不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  神社と日本人 

爽やかな秋の陽光を浴びて、暑さと寒さの中間点にいる

各地では「秋祭り」の稚児行列の姿も見られるようになった

私が住む地域にある神社の「秋の大祭」は今週末だ

順番から行くと去年と今年は「晴れ」ということになる

盛大な花火も打ち上げられ、田舎の小さな神社には

不釣り合いなほど盛大な祭りになる


ここで疑問・・・

「神社」と「祭り」はどちらが先にできたのか?

それとも神社ができた時に祭りも始まったのだろうか?

このブログを長い事読まれている方は、気が付かれたと思う

答えは・・・【祭りが先にあった】である

【まつり】とは確かな語源がわかっていない言葉で

「まつらふ」から「まつる」、そして「まつり」という言葉になった

という説がある

他には「たてまつる」からという説もあるが、どうも違うような

気がしている

まつらふ→まつる→まつり→祀り→祭り ではないかと私は思っている


神社が造られるまでは、神はそれぞれの崇敬者の集まる場所に訪れた

巨石や巨木、河川や滝や山など神が降臨すると信じられた地に「祭壇」を設け

祭りの時だけ「神」が訪れたのだと思う

神が常在しないのに「屋」は必要とはされなかった

神社とは後世の人間の都合で創られた「造形物」なのである


人間というのは高いところが好きな生き物なのか

何かというと高い処から見下ろすようなことが多い

(長屋の爺の上から目線の暴言など顕著な例だろう 笑)

その理由など長屋の爺には皆目見当などつかないが

もしかすると、神社と関係があるのかもしれない・・などと

しょうもない事を考えてしまった(笑)


天皇の玉座も一段高いところにあり

徳川時代の国主や将軍なども同じように一段高い床

に座り、家臣たちを見下ろしたのである

神が高い処から衆人を見つめるように・・・

人間も高い処に座したかったと言う事か


【神社】とは神さまが鎮座する場所、神さまが訪れる場所だ

当然ながら「上から見下ろす」ことは憚られる

太陽も霊山も、巨石も巨木も滝も・・・・

人は下から【見上げる】ものなのである

だから、神さまに対しては、下から見上げることが条件で

人の目線より下に神社がある事が異常なのである

最近移転した神社は別として、村の鎮守様でも道路と同じか

少し高い位置に祀られているのではないだろうか


私の処では道路から階段を上って(七段程度か)初めて

鳥居にたどり着くような構造であり

住居地の三方のどこから見ても、神社は目線のかなり上に

創られている(東の方角には山があるため)


田舎の小さな神社である

川を渡ることもないし、橋を渡るような構造にもなっていない

だが拝殿と本殿は一応あって、鳥居も狛犬もある

由緒を信じれば創建は江戸時代とされる・・・


もし・・・この条件に当てはまらない神社が有れば

それは古代に起源を有する「古社」であり

「怨霊」を祀っている(封じ込めている)神社なのである

出雲大社を代表とする神社の一部では、神社に向かって降りていく

配置になっているところがある

神殿が高いのとは別の問題で、遠くから遥拝するにも、足元に

位置していては、神を足蹴にするような気分になる

怨霊はまっすぐにしか動けないという言い伝えがあり

そのため参道が直角に曲がっている神社は、怨霊を祀っていた

神社の可能性があるともいう


主祭神は不確かなものと言うのが相場である

祭神の変更など、其処らじゅうにある話だともいい

本当は「末社」の祭神が、そもそもの祭神だとする神社さえある


二拝 二拍手 一拝 など、明治政府が統一させた形式であり

本来の「形」が失われた神社が多い

二拝 四拍手 一拝 を行う神社は数少ないがその代表が

出雲大社と宇佐神宮である

宇佐神宮は全国四万社あるという「八幡様」の【総本宮】だ

総本宮である宇佐神宮が、【 二拝 四拍手 一拝 】であって

その他の四万社の八幡宮は「二拝 二拍手 一拝」と言うのも

考えてみればおかしな話ではないか・・・

だれも「異を唱えないのが」神社の摩訶不思議な事である(笑)

これが誰もが信じて疑わない「神社」の参拝作法なのである


私に言わせれば・・・

何度頭を下げるか、何回柏手をするかなど大きな意味などない

成り立ちや創建主旨、信仰形式などの違う「神崇拝」を

鍋の中にひとまとめにしたのが、明治政府の神社統合であり

神・神社を使った国家管理だったと私は思っている

明治4年に国家神道として細かな制度が決められ、その中で

参拝作法も統一されたと言う事だろう

地方の神社では、定まった参拝作法など無かったのかもしれない

「最近の若者は参拝作法も知らない」

こんな事を言う老人たちは、このことをご存じなのだろうか(笑)


作法が大事なのではなく、真摯に神に向き合う事が大事だと

私は考えています

通りすがりの神社でも、立ち止まり鳥居の外から瞑目し

心の中で「感謝する」

私は神に向き合うのはこれでも良いと考えている

高額の賽銭を入れ、自分勝手な願いを神に託し

作法がどうの、賽銭の額がどうの、どこそこの神社が

ご利益があるなど・・・笑止千万だと私は思う


神は私たちの身の回りに居て、常に観ている

それが解っていれば、手を合わせるのも場所を選ばず

賽銭など神は欲していない、肝心なのはどのような思いで

神と向き合うか、それ以上でも以下でもない・・・


権力者の都合で神さまを変えることは、大きな間違いだと

私は考えています

神社庁が言うのだから、宮司さんが言うから、というのは

権威に振り回されているだけのような気がします


何に感謝するのかは、個人で違いはあるかもしれない

神は神の願いを聞いてくれる人の願いを叶えてくれる

この言葉をどう解釈するかで、神さまとの向き合い方が

変わってくると私は信じています。
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