不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  聖武天皇と東大寺 (二) 

天皇家の「神」から綿々と続く貴き家系

誰もが一様に認知している歴史である


しかし・・・これも「日本書紀」という定規を

基に作られたもので、創作者は藤原不比等

と持統天皇である

それは神さまの大本である伊勢の大神が

天皇家の祖神であるという大前提の話で

本来は男性神であった太陽神(伊勢大神)

を女神・アマテラスにすり替えたことから

始まっている


天皇家が創った神社が「伊勢神宮」なら


天皇家が造った寺院は「東大寺」である


平城京は藤原不比等の時代に造られた

東側に張り出した部分(外京)はそのほとんどが

藤原氏の所有だったとされる

絶頂期の藤原氏は、そんな場所に【興福寺】を建て、

【春日大社】を祀ったのである


そのすぐ近くに聖武天皇は【東大寺】を建て

遠く九州から【宇佐八幡】を勧請した


天皇家の祖神を祀る「伊勢神宮」ではなく

どうして「宇佐八幡」だったのか?


はっきり言えることは、この時まで「宇佐」の

文字が「記紀」にすら書かれていないという事実

があり、藤原=興福寺=春日大社に対し

聖武天皇=東大寺=宇佐八幡という構図に

なっている

これは、なぜ「道鏡事件」で宇佐八幡の御託宣

だったのかという問題にもつながってくる気がする


反藤原は言い換えれば「反天智」であり

聖武天皇が「天武天皇」の【流れ】を意識していた

と言う事ではないだろうか

藤原京から平城京に遷るとき、藤原不比等は

左大臣・石上(物部)麻呂を旧都に置き去りにした


そして、聖武天皇は平城京から恭仁京に遷都する

ときに、当時の藤原氏の最高位であった藤原豊成

を留守居として置き去りにしたのである

これは「反藤原派」の明らかな「報復」といえる


このような事例を見ると、聖武天皇が「三宝の奴」

として北面した理由が、祭祀王を捨てたというより

藤原の「神道」から抜けたと言う事ではないだろうか


それまで、皇祖を祀っていると信じてきた「伊勢」は

不比等と持統天皇の思惑で創られたことを知り

不比等の「操り人形」から抜け出る宣言だった

その決意が「富も権力も我が手にある」と

高らかに宣言したことでも窺える

これは聖武天皇の傲慢から出た言葉ではない

あくまでも藤原の残党に対しての【勝利宣言】だった

だからこそ、この後に建立される東大寺の【守護神】

宇佐八幡でなければならなかった

藤原不比等の呪縛から逃れるための「宇佐八幡」

勧請ではなかったか・・・


東大寺・修二会(お水取り)の中で、全国14000柱の

神々に対し「参詣せよ」と勧請するのは、伊勢大神では

なく、全国に鎮座する「八百万の神」たちとの繋がりが

本来あるべき姿だと気付いたからだと思いたい


聖武天皇は作られた祭祀王ではなく、本来あるべき形の

祭祀王に戻ったのではないだろうか・・・・。
 


(つづく)

                   
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