不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

◎  縄文世界と土器の誕生 

私にはどうしてもわからないことがあります




縄文土器と弥生土器というものが有ります

火炎土~1

(火焔土器)

th4T1I27EP.jpg

(縄文土器)


素朴な疑問なんですが・・・

縄文土器の作られた時代には、日本列島には人が住み

土器と言う器(うつわ)が作られたりもしていた・・・

その年代は、16,500年前と言われています

弥生土器

(弥生土器)



弥生土器2

(弥生土器)


縄文土器と言うだけで、その多くは何に使用したのか定かではありません

縄文土器などは細かな細工が施されていて、実用的ではないように

私も思っていますが・・



縄文土器の制作は氷河期とも重なる と言うことなので

ナウマン象が絶滅したころに、日本では土器を作る人がいた

と考えれば、ロマンのある話になって来る気がします


縄文土器と言っても「縄目」の文様の無いモノも「縄文土器」と呼び

縄目が有っても「弥生土器」と呼ぶものが有ります

つまりはその年代・時代に作られたと考えられるから誰かが

そう「取り決めた」ということにすぎないのでしょう


土器の写真をたくさん見ていると、確かに「モノを入れる器」と

思えるものもあるが、どう考えても実用的では無いモノもあるわけで

その使用目的も不明という感想です


考古学者と歴史学者、そして宗教学者が別々に研究すれば

答えなど不明なままになるのは明白ですけど・・


私は山地で生まれ育ちました

遊具など少ない時代、有ったとしても貧しい家庭の子供は

遊び一つとっても「工夫」をすることが必要となります

私の子供のころは友人たちと山に遊びに行くと、そこにあるもので

時間を過ごしました

食べ物も山にある「植物の実」や「渓流に住む魚」などで

皿は木の葉や石、魚を調理するのは石の上、石は皿にも

テーブルにも、フライパンにもなったのです

そんな生活は「古代人」が先駆者であったはずです


その古代人はどうして「土を練り」、器(壺)を作るようになったのか


ウィキペディアによれば、ナウマンゾウなどの大型哺乳類が絶滅し

当時の住民は主食を獣肉から木の実へと変更する事を余儀なくされた。

木の実の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じた。

また食べるためには加熱処理が必要な木の実も多く、獣肉や魚介類の

ように直火で炙るのは困難であるため、加熱するには調理器具としての

土器が必要となった



私の感想は顰蹙(ひんしゅく)を買いそうであるが、あぁそうか~

とは思っていない

「講釈師 観てきたような・・・・」という思いである

貯蔵=土器・深鉢 という発想が理解できないのです


現代人の発想なら大きな器に食料を入れるだろうが

その当時の人間に土を練って作った口の広い大きな器が

そんな簡単に思い描けたのだろうか・・・


私なら「朽ち木」の中を「くりぬいて」その中に保存すると思うし

草木の皮や枝を編んだ「籠(かご)」のようなもので事足りた気がする

其処から発展したと言うなら納得もできるが・・・

いきなり保存する必要が生まれて作られた、では唐突すぎて

納得などできない

緩やかな推移というのが自然で、現代でもいきなりアナログからデジタルに

変わってはいない

もし急激に変わったとすれば、生活より「祭祀」が原因ではないのか

動物の肉が獲れなくなったなら、まず何をするだろうか・・・

おそらく神に祈ったのではないか?

自然界にある万物の精霊に謝罪し感謝をし、祈ったのではないだろうか

今までと違う方法で・・・・

普通に考えるなら、物を「盛り付ける」というのなら、「皿状」のものを

想定する

皿ではなく鉢や甕(かめ)のような土器を必要としたのには理由が

有るはずだと思っている


私はヤマトの神話に出てくる「酒」に注目している

醸すという酒は穀物ばかりではなく、果実などから作られるものが多い

酒を醸造するのに皿では使えない話となる

まして木製の器では、大量の酒はできなく、木そのものに滲みこんでしまい

上手くいかなかったのではないか・・・


私は土器の最初の「誕生」には、神へ捧げる「酒」を造るため

広口で大きな土器が必要となって生まれたと思っている

神と共に生きていた古代人には、それ以上の大事なことは

そうたくさんあったとは思えない・・・

狩猟民族がいきなり採取生活だけに依存し、保存にすべてを

託したとは思えないのである

これからも縄文と呼ばれる時代の祭祀と生活を考えていきたい

そう思っています
スポンサーサイト

◎  長屋王を考える 

私の抱える宿題の中の最大の難題は【長屋王】だ

ほとんど迷路にはまった気がしている


長屋王 とは、父親は天武天皇の皇子(高市皇子)

母親は天智天皇の娘(御名部内親王)である

天武天皇の孫であり、天智天皇の孫でもある

これ以上の血統はこの時代には見られないものだが

しかし、長屋王は皇位に就くことは無かった

今でも信じられない皇統の引継ぎがあったからだ


持統天皇の陰謀から、孫である文武天皇に譲位された

天皇位は過去に天皇位についていない草壁皇子の后

である元明天皇に渡ってしまった


通説によると、天皇の后が皇位継承権を持つことは知られている

(これも私は持統天皇による創作だと思っているが)

しかし、元明帝は天皇の后ではない、そんな掟破りが公然と

行われたことに大きな疑問を感じるのだ

通説では歴代の女帝は皆【皇后】であったとされる

だから皇位に就いても何ら問題が無いと言われた

その条件にすら当てはまらない天皇即位とは不可解だ

さらにその後、元明天皇は天皇の皇后でもない未婚の娘の

内親王(日高内親王)に皇位を譲ってしまった

それでは皇位継承に相応しい親王・王は居なかったのだろうか

と思ってしまうが、最初に掲げた【長屋王】という優秀な継承候補

が居たのである

血統からいえば、誰よりもふさわしい血筋を持っている

元正天皇から引き継いだ聖武天皇より、はっきり言えば

血筋は勝っているのだ

聖武天皇は父親は文武天皇だが、母親は藤原宮子であり

母方は臣下の身分である

天武の孫である長屋王、天武の曾孫である聖武天皇

天智天皇の娘(内親王)を母に持つ長屋王

藤原不比等の娘を母に持つ聖武天皇

どちらが天皇に相応しいかと言う話だけではない

元明天皇から元正天皇に譲位されたとき、聖武天皇は

わずか6歳の子供であり、長屋王は23歳?の立派な若者だった



私は日本の歴史と皇統史を破壊し改竄したのは持統天皇だと

思っている

皇紀2600年と言おうが、125代続く血統・天皇家と言っても

胸を張れる歴史ばかりではなかった

不敬と言われようとも・・・そのように考えている


私は天武天皇の男系が途絶えたのは、理不尽な皇位の

受け継ぎが重なった結果と、適正な候補者の命を絶った

結果がもたらしたものだと思っている

通説では、持統天皇は天武天皇の遺志を継いで天皇位に

就いたというものがあるが、私は納得はしていない

私は41代・持統天皇から48代・称徳天皇までを

持統系の時代だと考えている

持統天皇から持統天皇の孫・42代・文武天皇へ

文武帝の子に繋ぐために文武の母であり持統帝の妹の

43代・元明天皇に繋がり、さらには皇后でもない未婚の

女性に44代目を繫いだ(元正天皇)

即ち持統朝の焼き直しのような形で45代・聖武天皇へと

繋いでいったのである

持統天皇の血筋だけに絞って皇統を繫いでいった結果と

有力な皇位継承者を抹殺してきた結果、引き継ぐべき

若き後継者が絶えてしまったと言う事だろう

(長屋王の子の多くは殺されているが、不比等の娘が産んだ

子たちは生存している)

これだけを見ても偶然とはいえず、明らかに長屋王の血筋ではなく、

長屋王と吉備内親王の抹殺が目的だと考えられる

その場に居合わせた子たちも惨殺されたと言う事ではないか

さすがに別に住む不比等の娘と孫まで殺す意図は無かった

いや、むしろ不比等の娘と子であったから、難を逃れたのかもしれない


一つ解せないことは、長屋王の子・山背王が従四位下に直叙されている

これは蔭位制の規定によると親王の子相当とされることから、長屋王が

親王であり、その父高市皇子が皇位に就いていた可能性も出てくる

持統天皇の称制期間は本当は高市皇子が天皇位に就いていて

その死を待って持統天皇が天皇位を奪った可能性もあり

少なくとも持統天皇がすんなりと皇位に就いたとは思えない

空白と言われる4年間にどんなドラマがあったのか・・・


宮中の中で高市皇子支持派が草壁皇子派とが分裂し

南北朝のような状態であったならば面白いとは思うが・・・

書いてないから、書き残されていないからといって

無かったとは言い切れないのが歴史である



御寺・泉涌寺に天武帝から称徳帝までの位牌が無い事は

天武系を除外したのではなく

天武帝と持統系を無かったものとして後世の天皇家は考えていた

その結果が御寺の扱いになっているのではないか・・・


持統系が絶えたのは西暦770年であり、その後いくらでも

位牌を整えることができたはずであり、明らかに持統系(天武男系)

を認めていない証ではないだろうか・・・・

世間で言う125代の皇統と断言するなら、八人の天皇を除外

することは万世一系を自ら否定するようなもの

どんな天皇であっても、天皇は天皇であり先祖であることに

間違いないのである都合の良い史実だけを取り上げて、

万世一系も皇紀2600年も、蜃気楼のごときものに思えてしまう

神代、上古の時代ではなく、国史に残る時代の史実について

検証することなく、蓋をしてしまう日本の歴史、皇統史に

疑問を感じるのである。


宿題は未だに答えを見つけられず・・・であります。

◎  形を残す・・・ 

DSC_7451-11.jpg



今日も雨が降る寒い一日だった

コタツにしがみついて本を読んだりパソコンをいじったり

晴耕雨読と言えば聞こえは良いが・・・

予定外の連休で体がなまってしまって大変である


以前から何か読書・PC以外の趣味を見つけたいと思っていた

もちろん趣味は他にもあるが、形のあるものを作ってみたい

そんな漠然とした願望があった

ところが絵画は描けない、文字もさっぱりだし、どうしたものかと

考えていたが、半分冗談で仏像か動物の木彫でもチャレンジして

みようかと大それたことを考えてしまった

家じゅうを探したところ、木片が出てきたので、試験的に彫ってみること

にした・・・・それが今月の初めころだったか

最初から完成するつもりは無く、どの程度それらしい形になるか

試し彫りという気持ちでのトライだった

木片も彫刻には不向きなもので、柔らかくとても完成までには

到達できないのは承知で、凡その形が作れるかという程度での

作業になった


予定では【お地蔵さま】のようなもの・・・



DSC_0061-0.jpg



余分なものを削り落とし、大まかに形を作る

頭の中の完成形とのギャップに、なかなか手が動かない

無謀な試みだったか?という気持ちが強くなる




DSC_0083.jpg


頭の部分を大まかに削ってみた

ど素人でもここまでは何とかなった!

もう少し続けてみようと意欲がわく



DSC_0091.jpg

衣と合掌の手を彫り、耳の位置を決める

なんとなくではあるが、お地蔵様っぽくなってきた

素人の無謀さ・・・恐るべしw



DSC_0111.jpg


彫りを繰り返しながら全体のバランスを整える

作業に没頭していて気が付いたら右手指の皮が破れていた

数日は作業ができない状態になった



DSC_7447.jpg


指も完治したので作業を再開

そして・・・昨日までの作業でこのような状態になった

まだまだ完成には程遠い・・・



DSC_7466-11.jpg


手くらいと簡単に考えていたが、小さな手が思うような形に

ならないので苦戦を強いられている


DSC_7466-00.jpg


当初は顔の表情など彫れる訳が無いと顔については

考えていなかったので、表情はきっと最後まで苦労しそう気がする

というか・・・顔は無理かもしれないと思い始めた

バランス的に頭の形が悪いので明日からは全体の細かな細工と

バランスをとる作業も並行してやろうと思っている

これはあくまでも「試し彫り」で、完成は特に考えていない

いつ辞めても良いくらいの考えで始めた物であって

道具や彫刻刀になれることが最大の目標としています

せいぜい一日1時間程度の作業で、それ以上は刃物を

使うため集中力が続きません

怪我をしてまではやることは無いと自分に言い聞かせている


ヒノキの材料を探している最中で、小さなものから始めて

いつかは動物(犬や猫)を彫りたいという無謀な目標を

立てていますw


どうなる事やら・・・途中で投げ出すかもしれないので

期待と応援は辞退いたします(笑)

◎  寒い一日を過ごして 


とても寒い一日となった

暖房を入れようか、コタツを出そうか悩んだ末

コタツに決めた・・・

というか・・・エアコンが故障したままで、ルーバーが動かないことに

気づいたからなのだが・・・買い換えようかどうしようか思案中


今日は三島由紀夫氏の祥月命日である

昨日、それについて書いたので、書くこともそんなには無い

と思ってパソコンの前に座ったのだが・・・


私は昨日の記事を書くにあたって、準備としていくつかの事を

行ってきた

まず、このブログの読者にいきなり三島由紀夫では構えられてしまう

それは私の本意ではないので、嫌な題材である「切腹」というものに

少し理解をしていただきたいと思い、3回にわたって日本の文化である

「ハラキリ」について記事にしてみた

切腹が単なる「自死」というものでは無い事を理解してくれるかなぁ

と言う程度の予備知識としてだったのかもしれない・・・


その後、ブログタイトルの下の歌を三島由紀夫の辞世の句に変えて

そして数日たってから、昨日のような記事を書いてみた

まぁざっくり書くとこういう経緯でした


私は三島由紀夫と言う人物が、日本人・平岡 公威として切腹したなら

今日の日を思い出す人は少なかったと感じている

だからと言って「三島の死」を美化するつもりで書いたのではない


日本と言う小さな島国、敗戦と言う屈辱の中で生きて考えて、

国の未来を想像したとき、暗澹たる気持ちを持った一人の日本人が居た、

言葉の警鐘を鳴らしても誰も振り返らない現実に危機感を募らせた

日本人が日本古来の「切腹」という手段で日本人に「一石を投じた」

それが市ヶ谷蜂起というものだったと私なりの解釈をしている


自分の為ならいろいろな努力をする現代人

安っぽい「慈善」という触れ込みで偽善を続ける著名人もいる

「政治生命」をかけてと、連呼しても一向に責任もとらず、命もかけない

現代の政治家諸氏を観るにつけ、覚悟の無い人間の言葉など

人の心には何も響かないと言うことが理解できる


「武士に二言はない」

というのは「モノノフの覚悟」を表す言葉である

言を異にすれば「死を持って責任を取る」という覚悟である

(これをどう思うかは人それぞれでしょうけど・・ )


他人のために命を投げ出すこととはいかなるものなのか

宗教と言う「偽善的な御旗」を使って、卑劣な殺戮を侵すテロリストたち

を観て、命を懸けるとはどういうことなのか、私自身が見つめなおす意味も

込めて、小さな石を投げ込んでみた・・・・・。


晩節を汚し老醜を晒す元政治家たちを見るにつけ、生きて日本のために

ならない人間とは何者なのかと言う疑問も感じている


彼に対する評価もいろいろあってよいとも思う

何処から観るか、何を観るかにもよるだろうし、日本人・平岡 公威として

観るのか、公人・三島由紀夫としてみるのか、政治活動家・三島由紀夫

として観るのかによって、評価は変わって当然だと思っている



私にとって三島由紀夫は日本人であり、日本の事を真剣に憂い

日本が大好きな人だったと思っている

此処まで真剣に日本の事を、切ないほど考えていた日本人が居た

その事は永く記憶に留めていても良いと私は思う



◎  明日は三島由紀夫氏の祥月命日ですよ 


昨日は久しぶりに・・・何十年ぶりかの深酒をして、本日二日酔いであります



私の近所では祝祭日に「日の丸」を掲げる家庭は皆無です

ですから、国旗を掲げる私の家は浮き上がっているのかもしれません(笑)

しかし、何ともやりきれない気持ちですね・・・


学校での国旗掲揚・国歌斉唱問題で日教組・教育委員会を

批判する人は多いというけれど、天皇家がどうの、皇太子がどうのと言いつつ、

日本の国旗を掲げることをせずして、「日本の事を思っています」とは不可解

という強い思いがあります・・・。

暴言です・・・酔っぱらいの戯言ですからご容赦を




必然なのか、偶然なのか

今年は知人からお酒をいただくことが多く、さらにネットで知り合った方からも

お酒を頂戴したということが続き、驚いている


私は仲間内では「酒は呑まない」爺として認知されている

呑めないのではなく、呑まないのであるが・・・

(30年ほど前に大病してから、呑まなくなった)


酒を呑むのは正月三が日だけと決めていた

外に出なくても(運転しなくても)良いからというのが理由である


しかし、一人で呑む酒にしては多すぎるので、秋の夜長を楽しむ

為に、ちょっとだけ呑んでしまった(笑)

おそらく他の方の「呑む量」からすれば、微々たるものだろう

久しぶりなのでそんなに呑めなかったのだが、予想通り残っている


明日は床屋に行く予定があるので、今日は呑めないが・・・

量さえ過ぎなければ、寝酒も良いのかもしれないなどと考えている



明日は三島由紀夫氏の祥月命日である

未だに賛否両論あるが、私は賛同している人間の一人である

興味の無い方は生涯目にすることが無いモノの一つに

三島氏の【檄文】というものがある

おそろしく長文であるため、一部の引用しかされないことが多い


こういう物に賛意を示すと、すぐに「右翼」とか「軍国主義」と言う人

が出てくるが、右翼の定義も軍国主義の定義も答えられない人が

その言葉を使う事は適当ではないと思っている


私は普通の日本人であり、どちらかと言うと保守的であり

争いは好まず、論理的に説明のつかないことに納得しない

傾向があり、日本人として日本を愛していて、日本人であることに

誇りを感じていて、地方に暮らすちょっぴり短気な「ただの爺」だ・・・

やりもしないうちに諦めることが嫌いで、力ずくで物事を解決することが

大嫌いな性分である


故・三島由紀夫氏の行動・思想・理念に異を唱える日本人は居ない

と言うのが私の自論である

(日本人と言う資質・素養を持っている日本国籍を有する人と言う意味だが)


日本が好きで日本の将来に不安を持っていて、家族を大切に思う人なら

理解できることを、ちょっと過激な言葉で綴っているだけである

今の自衛隊が置かれている現実は、45年前と少しも変わっていないと

いう現実に気づかされるでしょう


これから先は、スルーしてくださって結構です

三島氏の意をくみ取ってくださいとは言いません

かなり長い文章ですが、日本が大好きな人は一度読んでみても

良いと思っています  (長屋の爺)







   楯の会隊長 三島由紀夫

 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである


(三島森田事務所刊『「楯の会」のこと』より) 

◎  可愛いお客様 & ミコの近況 

DSC_0012-0.jpg


雨に打たれて花弁が落ちかけたところへ


可愛いお客様の登場です


DSC_0009-0.jpg


強い香りを放つストックにも お客様です

最近見かけなくなった 蜂でした

DSC_0018-0.jpg

雨が上がるのを待ちかねたように・・・登場です




DSC_0013-0.jpg


時間にして4~5分でしたでしょうか・・・全く動きません

最期の力を振り絞るように止まり続けました





天気に関係なく 寝てばかりいる我が家のミコ

成長が止まらないで 大きな猫になりました

すでに雌猫の域を超えて、ボスネコの風格ですw


DSC_0035-0.jpg


最近はカメラを向けても嫌がらなくなりました

カメラが大きくなったのも原因でしょうか


DSC_0037-0.jpg


デジタル一眼のズームレンズのおかげで

離れた場所からでも写すことができます



DSC_0034-0.jpg



正月以来の長期休み中です

ミコは喜んでいるので胸中は複雑ですけどね(笑)

仕事が有る事の有難味をつくづく感じる毎日

今月末から来月中盤にかけ今年最後の連勤です

生涯現役も仕事が有って、健康であることが条件ですね


DSC_0029-0.jpg


爺と猫が生きていくだけなので贅沢など言いません

止まない雨は無いそうですw

山あれば谷あり、てっぺんに登れば後は下るだけ

下り坂に終点はあるのかどうか・・・


明日天気になぁ~れ と祈りましょうか(笑)




最近、巷では【ナマズ】が流行とか・・・

そんな空気に便乗して我が家のナマズグッズを・・

DSC_7436.jpg

DSC_7437.jpg


ナマズの扇型ストラップ

魔除けに身に着けておくと良いのか?


DSC_7435.jpg

琵琶湖大鯰のストラップ

外来魚のブルーギルを食べてくれる正義の味方です

(緑色の物体はカエルです)

無事帰る? 厄除け?

◎  日本の文化 ハラキリ (三) 

なぜ腹を切るのか?

現代人には理解できない自死の手段かもしれない

日本人だけの風習・文化といえば聞こえはいいが

やはり自ら命を絶つ行為に賛否はあるだろう


私は「日本人が」というより、武士はどうして切腹と

いう道を選んだのか、不思議でもあり謎でもあった


なぜなら公家・貴族の切腹は聞いたことが無い

あの平家の武者でも切腹の逸話はほとんど無い

どうして同じ「モノノフ」でありながら、腹を切る者と

入水する者に分かれたのか・・・・

源氏に有って、平氏に無いモノ・・・・とは

地方に在って忘れられた武士たちに源氏も平家も

同じように居たはずだ


私は平家の武者たちは、朝廷の中に溶け込むために

貴族社会の風習にも染まっていたのかと考えてみた


「ケガレ思想」である

血を観ることは不浄であり、ケガレであると考える

貴族社会では、自ら命を絶つのでも「血」を見ない形を

選択したのではないか・・・そう考えてみた

ところが、平家の武者は出自など関係なく「戦場」では

相手の命を絶ち、首級(しるし)を獲ったのだから

不浄やケガレとは無縁だったはずなのである

血を観るのが嫌な武者など「武士」とはいえない


では敵の首を落とすことができたのに、自分の腹に刀を

刺せなかったのはどういう理由なのか?


私は【気概(きがい)】の差ではないかと考えてみた

中央の贅沢な暮らしが身に付いた平氏には、血の涙を

流すような困難に向かう「気力」「胆力」、つまりは【肝っ玉】が

備わっていなかった

源氏の武者は「百かゼロか」の生き方しか残されていなかった

生きるのも自分の力(身ひとつ)であり、死ぬにも自分の力で

有るべきという哲学のようなものが有ったのかもしれない


中央では官位も低く「ひとでなし」として扱われ、地方では

生きるか死ぬかを決めるのは自分の「力」しかなかった

そんな荒んだ生活を強いられた武士たちは、満たされない者

の【矜持(きょうじ)】として、中央貴族や殿上人がマネのできない

この世の別れ方(死にかた)を見つけたのではないだろうか・・・

入水しても運よく助かる可能性もある

ところが、自ら刃物で腹を切り裂き、はらわたをつかみ出すこと

など、貴族かぶれの平家武者にはできないだろうという主張では

なかったのか・・・


戦国時代中頃までは切腹に介錯(首を切り落とす)は無かった

切腹する者は腹を切った後、頸動脈を自ら切るか、内臓を

つかみ出して絶命するのが普通だった

このことを観ても、尋常な意思では完遂できない事だった

つまりは「確実な死」を覚悟を持って履行したのである


   新選組

新選組は斬り死にが多いという印象だが、意外と切腹が多い



  新見 錦

本名 田中伊織 水戸出身 芹沢鴨と一緒に浪士組に参加した後

京都に残った近藤グループに合流した

新選組は当初、「三人局長制」をとっていて

近藤、芹沢と共に局長を務めていた

しかし、芹沢派は京都に於いて乱暴狼藉が過ぎた

それを危惧した会津藩は近藤たちに芹沢派を排除する

よう示唆してきた

とは言っても、芹沢派は皆手練れの剣客ぞろいであり

簡単に排除などと言っても難しい事だった

そこで考えられたのが、新見を切腹させることだった

1863年、京都祇園の貸座敷で呑んでいるところを

数名の隊士が踏み込み、「乱暴の故をもって」切腹を

言い渡し、新見は腹一文字に切腹をしたとされる

座敷に何人の隊士が踏み込んだのか、誰が居たのか

介錯は誰だったのかは、不明のままである

私は新見が素直に切腹したとは思えない

おそらく斬りあいがあったのではないか?

そういう理由から、名目上は切腹で死んだことに

立ち合いの隊士も不明にし、介錯人も架空の名だった

芹沢派にとって「切腹」というものこそ効果がある処置

だと近藤・土方は考えたと思っている

享年28歳


   山南 敬介

やまなみけいすけ と呼ばれているが、現在では

「さんなん」と読むのが正しいとされる

仙台出身 小野派一刀流の遣い手で、近藤と立ち会って

負けたことから近藤の弟子となった人物だ

芹沢派排除の後、近藤に次ぐナンバー2の副長(総長)に

就任するが、近藤・土方との路線の違いにより、確執が

大きくなった

(近藤・土方は厳密に言うと武士ではない、それにひきかえ

山南は生粋の武士であることから、肌合いが合わなかった

という説もある)

山南は剣術ばかりではなく、学問に於いても秀でた人物だった

ことから、武士としての素養が大きく違っていたのかもしれない

1865年、2月21日 山南は屯所に置手紙を残し脱走した

近藤は山南と親しかった「沖田総司」を追手として差し向けた

山科を抜けた大津で沖田が追いついたが、先に声をかけた

のは山南の方だったという、おそらく沖田が追手に指名されることを

予想していたのか、「君が来たのならしょうがない、一緒に戻ろう」と

いうことで、京都に戻ったとされる

2月23日夕刻、親しい者たちと水杯を交わし、沖田総司の

介錯で切腹をした

「声をかけるまで刀を下すな」と沖田に言い、真一文字に切り回し

てから、沖田に声をかけたという

享年33歳


   河合耆三郎 (かわいきさぶろう)

播磨国高砂出身 米屋の跡継ぎであった

武士になりたくて新選組に入隊した商家の出である

会計(そろばん勘定)が得意だったため、勘定方となる

1866年隊費から五十両が失くなっていることが判明し

その穴埋めを密かに実家に依頼した

ところが、土方が五百両の調達を命じたため、紛失が

露見してしまい、その責めを負って切腹を言い渡される

河合が横領したわけでもなく、公金の管理に落ち度があった

とはいえ、切腹まで求めたのには疑問が残る


俗説では、その五百両は近藤が島原の深雪太夫を身請け

するための金だったとされ、普段から河合を嫌っていた土方が

五十両を隠して、河合に腹を切らせたというものが有る

切腹にあたって河合が逡巡し、介錯が一回で成功しなくて

悲惨な切腹現場になったという 享年29歳


その他にも判っている新選組の「切腹」した隊士は以下の通り

* 田内知 (たうちとも)

* 相馬主計 (そうまかずえ)

* 家里次郎 (いえさとじろう)

* 石川三郎 (いしかわさぶろう)

* 茨木司 (いばらきつかさ)

* 大谷良輔 (おおたによしすけ) 本名良助(りょうすけ)

* 大村安宅 (おおむらやすたく)

* 葛山武八郎 (かづらやまたけはちろう)

* 加藤羆 (かとうひぐま)

* 佐野七五三之助 (さのしめのすけ)

* 柴田彦三郎 (しばたひこさぶろう)

* 瀬山多喜人 (せやまたきと) 施山、布施などという

* 田中寅三 (たなかとらぞう)

* 富川十郎 (とみかわじゅうろう)

* 中村五郎  (なかむらごろう)

* 野口健司 (のぐちけんじ)


中には今考えると理不尽な切腹もある

激動の日本に於いて、命と引き換えに何を残したのか

もっと違う選択肢は無かったのか・・・

生きて日本のクーデターを阻止してほしかったという

思いもある


内部・身内の殺し合いは、大きな義を失い破滅へと

向かうロードだったのだろう

そんな思いが過りました・・・・。

◎  大津皇子を考えてみた 

通説の矛盾

歴史ではいくつかの仮説のうち多数が支持しているものを

通説と言います

通説はあくまでも仮説であって確定されたものではない

確定されたものは【定説】と呼びます

私がが考える通説には矛盾が多いものが有ります


その一つに「大津皇子謀反」があります

大津皇子は鸕野讚良皇后の甥にあたります

母親は「太田皇女」、鸕野讚良の同母姉である

しかし、その太田皇女もすでに他界し大津皇子は

後ろ盾の居ない弱い基盤の皇子だった

天武天皇が崩御したとき、草壁皇子は25歳という

通説のように鸕野讚良皇后が草壁皇子に天皇位を

継がせるつもりなら、問題ない状況であったと思える

天皇は空位にしておいて良いものではない

天皇の「徳」によって治世は安らかになるとされる時代で

天皇不在は避けるべき事態なのである


ある説によれば、天武天皇の喪が明けるのを待ち

さらに、天武天皇陵の制作に忙しかったから遅れた

という陳腐なものまで存在するが・・・


天皇の死後、翌年に即位しなかった例は・・・

斉明天皇~天智天皇 (七年後)

天武天皇~持統天皇 (四年後)

という二例だけである

その年のうちに即位するか、喪が明けた翌年に

即位するのが当然であった

天智天皇の即位しなかった通説などは、白村江の敗北

で戦争状態だったからと言うものが有るが、そういう状況

だからこそ、皇太子ではなく天皇として采配を振るのが

当然なのではないか・・・これも矛盾のひとつであるが


大津皇子を考えようと、家じゅうにあるその時代に関する本

を引っ張り出して観てみたが・・・史書に書かれている以外

何も見つけられなかった

世の中にある書籍も、フィクションの世界を綴った「小説」だけ

という状態だった

歴史から命と共に実像をも抹殺された「謎の皇子」なのである


大津皇子が政治に参加したのは21歳の時、父・天武天皇の

期待を感じさせる出来事である

その時点では皇太子は草壁皇子であり、天武天皇による

大津皇子の政治参加は、皇太子と同等の扱いと見て良いと

私は考えている

おそらく大津皇子と草壁皇子を比較して、天武天皇は

大津皇子を後継と考えていた気配を感じている

それを間近で見ていた鸕野讚良皇后は危機感を感じて

いたはずであり、そこには甥と叔母の関係も無く、血族の

意識すらない「鬼の心」を芽生えさせていたと思える


天武天皇の存命中は、いかに皇后と言えど皇子を暗殺する

訳にもいかなかっただろう

大津皇子の命は天武天皇の命と同じだったと言える

天武天皇の命の尽きた時、大津皇子の命も消えるときだった

権力の亡者と化した鸕野讚良皇后にとって、天武天皇の

喪中など問題ではなく、一秒でも早く憂いを取り除かねば

ならないと言う強迫観念すら抱いていたかもしれない

その背景にあるのが、政治の実務をこなしてきた大津皇子

の資質にある

人臣はその能力を十分に認めていたふしがあり、皇后に

とっては一刻の猶予も無かったのではないか

どんなに優秀な皇子であっても、死んでしまえば即位など

多くの臣民が支持しようとも不可能になる

謀反の嫌疑で捕らえられ、翌日に自邸で死んだことになっている

おそらくは逮捕などされなかったのではないか、自邸に皇后の

意を受けた兵士が大挙して押しかけ、その場で惨殺したという

事も考えられる

その場にいた后の【山辺皇女】も殺されたのではないか・・・

殉死と言う事になっているのは、罪の無い后まで殺したとあっては

不都合があったという事だろう


私は大津皇子が伊勢に居る姉の【大来皇女】に会いに行った

という通説も信じていない

自分がどのような立場にあるか、解らない愚鈍な皇子ではない

前帝の喪中に息子である大津皇子が遠出をすること自体不可解

であり、とにかく大津皇子の不行跡を残したい陰謀の一つだと

解釈している


万葉集に残る辞世の句も、この時代としては不可解であり

後世の誰かが「こうであったのではないか」という意図で創作した

歌だったように考えている

あくまでも皇后の指図で襲われて命を落としたと思っていて

辞世の句をつくる余裕など与えてくれたとは考えられない


見方を変えれば、皇后によるクーデターの雰囲気さえある


残された草壁皇子にすら皇位を継がせなかったと言う事は

人臣が草壁皇子の即位に異を唱えたか、承諾しなかった

可能性もあるが・・・・

やはり皇后が権力の座に執着した結果だろうと思っている


通説では孫である文武天皇への「繋ぎの天皇」とされる

私はそんな祖母らしさなど、この鸕野讚良皇后に見ることは

できないのである

降臨神話まで創作して自分自身を皇祖神に仮託するのは

愛情などでは説明できない・・・・

日本の天皇家の皇統を長いままにして、自分が皇を護した

偉大なる女帝であることを残したかった

その意を汲んだからこそ、漢風諡号が【持統】なのでは

ないだろうか・・・・


数々の明敏な皇子が理不尽な最期を迎えている

考えてみれば、天皇家には明敏な血を望まない定めでも

あるのかと思ってしまうくらい、良き血を排除する歴史が存在する


現代において聡明な皇子、明敏な皇子の命が失われるようなことが

起きないことを祈らずにはいられない・・・・・。

◎  太陽神 

最近 雨が降ると頭痛がして憂鬱な日になる

考えが散漫になり、集中できない・・・・

これって、たんなる老化?


DSC_0141-22.jpg


前回のつづきのような記事ですが・・・

大己貴命が御神酒の正体なら、どうして神前に大己貴命を

供えることになるのか?


一つ考えられるのは、祟る神はその子孫が祀ると鎮まる

ということから、大己貴命=御神酒であるなら、御神酒を

供えることで酒の持つチカラと、子孫の祀る力によって

祟る神、荒ぶる神を鎮めたいという期待・思惑になったの

ではないだろうか


とするなら、天照大御神の正体は【祟り神】ということになり

鎮めたまえ 祓いたまえ とは祟り神である「アマテル神」を

鎮める呪文だったことになる


荒ぶる神・祟り神=天照大御神 というのは、日本書紀にも

残されている

崇神天皇の御代、疫病が流行り、多くの人民が死に絶え

崇神天皇6年に疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と

倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移したという


本来なら皇祖神である神を外へ出すことの意味が理解できない

ここは素直に「荒ぶる祟り神」の仕業によって、人民が

死んだと解釈したから放逐したと考えるべきだろう


ところが事は簡単ではなく、またしても書記は捏造した気配がある

崇神天皇7年に突如【大物主神】が出現する

祟りは大物主神の仕業だと言うのである

そこで大物主の子孫である【オオタタネコ】を祭主として

祭らせれば収まるという託宣が出たことになっている


普通に考えれば、祟り神が大物主神と判ったのならば、放逐した

皇祖神・天照大御神は宮中に戻すべきだろう

それを60年間さまよわせて平気だったと言う事は何かある?


そこで気になるのが、大物主を祀る「三輪山」にある

大神神社に残る伝承を伝える【謡曲・三輪】のなかの一節に

こんな地謡がある・・・・


 【思へば伊勢と三輪の神、思へば伊勢と三輪の神

 一体分身の御事、いまさら何と磐座(いわくら)や】
 



つまりは伊勢の神と三輪の神は同じなのは当然で、

今さら何を言うのか・・・そういう言葉なのである


伊勢の神と聞いて当然考えられるのは、天照大御神

であり、太陽神の事だろう・・・しかし、アマテラスは

女神であり、三輪山の神・大物主は男神である

同じと言うのは解せない話ではないか・・・

そこでアマテラスが伊勢の神ではなく、アマテルが

伊勢の本当の神だという理屈にもなるわけだ

天照大御神=大物主神=大国主神ということになる

ということは・・・出雲大社の祭神と伊勢の祭神は同じ

という事になってしまうではないか


私は出雲の主祭神は大国主ではなく【素戔嗚尊】だという

持論である

素戔嗚尊を隠すために、大国主は利用されたと思っている

その根拠が大国主は素戔嗚尊の6世の子孫だという伝承

に残されている

祟る神は子孫が祀ると鎮まるのである

出雲国造が大国主や素戔嗚尊の子孫ではない

あくまでも大国主が子孫と言う考え方が基本である


DSC_0132-22.jpg



朝 昼 夜 これも日本にはそれを表す言葉(音)があり

その音に「漢字」をあてはめたと思っている

その中の【昼】という文字、「ヒル」と読むのはなぜなのか?

本来この文字は「ちゅう」としか読めない文字である

なぜヤマト人は「ひる」と読むのだろう・・・

もともとヒルと言う言葉があった、それに字をあてはめたもの


《昼という文字は元々は筆を持つ手に、日の傘を加えたもの

で、呪儀もしくは太陽にたいする祓いの仕草ではないかという》


私は「ヒミコ」に対する「ヒルコ」に注目している

【ヒミ・コ】はその名の通り、日・見・子 太陽を観る(仕える・奉仕する)者だ

では【ヒル・コ】とは何だろう?

日・流・子 あるいは 日・留・子 とも考えられる

「ヒル」とは古代の太陽のことではないだろうか・・・

だから古代人は太陽が登っている間のことを「ひる」と呼んだ

のではないか

流された太陽の子? 太陽の輝きを持った子?

その「ヒルのコ」であるなら、太陽の子という解釈ができる

日の御子→昼の御子→ひるの御子→蛭の神子→蛭子

神話で忌み嫌われ流された蛭子こそ、古代ヤマトの

太陽神だったかもしれない

その蛭子伝説の地を調べれば、何かヒントが出てくるかも

しれないと思っている

(昨日書きたいことは上のような事だったが、頭の中で

纏まらなくて締まりの無い記事になりましたw)



ウィキペディアによれば、最初に淡路洲(淡路島)、次に蛭児を生んだが、

蛭児が三歳になっても脚が立たなかったため、天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)

に乗せて流した、とされる

伝承では「摂津国に流れ着いて海を領する神として現れた」と言うものが有る


なぜヒルコを流すような神話にしたのか?

それはヒルコが本来のヤマトの太陽神だったが、アマテラスを太陽神と

したい何者かによって、すり替えるために抹殺した・・・



そもそも出雲の国譲りがあったのなら、どうして出雲に降臨せず

高千穂に降臨したのか疑問だらけであるが

太陽神(ヒルコ)が最初に日本に定着したのが九州南部だとしたら

国譲りをヤマトから出雲の地に、太陽神の降臨を伝説通り九州に

書きのこした結果ではないだろうか

伝説と史実をおり混ぜた結果の不自然な記述なのだと理解できる


宿題が多くてなかなか先に進まないですが

コツコツと考えていきたいと思っています (長屋の爺)

◎  日本書紀から考えたこと 

朝晩 涼しくなって・・・というより寒くなって

お酒の美味しい季節がやってきましたw

お酒と言えば【お神酒】ですが、以前にも 御神酒は当て字なのか?

の記事で取り上げたことを捕捉することを思いついた

どうして「神の前」に御神酒と称する「酒」を供えるのか?

いや・・神の前に供える酒をどうして「おみき」と言うのかである


大己貴命は大物主神であり、大国主神でもあるというが

どうして神前に酒なのかと言う疑問が頭から離れない・・・



神さまと酒と言うと真っ先に思い浮かぶのが、ヤマタノオロチ

の神話である

特別に醸した【酒】を飲ませ、酔ったところを殺した・・・

酒はヤマタノオロチの大好物だったと考えていいだろう

「酒」は強いものを制する力を持つ、特別なものと言う事になる


ヤマトにかつて都祁村という所が在り、その村の中心に神社があって

その神社には古い大きな八岐大蛇退治の絵馬があり

近くには奇稲田姫(くしいなだひめ)の父母・足名椎(あしなづち)、

手名椎(てなづち)の祠が在るという。

『出雲神話の八岐大蛇退治はこの地で行われた』

村人はそう言っているとあった


大国主神と素戔嗚尊、そして猿田彦と天照大御神の関係を

推理することが鍵になるような気がしている


スサノオがヤマトに居たと言う仮定で考えてみたい

スサノオは八岐大蛇を退治した後、消息が消えている

何処へ行ったのか? 生きているのか死んでいるのか?

ところが、日本書紀に依ればスサノオの六世(七世)の孫が

大国主だと言うのである

その大国主がスサノオの娘・スセリビメを妻にしたとされる

笑いたいのを我慢して先を考えてみたい・・・

ところが、スサノオはアマテラスの弟であるから「天津神」だ

一方、大国主はというと「国つ神」の代表である・・・

支離滅裂な関係になっていることは理解してもらえると思う

なぜスサノオはアマテラスの弟なのに酷い扱い方をされ

伝えられているのだろう・・・

ここに神話の「致命的な綻び」が隠されている気がする

(これについてはさらに考えて、書いてみたい・・)


さて、次に「天照大御神」は女神とされている

しかし、世界を見渡しても女性の太陽神など居ない

太陽神は「陽」であり「男性」を象徴しているのである

(漢字で考えるから迷路に陥るので、これ以降は「カナ」で

書いていきたい)

アマテラスとは文字通り 天を照らす のであるから

太陽神では無い事になる

太陽神ならば アマテル と言わなければ理屈が通らない

天上に輝き照る神だから アマテル なのである

アマテラスとは太陽神を祭り世話する「巫女」のことだろう


では太陽神とは誰なのかは別に考えることにして

猿田彦 を考えてみたい、日本書紀には「天地を照らす神」

と記されている、天と地を照らす神と言うのだから

太陽神であることが想像できる

猿田彦が太陽神だと言うのは理解できるが、なぜ先導した

などとされているのか?

おそらく、猿田彦は伊勢地方で崇拝されていた土着の太陽神

だったと私は思っている

なぜ先導役だったのかは、大和には他の太陽神が居て、その太陽神に

伊勢の地を譲り渡した、あるいは奪い取られたからではないか

その太陽神こそ【饒速日命(ニギハヤヒ)】だと私は考えている

ニギハヤヒは神武天皇にヤマトを譲り渡した先住の天津神だという

ニギハヤヒとはヤマトの太陽神であったのでは無いかと考えている


私の個人的な考えではあるが、日本にそれまであった書物の

天皇記とか国記、帝紀や本辭と言ったものから部分を抜き取り

体裁を施したものが「日本書紀の原型」だろうと考えている

蘇我蝦夷が火を付けて燃やしたのではない

持統帝と不比等の手によって、古代日本の歴史は消されたのだと

長屋の爺は固く信じている


次回は「神話の正体」を考えてみたい・・・(不定期です)

◎  日本らしさと開かれた皇室 

以前から不思議に思っていることがある

俄か古代史を拙ブログで書き散らしている身のくせに

浅く 狭く の無教養とは言いながら、疑問は解消されてない


日本の皇室は日本の伝統をどこまで理解し、実践しているのか

つまりは、何か日本らしいことを続ける家風が有るのかという

素朴な疑問なのである

バレーやオペラ、コンサートの観賞の話題は頻繁に耳にするが、

日本の古典芸能を観賞する機会が少なすぎるのではないか

という個人的感想を持っている


千代田の中で執り行われる行事以外には、伝統にあまり関心が無いのでは?

そんな疑問を感じているのである


そんなことは無い! と仰るかもしれないが・・・・

日本の伝統芸能はかなりの数があり、皇室関係で話題になるのは

和歌・俳句などの詩歌、神楽・雅楽などの舞踊、能・狂言などの演劇

その他にもあるのだろうが、私の知識ではこの程度である(汗)


チェロやバイオリンなどの洋楽器を幼少のころから学ばれた方が多い

しかし、千年、二千年続いてきた家系の人間が、日本の古典楽器に

触れられない環境というのはどういう事なのか?


平安の御代の天皇の中にも、和楽器(笛・琴)をよくした方は居る

さらに、【天皇の楽器】といわれる 和琴(わごん)というものまである

【神琴】とか、【倭琴(やまとごと)】、【御琴(みこと)】とも呼ばれ

天皇家と深い関係にある楽器なのである

(もし、そういう楽器に日々触れているなら、そういう物こそ公開し

国民に知らせるべき務めが宮内庁にあると思うが・・・)


皇統125代という伝統の裏側には、古(いにしえ)の古き良き伝統物が

受け継がれてきたことも大きな要素だったのではないだろうか



世間で言われる皇室の帝王学というものを曲解する人もいる

一子相伝の形式に言及する人もいるが、そんなものは専門職が

漏らさず伝える術を持っているのだから、心配する必要などない

それよりも大事な事は「こころ」、「らしさ」を教え諭すことではないだろうか


皇室の帝王学の基本は、いかにして万世一系を護持するか

その為に何を成してはいけないかという守りの哲学である

新しい何かを始めるることではなく、あくまで伝統を踏襲する事である

・・・・と、私は考え続けてきた




宇多天皇(59代)が遺した【寛平御遺誡(ごゆいかい)】の

中にも、賞罰を明らかにし、愛憎をふりまわすことがないよう

皆に公平に、好悪に偏るべきでないとし、万事について

惑溺(わくでき)して度を過ごしてはいけないなど、さらに

天子たるもの喜怒を慎み、表情にだしてはいけない

と書き記している


(惑溺とは、ある事に夢中になり、本心を奪われること)

そういう意味では、現代の皇室が伝統を守っているかと

問えば、「否」もしくは「疑問」という方もおられるかもしれない


仮に日本の伝統芸能の中に「下賤と思われるもの」があると

言うならば、西洋の芸能文化が気高いという論拠が知りたい

という屁理屈を言いたい長屋の爺である (笑)


「和」というものが形になったものが「和の装い」と「和の精神」だと

いうのが拙い私の自論になっている

古式の衣装に身を包み、和楽器を演奏する皇族が居ても

良いのではないか・・・

能衣装を纏い舞台で舞う皇族が居ても良いではないか

和服に身を包み、茶や生け花、書をたしなむ姿が日常であっても

良いではないか・・・


和を忘れた皇室に【伝統】の二文字は相応しくない

天皇が一私人と自覚した時点で【すめらみこと】ではない

一族の者にわけ隔てが在っては資質を問われる

事の是非を弁えないことはその位に相応しくない人品と

揶揄されることになる

喜怒哀楽を超越した階位に在る者を、この国では【天皇】と尊称する

存在するだけで良いなら、他国の王室と大差ない事になる

滅私の御心で国・民の安寧を祈願し、祖霊に対し感謝する姿が

有ればこそ、日本の天皇であると言えるのではないか


「日本国の象徴」などという文言は異国の侵略者の思いついた

方便である

天皇はお飾りではない、日本人の心の柱であった・・そう、あったのだ

政治的発言をしたり、庶民レベルの親ばかを露呈するなどは、国民に

知られてはならない醜聞の類である


なぜ、125代続いてきたのか、その根源は政治に深くかかわって

皇室の頽廃を招いた故事による自戒があったからだといえる

昭和天皇の晩年を思い起こせば、誰しも合点がいくのではないか


現在の国民の「なぜ?」を突き詰めていくと、成すべきことを成していない

成してはならぬことを成す姿、が思い浮かぶのではないだろうか



国民が皇室の批判をすると【不敬】といわれる

しかし、国民が皇室をみるたびに、【不遜】の気配を感じることもある

のではないでしょうか


「らしさ」という言葉があります

皇室らしさ 皇族らしさ そんな「らしさ」に言及するなど不敬の極み

と言われるのを覚悟で言うと、らしさとはそのものの特徴なのだから

殿下は「殿下らしく」あるべきであり、有ってほしいと願うだろうし

東宮は「東宮らしく」あるべきで、有ってほしいと願っていた

妃殿下は「妃殿下らしく」あるべきで、有ってほしいと願うのは

当たり前のことであって、天皇陛下は「天皇らしく」あるべきで

そう在ってほしいと民は願っているだろう・・・

そして、皇后陛下は「皇后らしく」あるべきで、そうあって然るべき

と国民は願っているだけなのである


トロイの木馬というものが有る

私は「開かれた皇室」こそ、現代のトロイの木馬だと考えている

城を攻略する手段はいくつもある、しかし結果的に城を落しても

遺恨を残すことは得策ではない

少ない犠牲で大きな利を得る手段に、内部崩壊を仕組むことがある

内部抗争、いわゆる身内による骨肉の争いを仕組むことだ

どんなに頑強な城でも、中枢が崩れれば攻略は容易い


開かれた皇室こそ、124代続いた皇統を瓦解させる意図を

もって臨んだ「トロイの木馬作戦」だったと感じている

125代若しくは126代で有名無実にするか、抹消させるか

そういう意図があった可能性は否定できないかもしれない


なぜそんな迂遠(うえん)な方法を執ったのか・・・

占領下の日本で武力で皇室を消滅させれば、日本人の心は

【反米】【反西欧】で一つに纏まってしまうことになる

それだけは連合国は避けたかった、何しろ東洋の小国が

世界を相手に戦争できるのも、天皇家があったればこそ、

逆に力でつぶしたら、その憎悪と怒りでまとまった日本人ほど

怖い存在は無いと言う事になる

鬼を退治するには鬼の力で退治するのが「ヤマト流」であり

傀儡の者たちを前面に立て、自分達で消耗戦をさせて

内部崩壊を画策する

これに似た戦術を使うのが軍事大国・米国なのである


いまの皇室の醜聞は意図的に画策されたものであって

それを回避する手段は残念ながら庶民には無いともいえる

唯一影響力を持つ「皇室会議」の負うところは大きいが

現在のメンバーがどう機能するのかは疑問が残る

皇室会議メンバー

*議長 内閣総理大臣 安倍晋三

*議員 秋篠宮 文仁親王殿下

*議員 常陸宮親王妃 華子殿下

*議員 衆議院議長 大島 理

*議員 衆議院副議長 川端達夫

*議員 参議院議長 山崎正昭

*議員 参議院副議長 輿石東

*議員 宮内庁長官 風岡典之

*議員 最高裁長官 寺田逸郎

*議員 最高裁判事 櫻井龍子

これを観てどう考えるかは個人の判断だが、私は難解だと思う

自民党の安倍、大島、山崎はともかくとしても、川端は女性宮家推進派であり

輿石も同じだろう、風岡は言うに及ばず最高裁判事は想像すらできない

皇族議員に諾否を問うのは過酷であり、議員と宮内庁長官を除けば

不確定要素だけが残る

どういう案件かにもよるだろうが、大きな変更ならば楽観できないのが

皇室会議かもしれない

御退位 という願望は大きな声となっても、効力は薄いと思ったほうが

良いかもしれない


この世には私たちがどんなに願っても叶わないことが多くある

人生の理不尽はいたる所に存在し

その多くは神の手に委ねられている

神がそれを望むなら甘んじて受けねばならない

理想・主義主張・願望と異なっていても、それが天の采配なのであり

それを変えることは神にしか成し得ないことなのである


日本を取り戻す という言葉を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが

皇室の本来あるべき姿でした

その言葉の真意は、未だに計り知れない安倍晋三氏の胸中だが

望みは持っても期待しないで居ようと決めた長屋の爺である。

◎  断捨離から漏れたコレクション 



DSC_0089.jpg


私が集めていたのは、ガンダム関係だけ・・・

ところが今日ひょんなことから「へんてこなコレクション」

が見つかった(笑)


DSC_0171.jpg


誰でも知ってる 【ナビスコ チップスター】である

何でこれがコレクションなのか?

じつは・・・・

この画像を見てください(笑)  ↓


DSC_0163_20151115231136bdd.jpg  DSC_0176.jpg

  定番の のりしお &   最近作 トリプルチーズ

DSC_0173.jpg  DSC_0169_20151115230524ad3.jpg

オリーブ&ガーリック味  と   ソルト&ビネガー味  


DSC_0175.jpg  DSC_0172.jpg

 和風 松茸味  と 塩レモン味

DSC_0170.jpg  DSC_0174.jpg

最近作の かぼちゃ味   白えび味

DSC_0167.jpg  DSC_0165.jpg

PIZZAマルゲリータ味    バターしょうゆ味

DSC_0164.jpg  DSC_0166.jpg

濃厚バーベキュー味   てりやきマヨネーズ味

DSC_0168.jpg

ベーコン ペッパー味


別にチップスターの信奉者ではないですけど・・

これにはちょっと理由がありまして

今ではコンビニなどプリペイドで支払ってますが

以前は現金で支払っていました

私は小銭入れを持たない主義でして・・・

ひと月にたまる小銭の量が半端ではなく

少額貨幣を入れるために、重宝していたというのが

理由なのです

一円玉なら400枚入りますw

銀行へ持ち込む間の保管場所として活躍しました


今は無くても良いのに、捨てずに保管してあったものですが

なんか思い入れがあって、捨てられなかったというのが

本当のところかもしれません(笑)

こうなったら新作を見かけたら集めちゃおうか・・・

なんて無駄なことを思ったりして・・・爺のくせにw


物にも「霊」が宿っている そう思ってしまうと

断捨離は勇気が要る事なのかもしれませんね・・

(これは建前であり、言い訳にすぎませんけど)


◎  日本の文化 ハラキリ (二) 

切腹の作法

屋内で行う場合は畳を裏返しにして、その上に敷き布団を敷き

そのうえで切腹する形もあった

大量の出血を伴う切腹では、布団に血をしみこませる狙いが

あったものと思われる

切腹者は浅葱色か白色の裃を着て、西を向くのが習わしであり

髪はうなじの上で切りそろえ、介錯をしやすいようにした

時として、紙と筆が与えられ、辞世の句か歌を残すことが許された

映画やドラマで短刀の載せられていた「三宝」を尻の下に入れる

場面があるが、あれは普通ではやらない仕草である

邪魔になるので後ろに下げるというのが本当のようだ

前にも書いたが腹筋に力を入れなければいけない切腹に

尻を浮かせる姿勢は理に適っていない所作なのである

切腹者は必ず切腹する直前に大きく息を吸う

切腹の最中は呼吸する事などできないので、事前に深呼吸

をしておくのが普通だという


著名な人物の切腹

   松平信康

御存じ徳川家康の長男で、家康に切腹を命じられた人物

織田信長の指示で家康が「切腹」させたという説が通説

だが、これにも諸説あり、私は家臣同士の確執が大きくなり

家康に対するクーデター未遂が原因と思っている

通説では、二股城において切腹したということになっていて

その際に介錯人は「服部半蔵正成」であったが、主の首は

撥ねられないと辞退し、検視方の天方道綱が介錯したという

ある説には、二股城に於いて服部半蔵の手によって暗殺された

という説もあるが、定かではない

忍びの者といわれる家来を使い、暗殺したというのも家康らしい

決着の付け方ともいえる


   別所長治 

次に戦国武将として別所長治がいる

別所長治は播磨国三木城主であり、織田信長の毛利攻めに

際して先鋒を任されると思っていたが、その任が尾張の農民の

出である羽柴秀吉に決まったと知って、反旗を翻したとされる

秀吉は三木城を兵糧攻めにして2年もの間、城を囲み続けた

世に言う「三木の干し殺し」と言われるものである

水は城内に井戸があったが、食料が底をつき餓死するものまで出た

1580年、別所長治は秀吉に書状を送り、自身の切腹と引き換えに

家臣の除名を願い、これを秀吉は認めた

三木城内にて切腹、介錯人三宅忠治とされる

その後、長治の妻子、兄弟も自害したという


  いまはただ 恨みもあらじ 諸人の

     命に代わる 我が身と思へば


         (別所 長治 辞世の句)


   清水宗治

別所長治が切腹した二年後、今度は毛利方の武将

清水宗治の備中高松城を秀吉は攻めた

備中高松城は周囲を泥地で囲まれていて、攻める側にとって

難儀な城であった

秀吉は黒田官兵衛の献策を取り入れて、足守川の水を引き

城を水で囲んでしまった、世に言う「水攻め」である

毛利の軍勢とは衝突を避けたため、思い余った毛利は安国寺恵瓊を

使者にたてて和睦を申し入れる

秀吉はとんでもない条件を出して毛利方を悩ませ交渉は

暗礁に乗り上げた形になった

そんな最中、織田信長が本能寺に於いて自害したという知らせが入る

秀吉は宗治の切腹で家臣の命は除名するという条件を提示した

信長の死を知らなかった宗治は、餓死寸前の家臣を救うため

湖のようになった城の外に小舟で現れ、揺れる船の上で切腹した

最期まで信長の死を知らなかった清水宗治だったが、次男・景治は

その後長州藩家老として毛利家に仕えたという

    浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の

      名を高松の 苔(こけ)に残して


        (清水 宗治 辞世の句)


   千 利休

人となりは書くまでも無いだろう・・・

本名は、田中与四郎といい、後に宗易(そうえき)を名乗る

利休という名は正親町天皇から許された宮中に参内する

ときの居士号である

祖父が時宗の信者で、田中千阿弥(せんあみ)を名乗ったことから

「千」を名乗るようになったという

信長の茶の師匠として、また政治にも関わっていくことになる

本能寺の変のあと、秀吉の茶の師匠となり政治顧問のような

存在になって行った

秀吉と次第に諍いが増えていくが、秀吉の弟・秀長が利休を庇ったため

事なきを得ていたが、秀長が没したのちは秀吉の怒りを買う事が多くなり

1591年、ついに秀吉の怒りが爆発し、切腹を言い渡される

聚楽屋敷に於いて検死役三名に茶をたてて、その後別室にて

一切のの弁明もせず、静かに切腹したという


  古田 織部

利休の弟子(利休七哲)のひとりである古田織部だが

本名 古田重然(しげてる)といい、茶人であり勇猛な武将でもあった

戦の功績によって、山城国に三万五千石の所領をもらい大名となる

その際、従五位下・織部正(おりべのしょう)に叙任されたことから

古田織部といわれるようになった

大阪夏の陣において、敵方に内通した嫌疑をかけられ徳川家康から

切腹を言い渡され、一切の弁明もせず利休と同じ形で切腹したという



   浅野内匠頭長矩(たくみのかみ ながのり) 


江戸時代の切腹といえば、誰でも知っている忠臣蔵だろう

いきさつは諸説あるが、不明というのが事実のようである

とにかくこの切腹には謎が多い・・・

江戸城松の廊下における刃傷(にんじょう)の翌日には切腹

という異例の速さが不可解である

吟味も調べもあったものではない・・・本人も「私の遺恨これあり」

としか弁明しなかったという

具体的にどんな問題があったのか謎のままである

内匠頭の切腹は翌日の六時過ぎ、奏者番・陸奥一関藩主

田村右京太夫の下屋敷にて行われた

長矩が腹に刀を突きさした直後に磯田武太夫が介錯した

長い時間苦痛を感じさせまいとの配慮だったと私は思っている

     風さそふ 花よりもなほ 我はまた

        春の名残を いかにとかせん


           (浅野内匠頭長矩 辞世の句)



   赤穂浪士

説明するまでも無いが、浅野内匠頭の無念を晴らすため

喧嘩両成敗の慣例にも違(たが)う裁量に抗議の討ち入りを果たした

義士47名の仇討ち譚である

城代家老・大石内蔵助(くらのすけ)本名・良雄 享年46歳

最年長 堀部弥兵衛 享年77歳

最年少 大石主税(ちから) 享年16歳

総勢46名である (四十七士というのは、吉田忠左衛門の足軽

寺坂吉右衛門信行が、大石の命で射ち入りの状況を後世に

伝えるため逐電させたものだという)

* 細川越中守綱利 お預け

 大石内蔵助 吉田忠左衛門 原惣右衛門 片岡厳五右衛門

 間瀬久大夫 小野寺十内 堀部弥兵衛 近松勘六 

磯貝十郎左衛門 冨森助右ヱ門 潮田又之丞 奥田孫太夫

赤植源蔵 矢田ごろ右衛門 大石瀬左衛門 早水籐左衛門

間喜兵衛   以上17名



* 松平(久松)隠岐守定直 お預け

大石主税 堀部安兵衛 中村勘助 菅谷半之丞

不破数右衛門 千馬三郎兵衛 岡野金右衛門 

木村岡右衛門 貝賀弥左衛門 大高源五

以上10名


* 毛利甲斐守綱元 お預け

吉田沢右衛門 岡嶋八十右衛門 武林唯七 倉橋伝助

村松喜兵衛 杉野十平次 勝田新左衛門 間新六

前原伊助 小野寺幸右衛門

以上10名


* 水野監物忠之 お預け

間瀬孫九郎 間重次郎 奥田貞右衛門 矢頭右衛門七

村松三太夫 神崎与五郎 茅野和助 三村次郎左衛門

横川勘平

以上9名

討ち入りはしていないが、他に二人の武士が切腹している

萱野三平

浅野内匠頭の刃傷事件をいち早く赤穂に知らせた人物

父が勧める仕官と討ち入りの板挟みに悩み、断り切れない

状況になり、同士に対し誓詞を出していたため、郷里で切腹する

討ち入りの約一年前の事だった  享年28歳


小山田一閑

脱盟したうえ金品を盗んで逃走した息子を恥じて

討ち入りの四日後、自宅で切腹した


武士にとって「誇り」「名誉」というものが生きる支えだった

約束は絶対であり、翻意することは恥とされ

人様の金品を盗むのは野良犬・野良猫と同じであり

恥ずべきことだった(今でも当然だが)

武士の矜持(きょうじ)とは、痒い・痛いと言わぬ

【忍】の精神、他者のために生きる通こそ正道で

あったのかもしれない


  あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる

     浮世の月に かかる雲なし


       (大石内蔵助良雄 辞世の句)

◎  牛乳と匂いと日本人 

面白い考察を見かけた

匂いに関するもので、なるほどと感心してしまった


人間の味覚は嗅覚と視覚に左右されているという

目を覆い鼻をふさいで食べ物を口に入れると

それが何だか判らない人が急激に増えるそうだ


牛乳と日本人

牛乳は万葉の時代から飲まれてきた・・・

通説ではそういう事なのだが、これは飲料として

日本人が飲んでいたわけでは無い (信じますか?)

これは「薬」として、「健康食品」として使用されてきたという

いわば、現代の「青汁」のような位置づけだろうか

私が「牛乳」を初めて飲んだのは小学生の中頃だったでしょうか

生まれてすぐに「山羊」の乳で育ったのですが、近隣に牛を飼う人も

牛乳を売る店も無かったように思う (たぶん)

脱脂粉乳というものはありましたが、それを牛乳といえるのか

私には判断できません


私は毎日コーヒーを飲みます

お店でコーヒーを飲むのは友人がオーナーの喫茶店だけ

他所ではコーヒーは飲みません

その友人の店は車で30~40分の場所にあり、毎日通うことは

できません

しかし、それではコーヒーが毎日飲めないことになります

そこで私は、インスタントコーヒーで我慢するようになりました

仕事のある日でも一日4~5杯、休みの日には6~10杯ほど

呑みます (中毒・依存症かも・・・)

とうぜんながら砂糖やミルクは入れません、ブラックです

皆さんはコーヒーに入れる「ミルク」「フレッシュ」をご存知でしょうか

  そんなこと知っているわよ!

そう言うと思います・・・けどw


我々(私以外の人)が頻繁に使っている「コーヒーフレッシュ」

これは日本独自のモノだって知ってました?


フレッシュが何からできているのか知ってる人は多くない気がします

フレッシュミルクって、【植物油】を白くしたものが正体だそうです


通常コーヒー専門店や喫茶店で「ミルク」として出てくるのは

「ミルクピッチャー」に入れられた【生クリーム】です

本来はこの「生クリーム」こそ正当なミルクなのです

(これを冷やして泡立てるとホイップクリームになりますよね)


ですから、コーヒーにドバドバとミルクを入れるのも何というか・・


ミルクをちょっぴり入れることで、コーヒーの香りと、濃縮された

ミルクの香りが相まってコーヒーの味を引き立てていると思います


ですから街で「こだわりの珈琲」という看板のお店で、パックされた

フレッシュを出す店は、こだわりも誇りも無い店かもしれません(笑)


しかし、日本人はフレッシュのほうが好きという方も多いそうです

バターよりマーガリンという方が多いのと同じことなのでしょうか?

どちらが良いということではなく、好き嫌いの違いと言う事なのでしょう


昔、JR千葉駅の裏にあった珈琲専門店のマスターの薀蓄を

聞くのが楽しみでした・・・(記憶がかなり薄れていますが・・)


さて、牛乳ですが、牛乳の匂いが苦手な人もいます(私もです)

10代の若者の50~60%は牛乳が好きといいます

嫌いな人は15~20%だそうで、残りはどちらでもないようです


では社会人になっても、牛乳を飲み続ける人はそんなに多いの

でしょうか?

日本人で牛乳が美味しいと思って飲んでいる人の割合は

高くないそうです

その背景には「カルシウム」とか「骨にいい」とか「健康のため」

とかいう理由づけして飲んでいるような気がしてます


日本で牛乳が美味しいと「がぶ飲み」していた人物がいます

水戸藩主【徳川斉明】だそうです

毎日五合の牛乳を飲んでいたと言いますから、大好きだったのでしょうね

ところが、藩主が口に入れるものは、毒味する仕来りがあります

家臣は皆、牛乳を口に入れることを嫌い、仕方なく主治医が鼻をつまんで

毒味したそうです(笑)

戦国時代や江戸時代に日本に来た宣教師たちも、日本人は牛乳を

好まないと本国に伝えています

日本人にとって牛乳は「美味しい」ものでは無かったのでしょう


日本人が「美味しい」と思って口にした乳製品は「アイスクリーム」

が最初だったようです

日本人が牛乳そのものより、加工製品を積極的に口にする要因は

匂いにあるのかもしれません


どうしてなのか?

日本の牛乳は西洋人からすると「臭い」といいます

その匂いの原因を業者も科学者も知っているのだそうです

それは・・・殺菌法に関係があると言います


そういえば、牧場で「搾りたて」の牛乳を飲んだことが

ありますが、臭くなかったし美味しかったような記憶があります


牛乳の殺菌法には三種類あるそうで

* 低温長時間殺菌

* 高温短時間殺菌

* 超高温瞬間殺菌

日本の殺菌法は【超高温瞬間殺菌】といわれています(94%)

海外では高温短時間と超高温瞬間が半々だそうです

牛乳を80度以上で加熱すると【加熱臭】が発生し、その加熱臭が

「匂いのもと」になり、牛乳が嫌いになる原因だそうです


では、低温で殺菌すればよいではないかということになりますが

事はそう簡単ではありません

この殺菌法には70年以上の論争があり、いろいろな関係者が

様々な主張することによって、決着も結論も出ていないようです


例えば、消費者団体や中小のメーカーは、低温のほうが栄養価が高く

新鮮な牛乳といえる (ただしコストは高くなり価格も相応に上がる)


大手メーカーや食品関連科学者は、殺菌法に依る栄養価の違いは

無い、低温では完全に滅菌できないから安全性に問題がある

超高温はコストも低く庶民の味方だという


たしかに殺菌法によって栄養価が変わることは無いそうです

コストも大手メーカーが言うように高温のほうが低くなり

価格にも反映されるようですが、問題は「風味(匂い)」の

問題でしょうか・・・


骨粗しょう症と牛乳の関連は世間で言うほど確かなものではない

そういう説もあります

日本で最も牛乳を飲まない県は、北海道と沖縄だそうです

沖縄は別としても、北海道の人の骨粗しょう症の割合は低い

そうですから、牛乳を飲まなくたって、骨粗しょう症になるとは

決まってないことになりますね・・・


さて安全性の問題ですが、これも水掛け論のようになってしまい

結論など出ないのかもしれません

ただし、低温では確かに100%の滅菌はできないですが、健康に

害を及ぼすような菌を内包した製品を出荷するというのも

偏り過ぎた論理です


ここで忘れてはいけないのは、100%滅菌することがどうなのか

そういう問題ではないかと思います

体に害のある菌さえ死滅すれば、100%でなければならない

理由などありません


そんなこと言ったら、農薬を一切使わずに農作物を作れと

言う事と同じになりますよね、さらに雑菌は100%殺せというなら

刺身などこの世から消えてしまう事になります


過去の牛乳に纏わる事故・事件は殺菌法によるものではありません

そのほとんどが「個人の過失」、「安全意識の欠如」なのです


こんな実験結果があります

低温殺菌と高温殺菌、そして超高温殺菌の牛乳パックを購入して

その場で開封し匂いを嗅ぐと、どんな結果だったのか・・・

低温と高温は「かすかな牛乳の香り」がしたそうです

匂いの鈍感な人には嗅ぎ分けられないような微妙な匂い

だったそうです

そして・・・超高温殺菌の牛乳は開けると同時に強い匂いがしたそうです

この結果を信じるなら、日本の牛乳は「臭い」というのは本当のようです


私は牛乳を飲むと「腹を壊す」ために飲みませんから、スーパーでも

気にかけたことすらありません

もし、スーパーでパッケージに「超高温殺菌」ではなく、「高温殺菌」の表示

の牛乳を見かけたら、一度飲んでみてください (結果が知りたいw)


この記事に今一つ、自論が出せないのは、私が牛乳を飲まない人間

だからかもしれません

たかが牛乳 されど牛乳 そんな牛乳に纏わる雑学でした。

◎  2015年 長屋の爺の書籍購入歴 

早いもので今年も残すところ一か月半になった

今年は意外と書籍の購入が減った気がして

今年に入ってから購入した書籍を整理してみた

期間 2015・1・1~2015・11・10

* 古代史  22冊

* 政治・社会   11冊

*近代史  7冊

*日本語・漢字  18冊

*シナ・朝鮮 関連  8冊

*趣味・実用書  18冊

*小説  8冊

合計 92冊


政治関係と小説が大きく減ったのが解る

読みたいと思える小説が見当たらない理由は

作家の質が落ちたと言う事だろう


愚作を乱発する金の亡者のごとき作家がもてはやされる時代

だれでも世間に名が知られれば、お馬鹿タレント諸氏でも

中身の薄い書籍を出す時代になったというところか

愚作の小説を読むくらいなら、著名なブロガーのブログを

読むほうがどれだけ満足&納得できるか…


古代史も相変わらず書いてあるから事実という、揺るがぬ

信念で書かれたものばかりが目に付く(笑)

表題に騙されて購入し、途中で読むのを止めた古代史本もある


政治・社会はブログを巡回して様々な見解を知ることで、凡その

所はつかめるが、埋もれた意見や視点を変えた考えの書籍は

読む価値はある気がする

一方的な意見だけではなく、対極にある意見も知るべきで、

その点からいうと、駄作・愚作の部類の書籍も参考にはなる


今年多くなったのが、日本語と漢字に関する書籍だ

日本人として生まれて、日本語が不得意な長屋の爺である

外国語どころか日本語も満足に理解できないことに

日本人として恥ずかしさを感じている


日本語は本当に難しい、つくづく感じる事ではあるが

普段の会話は標準語ではなく、いろいろな地方の

言葉のミックスで、県を江戸時代の藩と思えば、考えように

よっては、多国語を理解していると言えるのかもしれない


日本に住んでいながら、理解できない「方言」が有る事に

だれも問題として感じないことのほうが不思議なくらいで

英語が話せて理解できる人が、日本の地方に行って言葉の壁で

苦労するなど、洒落にならない話だと思うのだが・・・


年末・年始に向けて今年も書籍を買いだめするつもりだ

時間を忘れるような書籍に巡り合えるかどうか・・・

楽しみでもあり、悩みでもある

◎  持統天皇を考える 

今日は13日の金曜日です

曹洞宗の信徒であり、日本神道の信奉者である爺に

異教の教え等は思慮の外であり

クリスマスもハロウィンも縁が無い朴念仁です




私は日本の皇室の大きな謎は「持統天皇」だと

強く思っている

古代天皇の謎というが、古い時代の事もあって

事実は人々の記憶にすら薄れていたのかもしれない


ところが持統帝の場合は、国史を残せるような時代であり

よほどの不都合でもなければ、事実は事実として

残せた時代なのである


整理して考えてみたい・・・

持統天皇は天智天皇の娘である

しかし、祖父・実母は父・天智に殺されたも同然で

父の愛情は姉の太田皇女に向けられていた

心の中に大きな闇を抱えていたともいえるだろう

天武の寵愛を受けていたように思われているが

太田皇女や額田王などとの比較から、やはり

天武帝の愛情を一身に受けていたとは思えない


同母姉である太田皇女が健在ならば、皇后にすら

成れなかった女人だったと私は考えている






皇位継承についても、数々の疑問があり

天武帝は草壁皇子ではなく、大津皇子に皇位を

渡したい考えだったようだ・・・

天武帝が即位したのは673年、草壁皇子が

立太子されたのは681年である(当時20歳)

天武は草壁を推す持統皇后の願いを抑え込んでいた

気配が感じられる

大津皇子と草壁皇子は比較にもならない資質の差

が存在していた

まして寵愛した太田皇女の生んだ皇子である


私の私見では、皇后(鸕野讚良皇女)が病気になった

680年に皇后の病床での願いを止む無く聞き入れた

結果が草壁皇子の立太子だったと思っている


医療の進んでいない時代、病に臥せるということは

「死」をも念頭に置くはずであり

そんな皇后の願いを聞き入れるのは必然だったと

いうべきだろう

持統天皇(鸕野讚良皇女)は孤独で自分以外を

愛せない人ではなかったか・・・

相当「権力志向」の強い人で、祖母・皇極からも

父・天智からも、夫・天武からも「愛情」と呼べるものを

受けてこなかった鸕野讚良皇女(持統帝)は、権力を

握ることが生きることと考えていた気がする


吉野の盟約

679年 吉野行宮の神庭に六人の皇子を集め

「六皇子の盟」を成立させたとされる

六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の六人である

赤字は天智天皇の皇子)

これについても天武の考えは、皇子たちに草壁に対する

協力を要請・確認するためと思われている(皇親政治を続けるため)

しかし、その裏で鸕野讚良は愚鈍な草壁に権力を移譲し、陰で

自分が権力者になる事を目論んでいたのではないか

翌680年の鸕野讚良皇后の病も、うがった見方をすれば

「仮病」であって、病気を理由に草壁の立太子を天武帝に

願ったのではないだろうか

病床に伏せる皇后の願いを聞き入れてはみたものの、

天武の心配は凡庸な草壁に聡明な五人の皇子たちが

従ってくれるか、助力してくれるかということであった

それをいち早く察した皇后が、天武帝を動かして

吉野の盟約にこぎつけたという事ではないだろうか


息子・草壁に対しても、世間が思うほど愛情など

感じていなかったのではないかと思っている


天武天皇が崩御したのが686年である

本来ならば喪が明ければ、皇太子である草壁皇子が

皇位継承するはずだ、ところがその後皇位は空白となった

ままであり、天武崩御から3年後に突然草壁は亡くなってしまう


天武帝崩御の後、大津皇子を謀反の冤罪で亡き者にしたのは

誰の目にも大津皇子が天皇に一番近い人物だった証拠であり

権力をその手に収める野望を持つ皇后(鸕野讚良皇女)

にとって、排除すべき筆頭だったのである

しかし・・・・日本書紀は草壁皇子の「死」を、僅か九文字で

残しただけである

天武の後継者・皇太子であり、持統の愛息である草壁皇子

の突然の死を、九文字で済ませてしまう国史とは・・・

【 皇太子草壁皇子尊薨 】

どんな理由で身罷ったのかすら記されていない

死因についてはその時代の天皇にとって、不都合なもの

だったという証拠かもしれない

私は持統帝が愚息・草壁皇子に皇位(権力)を渡したく

なかったか、持統の意のままになる人物ではなかったか

そのどちらかであって、皇后の意思によって「命を縮めた」

可能性もありそうだ

結果的に孫の軽皇子に皇位を委ねたのも、幼い帝であれば

自分が太上天皇として、権力のトップに座り続けられると

考えたからであって、孫に愛情を持っていたかどうかは

疑問に感じている


なぜ【称制】という皇位の空白が存在したのか

私は草壁皇子が皇太子として、皇位継承を望み

それを拒む皇后との諍いが水面下で行われていて

天皇即位の儀が執り行われない「空白の月日」が

あったのではないか・・・そう思っている


そう考えれば、父・天智天皇も複雑な状況に置かれ

た結果、天皇即位ができない状況に在って、称制という

造語で誤魔化していた過去があり、それを習って

持統天皇も称制という形式で凌いだのではないだろうか

だから、この父娘だけが、(称制)という不可解な統治の

方法を執ったのだと私は思っている


人というのは自分の思考で物事を推し量る

腹を痛めた子供は何よりも愛しい・・・

そういう人間ばかりでは無い事もある

息子や孫が可愛いという外に向けての演技と

言えば、語弊があるだろうが・・・

自分が一番の人間にとって、可愛いも可愛くないも

その基準は「利用価値」があるかどうかに尽きる

自分が大切な人間にとって、分身ですら「道具」に過ぎない

そういう事ではないだろうか


私がある皇后に持統天皇を仮託するのは、状況は違えど

醸し出される雰囲気が、持統帝の影を観る思いに

他ならない・・・

光明子と比較される方もおられるが、人として光明子のほうが

「俗っぽい」気がする

身内の栄達や特権を大っぴらに許すあたりに、人間味が垣間見える

しかし・・・持統天皇にも某皇后にも「人」「母親」としての心が感じられない

私の歪んだ心がそう感じさせるのだろうが・・・


次回は「大津皇子」について考えてみたい、さらには

持統天皇の考察も続けていきたいと思っています

◎  日本の文化 ハラキリ (その一) 


切腹 江戸時代


切腹を単なる自殺の手段と思っている人は多い

切腹(せっぷく)、世に言う「ハラキリ」とはどんなものなのか

少し考えてみたい

題材がこういうものなので、苦手な方はこれ以上読み進まない

ほうが良いかもしれません

以後は自己判断でお願いいたします


切腹の言い伝えでは、不確かながら988年、平安時代に

始まるとされている

盗賊・袴垂(はかまだれ)が捕り方に追い詰められ、刀を腹に

刺して切腹をしたとされる

その後は、源為朝(ためとも)が柱にもたれ切腹したと伝えられ

てはいるが、確たるものではない


はっきりしている「切腹」の嚆矢・・(・最初のこと)は1186年

源義経の家臣、佐藤忠信といわれている

その後、1189年衣川の館において、義経が妻の郷(さと)御前

と4歳の女の子を刺殺し、自ら刀で腹を切り内臓をつかみ出して

自害したとされる


自殺の方法にもお国柄があり、西洋では剣で喉を突いたり

切ったり、毒を飲んで自殺するのが一般的だった

今でも自殺者の選ぶ方法はいろいろある

首吊り、投身、入水、服毒、練炭、焼身など・・・・

しかし、自ら腹を切る「自死」の仕方は日本だけである


さて、今まで日本人のどれくらいの数が切腹で死んだのか

そんな調査をする人など居ないだろうとは思うが・・・

判っているだけでも膨大な人数の日本人が切腹している


どうして日本人は「腹を切りたがる」のだろうか?

切腹に隠された真実の欠片を拾い集めてみたいと思う


なぜ「武士」は切腹という方法を選んだのだろう


切腹と簡単に言うがこれは尋常な痛みではない

僅か数センチ腹を切る「医療行為」でさえ、麻酔をかけて行う

それを平然と腹に刀を刺し、横へ切り裂く行為がどれほどの

激痛を伴うかは想像以上だろうと思う

切腹は腹筋に力を入れた状態で、腹筋を切り裂いていくことである

半端な気持ちでは一センチも動かすことはできない


日本人の精神性がこの行為に表れているともいえるだろう

切腹の目的は幾つかあって、単なる自殺ではないという根拠が

其処に存在する

一番目は【刑罰】としての切腹だ

武士が何らかの犯罪に手を染めたり、不名誉な行いをしたとき

その罪を償うために「切腹」をしたのである

しかし、この切腹は刑罰であっても、【名誉】でもあった

武士の中でも、それを許されず【斬首】【磔(はりつけ)】

【火あぶり】などに処されることもあり、これは武士としての

不名誉な処遇、庶民と同じ扱いといえる

この「刑罰」としての切腹は残されている記録だけで30例

ほどで多くは無い(江戸時代)

このほかに刑罰ではないが、不祥事に直接かかわっていなくても

その責任を取って「切腹」することもあった

この切腹という行為によって、責任を果たしたという考えから

武士の名誉は回復されたのである


次に「切腹」するケースは、【身の潔白】を命を賭して証明する

やり方である

あらぬ疑いをかけられ、名誉を傷つけられたとき、腹を切り

血を見せることで、自身にやましい処が無い事を訴えたのである

身の潔白が証明されようと、されまいと結果的に切腹したことを

「償い」「責任を取った」ということで、名誉は回復された


次は【抗議の主張】としての切腹である

「諫死(かんし)」といわれるもので、相手を諌めるために自らの

命を懸けて抗議するのである

主君だけではなく、上司や体制、社会などに対し、自信の主張・考え

が正しい事を強調する意味もある

あの「三島由紀夫氏」が切腹したのはこのケースに該当するだろう

余談であるが、あと2週間で45回目の三島氏の命日がやって来る

1970年11月25日 という日は、日本人にとって大きな意味を持つ

肯定、否定とは別に、彼が日本を愛し日本に対し憂いを感じていたことは

誰しも感じる事ではないだろうか・・・


そして最後に日本には【殉死】という形の切腹がある

これを「追い腹」と表現する

主君のお供をするという死に方は日本固有のものだろう

有名な殉死として、乃木希典・静子夫妻が居る

乃木将軍の切腹も見事であったが、夫人の所作も

後世に語られるほど、日本の女性としてじつに見事な

最期の姿だったとされる

7寸の懐剣で喉を払い、その後枕に懐剣の柄(つか)を当て

刃先に覆い被さるようにして前のめりになり、心臓を貫いていたという

その姿は「一糸乱れぬ美しい」ものだったという

武士道は男だけの物ではないということを認識させられる


では切腹は、昭和の三島由紀夫氏で最後だったのか?


ところがあまり知られていないことだが、つい最近にも起きている

平成23年12月8日  場所は石川県金沢市 「護国神社境内」

大東亜戦争開戦からちょうど70年目の日であった

その人物は金沢大学4年(当時) 【杉田智】 享年23歳である

かれは腹を十文字に切り、頸動脈を切って死んでいた

傍らには雨に濡れないようにビニール袋に入った「日の丸」が

残されていたという

政府がきちんとした国防政策をしないことに抗議するための

「抗議の切腹」だと思われる

世の中にある情報に不都合なものは含まれないことを実感するが

そんな地方の片隅で起きた出来事なのである


次回は 

戦国時代、江戸時代、幕末、新選組、維新戦争での切腹の

逸話を紹介したいと思っています。

◎  道教と神道 

私の中では仏教伝来によって、蘇我氏と物部氏が

争ったとされる歴史に「引っ掛かり」を感じている

根拠など希薄だが、どうにも納得できる確かさが

感じられないのである


蘇我氏は渡来系だとする説があるそうだ

私はこの説には否定的な考えである


蘇我氏と藤原氏は謂わば「宿敵」であり、日本書紀の

記述にも蘇我氏の過去には言葉を控えている

もし、もしもである

蘇我氏が渡来系ならば、藤原一族にとってこれほど

好都合な題材は無いのではなかろうか

相手を貶める絶好の材料だったと私なら考える


とにかく日本書紀では蘇我の悪事を書き残すくらいだ

落とせるなら些細な材料でも利用して蘇我を辱めたのではないか

蘇我の祖先に言及しないと同時に、中臣鎌子の出自・半生も

書くことができなかった

ここに藤原と言われる氏族の「闇」の過去があるように

私は思っている


まずは初めに、仏教が伝来したといっても、ある日突然

日本に上陸したわけでは無いだろう

当然ながらその受け入れる体制・地盤は有ったはずだ

正確には「仏教公伝」された時期は定かではないが

6世紀中ごろというのは外れていないだろうとは思う


しかし、それ以前に「渡来人」と呼ばれる者たちによって

仏教は日本に入り込んでいたと考えるべきだと思う

その時期についても諸説あり定かではないというのも事実だが


私たちは「神道」と「仏教」の対立と教わってきたこともあり

疑問にも感じていなかったことが幾つか存在する


神社神道は今までも幾度か書いてきたのでお分かりだろう

7~8世紀ころに、政治的都合によって定められたというか

創作・整備されたものだと私は考えている

そうすると、仏教が伝わった時代には「古代神道」が、この国の

宗教だったことになる・・・


ところが、どう考えても6世紀中ごろまでの日本の宗教が

古代神道だったとは思えないのである

古代神道に於いて、墓を作るという慣習が結びつかないし

その祭祀の様子も残されていない気がする

(ほかにもいくつか腑に落ちないことがあるが、又いずれかの時に

書いてみたいと思うので、今回は省略します)


【道教】というものがある

神道と同じように開祖も教義も存在しない特殊な宗教だ

私は道教というのは様々な古代信仰の集合体だと

思っている

基本にあるのは「神仙説」であり、その神仙思想に

易(えき)・陰陽・五行・医学・占星・卜筮(ぼくぜい)・巫(ふ)

などを加えて、さらに精霊信仰である「アニミズム」を合わせ

自然発生したものだという


高い処から転がり始めた「小さな雪の玉」が途中のものを

取り入れて大きくなるように・・・・といえば語弊があるかw


ここで私が注目したのは、古代神道であるアニミズムを

崇拝してきた古代人が、受け入れるだけの魅力が道教に

有った可能性である

(アニミズム→道教→仏教という形で取り入れてきたという

考えもできる)


道教の中の「神仙思想」に欠かせないのが、「丹(に)」である

錬丹術(れんたんじゅつ)を用いて、不老不死の霊薬、丹(たん)を

錬り、仙人となることを究極の理想とする道教では、丹を手にする

ことが重要な事だったのだろう

各地に残る「丹生神社」も、その時代を伝える「生き証人」

かもしれない

丹にも精霊が宿るのかは知らないが、道教的な意味での祭り

はあったのかもしれないと思う


古代神道と仏教の接点(出入り口)があまりにも異質なので、

点と点が結びつかず言いようのないモヤモヤ感が長い間

私の頭の隅に居座っていた


道教を調べていくうちに、緩やかな色の変化とでもいうのか

古代神道が色を変え形を変えて、仏教に溶け込むような

姿が、漠然とではあるが見えてきた気がする


道教的なものは私たちの周りにも残っている

安倍晴明で有名な「陰陽師」も道教が基であり

高松塚古墳の壁画に描かれている絵の中で表現された

壁画の精神性も道教的だと思っている


Takamatsuzuka_2014.jpg


高松塚古墳が造られた年代は700年前後と言われ

そのことから古い時代では「文武天皇陵」とされた

こともあったという

(文武天皇陵は今では別の場所に比定されている)

個人的には「高市皇子」ではないかと考えているが

素人の考えであり、古墳の場所と規模、副葬品、死亡推定年齢

(40~60歳)などから、可能性はあると思っている


話を戻そう・・・高松塚古墳が造られたとされる時代は

持統天皇~文武天皇~元明天皇の時代と思われるが

この時は未だ仏教思想というほどのものは、天皇家には

定着していなかったと思えるのだ

(持統天皇が仏教式の火葬を選択したことを根拠に

皇室が仏教を信仰していたとされるが、持統天皇個人が

仏教徒であったかどうかより、祭祀王だったかどうかに

ついては大いに疑問が残る)

この時に作られた「墓」というより、墳墓というべき

円墳(直径23M)という形と壁画が、道教思想を語って

くれている気がするのである


私は持統天皇の時代より聖武天皇の時代に、天皇家

仏教思想が根付いたと考えていて

それまでの天皇家は「道教」思想に古代神道が加わった

「大王家祭祀」というべき「天皇家神道」が中心だったと

考えている (天皇個人は別として)

その道教と古代神道の合わさった信仰形態を、一つの形に

変えたのが「神社神道」だと思っている

これは宗教的な問題からそうしたのではなく、持統天皇を

天皇家中興の基礎と為す「創られた皇統史」のためだった


その創作された神道に、荒ぶる神を鎮める力は無かった

その結果、聖武天皇は「神」ではなく、「仏」に縋(すが)った

天皇家の仏教への信仰はこの時から動き始めたと考えている


本来あるべき信仰思想は、万物に宿る精霊(八百万の神)に

感謝し祈ることが、大王家(天皇家)の不変の信仰ではなかったのか

その事を疎かにしたとき、神(自然)が怒りのメッセージを放ったのだろう




どうして神(自然)は荒ぶるのか・・・

それは自然の摂理を人間が蔑ろ(ないがしろ)にするから

だと私は考えている

自分が食べるためにではなく、空腹というわけでもないのに

不必要に生き物を殺し、他人の物を奪い合う世界に神は

警鐘を鳴らしているのではないか・・・


遠い昔、日本人は感謝することを中心に生きていた

どんな些細なことにも感謝を忘れていなかった

そんな時代には歴史は存在しない


歴史とは「他人を思いやれない」「自然の摂理」を軽んじる

人間たちの手によって創られたものだと思っている


歴史とは「勝者の論理」で創られ

身分の上下と、奪い合う醜い諍(いさか)いから、歴史は出来上がる


飽食が人を変えたのは事実かもしれない

発明・便利というものは、人を進歩させたのだろうか?

満たされることは見かけの幸せであって、真の豊かさではない

科学の進歩は人間本来の進歩なのだろうか?

(柄にもない事を書くと笑われそうだ・・・・)


怠惰で自分中心の生き方には、神に対する感謝は見えてこない

人にもモノにも感謝しない世の中に「平穏」など来るのだろうか

そんな疑問すら浮かんでくる

神に祈るのは「利己」のためという人間ばかりの現実があり

好むと好まざるとに関わらず、その中で私たちは生きている


「ご利益」とは何だろうか?

神によって生かされている人生で、それ以上の何を欲するというのか・・・


私たちにできない「滅私」「利他」の心を持ち続けるのが

日本の天皇であると、多くの国民は思っている事だろう

今までも・・・そしてこれからも (かなりの願望であるが)

天皇の祈りには、「ご利益」も「自己」もないのである

ひたすら「民(赤子)」と「国」の安寧を祈り、神々に感謝する

それが本来の「皇室神道」だと思いたい長屋の爺である・・・。

◎  人と王と神 



人という漢字を説明するときに、人と人が支えあう

そういう姿を現した文字というのがある

私は「じんましんが出る」思いで聞いている

人と人が支えあう姿・・・美し過ぎる解釈に思わず

引いてしまうのである

これは理想・夢・願望から作られた説であり

人を「一本」の棒に例え、さらには「つっかいぼう」に

なぞらえることに釈然としない気持ちが湧きおこる

人とは棒一本で表現されるような存在だったのか


古代の象形文字で「人」は、横を向いて少し首を

竦めた形で表現された

何か重い宿命(さだめ)を背負うかのように・・・・

万物の霊長とは程遠い形に見えてしまう

貴き人と言うなら、【大】や【立】のほうが高貴な人

というイメージに近いだろう

【大】は胸を張って仁王立ちする姿

【立】は大地に足をつけ仁王立ちする姿である

神の前で儀式に臨む高貴な人の姿は「大」のほうが

相応しいだろう

大神とは神と人の間に立ち、神の言葉を伝える役目

そもそもは巫術に長けた特別な人のこと



その「大」が人々を導き、統率する形を発展させて

【王】と呼ばれるようになった


どちらも「オオ」なのである

 「王」とは神に祈り、神を讃(たた)え、神と契約し

神と交渉をする

その交渉の結果如何で、王は「王の王たるゆえん」を

判定される


それが「王の責任」「殺される王」の伝承となったと思われる


何やら面倒な話になってきたと思っているでしょう (笑)


卑弥呼という女性(女王)はなぜ死んだのか?

卑弥呼暗殺説などの根底にあるのが、「殺される王」

というアジア各地に残る伝承が基になっていて

王の言動が神の意に沿わないとき、王と神との交渉が

きちんとできていなかったりして、人々が耐え難き苦難

を強いられた場合、神の意思により、王は人の手によって、

又は自らの手によって、「死」を選択させられた

「天人相関」が唱えられるようになった要因でもある



オカルトと笑われるかもしれないが、この数年間だけを見ても

異常気象や自然災害、数々の世情不安はどうして起こったのか

起こった原因は現代の【科学】で説明ができるという

果たしてそれだけだろうか・・・


地球に未来を感じている人は多いと思うが、人間とて時間を経て

終わりに向かう宿命がある


神は死なないというのは私の中では基本である

死なないから神なのであって、死ぬ神などこの世に存在しない


どうしてか?

神とは自然そのものだから・・・・

海は死にますか 山は死にますか

風はどうですか 空もそうですか・・・


と言ったのは さだまさし 「防人の詩」である


これを聞いたとき、自分の考えが確信に変わった

古代の日本人は「万物」に霊が宿り、その霊こそ

日本人の「神」だったと言う事なのである

人は死ぬが神は死なない

神が死ぬときはこの地球が終わるとき・・・


本題に戻そう・・

大神と言われる「日本の神様」は、厳密に言うと

神ではないということ

神と人の間に介在する「巫術」をつかさどる存在

ということが言える


私たちは「大神」に参拝しているつもりでも、実際は

その向こうに居る「神」に参っていると言う事なのである



その理屈で言うと、天照大神とは太陽と人の間に介在

する存在であり

白竜大神とは水と人の間に介在する役目を担う存在だという事

になるだろう



では、天皇とは何なのかという疑問がわいてくる

天皇は祭祀王という立場の「神」と「人」との交渉人(ネゴシエーター)

という見方もできる

神(自然)と折り合いを付けられないときに、神(自然)は

猛威を振るい、人々を苦難に落とす

祭祀王である天皇の霊威が落ちれば、自然が荒ぶるということ

であり、霊威は日々磨かなければならない・・

それが毎日の礼拝なのである

天皇の礼拝を「私事」とする日本に未来などない


日本の災害苦難は必然と言う事を私は感じている

選択肢は二つ、どれを選択するかで日本の未来は変わる

見えない物にこそ、想像以上の力が宿る

科学の目を通してみる習慣では見えない物もある

わたしはそう考えています・・・・

◎  漢字の雑学 秋の陣 

日本に「文字(漢字)」が入ってきたのはいつ頃か?

古代の遺跡から「漢字が刻まれた遺物」が見つかり

その当時からヤマト人は「漢字」を使っていたと主張

する人もいるそうだ

私はその説には疑問を感じている

確かにその時代に漢字が日本に入ってきたかもしれないが

それが即「使用」「普及」とは別の問題ではないだろうか


最近の外国人のお土産に「日本語」のプリントされたTシャツや

漢字の書かれた土産物が人気だそうだ

海外の親日家にいたっては、意味も解らずに部屋中に漢字が

書かれた紙を貼っていたりする

その文字が日本では考えられないような「敬遠される」文字も多いという

つまりは意味など関係なく「デザイン」として日本語を使用している

それをもって、日本語が海外に普及したとは言えないだろう

(大学などで日本語を学ぶ人は別である・・・・)


漢字は中国から伝わった物である

その漢字に【訓読み】を使って日本語にした人がいたはずだ

今の日本の漢字は「漢字であって漢字ではない」

すでに【日本文字】と言ってもいいと思っている


訓読みを作ったと思われる人々が居た

百済から来た渡来人の末裔である

【文首(ふみのおびと)】、【文直(ふみのあたい)】 という

「姓(かばね)」を持つ人々である

さらに古代朝廷では【史部(ふひとべ)】と呼ばれた

【百済の渡来人の末裔】は「ふひとべ」という書記官に

就いていたのである

藤原の出自もこの辺りにあるのかもしれない・・・・・


椿(ツバキ)

誰でも観たことがある春の花木である

この文字は中国では、霊木を指してつかう文字だった

ところが、日本人は春に花咲く木という意味で

春の木=椿 と使うようになった

日本だけで意味が通じる「漢字」でもある


羆(ヒグマ)

北海道に生息する熊、オヤジのことである

この漢字どうして「ひぐま」と読むのか?

これは、四+熊 と分解して読んでいて、「しくま」

「しぐま」と呼んでいた (平安時代)

その後、「し」が「ひ」に転化して「しぐま→ひぐま」になったという

江戸っ子みたい・・・(笑)


【馬】という字は、日本に入ってきた当時は「むま」と読んだ

「ムマ」が日本読みになり「うま」となった

【梅】は当初は「ムメ」と読んでいたが「うめ」という日本語読みに

【銭】は「セン」が「ぜに」と変化したものだという

【縁】「エン」は日本語読みの「えに」になり、強調の意味である「し」

がついて、「えに+し」と読むようになった

漢字の本来の発音が、日本人の発音しやすい音に変わり別の

読み方が生まれたと言う事だろう


消えた和語(日本語)

【肉】  これはだれでも読める漢字で 「にく」と読む

これはそもそも「シシ」と読む和語だった

たとえば「イノシシ」とは、「猪(い)の肉(しし)」という意味だった

いつのころか・・・猪だけで「いのしし」と読むようになってしまった

肉(にく)と宍(しし)は今では別の意味の字であるが、中国では

同じ意味の文字だったようで、肉を書きやすいように3~6世紀に

書き換えられた文字だという

消えた和語は他には、【脳】 なづき、【地震】 なゐ(い)・なゑ(え)

、【暗礁】 いくり、というものがあった


【山女】を何と読みますか?

やまおんな? ヤマメ? まちがいではありません・・・

あけびの実
  (あけびの実)

ですがこれを「あけび」と読みます

これは山に実る「あけび」のことです

あけびの花

  (あけびの花)

一文字で書くと「妛(し)」となります

これは上に「山」、その下に「女」を書いて作った

造語でした、この文字は通常の文字ではなかったため

戦後に国土地理協会が「山」と「女」という文字を切り貼り

して作り、印刷するときに文字と文字を貼った間に影が出て

印刷されてしまった

それを転記する作業者が勘違いして「山」と「女」の間に横棒

を付けてしまったから 妛 という不思議な漢字になってしまった


【大和】 やまと

これも常識過ぎる漢字である

この文字は「和」だけでも「やまと」と読むが地名の場合は上に

「大」を付けることが一般的だそうだ

「やまと」は奈良時代は、山の辺り・山のふもとを指す普通名詞だった

「山跡」とも書かれ、「山の処(ところ)」「やまのふもと」のことだった

大和の国と呼ばれたのは、天理付近にあった郷名によるもので

「倭」「大倭」「大養徳」とも表記され、8世紀中ごろから【大和】と

書かれるようになったという

おそらく、大和と書いて「おおやまと」と読んでいたように私は

思っていますけどね・・・


(大和魂って・・・どこの魂なのか? なんて言わないでください!)



「急ぐ」 と 「忙しい」

「いそぐ」という動詞を形容詞にすると「いそがしい」となる

それなのに、それなのに・・・どうして違う漢字が使われる?

本来は共通する意味の言葉でありながら、別の字があてられた

稀な例なのかもしれない


【政】 まつりごと

この文字、本来は「不正を糺(ただ)す」という意味の漢字である

だから「まつりごと」とは、不正を正すためのものだった

(今は逆ですけどね・・・)

ところが日本では、「祭事」「祀事」の意味で「まつりごと」と読む

(訓読み)ようになったとされます

天皇は「まつりごと」で何を糺し、何を正すのだろうか・・・・。 

◎  更新できなかった理由(言い訳)です 

ポンコツの長屋の爺です  

おはようございます

ポンコツは伝染する?

昨日はパソコンが言う事を聞かず、ネット接続が不調で

マイブログの画面には何度かたどり着いたが、それ以上は

移動できず、メールすら確認できずに、夜11時まで格闘するも

断念して「不貞寝」することに・・・

今朝は「システムの復元」を試行して、様子を見ようと・・・


結果、何とかメールも観れたし、ブログにも移動できるようになった

原因など解らないが、パソコンも機嫌が悪い時や、あちらこちら

不具合が出るらしい、持ち主の爺と「おっつかっつ」と言う事か (笑)


そういう訳で、更新は夜にでもと考えています

何を書こうか 楽しみでもあります

とりあえず、更新できなかった理由の説明でした

◎  秋の夜長の爺の戯言 

現在、長屋の爺は「痛い処だらけ症候群」に陥っている

首、左肩痛、左手首、腰痛、肩甲骨痛、右ひざ痛・・・・

友人曰く、「たんなるポンコツ」、「爺症候群」だと・・・

そんなことはわかり切ってることだ(笑)

それでも、生きていかなくてはいけないのが、人間なのである



さて、人生の中で、明らかな間違い・ウソというのが有る

結婚は当人同士の問題で、実家や親せきなど問題ではない

そんなことを言う人もいるが、この国ではそれは通用しない

最終的には結婚とは、家と家の結びつきなのである

特に地方で暮らすとなると、切実に感じることになる


「愛が有ればお金なんて・・」 というのも、ナンセンスだろう

【金の切れ目が 縁の切れ目】 というのは世間の常識である

愛を食べては生きてゆけない

仙人なら霞みを食べても生きられようが・・・

生身の人間は「好いた惚れた」では生活できないのである

自由というのは【制限の枠の中】に存在する

愛情も家庭も「収入」という基盤の上で、汗して仕事をする環境から

発生するものではないだろうか・・・


逆に人生訓として、考えさせられるものもある

独りでは食えないが、二人なら食える

これは理に適った名言かもしれない


野菜・魚・肉などは、何時までも「鮮度」を保つわけでは無い

料理にしても時間と共に「食する」ことができなくなるものもある

所謂、無駄とか食べ残しとかの「ロス」が出ることだ

ほんの少しのために、それなりの食材を購入するしかないため

独り身ではその半分も使わない間に、しおれたり腐ったりして

棄てることも多々ある

独りで一束100円の食材を買って、半分棄てても食材費は100円になり

二人で食べたとしても食材費は100円で変わらない

これだと一人の食材費は50円になるという理屈

(あくまでも理屈だが・・・)

独り用として購入した食材でも、二人で食べられるくらいの量を

買っているということかもしれない


先日、冷蔵庫の中を観ながら「ため息」をついた長屋の爺

いっその事「外食」だけにしようかとも悩んでしまった

仕事の関係で、予定外の外食をすることもあり

冷蔵庫の中の食材の「ロス」が頻繁に出てしまう

それを観るたび、思い悩む長屋の爺なのである



以前、花はそっと咲き 静かに散れ の中で

時代小説を処分すると書いた

身近でもらってくれる人もいない、売るには抵抗がある

そんなことから「貰い手を募った」が、反応はゼロ・・・


年末までには処分しなくては、と思うばかりで進展は無し

シリーズ物単位でも結構なので、どなたかもらってくれないだろうか


今月いっぱい待って、無い場合は人に頼んで処分する事に

毎月書籍は増え続け、断捨離しない事には、部屋が本に占領されてしまう

読んでから購入すればいいものを、私はまとめて購入することが多い

なので「未読書籍」は常に10冊程度並んでしまう

推理小説ばかり読んでいたころは、毎年段ボールで古本屋に

持ち込んでいた

その後、時代小説を読み始め、一度処分したのだが、また溜まってしまった


* 隅田川御用張 1巻~16巻 (藤原緋沙子 著)

* 藍染袴お匙帖 1巻~9巻  (藤原緋沙子 著)

* 酔いどれ小藤次留書 1巻~19巻 (佐伯泰英 著)

 居眠り磐音江戸草紙 1巻~45巻
      橋の上、江戸草紙読本、江戸地図 (佐伯泰英 著)


* 髪結い伊三次捕物余話 幻の声~心に吹く風 全10巻
                        (宇江佐真理 著)

* 日暮し同心始末帖 1巻~6巻  (辻堂 魁 著)

* 栄次郎江戸暦 1巻~11巻 (小杉健治 著)

* 燦(さん) 1巻~4巻 (あさのあつこ 著)

* 立場茶屋おりき 1巻~18巻 (今井絵美子 著)

* 北重人 著作6冊 

* 乙川優三郎 著作 6冊

 諸田玲子 著作 10冊

* 葉室麟 著作 7冊

 門田泰明 著作 8冊


今は段ボール2個に入っていて、これからも読むことは無いと思っています

気楽に秋の夜長を読書でも・・・いかがですか?

赤字 の本は貰い手が決まりました ありがとうございました

 残りの書籍をご希望の方、遠慮なく申し出てください



古本の部類ですけど、もちろん無料でお送りいたします!

もし希望の方がいらっしゃいましたら、内緒コメで結構です

連絡ください お願いたします (長屋の爺)

◎  勾玉と月神信仰 

三種の神器の一つである【勾玉】について・・


勾玉


「まがたま」と聞いて、「勾玉」「曲玉」と連想するのは

いまでは常識となっている

どうしてこれが「まがたま」なのか?


これが歴史的に認知されたのは「記紀」に書かれてあった

ことに由来する

古事記には「曲玉」とあり、日本書紀に「勾玉」とある

語源は…通説では「曲がった玉」からだそうだ

「言い得て妙」なるネーミングである(笑)


記紀成立以前からこの「モノ」は存在していた

私は縄文時代初期の「モノ」と、弥生時代の「モノ」と

古墳時代の「モノ」と、7世紀以降の「モノ」とは

形状だけでなく、その本質は違っていたのではないか

そんなことを考えている


縄文時代の「モノ」は「月」であり、「胎児」であったと思っている

名前など想像もつかないが、ある特定の「呼び名」があったと

推測できる

縄文の時代は「月神信仰」が主であり、月を模した「モノ」は

重要な意味を持っていた可能性が考えられる

どうして「月神信仰」があったと思えるのか?

なぜなら、日本人は月を眺める(仰ぎ見る)習慣がいまでも残っている

太陽を眺める人は少ないのではないか (いない?)

古代から日本人は月を仰ぎ見て生きてきた記憶がDNAに

刻まれて無意識の伝統伝達になっているのではないか

長屋の爺は日本人が月を見て「和歌」を詠むのは信仰心

から沸き起こるものだと固く信じている


大きさから言うと、祭礼に使ったにしては小さすぎるように思う

身に着けたか、家の中に安置してあったか・・・・

おそらく初期の「モノ」は穴が開いていなくて、首飾りのような

ものではなく、手の中に包み込んだか、捧げ持ったかしたのではないか

私は縄文の民の素朴さ・一途さがそうさせたと思っている


では弥生人にとっての「モノ」である【勾玉】はどのような

役目だったのか?

魏志倭人伝には邪馬台国の臺與が魏に送った貢物の中に

穴が空いて曲がった青い大きな玉2個があったとされる

明らかに縄文の「モノ」と弥生の「モノ」は構造も役目も使用法も

異なっていたのではないだろうか

穴が開いているのは「たまたま開けた」のではない

出雲では古代から穴をあける高い技術が存在していたことは

知られている

私は「モノ」に穴をあけるようになったのは「出雲族」では

なかったかと考えている(古墳時代初期のころか)

穴をあけたということは「紐」を通すためであり、「下げる」

目的だったと考えられる

首なのか 祭壇なのかはわからないが・・・


歴史とは面白いもので、ある特定のものが「酒屋」の跡地

から多く出ると、酒屋との関連ばかり研究する

たまたま酒屋にだけ多く残っていた可能性など念頭にない


東日本全土に普及していたものでも、時を経て東北の一部に

だけ残っていると、東北の古代文化のように思い込んでしまう

その他の地域では廃れて現物すら残されず、人々の記憶からも

消えてしまったものがあるかもしれない


その顕著なものが「月神信仰」ではないか?

・・と爺は思っている (笑)


まがたま とは、長屋の爺の妄想では、あまりいい意味ではない

「まが」とは古語で「よくないこと」「わざわい」を意味していて

「たま」とは【魂】のことである

例を挙げるなら、「まがいもの」とはどういうものかを考えると

はっきりと理解できる気がする


「よくない霊」「災いをもたらす霊」ということも考えられる

その霊(魂)を慰め清めるための祭祀に「モノ」は必要だった

この解釈がどの時代に当てはまるのか、未だ決めかねているが


一つ言えることは、この「勾玉」というものは、出雲の御宝だった

と思ってまちがいないと思う

どういう経緯で皇室の「神器」になったのかは別の機会にでも

考えてみたい・・


その道具を「どう使う」かは人それぞれである

「箸(はし)」はご飯を食べるためにだけ使われていない

そういう顕著な例もこの世には現存する

勾玉と言われるものが、どんな目的で作られ、伝えられ

どう変えられていったかは、推測するしかないのである。


一つだけ言えるのは、三種の神器というものは、古代から

あったわけではない

ある天皇の時代から、「三種」の神器に定められた・・・

これはいわゆる史実である

減ったのか 増えたのか それすら定かではないのが

日本の歴史なのである

◎  本日は休養日でした 



        DSC_0006 5



日を追うごとに寒さを感じて来た長屋の爺です

家の中より外のほうが温かく感じた今日

全身の筋肉痛と倦怠感がひどく、ぼんやりと過ごした

今日は休日というより、休養日・静養日というところか

買い物も面倒だったが、明日からの事を考えると

行かないわけにもいかず

          DSC_0004 (2)

美味いものを買って来い! と訴えかけるミコ



それではと、重い腰を上げてスーパーへ

珍しく「シマダイ」の刺身があったので購入した


現在「刺身だまり(醤油)」を探しているのだが、なかなか

気に入るものが見つからない

食べてみない事には判らないという欠点もあり醤油選びは

難題である

刺身の種類によって、溜りを変えるのが私の理想で

ワサビの辛さで誤魔化すのだけは嫌なのだ・・・・


グルメとは程遠い長屋の爺だが、拘るところが幾つかあって

数少ないこだわりの一つでもある


私が家で食事をするのは夕飯だけ、昼は外食かおにぎりw

食事抜きの現場もあり、健康的とは言えないが・・・

ヤクルト飲んでいるから大丈夫???


昼は「蕎麦」「うどん」「ラーメン」「中華」「寿司」「ウナギ」

さらには今流行の一膳飯屋「**食堂」にも行く

野菜の煮つけは、私には作ることができないので

こういう場所で「補う」ことになる


50年間朝飯を食べなかった長屋の爺だが

独身に戻ってから、体の為とか言われ、お粥を朝食にした

とたんに、恐ろしいスピードで腹回りが太り、体重も増加した

今は朝食は食べないことが多く、一杯のコーヒーだけにして

少しずつではあるが回復してきている(汗)


基礎代謝が落ちてきた老体だ

何でも他人様と同じようにすれば、良いというわけでは無い

それを実証するような出来事かもしれない

私の体は「朝昼晩」ではなく「昼夜」のリズムで生かされているようだ


          DSC_0004 4


最近、体のあちらこちらに痛みを感じるようになった

ポンコツなのだから、当然と言えばそうなのだが・・・


寒くなると外出もしなくなる

家に引きこもるのは仕方がないが、本読んでいるだけというのも

変化が無いとは思っていたが、何をするかと考えても思い浮かばず

何か「モノづくり」でも始めようかと考えている


しかし・・・字は書けない、絵は描けないのが長屋の爺

まして陶芸の素養すらない現実がある・・・

形のある「もの作り」を探しているうちに、人生の仕上げが

終わりそうである(笑)

◎  帝の軍隊の虚実と名字の雑学 


私は勝手な推測で「国防」に一番理解があるのは

福島県人だと思ってきました

その根拠は明治維新における戦いによるものだと

今でも思っています

多くの日本人は維新戦争は「錦の御旗」での聖戦

のように感じている事でしょう

ところが、戦争に良い戦争も、悪い戦争も無いとは言いながら

薩長が主体である官軍の「行状」は目を覆うことばかり・・・


戦争に負けるとはどういうものか、それを一番知っていた県民は

福島県民ではなかったか・・

金品・女性など略奪の限りを尽くし、天皇の軍隊とは名ばかりの

夜盗のような振舞いだったそうである

なぜ会津の人々は自裁したのか、武士の鑑のように思われて

いますが、略奪の様子を見れば、選ぶべき道は決まっていた

のかもしれません


天皇の威光などというものは「利用価値」はあっても、「価値」など

無かったに等しいと私は思っています


明治天皇は薩長軍の略奪行為は知っていたのだろうか?

だれでも感じる疑問ではないでしょうか・・・・


薩摩が出たのでついでに、雑学を・・・

沖縄の名字は特殊だと思っていませんか?

これも薩摩が関係しているそうです

もともと琉球(沖縄)は薩摩の影響を受けていて

本土(ヤマト)の名字を使う人が多かったという

ところが、島津氏が薩摩の領主になってからは

日本の名字を使う事を禁止して、仕方なく字を変え

読みを変えて対応したようなのである

船越は「富名腰」、徳川は「渡久川」、横田は「与古田」に

下田は「志茂田」、東は「比嘉」に代わって行ったそうだ


名字の雑学

渡辺さんという名字の方は多い

出自の元は「嵯峨源氏」であり、源融(とおる)から

昇(のぼる)→仕(つかさ)→宛(あたる)→綱(つな)と

続き、源綱が武蔵守だった父・宛の死後、母方の故郷・

摂津国渡辺に移住して、渡辺姓を名乗るようになったという

基は「渡部」から「渡辺」に変化した名字である

これは【渡部族】が住んだ地名に由来しているそうだ

渡部族とは【古代のワタリ部】、今でいう「舟渡し」のこと

古代では人を向こう岸に渡すというのは「神聖」な職業であり

「ワタリ部」の専業だったという

渡辺さんの古代の名字は【源(みなもと)】だった可能性が高い?


安倍さんという名字

元は「嵯峨源氏」から出た名字で、阿部・安倍・阿閉なども

同じ出自のようである

嘗ては嵯峨源氏の安倍氏流というものが有り

そこから【松浦氏】が出ている(下松浦と呼ばれる系統)

安倍氏は陸奥国で松浦氏を名乗っていた可能性も

ありそうだ、現在でも青森県・秋田県・宮城県・福島県に

松浦という地名が残っている


「源氏(げんじ)」と言うと、清和源氏が有名であるが、

最初の源氏姓は「嵯峨源氏」である

源頼朝など著名な清和源氏の武者が多いことから

源氏=清和源氏 と思われるようになった気がする


源氏も厳密に言えば、「十八流」あり、著名なのは

清和源氏、嵯峨源氏、宇多源氏、村上源氏あたりか・・・

他には、仁明・文徳・陽成・光孝・醍醐・花山・三条・後三条

・順徳・後嵯峨・後深草・亀山・後二条・正親町がある


名字の雑学は意外と面白いので、これからも時折

日本人の代表的な名字の雑学を書いてみたいと

思っています

◎  縄文と信仰の謎 

昨日は朔日(ついたち)で更新は休みでした

と言っても、朔日でなくとも更新できなかったかもしれませんが

月初3日間は年に数回ある「激務」の期間であり、老体はと言うと

瀕死の状態で・・・ほんの少し若さが欲しいと「無いものねだり」

をする長屋の爺です(笑)


縄文(じょうもん)

私も最近まで縄文とは「縄模様」の土器に由来する言葉

そんな漠然とした捉え方をしてきました

これが間違いと言う事ではありません

あの模様は「縄」を押し付けて作られたと言う事は動かしようが

ないのは誰でも理解できるが、どうして「縄(なわ)」だったのか

考えたことありますか?

私は有りませんでした(キッパリ)


縄とはいったい何だったかすら知りませんでした

いまでも知っているとは言えませんけど・・・・

縄の原型が「蛇の交尾」だという説を唱えた方が

居ました、その発想の基になった説が「しめ縄」の

形が「蛇の交尾の様子」ということを考えた一人の

学者の説に由来しています

その方は、故・吉野裕子氏(民族学者)といいます


なぜ「聖なる場所」と思しき所に「しめ縄」を掛けるのか?

巨木や巨岩、神社や祠など「当たり前」のように受け入れ

私たちは疑問すら感じてこなかったのが現実です

日本の神話にも出てくる神さまが「蛇の化身」というのは

定番に近いものが有ります

どうして「蛇」が神さまなのか・・・


蛇は脱皮という行為によって、新しく生まれ変わると古代人

は考えていたふしがあります

命の再生というとらえ方だったのかもしれません

蛇は冬眠します

眠る=死 というとらえ方だったのか

土の中に入って「眠る」、そして「土の中から蘇る」

眠りから覚めることも「不死と再生」の根拠と考えられます


人は死ぬと、どうして地中に埋葬されたのか・・・・

その根拠は「再生の願い」が古代人の行動心理だったのか

それとも・・・母なる「子宮」に見立てた土中に戻したのか

古代の埋葬場所は「円」若しくは「楕円」に掘られていたそうです

どうして「丸く」なければいけなかったのか・・・・

(これも宿題の一つになっています)


私は古代人が「祟り(たたり)」を意識しない時代では、再生を

願って土中に埋葬したのではないかと思っています

ケガレと祟りを感じるその時までは・・・・


縄文とは縄目の形に仮託された「蛇」だったのではないか

私たちは「蛇神」の記憶を失っていたから、蛇ではなく

縄としか認知できなかったと考えれば、古代神道へ移行

する多くの事が理解できそうなのである




もう一つ、どうして太陽神と太陽信仰、太陽崇拝は残っている

のに、「月神」とか、「月信仰」「月崇拝」は数少ないのか・・・


日本における月の神は、【月夜見】【月読】と呼ばれる神で

男女の区別もされていません

古事記に数行出てくるだけの存在でしかありませんし

男神のようにとらえられています

一部の地方では今でも「月神信仰」は存在していますが

私の思っている「月」に対する、扱いではないと考えています


ギリシャ神話では、月の女神アルテミスとして

ローマ神話では月の神ディアナ(ダイアナ)として登場します

いずれも【女神】なのです

しかし・・・日本では女神は「太陽神アマテラス」とされています

この違いというか、男女の逆に「なぜ」を感じている人は少ないでしょう


古代人とくに狩猟民族と呼ばれる人たちは、月と共に生きてきた

女性が身ごもるのは、月によって運ばれてきた水(精液)による

ものというのは世界中の神話に残っているという

月は満ち欠けを繰り返す姿から、死と再生を象徴している




私は漠然としてではあるが、月と太陽を考えるか、太陽と月を

考えるのかで、少し違ったことをイメージしている

太陽は豊穣を齎(もたら)す恵みの神として、【不変】であることが

絶対条件で、死と再生というより「育成」「繁栄」の象徴として

崇拝された、いわば「農耕民族」の感謝・願いの源だった


ところが月は水・雨を与えてくれ、死と再生の象徴でもある

潮の満ち引きも月のチカラであって、人間の体の変化も

月の力によって左右されている

特に女性の場合、月とは深い関係にあり、それゆえ「妊娠・出産」

は月の影響を受けるとされている

月の満ち欠けによって「生理」を繰り返し

月の運んできた水によって「妊娠」して

月のチカラ(潮の満ち引き)によって「出産」すると言われる



縄文人と呼ばれる人々は、月と共に生き、月が支配する

自然と共に「死と再生」を重ねてきた

どちらが先かなどと言うほど詳しくは無いが、私には

太陽信仰より先に、月と共に生きる「月信仰」が存在して

いたと思っている



天照信仰は月神信仰を奪ったばかりでなく、男女の「性」さえも

取り替えてしまった

どうして「月読神」が粗略な扱いを受けているかは、不都合な

真実が多すぎて、無いが如く扱うしか方便が無かったということ

持統帝と不比等の構想には、月読という「月の神」は邪魔な存在

その多くの「特性」「本質性」を奪い、日本の古代信仰を抹殺した

私にはどうしても、そう思えてしまうのである・・・・。


日本でも本来は世界の神話と同様に、月の女神と太陽の神という

セットになっていたように思います

その女神を「持統天皇」に仮託するためには、太陽神をすり替え

さらに、女神だったという事にしてしまった

本来の死と再生を司る女神:月読神の「女神」をうやむやにして

葬ってしまった

全ては持統天皇の「異常な欲望」によって・・・・・。


back to TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。