不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  神さまと神社を理解するヒント? 

私が「挨拶」について頑なな意見を持っている

理由を簡単に述べてみたい・・・

私たちが「他者」の家を訪問するとき

いきなりドアを開けて「本題」を話し始めるだろうか

玄関のチャイムを鳴らし、あいさつを交わしてから

会話を始めるのだと思う



挨拶をするとは「例え」が違うかもしれないが

こういう事だろうと思っている


挨拶とは「力士の仕切り」と同じようなもの

自分は凶器など持っていない、真摯な態度で

臨みますという無言の宣言

あいさつは、相手に対し敵意の無いことの宣言

長屋の爺は、礼の前に言葉(挨拶)だと思っています



神道というと現代の神社神道を連想する

その神社神道ですら、100年ほどまえまでは

神と仏が一緒になった「神仏習合」の社寺であった

まず最初に神とは何だったか・・・である

神とは太陽であり、雲であり、風であり、雷であった

つまりは【自然】こそ「神」と呼べるものだった

日本人は自然=神という考え方であり

アニミズムを信仰してきた多神教の民である


神を祭る

自然に対する「畏怖の念」こそ、神祭りの動機であった

動機は「畏敬」ではない「畏怖」なのである

自然の猛威というものに「屈服」し、恐れひれ伏し

その「ちから」を和らげるために祭り・祈り・願った

と私は思っている

「神と共存」できるようになったのは、願い・思いが

神に通じたと感じた瞬間からだろうか・・・

そこから「畏敬」の念が芽生えたのではないだろうか

私の考える神に対する感情とは・・

畏怖→畏敬→崇敬→崇拝

という変遷を経てきたと思っている

神とは「めぐみ」と「破壊」の両面、もっと言えば

【誕生】と【死滅】の両方の「チカラ」を供えたもの

であり、それゆえ神と鬼がペアとなって語られる

のではないだろうか

元来「鬼」とは【死者の霊魂】であり「もの」と

呼ばれた

神=鬼 とは神の持つチカラの両方を言い表している

豊穣(誕生・成長)は神の顔

災害(死滅・破壊)は鬼の顔

漠然とではあるが、私はそう思っている


さて、仏教と言うと「お釈迦様」の教えを実践して

いると思いがちだが、私には日本人的宗教心から

創られた「日本式仏教」だと思っている

釈迦はあの世(来世)には言及していないという

あくまでもこの世(現世)を生きる心の持ちようを

説いたと言う事かもしれない

しかし、時代を経て仏教は死後の世界に重きを置き

葬式仏教と揶揄されるまでになった

「どう生きるか」を説いた釈迦

「どう死ぬか」を模索する日本仏教の違いである


仏教は日本に入ってきた当初は「国家鎮護」の

願い・祈りのためのものだった

ところが、密教が盛んになると「個人」のための

願い・祈りの宗教に近づいた・・・

平安の貴人たちが「公」より「私」を重んじた結果

阿る僧職たちが、あの世の「楽」、「安堵」を説いた

結果、国家鎮護・国家平安より、病気快癒・無病息災

を祈願するようになったのだろう

個人的な祈願をするのは日本仏教的なのかもしれない


そこで、神社の祈願ということになるが

なぜ神社があるのだろう?

これは古代からの神道とは別の話である

本来、神さまは「磐座(いわくら)」や「神籬(ひもろぎ)」

に依りつくものだった

専ら常住せず「神請い」により、巨岩・巨木などに

降りてくるものだった

当然、居住する館など不必要だったのである


なぜ本殿が必要だったのかは、ずっと後の時代の話

で、最初はとんでもないことからだった可能性さえある


これは【祟り(たたり)】と深い関係がある

神社とは「無念を残した者」を封じ込めて、祟りを

回避するための「器」だった

自然神を殿舎に閉じ込めることなどできるわけがない

それは「鬼」を閉じ込める館だったと推測する

鬼=死んだ霊魂 であるのだから、霊魂が蘇らない

ようにするため、祟りを起こさないようにするために

手厚く【祀った】のが始まりだろう・・・

人が鬼として祀られたのが神社の始まりではないか

だから器が必要になったと私は考えている


古い神社の由緒に「禁足地」というものがある

これは通説では「入ってはいけない場所」というが

本当の意味は「出てはいけない場所」なのである

鬼(もの)を封じ込めるための神社であるなら

当然の解釈と言う事になる

足を踏み入れてはいけない理由が希薄なのだ

神道、神社と言葉にすれば、皆同じと感じてしまうが

その時代によって神社や神さまも変わっているのである


さて日本は多神教の国である

 (何度も言うとしつこいか?)

その多神教は「なんでも取り入れる懐の深さがある

良い悪いの話は別にして・・・

神さまの区別をしてみたい

日本には様々な神さまが存在する

* 神話に由来する神さま

* 大和朝廷が創り・整えた神さま 

* 地方の神さま

* 外国から来た神さま

* 伝説上の人が神さま

* 神さまになった人間

* 自然の神様

どうしてこういう姿になったのかは

説明の要はないだろう・・・

多神教は数などに対し「鷹揚」な部分があり

なんでも否定しないし、とりあえず受け入れてしまう

その結果、いろんな経緯を経てきた神さまでも

信仰の対象になったのである

英霊というと靖国神社が代表的だが

英霊を分析すれば、身を以て国家鎮護を実践した

御霊であり、粗末に扱うと「祟り」を起こす懸念がある

だが、病死では「祟り」の起因にはなり得ないのである

英霊を神とする根拠は表向き【国の盾】となったことで

裏の事情は日本人の心に潜む「祟りの怖れ」だろう

(あくまでも長屋の爺の自論であるが・・・)

今でこそ「菅原道真」を道真公として崇めているが

最初の祀る動機は「祟りの回避」でしかない

冤罪で憤死した道真公の祟りを回避するために

手厚く祀ったものが、雷と言う手段で祟ったこと

から「雷=天神」ということで、天神様として

信仰するようになったが、最初から崇拝の対象では

無かったことは間違いないだろう

故に、一神教の神とは「似て非なるもの」が日本の

実在人物の神格化であると言える


最後に、どうして「大地・自然・国家」を祈願するべき

神社が個人の家内安全、学業成就、安産祈願、

交通安全などの祈願をしたり、「お守り」を授与する

のかというと、これも神道の色というより、神仏習合

の時代の遺産であり、仏教として「個人の祈願」をする

日本仏教ならではと言う事ではないだろうか・・・。


故人が神さまになったからと言って、その上に繋がる

かどうかは、仏教で考えれば「あり」で、神道では「なし」

と私は考えている。


神さまは死なない・・・・

死んだ者が神さまになる事の矛盾こそ「多神教」なのか・・


本来自然(太陽・風・海・川・山・空・星・風)は死なないもの

自然=神なのです

                    
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