不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  持統天皇を考える 

今日は13日の金曜日です

曹洞宗の信徒であり、日本神道の信奉者である爺に

異教の教え等は思慮の外であり

クリスマスもハロウィンも縁が無い朴念仁です




私は日本の皇室の大きな謎は「持統天皇」だと

強く思っている

古代天皇の謎というが、古い時代の事もあって

事実は人々の記憶にすら薄れていたのかもしれない


ところが持統帝の場合は、国史を残せるような時代であり

よほどの不都合でもなければ、事実は事実として

残せた時代なのである


整理して考えてみたい・・・

持統天皇は天智天皇の娘である

しかし、祖父・実母は父・天智に殺されたも同然で

父の愛情は姉の太田皇女に向けられていた

心の中に大きな闇を抱えていたともいえるだろう

天武の寵愛を受けていたように思われているが

太田皇女や額田王などとの比較から、やはり

天武帝の愛情を一身に受けていたとは思えない


同母姉である太田皇女が健在ならば、皇后にすら

成れなかった女人だったと私は考えている






皇位継承についても、数々の疑問があり

天武帝は草壁皇子ではなく、大津皇子に皇位を

渡したい考えだったようだ・・・

天武帝が即位したのは673年、草壁皇子が

立太子されたのは681年である(当時20歳)

天武は草壁を推す持統皇后の願いを抑え込んでいた

気配が感じられる

大津皇子と草壁皇子は比較にもならない資質の差

が存在していた

まして寵愛した太田皇女の生んだ皇子である


私の私見では、皇后(鸕野讚良皇女)が病気になった

680年に皇后の病床での願いを止む無く聞き入れた

結果が草壁皇子の立太子だったと思っている


医療の進んでいない時代、病に臥せるということは

「死」をも念頭に置くはずであり

そんな皇后の願いを聞き入れるのは必然だったと

いうべきだろう

持統天皇(鸕野讚良皇女)は孤独で自分以外を

愛せない人ではなかったか・・・

相当「権力志向」の強い人で、祖母・皇極からも

父・天智からも、夫・天武からも「愛情」と呼べるものを

受けてこなかった鸕野讚良皇女(持統帝)は、権力を

握ることが生きることと考えていた気がする


吉野の盟約

679年 吉野行宮の神庭に六人の皇子を集め

「六皇子の盟」を成立させたとされる

六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の六人である

赤字は天智天皇の皇子)

これについても天武の考えは、皇子たちに草壁に対する

協力を要請・確認するためと思われている(皇親政治を続けるため)

しかし、その裏で鸕野讚良は愚鈍な草壁に権力を移譲し、陰で

自分が権力者になる事を目論んでいたのではないか

翌680年の鸕野讚良皇后の病も、うがった見方をすれば

「仮病」であって、病気を理由に草壁の立太子を天武帝に

願ったのではないだろうか

病床に伏せる皇后の願いを聞き入れてはみたものの、

天武の心配は凡庸な草壁に聡明な五人の皇子たちが

従ってくれるか、助力してくれるかということであった

それをいち早く察した皇后が、天武帝を動かして

吉野の盟約にこぎつけたという事ではないだろうか


息子・草壁に対しても、世間が思うほど愛情など

感じていなかったのではないかと思っている


天武天皇が崩御したのが686年である

本来ならば喪が明ければ、皇太子である草壁皇子が

皇位継承するはずだ、ところがその後皇位は空白となった

ままであり、天武崩御から3年後に突然草壁は亡くなってしまう


天武帝崩御の後、大津皇子を謀反の冤罪で亡き者にしたのは

誰の目にも大津皇子が天皇に一番近い人物だった証拠であり

権力をその手に収める野望を持つ皇后(鸕野讚良皇女)

にとって、排除すべき筆頭だったのである

しかし・・・・日本書紀は草壁皇子の「死」を、僅か九文字で

残しただけである

天武の後継者・皇太子であり、持統の愛息である草壁皇子

の突然の死を、九文字で済ませてしまう国史とは・・・

【 皇太子草壁皇子尊薨 】

どんな理由で身罷ったのかすら記されていない

死因についてはその時代の天皇にとって、不都合なもの

だったという証拠かもしれない

私は持統帝が愚息・草壁皇子に皇位(権力)を渡したく

なかったか、持統の意のままになる人物ではなかったか

そのどちらかであって、皇后の意思によって「命を縮めた」

可能性もありそうだ

結果的に孫の軽皇子に皇位を委ねたのも、幼い帝であれば

自分が太上天皇として、権力のトップに座り続けられると

考えたからであって、孫に愛情を持っていたかどうかは

疑問に感じている


なぜ【称制】という皇位の空白が存在したのか

私は草壁皇子が皇太子として、皇位継承を望み

それを拒む皇后との諍いが水面下で行われていて

天皇即位の儀が執り行われない「空白の月日」が

あったのではないか・・・そう思っている


そう考えれば、父・天智天皇も複雑な状況に置かれ

た結果、天皇即位ができない状況に在って、称制という

造語で誤魔化していた過去があり、それを習って

持統天皇も称制という形式で凌いだのではないだろうか

だから、この父娘だけが、(称制)という不可解な統治の

方法を執ったのだと私は思っている


人というのは自分の思考で物事を推し量る

腹を痛めた子供は何よりも愛しい・・・

そういう人間ばかりでは無い事もある

息子や孫が可愛いという外に向けての演技と

言えば、語弊があるだろうが・・・

自分が一番の人間にとって、可愛いも可愛くないも

その基準は「利用価値」があるかどうかに尽きる

自分が大切な人間にとって、分身ですら「道具」に過ぎない

そういう事ではないだろうか


私がある皇后に持統天皇を仮託するのは、状況は違えど

醸し出される雰囲気が、持統帝の影を観る思いに

他ならない・・・

光明子と比較される方もおられるが、人として光明子のほうが

「俗っぽい」気がする

身内の栄達や特権を大っぴらに許すあたりに、人間味が垣間見える

しかし・・・持統天皇にも某皇后にも「人」「母親」としての心が感じられない

私の歪んだ心がそう感じさせるのだろうが・・・


次回は「大津皇子」について考えてみたい、さらには

持統天皇の考察も続けていきたいと思っています
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