不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  江戸町奉行・大岡越前守の陣屋跡 


江戸には南北町奉行所があった

南北というからには江戸市中の南端と北端に別れて

奉行所が建っていたかというと、そうではないようだ

北町奉行所は現在の東京駅の北にあり

南町奉行所はJR有楽町駅の前にあった

つまりは北に位置する場所にあったから北町

南にあったから南町というところだろうか・・・


町奉行といえば、すぐに思い浮かぶのは

遠山の金さん、大岡越前というところか・・・

遠山の金さんは、第27代 北町奉行であり

正式名は 【 遠山左衛門尉景元 】という

約3年間、北町奉行として在任している

その後、大目付に転身、さらに南町奉行に就いた

南北両奉行職に就いたのかなり珍しい事だが

他に 跡部甲斐守良弼 (老中水野忠邦実弟)だけかもしれない


そしてもう一人の町奉行といえば、大岡越前である

大岡裁きで有名な名奉行として後世に伝わっている

ところが、実際に「名裁き」をした様子は無い・・・

実際に大岡が処理した事件は「白子屋お熊事件」だけといい

早い話が、江戸町奉行とは現在でいうところの

警視庁、東京地裁、東京消防庁、国交省関東地方整備局

を足したような機関だったから、そんなに多くの裁定を

下したとは思えない

町奉行の権限だけで、他人を獄門にしたり、斬首したりする

事は出来なかったようで、重大事件の場合は上司である老中

に諮ったり、事によっては将軍に裁量を委ねることもあったそうだ


という事から・・大岡越前が有名になったのは「大岡裁き」ではない

彼の行った【消防】と【治水事業】によって、歴史に名を

残したと言う事である


「火事と喧嘩は江戸の華」

本当に江戸の火災は多く、屋根が「瓦葺き」でなく

板や萱(かや)、藁(わら)で葺(ふ)いた家が多かったから

一度燃え出したら手が付けられなかったようだ

その原因は、武士以外の者の家の屋根を瓦で葺くことを

禁じた定めがあり、庶民の住む町に一度火災が起きれば

大火事になる事が多かったのである

そんな現状を観て大岡は、庶民の家の瓦葺きを禁じる

法度(はっと)を撤回し、草木葺きを瓦葺きに

板壁を「漆喰壁(しっくいかべ)」に、土蔵造りの建物を

増やすように推奨した

しかし、重い瓦を屋根に載せるには、太い柱が必要だ

火事で焼け出された庶民に更なる出費が必要になり

なかなか思うような成果は得られなかったようだ

今のように「水」をかけて消す「消火法」というより

類焼を防ぐため風下の家を取り壊すのが一般的で

その度に家を壊すこと、類焼の危険を軽減するため

「火除け地(ひよけち)」と称する【空地】を作って

火事が拡大するのを防ぐことにした

それと並行して、「町火消」を創設したのは有名な話で

隅田川の西を担当すべく【いろは四十七組】を

東側を担当する「十六組」を設けて消火にあたらせた


日本の「消防の生みの親」ともいえる名奉行だった

のは間違いないだろう

その後、大岡越前は寺社奉行となり、大名格となったが

奏者番(そうじゃばん)には就かなかったため、城中では

いじめを受けたともいわれる

寺社奉行・奏者番という役職は大名が就く役職で、奏者番の内

四名が寺社奉行を兼務する決まりがあったが、大岡は当時は

旗本にすぎず、詰めの間(芙蓉の間)に詰める事すらできなかったため

将軍・吉宗は寺社奉行の「詰所」を設けるなどして支えたという


その後、三河国西大平に所領を与えられ、名実ともに【大名】に

なった(一万石)


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町奉行から大名になったのは大岡越前守忠相だけである


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                 大岡越前守忠相 西大平藩陣屋跡


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  陣屋跡 西方向から東を臨む


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  陣屋跡 門より東側塀部分


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  陣屋跡 西側塀部分


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  たぶん観光安内 ?  由緒書きではないような・・・


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  陣屋跡 内部西側

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  陣屋跡 内部東側

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  陣屋跡 内部南側

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陣屋跡 内部北側

内部は公園のようになっていて、一部は住宅地のようだった

住民が管理していると言うが、綺麗に整備されていて

もう少し気候の良い時に再訪したいと思っています


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おそらく これが由緒書きだと思います




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  大岡稲荷社 鳥居と本殿

稲荷社は西側の塀の先にあり、陣屋門とは別の

稲荷社専用の門が作られている

稲荷社が大事にされていた名残なのか・・・・


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  大岡稲荷本殿 豊川稲荷を勧請したとされる

江戸の大岡邸にも豊川稲荷を勧請したとされ

その稲荷は豊川稲荷が江戸の庶民にはあまりにも

遠かったため、江戸で豊川稲荷に参れるようにと

大岡家上屋敷内に豊川稲荷を勧請したという

それほど稲荷信仰に篤かったと言う事らしい

その稲荷が大岡邸を出て、豊川稲荷東京分院として

現在も信仰されているようだ


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