不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  平安時代と平安を代表する天皇 2 

【一条天皇】

懐仁(やすひと)親王 980~1011年

諱(いみな)は、大江斎光(おおえのただみつ)

が献上したという

【仁を懐(いだ)く】という意味であり、その名に相応しい

天皇であった

5歳で立太子、7歳で即位した

即位したと書いてはみたが、これが正常な

譲位ではなかった事だけは確かである

986年6月23日丑刻、花山天皇は秘かに

東山・元慶寺(がんぎょうじ)に行き出家した

同行した藤原道兼は逃げ帰り、兼家は内裏の

門を締め切り、【譲国の儀】を執り行った

謀略による「クーデター」といえるかもしれない

7歳の一条天皇に事情など理解できるはずが無い

しかし・・・懐仁親王は践祚し第66代 一条天皇と

なったのである

一条天皇の前期は「藤原兼家」が権勢を欲しい

ままに、身内の昇進を急いだ為、他の公卿の不評

を買い、不参(仕事に出ない)者が多くなり、ついに

「公卿は月に十日は出仕せよ」という達しが出るほど

混乱していた

そして政局は目まぐるしく変わっていった

藤原兼家 藤原師輔の長男 北家九條流

 摂政 関白 太政大臣

藤原道隆 中宮・定子の父 兼家の長男

 摂政・関白 内大臣

 妹・詮子は円融天・女御(一条帝の生母)

 妹・超子は冷泉天皇・女御(三条帝の生母)

藤原道長 中宮・彰子の父 藤原兼家の五男

 摂政太政大臣

 紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護した


権勢は藤原北家の間で移り代わり、一条天皇もその

激流に翻弄されてゆくことになる


一条天皇の御代で評価すべきは、廃れかけていた

【神祇祭祀】の復活である

987年、北野祭(天満宮天神)、吉田祭を行い

同年12月8日、一条天皇の【読書始】が行われ

一条天皇の学識を研鑽する第一歩が踏み出された

この時代から定まったものに、「神社行幸」がある

一条天皇は母親・詮子と共に、岩清水八幡や賀茂社

大原野社を頻繁に参詣した

一条天皇は幼い頃より「病弱」だったといわれ

その治癒と健康祈願のため、それまで疎遠になっていた

「神社参拝」を再開した動機かもしれない

一条天皇から後、天皇が自ら「社寺参詣」をする

ことが一般化されたとも思える


中宮は「定子(ていし)」、「彰子(しょうし)」

一人の天皇に二后という前代未聞の出来事が

生じた背景には、藤原道長の度を越した「権勢」

の行使によるものである

藤原の「無理を通せば 天の道理も消える」は

平安の時代には公然とされていたのである


その二人の中宮(后)には「枕草子」「源氏物語」の

清少納言と紫式部が仕えたことで有名である

一条天皇は中宮・定子を心から愛したていたと

伝えられている

定子の父親・藤原道隆は大酒がもとで亡くなった

と伝えられる

その父の死が定子の運命に暗い影を落としてゆく

代わって実権を握った道長は、娘の彰子を入内させ

一条天皇と定子の人生に深く関わってゆく

 この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の
 
       欠けたる ことも   なしと思へば


そもそも定子と彰子は「従姉妹(いとこ)」の間柄で

道隆、道長も兄弟である、母が変われば他人という

その時代の現実を観る気がする



そんな女性達の陰に隠れて、忘れられそうな

人物が居る

安倍晴明((あべのはれあきら)

言わずと知れた【陰陽師(おんようじ)】のスターである

(「晴明」は清浄を意味する「清明」への改名を帝に願い出て

聞き届けられ「清明」と称した)

清明は一条天皇、藤原道長に大きな信頼を得ていた

一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を

奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙され

1004年7月には深刻な干魃が続いたため晴明に

雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は

晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたという

伝説では母親は「信太の白狐・葛の葉」と言われている

 恋しくば 尋ね来て見よ  和泉なる 

    信太の森の  うらみ葛の葉



一条天皇の周りには、数々の才人が参集し、仁を懐くとは

まさに言い得ているのかもしれない

この時代に「平安文学」が大きく花開いた事は「必然」だった

その優秀な人材は、一条天皇の才智によって引き出された

私はそう評価している

                   
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はじめまして

いつも鋭く深い視点からのブログを
拝見し、更新をとても楽しみにしております。

大鏡を読んだときのエピソードを覚えており、細かいことですが、円融天皇の后に、詮子はなれず、憤ったシーンが出てきます。

詮子は、円融天皇の女御のままであったと思われます。
一条天皇が即位してからは、皇太后に冊立されているかと。

ご確認お願いします。

2015/01/31(土) |URL|小苺 [edit]

はじめまして

おはようございます

そして はじめまして ですね・・・

慣れるというのは、怠慢を生じさせます

かつては「念には念を入れて」確認していたものが

最近では「忘れる」事が日常になり、些細な称号や年号も

「うろ覚え」で記載してしまう自分が恥ずかしい

仰るとおり、詮子は円融帝の女御で、円融帝皇后は媓子(こうし)です

下書きも無く書いている故の間違いでは済ませてはいけない

拙ブログの誤記述でした

ご指摘 ありがとうございました(訂正いたします)

2015/01/31(土) |URL|長屋の爺  [edit]

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