不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  ブログを振り返って 

私は「偉そうに」「分不相応」と言えるくらい

言いたいことを「羅列」できるブログを二つ

同時に書いている

一つは、政治や社会について、常に上から目線で

言いたい放題の状態である

(いまさら改める気持ちなどないですが)


そして、此処は歴史好きの虫を自由に遊ばせる

古代史を中心に書いているブログである


歴史と政治は切り離して書こうと決めていたが

教養の無い人間が考える事である

歴史に政治が関わらない事などあるはずがなく

気づけば政治と歴史の区別の無い二つの

ブログになってしまった


以前、このブログの方向性に迷いが生じたのは

そういう理由からなのである

しばらく考えてみたが、ブログを書き始めたのは

自分の思いを形にしたかったからであり、自分で自分を

縛り付ける理由もないかな…と思い直し

好きなことを、好きなように書いていこうと決めた


基本的にはこのブログは古代史と日本語を基本とし

「花はそっと・・・」のほうは現代の政治・社会問題など

を基本として書いていくのは変えないつもりである




私は「戦争容認派」でも「軍国主義者」でもない

普通の「日本」と「山桜」を愛する日本人であるが

私の信条は「経験」が基本であり、人から聞いたことは

「聞いた知識」でしかなく、「体験に勝るものなし」という

人生を送ってきた身である

私の体を形成しているのは、「主観」と「体現」である

どんなに著名な人物が「美味い」「素晴らしい」と評価しても

自分で体験しないものについては、白紙なのである


塩が辛いのも、砂糖が甘いのも、人から聞いただけでは

自分の感性にはならない

五感は体現するための器官として存在していて、それを使って

人間は成長していくというのが長屋の爺の持論である


スポーツも趣味も仕事も可能な限り経験してきた

それが今に生かされているかと問われたなら

判りませんとしか言えないが(笑)

礼儀だけは身についたように思う・・・


ギャンブルとて例外ではない

麻雀は12歳から、競馬は15歳から、競輪・オートは18歳から、

競艇は25歳からしっかりと堪能した


偉そうな事を書いてきたが、本当は人さまに言えないような

ろくでもない人生を送ってきたのが真実である


私は長男が生まれた日にすべてのギャンブルから足を洗った

古い友人に言わせると、長屋の爺が「かたぎ」になった

のは子供が生まれた時からだと・・・・

私は生まれてから、ず~~っと「堅気(かたぎ)」でしたが・・・



最近目にする著名な方の文章に、同意できることが沢山

あるのに、一つだけ腑に落ちない記述があって、ため息をつく

ことがしばしばある

「太平洋戦争」ということばである

私の中の辞書に、「太平洋戦争」と言うものは存在しない

あくまでも先人たちが命がけで行ったのは「大東亜戦争」

であり、日本と韓国の間の事は「日韓」であり、日本とアメリカ

の間の事は「日米」であり、太平洋戦争は「欧米諸国」の視点から

観た戦争であって、日本から観た戦争の名称は「大東亜戦争」

でなければならないと思っている


これが「どうでも良い事」に思える人は、東京裁判における

先人たちを未だに「A級戦犯」と呼ぶ部類の人たちだろうと思う

日本にA級戦犯などは存在しないのは私の中では常識である

詳しくは2015,7,15 花はそっと咲きしずかに散れ

に書いてあります


日本の知識人と言われる人の多くは「日本の侵略戦争」

という固定概念で武装していて、「反省だけでなく謝罪も

しなくてはいけない」と言う自論に、私はもう少し中立な目で

歴史を読み返してほしいと切望するのである


戦争に「良い戦争」も「悪い戦争」も無い

これは間違いないと思う

だが、大東亜戦争は「日本だけが悪い」というのは

おかしいのではないか?

戦争は勝った者が「正義」であり、負けたものは

「悪」でしかないという論理に不可解さを感じてしまう


正義が勝つのではない、勝ったから「正義」の国なのだ

どんな正当な理由があっても、、負けたらば「悪の国」と

して永久に責め続けられる


歴史とは「勝者の言い分」でしかない

冷静にとか公正にとか言っても、歴史の中に真実を

見つけ出すことは「砂浜で探す一本の針」のごときである

書いてあるから真実、とくに新聞・書籍に書いてあるから真実

と思っている日本人は多い

朝日新聞を否定する人でも、自分の考えや意見と同じような「文章」

に出会うと、盲目的に信用してしまう傾向がある

朝日の文章は理路整然と判断するのに、他には盲目的になるのも

日本人らしさかもしれないが(笑)


つまりは、私のブログに書いてあることなど、たいして内容が有るとは

思えない物なのだが、共感する人にとってはそれなりに意味あるもの

として存在している

長屋の爺はそんなところにはまるような文章しか書けていないと言う事かも

しれないが、これ以上のものが書けるほど才能も知識も無いのが現実である

人の思考など「同じ場所」にとどまるわけでは無い

考えや思いは日々変わっている

頭を柔らかくしたいとは思うのだが、この齢になるとそれも叶わない


無知であることから逃げずに、今日より明日が一つでも多くの事を

知ることができるよう心掛けたいとは思っている
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◎  上ノ宮 熊野神社 




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            ( 上ノ宮 熊野神社 )

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所在地 愛知県碧南市大浜上町1-2

創建は1054年、鎮守府将軍源頼義創建の神社


戦国時代は今川義元や、徳川家康の崇敬厚く社領等が奉納され

松平家の祈願所になったという

祭礼時の奉射神事は平安時代から行われている。


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戦国時代に徳川家康から矢場の設置を許された射小屋


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         ( 射小屋 内部 )


熊野神社碧南 奉射神事

( 奉射神事 )

安土 熊野神社碧南

( あずち《安土》 弓を射る的をかけるため、川砂を土手のように固めた盛り土

 射垜 (あむつち)から の変か? )


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奉射神事における【金的中】の奉納額と、奉射神事の式次第





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寛政十二甲申歳九月十日 と読める【金的中額】(右から二番目)

大和流 別府安元門人 尾州半田村 朝山** と読める

寛政十二年とは西暦の1800年である

いまから215年前の奉納額ということになる

なかには字が読み取れない物もあり、歴史の古さを感じる


大和流というのは江戸初期に、開祖 森川香山喜忠によって

開かれた弓の流派のひとつで、礼法に関しては小笠原流を

射術に関しては日置流を根幹としているという


伝統は守るのではなく、繋ぐことに大きな意味がある事を

実感させられる日本の遺産である

◎  爺の言い訳&皇室の宗教 

昨日から体調が思わしくない

軽い風邪だと思うのだが、くしゃみや微熱、胃の痛みを

感じている (おそらく胃腸風邪か?)

今日は絶食することにして、朝から水と葛根湯で様子見

甘酒を今飲んでいるが、季節の変わり目でもあり

皆様も温かくしてお過ごしください

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最近の不必要な善意、古代史は書かないのか?

そんな声が聞こえてきそうだが

そんなことは無い・・無いが

今は充電中というか、書きたいものがまとまらなくて悩んでいる

その繋ぎとして、皇室問題や戯言などで埋めている

いわば、誤魔化していると言うべきなのでしょうけど

申し訳ありませんが、いましばらくの猶予を・・・



秋篠宮両殿下がブラジルへと旅立ったという

何事も無い事を祈りたいものだ

ブラジルはSGIの勢力が根強い地域もある

警備の手薄さが懸念されるが、神に祈る事しかできない

というのが長屋の爺の限界でもある

留守中の親王・内親王殿下の安全にも配慮してほしいものである

とにもかくにも、何事も無い事を願い、無事の帰国を待ちたいと思う

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   ( 2015年7月 )



日本の皇室を壊し続け、侵食してきたのは「宮内庁」だと

私は言い続けてきた

それは今も変わってはいない

自分で見方を変えてみようと言いながら、変えられなかった

自分がいる


思い起こせば、皇室の伝統であり、不変の慣習を変えたのは

誰でもない・・・美智子皇后だったと気付いた

「なるちゃん憲法」などという戯言でわいた日本だった

あれは何だったか考えてみた・・・


誰しも我が子をその手で育てたい、当然の心理である

もし我が子が「五体満足」であろうとなかろうと

知能がどうであっても・・・


わたしの長男は「自閉症児」だった

だからわかることもあるのだが

親は誰の責任にもできない心の闇を抱えてしまう

どうして自分の子が・・・

その思いは日に日に強くなる人もいる



自分が守らねばという「母性」が強くなるのか

もし、早い段階で母親が異常を知ることになれば

手放すことなどあり得ない話になる

どんな手段を使っても、慣習など何ほどの事もない

ましてや、その段階では「皇位継承権筆頭」になる

2600年続く皇室の正当な継承者であったならば

どんな事をしても、とり繕っても隠したい「秘事」だっただろう

皇室改革、開かれた皇室とは、一部の人間の都合の良い

伝統破壊でしかなかったことになる


嫁に入れば、その家の家風・伝統・慣習に従うのが

日本人の定めである

それをしなかった、できなかったのは日本人の心を

持っていないか、異教徒としか考えられないだろう


皇室はすでに異教徒に占拠されている

そんなことを先日考えついたが、あまりにも異常なので

書くことを躊躇ってしまった妄想の一部である

結果的に書いてしまったが・・・風邪の熱のせいかw

泉涌寺には今でも歴代天皇の一部の位牌が納められている

政治的な理由から明治新政府は、皇室の仏教を禁じた

考えてみれば、それ以前から皇室は宗教に染まっていたと

解釈することもできる

それが仏教か他の宗教かの違いだけかもしれない・・・・

ただその両者の大きな違いは、仏教信仰と皇室神道は

お互いを妨げない良好な関係であり、異教は仏教はおろか

神道までも粗略に扱う傾向がある

仏教は絶対的な神の存在などは押し付けないし、神とは

同体である場合がある

西洋の宗教は唯一無二の神によって縛り付ける傾向がある

(宗教に疎い者なので間違っていたならここで謝罪しておきます)


私は皇室は仏教徒に戻るべきだと言う考えを持っている

現在も 孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 さらに

昭憲皇太后  香淳皇后  などの法要も営まれている

 降る雪や 明治は遠く なりにけり
   (中村草田男 作)

明治の皇室介入は遠い昔の事であり、もうそろそろ明治の呪縛から

皇室も日本人も解き放たれても良いのではないでしょうか・・・

この仏教徒になると言うのは、皇室の「踏み絵」にもなる気がします

世間で言う多くの疑念を晴らすためにも、一石二鳥といえば

語弊が生じますか・・・・

信教の自由といいながら、宗教の固定概念を偏って考えて

いるのかもしれません


多神教の日本人は、異教であっても「排除」しません

ゆっくりと「受け入れる」、そして自らの形に変え「取り入れる」

そうして千数百年生きてきた民族なのですから・・・。

◎  物事の見方と評価の違い 

物は観る角度・方向によって意味が異なる

またまた訳のわからない事を云いだして申し訳ない

私はすべての物事・事象には「二つの顔」があると思っている


例えていうなら、違法な金儲けをした人間が、知らない処で

恵まれない子供たちを支援していたとする

その人間が支援した「カネ」は違法に取得した汚れたカネ

という見方ができる

その反面、援助を受けた子供たちは、カネの出所に関係なく

生きることができた事実がある

その男には、社会の眼と子供たちの眼の両方の評価が残る

というわけだ

いろいろな意見があると思うが、残酷な言い方をすれば

カネに「目印」も「匂い」も付いてないという現実がある

これも事実の一つなのだ

全てのカネの流れを「一つ」として、一方向から観るか

それぞれの位置から観るかで評価も違ってくる


(断っておきますが、私は「守銭奴」でもなければ

経済至上主義者でもありませんし、犯罪者を擁護したり

違法で得た金を「是認」する気持ちなどはありません)


もう一つの例を出してみます

釈迦、あるいはブッダ、ゴータマ・シッダールタとも呼びますが

仏教の祖として多くの仏教信仰者の「聖人」という評価があります

彼を悪く言う人はほとんどいない事でしょう

私は彼の事はほとんど知りません、知っていることなど微々たるもの

で、残した言葉のいくつかと、彼が悟りを開いた状況の一部分だけ

その一つに、彼が「シャーキャ族の王子」だったこと

その王子が 【妻子を捨てて】 城を出て、やがて「悟り」に達したと言う事


仏教徒はその悟りによって人々が現在も救われていると評価する

しかし、王族の王子が妻子を捨てた事実には「目を瞑って」いる

現実がある

悟りを開いて仏教を開いたと言う事と、男として父親として「妻子」を

棄てたことのどちらを評価するのかという矛盾も生じる

多くの人を救った事は、妻子より優先されることなのか?

妻子の位置から見て、はたしてそれが「正しい」選択と思えたか?

これも第三者としてか、身内として事後評価するときの「位置」で

評価が分かれるかもしれない


私がスポーツを観るときに人とは違った目で観るときがある

例えば野球で言うと、逆転のタイムリーヒットを打った選手が

塁上で「派手なガッツポーズ」をして、まさに「どうだ参ったか!」

というパフォーマンスをすることがある

ホームランを打って塁上を周回するときに、相手投手を観て

「どうだ観たか!」というそぶりをする選手

私はその現実を「何と小さな人間」「何と思いやりの無い人間」

という評価を下すのだ


相手投手も「心を持った人間」であり、切磋琢磨する同じ世界の

人間である

そこで相手に打ち勝ったという結果以外に、敗者に追い打ちを

かける「狭小な了見」に失望してしまうのである


おそらく、私の見方は古臭い「武士道」のごとき思想かもしれない


相手を慮(おもんばか)れない了見の小さな人間に見える

のだが、打った選手を贔屓(ひいき)にする応援者(ファン)は

相手チームの投手の事など関係なく、喜びを共有することだろう


まして野球などと言うスポーツは「海外」から来たものだから武士道精神

を持ち出すこと自体ナンセンスなのかもしれないが・・・(笑)


よく事件が起きると、報道記者や取材者が関係者・遺族にマイクを向ける

その時の決まり文句が「今の心境を・・・」というものだ

突然の不幸な出来事に「うれしいです」「幸せです」と答える馬鹿は居ない

悲しいに決まっている、加害者に対する怒りもあるだろう

聞くまでも無い、問うまでも無いことを「当然のように聞く馬鹿」がそこにいる

それを茶の間で聞いて、何事も無かったかのようにスルーする視聴者が居る

これも現実である

私が遺族・関係者なら、テレビ局に猛抗議をするだろう

それほど「情の無い行為」「配慮の無い仕打ち」なのである

日本人が「お花畑愚民」と呼ばれる因子は其処にあり

他人の痛みは百年でも我慢できる非情さに起因している

一つの価値観を通して観ることに慣らされた国民

あくまでも「他山の石」であり、「対岸の火事」でしかない

相手の身になって考えることや、相手の立場を思うことなど

意味の無い事とするのが、今の日本人の傾向なのである


その結果・・・罪なき市民が殺されても、罰則が無期懲役という事に

疑問すら抱かない「痛みの理解できない第三者」に安住してしまう


私は「結果責任」という言葉がありながら、「原因責任」という言葉が無い事に

疑問を感じています

全ての事象には「理由(わけ)」があります


例えば、飲酒死亡事故などは「結果責任」としての懲役刑はあります

そのすべては軽度な懲役刑ですが、結果的に相手が「死んでしまった」

から、懲役刑という観点での話です

しかし、原因責任も含めて考えたとき、そもそも飲酒運転が原因だと

すれば、飲酒運転の罰則と死亡事故の罰則を足しても、加害者の

罰則は有期刑であり、被害者の命とは釣り合わない

結果として「他人の命を奪った」結果責任は異常に軽いのか

飲酒運転行為そのものの責任が軽いのかという問題です


これは「加害者擁護」の見地から罰則を作っているからだと

私は考えています

一億総活躍 などと口では言っても、被害者の命の尊厳すら

護れない国家の神経を疑ってしまいます

国のための無辜の市民を、非人道的な飲酒運転で殺したものを

微罪で済ます国家に、国民を語る資格などありません

などと・・・長屋の爺は常々考えておりますけどね



私はほとんどの政治家など信用していません

政党などどう言い訳しても、「烏合の衆」という認識です

(維新の党の姿を観れば、言わずもがなでしょう・・・)


政治家の言い分の一つに「国家が優先される」ことを

声高に叫ぶ人がいます

元総理・麻生太郎氏はこう言っているそうです

 天下国家は「公」の為にあるのだということを肝に据え、

 志高く事に進んでいきたいと思います。
 



麻生太郎氏の言う「公」が何であるか解らないので、多くは語れませんが

私の思う「公」と麻生氏の「公」が同じであることを願いたいですが・・・


【小の虫を殺して大の虫を助ける】

国家の為なら小さな犠牲など、何ほどの事か・・・・

国家を生かすには、民の命の一つや二つ

これこそ歴史上の為政者が自己弁護した言葉にすぎません

小さな「命」すら守れない人間に、命の集合体である国家を

護れることなどできないと確信しています

犠牲にして良い命などこの世にはありません

しかし、その命を犠牲にまでして守らねばならない命があること

を日本の若き御霊は私たちに教えてくれました


命がけで国のために政治活動をする政治家は居るのかもしれません

しかし、命がけで一市民の命の尊厳を守ろうという政治家を知りません


これが今の日本という国です

どう見るか どこから観るか、何を観るかですべては違って見えてきます


私にそれを実践できるか?と問われれば・・

自信が無いというのが本音でしょう

少なくとも、そのように心がけたいとは思っていますけど

◎  コメント 

時折、「どうコメントしていいかわからないので・・・」

そんな言葉を聞いて、長屋の爺はもしかしたら勘違いを

していたかもしれないと思うようになった


「どうコメントして・・・」

これを 【どんな言葉を使ってコメントするか】

そう解釈してきた

おそらく、そういう意味で発した言葉もあるはずだが

なかには「どうやって」、つまりどのようなやり方で

コメントを残したらよいのかという方もいるのか?

そんなことをふと思った・・・


それと共に、私のブログの「テンプレート」のコメントの

投稿の方法にも問題があるのか?

そんな疑問が浮かんでしまった


では、私のブログのコメントの投稿についてですが

Commentという個所の【数字】をクリックすると、

他の方のコメントを観たり、閲覧者(読者)がコメントを

残したりできる仕組みになっています



他の人には読んでほしくないなら

非公開コメント 【管理者だけに表示を許可する】 に

チェックを入れれば、内緒話もできます(笑)

(ただし、内緒コメントに、公開返信はどうかと思い、私は

内緒コメには返信は控えているが、 必ず何度も読み返して

おります)

拍手コメントも同様に、非公開コメントとして選択すれば

閲覧者から管理人へのメッセージとして機能します

(当ブログでは 承認制 を取っていますので、メールで

投稿を知り、承認するかどうかの判断をいたします)


私のブログに関わらず、忘れてほしくないのは

HNはきちんと記入すること

名無しや通りすがり、未記入というものは「失礼極まりない」と

私は思っています


一期一会であろうと、最低の礼儀だけは守るように

私は心がけています

それを他の方に強要するのもどうかと考えましたが

此処は私の「城」でもあり、私のカンバスでもあります

ルールを決めるのも主です

そんな考えから、皆さんにお願いをしている次第です


最近のFB,ツイッター、LINEの影響なのか、いきなり

本題に入ったり、会話を始める方が多くなった

効率的なのか、友好的なのか爺は未だ知らず・・・・


古来よりこの日本では 【親しき仲にも礼儀あり】

とも言います

こんにちは こんばんは を省いたからといって

得るものなど無いと思っているのは私だけでしょうけど・・・


それでも、「花はそっと咲き・・・」のブログで、私は何年かコメントを

くださってくださる方には挨拶抜きのコメントを受け入れています

あくまでも少数の読者とのつながりから判断したものです


些末な事ですが、「ブログ不必要な善意」だけは、その決まりを

頑なに護っていきたいと考えています



日本には、「礼に始まり 礼に終わる」 という言葉があります

私は 「礼」とは「霊」に対する「儀式」を連想します

「死霊」であろうと「生霊」であろうと、相手の霊に対し敬意を払う

そんなことから、人は相手に対し「礼」をするのだと思っています

剣道、柔道、弓道・・・いかなる武道でも、礼を観ればその人間が

見えてきます


勝ち負けに固執する者の「礼」に「霊儀」の匂いは感じられません

そういう意図をもって一度、武道を観戦してみてください

形ばかりの「礼」に【こころ】は感じ取れない事でしょう・・・


「道」とは結果ではありませんし、終着点でもありません

通るその時々での「心の持ちよう」を専一とすると私は考えています


最近の指導者は「勝ち負け」の結果ばかりを重視し、基本的な

相手に対する礼儀の意味を教えていないのかもしれません


外国人で日本の精神性を理解できない指導者を率先して

招へいし、勝ち負けに固執する現代の風潮にはため息が出ます


話が脱線してしまいました(笑)


コメントにはいくつかの種類があります


もらってうれしいのは、同じ線上で語りかけてくれるもの

それを仲間といっても、同士といっても良いかもしれません

ブログ更新してて「良かった」と思える瞬間です

共感は価値観の共有でもあります

こういうコメントは大歓迎ですね


もらって恐縮するのは、あまりにもブログ主を称賛するもの

世間では「褒め殺し」とか言うそうですが、あまりに過度な

ほめ過ぎは、時には少々引いてしまうこともあります

褒められて嬉しくない人は居ませんが、物には限度・加減

というものが有り、その辺のさじ加減は慎重にしたいものです


貰って迷惑なものは、ブログとは関係ない話題とか、他の

読者に関心の無い話題のコメントなど微妙なものも中には

あることが・・・

話題が「とっちらかる」ことは仕方が無い事で、私は気になりませんが

話題の内容によっては、ブログ主の器量の見せどころかもしれません


そして、もらいたくないコメントの代表は・・・

他人様のブログのコメント欄で、自分の「自論」を長々と展開

してくれる御仁たちや、腹立ちまぎれに「悪口雑言」「誹謗中傷」

の羅列を繰り広げる人間のコメント

その多くは日本人以外の方が多く、日本人でも「反社会勢力」の

一員と思しき人間と思える輩の、お粗末極まりないコメントである

私はほとんどのこの手のコメントは数行しか読みません

その後、削除して記憶からも消してしまいます

頭が良くないので、覚えていられる容量に限界があり、優先順位

の低いものは抹消しないことには生きていけません(笑)


もう一つ、素人のブログを観て、誤字脱字を論(あげつら)う輩には

大変迷惑します

自分のお金で購入した書籍類の誤字脱字なら、責任元に指摘・抗議

するのは許せるが、素人だと断っている個人ブログに、難癖付ける

研究者・有識者と思える人のコメントには閉口するばかりである


 「人の振り見て我が振り直せ」

肝に銘じたい 先人の知恵であります。
 

◎  やはり病気?妄想が止まらない 


両陛下、イタイイタイ病資料館に=患者家族と懇談―富山

天皇、皇后両陛下は24日、第35回全国豊かな海づくり大会出席などのため富山県入りし、公害病のイタイイタイ病の歴史を伝える目的で2012年に開館した富山市の県立イタイイタイ病資料館を訪問された。

 両陛下は、医師でイタイイタイ病患者を診てきた鏡森定信館長の案内で展示室を見て回った。天皇陛下は「病気はかなり前から分かっていたのですか」などと熱心に質問。1955年に最初の学会報告があり、訴訟では71年の一審、72年の二審とも患者側が勝訴して救済に至ったと説明を受けた。経緯を聞いた陛下は「10年以上たっているわけですか」と話していた。

 両陛下は、患者の家族らとも懇談。「どなたを看病されましたか」などと声を掛けていたという。

 県によると、イタイイタイ病の認定患者は累計で200人に上り、80~90代の5人が生存している。皇后さまは「痛みの中で生きておられるのですか」と心配し、医学の進歩で痛みは良くなっていると聞くと、安心した様子だった。 






ちょうど2年前になるだろうか・・・

両陛下が熊本を訪問したときに、水俣病資料館を訪ねたのは

その時のお言葉は

「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたいと改めて

 思いました」


とコメントされたように記憶している

さらに

「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、

そうなればと思っています」


と発言されたように思う


この「正しく」という基準が何であるかは知る由もないが

東宮が一人ぽっちで「公務」に出席したり、何もしない妃殿下が

「静養」という名目で羽を伸ばされ、税金を浪費することは正しい事なのか

私には理解できないでいる


皇祖神の末裔が正しい事と認識する事柄は、庶民の価値観とは異質・異次元の

ものなのだろうか・・・

なにをもって「正しい」事なのか


東宮御所は【西洋館】ではなく、【静養館】という人もいる

奉仕団の前にも「お出まし」にならず、その反面「百貨店」や「コンサート」には

頻繁にお出かけになられるご様子・・・・

それが正しいと認識するから、説諭されないのだろうと私は解釈している


「イタイイタイ病患者」「水俣病患者」は本当に苦しんでいる

その痛み・苦しみは万人の知るところである


東宮妃の「病」はそのどちらの万分の一の病状ではないか?

そんなことを言う末端の庶民すら居るのが現実だ


痒いの痛いのと言える立場ではないことが理解できないようなら

きちんと説諭して、あらためられなければ、英断を下すべき立場におられるのが

両陛下だと長屋の爺は考えます



優しい事がすべてを消し去るわけでは無い

時には厳しく物事の是非をお示しになるよう願わずにはいられない

赤子(国民)に思いを致すと言うなら、まずはこの問題を処理するべきなのでは

・・・と、長屋の爺は不敬にも考えています



英国王室のような立場なら何も言うまい

いや、何も言えないというべきか

しかし、日本の皇室は国民の税金で賄われている現実がある



義務と権利などと言うのはどうかと思うが・・・

義務を果たさない者に「権利」は発生しないのではないだろうか

皇室の一員として病気が原因で「義務」を果たせないと言うなら

病気を治すことに専念すればよいだけだ

静養なら静養でも構わない、しかし自分の気分で徘徊することに

病人という言い訳は通用しない

手前勝手な理由づけで、「義務」を果たさないなら、皇籍離脱する

のが筋道というものだろう

腐ったミカンが箱にあるだけで、他のミカンも直に腐ってしまう

皇室への怨嗟の根源は「義務を果たさない」一人が作り出すもので

結果として、まるで皇室が「悪者」にでもなったように扱われてしまう

私はそのことが気がかりなのである


オラはオラでひとりでいぐも・・・

では通らないのが「日本の皇室」なのである



適応障害という病気はストレスの原因を除去することが

最善の治療法という

何がストレスなのか?それをはっきりとさせれば、あとは

その「因」を取り除けばよいだけだ

皇室や宮中祭祀がストレス因ならば、皇室から遠ざかればよい

つまりは皇籍離脱すれば、健康な生活が戻って来る


ただ闇雲に「廃太子せよ!」とか「離縁しろ!」ではなく

論理的に追求し、解決策を国民皆が考えることも大事かも

しれないと、無学な爺は思っております

その数ある解決策の効果が無ければ、その時こそ大きな声で

「お引き取りください」と国民の意思を示せばよいと思う


ただ・・・・あまりにも政府や宮内庁のなおざりな状況を観て

このまま「無策のバトン」を次代の政権に渡し続けることに

危機感を覚える国民が多い事も理解できる


見方を変えれば、日本の皇室は「皇室神道」の宗家である

宗家の妻が異教徒であっては問題が生じる

宗家の嫁が異教徒では不適格といわれよう


皇室神道の命脈は「国民の血税」で保たれている

国家神道・皇室神道に懐疑的であったり、否定的であったり

消極的であったりする者に、血税は使わないというのが

世の道理というものではないだろうか・・・・。


またまた、病気のせいで暴言・妄想を発してしまった

御気に障るような表現がありましたらご容赦を (長屋の爺)

◎  数字の魅力 いや魔力か? 

私は占いとか運勢とかは信じない人間で、おみくじも

心の中では「浄財」の一つとしか見ていない(笑)

縁起がいい 縁起でもない というのもどちらかというと

苦手な部類である


そんな私が最近目にした「面白い数字」がある

数字自体に大きな意味は無いが、その数字に隠された

功績は「尊敬」に値するものだと思っている


許可なく掲載することに、少々躊躇いもあるが

後日お詫びすることにして、アップしてみたい


kuon拍手

ご存知の方も多いと思いますが

KUONさんというブログ主さんが書かれている

【今日も元気でいましょうね^^】 というタイトルのブログです

先日、いつものように拍手をポチッと押したら・・・・

とんでもないものが目に飛び込んできた!

それが↑の画面だったのです


数の凄さには常日頃から驚いていたが、この8並びには

私自身が驚いて、とっさにキャプチャーしてしまった


これが偶然だったのか、踏むべくして踏んだ数字だったのか

それは神さましか知らない事だが

当然ながら、この数字は私が築き上げたものなどではない

何万分の一かの足しにはなっているだろうが

読者の方の気持ちの積み重ねであり

言い方は違うかもしれないが、同士の血判のように

私は感じてしまった・・・


このままKUONさんにブログ更新を続けていただき

私自身も何とか無事に過ごして、十万という数字を踏んでみたい

そんな子供の夢みたいなものを見てしまった(笑)



私にはこの数字を踏んでもらうようなブログなど書けないが

読者を引き付けるには相応の内容が無ければ無理な話

他人(ひと)は他人(ひと)である、無いもの強請(ねだ)りや

羨むことの無い日々を過ごし、毎日に感謝する生活を

これからも心がけたいと思う事にしたい・・・・

◎  長屋の爺の妄想 

自閉気味で鬱の既往がある人間は「妄想」する

傾向にあるようだ・・・

何を隠そう 長屋の爺もその一人である


これから書くことは常軌を逸した妄想であり

長屋の爺の病気が悪化したことが原因の

言ってみれば、病人の戯言(たわごと)と思って

読んでほしいと願っています


良く言えば【突飛な空想】であり、人によっては

【不埒な妄想】ということになるかもしれません


このような理由により、お取り扱いは慎重に

お願いいたします




宮内庁が「ご高齢に配慮」、「健康状態を心配」しているわりに

露出が異常に多くなっている理由を、拙い「脳みそ」で考えてみた

心臓に不安を抱える天皇陛下、本来ならできるだけ静養をと

考える国民は多いだろう

どうしてここに来て「お出まし」が増えたのか?

どうしても外せない公務の類ではない気がするが

本人が「生き急ぎ」をしているのか、だれかが不測の事態を

待ち望んでいるのか・・・・

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このまま天皇陛下が崩御したら、誰もが憂いている

最悪の結果が待っているのは事実である


しかし、その次期天皇候補はお世辞にも賢帝とは思えない

そして今の段階では弟殿下は皇太子になる筆頭候補である

皇位継承権2位であるから、現皇室典範に依れば、当然のように

皇太子に推挙されるだろう

(皇太子・皇太孫は立太子礼を行うが、その他の皇族が

皇太子になっても立太子礼は行わない決まりがあり、

嫡男(長男)は、いかなる人物でも特別な存在として

典範にも守られている現実もある)




すると、それを望まない者たちはどういう手段をとるだろうか?

邪魔なものは排除してきた歴史が実際にあった

これは持統天皇が即位した状況に似てはいないだろうか?


皇后は天皇崩御によって、皇太后となる

いわば、皇室の長になる事を意味する

次期天皇は「お飾り」にすぎず、実権・発言力は皇太后の

独壇場である

そして、子から孫へと皇位を繫ぐ計画を立てる




持統天皇は天皇の皇子が他に居ることなど無視し

自分の子・孫に皇位を渡そうと画策した

天皇の皇子であることなど何の理由にもならない

天皇の后が「望むかどうか」が基準になった

その第一段階が「自らが力を持つ」ことだった

持統天皇の即位とは、権力の奪取だったと思っている



現在、男系男子は皇位継承権2位と3位の二人だけである

(あくまでも、現東宮が天皇に即位すると仮定してだが・・・)

何が何でも、東宮に皇位を渡し、その後東宮の子に

継承できるように手を回すくらいどうとでもなる

それには、自分が名実ともに「トップ」に納まる必要がある

それが、心臓に爆弾を抱える天皇の外出(そとで)と運動

さらに薄着の身なりなのではないか・・




あの持統天皇が「天孫降臨神話」を作ってまで、固執した

我が子から我が孫へのバトン渡しを・・・彷彿とさせるシナリオ

はすでに幕が切られている


持統天皇の場合は、次期天皇になるはずだった東宮が

急逝したため、孫に渡すまでにシナリオが書き換えられた

それが「天孫降臨話」なのである

孫が即位するのは皇統の原初にもある話で、合理的という

設定なのだろう



今の段階で「孫」と呼べるのは2名だけ・・・・

そのどちらかが不慮の・・・あってはならないことだが

そういう事態も想定できる



皇后はどんなことがあっても、今上天皇より先に逝くことはできない

そんなことになれば、国民が望む「秋篠宮即位」の可能性が高くなる

ならば、一日も早く東宮に即位させるために「鬼」になって

「悪魔の手札」を切ったのかもしれない




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↑ どこかでお見かけしたような・・・・・誰かに似ている?




男系女子の即位を可能にするには、

たった一つの障害を取り除くだけである



若し・・・秋篠宮殿下と悠仁親王殿下がテロを装った事故に遭い

命を落としたら、間違いなく「愛子天皇」が実現する

次期天皇である「ナル天皇」が早い段階で崩御した場合、その可能性は

よりいっそう高くなるだろう

その「愛子天皇」が病死でもしたとき、すでに皇太后も鬼籍に入り

皇位を継ぐ者が居なくなれば、かつて持統天皇が選んだように

この世で最悪ともいえる、皇后から「天皇」という悲劇が待っている

つまりは「雅子天皇」の誕生となってしまう

(これはさすがに、実現性が極めてゼロに近い仮定だが)

草加を背景に日本の乗っ取り計画が成功するためには

何が起こっても不思議ではないということである



増女


その先は・・・日本が日本でなくなるから心配してもしょうがない


なぜ、私がそんな不敬といわれる妄想をしたのか・・・

持統天皇と美智子皇后が別人に思えないことが一つと

細かなことは別にして、世間の声が当時と同じような気がして

しかたがないからなのである


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持統天皇(当時は皇后)が、どうしてすぐに即位しなかったのか

専門家は【称制(しょうせい)】という形(即位の儀を行わない)で

実質的な権力者になったというが・・・

即位の儀をしなかったのではなく、臣民がそれを認めなかったから

即位できなかった

つまりは、不評を買うような皇后だったと言う事ではないか

怨嗟の声が巷に溢れ、その声が収まるまで、時間を要したと

私は思っている

称制を行ったのは、天智と持統の父娘だけなのだから・・・

よほど、即位に適さない不都合な親娘だった可能性がある

私の考えでは、出自の問題だろうと・・・


最近のネットの雰囲気は、1300年前の焼き直しとも見える

歴史はめぐるかもしれない・・・・

平成の持統帝と平成の不比等によって何かが起こる



親なら誰しも子供は可愛いものである

できるなら子供に自分のすべてを継がせたい

出来の悪い子ほど「可愛いもの」も実感できる

それが間違いだと思っていても、親とは悲しいものである

その結果、【売り家と 唐様で書く 三代目】になる


自分の才覚で起こした商売なら仕方がない話だが

千年、二千年と続いてきた「大王家」の事となると話が違う

自分の身勝手は許されない特殊な世界の問題なのだから

誰でもいい 平民の娘でも・・・とはいかないのだ


不敬を覚悟で一つの仮定の話をしてみたい

現段階で何が起きたら、どうなるのか・・・である


*今上天皇の崩御

  現東宮が即位して決着、世界中の笑いものになる

*皇后の崩御

  体制に変わりは無く、廃太子論が続くことになり

  東宮一家を擁護する勢力に陰りが生じる

*東宮の崩御

  継承順位2位の秋篠宮殿下が即位 悠仁殿下が東宮となる

  現代の日本人の多くの望みが適う事になり皇統はさらに続く

*秋篠宮殿下が薨去

  皇位継承候補が悠仁殿下御一人になり、次期東宮になる

  日本の「最後の宝」として重責を担う事になる

*悠仁殿下の薨去

  近い将来、皇統男子の消滅が決定され、男系男子の継承が

  これ以後途絶えることになり、女性天皇の時代とともに

  長く続いた皇統の断絶となる



可能性はどれも二分の一、有るか無いか、右か左か、先か後か

 世の中等しく高齢の者から逝くとは限らない

不敬と言われても、いつかは迎える「その時」なのである

誰が先なのかで大きく変わることもあり、変わらないこともある


妄想ではなく事実として言えることは・・・

このままでは多くの国民が危惧する結果が待っている事実

恥も外聞も顧みず、誇りも伝統も捨てて、形を残すだけなら

幾らでも選択肢はあるだろう



本質で言えば、政治家だから尊敬されるのではない

尊敬されるような行いをするから政治家なのである

(かなり理想論ではあるが・・・)


皇族だから敬われるのではない

敬われるべき人だから「皇族」として存在する


天皇の后だから「国母」と呼ばれるのではない

国民を我が子のように慈しむから「国母」と呼ばれる


我が子より赤子(国民)を慈しめとまでは言わないが

我が子くらい「心から慈しむ」ことができないでは

話にもならない・・・


【慈しむ】とは温かく大きな心が無くてはならない

慈しむことは対等の関係では成立しないのである

大きなものが高い処から、弱いもの小さなものに対し

愛情をかける状態を表現する言葉だと考えます

国母の慈愛とは偏ったり、特定の者に注ぐものではないと

浅学ながら長屋の爺は考えます。



これはあくまでも、長屋の爺の妄想です

根拠もない 自信も無い 責任とる気も無い 戯言であり

病人のうわ言ですので・・・あしからず!

◎  躾けと神さまと天皇 

今日で11日連続の晴天だという

朝晩は肌寒さを感じるようになったとはいえ

昼中は汗ばむような陽気である


今年の祭りの花火は例年より寂しい姿だった

威勢の良くない、途切れ途切れの花火の打ち上げに

終わったのかと思えるほど、打ち上げの間隔があき

興ざめして途中で帰る人もいた

聞けば、今年は例年ほど「寄付」が集まらず苦肉の

打ち上げ方をしたようだ・・・


マスゴミの言う事とは逆に、私の周りでは「景気回復」など

実感できないでいる様子が窺える


私の住む町内では、世間並みに「老齢化」が進み、年金暮らし

の世帯が圧倒的に多い

それでも数年前までは、生活費の中から「住民の付き合い」と

して、それなりの寄付を続けてきたのだろう

年金は上がらないのに、生活費とくに消費税増税分がジワリと

ボディブローのように効き始めてきたようである

金が無いわけではないと思うが、先行きに不安を感じ

財布のひもを締めたと言うところか…


財務省は「カネが無い」といい、財政は危機的状況だと

国民に不安を与える言葉を発し

首相は行く先々の国で、財政支援を約束してくる

どうやら政府自公党の財布と、国家・財務省の財布は別のようだ


今日、久しぶりに他人の子供を叱ってしまった

相手は小学生二人

鉄道高架下の砂利(砕石)で整備された駐車場で

綺麗に敷き詰められた砂利をアスファルト道路に向かって

大量に蹴り出していたのだ

少々のことではいい歳をした爺が、幼い子供を叱るようなことは

しないのだが、その様子が尋常でないほどの時間と石の量

だったものだから・・・つい大声で叱ってしまった

ふてくされた態度で、外に蹴り出した時と同じ仕草で駐車場の中に

蹴り入れていた(笑)

当然の如く 謝罪の言葉など無く、終始無言で立ち去って行った

今の日本人を象徴する出来事のような気がした


親が子供を注意するときの決まり文句は・・・

「オジサンが観ているからヤメナサイ」

「オジサンに怒られるからやってはダメ」

「見つかったら 叱られるからヤメナサイ」

この言葉を自分の子供に言ったことある方も多いと思う

これが今の日本人の現実かもしれません


どうして「やってはいけないのか」を教えず

第三者に叱られるから「やってはいけない」と教える親たち

理屈に合わない教えによって、子供たちは「見つからなければOK」

という、頓珍漢な理屈で武装してしまう


これは昔のおじいちゃん、おばあちゃんが孫たちに「常識」と

「モラル」を【お天道様】に結びつけて伝えたことが、今では

だれも伝える人が居なくなったせいかもしれない

見知らぬオジサンなら、見つからなければ大丈夫という

浅はかな思考に陥ってしまうことは目に見えている


人なら欺くことができるが、神さまは欺けないという理屈を

昔の老人は先人から伝えられてきて、さらにそれを次の世代に

伝えてきたのだろう


しかし、あの時から・・・神さまは日本に居なくなった

【現人神(あらひとがみ)】

日本では天皇は皇祖神と一体という観念があり

大きな意味では「人であり 神である」のが天皇という存在だった

しかし、そのような観念が有っても、庶民にとっては「神は神」であり

「天皇は天皇」という認識で時を経てきた

ところが明治になり、「「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という

言葉で、庶民に対してまで「天皇=神」を浸透させた


その後、大東亜戦争が終わった 昭和21年1月1日

昭和天皇は勅書を出した

世に言う 【人間宣言】 といわれるものだ

ここで断っておかなければならないのは、昭和天皇は人間宣言した

わけではない、この勅書は「新日本建設に関する詔書」と言われるもので

ここで昭和天皇は「人間」という言葉も、「神格否定」など行っていないし

そもそも昭和天皇は自分自身を「神」などと思っていなかったのである

初めから人間であったのだから、今更人間に戻る事などあり得ない話


朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、

単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。

天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、

延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ


   《新日本建設に関する詔書より抜粋》


つまり、天皇と国民は神話や伝説に依っての関係ではなく、

「信頼」と「敬愛」によって今までも、そしてこれからも強く結び

ついていき、天皇を現御神(あきつかみ)として、日本民族は

優れていて世界を支配するべき運命などと言う事も架空の

事で事実ではない、というような意味ではなかろうか・・・


それを世界の国々では「天皇の人間宣言」として評価した

と言う事だろう


私は思うのだが、日本国民は 天皇=神 として教育されてきたから

人間宣言した天皇を観て、「神」の行方を見失ってしまったのでは

無いかと考えている

日本人の「モラル」、「大人の常識」「日本人の生き様」としての

バックボーンだった「神さま」を見失うだけでなく、心の中から

失くしてしまったのかもしれない・・と最近思うようになった


日本人として「やってはいけない事」を諭すために「神さま」がいた

日本人として「知っておかねばならない事」を教えるため「神さま」がいた

日本人として「率先してやらねばならない事」のために「神さま」がいた


だから・・・日本では古来より【神さまは必ず観ている】といい

【お天道様が観ている】という、素朴な教えがあったのだと

私は思っている。

◎  長屋の爺家の家訓とブログの紹介 

私は長男ではないので、世間で言う分家になります

そんな我が家に父の遺訓が遺っています


人様の前で・・・

絵を描いてはいけない

歌を歌ってはいけない

字を書いてはいけない




そう言い聞かされて育ち、それが正しい事だと

考えてきました


父は私とは真逆の人で、歌なら何でもござれという人で

晩年は民謡会の会長をしたほどの人だった

書は人に頼まれて書類の清書から、筆で催しの題字・看板などを書くほど

達筆な人で、元々は写真家で運動も得意、絵も弟が画家志望だった

から断念したというくらい、それなりに描ける人だったようだ・・・


その血筋は兄弟姉妹がそれぞれ受け継いだのだが

私はどうやらそのすべてを「母親のおなかの中に」置き忘れて

きたらしいのだ (笑)

その結果、「お前は橋の下から拾ってきた」と兄姉たちに

(冷たい愛情によって)可愛がられて育ちました


歌が上手い長姉、字が上手い次姉、絵が上手い兄

そんな兄姉を観て、父親の決断した言葉が↑の言葉なのだ


歌は歌わなくても生きていける

絵は観るだけなら問題は無い

しかし・・文字だけは生きていくうえで「必要不可欠」なもの

社会に出るなら、なるべく字を書かなくてよい仕事に就きたい

世の中、そんなにうまく行くはずも無く・・・

就いた仕事が会社の総務課の事務職でした

親の言いつけなどかなぐり捨てて(一念発起して)

役所文字?を練習したのです


役所文字とは誰が観ても「読みやすく」「小さく揃っている文字」

で、タイプライターで打ったように変わりなく文字が書かれている

そんな文字を私の周りでは【お役所文字】と呼んでいた


今はどうか知らないですが、当時は官公庁へ提出する書類は

第**号 第○項の定める様式で作成提出の事とされ

何もない白い紙から書類を作成する、そんな時代でした、

つまりは白紙の紙に罫線を引き、一字ずつ埋めていく作業なので

職場には模範的で、均整のとれた小さな文字を書くことが

必須のような雰囲気がありましたから、指の皮が擦り切れるほど

練習した記憶があります

しかし・・・所詮は「付け刃」であり、時間とともに字が荒れてしまい

今ではそんな文字は書けなくなってしまいました

それに輪をかけるように、パソコンのキーボードに依存して

字を書かない生活になってしまい、文字を書くのはゴルフ場の

チェックインする際の用紙に記入するくらいでしょうか(笑)

その用紙すら老眼でよく見えず、枠をはみ出た悲惨な記号と

化しています


私にとって、歌が上手い方は羨望の対象であり

尊敬すると言っても過言ではありません

そして、絵が巧みに描ける人は尊敬などと言うものではなく

崇拝したくなるような存在に感じます



以前、紹介した「龍の絵を専門」に書いておられる方を

紹介しましたが、本心を言えば「一枚【家宝】にしたいので、書いてほしい」

という願望も告げられず、時折拝見して満足している現状です(笑)


そして、今度は私の好きな「猫」の絵を描かれている方を

偶然知る機会があり、その方の絵もため息が出るほど上手で

今回は勝手に紹介してしまおうと思い立ち、許可は事後承諾で

と自分勝手な言い分で自分を納得させて、この記事を書いています

(この記事をUPする前に許可のお願いをするつもりですが)



今回の長屋の爺の一押し「猫の鉛筆画」というブログ

を紹介したいと思います


そのブログのタイトルは

くろひげ屋ニャンズと猫の鉛筆画  といいます

ブログ主さんは「黒ひげ屋」さんとおっしゃるようです

猫の多頭飼いをされている方で、猫好きにはたまらないブログです

未だコメントなど、したことはありません



お許しが出たらリンクを貼らせてもらおうと計画してます

それまではブログ名だけでお許しください

ぜひ見たいという方は、ブログ名で検索してください(笑)


追伸

黒ひげ屋さんから許可が下りました

ぜひ一度訪問してみてください

ネコ好きのかたはきっと満足すると思います

黒ひげ屋さん ありがとうございます (感謝)

◎  江戸町奉行・大岡越前守の陣屋跡 


江戸には南北町奉行所があった

南北というからには江戸市中の南端と北端に別れて

奉行所が建っていたかというと、そうではないようだ

北町奉行所は現在の東京駅の北にあり

南町奉行所はJR有楽町駅の前にあった

つまりは北に位置する場所にあったから北町

南にあったから南町というところだろうか・・・


町奉行といえば、すぐに思い浮かぶのは

遠山の金さん、大岡越前というところか・・・

遠山の金さんは、第27代 北町奉行であり

正式名は 【 遠山左衛門尉景元 】という

約3年間、北町奉行として在任している

その後、大目付に転身、さらに南町奉行に就いた

南北両奉行職に就いたのかなり珍しい事だが

他に 跡部甲斐守良弼 (老中水野忠邦実弟)だけかもしれない


そしてもう一人の町奉行といえば、大岡越前である

大岡裁きで有名な名奉行として後世に伝わっている

ところが、実際に「名裁き」をした様子は無い・・・

実際に大岡が処理した事件は「白子屋お熊事件」だけといい

早い話が、江戸町奉行とは現在でいうところの

警視庁、東京地裁、東京消防庁、国交省関東地方整備局

を足したような機関だったから、そんなに多くの裁定を

下したとは思えない

町奉行の権限だけで、他人を獄門にしたり、斬首したりする

事は出来なかったようで、重大事件の場合は上司である老中

に諮ったり、事によっては将軍に裁量を委ねることもあったそうだ


という事から・・大岡越前が有名になったのは「大岡裁き」ではない

彼の行った【消防】と【治水事業】によって、歴史に名を

残したと言う事である


「火事と喧嘩は江戸の華」

本当に江戸の火災は多く、屋根が「瓦葺き」でなく

板や萱(かや)、藁(わら)で葺(ふ)いた家が多かったから

一度燃え出したら手が付けられなかったようだ

その原因は、武士以外の者の家の屋根を瓦で葺くことを

禁じた定めがあり、庶民の住む町に一度火災が起きれば

大火事になる事が多かったのである

そんな現状を観て大岡は、庶民の家の瓦葺きを禁じる

法度(はっと)を撤回し、草木葺きを瓦葺きに

板壁を「漆喰壁(しっくいかべ)」に、土蔵造りの建物を

増やすように推奨した

しかし、重い瓦を屋根に載せるには、太い柱が必要だ

火事で焼け出された庶民に更なる出費が必要になり

なかなか思うような成果は得られなかったようだ

今のように「水」をかけて消す「消火法」というより

類焼を防ぐため風下の家を取り壊すのが一般的で

その度に家を壊すこと、類焼の危険を軽減するため

「火除け地(ひよけち)」と称する【空地】を作って

火事が拡大するのを防ぐことにした

それと並行して、「町火消」を創設したのは有名な話で

隅田川の西を担当すべく【いろは四十七組】を

東側を担当する「十六組」を設けて消火にあたらせた


日本の「消防の生みの親」ともいえる名奉行だった

のは間違いないだろう

その後、大岡越前は寺社奉行となり、大名格となったが

奏者番(そうじゃばん)には就かなかったため、城中では

いじめを受けたともいわれる

寺社奉行・奏者番という役職は大名が就く役職で、奏者番の内

四名が寺社奉行を兼務する決まりがあったが、大岡は当時は

旗本にすぎず、詰めの間(芙蓉の間)に詰める事すらできなかったため

将軍・吉宗は寺社奉行の「詰所」を設けるなどして支えたという


その後、三河国西大平に所領を与えられ、名実ともに【大名】に

なった(一万石)


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町奉行から大名になったのは大岡越前守忠相だけである


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                 大岡越前守忠相 西大平藩陣屋跡


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  陣屋跡 西方向から東を臨む


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  陣屋跡 門より東側塀部分


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  陣屋跡 西側塀部分


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  たぶん観光安内 ?  由緒書きではないような・・・


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  陣屋跡 内部西側

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  陣屋跡 内部東側

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  陣屋跡 内部南側

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陣屋跡 内部北側

内部は公園のようになっていて、一部は住宅地のようだった

住民が管理していると言うが、綺麗に整備されていて

もう少し気候の良い時に再訪したいと思っています


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おそらく これが由緒書きだと思います




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  大岡稲荷社 鳥居と本殿

稲荷社は西側の塀の先にあり、陣屋門とは別の

稲荷社専用の門が作られている

稲荷社が大事にされていた名残なのか・・・・


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  大岡稲荷本殿 豊川稲荷を勧請したとされる

江戸の大岡邸にも豊川稲荷を勧請したとされ

その稲荷は豊川稲荷が江戸の庶民にはあまりにも

遠かったため、江戸で豊川稲荷に参れるようにと

大岡家上屋敷内に豊川稲荷を勧請したという

それほど稲荷信仰に篤かったと言う事らしい

その稲荷が大岡邸を出て、豊川稲荷東京分院として

現在も信仰されているようだ


◎  皇室祭祀と伝統文化の形骸化 

最近は日本の「良さ」を再認識する傾向にある


文化伝統の中の「良さ」に日本建築も含まれる


伊勢神宮の遷宮でも、古来の建築様式を踏襲した

掘っ立て柱構造を頑なに護っている


私は明治以降、西洋の文化・知識が日本の「良さ」

を消しているように感じている


そして、伝統軽視の代名詞と思えるのが、皇室祭祀への

宮内庁の介入ではないだろうか


昭和44年、宮中三殿にクーラーを取り付けようと

入江侍従長が計画したが、皇淳皇后が反対して

事なきを得た歴史がある

宮中三殿(賢所)に「釘(くぎ)を打つなどもってのほか」という

皇后の大反対にあって、入江侍従長は断念したという


そして平成18~20年に行われた宮中三殿の「耐震化工事」

にいたっては、日本の皇室の歴史を軽んじる愚行という見方

もできる

つまり、日本古来の木造建築にみられる「耐震性」を否定し

西洋技術こそ推奨すべきという、首をかしげるような理論で

伝統建築に不要な手を加えたことにある

耐震を目的とした「筋違(すじかい)」を多用して、本当に

安全なのか、私は疑問を感じていて

皇淳皇后の言葉通り、宮中三殿に筋違を入れるという工事

は紛れもなく「釘を打ちこむ」ことになり、有ってはならないこと

見た目が変わらなければ「同じ」という半島・大陸の思考に

相通じるものがあるのではないか


昔々、日本の家屋は「床が高く」、犬や猫が通り抜けられるような

風通しの良い状態で、コンクリートの「基礎」すらなかった

その結果、床下の構造物(床組み)は乾燥し、シロアリの被害も稀だった


近年、西洋的発想の建築基準法の改定が頻繁に行われ、その結果

一般家庭でも「シロアリ」の被害が急増し、市民の負担が増大している

強固に囲い、やたらと筋違で繋ぎ、ボルトや釘で繋ぎとめる構造に

私は疑問を感じている


つまりは、現実に数百年から千年近くも、震災に耐え抜いた日本の

木造建築が有る事を、どう説明するつもりなのかと言う事に尽きる・・・



最近の報道に「陛下のご高齢に配慮」とか、「健康を気遣って」

という宮内庁の発表がある

これを額面通りには私は受け止めていない

これが宮内庁の「皇室祭祀の形骸化・簡素化」の【免罪符】になって

きているように強く感じている


最近ネットでよく聞かれる話に、「天皇の代理」という問題があるが

天皇の祭祀行為の【ご代拝】に関する話題で、世間が思っていることと

現実の違いに、私は苦々しく感じていることが有る


どうして東宮夫妻や皇后が「代わりを務めないのか」という問題だが

これは「やらなくてよい」と決められているからに間違いないのである


昭和50年、宮内庁会議室で取り決められた「皇室祭祀の改変」によって

皇室の伝統である「毎朝御代拝」を西洋式の「モーニング姿」で行い

さらに、【皇后・皇太子・皇太子妃】の御代拝を廃止したのである

これが誰の意思によって「決められた」のかは定かではない

皇室廃止論者の息がかかった者の愚行であるが、その陰でその方向

に持ってゆきたい「何者」かの意図を感じてしまう


観る方向を変えれば、御代拝が廃止されたから「代拝」できなくなった

のではなく、代拝しなくて済むように「廃止」したという事も考えられる


安倍内閣が皇室を重んじていないと思えることも多々あり

その真意は不明であるが・・・


行き過ぎた政教分離の解釈によって、「皇室祭祀」だけが締め付けられる

現実を静観することに、大いに疑問を感じている

安倍晋三氏自身は、総理大臣官邸でイスラムの宗教儀礼である

イフタールを執り行っていることの矛盾をどう説明するつもりか・・


イスラムの儀式は内閣総理大臣として主催できるが、日本の神道

の儀礼である「靖國神社大祭」に出席できない理由とは何ぞや?


さらに、東京都の施設である【東京都慰霊堂】における催事では

仏教各宗派によって執り行われている現実を「宗教分離」に照らし

どう釈明するのか・・・


この日本で本来【公】とは皇室を意味するものだった

公=政 ではないことは明白である

皇室の祭祀が「皇室の私事」とされるに至っては大きな矛盾を感じる


私が何やかやとほざいても、ただ一人変わらずに独り祭祀に臨む

天皇が居る

これも事実である


このお姿は平成の時代までかもしれないと覚悟はしておきたい

東宮がどうあれ皇后がどうあれ、東宮妃がどうであっても

天皇の祈りは未だに途絶えていないと私は確信している



法律が規則がというこの国に、明らかな矛盾と不可思議な解釈が

存在する事実を、どうして改めないのか・・・

憲法改正のその先にあるだろう皇室問題が、日本人の最大関心事に

なる日が訪れることを切に願いたい・・・。


◎  蕎麦が食べたくなって・・ 

【 走り蕎麦 】 (はしりそば)

秋の季節の言葉である

蕎麦の収穫は晩秋~初冬であり

「蕎麦刈」は冬の季節を表す言葉である

ところが、いち早く「蕎麦の収穫」をして

「走り新茶」、「走り筍」と同様に、「新蕎麦」と称して

出回るので、秋の季節の言葉となったようだ


この言葉、古い言葉のようだが実は「明治時代」に

生まれた言葉だそうで、早めに収穫した「新蕎麦」の

中でも、特に早いものを「走り蕎麦」として珍重したようである


そんな長屋の爺は、蕎麦が食べたくなってしまった

仕事で訪れた時に、遠回りしても寄る「蕎麦店」がある

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今日の選択は「ランチメニュー」

天丼+蕎麦定食 である

この店は偶然に暖簾を潜って、仲間の人間も気に入ってくれ

機会があるたびに、食べに寄る「お気に入り」の店の一つだ

この店の「目玉」は・・・タヌキ蕎麦である


私は初めての「蕎麦店」に入ると、必ず「たぬき」を注文する

タヌキのいける(美味い)店は、はずれが無いというのが信条で

この店のたぬきは、世間で言うところの「たぬき」ではない

タヌキ蕎麦は世間では「揚げ玉(天かす)」の載ったものが

一般的だが、この店の「たぬき」は、わらじが載っている(笑)

ころタヌキ蕎麦

長屋の爺の一押し 「ころ たぬき蕎麦」

ころたぬきうどん 

こちらは 「ころ タヌキうどん」

タヌキ蕎麦(うどん)の常識が崩れます(笑)

このサクラエビのテンプラ、「ジュージュー」「パチパチ」

と物凄い音を出して客の前に登場します


最初の時は、私が注文を間違えたと思って・・・

「すいません これって(たぬき)ですよね?」

と確認した代物である(笑)


「わらじ」には、きっと理由があるはずなのだが・・・

いつの日か、厨房で仕事に没頭する無口な大将に

聞いてみたいと思っています。

◎  神社と日本人 

爽やかな秋の陽光を浴びて、暑さと寒さの中間点にいる

各地では「秋祭り」の稚児行列の姿も見られるようになった

私が住む地域にある神社の「秋の大祭」は今週末だ

順番から行くと去年と今年は「晴れ」ということになる

盛大な花火も打ち上げられ、田舎の小さな神社には

不釣り合いなほど盛大な祭りになる


ここで疑問・・・

「神社」と「祭り」はどちらが先にできたのか?

それとも神社ができた時に祭りも始まったのだろうか?

このブログを長い事読まれている方は、気が付かれたと思う

答えは・・・【祭りが先にあった】である

【まつり】とは確かな語源がわかっていない言葉で

「まつらふ」から「まつる」、そして「まつり」という言葉になった

という説がある

他には「たてまつる」からという説もあるが、どうも違うような

気がしている

まつらふ→まつる→まつり→祀り→祭り ではないかと私は思っている


神社が造られるまでは、神はそれぞれの崇敬者の集まる場所に訪れた

巨石や巨木、河川や滝や山など神が降臨すると信じられた地に「祭壇」を設け

祭りの時だけ「神」が訪れたのだと思う

神が常在しないのに「屋」は必要とはされなかった

神社とは後世の人間の都合で創られた「造形物」なのである


人間というのは高いところが好きな生き物なのか

何かというと高い処から見下ろすようなことが多い

(長屋の爺の上から目線の暴言など顕著な例だろう 笑)

その理由など長屋の爺には皆目見当などつかないが

もしかすると、神社と関係があるのかもしれない・・などと

しょうもない事を考えてしまった(笑)


天皇の玉座も一段高いところにあり

徳川時代の国主や将軍なども同じように一段高い床

に座り、家臣たちを見下ろしたのである

神が高い処から衆人を見つめるように・・・

人間も高い処に座したかったと言う事か


【神社】とは神さまが鎮座する場所、神さまが訪れる場所だ

当然ながら「上から見下ろす」ことは憚られる

太陽も霊山も、巨石も巨木も滝も・・・・

人は下から【見上げる】ものなのである

だから、神さまに対しては、下から見上げることが条件で

人の目線より下に神社がある事が異常なのである

最近移転した神社は別として、村の鎮守様でも道路と同じか

少し高い位置に祀られているのではないだろうか


私の処では道路から階段を上って(七段程度か)初めて

鳥居にたどり着くような構造であり

住居地の三方のどこから見ても、神社は目線のかなり上に

創られている(東の方角には山があるため)


田舎の小さな神社である

川を渡ることもないし、橋を渡るような構造にもなっていない

だが拝殿と本殿は一応あって、鳥居も狛犬もある

由緒を信じれば創建は江戸時代とされる・・・


もし・・・この条件に当てはまらない神社が有れば

それは古代に起源を有する「古社」であり

「怨霊」を祀っている(封じ込めている)神社なのである

出雲大社を代表とする神社の一部では、神社に向かって降りていく

配置になっているところがある

神殿が高いのとは別の問題で、遠くから遥拝するにも、足元に

位置していては、神を足蹴にするような気分になる

怨霊はまっすぐにしか動けないという言い伝えがあり

そのため参道が直角に曲がっている神社は、怨霊を祀っていた

神社の可能性があるともいう


主祭神は不確かなものと言うのが相場である

祭神の変更など、其処らじゅうにある話だともいい

本当は「末社」の祭神が、そもそもの祭神だとする神社さえある


二拝 二拍手 一拝 など、明治政府が統一させた形式であり

本来の「形」が失われた神社が多い

二拝 四拍手 一拝 を行う神社は数少ないがその代表が

出雲大社と宇佐神宮である

宇佐神宮は全国四万社あるという「八幡様」の【総本宮】だ

総本宮である宇佐神宮が、【 二拝 四拍手 一拝 】であって

その他の四万社の八幡宮は「二拝 二拍手 一拝」と言うのも

考えてみればおかしな話ではないか・・・

だれも「異を唱えないのが」神社の摩訶不思議な事である(笑)

これが誰もが信じて疑わない「神社」の参拝作法なのである


私に言わせれば・・・

何度頭を下げるか、何回柏手をするかなど大きな意味などない

成り立ちや創建主旨、信仰形式などの違う「神崇拝」を

鍋の中にひとまとめにしたのが、明治政府の神社統合であり

神・神社を使った国家管理だったと私は思っている

明治4年に国家神道として細かな制度が決められ、その中で

参拝作法も統一されたと言う事だろう

地方の神社では、定まった参拝作法など無かったのかもしれない

「最近の若者は参拝作法も知らない」

こんな事を言う老人たちは、このことをご存じなのだろうか(笑)


作法が大事なのではなく、真摯に神に向き合う事が大事だと

私は考えています

通りすがりの神社でも、立ち止まり鳥居の外から瞑目し

心の中で「感謝する」

私は神に向き合うのはこれでも良いと考えている

高額の賽銭を入れ、自分勝手な願いを神に託し

作法がどうの、賽銭の額がどうの、どこそこの神社が

ご利益があるなど・・・笑止千万だと私は思う


神は私たちの身の回りに居て、常に観ている

それが解っていれば、手を合わせるのも場所を選ばず

賽銭など神は欲していない、肝心なのはどのような思いで

神と向き合うか、それ以上でも以下でもない・・・


権力者の都合で神さまを変えることは、大きな間違いだと

私は考えています

神社庁が言うのだから、宮司さんが言うから、というのは

権威に振り回されているだけのような気がします


何に感謝するのかは、個人で違いはあるかもしれない

神は神の願いを聞いてくれる人の願いを叶えてくれる

この言葉をどう解釈するかで、神さまとの向き合い方が

変わってくると私は信じています。

◎  人民皇后と藤原氏 



人には他人には告げられない過去の「秘密」の一つや

二つは持っているものだと思う・・・そして

秘密の内容に重大さがあるのではなく

秘密にすることに大きな意味があると私は思っている



藤原不比等

持統天皇に重用され、出世街道を駆け上った

稀代の貴族であり、現代にまで及ぶ「藤原氏」繁栄の

基礎を作った人物である


現代では「能力」さえあれば、出自や家柄に関係なく

成功者となる事は当然だが、この当時はすべての

基準が出自と他家との力関係に左右された時代であり

有力豪族の子弟や、皇族の縁戚に連なる物が重用

された時代だったのである


通説を信じるならば、不比等は中臣鎌足の子である

いくら父親が天智帝の側近だったとはいえ、天武朝になった

時代に宿敵の重臣の子息が世に出ることは珍しい話

だと一般論として感じてしまう・・・


どうして持統天皇は無名の不比等をあそこまで重用

したのだろうか・・・

私の自論は、藤原姓は持統天皇が不比等に与えた「姓」だと

信じていて


鎌足の話は後世の「騙り話」(捏造)だと感じている


どうして野の者とも山の者ともつかぬ不比等が頂点に

登る事が出来たのか・・・

持統天皇の即位の経緯も不可解であるが、それ以上に

天武天皇が目指した「親政政治」を根本から覆すような

不比等の重用を持統天皇は行ったのかなのである・・・


一説には、不比等は鎌足の実子ではなく、天智帝の

落胤(らくいん)であったと言う説がある(信憑性は無いが)

この話が本当なら、持統天皇と不比等は姉弟であり

親政政治に齟齬をきたすものでは無い話になる

正直に書けば・・・

前回、美智子皇后が平民から皇后になった初例だと

書いたが、その根拠になるのが不比等落胤説による

ものなのである


もし・・・この落胤説が信憑性の無い戯言なら、もう一つの皇室史

が書けてしまうことになる


不比等が実は「鎌足」の息子であったとすると、鎌足自身の

出自が謎であるから、「出自の不確かな血筋」という表現をさせて

もらう事にする

そうすると、その娘である「光明子」が聖武天皇の皇后となったのは

日本史上初の「人民(じんみん)」出身の皇后という事になる




さらに、鎌足が百済王・豊璋だったと言う説をとるなら

半島人の子孫が皇后に就くとう前代未聞の歴史になってしまう

そして、半島によるヤマト王家の「乗っ取り計画」という側面をも

見せてくるのである



これが、あながち戯言と一蹴できない理由は、戦後の日本が

半島勢力によって、どのような姿になったかを観れば

その可能性を否定することを憚ってしまうのである


歴史は繰り返す

藤原の根は現代にも旺盛な動きを持ってこの日本を

動かしている

近代では「近衛文麿」という人物が、昭和天皇の御前で

椅子に腰かけ足を組んだまま天皇に上奏したというくらい

横暴を極めた一族である

近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家を称して

【五摂家】と呼び、藤原氏が「天皇にもっとも近い一族」

として君臨した時代があったのは事実である


近年では「細川護熙氏」という首相が居たが、彼もまた

藤原の血筋を引いた人物なのである

(ちなみに、護熙氏の実弟・護輝氏は近衛家に養子に入っている)

五摂家ではないが、一ランク下の清華家である【西園寺氏】も

藤原一族である




ある人が、あの兄弟全然似ていないわね・・・

そうつぶやいたが、私は何を馬鹿なことを・・とその時は相手に

しなかった過去がある

女性ならではの「直感」だったのか?

似てない兄弟ならこの世に沢山いるだろう・・・

三流ドラマだったら、病院で「入れ替わり」とか、死産の子の

身代わりを用意されたとか・・・冗談だが(笑)




話を戻そう・・

さしずめ、群衆に向かって石を投げ入れたら、藤原に当たる・・・

これも以前書いた「血の濃さ」「先祖の数」から考えれば

あり得ない話でもない・・・


藤原氏が単なる群臣の一族という視点で考えれば、美智子皇后の

入内の先例は、かの有名な【藤三嬢】こと藤原光明子だったと言う事

になる

その光明子はといえば、歴史では「慈悲・慈善の人」、という評価であり

その反面「藤三嬢」と署名するなど、藤原の娘であることを前面に押し出し

気の強い気配も見せている女性である

記紀に「好人物」と書かれた人は、その反対に最悪の人物だったという

説もある

書き残すには「書き残すだけの理由」があるはずなのだ


強い権力をその笑みの陰に隠しながら、有無を言わさぬ強気の

言動をする・・・私は、光明子とは聖武天皇を振り回し、意のままに

動かし、洗脳した女性と思っている

自分の兄弟・身内の栄華のために、慣例など無視するような

強引な一面をものぞかせるような・・・「鬼女」ではなかったか



こうして振り返れば、「開かれた皇室」というのは

誰のために開かれたのかという疑問がわいてくる

昨今の皇室の醜聞を見聞するにつけ、私たち国民に

開かれたのではないことは明白であり、一部の人間にだけ

大きく開かれた皇室の門戸であるような気がするのは

どうしてなのか・・・・


藤原氏は千年をかけて、日本を牛耳ってきた・・・

第二の不比等は皇室を何年かけてその手にするつもりなのか


現代の「人鬼」が日本の皇室を狙っているという

はたして平成の「桃太郎」は現れるのだろうか?

鬼退治には「団子」と「家来」が欠かせないのだが・・・

さてさて どうなる事やら・・・・。




* 最近、このブログの主意を理解できない方のコメントが

 多くなっています

 自論があるなら自分のブログに書いてください

 このブログのコメント欄は「批判板」でも、「あら捜し」の場でも

 ありません

 長文で、しかも変換ミスまで指摘するようなコメは

 読みたくも無く、他の閲覧者に対し不快と考えます

 あくまでも、このブログは長屋の爺が好きなように

 書き散らしているブログですから

 常識の範囲の中でのコメントを希望します


それと・・・見知らぬ方で挨拶のできない方のコメントは

削除させていただきます 

他人の下を訪れて挨拶の無いのは失礼と考えます 

よそ様の家を訪問して、いきなりドアを開けて

用件を言う人は居ないのではないでしょうか?

些末なことですが、ご理解ください (長屋の爺)

◎  平民が入内した歴史はあるのか? 

昨日までの接続の不具合がWiMaxの置き場所に

よるものだと言う事が判明し快適な状態になった


以前、部屋の模様替えを行ったとき、機器の場所を

変えたことに原因があったということでした

幽霊を捕まえてみたら我が身だったw


さて、カナダの親父殿の間接的なリクエスト?に答えようと

思っていた矢先にトラブルで、あやうく忘れてしまいそうになり

今日は突然の休日となったため、改めてこの問題を書いてみたい

そのように考えています


皇室に一般平民から入内した女性は居るのか?

これは基準をどこに置くかで答えは変わってきます

まず「平民」をどこの位置までに限定するかという問題

皇族までなのか、華族までなのか、貴族を含めるのか

血筋は何親等までとするのか?など・・・・


あの太閤秀吉も出自を探れば「あやしい」というのが歴史である

お*田の家だけではない話にもなるが、そこはそれ・・・ざっくりと

考えてみたいと思います(笑)


最初に断っておきますが、あくまでも「長屋の爺論」ということを

お忘れなく、転載・引用は自己責任でお願いいたします(笑)


日本の歴史の天皇家(王家・皇室)に於いての入内・婚姻の

不文律は有ったと考えています

遠い昔には「蘇我氏」の娘たちが「すめらみこと」の后になると

いうことがあったり、有力豪族の娘が后になった事実など

は歴史の史料から解っていますが

大宝律令では正式な皇后に対する規定はありませんが

皇后より一段下位の妻である【妃】の資格が「四品以上の内親王」と

規定されていることから、皇后も当然内親王でなければなれないもの

とされていたとする考え方があるそうです

その時代では、統治者である天皇の后は、皇族の血筋からと

暗黙の取り決めがあったように思っています


それを出自の曖昧な「藤原氏」から后が出たことで、皇族から

という「不文律・しきたり」は崩壊したという事でしょう


私は歴史書に言うところの古代有力豪族とは、日本連合国を

形成する「一小国の王」だったと思っていますから、平民・庶民と

いう訳でもなく、皇族の一員と言えば言えなくもないと・・・

古代豪族が没落した背景は現在の皇室と似通った経緯が

あったという説も成り立ちます

推古天皇の正体も疑わしいこと

舒明天皇からの天皇の出自にも疑問がある事

その第一が「天智天皇」という摩訶不思議な存在であり

持統天皇というこれまた不可解な女性天皇の存在である

そして・・・誰もが疑問に感じる「藤原不比等」という貴族

が古代有力豪族の「出る芽」をことごとく消し去った事実で

あり、その結果としての「藤原氏」から天皇の后を出すことが

不文律になって行った歴史である


后(きさき)というものは、一般的に【天皇の正妻】のことである

しかし、時代によって古文書によっては、後宮の「女御」「更衣」

などを指す場合もあって面倒だが、此処では「正妻」という意味で

書き進めていきたい


后は「きさき」と読んでいるが、はるか昔に於いては「きさい」と

呼ばれていたふしがある

「きさい」にどのような文字を充てるかは自由なので、后ではなく

「貴・妻」でも「基・妻」、「鬼・妻」でも良いことになる

后のほかに天皇の妻&女性を呼ぶ場合、妃とか中宮という言葉を

よく見かけることがある

妃は皇后より格下の女性を指し、「中宮」は皇后と同等であって

その時の天皇の寵愛を受けている「勢い」のある女性と考えても

間違いないと思っている

では「皇后」と「中宮」がなぜ同時代に存在するのか?

これこそ藤原が創作した皇室制度の破壊の一端である


前記のような皇室入内の不文律を、横車を押して「有名無実」

なものに変えたのが「藤原氏」の最大の罪であると私は

考えている

藤原の娘を后に迎えたのは【聖武天皇】といわれる

それまで「妃(ひ)」や「「嬪(ひん)」としての藤原の女は

存在したが、皇后と言う地位に就いたのは安宿媛

(不比等の娘)が最初であった

それ以降藤原の女が皇后に就くことが多くなったのは

誰しもが知る歴史である


多くの方が知る歴史の一つに藤原定子が一条天皇の「

中宮」に、その後藤原道長が女御であった娘・「彰子」を

相当強引に「中宮」に就かせたと言う歴史がある

(歴史上例の無い「二人皇后」の誕生である)


なぜ同時に二人の皇后が認められたかは、定子が立后される

ときに、前天皇・円融天皇の皇后である藤原遵子が在位していたため、

先帝の皇后と今上の皇后は共存でき得るとした考えの下に、皇后は

同時に二人まで共存できるとされた事に始まる

(かなりの無理やり論だが・・・)

それを逆手にとって藤原道長は娘・彰子を女御から中宮へと

就けたというのが実際の歴史なのである


此処で問題なのは、定子の父親は「藤原道隆」であり

彰子の父親・道長と道隆は兄弟という間柄である

定説を信じるなら藤原鎌足の12代の末裔であるが

皇族でもない成り上がりの一族という見方も可能だ

(藤原氏を貴族・皇族外戚と考えるのが定説なので

こんな事を言うのは長屋の爺だけかもしれない)


その反面、桓武天皇以降の皇族以外の皇后は

50代 桓武天皇 藤原乙牟漏(おとむろ)

52代 嵯峨天皇 橘 嘉智子(かちこ)

60代 醍醐天皇 藤原穏子(やすこ)

62代 村上天皇 藤原安子(やすこ)

64代 円融天皇 藤原媓子(てるこ)・藤原遵子(のぶこ)

65代 花山天皇 藤原忯子(よしこ)


など、90代 亀山天皇までの間は藤原の女が皇后(中宮)

に就く時代が主流となっていた

ただし、これは表面上の話であり、藤原の女が産んだ子は

藤原の「血」を継いでいる 
のであって、内親王といえども

皇統であるのは事実だが、下々の血統でもあるという微妙な

問題が残り、皇族の定義は「皇室で生まれた」という以外に

大きな根拠を持たないともいえるかもしれない

(屁理屈のようで申し訳ない・・・)


おそらく近代皇室の、旧皇族、旧貴族、旧華族以外を

庶民とみなすという視点からいうと、庶民から入内したのは

数少ないと思っている



藤原の女と言う肩書にはなっていても、かつては「養女」と

いう制度もあって、血筋より家柄が前面に出てくる時代背景

があり、聖武天皇の生母・藤原宮子などは藤原不比等の娘と

言われているが、実際はどこからか養女として藤原の家に

迎えられ、「政略」の道具として皇室に送り込まれたという

説もあるくらいだ

(だから、不比等の娘である正妻・光明子とは形式上は姉妹であり

ながら、実際は他人と言う説もある)

それが事実なら、宮子は出自の不明な平民の娘という見方も

できるが、日本最大の貴族の娘という看板は疎かにはできない



結論として、旧皇族、旧貴族、旧華族を基準として皇室を

観るとき、一般庶民(平民)かの家庭から入内した「国母」は

美智子皇后が最初ではないだろうか

そして次代の皇后候補として平民としてばかりではなく、

その出自を明らかにできない皇后候補など前代未聞と

言うべきなのだろう



皇紀2600年とか125代の皇統とかいう歴史を誇るのなら

尊崇に値する人品であるというだけの、情報開示をして「皇后候補の出自」を

国民に明示するべきことこそ、皇室を支える国家政権の

務めかもしれない思うのだが・・・・


恐れ多くも「東宮妃」の出自を疑うとは何たる不敬な・・・

これを「不敬」の一言で片づける国民こそ、日本の皇統・皇室を

危機に落とす片棒を担いでいるのかもしれない


家柄と人柄はリンクしているものであると断言できる

由緒正しい「貧乏家」に生まれた私・長屋の爺を冷静に

見つめ返せば、それは確信にも感じてしまう

所詮、下世話の貧乏一家に生まれた人間の知性や教養、

人柄など語るほどのものなど皆無であり、人から尊敬されるような

育ち方も生き方も出来なかったという事に尽きる

秋篠宮ご一家を遠くから見ていて、確信する長屋の爺である


このまま東宮が即位する事態になれば、この国の天皇制は

間違いなく瓦解する



人(臣民)をひれ伏させるだけの権威は残念ながら今の

皇室には無い

敬慕されるにはそれ相応の根拠が必要だといえる

その対象の人物が「出自が曖昧」だったり、「品性」が欠如して

いたり、成すべき公務を成さないとなれば、それは非難・排除の

対象となるのは必定である

どんなに酌量しようと試みても、あの状況では「税金泥棒」と

呼ばれても致し方ないありさまなのである



現代の藤原氏は何を成そうとして、何をな成さんとしているのか

皇室制度を破壊する現代の「不比等」はだれなのか?

この答えはネット上のあちらこちらに散在しています

過去の歴史から何を学ぶべきか、何を注意すべきかは

自分自身の胸の中にあります

闇雲に反対するだけではなく、しっかりとした反対すべき

否定すべき論拠・根拠を磨くことも大切だと私は愚考します




日本の神道、皇室を壊したのは、明治政府であり、現代の宮内庁

であるという持論は揺るぎない長屋の爺です。

◎  昨日の出来事 そして江戸時代考証 

昨日はどうやってもブログ閲覧もブログ更新もできず

3時間の格闘の末、ネットは諦めて「不貞寝(ふてね)」を決め込んだ

兎に角、何度も挑戦してホーム画面は表示できるのだが

そこからどこにも行けず《このページは表示できません》の繰り返し

今日も、先ほどまで《表示できません》だったのだが、突然に

このページに来ることができた(笑)

パソコンのせいか、WiMAXのせいなのか、誰かの陰謀なのか?


江戸の時代考証の間違いのつづきです・・・

仇討ち物は日本人の「判官びいき」の琴線にふれるのか

今でも人気のあるジャンルですが、これについても

大きな誤解があると言う

仇討ちは武士の特権ではない

江戸時代に武士以外の仇討ちは知られているだけでも

30件ほどあるという

その内、百姓(ここでは農業専従者とする)が特に多い

どうして百姓が多いのかは不明だが・・・

仇討ちは武士限定ではなかったことは確かなようである


江戸に住む主君を持たない武士のことを「浪人・牢人」と呼ぶ

武芸を修めて「町道場」を営む道場主・武芸者などは

武士の恰好をした《百姓》として分類される

武士の定義とは、幕府から禄(ろく)を貰っている旗本・御家人

など(彼らを幕臣と呼ぶ)

大名家から禄をもらっている者(これを陪臣と呼ぶ)


上記の者以外の「武士」とは、定義としては「百姓」となる


忍者

サミットに合わせて「忍者」を知ってもらおうという企画が出されたとか・・・

この「忍者」もかなり誤解されているところがあるという

忍者と言えば、甲賀(こうか)、伊賀(いが)、根来(ねごろ)が有名だが

それらを称して【御庭番(おにわばん)】と呼んだりする

この「御庭番」という呼び名は八代将軍・吉宗の時代からとされる

それ以前の時代設定で、この呼び名を使う時代劇が有れば「?」と

思っていいようだ・・・

そもそもこの御庭番は、御三家の尾張家と将軍・吉宗の確執から

誕生したようなものであり、八代将軍が紀州出身の吉宗に

決まったのち、後継争いのために陰で暗躍したのが、

紀州家の【薬込め役】と呼ばれる者たちと、尾張家の【御土居下同心】

と呼ばれる者たちであり、その後「御庭番」と呼ばれるようになる

この確執、尾張・徳川宗春の失脚によって、鎮静化していった


忍者のルーツは山野に暮らす山の民【サンカ】だともいう

自然界の薬草に詳しく、毒殺などは得意分野だったのかも

しれない

若くして次期頭領と嘱望された徳川将軍家、御三家の後継候補が

不審死した考えられる記述も伝えられている

はたして・・忍者の仕業だったのかどうかは知る由もない


忍者と言えば【手裏剣】である

これも大きな誤解があると言う

私たちがドラマでよく見る「十字手裏剣」というものだが

四方に突き出た刃をもったもの十字手裏剣

これがどこまで実用されたのか少々疑わしい・・・

「手裏剣」はどうして手裏剣と呼ばれるのか?

手の裏に隠し持ち武器として使う小さな剣ではないか

その名前の由来からしても、どうも本来の手裏剣とは異なる

と思ってしまう

十字手裏剣や六方手裏剣、卍手裏剣など多種の手裏剣が

伝わっているが、殺傷力からいえば、「刃先」に毒を塗って

相手の動きを止めたり、命を奪ったりする道具(武器)である

そのような形状で毒を塗っておけば、誤って自らの命を危険

に曝すことにもなりかねない

毒を塗っていなくとも刃先で指を斬ったりする恐れはある

香取神道流棒手裏剣

これは「香取神道流」に伝わる【棒手裏剣】とよばれるもの

この形状なら刃先を一定にして、革袋などに束ねて持ち運び

手の中に隠せば、腕に隠れて相手に気づかれる可能性は少ない

至近距離からでも容易に命中させることができる


十字手裏剣などは正式には流派として伝わってないかもしれない

これはあくまでも私の個人感であるが・・・



徳川幕府の所領地(直轄領)を「天領」と呼んでいるが

これは間違いであり、正しくは【御料(ごりょう)】と呼ばれた

天領と言うのは明治新政府が都合の良い言い換えを

したものである

また「藩」というのも、本当は【大名領】と呼ぶべきであり

「藩士」とは本当は【家臣・家来】と呼ぶべきものだ

そもそも大名は「藩主」などではなく、【領主・国主】である

だから、幕末のドラマで【脱藩した】という台詞があれば

大きな間違いと思っていい

その当時「藩」という言葉が無いのだから、脱藩できるわけ

無いのである(笑)

1703年より前の時代設定で、「藩」という言葉が使われていれば

「アウト」なのである


機会が有れば、大岡越前や鬼の平蔵なども書いてみたい

と思っています。(あくまでも 古代史の箸休めですが・・・)

◎  純金のガンダム  

純金のガンダム、2000万円の輝き…35周年
     《Copyright © The Yomiuri Shimbun 》




黄金色のモビルスーツといえば・・・・

シャアが駆る「百式」と相場は決まっているが

一キロの純金のガンダムなら観てみたい気がする

だれか大阪の人~ 観てきて感想を聞かせてくださいw


値段が2000円なら、すぐにも買えるのだが・・・

桁(けた)が違い過ぎて話にもならないわ


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(長屋の爺のコレクション 百式StandArt)



どうして人間は「黄金色」に魅了されるのだろう

金属なら他にもたくさんの種類がある

希少価値を言うならもっと少ない金属だってあるだろうに・・・・・

どうして「金」なのか、誰か教えてくれませんか・・


あおによし 奈良の都に咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり

この「あお」は鉄の事だともいい、「に」は丹のこと、つまり朱(水銀)

のことを指していると言う説もある

奈良の世は、金ではなく「鉄&水銀」が魅力ある金属だったのか

身に着け眺める「黄金」ではなく、物を作る道具や武器として

硬くて上質の「青光りする鉄」が最高の金属だったのだろうし

極楽浄土に行く早道であったり、不老不死の秘薬としての「丹(に)」

こそ、何よりも大切な金属だったのかもしれない


平安の世なら「金」が一番だったのか・・・

東大寺盧舎那仏は鍍金が施されていたという

と言う事は、平安ならば「金と丹」が大切だったのか

金鍍金するには水銀は不可欠なもの、切っても切れない深い

関わりがこの金属にはあるのだから


今なら「金(きん)と金(かね)」が一番か(笑)


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(長屋の爺のコレクション 百式 FW)




金(Gold)が嫌いな人間は居ないだろうが、縁(円)の無い人間も

世の中には居るものだ(笑)

「金&カネ」と名の付くものには、とんと見放されているのが長屋の爺だと

最近つくづく思うのである

これも また人生か・・・・。

◎  間違って教えられた江戸時代の現実 


最近になって、教育の怖さが話題になる

お隣の国では「日本は敵」と学校で教育している

「日本は我が国を侵略した」

「強制的に女性を性奴隷にするため連行した」

事の真相はここでは取り上げないが、確かに教育が

間違った常識を定着させるようだ


しかし、かの国ばかりとは言えないようである

我が国日本でも、教育の場で「明らかな嘘」が

まことしやかに教え込まれていたと言う事実がある

それが現代まで続いていると聞いたら・・・・


私たちの99%までは「士農工商」という身分制度が

有ったと信じて疑わないだろう

これは明治政府が偽りを教育の中に取り入れ

さも、江戸幕府が庶民を差別・酷使していたと

洗脳するために、学校教育に取り入れたものを

誰も糺そうとはせず、現在に至るまで常識として

通用してしまっている


まず始めに、【百姓(ひゃくしょう)】という言葉だが

私の子供のころは「百姓」という言葉は差別語と教わった

同級生に農家の子が居て、「お前ん家 百姓か?」

と言ったら、教師が「百姓と言うのはやめなさい」

「きちんと農家と呼びなさい」と咎められたことがあった


ところが、この「百姓」は差別語でもなんでもないと言う

むしろ江戸時代では「農民」のほうが見下した差別語で

あるという   どういうことなのか・・・


そもそも江戸時代に「士農工商」などという身分制度は存在

していなかった

これは明治政府が創作した身分制度である

言葉としては確かに江戸時代から「士農工商」というものは

存在したが、「武士業、農漁業、工業、商業」という業種の

区別であって身分・階級を示すものではなかった


百姓とは農業だけに限らず、複数の業種をこなす人を

意味することだった

つまり、百姓=農民 は成り立たない話なのである


あくまでも明治政府は武士の時代が悪い時代だったと

思わせたい意があり、だから討幕して「新しい政治」を

始めたという言い訳にしたかったのかもしれない

これも考えてみれば、勝者の論理で物事が定められた

一つの事例ということだろう

現政権は前政権を悪し様に言う事が慣例であり

とくにクーデターや政変に於いては、「だから滅ぼした」

という言い訳に終始するのだから・・・


以前、名前の話の時にも書いた気がするが、武士だけでなく

農業・工業・商業に従事する者でも「名字」を持っていた者

が存在したし、身分制度など無いのだから武士が他の職業

に代わることも普通にあった

その反対に百姓が武士に成ったり、商人が武士に成ったり

することも特別なことではなかった

一例を挙げれば、幕末の重臣【勝海舟】も農民身分から

武士になった人である


考えてみれば、学校教育ばかりではなく実社会の中でも

常識化された「本当?」という事例も数多くあって

様々な書籍も「常識外の常識」をもとに書かれていることも

多いような気もします


例えば、日本女性の鏡とも受け取られかねないお辞儀の

なかに「三つ指をついて」お辞儀をするというものが有るが

これも大きな間違いと思っている

この三つ指をつく所作は、もともとは吉原の花魁(おいらん)が

深く頭を下げると髷(まげ)の形が崩れることを嫌い、簡素な

形式のお辞儀を始めたことから広まったものだそうだ


武家の女性は背筋を伸ばし胸を張り額が床につくほどの

深いお辞儀をするか、全く頭を下げないかのどちらかだった

と聞いた


今では常識と言われるものの中に、武家社会と庶民の

間にあった差異のうち、一般庶民の所作が日本の常識として

定められたゆえの間違いが「常識化」して定着している


膝をついて両手で襖(ふすま)を少し開けて・・・

これなど日本女性の「しとやかさ」を表す所作と誰しも

思うのだが、これは「商家」などの女子が行う所作である


武家の女性はと言うと、つま先が入るくらいの隙間を手で開け

胸の懐剣に手を添え、つま先で襖をあけたという・・・

何事が有っても「武士の嗜み、矜持」を忘れない生活が

そこには存在している気がします


他にも江戸時代前後の間違った常識は数多くあります

機会が有れば、もう少し書いてみたいと思います。

◎  神道という語 

 神道

今日は神道について考えてみたいと思います

神道と言う言葉(文字)が最初に現れたのは

奈良時代に成立したと言われる【日本書紀】の中

【天皇 仏法を信じ、神道を尊ぶ】 (用明天皇即位前期)

という表現が初出という

ところが・・・それ以降、神道という文字は何処にも見えなく

なってしまい、平安になってその文字を見ることができる

ようになる

突如として平安中期に神道と言う語が登場するまでは

どうなっていたのだろうか?

ある説によると、日本書紀に見える「神道」と平安以降で

使われる「神道」は別のものではないかというのである


日本書紀にいう神道とは、「神々」のことかもしれない

という説がある

神道の起源をどこに定めるかによって、解釈も多様になる


縄文時代には日本の民俗信仰・民族宗教として成立していた

あるいは、奈良~平安時代に独自の宗教として自覚された、又

室町時代以降、仏教から独立して神道として確立された・・など

諸説ある


此処からは私の考えになるが、最初の縄文時代から成立して

居たと言うのは承服できない説である

そもそも縄文の古代宗教は「アニミズム」が主体であり、特定の

人間(神)若しくは神の末裔を崇める事など納得できないし

周囲にある万物に神が宿るとされた原始宗教に似合わない

と思える日本神道の形式なのである


では奈良・平安時代に独自の宗教として自覚されたと言う説

私はこれが一番現実的だと考えている

暴論と言われるのを覚悟で言えば、7世紀終盤~8世紀初頭に

特定の人間たちによって【創られた】宗教形態ではないかと

思っている

それ以前に神祭りの記述が残されているではないか!

そう言う人もいるだろうが、その解釈の基は何かと問えば

「日本書紀に書かれている」という答えが返ってくるだろう

そう・・・すべての判断基準は【日本書紀の記述】なのである

藤原不比等の血統の正統性と、持統天皇の即位の正当性に

欠かすことのできないものが有るとすれば、おそらく神によって

民を支配するシステムが必要だったことが考えられる


出自も曖昧な藤原一族、天皇即位の正当性を疑われる持統天皇

その両方を一気に解決する手段が「神道」による歴史創作だった

もっと極論を言えば、持統天皇も元明天皇、元正天皇も【演者】の一人

だった可能性すらある

監督・脚本・構成は「藤原不比等」という天才だった

アマテラスという巫女を太陽神とすり替え、持統天皇を反映させ

日本国が女神の国というシナリオを描き、女帝である持統天皇が

即位するのは当然であり、原初は天照大御神という女神から

始まった国であるかのように創作したのである

しかし、それがすべてでは無い・・・

隠された歴史を巧妙に書き換えながら、現代とは違う意味の

死者に対する「怖れ」を抱いての歴史創作であり、その結果

過去の為政者たちを天上の「神」として、時には日本土着の

「神」として、社の内に「閉じ込め(封じ込め)」た気配がする

それが【禁足地】であり、古代神社なのではないだろうか

当初(8世紀初頭)は、祟らないように「祀り上げた」のだろう


その背景にあるのが、各地で独自に信仰されていた神々たち

を如何にして一つの線でつなぐのかという問題だ

各々太陽神や氏神、地主神を有していたと考えている

それを否定することは「統治」するうえで思わぬ障害となる

ある神は天津神として、またある神は国つ神として遇した

その多くは藤原政権に仇成す恐れの低いものだっただろう

しかし、祟る可能性の高い神はおそらく「封じ込め」にあった

と思われる ヤマト国家成立における最大の敵であった

出雲の神々である

沢山の名前がある神に納得できなかった時があり

今にして思えば、それを端から同じ神と考えたから難解

だったのであって、出雲の別の神々と思えば納得できるのである


8世紀初頭に日本各地に神社が建てられたり、祠が整備されたが

すべて藤原作品の小道具ということも考えられるのである



◎  鬼と人鬼 

ようやく暑い日々から涼しく感じるようになった

体調不良のため夏物と秋物の入れ替えが滞っていて

今日ようやく完了した

主夫は何でも自分でやらなければならない

扇風機や衣類・寝具まで、秋冬仕様に様変わりして

部屋の中がスッキリした気がする

じきにコタツが出てきて狭い空間に変わるまでの

一時の仮の姿ではあるのだが・・・



昨日のつづきを書こうとPCの前に座ってみたが

腰はヘロヘロ、肩はパンパン、足もつりぎみ

頭の中は空っぽの状態である

昨日のつづきは明日という事で・・・・



人は「恨み」「妬み」を心の中で増殖させると

【人鬼(ひとおに)】になるという

この世の中で一番怖いのは「鬼」や「幽霊」ではなく

人鬼であると言う説もあるくらいだ・・・


天は「鬼」を造り、その後「人」を作ったそうだ

「鬼」には力を与え、力の無い「人」には知恵を授けたという

鬼は本来【善悪】などに無関係なものだった

「悪鬼」とは知恵を身に纏った【人鬼】だそうだ


どうして鬼は退治される運命なのか?

永い事答えが出なかったが、これを知って合点がいった


退治されたのは鬼でも人鬼でもなかった

退治した者こそ、「人鬼」だったのではないか・・・

邪(よこしま)な気持ちを増殖させた人鬼が悪鬼となり

人や鬼を退治(殺戮)したのだろう

退治された鬼は善悪などとは無縁のもの

そう考えれば、おとぎ話や昔話に納得できる気がする

突然、わけのわからない話を書いてしまいました(笑)

子供のころ、夜になってトイレにひとりで行けない事を

母親が父親に告げ口したとき、父の言った言葉を

思い出したのである

「この世で一番怖いのは、恨みを抱いた人間だ」

「よからぬことを考え、行動するのは人間だけだ」

「鬼は悪さなどしない・・・」

およそ、こんなことを言ったと記憶している


きっと、戦地で人間の醜い部分を見続けたから

そんな言葉が出たのだろうとおもうのだが・・・

人は皆、鬼に変わる素質を生まれながらに持っていて

人に害する「悪鬼・人鬼」となる可能性は

私にもあるような気がするのである。

◎  神社のおさらい 

通説では縄文時代は狩猟を中心にした時代で

弥生時代は稲作を中心とした農作文化というのが

常識であり、学校でもそう教えられた人が多いのではないか

それって本当だろうか?

歴史だけを観るとそういう解釈も可能なのだが

考古学や科学というフィルターを通してみると

意外なことが解ってきた

弥生文化を水稲(水田稲作)を伴う文化としてきた

常識が崩れ始めている

九州北部地域で紀元前10世紀には稲作が始まっていた

という研究発表が出たことで、従来の常識が揺らいできている

弥生時代は、縄文時代と古墳時代の間に位置する

紀元前3世紀中頃から紀元後3世紀中頃の時代を一般的にそう呼ぶ


新説ではそれより700年も前に、稲作が九州北部でおkなわれていた

ということを、炭素14年代測定法という科学で解明してしまった

常識や定説・通説は日々変化していることを思い知らされる


稲作文化を調べると、とても興味深い事が次から次へと出てきて

あやうくのめり込みそうになった長屋の爺である(笑)

九州北部から瀬戸内西部地方に伝播するのに要した期間は

およそ二百年ほどかかり、摂津・河内には約三百年

奈良盆地には四百年、中部地方には五百年の時間を要しているそうだ

さらに南関東地方には六百年~七百年ほど時間がかかったともいう

ところが東北北部地域には紀元前4世紀には稲作文化が伝わっていた

南関東よりも早く稲作が東北北部に伝播していた事実・・・

その東北北部では紀元前1世紀には稲作を放棄していた事実も

解ってきたと言うから驚きである

ここで何百年と簡単に書いているが、よくよく考えてみると

九州から南関東に稲作が伝わるまで、6~700年もの時間が

かかったという事は

平安から平成までの時代の間を経てようやく伝播したと言う事は

気が遠くなる時間を経て稲作は日本の半分を旅したことになる

今なら短時間・短期間で日本全国に新種の作物が知れ渡り

耕作・栽培される時代になっている

誰がどのような手段で稲作を広めたのか・・・・

農耕民族とか狩猟民族という区分けも、観点を変えなければ

いけない時代になるのかもしれない


神社の「おさらい」をしてみたいと思います


神社

これは誰でも読める漢字で じんじゃ と読む・・・

本当にそう思いますか?

この漢字【神社】を使うようになったのは・・・

じつは、明治時代からだと言う事をご存知ですか?

それまでは神社ではなく【ヤシロ(社)】、【ミヤ(宮)】の

語がもっぱら使われていました

古事記・日本書紀では神社は「かみのやしろ」、神宮は「かみのみや」

と読んでいます

ヤシロは「屋代(や・しろ)」であり、「屋」そのものではなく

屋を建てる領域(区域)を指していたと言います

神を迎えて祀る「まつり」のときに、簡素な神殿を建て

終われば取り払い「聖域」として残された場所

それを古代人は「ヤシロ」と呼んだと言う事です


神霊の依り代(よりしろ)として祭祀の対象となった岩

これを【磐座(いわくら)】といいます

聖域に樹木や枝を立てて祭壇としたもの

これを【神籬(ひもろぎ)】といいます

岩や石を積み重ね(並べ)て作られた祭場

これを【磐境(いわさか)】といいます




奈良時代末期以降に「神社」「社」のことを

【モリ】と読むようになります

どうして、そう読まれたのかを考えると、神社とは

鬱蒼(うっそう)と茂った森そのものだった可能性も

考えられます

聖域では樹木の伐採が禁じられ、樹木が生い茂るのを

ただ見つめるだけの環境で樹木は伸び伸びと

成長していったのではないだろうか

当初は草原であったかもしれない聖域でも、樹木が伐採される

ことも無く、徐々に豊かな森へと変化していったのかもしれない


現在でも路上の古木に祠が建てられ、神社として伐採を免れ

存続している古木の名も無き「社」が数多くある

聖域では樹木の伐採は禁じられていた名残の「生き証人」と

言えるのかもしれないですね


それにしても、神社という漢字一つとっても

明治から後に常識化された言葉・文化の多い事・・・

明治維新と神さまは深い因縁があると言う事なのでしょう

良いか悪いかは別にして・・・・・。

次回も神社と神さまについて考えてみたいと思います。

◎  ヤクルトスワローズ優勝おめでとう! 

プロ野球 ヤクルト・スワローズが優勝を決めた

私はスワローズ・ファンを自認しているが、その歴史は

国鉄スワローズ時代からである

今でこそ多くのファンに支持されている球団だが

嘗ては万年Bクラス、最下位が定位置と揶揄される

弱小球団だった

国鉄時代に一人看板だった「金田正一」氏が巨人に移り

当時の状況は惨たんたるものだった・・・

そんな時期に私はスワローズファンになった

少年野球をする子供の9割がジャイアンツのファンという時代

巨人・大鵬・卵焼きの時代でもあった

国鉄スワローズ→サンケイスワローズ→サンケイアトムズ

→アトムズ→ヤクルトアトムズ→ヤクルトスワローズ

球団の歴史の流れはこういう具合に変遷してきた


私はスワローズファンと言っても、FAN(ファン)と言うより

FUN(ファン)と言ったほうが近いと思っている

FUNとは、楽しむと言うような意味だ

勝敗に一喜一憂せず、静かに声援を送る

とにかく、選手に野球を観戦する【楽しみ】を与えてもらっている

選手やベンチスタッフと共に「楽しませて」もらっているという

現実が重要なのだと思っている

今の時代のファンには申し訳ないが、監督や選手に罵声を

浴びせることの意味が理解できない私である

チームの勝利のために、ひたむきに努力・精進するプロ選手に日頃

から楽しませてもらっているお返しが「罵声」や「やじ」では・・・

そんなに不満なら「ファン」を止めてしまったらどう?と思ってしまう


最下位でもいいじゃないか・・

楽しく見れないなら応援しなけりゃいいじゃないか・・・


スワローズの古いファンは「ジャイアンツにだけは負けてほしくない」

そういう希望を抱き続けている(笑)

勝ち負けに「こだわる」のは、その一事だけである



今でこそ神宮球場は入場者が多いが、私が神宮に応援に

行っていたころは、巨人戦以外は空席が目立つ状態だった

少しでも応援を多く見せたい、感じさせたいという思いは

その当時から強かったように思う

凡打で終わっても、ベンチに引き上げて来る選手を拍手で

迎え、次の打席が良い結果になるように温かい声援を送った


チームが低迷すると「監督辞任」がこの世の常になっている

これほど理解不可能なことは無い

采配や選手起用に著しい欠陥があるならともかく

試合をするのは「選手」である

どんなに素晴らしい指示(サイン)を送っても、選手が監督・コーチの

思い通りの結果が出せなければ、監督もコーチも成す術など無い

ではないのか・・・

これが監督・コーチの責任問題にするほうが異常である

そこまで責任を追及するなら、オーナーや球団社長が監督を

兼任してベンチに入ればよい・・・と思ってしまう(笑)


監督とは選手が気分よく日頃の練習の成果を発揮できる

状態にしてあげることができるかどうか・・・

何処かの球団のように、選手がプレッシャーで萎縮する姿を

見るにつけ、そう確信するのであるが

真中監督に「思う存分プレーしてこい」「後の責任は俺が取る」

と言われて、萎縮する選手など居る訳が無い

【後顧の憂い】がない者こそ、結果が残せるのかもしれない

本当に優勝おめでとうと言いたい・・・・。

◎  常識という厄介者の正体 

常識とは一体何だろうか?

簡単なようで実は非常に難しい言葉です

常識とは・・・

とある書籍には・・・こう書いてある

常識とは「思い込み」である


確かに自分では常識と思っていたものが

本当は非常識だったことが私にも思い当たります

「あなたの常識は本当に常識ですか?」

「もしかするとあなたの常識は非常識かもしれません」

こう言われてしまうと否定も反論もできない自分がいる

それほど自分の中の常識とは不確かなものかもしれない

物事を考えるとき、人は「前提」をもとに思考を巡らせます

その前提こそ「思い込み」なのではないでしょうか・・・


常識とは、いつの間にかそう思い込んだ誰かの意見だ!


仏教の中に【托鉢(たくはつ)】というものが有ります

笠をかぶったお坊さんが手に鉢を持って、家々をまわり

お布施をもらう行です

お釈迦さまは托鉢に向かう弟子たちに、こう言ったそうです

「お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って托鉢を

してきなさい」

(本当かどうかは不明ですが・・・)

普通、お布施をもらいに行くのだから、お金持ちや裕福な家に

行くのは【常識】です

ところがお釈迦さまは、貧しい人はなぜ貧しいのか?

それは自分のためにしか、お金を使わないからであり

その人たちに与える喜びを味わってもらう機会を生み出す

のが、托鉢の真の目的だったそうです

(これをどう考えるかは、ご自身でお願いいたします)


神社の「御神体」がどうして【鏡】なのか?

鏡はこの世の中はすべて逆なのだと言う事を教えている

そういう説があります

神社では、お願いをしに来る人の願いが叶うのではなく

神さまの願いを聞きに来てくれる人の願いが叶うと言います

私たちの常識とは真逆の説ですね・・・・

私が常々言う「神さまにはお願いするのではない」

「神さまは縋る(すがる)モノではない」

という自論と通じるものが有ります

他人(みんな)の幸せを願いに来る人こそ、神さまの願いを

聞きに来る人なのだそうです

これを日本では【思いやり】と表現します

中には相手を思いやる事ばかり考える人がいますが

ある本には、それでは足りないと書かれています

キリストの言葉に「汝の隣人を愛せよ」とありますが

その直前には「自分を愛するように」と書かれています

自分を思いやれない人間は、他人を思いやる事は

できないのかもしれません (深いですね)


性格は変えられない・・・常識ですよね

でも本当に常識なのでしょうか?

性格=自分自身 ではないと言います

性格は着ている服のようなもの、いくつも持っている物で

変える必要はないと言います

性格は変えるのではなく【増やす】ものだそうです


性格は自分自身ではなく、対外関係の中で現れるもの

外出するときに着てゆく【服】と思えば解りやすいです

だから変える=捨てる、ではなく別の服を持てばよいだけ

性格は自分の本質なんかじゃないのですから・・・

だから捨てるのではなく、新しい服を持てば解決します

些細なことに悩む性格なら、「ケセラセラ」と笑う自分に

なる努力をすればいい


私は「頑張る」という言葉が嫌いです

頑張るとは「無理」をすることです

理に適って無いから【無理】と言います

【頑張る】と【努力】は本質的に別物ですから

(くれぐれもご注意してくださいね 笑 )


世の中に欠点の無い人は居ません

欠点があるから人間でいられるのかもしれません

想像してみてください・・・

貴方の隣に座っている人が欠点の無い【完全無欠】の人

だったなら、仲良く付き合えますか?

その相手がご主人であったり奥様であったら・・・

一分一秒も我慢できないと思います

隙が無い 欠点が無い と言う事は称賛するべきことではなく

息が詰まるような感覚になると思いませんか?

欠点も「個性」とか「特徴」と思えば、何にも恥じることも

引け目を感じることもありません

別の「利点・特徴」を伸ばす努力をすれば解消できます


昔、ある人から言われた言葉があります

瞬間湯沸かし器と揶揄された自分が悩むのを観て、その方は

こう諭してくださいました

「短所を治すのではなく、長所を見つけて、それを伸ばすほうがいい」

「短所を治す努力の何分の一かの時間と努力で補えるから」

何時しか私は瞬間湯沸かし器から卒業できました(笑)

深呼吸をして物事を理屈通りに一つずつ考える習慣に変え

考えているその時間に「怒り」や「憤懣」が薄れてきます

長屋の爺の偏屈な論理に拘る「由緒」が実はここにあります


常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである

(アインシュタイン150の言葉より)


今日はこの辺で     


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