不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  人の心と欲の歴史 2 


宮中が雅(みやび)で華やかなところなど幻想に過ぎない

権謀術数(けんぼうじゅっすう)が蔓延り、国を想う事より自身の我欲が

優先される伏魔殿であるのは、永い歴史が証明しているのである


殺された天皇

永い歴史の中で、ハッキリと殺されたとされる天皇も居る

【第20代 安康天皇】

この天皇は罪の無い仁徳天皇の皇子・大草香皇子を殺し、その子ども

である眉輪王(まよわのおおきみ)によって殺されたとされる

日本国天皇史上最初に殺された天皇である


【第32代 崇峻天皇】

通説では蘇我馬子と対立して、馬子の腹心「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)

によって殺されたとされる

臣下によって日本で最初に殺された天皇と言う事になっている・・・・


殺された疑いのある天皇

【第92代 後二条天皇】

1307年に疫病が流行、五穀が実らないという事が起こった

まわりでは 「天子の徳が足りないからだ」 と、譲位を望む声が上がった

この時は持明院統・大覚寺統の双方ともに意見は一致していたが

鎌倉幕府の意思が「譲位は天皇に委ねる」というものであり

天皇にその意思が無かったとすれば、強硬手段に訴え出たという事も

あるような気がする

定説では、にわかに発病・・・祈祷のかいもなく崩御したとされるが

私はどちらかの者が天皇の命を縮めた(一服盛った)と思っている

* 大覚寺統とは

亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力し、

出家後はここに住んで院政を行った事からこの名称が付けられた

* 持明院統とは

鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、

その一家を持明院家と称したことに端を発する

後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を仙洞御所として居住したが、その後、

後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。

これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称された。


【第38代 天智天皇】

病没ということになっているが、どう考えても天智天皇の即位にも死にも

不可解な事が多く、天武天皇(大海人皇子)の手で殺されたのではないか

という説があり、私も凡その部分で賛意を感じている

日本書紀も違う視点から観ると、この天皇の実在証明のために書かれたのでは

ないかとさえ私は感じている


【第48代 称徳天皇】

ご存じ「僧・道鏡事件」で有名な歴史上ただ一人の女性皇太子であり

天武朝最後の天皇である

この天皇は「宇佐八幡宮神託事件」の後も、道鏡を寵愛したとされるが

ある日突然この世を去った

臣下の意見を聞かない激しい性格だったとみられ、持て余した臣下が

止む無く「毒」を持った可能性があると私は思っている

その毒殺に僧・道鏡が一役買っていたから、下野への流刑という

あまりにも軽い処罰で済んだのではないか・・・・

称徳天皇が僧・道鏡に皇位を譲ると言うのは、称徳天皇の意に適わない

皇位継承問題があり、宇佐八幡の神託で和気清麻呂が藤原氏の意向を

汲んだ「捏造された神託」を持ち帰ったから激怒したのではないか

それでなければ別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)などという改名を

したことに説明がつかないのである


(続く)

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◎  人の心と欲の歴史 1 

歴代天皇の中で「不審な死」を遂げた天皇は少ない

少ないと言うのは、公にされてはいないだけの可能性もある

私は世間で思うより多くの天皇の不審死があったと考えている


崩御後の即位が常態化される以前で、在位中あるいは譲位して間もなく

崩御した天皇は極めて多いのである

識者は病気が原因で崩御したとか、健康に問題があったので譲位したのだから、

その後に崩御したのは格別問題にすることでもない・・・と云うだろうが

はたして本当だろうか?


平安時代でも長命な天皇や皇族は多くいたのも事実である

今と違って「医療」が整ってなかった時代だからというのも納得できない



藤原にとって不都合な天皇・親王が排除されたのが最も多かった

そう考えざる得ない事例もいくつかある・・・


第71代 後三条天皇

一条天皇・藤原彰子の孫にあたり、父親は後朱雀天皇である

宇多天皇以来170年ぶりの藤原の女が母親ではない天皇である

母親は藤原道長に疎まれた三条天皇の皇女・禎子内親王で

後三条天皇も藤原頼道に疎んじられ、後朱雀天皇の皇太弟として

24年の間、東宮生活を過ごした

(ちなみに、祖父・三条天皇も26年間皇太子として過ごした因縁がある)

藤原に非ざれば 人に非ず

この時代は特にこういう事が当たり前だったのだろう・・・・


三条天皇は生来重い眼病を患っていたとされるが、眼病が重篤な病とは

考えられず、後世に「取って付けた難癖」のような気がする

この三条帝も道長の嫌がらせに屈し譲位して間もなく、この世を去った

下世話な解釈では、道長の孫が天皇になれば、邪魔な存在だったから

手っ取り早く「盛られた」可能性も否定できないのである


後三条天皇も即位して5年後、突然譲位してしまい、その翌年に崩御した

革新的で聡明な天皇であったといい、摂関政治を止め皇室中心の政治を

行おうと、上皇~天皇による院政のような形を目指していたのかもしれない

その意図を悟られ、命を縮められた可能性が高いと私は思っている


話は少し横道にそれるが・・・

第75代 崇徳天皇

托卵 と言えば、この天皇を忘れてはいけない

形式上は74代・鳥羽天皇の第一皇子とされるが、じつは73代・白河天皇の

子供であるというのが定説になっている

祖父であり実父である白河法皇が存命の間は、順調な人生に見えたが

白河法皇が没すると事態は急展開してしまう

形式上の父・鳥羽上皇が美福門院得子との間に産まれた実子である

体仁(なりひと)親王に皇位を継がせようと、崇徳天皇に退位を迫り

心ならずも崇徳天皇は譲位し、上皇となった

ところが譲位した近衛天皇(体仁親王)は生来病弱で17歳で亡くなる

皇子女が居なかった近衛天皇にかわり、崇徳上皇自ら重祚するか

我が子の重仁親王の即位を望んだが、近衛天皇の母である美福門院が

「近衛天皇の死は崇徳の呪詛のせいだ」と鳥羽法皇に訴え出た・・・

その結果、近衛天皇の弟である後白河天皇(雅仁親王)が即位してしまい

雅仁親王の子・守仁親王が立太子されることになった

崇徳上皇は自分の子に皇位がつながらない絶望感から、決起を企ててしまう

世に言う 【保元の乱】 である

この企ても後白河上皇を守る平清盛・源義朝らの奇襲攻撃によって敗退してしまい

崇徳上皇は讃岐(香川)に流されてしまう

崇徳上皇が戦死者の供養と反省の意を込めて写経したものを朝廷に差し出したが

「呪詛が込められているのではないか」 として突き返されてしまう


怒った崇徳上皇は、自らの舌を噛み切った血を使い写本に誓いを書き海に沈めた

【 大魔王となって日本国を転覆させよう 】

それ以降、崇徳上皇は爪や髪の毛を伸ばし続け、悪魔のような姿で亡くなったという

「雨月物語」には面白おかしく書かれているが、世間の骨肉の争い以上の凄惨な

現実が皇室には昔からあったと言う事なのである


私は明治天皇が即位に際し、崇徳上皇(讃岐院)の霊を京都に帰し、白峰神社を

創建した裏の事情にも関心がある

これも、歴代天皇が伊勢神宮に足を踏み入れなかった慣例を破ったことと

大きな関係があると考えている

不可解な天皇・親王の死について、引き続き考えてみたい

 (続く)

◎  国母と慈愛 

今年は「じゃばら」を呑み始めるのが遅く、花粉症の

症状が例年より酷い気がする

と言っても、数年前から比べるとずいぶんと軽くはなってきている

桜が満開になるころからゴールデンウィークにかけ

花粉症はピークを迎えるが・・・


托卵(たくらん)

この言葉は郭公で代表される子育てを他者に委ねる行為をいう

下世話な話では「大沢樹生托卵事件」が有名だが・・・

こんな下劣な話ではないが、平安の宮中にもこのような話は存在した

といっても、これが托卵に該当するのか疑問ではあるが・・・


国母の鑑 上東門院・藤原彰子

一条天皇の中宮・定子が産んだ皇子・敦康親王(あつやす しんのう)は

祖父・藤原道隆、母・定子、伯父・藤原伊周、叔母・御匣殿を亡くして

天涯孤独の身となった

その敦康親王を我が子のように育てたのが一条天皇のもう一人の后である

中宮・彰子であった

自分が親王を産んでいなかったとはいえ、他の后の産んだ子を育てるのは

当時としても異例の事ではなかっただろうか・・・

さらに事態は急変し、彰子が一条天皇の皇子・敦成親王を産んでしまったのである

敦成親王が生まれると、それまで敦康親王に寛容だった藤原道長も

次第に敦成親王に心を傾けるようになった

そして、ついには敦成親王を皇太子にしようと計ったのである

第一皇子ではなく第二皇子を皇太子に立てるのは、当時としても異例であり

おそらくは宮中でも賛否両論があったと思われる

しかし、声を上げたのが飛ぶ鳥落とす勢いの藤原道長である

明確なな反対の声も出無かったのかもしれない・・・

しかし、ただ一人敦成親王の立太子に反対した人物が居た

敦成親王の生母・彰子である

我が子の立太子に反対する母親が居ようとは思いもかけなかったであろう

それでも道長の意見は絶対であり、一条天皇も受け入れざる得なかった

その結果、中宮・彰子は実父・藤原道長を終生憎んだとまで言われている


定子が存命のころは、常に二番目であり一条帝の寵愛を受けられなかった

中宮・彰子だったが、人として女性として、母親として素晴らしい資質を備えていた

ことになる


世間では「光明皇后」を皇后の鑑の如く言う方がある

私はその意見には反対する立場であり、作られた虚像・皇后だと思っている

書きのこすには必ず理由がある

称賛される姿の多くは「虚像」である場合が常であり

誹謗・唾棄される姿に「真実の影」を観るのである

中宮・定子が悲劇の后という定説の陰で、本来の悲劇の后は中宮・彰子

ではなかったかと思っている


何を持って「幸」「不幸」というのかは知らず

生きていることが一番の試練・苦痛であるならば、残された彰子の心は

いかばかりであったか

中宮・彰子は夫・一条天皇、息子・後一条天皇、後朱雀天皇を亡くし

さらには二人の孫まで亡くし、寂しい晩年を過ごしたと言う

生きていることが幸か不幸か・・・・彰子にしか判らないだろうが


ひと声も 君に告げなん ほととぎす この五月雨は 闇にまどふと

 (皇太后・彰子 後一条天皇崩御後に詠んだ歌)


 これは宮中が未だ日本の中心であったころの話であり

 人々(ヒトデナシ)には無縁の世界だった時代の逸話である。

◎  「もしも」「まさか」はこの世にはある 

もしも・・・もしもである

現皇室に悠仁親王が誕生しなかったら・・・

秋篠宮殿下に何かあったなら・・・・

皇太子が急逝されたなら・・・

これらが一度に起こったとしたら

皇統男子をもって皇位を継ぐというならば、皇統の廃絶は疑うべくもない

女性天皇を口にする前に、皇統を継ぐと言う事を、歴史をさかのぼって

見つめてみたら・・・


皇統が絶えてしまうという状況が1500年前にもあったという史実に出会った

6世紀に実在されたという第26代 継体天皇の即位には様々な疑問が

囁かれているが、まさにこの天皇こそ「なぜ?」という言葉に相応しい

不可解な即位をした天皇なのである


この天皇は第15代 応神天皇の5世の孫という

今で言うなら第115代 桜町天皇の5世の孫を探し出して、即位させるような

それに近い話なのである

5代遡って血統が如何様なのか、血筋・血統と呼べるのかは

私は疑問でしかないと考えている

その継体天皇に継がれる前の天皇は武烈天皇であり、その前は仁賢天皇で

仁賢天皇の皇子が武烈天皇で、武烈天皇には皇子も皇女も居なかったという

だから探し回って継体天皇を即位させたのだろうが・・・


私は継体天皇とその後の天皇に着目してみた

第26代 継体天皇、第27代 安閑天皇、第28代 宣化天皇

この天皇には共通しているものが有る

皇后が同じ天皇の皇女であり、姉妹であると言う事だ

継体天皇の皇后は【手白香皇女(たしらかのひめみこ)】

安閑天皇の皇后は【春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)】

宣化天皇の皇后は【橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)】

共に【仁賢天皇の皇女】たちなのである


父・子が同じ天皇の皇女を妻にしている?

可能性が無いとは言えないが、この三人の天皇の生没年すら不明なのに

皇后だけははっきりと残されていることに、私は作為を感じている

つまりは世間で言うところの【入り婿】ではなかったのか・・・・

女性天皇がだめなら、僅かでも皇統の血が流れている可能性の男子を

婿として天皇に仕立てる・・・・

まさかの内親王に権力を継ぐ、即位の禁じ手ともいえるかもしれない・・・


私は日本の天皇家と天皇制に、古代から一貫した法則があったとは

思っていない (だから、血の万世一系は疑問に感じている)

おそらく古代では「血の継承」などなく、推挙された豪族の首長が

代表として「大王」と呼ばれ、その後ある時代になって「皇后を出す家」が

天皇を決めていたと思っている

そして易姓革命と思われる改革があって、天皇位は天皇の男子を持って

継がれていたが、その後個人の思惑で「女性でも即位できる」改変がなされ

皇位は女性の手に渡ってしまった

さらにはそれを改めて「皇位は天皇の男子を持って即位」する決め事に定着した

漠然・・・としてではあるがそう感じている


武烈天皇と言う人は後世にまで「悪人」として語り継がれている

まるで易姓革命の後の勝者が滅亡した前政権を悪し様に伝え残すことと

共通するものが漂うのである

* 妊婦の腹を裂いて胎児を見ようとした

* 他人の生爪を這いで山芋を掘らせた

* 他人の髪の毛を抜いて木に登らせ、その木を切り倒した

*人を池の樋(とい)に入れ、出てきたところを矛で刺し殺した

此処まで書けばお分かりかと思う・・・

天皇家が万世一系を誇るなら、このような記録を残す訳が無く

前政権、前権力者を意図的に貶めるために書き残されたと思える

明治期の長州や薩摩、土佐あたりの尊皇派が都合の良い「一系」を

演出しただけに過ぎないと言う見方もできる

本来は家である皇室が延々と千数百年続いてきたことを

さらに権威づけ、天皇に絶対的権力を保持させるための万世一系

ではなかったか・・・


書きのこすとは理由がなければならない

特別なことだから書き残すのであって、不利な事や不都合な事

さして特別な事ではない日常など、誰でも当たり前に感じていることなどは

書きのこす必要がないはずだ・・・・

だれが 何のために 先祖であるはずの天皇の汚点・失態・残虐性などを

書きのこしたのか、私はとても興味を感じている


現代に思いを戻し、もし・・もし・・・たら・・れば・・・が続けば

江戸時代の天皇の5世の孫を探して来て、126代天皇に据えることも

冗談では済まなくなる

明治天皇の曾孫とか玄孫など、皇位を窺う輩も出てくるだろう

万世一系が血の継承であろうとなかろうと、繋いできた重みは

日本人なら誰でも感じているはずだ


【我が国は開闢より君臣の秩序が定まっている。臣下を君主とする

ことは未だかつてない。天日嗣には皇統の人を立てよ】


これが 宇佐八幡 の御託宣である

形骸化した天皇位の陰で実権を握る臣下など許されない

まして粉屋は粉屋でしかない・・・

粉屋や半島人に牛耳られるくらいなら、消滅したほうが・・・

とは、考え過ぎだろうか(笑)

◎  戒律と宿命 

戒律

かいりつ という言葉は日本人には身近ではありませんが

著名な宗教には必ずといって良いほど「戒律」があります

キリスト教は「旧約聖書」、「新約聖書」という二つのバイブルを持っていますが

一般的には「新約聖書」の教えに従っています

ユダヤ教の教えは「旧約聖書」を基本としています

旧約聖書の中に「モーゼの十戒」というものが有り、十の「してはいけない」ことを

戒律として定めています

その第六番目に【殺してはならない】というものが有るのです


仏教では釈迦の戒律というものがあり、その戒律の第一が

「生きとし生けるものを殺してはいけない」

仏教でも「殺生」は禁じ、戒めています

ところがこの「殺してはいけない」という質(中身)が微妙に違っています


旧約聖書では、【エホバの神を信じる人間を殺してはいけない】 のであって

他宗教の人間を「殺せ」とも「殺すな」とも書かれていません

キリスト教徒である兵士は戦争中に相手がキリスト教徒かどうか、確かめてから

殺しているのでしょうか?

私はそういう話を聞いたことが有りません


仏教では「生きとし生けるもの」を殺してはいけないとされています

生きとし生けるもの・・・とは、植物も動物も、もちろん人間も含まれます

仏教徒は肉食はおろかベジタリアンすら認められないと言う事になりますよね

そんな仏教徒に出会ったことは有りませんが・・・・


人間以外は殺しても差し支えないキリスト教徒が「反捕鯨」を口にし

殺生戒で生きる物すべての殺生を戒める仏教国・日本が捕鯨の食文化がある

この不可解さはどういう事なのでしょう・・・


私は熱で朦朧としながら、ちょっとだけ考えてみました

日本人は純粋の仏教徒では無いのは明白であり

古代神道と仏教との「中間」に位置する国民ではないか?

そんな気がしてきました


アイヌにとって【人間は特別なものではない】と考えていたふしがあります

例えば、熊(くま)はあの世では人間と同じような姿で生活していて

この世に来るときに「熊の姿」となって、毛皮や肉、内臓などを土産として

持ってくると考えていました

だから、熊を殺すことは「殺生」ではなく、感謝の行為だったのです

それを明確に残しているのが【イオマンテ】と呼ばれるアイヌの祭りです

「クマ祭り」とも言われていますが、【イ】 は「それ」、【オマンテ】とは「送る」

という意味のアイヌ語です

土産(みやげ)をアイヌ語で「みやんげ」といい、それを持ってきた人を

【マラプト】と呼びます

マラプトとはアイヌ語で「お客さん」のことで、日本では古い言葉でお客さんの

ことを【まれびと】とか【まろうど】と呼びました

熊の肉や毛皮を持ってきたお客さん(クマ)を殺して、魂だけはあの世に送り届ける

その儀式が「熊祭」というもので、いわば「感謝祭」という事もできます

どういう理屈になっているかを言えば、盛大な祭りで送り返された熊(お客さん)は

あの世に帰って、仲間たちに歌って踊って礼儀正しく送ってくれたことを報告し

他の仲間も「それなら俺も出かけてみよう」と思い、次の年も熊の姿で土産を

持って訪ねてくることを願ったものと思えます

アイヌは木の一本でも、必要で伐る事になっても、感謝の祈りをささげてから

伐採し、その木も必ず「接ぎ木」をして次の木が生えるようにしていたといいます

共に生きるが故の「感謝」と「殺生」の姿が日本にはありました

動物や植物の殺生は神さまからの贈り物であり、あの世から姿を変えて来る

お客様に対する礼儀・感謝の行為だった

それが熊であったり、クジラであり、イルカであり、鹿やウサギだったのだと・・・

モノにはすべて神が宿るとは、神さまが姿を変え、人間に豊かな贈り物を届けに

来てくれ、それをいただいて、魂だけは丁寧にあの世に送り返す

人が特別優れているのではなく、神さまからの贈り物によって「生かされている」

それが古代から続く「神祀り」なのではないかと私は考えています


そういう意味から、【貝塚】は「貝に姿を変えた」あの世からのお客さんに

感謝し、美味しくいただいた儀式の祭場跡地ではないかと思っています

その辺に「ポイ捨て」することなく、お客さんの大事な「土産」を美味しく

いただいた後に、きちんと殻だけは丁寧に埋めたのではないか

日頃から口にする貝であっても、殻にさえ礼儀を尽くした結果の貝塚だと

私は思いたい・・・・


こうして観ると人間はどんな決まり事や戒律を作っても、人間同士殺しあう

事が止められない生き物なのかもしれない

世界中では同じ神を信仰する者同士であっても殺し合いが行われ

他宗教の者だからと言って殺し、宗教など関係なく我欲のために

相手を殺しあう姿が絶えないのだから、そう考えるしかないではないか・・・


敬虔なクリスチャンでも仏教徒でも、ユダヤ教徒でもイスラム教徒でも

つまるところ「戒律」を都合よく解釈し、自分流の信仰で生きているに過ぎない


一神教において同じ神が何人もいるわけが無く、元が同じ宗教なら神は一人である

エホバの神を信仰する敵を殺すことは、重大な戒律違反ではないだろうか・・・

そう考えると、戦争や紛争に宗教が何の意味も持たない事は明白である

宗教は人類を救えないが、人類が人類を救えないのも、また事実である

その答えが、牛や豚は殺しても良いが、クジラやイルカはダメという理論に

ハッキリと現れている気がします

書いてあるから良くて、書いてないからダメ・・・

その現実は書いてあっても守らず、書いてないから守らずの自己流解釈で生きる

そういう矛盾だらけの宿命を人間は背負っているのかもしれない・・・・・。

◎  回復途上の爺より 

風邪による高熱の危機を脱したと思ったら、まさかの四連勤

本日ようやく休みとなった

その間消化の良い「お粥」「うどん」「にゅうめん」と、力が出そうな食べ物に縁が無く

食べたいという気持ちもわかず、昨日ようやく「カレーライス」を食べてみた

カレーなら香辛料が効いているので食欲も出るだろうと・・・・

珈琲が昨夕から飲めるようになったことが最もうれしい事かもしれない (笑)


胃部の不快感もかなり解消されてきて、50~60%の回復というところだろうか

仕事のために文字通り「骨身を削る」日々を過ごしてきたように思う

私たちの仕事は「信用」で成り立っている

仕事に穴をあけることを何よりも嫌う体質になっていて、どんな状況でも休まない

事が「最低条件」になる

30年も毎日のように携わっていれば、無意識でも実務はこなしてしまう

年を重ねると「できなくなる」事は無いのだが、その後に疲れが残り続けることは

間違いなくあると感じる

若いころにできたものが出来なくなるのではなく、苦も無くできたものが

出来るのだがそれをすることによって苦痛を伴ったり、負担に感じるようになる

それが「老いる」という事かもしれない・・・・


梅が  梅を  と言っている間に、いつの間にか「サクラ」の季節になってしまった


今年は「鬱」の症状もほとんど出てこなかった気がしていて、寝込んだことを契機に

若しかしたら出てくるのでは? などと思っていたが、幸いにも本日まではその

兆候は見られないので一安心だ 

これもネット(ブログ)のおかげなのか? 緊張感の持続のせいなのか?


体調の悪さがあっても難工事をクリアしたので、元請け担当が来週は連休させて

くれることになった、小さなご褒美では無く「ちゃんと治せ!」の意味合いか (笑)

その連休をどう使うのかは未だ決めてはいない・・・


ボチボチ古代史を書きたいと思ってみたものの、まずはゆっくりと「助走」をつけてからと思います

ご心配をおかけいたしましたが、本日よりブログ再開いたします


* ブログ訪問・閲覧は時間をかけて追いついていきますので、ご理解ください (長屋の爺)

◎  近況報告 

 先日、体に違和感を覚えながらも、取り敢えずのブログ更新をして

就寝してから数時間後、悪魔が襲ってきたのです

どうしようも無い吐き気と腹痛に朝まで格闘し、ようやく床に就いたと

思ったら、次は38度を超える高熱・・・・

天上はグルグル回り自分がいま、どういう状況に置かれているかすら

判断できなかった

床から這い出て下着やパジャマを取り換え、冷蔵庫まで匍匐前進して

冷たい水と「冷えピタ」を手に、布団へと舞い戻る姿を想像してください(笑)


一事は39度に迫る体温で、「こりゃダメだ!」と観念する始末・・・・

そもそも私の平熱は35度6~7分であり、通常の人より高熱に弱い

そんな爺が39度近い高熱を出したのだから、「死」を目の前に感じても

不思議ではない (ちょっと大げさか?)

休みだったので、水以外口にせず(食欲すら無かったが)ひたすら眠った

とにかく汗を出そうと、厚手のパジャマやスウェット上下で、ホットカーペット

を弱にして数時間布団ごと温め、すっぽり羽根布団を頭からかぶって過ごした


その甲斐あって、今朝はようやく平熱に下がり、仕事に出ることができた

まともな食事をしていないので、風に飛ばされないでと笑われもしたが・・・

無事仕事を終了


まだ本調子ではないですが、仕事や家事をこなすくらいには回復してきたので

もうしばらく早寝早起きの生活をさせていただきたいと思っています

更新は様子見という事で ご理解ください 

閲覧・コメントへのご返事もその時に・・・・(長屋の爺)

◎  怒り心頭の爺 

昨日は休みだったので、寝たり起きたりで完全休養日

夜になってパソコンを起動しておいて洗濯物を畳んだり

雑巾などを洗濯機で洗い、夕飯の支度をした

パソコンの前を通りかかったら、何やら見慣れない画面が・・・

ウインドウズ10の設定を行っています??????

え~~~~!

ウソだろ? いつだれが許可した?

慌てて強制終了して、その場を凌いでみたものの、途方に暮れてしまった



とうぜんWIN10にすれば、DVDも観られなくなるし、メール受信も面倒な設定を

余儀なくされ、面倒な事は勘弁してほしいのが本音である

不都合は多くあっても、メリットは少ないのが今回のバージョンアップだ


とはいえ・・・勝手にバージョンアップするのは違法ではないのか?

そういう疑問がわいてくる

マイクロソフトは昔から気に入らないのだが、使い勝手と関連することも

多々あって仕方なく選択している

歴代のウィンドウズは95から98、・・・・8,1まで使い続けてきたが

MSの独占に近いのだから好き嫌いなど選択の余地は無いに等しい


とにかく、システムの復元を何度か繰り返し、ようやくバージョンアップの

危機を回避した・・・

今までのソフトや機能をそのまま使えるなら、すぐにでもOkなのだが

使うユーザーのことなどお構いなしで、半強制的に実行しようとするのは

かなり問題なのではないか・・・


もし強制的にバージョンアップなどして、ネット通販&私生活に支障をきたしたら

法的手段に訴えてやろうかと思っているが・・・

そんな金にならない事を引き受ける弁護士も居ないだろうし・・・

実際に「蟷螂が斧をもって隆車に向かう」に等しい話なのだから(笑)
 


最近マイクロソフトの評判は良くない・・・

突然勝手にダウンロードしたり、バージョンアップの画面を表示したり

パソコンを使用中のユーザーなど眼中に無い商売をしている気がする

「世界で一億人がウィンドウズ10を使っています」

それって、多いの?少ないの?

世界中のパソコンには、その何倍ものウィンドウズがインストール

されているはずで、その程度の普及率って・・・人気が無い事にならないのか?

本当に良いものなら、使い勝手が良いものなら、ユーザーが手にしない訳が無い

普及しないのはそれ相応の理由があるからに違いない


MSが焦って半ば強制的にバージョンアップするのはは「満足度が低い」から

「受け入れてもらえていない」という事なのではないか?

買った人 使っている人 を粗略に扱うと「手痛い」反動が来るだろう

従来のソフトなどがそのまま使えるなら、無料バージョンアップは魅力なはず

それが思うように普及しないのは、理由があるんだって・・・わからないのか?


無料だから誰でも飛びつくと思っているなら、ユーザーを甘く見ている

世間では 【無料(ただ)より高いものは無い】 という言葉があり

「安かろう悪かろう」の先に在るのは、「無料より高い物はない」なのである。 

◎  冷たい雨に打たれて・・・ 

あちらこちらから春の便りが届くようになったとは言え

まだまだ寒い日が周期的に訪れるここ数日・・・・

いったん治まっていた風邪がぶり返したようで、昨日の

冷たい雨の中での作業で体調を崩してしまった

気力と集中力だけでは、如何(いかん)ともし難(がた)い事を

思い知らされた気がします


今朝は通常の時間を過ぎても寝床から出ずに、ウトウトしながら

夢を見ていた

縄文・弥生のころだったり、平城・平安時代の出来事だったり

戦国時代の様子だったり・・・・

どれもこれも今まで読んだ書籍とは違う展開で、それを書き残そうと

あたふたとしているうちに目が覚めてしまった


さらに忘れないうちに・・・と思ったら、そのほとんどが霞みがかかったように

ボンヤリとしてきて、朝の仕度やら猫の世話やらしているうちに搔き消えてしまった

あれは何だったのかすら思い出せない・・・・

アルツの症状でも無かろうにと、苦笑いで済ましてしまった(笑)


今日が休みで良かったと思う事にして、一日家事に精を出して静養することに

貧乏庶民だが(千代田の貴人ではなくとも)、静養くらいは許されるはずだ




最近は現代小説はあまり読まなくなって、専ら「時代小説」ばかり読んでいる

戦国時代から剣豪物、そして最近は「人情もの」を好んで読んでいる

昔読んだモノをもう一度買い求めて読み返すと、若いころには感じなかった

人情の機微が理解できてしまう・・・これが時を経るということなのか


親の気持ちは親になるとわかる

齢を重ねた人の言葉は、齢を重ねると理解できるようになると言う事か・・・


「本所 おけら長屋」というシリーズ物の時代・人情小説がある

娯楽小説でもあり、落語小説のようでもある

現在6巻まで発行されていて、著者は畠山健二氏という方で

演芸の台本やら演出家でもある人が書いているシリーズ物だ

書籍の類は嗜好があって、一概には言えないと思うが私のお勧めである


なぜ私がこの書籍を読むのか?

私の日常にはない「声に出して笑える本」だからである

その反面、傍にティッシュの箱を置いとく必要もあるが・・・



私の日常は眉間に皺を寄せ「しかめっ面」ばかりしているわけでは無いが

大きな声を出して笑う事など皆無である

苦笑い、微笑み、鼻で笑い、時には「吹き出し笑い」をすることもあるが、腹を抱えて

涙を流して大きな声で笑う事など皆無である

この小説はまるで落語を聞くようでもあり、世間の新喜劇など足元にも

及ばない「ばかばかしさ」と、日本人の「人情の本質」を思い出させてくれる

何も考えないで、目と耳からストレートに受け取る習慣の方には、馴染めないかも

しれないが、本物の笑いを観るには本の中と外の中間で、感じることが一番と

思い知らされる気がするのである



特に落語好きには間違いなく、人情モノが好きな方でも、きっと気にいると感じている

私は書籍の読後評(読書感想)などするのは稀であり、その資質すら無いと

思っているが、これは読後感想でもステマでもなく、最近声を出して笑っていないなぁ

そんな方にお勧めしたい「読み物」です


* ただし・・人前ではぜったいに読まないでください 地位も名誉も人望も間違いなく

失くすほど笑ってしまいますから 念のため (笑)


PS
体調と相談しながら更新をしてまいります

ご心配をおかけしました 長屋の爺は死ぬまでは元気ですから!

◎  本日はお休みします 

体調不良のためお休みします

コメントのお返事は明日以降に・・・

◎  縁側みたいなブログを目指し 


日本人が日本人だった頃

表に立つ人と、裏で支える人に分かれていた

その比率は1:99 

使う人が一人いれば、其処に至るまでに陰で支えた人たちは九十九人

私は漠然とですが、そう思い続けてきました



家に例えても、家を注文した「施主」の元に完成した家を届けたのは

建築屋さんだけではありません

木を育てた人、木を伐る人、運ぶ人、製材する人、木を売る人

使う人(大工さん)、土を掘る人、瓦を焼く人、運ぶ人、瓦を葺く人

鉄(鉱石)を掘る人、鉄を作る人、鉄を加工する人、使う人(職人)

書きだしたら「きり」がないほど多くの人の手によって表に出てきます


だから自然と日本人は物事や物に感謝する気質が育つのだと

思っています・・・(いました でしょうか?)




私はよく「貧乏くさいから 止めなよ」と言われたことが有ります

それは、ご飯を食べた茶碗に水・お茶をいれて飯粒の最期の一粒まで

食べる習慣があります

確かに私は骨の髄まで「貧乏体質」が滲み込んでいますが

貧乏とは別の問題だと思っています


「勿体ない」とは別物ですが、それも理解されません


勿体ないから最後の一粒まで食べる訳ではありません

私は「捨て魔」と言われるくらい、何でも手放します

嫌いな言葉は「勿体ない」、「お得」「儲かる」です


私は、裸でたった一人で生まれてきました

何も持たず、何も知らず、何も努力せずに産まれてきました

残したモノなど些末なもので、この空の下に生きているであろう二人の子と

今まで生きてきた中での「縁(えにし)」くらいなものです

それを「友」と呼ぶかどうかは個人の問題ですが・・・

隣人も縁あっての「関わり」であり、ブログの訪問者も縁あってであると

考えています

自分は縁という糸に支えられて今日まで来ました


考えてみてください・・・・

この国に一億数千万人という人が暮らしています

自分は人生を経てきた中で、どれだけの人と言葉を交わし、親しくなっただろうか?

人によっては、「数えきれない人と関わった」、と言うかもしれません

それが私の言いたい「一人を支えた人」という事なのです


人は傷つくために生まれたと言う人が居ます

人は何かを傷つけて生きる生き物だと言う人が居ます

自分が生きていることによって、弾かれる人が居ると言う人もいます

私にはすべて正解のような気がしています


生きるという事は、干渉しあう事であり、摩擦によって傷つき、傷つけ

誰かを押しやって、前に進む生き物なのかもしれません

そのとき一本の細い糸でつながった人を「縁者」と呼び、その糸を【縁】と

呼んだのではないか・・・・なんて思っています

血で繋がった相手を「親類」、糸でつながった人を「縁者」・・・・


縁とは【彖(たん)】に【糸】が語源で、「ふち、まわり」の意です

そこから血縁や人と人、事柄の相互の間の「つながり、ゆかり」の意味でも

使われるようになったと言います


縁側(えんがわ)とは家の中と外界の間に在って、それぞれを繫ぐ場所

日本独特の「内でもなく外でもない空間」のことですが、まさしく「まわり」であり

「ふち」に在って、外と「繋がって」いる場所のことです


内に閉じこもるのでもなく、外に飛び出すでもなく

その中間の場所に日本人は「居場所を見つけ」、心を安らいだのかもしれません

たくさんの閲覧者の集まるブログとは、そういう「縁側」のような空間かもしれません


頑張って書いているのに閲覧者が少ない

若し、そんな事に悩んでいるなら、それは肩に力が入っているから

頑張っているからかもしれません

私は「頑張る」という言葉が嫌いでして、縁ある人には「頑張るな」と言い続けています

頑張ると努力することは全く違います

努力は自分にできる精いっぱいの事をすることで自分を見失う事はありません

頑張るは自分の力以上の事をしようと、無理をすることであって、理に適っていないことです

自分をすべてさらけ出す必要も無いですし、自分らしく思いを書くだけで自分がホッとできる

そんなブログならきっと「縁という糸」が流れてくるかもしれません


私はそういうブログが書きたい・・・という高望みをしながら毎日更新しています

何処の家にも縁側があるわけでもないですし、縁側のあるブログにしてみたい

そんなわけのわからない事を思っている長屋の爺であります。

◎  神武天皇没後2600年 

◆ 両陛下、4月に奈良訪問 神武天皇没後2600年で

 宮内庁は9日、天皇、皇后両陛下が4月2~4日の日程で奈良県を訪問されると発表した。今年は初代天皇の神武天皇が没して2600年に当たるとされており、両陛下は橿原市にある陵で式年祭に臨み、参拝する。

 東海道新幹線と近鉄を乗り継いで奈良県に入り、2日は橿原市の奈良県立橿原考古学研究所を訪れ、遺跡から発掘された土器の破片の整理作業を視察する。

 3日は午前に神武天皇陵で式年祭に出席。これには秋篠宮ご夫妻も同行する。午後は橿原神宮を参拝する。

 4日は明日香村の高松塚古墳に足を運び、隣接する高松塚壁画館で極彩色壁画のレプリカを見学し、午後に帰京する。


神武天皇陵


以前から当ブログを閲覧している方はご存知と思う・・・

長屋の爺は「神武天皇陵」を認めてはいない

それはあくまでも私の私感であり、偏った自論に過ぎないかもしれないので

此処での言及は避けようと思う


さて、この報道記事で様々な受け取り方をされると思うが、私は幾つかの

疑念を抱いている

小姑根性と謂われるかもしれないし、考え過ぎと言われるかもしれないが

次の事に疑問・不可解さを感じたのである


* 今上天皇が神武天皇陵を参拝するのは何年ぶりなのか・・・

* 神武天皇陵を参拝する「顔ぶれ」について・・・

* その参拝姿勢について・・・

些末な事かもしれないが、気になると「とことん」気にする体質で (笑)



今上天皇の神武天皇陵参拝の記録を見つけられなかった

今まで参拝しなかったとは思えないので、嘗てはそれほど記事や記録に

残すことの必要性が無かったのか・・・

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* 私は何処かの結婚式に参列したときの写真かと思ったが・・・

背景や手にするものを観て、御陵の参拝だと納得した(笑)


皇后の参拝は二度ほど記録が見つかったが(紀宮17歳の時の記録が残っており)、

その時に天皇陛下がご一緒だったかは写真が見当たらないので不明である


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写真と参拝場所が異なっていることも多く、記事に使用される写真が

少ないためか、同じ写真を使いまわしして新たな記事に使う人が

多いと思えるので、不確かなことしか書けないのは何とも・・・・

申し訳ない


皇太子夫妻の参拝は嘗ては実際にあったことで

1993年6月27日  19994年4月22日

 結婚の報告のため皇太子夫妻の参拝が記録されている

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そして、最も多く記録されているのが秋篠宮ご一家の参拝である

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神武天皇陵 佳子内親王参拝


皇太子夫妻が「ご静養」で多忙を極めているため、筆頭宮家である秋篠宮家

にかなりの負担がかかっていることは否定できないと思われる


今回は皇太子は留守番と報じられた

天皇と皇位継承権一位の人間が同時に移動することはできないと

何処かで聞いた気がする

万が一の事態を想定し、皇統を護る意図があるのかもしれない・・・


今回の秋篠宮御夫妻の同行は何を意味するものか?

「お前は次期天皇ではない」という念押しなのか、今回の同行を

だれが決定したかで意味は違ってくる


天皇陛下独断なら「愚兄夫妻の後見を託したい思い」とも考えられ

皇后陛下の決定なら、あなたの次期天皇の「芽は無い」という意思表示か

宮内庁の決定なら、都合のいいように使われている感もしないではない・・・


日本人なら慶事に際し「明るい装い」は忌むべき事として、身に備わっていて

そういう意味からも慶事では黒を基本として、紫などの暗色を身に纏う習慣

が確立している


日本人にとって「白」は、【決断の色】【意思を表す色】だと私は考えていて、新たな地へ

踏み出す決断と、その意思の表れが【白い衣装】であると思っています


通説では白無垢は相手のどんな家風にも染まります、という意思を表示する

という説がありますが、これは後出しじゃんけんの「こじつけ」にすぎません

結婚という儀式の披露は【神に告げる】ための神聖なものだから白い衣装を

着るのだと言う説もあり、だから巫女や神職の衣装は白いと言います

これも説得力に欠けます

そもそも神の前の儀式に白い衣装を着る意味を言わず、神の前だから白いもので

と言っても、納得できる人は居ないでしょう


その当時(古代)では染める前の「生成り」の白こそ純粋な衣として考えられて

いたのかもしれないと、私は考えています

また、そのような色の衣装しかない時代から神祀りが行われていて、神祀りに

携わる人は素白の衣装を身に纏うのが当然だった名残とも考えられます


この世に別れを告げる意思を身に纏うのが【死に装束(白小袖)】という装いであり、

亡者に着せるのが白装束(経帷子)である理由だと勝手な理解をしている


白は意思を表す色であり、黒は悼む気持ちを表す色である

漠然とではあるが、私はそう思い続けてきた・・・

神と仏、向き合う対象が違っても、白を身につける理由は相手に在るのではなく

身に付けた人間に理由があると思っています


神や仏、先人たちに向き合うのに、相手の視点から考える説には承服できない

そんな偏屈な爺の考えは何処か歪んでいるのでしょうが・・・

神も仏も先人たちも、何も語らないのが現実です

神のためとは今の人間のエゴであり、仏のためとは自分達の勝手な解釈であり

先人たちのためとは自己満足に過ぎない・・・


不敬・不遜な言葉ですが、物事にはすべて理由(わけ)があります

その理由(わけ)も解らずに定説・通説・常識を振り回すのは無体な話だと

長屋の爺は思っています。


神武天皇陵(神武田古墳)に誰が眠っているのか不明でも、其処で手を合わせ冥福を祈り

日本の安寧を願うのも良いとは思います・・・ですが・・・


 「そこには誰が埋葬されているんですか?」

そう問われて、未来の天皇になる 悠仁親王 はどう答えるのか・・・

「神武天皇です」

「本当に神武天皇だと断言できますか?」

そんな会話を考えた時、胸が痛くなる思いがします




本当にこのままで良いのだろうか・・・

宮内庁と政府は悠仁親王を騙したままで、心が痛まないのだろうか?

日本人として誇れるような知恵を出し決断をして、可能な限り歴史・遺跡を検証する

努力を行ってほしいと願うばかりである。

◎  鳥居を不気味に感じる現代人? 

   謎の鳥居、目的は? 長久手の県道、現在は撤去

長久手市の愛・地球博記念公園(モリコロパーク)北口前の県道に、一月から二月にかけ、「謎の鳥居」が設置されて話題になった。記者が経緯を調べるも設置者や目的は不明で、関係者は「ポイ捨て防止?」「事故被害者の供養?」などと推測。結局、二月上旬に鳥居は撤去され、現在はポイ捨て防止を呼び掛ける看板が立つ。


 住民からの情報提供を受け、記者が現場へ向かったのは一月二十二日。瀬戸市からモリコロパークへ向かう県道209号線沿いの県立大前の中央分離帯に鳥居はあった。


謎の鳥居



 木製の赤色で、縦横十五センチほどの小さいものが二つと、縦横三十センチほどの中サイズのものが一つ、街路樹などにくくりつけられていた。


 経緯を調べるため、モリコロパークや県立大、尾張建設事務所、長久手市などに取材したが、誰も鳥居の存在を知らなかった。現場に近いモリコロパークや県立大の職員も知らなかったことから、最近になって設置されたとみられる。


 こういった小さな鳥居が道路沿いに設置されている例は少なくない。「罰が当たるかもしれない」という日本人特有の信仰心を刺激し、ドライバーのポイ捨てや立ち小便の防止につなげることが目的で、清掃業者などが設置するケースが多い。

なぞのとりい2


現在はポイ捨て防止を呼び掛ける看板が立っている

 しかし、中には赤い鳥居を不気味に思う人も。長久手市などにも市民から不安の声が届き、道路を管理する尾張建設事務所の職員が二月上旬に鳥居を撤去。代わりに、同じ場所に「ごみを捨てないで!!」という文字と地蔵のイラストが描かれた看板を二基設置した。

 市内には他にも鳥居が設置されている道路があるといい、同事務所の担当者は「清掃関係のボランティアがポイ捨て防止のために設置したと推測している。ドライバーの方には引き続き、ポイ捨てをしないようお願いしたい」と話した。


長久手市に苦情を申し出たのは「日本人」ではないだろう

私が知る日本人は鳥居を観て「違和感」「恐怖感」を感じるはずがない

無信教と公言する人間でも、神社に違和感を持つ事は無い


「罰が当たる」というのは先人の教えであり

神道に限らず仏教でも同じように諭している

つまりは「倫理観」を養う一つの手段ではなかろうか・・・


もし、日本人が役所に抗議したのであれば、日本人としての

倫理教育を受けていないと言う事になる

若しくは似非宗教・新興宗教の俄か信者か(笑)


なぜ小さな鳥居が「ポイ捨て」の抑止になるのか?

鳥居が何かをするのではない、鳥居と言う形を借りて

神さまに対して不敬・不埒であると感じさせること

その先に在る、必ず誰かが観ているという意識である

嘗ての日本人が心の中で感じていた【お天道様が観ている】

を説いているのではないだろうか・・・・。

◎  東大寺二月堂 修二会 

       ◆ お松明夜空焦がす、修二会の本行始まる…東大寺 ◆

 奈良市・東大寺二月堂で1日、修二会(しゅにえ)・お水取りの本行が始まった。

堂に籠もる11人の僧・練行衆(れんぎょうしゅう)の足元を照らす「お松明(たいまつ)」(長さ約6メートル、重さ約40キロ)の炎が夜空を焦がした。

14日まで毎晩ともされる。

 午後7時過ぎ、お松明を担いだ童子10人が練行衆を先導して堂へ上がり、堂の舞台を走って欄干から松明を突き出したり、回転させたりした。火の粉をかぶると無病息災で過ごせるとされ、詰めかけた参拝客から歓声が上がった。

 修二会は大仏開眼と同じ752年に始まり、今年で1265回目。練行衆は15日未明まで、人々に代わって十一面観音菩薩ぼさつに懺悔(さんげ)し、国や人々の安穏を祈る。

         2016年03月02日 Copyright © The Yomiuri Shimbun




神様の数は増えているのだろうか 減っているのだろうか

平安時代では少なくとも1万4000余柱の神さまの名前が記録されている

何処に書いてあるのか?

それは東大寺「お水取り」に関する縁起に記載されていて

実際に僧侶が読み上げ、勧請する場面を聞いたことがあるが

前半は「**の大明神」という読み上げ方をしていて

本当に1万4千余柱の神名を読み上げているかは知らない・・・





◆ 修二会では経を唱える十一面悔過の他に、毎夜19時の

「初夜」に神名帳の奉読がある。

神名帳には日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と

14000余ケ所の神々の名が書かれおり、それを読み上げて

修二会を参詣せよと神々を勧請し、19時頃の「初夜」と

23時頃の「後夜」に大導師の祈願と咒師の四王勧請が行われる。

  《 二月堂縁起より 》


しかし・・・日本全国に祀られる祭神を集めたとしても、おそらく1万4千には

遠く及ばないのではないか・・・

どうして平安時代にそれほどまでの神名を把握できていたのか?

その神々は何処に祭られていると言うのか?

盧舎那仏は答えてはくれないだろうが・・・


私は全国各地に存在する、あるいは存在した【祠】にはそれぞれ

違った名を持つ神さまが祀られていたのではないかと考えている

当時は全国各地から報告させた「神名一覧」のようなものが有った

それを基に東大寺でも勧請していると思っている


ではその神々は今どうなっている?

おそらく、その大部分が不明になっているのではないか

神仏習合の陰で失われたかもしれないし

幾多の内戦で祠そのものが消え去ったかもしれない

名は残されなかったが言い伝えだけが残っているかもしれないし

神さまが鬼に姿・形を変え伝えられているかもしれない

鳥居が稲荷社のようだが、祭神がメジャーな神さまであったり

祭神と神社名が不自然な社とか・・・・


たった一つの言葉ですら、永い朝を経れば変わってしまう現実から

考えれば、しかたが無い事なのかもしれないが

中央の力が強かった場所の神さま【地主神】は淘汰され、失われて

しまったのかもしれないし、同じような神威の神さまは中央の都合で

吸収されて一柱に集約されたかもしれない


失われた神の痕跡が見つけられなければ、永遠に知られることは無いだろう

できる事なら・・・修二会で読み上げられる「神名帳」を観てみたい気もする。


◎  先人の知恵と日本らしさ 

風邪は本懐したようだが、背中・肩の痛みが思わしくない

風呂上がりの短時間だけパソコンの前に座る事ができる

じきに座っていることが苦痛になり、横になる事に・・・

明日から4~5日は今月一番の難工事に着手するため

気力が残っていれば更新する予定ですのでご理解を



さて、日本の地方には【字(あざ)】と言うものが有る

有ると言うより「あった」と言うべきか?

大字(おおあざ)とか小字(こあざ)と呼び、集落などを特定する

地名の一部である


 * これから書くことが間違いであるかもしれない事を一応断っておきます 


未だに記憶に残る広島市の土砂災害

あの土地は、広島市安佐南区 八木地区 と呼ばれていることは

誰でも知っています

どうしてあのような場所を造成して宅地にしたのか、疑問に感じている人もいると思います

あれが天災だったか人災だったかはここでは言及しませんが・・・



私が聞いたある説によれば、あの土地は 八木地区 と呼ばれる以前(かなり昔)には

山羊蛇落地悪谷 やぎじゃらくじあしだに と呼ばれる地区だったそうです

それが何時のころからか 八木上楽芦谷 やぎじょうらくあしや と呼ばれ

その後、 八木 やぎ と呼ばれることになったそうなのです


つまり、昔は蛇が降りるような水害が多かったからともいわれていて

それが 蛇落地 の謂われだそうです・・・

さらに、そんな土地・悪しき谷だから 悪谷(あしだに) と呼ばれたと聞きました


蛇が降りるようなとはイメージできないですが、私の考えでは大雨で山が

抱えきれなくなった雨水が、細い川のように斜面を下った様子から

まるで蛇が山を下りてくるように感じて、先人の方々がそのように表現したのでは

ないかと思っています

大昔の人たちが【土砂崩れが起こりやすい地】であることを警告する

意味で、「字名」に残してくれたのかもしれないと思っています


通説では、字、小字は自然災害や地質、土壌などに由来したものが

多いとも言い、危険を避けるための「知恵」として永く伝えられたようです


それが時代と共に、当て字や読み変え、好字などに変えられて、その痕跡を

留めなくなってしまったと思われます


一例を挙げれば、【梅】 ウメ という読みのある地名は、元は【埋め】だといい

地崩れなどで埋まった土地の可能性があり、地盤が弱いかもしれないといいます


全国で ホケ、フキ、アナ、クラ、カキ、ウメ、ナベ、フタ、クレ、タイ、アリと付く

字・小字の土地は地滑り、土砂崩れがあった土地の可能性があると言う


カワチ、ナダ、ウシ、サワ、フカ、フケ、リュウなどの地名は過去に

大きな水害を経験した土地の可能性が高い


ヒロ、カガ、カチ、スカ、フクラ、アマベが付く土地は過去に大きな津波が

有った可能性があると言う



こういう事を言っている今も全国各地で宅地造成が行われ、先人の警告

が消されている土地が増えているかもしれないです・・・

言霊の国・日本では、好い字義の文字が好まれて使われていますが

好い文字の地名が「危険な土地」であったことを隠すことにもなりかねません


この日本は先人たちが「音(ことば)」で子孫に伝えてきた文化があり

簡略化や好字化で地名が失われることは、日本が失われることであって

先人の知恵や教えを蔑ろにすることであると私は思います


自分達の身の回りにある「日本らしさ」を守る事から始めなければ

ならないのかもしれないと、つくづく感じています。

◎  壬申の乱は後継争いではない 


天皇新平天下。 初之即位。 由是唯除賀使。 以外不召。

( 天皇 新たに天下を平らげ 初めて即位す 是によりて

 ただ賀使を除きて 以外を召さない )

壬申の乱の翌年 673年8月25日 の記事である


これは天武朝が耽羅(済州島)からの使者(弔問使)に対しての発言と

思われるもので

天皇新平天下 という言葉には大きな意味があります

この言葉は天武天皇は天智天皇の後継では無く、新たに天下を

平定したと明言しているのだ

つまり壬申の乱とは天智天皇の後継争いの戦ではなく、天下取りの

戦だったことを意味しているのです


では 天武天皇は何処から来た何者だったのか・・・・

おそらくは東国から来た、ヤマト建国後に東に移り住んだ神(王族)

の末裔かもしれない・・・



伊勢が注目され好待遇を受けたのは持統天皇からである

私は伊勢は外宮が先に在り、持統天皇によって内宮が追加された

という持論で通してきた

外宮先拝も外宮がこの地に古くからあったからだと考えられる

祭神に関しては諸説あり、長屋の爺も何度か触れてきたが

内宮のアマテラスと同等、あるいはそれ以上の格の神が祀られている

そうでなければ「食事係」を、あれほど丁寧に祀る意味が理解できないのだ

太陽神(女神)の世話を女神がするということを受け入れるにしても

そうであるなら内宮の傍らに【境内社・摂社】として大きく祭れば済むことである

外宮のような広大な敷地に祀られる神が「食事係」であるはずもない



豊受大神が西の神なら、アマテラスは東の神であったか・・・

豊受大神は仮の祭神だと感じている

外宮祭神は伊勢地方かヤマト周辺で崇拝されていた太陽神の可能性が高い

その太陽神を隠し、豊受大神を祭神にして、新たに内宮を設けて

天武天皇が崇拝していた神を据えた・・・それがアマテラス


天武朝以前にアマテラスがヤマトで崇拝された痕跡がない

現実には記紀において、もっともらしく飾られた不可解な皇祖神として

歴史に登場してからであり、持統天皇が伊勢に迎えてからなのである

伊勢にあるいはヤマトで崇拝されていた太陽神は【アマテル神】だった

と私は思っている

単なる漢字の読み違いではない

天上に君臨し地上を照らすならば 天上で光り輝いていなければならない

天上で照る神だから アマテル であり、地上から天上を照らすから・・・

アマテラス なのである


アマテラスそのものは太陽神ではない・・・というのが私の自論だ

だからと言って伊勢神宮を否定する気などない・・

感謝し祈る対象の【神名】など大した問題ではないと思っている


この日本でも易姓革命はあったという推理でしかないが、なぜ御寺(泉涌寺)

に天武系の位牌が無いかという理由にもつながる推理である

じつは天武天皇による易姓革命(壬申の乱)以前にも、易姓革命が起こっていた

可能性がある

乙巳の変(かつては大化の改新と呼ばれた)において、天智天皇が行ったのも

見方を変えれば易姓革命の可能性がある

日本の天皇史は書き換えられている可能性すらある


武士や貴族に限らず、自分の出自を良く見せたい、飾りたいと思うのは

人間の性(さが)である

ましてや日本の頂点に立つ天皇の史実を飾るのが当然であり、貶める

事の方が異常なのではなかろうか・・・

万世一系で飾りたい気持ちと、滅ぼした相手は賛美したくない気持ち

その両方がないまぜになった物が天皇史であり、記紀神話ではなかろうか

根拠の無い妄想に近い推理だが、言った者勝ちも時には「あり」だと思う

ちなみに 伊勢神宮内宮が作られたのは706年 だと私は思っている

その新しさを隠すために「遷宮」という常に新しくするシステム(口実)を

残したのだと思っている

アマテルをアマテラスに読み替え、遷宮という新しさを維持するシステムづくり

じつに持統~不比等は知恵の回るコンビと言う事だろう・・・・。

◎   定休日 

お休み 3


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