には、伝統にあまり関心が無いのでは?

そんな疑問を感じているのである


そんなことは無い! と仰るかもしれないが・・・・

日本の伝統芸能はかなりの数があり、皇室関係で話題になるのは

和歌・俳句などの詩歌、神楽・雅楽などの舞踊、能・狂言などの演劇

その他にもあるのだろうが、私の知識ではこの程度である(汗)


チェロやバイオリンなどの洋楽器を幼少のころから学ばれた方が多い

しかし、千年、二千年続いてきた家系の人間が、日本の古典楽器に

触れられない環境というのはどういう事なのか?


平安の御代の天皇の中にも、和楽器(笛・琴)をよくした方は居る

さらに、【天皇の楽器】といわれる 和琴(わごん)というものまである

【神琴】とか、【倭琴(やまとごと)】、【御琴(みこと)】とも呼ばれ

天皇家と深い関係にある楽器なのである

(もし、そういう楽器に日々触れているなら、そういう物こそ公開し

国民に知らせるべき務めが宮内庁にあると思うが・・・)


皇統125代という伝統の裏側には、古(いにしえ)の古き良き伝統物が

受け継がれてきたことも大きな要素だったのではないだろうか



世間で言われる皇室の帝王学というものを曲解する人もいる

一子相伝の形式に言及する人もいるが、そんなものは専門職が

漏らさず伝える術を持っているのだから、心配する必要などない

それよりも大事な事は「こころ」、「らしさ」を教え諭すことではないだろうか


皇室の帝王学の基本は、いかにして万世一系を護持するか

その為に何を成してはいけないかという守りの哲学である

新しい何かを始めるることではなく、あくまで伝統を踏襲する事である

・・・・と、私は考え続けてきた




宇多天皇(59代)が遺した【寛平御遺誡(ごゆいかい)】の

中にも、賞罰を明らかにし、愛憎をふりまわすことがないよう

皆に公平に、好悪に偏るべきでないとし、万事について

惑溺(わくでき)して度を過ごしてはいけないなど、さらに

天子たるもの喜怒を慎み、表情にだしてはいけない

と書き記している


(惑溺とは、ある事に夢中になり、本心を奪われること)

そういう意味では、現代の皇室が伝統を守っているかと

問えば、「否」もしくは「疑問」という方もおられるかもしれない


仮に日本の伝統芸能の中に「下賤と思われるもの」があると

言うならば、西洋の芸能文化が気高いという論拠が知りたい

という屁理屈を言いたい長屋の爺である (笑)


「和」というものが形になったものが「和の装い」と「和の精神」だと

いうのが拙い私の自論になっている

古式の衣装に身を包み、和楽器を演奏する皇族が居ても

良いのではないか・・・

能衣装を纏い舞台で舞う皇族が居ても良いではないか

和服に身を包み、茶や生け花、書をたしなむ姿が日常であっても

良いではないか・・・


和を忘れた皇室に【伝統】の二文字は相応しくない

天皇が一私人と自覚した時点で【すめらみこと】ではない

一族の者にわけ隔てが在っては資質を問われる

事の是非を弁えないことはその位に相応しくない人品と

揶揄されることになる

喜怒哀楽を超越した階位に在る者を、この国では【天皇】と尊称する

存在するだけで良いなら、他国の王室と大差ない事になる

滅私の御心で国・民の安寧を祈願し、祖霊に対し感謝する姿が

有ればこそ、日本の天皇であると言えるのではないか


「日本国の象徴」などという文言は異国の侵略者の思いついた

方便である

天皇はお飾りではない、日本人の心の柱であった・・そう、あったのだ

政治的発言をしたり、庶民レベルの親ばかを露呈するなどは、国民に

知られてはならない醜聞の類である


なぜ、125代続いてきたのか、その根源は政治に深くかかわって

皇室の頽廃を招いた故事による自戒があったからだといえる

昭和天皇の晩年を思い起こせば、誰しも合点がいくのではないか


現在の国民の「なぜ?」を突き詰めていくと、成すべきことを成していない

成してはならぬことを成す姿、が思い浮かぶのではないだろうか



国民が皇室の批判をすると【不敬】といわれる

しかし、国民が皇室をみるたびに、【不遜】の気配を感じることもある

のではないでしょうか


「らしさ」という言葉があります

皇室らしさ 皇族らしさ そんな「らしさ」に言及するなど不敬の極み

と言われるのを覚悟で言うと、らしさとはそのものの特徴なのだから

殿下は「殿下らしく」あるべきであり、有ってほしいと願うだろうし

東宮は「東宮らしく」あるべきで、有ってほしいと願っていた

妃殿下は「妃殿下らしく」あるべきで、有ってほしいと願うのは

当たり前のことであって、天皇陛下は「天皇らしく」あるべきで

そう在ってほしいと民は願っているだろう・・・

そして、皇后陛下は「皇后らしく」あるべきで、そうあって然るべき

と国民は願っているだけなのである


トロイの木馬というものが有る

私は「開かれた皇室」こそ、現代のトロイの木馬だと考えている

城を攻略する手段はいくつもある、しかし結果的に城を落しても

遺恨を残すことは得策ではない

少ない犠牲で大きな利を得る手段に、内部崩壊を仕組むことがある

内部抗争、いわゆる身内による骨肉の争いを仕組むことだ

どんなに頑強な城でも、中枢が崩れれば攻略は容易い


開かれた皇室こそ、124代続いた皇統を瓦解させる意図を

もって臨んだ「トロイの木馬作戦」だったと感じている

125代若しくは126代で有名無実にするか、抹消させるか

そういう意図があった可能性は否定できないかもしれない


なぜそんな迂遠(うえん)な方法を執ったのか・・・

占領下の日本で武力で皇室を消滅させれば、日本人の心は

【反米】【反西欧】で一つに纏まってしまうことになる

それだけは連合国は避けたかった、何しろ東洋の小国が

世界を相手に戦争できるのも、天皇家があったればこそ、

逆に力でつぶしたら、その憎悪と怒りでまとまった日本人ほど

怖い存在は無いと言う事になる

鬼を退治するには鬼の力で退治するのが「ヤマト流」であり

傀儡の者たちを前面に立て、自分達で消耗戦をさせて

内部崩壊を画策する

これに似た戦術を使うのが軍事大国・米国なのである


いまの皇室の醜聞は意図的に画策されたものであって

それを回避する手段は残念ながら庶民には無いともいえる

唯一影響力を持つ「皇室会議」の負うところは大きいが

現在のメンバーがどう機能するのかは疑問が残る

皇室会議メンバー

*議長 内閣総理大臣 安倍晋三

*議員 秋篠宮 文仁親王殿下

*議員 常陸宮親王妃 華子殿下

*議員 衆議院議長 大島 理

*議員 衆議院副議長 川端達夫

*議員 参議院議長 山崎正昭

*議員 参議院副議長 輿石東

*議員 宮内庁長官 風岡典之

*議員 最高裁長官 寺田逸郎

*議員 最高裁判事 櫻井龍子

これを観てどう考えるかは個人の判断だが、私は難解だと思う

自民党の安倍、大島、山崎はともかくとしても、川端は女性宮家推進派であり

輿石も同じだろう、風岡は言うに及ばず最高裁判事は想像すらできない

皇族議員に諾否を問うのは過酷であり、議員と宮内庁長官を除けば

不確定要素だけが残る

どういう案件かにもよるだろうが、大きな変更ならば楽観できないのが

皇室会議かもしれない

御退位 という願望は大きな声となっても、効力は薄いと思ったほうが

良いかもしれない


この世には私たちがどんなに願っても叶わないことが多くある

人生の理不尽はいたる所に存在し

その多くは神の手に委ねられている

神がそれを望むなら甘んじて受けねばならない

理想・主義主張・願望と異なっていても、それが天の采配なのであり

それを変えることは神にしか成し得ないことなのである


日本を取り戻す という言葉を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが

皇室の本来あるべき姿でした

その言葉の真意は、未だに計り知れない安倍晋三氏の胸中だが

望みは持っても期待しないで居ようと決めた長屋の爺である。
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