不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  国家元首としての能力、威厳と矜持 

この日本で東宮・天皇に庶民の怨嗟の声が響いたのは、過去では

葛城皇子(天智天皇)が知られるところである

かつてヤマトの国では群臣の推挙があれば即位できた

いかに群衆(庶民)が怨嗟の声を上げようとも、結果が変わることは

無かったかもしれない

群臣とは現代の政府要人、皇族、国家中枢に居座る有識者たちだ

今は・・・皇室会議と呼ぶようだが

葛城皇子の時代は民衆の声が群臣に多大な影響を与えたようだ

それでなければ、葛城皇子とは誰の目にも「不適格者」「継承無資格者」

だったことになる

今の時代と違い「やんごとなき身分の方々」の実情など庶民が知る

機会などほとんど無かったのではないだろうか

そうすると、当時は皇子に関する情報が公開・流布されていたことになり

その声を無視できないだけの大きな理由が存在したと思える

私は【乙巳の変】とは日本版・易姓革命ではなかったかと考えている


古代豪族の集まりによる共同統治から、限られた一族による革命

言葉では革命だが、クーデターであり、権力の強奪、下剋上の様相だ

その過程で起きた「蘇我本宗家」に対する権力の強奪こそ

「日本版・易姓革命」だったと考えられないだろうか・・・

日本の天皇がすべて「明晰(めいせき)・鋭敏(えいびん)」だったとは

思えないし、人生いろいろ、人それぞれだっただろう

しかし、多くの庶民からNOを突き付けられ、陰で誹(そし)られた皇太子は

葛城皇子のほかに見当たらないのである


能力の問題だったのか、出自の問題だったのか・・・

今となっては知ることはできないが、その両方だった可能性もある


現在、巷間を賑わしている「東宮問題」を観ていると

どうにも歴史の「あや」を感じてしまう

能力問題しかり、出自問題しかり・・・・・・

それが全て真実かどうかは知らず

万が一、そうであるなら現代版・易姓革命ということになる

(明治天皇別人説というのもあるが、それとは関係なく)

乗っ取るのは何の血筋なのか?

文才があれば、面白おかしく書籍にできるのだが残念である (不敬?)


今回は日本の天皇を誇れない印象を持った比国旅行だったが

居るだけで良い「象徴」なら、それでも良いと思っていたが

国家元首として、日本神道の長として、諸外国に出向かれるなら

早急に定年制も視野に入れ、皇室問題・天皇問題を政府が腐心

するべき時ではないかと感じた


観ていて「恥ずかしい」印象を持ったのは、私だけであろうか?

毎度毎度の「奇異」な装いの皇后、年金暮らしの庶民より簡素な

装いの国家元首


外国人は日本の国民は国家元首に粗末でみすぼらしい恰好しか

認めない冷酷な人間ばかりかなのと思いはしないか・・・


老醜をさらす・・というと不敬・国賊と言われそうだが、正直私はあの

映像を観て「老醜・醜態」しか汲み取れなかったのである



もうそろそろ解放してあげても良いのではないか?

曝しものにするにはあまりに気の毒である・・・

いっそヒートショックで・・・と不埒な妄想をしたのも事実であるが


私たちがどんなに心を痛めても、群臣(政府幹部)は自ら動くことはしない

誇りある日本人なら、天皇の引き際を綺麗にしてあげることも、臣たる者の

務めではないかと考えている

総理大臣が国家元首でない最大の理由は、国民のためと言いながら

政治理念・経済以外に真剣にならない言動が示している


国家元首とは国民のトップであり、国の顔であり、国の誇りを守る長であり、

日本の安寧と繁栄を祈る祭祀王なのである



その条件・資質に相応しいかどうか・・・

群臣の日本人度が試されるのかもしれない。
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◎  死んだ者生き残った者 そして天人相関 

気象も政治も我が家のPCも・・・

何とも心配な長屋の爺である


我々世代は概ね「天皇観」に温度差がある

天皇・皇室不要論を持つ者もいれば、天皇信奉者も居る

日教組教育の真っただ中で育った世代である

我々が子供の頃、小学校教諭の中にも「元特攻隊員」がいたり

復員教師も多くいた

その皇国思想や自由主義思想の「ごった煮」の中で、幼少期を過ごした

のだから、左翼思想に走ったりする者も多くいた

大学紛争の後半期から最終期にかけて、同級生が何人も「官憲の厄介」

になったのを記憶している

私も何度か誘われたが、彼等の理論に一部納得できないで拒絶した

彼等の論理には「先人の命」は何処にも存在しない

戦争を引き合いにするくせに、犠牲者という観点からしか「先人たち」を

観ない偏向さに嫌気が起こったと言うべきかもしれない


私の亡父は戦後「軍人恩給」の手続きを一切しなかった

父がどんな思いで「受給」を拒否したのか、誰も知らない・・・


父は生粋の日本人、日本男児の見本のような軍人だった

誰にも恥じない「奉公」をしただろうと思っている

そんな父が権利を行使せず、口を閉ざした戦後期は誰かの分まで

生きようと、もがいていたのかもしれない


戦友や部下の命と引き換えに、自分だけ「命と共に恩給」を貰う事を

潔しとしなかったのか・・・・・あくまでも私の推測に過ぎないのだが


以前も何かで書いたと思うが、父は戦争体験を子らに語る事は少なかった

晩年になって思い出したかのように、ポツリと漏らすことは有ったが・・・

家訓のように口癖だったのは・・・・

* シナ人に背中を向けるな

* 朝鮮人の言葉は信用するな

記憶に残る逸話で、大陸の村へ食料の調達に行ったとき、交換する

物資を渡し「食料」を受け取り、引き上げるときに「温厚な村人」と思った

その家族は隠し持っていた銃で背後から撃ってきたという

シナ人は国民全部が兵士であり、ゲリラ戦闘員だと思い知らされた

そういう事だろう・・・

またある時、シナの軍隊と銃撃戦になった

父は「野砲」の分隊長(軍曹か曹長)だったと記憶している

最前線の少し後方から「援護」する役目である

故に後方は日本軍ばかりのはずだったが、いざ戦闘が始まると

後方から自分めがけて銃弾が飛んできたそうだ

戦闘中であったので、任務を優先し砲撃指示を続けたそうだ

突然遭遇した敵兵と交戦する以外に、砲兵隊の後方に詰める兵士が

前方に銃を撃つことは稀である

戦闘終了後に後方を確認したところ、配属されてきた兵隊(二等兵)

が朝鮮人だったそうだ・・・

それを目撃した日本人の部下が証言した

結果、父は制裁は行わず、以後その朝鮮兵士を自分の前に立たせたそうだ

「お前の敵は日本兵ではない、前に居るシナ兵だ!」

その朝鮮人が以後どのように過ごしたかは知る由も無い・・」


「銃弾は前から飛んでくるとは限らない」

「友軍の弾に当たって命を落としたこともあっただろうな」

遠い地を観るような眼で、酒を呑みながらポツリと漏らした言葉である


私がそんな昔を思い出したのは、両陛下が比国の慰霊旅行に出かけたせいかも

しれないが・・・


知らない間に私の周りでも、しだいに天皇や次期天皇の話題をする者も

出てきたのである

その話題の中心は「靖國」である

「どうして靖國に参拝をしないで戦地への慰霊の旅をするのか?」

「外国の独立運動の英雄に首を垂れるのに、どうしてこの国を守って死んだ

英霊に頭を下げられないのか?」

「そんな天皇なら必要ない!」

「税金を惜しくないと思うだけの言動を率先すべきだ」

「なんで皇太子は一人で公務をしているのだ」

「仕事(公務)をしない者に税金を使うな」


正直驚いている・・・・

普段皇室など言葉のはしにも出さない爺どもが、憤懣のやり場のない

言葉を出すようになった

これも、私たち世代もネットになじんできた結果かもしれない

最初のころ(15年前)はパソコンもネットも、自分には無縁と決めつけて

話題にもせず、興味も示さなかった同年代の男たちが、今ではほとんど全員が

パソコンと共に生活している

新聞のウソやテレビの偏向報道に気づき、視聴する番組まで変わった人間もいる

ネットが最高の媒体などと言う気はない

ネットも使い方次第では「優れた発明」にもなるが、使い方を間違うと「危険なアイテム」

ともなってしまう、要は人間次第と言う事になる


私は今・・・災害を心配している

占いを否定する爺が天人相関というと笑われそうだが

政(まつりごと)が正しくないと、大火災・大地震・異常気象が起こる

政とは祀り事でもあり、祭り事でもある

寺社の復興や祭礼の勧奨など祭祀王としての務め(施政)、それを忘れ

祭礼・儀礼の簡素化・形骸化を容認するは天の怒りをかっても当然の所業だ

政も天は観ていることも顧みず「賂を受け取る醜態」では、天の怒りは

如何ばかりであることか・・・・


政と祀り事は一心同体、天によって生かされていることを軽視する者に

天の判断はどのような形に現れるのか、心配でならない

その結果を全身に受けるのは「庶民」に違いない


国民の不幸を引き起こすものに、立ちはだかるから祭祀王なのである

他国の民に思いを寄せるのが日本国の祭祀王の務めではない


そう確信している長屋の爺である。

◎  複雑な思い 全国から若い女性が殺到 

刀剣女子:本物の「へし切長谷部」に会いたい…その場所は

◇全国から若い女性が殺到、福岡市博物館に

 福岡市博物館(早良区)が所蔵し、今月31日まで期間限定で公開している福岡藩主・黒田官兵衛ゆかりの国宝の刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を見るために、全国から「刀剣女子」と呼ばれる若い女性が殺到している。実在の名刀をイメージした美形の男性キャラクターが戦う人気のオンラインゲームに登場する、忠誠心の強い戦士「へし切長谷部」の本物に会うのが目的だ。

 平日の午後、企画展示室に飾られた圧切長谷部の前には、携帯カメラを手にした若い女性たちが群がっていた。「やっと会えました。凜(りん)とした姿で俺を見てくれ、と言っているようでした」。落合光さん(24)は、長谷部を見るためだけに東京から日帰りで訪れたという。

 圧切長谷部は、南北朝時代の刀工・長谷部国重が作り、1575年、官兵衛が織田信長に毛利攻めを進言した際、信長から与えられたとされる。以来、黒田家の家宝として受け継がれ、1953年に国宝に指定された。

へし切長谷部


 市博物館は毎年1月に1カ月限定で公開しているが、見に来るのはほとんどが男性の刀剣マニアだったという。ところが「今年は9割以上が20〜30代の女性。客層の変化に驚いている」と学芸課の堀本一繁さん(48)。5日の公開初日から20日までで、昨年の期間中の見学者数(約6000人)を大きく上回る約1万7000人が見に来た。約2000人が訪れた日もあり、刀の前には4時間待ちの長蛇の列ができた。

 人気の兆しは、昨年1月の公開時終盤から見られたという。突然女性が目立つようになったことを不思議に思った堀本さんが調べると、刀が美男子の戦士となり戦う女性向けのオンラインゲーム「刀剣乱舞(とうけんらんぶ)−ONLINE−」の配信が始まったばかりだった。

 ゲームの中で「へし切長谷部」は主人(ゲームのユーザー)に忠実で、戦闘になると荒々しいキャラクターとして描かれている。昨年の公開終了時には、次の公開時期の問い合わせが殺到した。

 今年から企画展示室で写真撮影を解禁しており、圧切長谷部の写真がインターネット上で拡散したことも人気を後押しした。堀本さんは「ネット上での写真のやり取りや、ゲームだけでつながっている人同士が待ち合わせて入館するケースもあるようだ」と話す。

 女性向けゲームなどについて研究する中部大人文学部コミュニケーション学科の尾鼻崇助教(37)は「従来のキャラクターはゲームの中でしか存在しないが、実在する刀剣がモチーフなので本来の姿に会えるという感覚を引き起こし、刀剣自体や歴史的背景にも興味が広がり、刀剣女子の現象につながっている」と分析する。

 同博物館は31日の公開終了後、2月2日からは同じく黒田家ゆかりの国宝の太刀で、ファンの間でキャラクター化を期待する声もある「日光一文字」を公開する。【末永麻裕】

 ◇刀剣乱舞−ONLINE−

 「和泉守兼定」や「堀川国広」など、実在の名刀が戦士の姿になった「刀剣男士」を強化し、合戦場で敵を討伐するオンライン上のシミュレーションゲーム。通称「とうらぶ」。2015年1月14日に配信が始まり、ユーザーは150万人以上。10〜20代の女性を中心に、アジア圏などでも人気がある。圧切長谷部に限らず、ゲームに登場する刀を展示している各地の博物館などにファンが殺到している。


喜ぶべきだろうが・・・驚きと戸惑いを感じているというのが本音かもしれない

たしかに昨今の「歴史ブーム」に感化された「歴女」など、女性ファンが

多くなったことは歓迎すべきなのだろうが

世の「オトコ」たちはいったい何をしている・・・という気持ちもある


この福岡博物館の最大の功績は「写真撮影解禁」ではないだろうか・・

博物館や展示会などを訪れることを楽しみにする日本人は多いが

つねに不満となるのが、見学した「あかし」「思い出」を写真に残せない

もどかしさではないか・・・


そういう意味でどんなに宣伝しても、ブログで「行ってきました」と報告しても

臨場感や熱が伝わらない原因でもある

「見せてやっている」から、「観てください」への変革が求められているのではないか

私はそう常々感じているが、どうなのだろう?


特に「拝観料・入場料」を徴収するなら、写真撮影(フラッシュ禁止)を許可しても

良いのではないか・・・

そうすれば拝観料が少しばかり上がっても、拝観希望者は増える気がする

目の保養が目的の人ばかりではない

経費をかけて「宣伝」するより、既拝観者の「口コミ+画像」で興味を持つ

人も多くなるのでは・・・


日本の伝統・文化を広く知ってもらうには「変わらなければ」いけない

時代なのかもしれない・・・・。


 【へし切長谷部】 

「へし切」の由来は、信長の怒りに触れた茶坊主が、膳棚の下に隠れたのを観て

信長が膳棚ごと圧(へ)し切ったことに由来する

作者は 山城国 長谷部国重 といわれ、正宗十哲の一人

国重は相模の刀工・長谷部国光(新籐五国光)の子とされる


茎(なかご)の裏に彫られた銘(金象嵌)に【長谷部国重本阿(花押)】とあり

本阿弥光徳が国重作と認定している

茎(なかご)の表には【黒田筑前守】と彫られている

もしこれが黒田如水が信長から拝領したのなら、表名は後から彫った物

裏名は最初は無かった・・・ということで、本来は【無銘】の刀剣だろう


日本には名が刻まれていない「名刀」は数多く、それが世に出たことのほうが

価値があると考える

歴史マニアか刀剣愛好者なら納得だが、若い女性が「圧し切り」に熱い視線を

送っていると思うと・・・何やら複雑な心地である。

◎  遥拝と参拝の謎 

昨日は記事を書いている途中、強烈な睡魔に襲われ寝落ち寸前で

何とも中途半端な更新になってしまった



さて、現在の天皇より9世紀の天皇は「権力も威信」も持ってなかった

仏に縋りつつ、皇祖・アマテラスに憑(たの)むことしか希望は無かったのかもしれない


ところが、この「毎朝御拝」は神事と言うだけではないらしい

通説では、遥拝は神宮~内侍所~諸社~北斗という順になっている

この北斗こそ仏教、あるいは陰陽道に深いかかわりがあるという

神事が神道だけでなく、仏教や陰陽道も取り入れられていたと言う事実

私たちが信じて疑わなかった「皇室祭祀」の裏側を知る思いである


ともかく、皇祖・アマテラスが「私と思って」と言った【神鏡】が寝室に

しまい込まれていて、拝されることが9世紀後半まで無かったと言う事実

には驚かされた

この神鏡は【八咫鏡(やたのかがみ)】と呼ばれ、記紀にもハッキリと

「この鏡を天照大神自身だと思って祀るように」との神勅が下されたとされる

その神勅は天皇自身が守っていなかったということになるではないか・・・


そもそも、天照大神が祖神であるならば、どうして天皇家に災いが及ぶとし

宮中から追放し放浪させたのか?

伊勢神宮にある鏡がアマテラスが託したものなら、アマテラスの分身である

神鏡を神宮に納めたまま、千数百年の年月天皇は参拝しなかったのか?

皇祖・天照大神は「自分と思って祀れ」と言い残したのである


失われた歴史の記憶があるtならば、伊勢には参拝できない(しない)理由が

8世紀以降、天皇家には伝えられていた可能性もある




なぜ明治天皇はその慣習を破って参拝したのか?

これは都が平安京から江戸に遷都されたことに答えがありそうだ・・・

(今知られている通説など、後出しじゃんけんのような説ばかり)


神宮に歴代天皇が参拝しなかった事実と、現在靖國に参拝しない天皇と

何処かで繋がっているのだろうか・・・・

天皇及び皇族が靖國には参拝しないが、皇族とは無縁の私たちは参拝する

江戸時代までの天皇・皇族は伊勢には参拝しなかったが、皇統以外の人間は

伊勢に参拝した

敬っていれば参拝しない方が不思議な事なのである

ましてや自分達の祖先が日本最高の神として祀られているのだから

率先して参拝するのが常識ではないか?

祖神ならば・・・・


行かない理由は「祟り」「ケガレ」の地だったからではなかったか・・・


私は、伊勢に祭られている神は古代日本の統治者であったと思っている

その神が祀られている地に足を踏み入れないのは、皇統の仇敵か怨霊

が祀られているからという事も考えられる

好ましからざるモノが祀られているから、遥拝はできても参拝はできなかった

戦地で慰霊はできても、靖國には行かない理由に通じている気がする


不敬と言われそうな妄想であるが、歴代天皇の行跡、言動を知れば知るほど

不可解さだけが大きく膨らんでくるのである

◎  天皇が願い頼んだ時代 

宇多天皇 

この天皇の名をできれば覚えてほしい

略歴は以前書いたが、もう一度記してみたい


第59代 宇多天皇

御名 定省(さだみ) 884年臣籍降下し 源 定省 と称す

中務省の侍従職に就いていたことから【王侍従】と呼ばれた

光孝天皇の在位中に天皇の意に依り源姓を削り、親王に戻り

翌日、天皇は定省を皇太子に立てた後、崩御した


天皇の皇子(親王)が臣籍降下したのちに即位した例は無く

宇多天皇が唯一の例外天皇である

この当時は太政大臣である藤原基経の時代であり、降下した親王が

天皇位に就くことなど考えられないが、これは一人の女性が動いた結果

と言われている

【藤原淑子(しゅくこ)】

太政大臣・藤原基経の異母妹で、後宮を束ねる長官 「尚侍(ないしのかみ)」

尚侍は通常五位相当の官職、最高位 従三位であるが、淑子は宇多天皇によって

正三位から従一位に叙せられ、信じられないほどの破格の扱いを受けた女性である


事の経緯は以下のようだ・・・

第58代 光孝天皇が崩御した直後、淑子は皇位継承のしるしである【剣璽】

を定省に自ら渡し、基経をけん制したとされる

このように定省は21歳の若さで皇位に就いたが、基経の憤懣は大きかった

その後、「阿衡事件」 〔三顧の礼と阿衡(あこう)に詳しく書いた〕が起き

宇多天皇と藤原基経の仲は最悪となる

菅原道真の登用や新撰字鏡、類聚国史、寛平の御遺誡などでも

知られる天皇である (道真は天皇と仏教(密教) 二 に書いています)


私が着目しているのはこれではない・・・

即位した翌年、888年に画期的な神事を始めたことである

清涼殿に設けられた【石灰壇(いしばいのだん)】と呼ばれる床に

天皇自身が下り、四方の神祇を拝礼したのである

これを【毎朝御拝】という

明治以降、この神事は掌典長や侍従による【毎朝御代拝】に

とってかわられたモノである

明治までは天皇みずから行っていた神事である

その神事を始めたのが宇多天皇と言う方だった

しかし・・・

この神事の注目すべきところは、天照大神の「神鏡」に対し拝礼した最初の天皇

だったと言う事にある



それまで「神鏡」は箱に納められて天皇の寝室(夜御殿)に置かれていた

夜御殿には剣璽も置かれていて、三種の神器がすべて夜御殿にあったのである

そのうちの神鏡だけを取り出して、別の御殿に移したことは大きな意味を持つ

天皇が天照大神の子孫であることは定説であっても、その実態のない扱いが

臣下に翻弄される状況になっていると考えたのか?

神鏡を移したと言う事は、天照大神に憑(たの)むことで天皇の威信を

取り戻したかったからではないかと思えるのである

       《次回に続く》





◎  縄文の女神のおしゃれに拍手 

   「縄文の女神」がマフラーで冬の装い 県立博物館前モニュメント

山形市の県立博物館正面にある国宝「縄文の女神」のモニュメントに、手編みのマフラーが巻かれた。
雪が降る中、温かな装いで来館者を出迎えている。
 モニュメントは実物の約5倍で、高さ約2.2メートル。
2012年に設置した。
「寒そうだね」という来館者の声を聞いた同館関係者が家族に依頼。
女性らしく華やかなピンク色のマフラーを編んでもらい、今月10日ごろに身に着けた。
防寒対策ばっちりの縄文の女神に、霞城公園を訪れた人たちは足を止めたり、記念撮影をしたりと興味津々の様子。
星和彦副館長は「ぜひ館内の展示物も見に来てほしい」とアピールしている。

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(国宝 縄文の女神像 実物)

こういうのも日本人が「お地蔵さん」に頭巾やよだれかけ、笠を着せるのと

気持ちは同じかもしれない

石で造られたモノに、服など無用というかもしれないが

全てのモノに神が宿る

日本人のDNAに刻まれた「こころ」の表現だと思いたい

私の中では「縄文」はまさにブームであり

奈良・平安よりも時間を割きたい心境なのであるが

古代ロマンを通り越して「迷宮」の様相である

もし・・・私に「文才」があれば、縄文の世界を題材にした

物語でも書いてみたい(あくまでも願望だが)と密かに

考えているが、絶対条件である文才が無いのだから

夢のまた夢・・・と言う事でしょう


奈良・平安は多くの作家が物語として形にしているが

古代縄文は数が少ないのではないか

ロマンがあり過ぎて、設定するにも神話じみてしまうからか・・

考古学の書籍などの史料があるとは言っても、解っていない部分が多すぎる

そういう意味でも、少ない参考文献を頼りに文才も表現力も無い素人には

無謀を越えて「気じるし」と思われてしまいそうだ(笑)


夢は寝てみるもの

たしかに、そうなのだが・・・ 

私にとって非現実的なことだから【夢】なのかもしれない。

◎  この地方でも雪が降った  

朝 カーテンを開けたら、暗闇の中で深々と雪が降っていた

本日は仕事なのだ・・・・この地方で雪が降るのは年に一日程度である

故に「スタッドレスタイヤ」などあるわけがないw

おまけに買い替えたポンコツは「後輪駆動車(FR)」だ

駐車場は10センチ程度だが、朝6時半の時点で自宅前の道路を走行した

タイヤ痕はたった一台だけ・・・パウダースノー状態だ(喜べない)

しかし今日の仕事はかなり面倒な現場で中止は考えられない

6時半 出発する

時速15キロくらいで慎重に運転する (雪国育ちなので雪道は得意)

決して下り坂でフットブレーキは踏んではいけないと集中する

サイドブレーキで徹底的に減速してから柔らかく踏む、ブレーキランプが点く程度

(後続車はブレーキランプを観て車間を確保するので必須)

いつもはらくらく上る坂道が「登れない」

ようやく登り切ったらその先は渋滞中・・・

モンローばりに「お尻を振り振り」登ってはみたが、この先にはさらにきつい坂が

三か所もある

何とか下って大きな駐車場があるコンビニへ乗り入れる

時間は7時ちょうど・・・普段5分もかからない場所にたどり着くまで

30分を要した

道路上の雪が走行車の排気温度で溶けない限り、ラジアルタイヤでの走行は

かなりリスキーだ

シャーベット状の残雪が跳ね飛ばされて、アスファルトが露出すれば、ラジアルでも

何とかなると分析する

8時まで様子を見ながら、コンビニ駐車場で休憩(コーヒーを買いトイレ休憩)

8時過ぎになってかなり路面が出てきたのを近くまで行って確認する

出勤再開

車の数自体少なかったが、それなりの渋滞にはまり、9時過ぎに到着

平日の朝なら1時間弱7時20分ころの到着だが

途中一時間の休憩があり2時間45分の時間を要した(疲れたw)

雪に弱いのは都会だけではありません

地方も負けず劣らず、雪には弱いようです

来週も雪の予報(予想?)ですから、気分は憂鬱・・・


楽あれば苦あり 正月気分にカツを入れられた(壱番屋ではないです)

しっかりと先人の言葉を肝に銘じたいと思います


仕事の方も、いくつもの手違いがあり、10時開始で昼食抜きで

3時過ぎに終了・・・帰宅は5時。

先ほど夕食(昼食兼用)を食べている途中、箸を持ったまま「うたた寝」

自分でもおかしくて・・・笑ってしまった。

何時の間にやら、ご飯も冷たくなっていた(笑)

本日のなが~い夕食の話でした。

◎  国史と天皇 

私はこのブログを始めるまで、日本書紀も古事記も

真面目に読んだことが無かった(笑)

意外と言ってはいけないが、意外にも面白かったのである


ただし・・・国史という眼でみれば、かなり複雑な心境にはなったが

私の中の国史とは、「こうだった」 「こういう事だったのです」 というもの

つまりは国の歴史をきちんと伝える物が国史という前提は瓦解しました


古事記にも日本書紀にも「一書(あるふみ)」という付録がついています

この話にはいろいろな説があります、という注釈が多数あるのです

「事実は一つではない」と言われても、簡単に納得できる話でもなく

それって何なの? というのが正直な感想です


日本書紀を書き残した者も、古事記を書き残した者も・・・

事実を把握してなかったのか、事実を書き残したくなかったのか

いったいどっちなのだ! と思わず突っ込みを入れたくなる(笑)


Aという説とBと言う説があるくらいなら我慢もできるが、中には

「そんなにもあるのかよ」というくらい一つの正文に多くの一書が存在します

これは今で言うところの「週刊誌に載っている噂話をまとめた書物?」と思えるほど

ある説が多数掲載されていて、その内容(記述)も大きな差がある


私には絶対的な「権力」を持った者が作ったものとは考えられないのである

こちらに配慮してAと言う説を、あちらに配慮してBという説を・・・

みんなの面目が立つように最大限の配慮をしましたよ・・・

そんな印象を受けるのである


私はこの国史の姿から一つの仮説(暴論・妄想)を考えてみた

日本という国土が数々の諍(いさか)いや変節を経て、複数の豪族(王家)

による共和国が形成されさらに時を重ね、有力な豪族が衰退したのが

乙巳の変から壬申の乱に到ってだろうと考える

その時代でも相変わらず天皇は絶大な力を有してはおらず

豪族(貴族)の合議によるところが大きかったと思える

その貴族が大きな力を独占しようとするときに、そのシンボルとなる

大きな姿が必要となり、形ばかりの「権威」として天皇位が構築された

全ては合議から独善への過渡期に作られたのが日本書紀という

書物(国史)ではなかったか・・・


天皇が絶大な力を有していたと思うのは、日本書紀の記述から

そう信じているだけで、それを疑う記述も多数ある


例えば、天皇の即位は「群臣の推挙によって決まる」とされること

群臣が反対すれば即位は叶わず、反対する者を粛清若しくは翻意させるしか

皇位継承は不可能だった

日本の統治は絶対君主によるものは、どんな時代でも無かったと思っている

平安に至っては藤原が牛耳る統治制度が顕著だったが、大陸を振り返っても

頂点に君臨する者は、いつの日か新たな力によって滅ぼされる

そうなれば天皇の近くに居る有力な群臣も同じ運命を辿る可能性がある


その易姓革命を防ぐ意図をもって、書記に明記した文章がある

【天照大神が言うには、「地上の国は我が子孫が王となるべき国である。

瓊瓊杵尊よ、行って統治してきなさい。皇位は天地と共に、滅ぶことなく

栄えることでしょう」】

日本は神の子孫が統治する国・・・

天照大神の末裔だけが統治できる・・・

だから群臣が易姓革命やクーデターを起こしても、統治できないし

民は認めませんよ・・・

そういう事なのではないだろうか(笑)


そうは言っても人間の考えることは計り知れないもの

保険的に各豪族の地方で言い伝えられている「神話」「定説」を

一書という形で残し、群臣に配慮した結果が「あるふみ」だった気がする


逆に考えると、日本書紀編纂の時代は「通説」のように、天皇を

頂点とした絶大なる権力は定まっていなかった

藤原が権力を握るまでは、天皇と言うのは不安定な存在だった

そんな可能性も考えられると思っている

祭祀王としての天皇家は、仏の奴(仏教徒)になったのち時を経て

本来あるべき姿、祭祀王として戻ってきた

その祭祀王が今度はいかなる宗教の信徒になるのやら・・・


天皇だから敬われるのではない

民と国のために祈る祭祀王だから尊ばれるのである

長屋の爺のこんな言葉が虚ろに感じる今日この頃である。

◎  人の心と鬼と神 

ネットのニュースでも「廃棄食品」の横流し問題と

「スキーバス事故」で大変な状態である

でも、考えてみれば今回の責任者(容疑者)たちは

日本で良かったと思うべきだろう

他の国なら暴動、打ちこわしなど目を覆うような事態に

発展したかもしれないのだ

日本人はこんなところにも「日本人らしさ」を前面に出すようだ

こういう不正は日本人消費者の感覚からすると「大罪」である反面

何かの力によって抑えてしまうのか、素早く自制する性質がある


「お天道様が観ている」のにもかかわらず、愚かな犯罪に走ってしまう

のは、日本人の心を忘れたか最初から持っていなかったとしか思えない


日本人の心を失くしたから「悪道に足を踏み入れた」のであって

誰か(お天道様か神さまか)知らないが、必ず観ているから悪事は

露見してしまったのではないだろうか



「誰かが観ている」とは、忘れてはいけない日本人の心の戒めなのである


食の安全と人命において、「つい」「気楽に」「深く考えないで」では済まない

長屋の爺にとって、今の日本に蔓延する【お得】【儲かる】【自分だけは違う】と

いう風潮にはどうしても馴染めないのである


鬼を祓うというのも、考えてみれば日常忘れている「本性」を

思い出させるために、「悪行」を戒める意味で神さまが演出

しているのかも・・・


本来、日本では 神=鬼 だったといわれている

豊漁・豊作を齎してくれれば「神」と呼び崇拝するが

嵐を起こし大雨を降らせれば「鬼」と呼んで邪険にする

神であっても不都合になれば、「鬼」と呼び嫌い追い払うのが

人間なのである


私は鬼とは神さまが見せる「人の本性」ではないかと考えている

人間が自分の事ばかりを考えて、周りを顧みない時に、人間の

本質を気付かせるために、鬼という形で現れる・・・・


祟る(たたる)から「鬼」なのではない

祟るとは理不尽にも命を落とした者の「声なき声」を教え諭すために

神さまが本質を忘れた者に「見せる姿」ではないか

・・・・そんな妄想をしている

鬼とは本来「怨(おん)」を呑んで亡くなった故に 【怨異 oni (オンイ)】

と呼ばれ、その後「オニ」と呼ばれ、そこから「鬼」になったと勝手に思っている


* 異 とは「鬼の形をしたものが、両手を上げた恐ろしい姿」の事である


悪事を働いたり、道を外した者は、少なからず「怨み」を持たれる

その心に「本性」を思い出させるために、見える形で「神が出る」

それが「鬼の正体」だと思っているのである。


節分会の鬼が怖くないのも、そんな理由からだと独りごちる長屋の爺です(笑)

◎  天皇を神にしたがる日本人 


私は読者が考えるような信心深い人間ではない

自宅の神棚に天照皇大神、氏神、などを拝しているが

アマテラスが女神だとは信じていないし、現存の神社でも

疑う気持ちで観ている物も少なくない


理由は簡単で、今の神社とは明治の政治的思惑で整備され

飾り立てられたものが多いからである(例外はあるが)


白峰宮(しらみねぐう)

讃岐の白峰寺(しろみねじ)に祀られていた崇徳院の霊を

1868年(慶応4年)に京都に移し祀られた

さらに淡路廃帝(大炊王)が、明治6年に合祀された

昭和15年、白峰神宮と改称された


水無瀬宮(みなせぐう)

承久の乱で敗れて配流された三人の上皇を祀る神社

隠岐に流された 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)

阿波に流された 土御門上皇(つちみかどじょうこう)

佐渡に流された 順徳上皇(じゅんとくじょうこう)

明治6年、畿内に戻され水無瀬宮に祀られた

昭和14年、水無瀬神宮に改称された


橿原神宮(かしはらじんぐう)

明治23年、日本書紀のいう神武天皇即位から2500年

の節目の年であることから、橿原神宮に祀られた

そもそも神武天皇と言うのは「忘れられた天皇」であった

明治になるまで、山稜など何処が墓所かもわからない状態だった

天皇家が人皇初代の神武天皇を意識していたかなど疑問と言える

現在の神武陵・山本ミサンザイ古墳ですら不可解なのである


平安神宮(へいあんじんぐう)

明治28年、平安遷都から千百年にあたることから、記念事業として

桓武天皇を祭神として創建された神社

贅を凝らした本殿、拝殿、応天門を模した神門などが一万坪の敷地

に復元された

昭和15年、平安京最後の天皇・孝明天皇が合祀されている


明治神宮(めいじじんぐう)

大正9年、明治天皇・昭憲皇后を祭神として創建された

明治期から続いた天皇の神格化の最終形といえる神社である

今の時代なら「神とは何ぞや」と思う人もいるだろうが、この時代は

それが当然と言う認識だったのかもしれない


近江神宮(おうみじんぐう)

昭和15年、天智天皇ゆかりの地・大津に創建された神社

日中戦争の最中であり、翌年には真珠湾奇襲が行われた

政治目的とも受け取れる創建には、誰かの思惑が反映された

可能性すら感じてしまう

なぜ天智天皇だったのか?

その答えは不明だが、藤原の末裔とされる者たちの意思が

形になったのか・・・そして壬申の乱が政治クーデターではなく

大化の改新と呼ばれた事情ではなかったか・・・


怨霊として祀られた天皇以外で、神として祀られたのは神武天皇が

最初である

それまでは天皇は人間として、寺院や宮中・黒戸に祀られていた

紛れも無く天皇家は「仏教徒」の家系だった証拠なのではないだろうか

つまり天皇が神として祀られたのは、明治23年が最初と言う事になる



ハッキリ言えば、八幡さまで有名な八幡宮の祭神・応神天皇は

八幡宮とは無関係な天皇なのである(反論はご容赦ください)



香椎宮(かしいぐう)

神功皇后が仲哀天皇を祀るために作ったとされる神社だが

平安時代までは神社として扱われず、香椎廟(かしいびょう)と

呼ばれていた

廟とは祖先の霊を祀る「みたまや」の類である

祖霊として祀ったか、仲哀天皇は神託を信じないで非業の死を

迎えたと言うのだから、怨霊として祀られたのかもしれないが

廟と呼ばれていたからには、神社であるはずがないと思っている



此処まで書いてきて、なんとも不謹慎な爺に思えるだろうな・・・

と思っているけど、本来の神社とは天皇とは次元の違うところで

庶民の信仰を受けていたと思っている

その日本人の古代から受け継いできた「精霊信仰」を政治に

利用し、改竄・捏造した明治期の先人たちに不快感を感じている


私が祭神名に流されることなく、その神社におわす神(精霊)に

手を合わせ首を垂れるのは、そういう意味なのである


二拝 二拍手 一拝 なども、明治に統一(強制)されたものだろう

参拝の仕方が違うなどと他人に言う人は、参拝作法がいつ決められたか

調べてみることをお勧めする

つまりは、どんな形であれ、どんな祭神名であれ、どう向き合うかが大事だと

私は強く感じているだけなのだが・・


どう考えるか、どう解釈するか、どう向き合うかは個人の裁量で

百人居れば百通りの解釈があり、神さまに向き合う術がある


おそらく私のような考えは神道を学ばれた方から観れば「邪道」

であり、暴論であると思う

しかし、答えの無いのが「宗教」であり「信仰」なのだと、長屋の爺流に

思っているのが正直な話なのである

◎  天子に父母なし 


正月らしからぬ温暖な日が続いている

日本は地球は大丈夫なのか?

などと言っても・・何も変わらないけどw


皇統も125代も続けば、いろいろな天皇が居た

【第78代 二条天皇】

御名  守仁(もりひと)

父 後白河天皇 母 藤原懿子

皇后 姝子内親王 藤原育子

この天皇16歳で即位し、23歳で崩御している

性質は一本気であったという

興味深いエピソードが残っているので紹介する

この二条天皇、本当かどうかは不明だが「色好み」とされ

76代嵯峨天皇の后であった【藤原多子(まさるこ)】を

どうしても我が物にしたくて、ラブレターを送り続け口説いたと言う

多子は22歳とは言え、先帝の皇后であり、【皇太后】である

どうやっても多子が受け入れないので、ついに二条帝は多子の

実家(父親)である藤原公能(きんよし)に入内(じゅだい)させよ!

と宣旨(せんじ)を下したという

そこで慌てたのは公卿たちである

会議を開き前代未聞の暴挙を止めさせようとする

 【神武天皇より以降、人皇七十余代に及ぶまで、いまだに

二代の后にたたせ給える例を聞かず】
 


と天皇を諌めたが、天皇はこれに納得せず


 【天子に父母無し 吾十善の戒功によって、万乗の宝位を

たもつ。 これほどの事、などか叡慮に任せざるべき】
 


注釈(自分は過去において十善の戒功を積んで天子となった

 たかがこれくらいのことを、どうして思いのままできない事があろうか)

そう言って、ついに多子を后にしてしまったという


ここで二条天皇はとんでもない事をさらりと言ってのけたのだ・・・


【天子に父母無し】

父母のおかげで天子として生まれてきたのではない

万世一系も顔色なしの二条天皇の言葉

これはアマテラスの血を先帝(父母)から受け継いだのではない

自分自身が積んできた十善戒を保つという前世からの功徳に

よって天子となった、自力で天子になったのであって、父母の血の

おかげで天子になったのではない

言いかえれば、皇統は血筋で続いてきたのではないと、はっきりと

宣言してしまった

血筋による皇位継承を全面否定した天皇なのである



現代の意識からすれば、皇統は血筋という大前提であるが

血統という枠のほかに、「天子は十善の君」という意識は

中世の貴族社会に歴然としてあったと言う事らしい


血によって皇統が続いてきたと言う概念

血の継承が皇室の伝統だという考え方は実態と乖離した

現代人のおもいこみに過ぎないと言う説がある

今私たちが直面する皇室問題に、いささかのヒントになればと

思い出してみた次第・・・・


血筋だけでは天子にはなれないことは歴史に消えた親王・皇子

を思い返せば納得できる

血筋が正統であっても、十善戒(十の善き戒め)を実践できない者は

天子にはなれない、相応しくないと言う事なのである



 【十善戒】 

不殺生(ふせっしょう)  故意に生き物を殺さない

不偸盗(ふちゅうとう)  与えられていないものを自分のものとしない

不邪淫(ふじゃいん)  不倫をしない

不妄語(ふもうご)  嘘をつかない

不綺語(ふきご)  中身の無い言葉を話さない

不悪口(ふあっく)  乱暴な言葉を使わない

不両舌(ふりょうぜつ)  他人を仲違いさせるようなことを言わない

不慳貪(ふけんどん)  異常な欲を持たない

不瞋恚(ふしんに)  異常な怒りを持たない

不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない

◎  日本語のルーツと音の難しさ 

漢字で考える習慣になっている現代人だが

その効能はさまざまである

同じ言葉でも漢字で表記すると意味が凡その処で具体化する

日本語には同音異義語(音は同じで意味が異なる語)が多い

そういう意味からすると、漢字は便利な道具なのだが

その言葉の持つ「本来の意味」が失われていくこともある

その集大成が現代の日本語だろうと思っている


私は古代日本人はいくつもの種族(民族)が、各地域に住み分かれて

いたと考えていて、日本列島の原住民は蝦夷と呼ばれる狩猟民族

だったのではないかと思っている

それを遡ればどこからか流れ着いた移民かもしれないし

ルーツは一つだけではないと言うべきか・・・


九州に天孫が降臨したと言う神話も、結局は九州南部に漂着した

異民族が次第に勢力を増したと言う事だろう

その呼び名の一つに【熊襲(くまそ)】と言うものが有る

熊を襲って食べてた民族のように思ってしまうが、私はこの民族は

海の民だと考えている

クマ とは【私は泳ぐ】 という意味に解釈できるアイヌ語である

さらに、クマソ となれば、【漂流民】という意味になる

(あくまでも私の解釈であるが・・・)

天孫が降臨した地であるはずの九州南部の民が、どうしてたびたび

反乱と言う形で中央に反抗したのか?

もしかすると天孫降臨は九州ではなかったか、あるいは九州にたどり着いた

王族とは違う王家の支配が後になって君臨し、その王家に反抗したのかも

しれない

【隼人(はやと)】

九州の熊襲と同じと言われているが、詳しい事はわかっていない

ハヤト とは、「はるか頂にのぼる」という意味のアイヌ語かと思われる

ハ ヤン トォ 高千穂に降臨したのはおそらく

隼人族の祖ではなかったか・・・・

隼人族の中にもいくつかの種族に分類されるようで、その中の

「阿多(あた)族」と言われる人々が居る

阿多隼人とか吾田隼人ともいわれる人々だ

ア とは自分の事を指したり、自分達の事を指す言葉だ

タ とは採取する、掘ると言う意味であり、なにを採取していたのかは

不明だが、カネ(銅などの鉱石・水銀などか?)だった可能性もある

もう一つ、 アトゥイ という言葉があり、【海】のことである

此処にも 隼人 が海に関係する民である痕跡のようなものが残っている

阿多 は日本の中部から関東にかけて、その痕跡を残している

それが、熱田であり、熱海であり、熱川であると考えている

例えば、熱田(あつた)で言えば、アチュイ・アトゥイ 、が海を指し

タ は掘る・採取することで、海に住む狩猟民族の気配を残している


ヤマトと言う言葉にしても、その意味を明確に説明するものと遭ったこ

とが無い長屋の爺である

爺論で言うと、ヤマト とは・・・

ヤム・アトゥイ 或いは ヤン・トオ ではないかと考えている

ヤムアトゥイ は【冷たい海】の意で、中部・関東の海が今より

冷たかったのか?と言うところか・・・(かなり無理があるが)

ヤントオ とは、【はるか遠くの陸に上がる】という意味である

何やら、神武東征を感じさせる言葉に感じるのは考え過ぎか・・


日本の地名は難読なものが多い

どう考えても、漢字の音とは違う字をあてはめたのは、何かしらの

理由があるはずで、「訓読み」のルーツは古代人の言葉にある

そんな可能性を常に感じている

子音(しいん)の変化はアイヌ語にもみられる

さらに、アイヌ語の発音はかなり難解であり、倭人と呼ばれる人々に

その音を忠実に表現することは難易度が高かった

その結果が現代に残る「日本語」の元になっている

そんな妄想をしている


文字が先にあったのではない

音が先にあったのである



その音に見合う「文字」を後世の日本人があてはめたに過ぎない

私はそう信じている

◎  初詣 

初詣

明けてから多くの日本人が神社に詣でたと思うが

何に向かって「参拝」したのだろう・・・

そこに「特定の神」が居ると考えて首(こうべ)を垂れた

のだろうか、それとも何か知らないが貴いものが居ると

思っていたのか、とても興味がある


間違いなく日本人は「神道」の信仰者であるが、自分が

「信徒」だと思っている人は少ないのではないか

何せ日本の神道は「教え(教義)」もなく、布教活動もしない

他教の人間から観れば、理解できないものなのである

本来の日本の神は「こうしなさい!」「そうしてはだめ」とは言わない

強制しないモノなのである

なぜか?

それは日本の神とはそもそも【自然】だからであって

日本の神は強要しないことが無言の教えなのである

だから賽銭をよこせとか、供物を供えろとは言わない

すべて人間が自発的に行っていると私は考えていて

自然に存在する諸物の精霊に「人格」を持たせ、人のように

扱い、向き合う慣習ができた結果ではないかと思う


私は同じ祭神が祀られている神社であっても、其処に居る神さまは

別の精霊だと思う事にしている

東北に居る「A」という神と、関東に居る「A」と言う神とは「祭神名」は同じでも

別の神さまだと思っているのである


日本人も気づいていないことの一つに【靖国神社】がある

名前は神社であるし、建造物の造りなどから「同じ神社」と分類認識

する人は多い

私は靖国神社を「靖國」とは呼ぶが、神社とは言わない

私たちが氏神様に参拝するのは、言ってみれば宗教儀礼としての【礼拝】

であり、靖國に詣でるのは国民的儀礼としての【敬礼」だという認識なのだ



靖國で宗教施設である神社と同じ参拝をすることは大した問題ではない

気持ちの問題とでもいうのか、靖國に詣でた人の心の中は「崇敬」の念

で満たされ、その行動は言ってみれば【敬礼」に近いものがある

拝礼と敬礼、御魂と御霊、願いと感謝

そのどれもが日本人が曖昧なまま向き合っているモノなのである



簡単な例をあげれば、神社に行って願い事や祈りをするのが通常だが

靖國に出向いて「願掛け」をする人は稀ではないだろうか

その多くが戦火に散った御霊の「冥福」を祈り、日本が今ある事への「感謝」だろう

そこに在る気持ちは「最高の敬意」と呼べるものではないだろうか

そこで神社に戻れば、神社の祭神に「最高の敬意」で接しているだろうか?

こんな事を考えるのは長屋の爺くらいかもしれないが・・・(笑)


どうして、天皇も首相も大臣も国会議員の多くが靖国参拝を躊躇うのか

靖國が神社だと言う意識が敬意を表さない原因なのか・・・

自分の先祖の墓には「首を垂れ」「手を合わせる」事ができるのに

この日本を守ってくれた御霊に敬礼できない人間が、ほんとうの意味で

日本人なのか疑問にすら感じるのである

拝むことはしても敬うことはしない理由とは何か?

沖縄やパラオ、で誰に敬礼したのか

フィリピンに出向いて「何を」するのか・・・

御霊は靖國に在り!

靖國に敬意を表せない者の、戦地での慰霊は誰のためなのか?

戦後レジームから脱却するのであれば、最初に手掛けなければ

ならないのは、象徴天皇と靖国問題であろう

一神教的解釈による皇室祭祀の簡素化に歯止めをかけ

政教分離に於いての皇室祭祀の解釈問題を明らかにして

多神教国家である日本の宗教観を明確にすべきだと思う


憲法条文だけを変えても、日本人の心を元に戻さないことには

脱却も取り戻すこともできないと、長屋の爺は思っています。

◎  年の初めは「老い」の再認識 

新年を迎えて変わったのは暦だけでは無かった

昨日は長屋の爺の「仕事始め」

半月ほどの休み中にすっかり「たるんで」しまったようだ

気持ちは変わっていないようだが、体の方が確実に【老化】

していたようで・・・

帰宅後、パソコンに向かってメールチェックをしている間に

迂闊にも「寝落ち」してしまった

意外と「久しぶりの仕事」が肉体に負担になっていたのかもしれない

「老い」とは、何かができなくなるとは限らない

できても「影響が残る」ことが多くなる

昨日できたことができなくなるのではなく、昨日できたことが

今日は負担に感じることが「老い」の始まりなのだろう・・・


自然と共に生きていた古代人

太陽や月と共に、星々とも密接な関係を築いていたようだ


【北斗七星】

古では船の舵に似ているとされ【舵星(かじぼし)】

柄杓(ひしゃく)に似ているから【柄杓星】

蔵の鍵ににているから【鍵星】

星を4っつと3っつに分け【四三(しそう)の星】

同じ星でも先人たちは自分達の呼び名で呼んだわけである


同じ神さまでも、地域や暮らす人が違えば、呼び名も変わる

それに通じることなのか?などと思ってみたり・・・

ちなみに【北極星】は・・・

北斗七星の下にポツンと輝くから【ひとつ星】とか【北のひとつ星】

さらに、【心星(もろぼし)】、【子(ね)の星】【七曜の星】などと呼ばれた

一年中同じ場所で光り輝くことから、古代人も航海の道しるべに

したのではないだろうか

【オリオン】

これも海に生きる人にとって大事な星であり、農業従事者にとっても

大事な星だったと言う

【ミツボシ】【ミツレン】【ミツガミサマ】【ナラビボシ】【柄鍬星】とも呼ばれて

日本人にはなじみ深い星である

その三ツ星とは、δ星ミンタカ・ε星アルニラム・ζ星アルニタク

δ星(オリオン座デルタ)・ε星(オリオン座イプシロン)・ζ星(オリオン座ゼータ)

のことである


余談であるが【昴(スバル)】の語源は、「みすまる」だと言う説がある

ミスマルとは【美須麻流】【御流】と言う字を用いるが、古事記上巻にも登場する

糸で繫いだ多くの玉(珠)の事を指す

みすまる→み・すまる→すまる→すばる ということか・・・

日本では六連星(むつらぼし)とも呼ばれたり、スマリ、スワリボシ、ナナツボシ

スマル、九曜の星(くよう)などと呼ばれていた


ミスマルから連想すれば、古代ヤマトの玉(まがたま)は糸で繋いだ

「美須麻流」だった可能性もある

スマルからスバルの間に、「スベル」があったとすれば(子音の変)

スマルとは【統べる】という意味の起源とも思え、リーダー(王)の

身に付ける宝、あるいは「呪具」だったように思えてくる

なぜ勾玉が作られ、伝えられ、そして消えていったのか・・

新年の新しい宿題になりそうである。

◎  百人が詠んだ歌なのに どうして「一首」 

平安装束で百人一首手合わせ…京都でかるた始め

新春を祝う「かるた始め」が3日、京都市東山区の八坂神社であり、平安装束姿の男女18人が百人一首の手合わせをした。

 同神社の祭神・素戔嗚尊すさのおのみことが詠んだ歌が、和歌の起源とされることにちなむ行事。大勢の初詣客が見守る中、日本かるた院本院(京都市西京区)の会員が袿うちぎや狩衣かりぎぬをまとって能舞台で向かい合い、上の句が詠まれると「はいっ」と素早い手さばきで札を取っていった。

 初参加という同市左京区の中学2年の女子(14)は「正月から平安時代の衣装を着て優雅な時間を過ごすことができ、いい思い出になりました」と笑顔を見せた。


百人一首と聞いても、私はあまり良い思い出が無い・・・

私は北の国の生まれで、それなりに「かるた」で遊んだ記憶はある

しかし、転校してからは「かるた」は全く手にしたことが無い

理由は、「かるた」が別物だったからであり、和歌にも古典にも

気が乗らなかった原因かもしれない

本州の方は、綺麗な絵が描かれた「読み札」と、同じような札に

書かれた「取り札」を連想すると思う


ところが、私の田舎では下の句だけで「かるた」を行う

取り札は【木製】の板にくずし文字で下の句が書かれていて

同じかるたとは思えないほど違うのである

私は本州(内地)に来て、上の句を知らないことに気づいて

上の句を覚えようとはしたが、木版に書かれた「くずし文字」に

なじんだ頭はそうは簡単には切り替えられなかったのである


ずいぶん後になってから知ったのだが、この百人一首は和歌(百人一首)を

覚えるために、上の句と下の句を別に書いて取り合いをさせたことが起源らしい

教育用の教材といったところか・・・

江戸時代迄のかるたは、読み札に作者名と上の句のみが書かれており、

取り札には下の句が崩し字で書かれていたという

現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかったそうだ

そういう点から考えれば、私の田舎の「かるた」は本来の【かるた】の形を残して

いたのかもしれない


しかし・・・どうして百の歌なのに、「百人一首」なのか?

百人が一つの「題」を読んでいるようにも見えず

百人で詠んだ歌なら「百人百首」でなければ筋が通らない

さらに、本当に「優れた日本の和歌」が選ばれたのだろうか?

教養の無い爺には皆目見当もつかない話だが・・・


定家が小倉山で編纂したから【小倉百人一首】になったというのも

かなり強引な話に聞こえる

そもそも【小倉山荘色紙和歌】と呼ばれていたものを、いつだれが「百人一首」

などと決めた(命名した)のか・・・謎である

しかし・・・小倉山荘色紙和歌が編纂されたのは13世紀初めころという

それが「かるた」になったのは鎌倉中後期あたりか、もっと後か・・・

平安衣装と結びつかないのは、夢も教養も無い私だからかもしれないが(笑)


この百人一首の原判(小倉山荘色紙)を手に入れるたいと願う秀吉の命を

受けた黒田長政は、持ち主である宇都宮鎮房を暗殺したとも言う

紙に書いた文字が人の命より価値があると思ったのであれば、豊臣の世が短命

だったのも「天の意」だったように思う


800年を経た今でも 小倉山荘色紙和歌 は誰のモノでもなく

日本人の手に残されてきたのは、天が日本人に残すべきものとして

考えた結果かもしれない


逢ふことの  絶えてしなくは  なかなかに

          人をも身をも  恨みざらまし


             (中納言朝忠)

◎  死ねばいいのに 


初夢は観ましたか?

私は酔って酩酊状態で悪夢を見ましたw


「人を呪わば 穴二つ」とか言いますが、私は信じてません

呪う という行為は人間だけに与えられた権利です!?

世を呪う 人を呪う 

解る人には解る ことば です・・・


【呪う】とは、【告る(のる)】に助動詞 「ふ」 がついたものです

勘違いされる方は居ないと思いますが、一応断っておきますが

告る とは「こくる」とは全く別物です(これは馬鹿者若者言葉です)


これは元々、神に告げ祈る(かみにつげいのる)ことである

人に告げるものを【誥(こう)】といい、神に告げることを【史(まつり・ふみ)】

と言います 

私は 告る とは、「神に対し告発」 すること、と解釈しています

呪う とは、神に対しその罪を【直訴】するものだという解釈です

だから先に書いた「人を呪わば・・・」は仏教的解釈という認識をしています




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今年の新年祝賀の儀に、東宮妃は姿を見せませんでしたw

ご高齢の常陸宮正仁親王殿下が車いすに乗って参加されたと言うのに

罰当たりで怠慢な輩と専らの酷評が・・・・

まぁ 私ごときが何を言っても埒も無い話になるので、この話はこの辺で





2016年は日本にとって不必要な輩を排除しようかと決めたw


しかし思っても、そんな事現実にできないし、そこで思いついたのが「告る」

ことだったのである

日本の八百万の神々に「告る」ことで、悪行を知ってもらい何とかして

欲しいと祈願してはどうか・・・

神さまは願いなど叶えてはくれないが、聞き届けてくれることは望めそうだ

その結果、神さまたちがどういう行動に出るかは定かではないが、何もしないよりは

何かが変わるかもしれない・・・という淡い夢・願望なのだ



そんな私の前に、気持ちを代弁する曲が・・・・

不謹慎と思うか、ブラックジョークと思うか、GJと思ってくれるか

読者の方々にお任せいたします






◎   

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      新年明けましておめでとうございます


      本年も よろしくお願いいたします


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