不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  ブログを書いてきて、今思うこと 

このブログの原点とも言うべき

ブログ開設の動機が これ である

誰に言われたわけでもなく、知識があったわけ

でもなかったのだが

生きる 死ぬ の境目に何があるのか覗いて

みたくなった

此処だけの話だが、私も何度か自ら死のうと

した経験もあり、死にそうな目にもあっている

「憎まれっ子 世に憚る」

だから私は「いまなお生きているのかもしれない」


人は病気や事故では死なない

病気や事故で死んだとすれば、それは寿命ではないか

私の「漠然とした考え」で、悟るなどという次元の話でもない

道路で「躓(つまづ)いて」転び死ぬ人も居る

マンションの上階から「転落」しても生きている人が居る

幼くして命を失くす人も居れば、100歳まで生きる人も居る

その差はなんだろう?

私の原点となった「疑問」である



生かされている→寿命が尽きる→死

寿命が尽きるときの「引き金・ボタン」が事故や病気

ではないだろうか、と思ってしまった長屋の爺

そう、思ってしまったのだ・・・・


「九死に一生」「奇跡的」などというのは、説明が

つかないからそう言っているだけではないか

寿命が尽きてないから、「生きていられる」

そう考えれば、今までの疑問が嘘みたいに霧消して

しまった

自分の力で生きているというのは、人間の傲慢な

考えかもしれない

私が今生きていられるのは、何かのお蔭である

自分の力で生きているなどと「口が裂けてもいえない」

誰かのお蔭で「仕事」ができ、誰かのお蔭で「糧」を口にし

誰かのお蔭で日々暮らしていける

その「誰か」を生かしているのも「太陽」である


日本人は「太陽」のことを、【お天道様】と呼ぶ

「いつもお天道様が観ているからね」

お天道様がいつも観ている理由は、それぞれの寿命を

測っているのかもしれない

お天道様に恥かしくない生活とは、「生かされている自覚」

を持っているかどうかを「戒める」ためではないか

なんとなく・・・そう思っている


自分の人生を振り返って人生は楽しかったとか、

良い人生だったと言うのは個人の捉え方である

何も良い事がなかった人生だったと思う人も、沢山居るだろうし

そこそこの人生だったという人も居るかもしれない

その物差しを作る(決める)のも、人それぞれなのでは

ないだろうか


私にとって「自分の人生」はどうだったのか?

自分のような人間にしては「それなりの人生」を

送ってきたと思っている

この空の下に「我が子」が生きていて

生きてきた意味が、私にはあったと思っている

                   
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