不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  生者必滅会者定離 

生者必滅会者定離・・・

せいじゃひつめつ えしゃじょうり

平家物語 巻十 維盛入水の一説である

何をトチ狂って平家物語なんぞと言われそうだ


会釈(えしゃく)

軽く挨拶を交わし 礼をすることであり

相手に心配りをしたり、思いやったり、斟酌すること


語源は仏教語、和会通釈(わえつうしゃく)

一見矛盾する教義を照合し、根本にある共通する

真実の意味を明らかにすることだという

それが中世になって、「様々な状況を考慮する」

となり、さらに「儀礼に適った態度をとる」になり、

「愛想よく応対する」になって、江戸時代になると

「お辞儀をする」に変わったとされる


・・・で、このような事を聞いても長屋の爺である

「あぁそうなんだ~」とはならないのである(笑)


そこで冒頭の維盛入水の一説になる

会者定離、これは えしゃ ではなく、ゑしゃ である

ゑしゃ・く という意味で考えてみた

漢字が入ってきて、その【動作】が起こったとは

とうてい思えないのだ

その動作・言葉(音)があって、それに「漢字」をあてた

私の自論である(暴論とも言うが)

会者(ゑしゃ)とは「出会った者」と言う意味だ

では・・・「く」とは何だろう?

「く」は「来」である

「く」とは、「以前からずっと」、「はじめる」、「来る」、

「行く」という意味である

会者来(ゑしゃ・く)となると・・・

夫々別の人が出会って、交わす「ふれあい」の所作

であり、何処からか「来て」どこかへ「行く」その刹那

(接点)は以前から決まっていたこと

即ち、縁(えにし)に通じているという事ではないだろうか

言い換えれば、【袖振り合うも多生の縁】の一コマでもある

縁をつなぐのも縁を切るのも、ずっと前から決まっていた事

会釈すらできないのは、出会うはずの無い者同士だったのか

この世の縁を否定しているのか、ではないだろうか・・・


暗黙の了解にも、眼だけの会釈もあるはず

会釈は「所作」であって「所作」ではない

「心の出会い」だと爺は考えております。

                  
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