不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  日本の文化 ハラキリ (三) 

なぜ腹を切るのか?

現代人には理解できない自死の手段かもしれない

日本人だけの風習・文化といえば聞こえはいいが

やはり自ら命を絶つ行為に賛否はあるだろう


私は「日本人が」というより、武士はどうして切腹と

いう道を選んだのか、不思議でもあり謎でもあった


なぜなら公家・貴族の切腹は聞いたことが無い

あの平家の武者でも切腹の逸話はほとんど無い

どうして同じ「モノノフ」でありながら、腹を切る者と

入水する者に分かれたのか・・・・

源氏に有って、平氏に無いモノ・・・・とは

地方に在って忘れられた武士たちに源氏も平家も

同じように居たはずだ


私は平家の武者たちは、朝廷の中に溶け込むために

貴族社会の風習にも染まっていたのかと考えてみた


「ケガレ思想」である

血を観ることは不浄であり、ケガレであると考える

貴族社会では、自ら命を絶つのでも「血」を見ない形を

選択したのではないか・・・そう考えてみた

ところが、平家の武者は出自など関係なく「戦場」では

相手の命を絶ち、首級(しるし)を獲ったのだから

不浄やケガレとは無縁だったはずなのである

血を観るのが嫌な武者など「武士」とはいえない


では敵の首を落とすことができたのに、自分の腹に刀を

刺せなかったのはどういう理由なのか?


私は【気概(きがい)】の差ではないかと考えてみた

中央の贅沢な暮らしが身に付いた平氏には、血の涙を

流すような困難に向かう「気力」「胆力」、つまりは【肝っ玉】が

備わっていなかった

源氏の武者は「百かゼロか」の生き方しか残されていなかった

生きるのも自分の力(身ひとつ)であり、死ぬにも自分の力で

有るべきという哲学のようなものが有ったのかもしれない


中央では官位も低く「ひとでなし」として扱われ、地方では

生きるか死ぬかを決めるのは自分の「力」しかなかった

そんな荒んだ生活を強いられた武士たちは、満たされない者

の【矜持(きょうじ)】として、中央貴族や殿上人がマネのできない

この世の別れ方(死にかた)を見つけたのではないだろうか・・・

入水しても運よく助かる可能性もある

ところが、自ら刃物で腹を切り裂き、はらわたをつかみ出すこと

など、貴族かぶれの平家武者にはできないだろうという主張では

なかったのか・・・


戦国時代中頃までは切腹に介錯(首を切り落とす)は無かった

切腹する者は腹を切った後、頸動脈を自ら切るか、内臓を

つかみ出して絶命するのが普通だった

このことを観ても、尋常な意思では完遂できない事だった

つまりは「確実な死」を覚悟を持って履行したのである


   新選組

新選組は斬り死にが多いという印象だが、意外と切腹が多い



  新見 錦

本名 田中伊織 水戸出身 芹沢鴨と一緒に浪士組に参加した後

京都に残った近藤グループに合流した

新選組は当初、「三人局長制」をとっていて

近藤、芹沢と共に局長を務めていた

しかし、芹沢派は京都に於いて乱暴狼藉が過ぎた

それを危惧した会津藩は近藤たちに芹沢派を排除する

よう示唆してきた

とは言っても、芹沢派は皆手練れの剣客ぞろいであり

簡単に排除などと言っても難しい事だった

そこで考えられたのが、新見を切腹させることだった

1863年、京都祇園の貸座敷で呑んでいるところを

数名の隊士が踏み込み、「乱暴の故をもって」切腹を

言い渡し、新見は腹一文字に切腹をしたとされる

座敷に何人の隊士が踏み込んだのか、誰が居たのか

介錯は誰だったのかは、不明のままである

私は新見が素直に切腹したとは思えない

おそらく斬りあいがあったのではないか?

そういう理由から、名目上は切腹で死んだことに

立ち合いの隊士も不明にし、介錯人も架空の名だった

芹沢派にとって「切腹」というものこそ効果がある処置

だと近藤・土方は考えたと思っている

享年28歳


   山南 敬介

やまなみけいすけ と呼ばれているが、現在では

「さんなん」と読むのが正しいとされる

仙台出身 小野派一刀流の遣い手で、近藤と立ち会って

負けたことから近藤の弟子となった人物だ

芹沢派排除の後、近藤に次ぐナンバー2の副長(総長)に

就任するが、近藤・土方との路線の違いにより、確執が

大きくなった

(近藤・土方は厳密に言うと武士ではない、それにひきかえ

山南は生粋の武士であることから、肌合いが合わなかった

という説もある)

山南は剣術ばかりではなく、学問に於いても秀でた人物だった

ことから、武士としての素養が大きく違っていたのかもしれない

1865年、2月21日 山南は屯所に置手紙を残し脱走した

近藤は山南と親しかった「沖田総司」を追手として差し向けた

山科を抜けた大津で沖田が追いついたが、先に声をかけた

のは山南の方だったという、おそらく沖田が追手に指名されることを

予想していたのか、「君が来たのならしょうがない、一緒に戻ろう」と

いうことで、京都に戻ったとされる

2月23日夕刻、親しい者たちと水杯を交わし、沖田総司の

介錯で切腹をした

「声をかけるまで刀を下すな」と沖田に言い、真一文字に切り回し

てから、沖田に声をかけたという

享年33歳


   河合耆三郎 (かわいきさぶろう)

播磨国高砂出身 米屋の跡継ぎであった

武士になりたくて新選組に入隊した商家の出である

会計(そろばん勘定)が得意だったため、勘定方となる

1866年隊費から五十両が失くなっていることが判明し

その穴埋めを密かに実家に依頼した

ところが、土方が五百両の調達を命じたため、紛失が

露見してしまい、その責めを負って切腹を言い渡される

河合が横領したわけでもなく、公金の管理に落ち度があった

とはいえ、切腹まで求めたのには疑問が残る


俗説では、その五百両は近藤が島原の深雪太夫を身請け

するための金だったとされ、普段から河合を嫌っていた土方が

五十両を隠して、河合に腹を切らせたというものが有る

切腹にあたって河合が逡巡し、介錯が一回で成功しなくて

悲惨な切腹現場になったという 享年29歳


その他にも判っている新選組の「切腹」した隊士は以下の通り

* 田内知 (たうちとも)

* 相馬主計 (そうまかずえ)

* 家里次郎 (いえさとじろう)

* 石川三郎 (いしかわさぶろう)

* 茨木司 (いばらきつかさ)

* 大谷良輔 (おおたによしすけ) 本名良助(りょうすけ)

* 大村安宅 (おおむらやすたく)

* 葛山武八郎 (かづらやまたけはちろう)

* 加藤羆 (かとうひぐま)

* 佐野七五三之助 (さのしめのすけ)

* 柴田彦三郎 (しばたひこさぶろう)

* 瀬山多喜人 (せやまたきと) 施山、布施などという

* 田中寅三 (たなかとらぞう)

* 富川十郎 (とみかわじゅうろう)

* 中村五郎  (なかむらごろう)

* 野口健司 (のぐちけんじ)


中には今考えると理不尽な切腹もある

激動の日本に於いて、命と引き換えに何を残したのか

もっと違う選択肢は無かったのか・・・

生きて日本のクーデターを阻止してほしかったという

思いもある


内部・身内の殺し合いは、大きな義を失い破滅へと

向かうロードだったのだろう

そんな思いが過りました・・・・。

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