不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  昔話 桃太郎を考える (吉備と出雲) 

古代ヤマトを考えるとき「通説」によれば

5世紀ころに統一国家となったとされるが

私は統一国家になったのは、しばらく後の

ことだと考えている

日本の国家としての形は「地域国家連合」のような

同盟関係で成り立ち、それぞれの「王」が統治していた国家群

だったのではないかと思っている


吉備国は鉄生産によって大きな力を持ち、連合国家の中でも

最強の国家だったかもしれない

その吉備王国と拮抗した勢力を保持していたのが「出雲連合国」であり

出雲の【意宇】を治める「意宇王」等だったのではないかと思う

古代ヤマトの中で、連合国家から中央集権に変えようとする勢力にとって

出雲、とりわけ「意宇」の勢力が邪魔であった

意宇は「越の国」をも勢力範囲に含んでいた可能性がある

その意宇の勢力である「意宇王」を征伐するには「吉備」の力が

必要だったのか、あるいは吉備・出雲連合軍は古代ヤマトにとって

太刀打ちできない勢力だった可能性もある


出雲を制圧するには「吉備」を取り込むことが先決だった

もし「吉備王」が承諾しなかったとすれば、吉備の平定を急ぐ

必要が生じたかもしれない

選択した策が、吉備の群臣たちの寝返りを促すことだった・・・

「裏切り」によって、吉備王を謀殺し吉備を傘下に収めたのち

出雲平定の戦を行った

それが「意宇王」の抹殺である


意宇王なき意宇の地に、新しい管理者を置く必要に迫られ

出雲国造という意宇の土地を取り仕切る家が創られた

その重要な役目は、意宇王が祟らないように祀る事

意宇王を慕い従属しない者たちを捕える事

その捕えられた者たちは各地に移住させられ

出雲族は出雲から消えた・・・


出雲国造家とは天津神の子孫ではなく、古代ヤマトに

従属した(寝返った)吉備の臣だったことも考えられる


なぜ、出雲国造は代替わりに、朝廷に貢物を持参するのか

「出世すごろく」のきっかけ(一臣下が出雲の為政者に栄達)に

感謝するとともに、過去のような「裏切り(温羅斬り)」は致しません

という「誓い」を宣言する為ではないだろうか・・・


                     
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◎  昔話 桃太郎 を考える 

桃太郎伝説

桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。

ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍

でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。

桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を

食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り

働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで

大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを

理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、

村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。

出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。

道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。

鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった

財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って

幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。

(昔話・童話「桃太郎」のあらすじ まとめより)



日本各地に似た話が伝わるが、この話は

幾つもの説話が集合した「創作話」だと思っている


昔、大和の地で洪水があり、初瀬川が氾濫した

その時のこと、三輪山の大神神社の前に、大きな

甕(かめ)が流れ着いた

その甕を開けてみると「玉のような男の子」が

入っていた

その後、男の子は小舟に乗って播磨に行ったという



おとぎ話の骨格はこの話によるものだと考えている

古代からの伝承を様々な史実によって装ったものではないか



なぜ「キビ団子」なのか?

キビは「黍(きび)」というより、「吉備(きび)」の事で

今の岡山県の古伝承が本だと思っている

吉備と言えば【温羅(うら)伝説】が思い浮かぶ

崇神天皇の時代、吉備津彦が異国の王子・温羅を

退治したという伝承悲話である

これも諸説あり、確たる定説は見当たらないが

鬼ノ城という山城に住み着いた鬼・温羅を天皇の

命によって吉備津彦が討伐に向かったという

説話が伝わっている


温羅についても諸説あり不詳に近いのだが

后は【阿曾媛(あそひめ)】といわれる

阿曾は九州の阿蘇と関係があると思えるが

昔々、大嘗祭の時に、朝夕のお膳を奉った者の

ことを【阿佐女】と呼んだというから

古代神道との関係も考えられる


九州阿蘇と吉備は何らかの関連があると思って

間違いなさそうである


鬼ノ城のある場所はかつて【賀夜(かや)郡】と呼ばれていた


伽耶(かや)は任那ともいい、新羅に滅ぼされた半島の国

で、5世紀後半から6世紀中ころに作られた前方後円墳が

存在し、糸魚川周辺で産出加工されたヒスイ勾玉が出土する

など、古代ヤマト王権の勢力下にあったものとされる国だ

伽耶が滅んだ時に半島から逃れてきた者たちが築いた

山城かもしれない


なぜ、「犬」「猿」「雉」が家来なのか?

これは干支の九番目、十番目、十一番目のことで

さる(九)とり(十)いぬ(十一)のことだと思っている

それが方角を示すものなのかは不明だが

吉備と関係が深い【吉備真備】は陰陽師の祖である

陰陽道に精通した真備が暗号のようなものとして

後世に伝えた可能性もありそうだ

ということは、家来の三匹については奈良時代に

創られた話かもしれない

黍団子とは見返り(褒賞)であり、温羅に仮託された

吉備の支配者を古代ヤマトが侵略(平定)した時の

伝承逸話を8世紀になって書き換えたものか・・・

吉備の支配者の群臣を黍団子(褒賞)で寝返らせて

吉備を制圧した

だから、寝返る事を【温羅斬り】というのではないか?

今の文字は【裏切り】とされるが、本当の意味は

「温羅を斬る」事だったのではないだろうか・・・


桃太郎は鬼の持つ「金銀財宝」を手に入れた

鬼が近隣から奪ったという財宝は「盗んだもの」

だったのだろうか?

鬼ノ城には「鍛冶場」があったとされる

鉄製錬の技術を持った文明集団の持つ「宝」とは

鉄生産技術であったとすれば、鬼は古代ヤマトであり

鬼によって略奪されたのではないか・・・


時代の特定ができないので、定かではないが

童謡・桃太郎というのは、一つの史実の伝承ではなく

幾つかの古伝承と、6~8世紀に起きた歴史事実を

巧みに組み合わせた「告発話」ではないかと・・・


お約束の長屋の爺の妄想と暴論と言いたいが(笑)

この伝承が出雲神話と何処かで繋がっていると

思うのだが、通説と史実と言われるものが眼前に

立ちはだかり、牛の歩みの爺の頭であり、もう少し

時間をかけて整理してみたい

                    

◎  宗像大社沖津宮を穢すのか? 

2017年の世界文化遺産の登録を目指す候補として、国内から「『神宿る島』宗像(むなかた)・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)を推薦することを28日、文化審議会が決めた。政府は9月末までに暫定版の推薦書をユネスコ(国連教育科学文化機関)に提出し、閣議了解を経て、来年2月1日までに正式な推薦書を出す。

 宗像・沖ノ島と関連遺産群は、沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遥拝(ようはい)所、宗像大社中津宮、同辺津宮、新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群の五つの資産で構成する。女人禁制などの禁忌が今も残る沖ノ島では4~9世紀、朝鮮半島や中国大陸との交流の成就や航海の安全を願い、国家的祭祀(さいし)が行われた。祭祀跡からは銅鏡や金製指輪、唐三彩(とうさんさい)など8万点にのぼる国宝も出土し、「海の正倉院」と呼ばれる。

 文化審議会世界文化遺産・無形文化遺産部会長の西村幸夫・東京大教授は選定の理由として、古代祭祀跡がほぼ手つかずの状態で保存され、現代でも神聖な島として信仰の対象であることが世界的にみても顕著な事例であること、緩衝地帯の設定を含め十分な保全管理措置が取られていることなどを挙げた。



ここ最近の日本の世界遺産登録は「商業目的」の【人寄せ】に思えてならない

観光客の集客が悪いとは言わない

しかし、その選定に疑問ありと感じる


沖ノ島は古代祭祀の貴重な文化遺産である

日本人として大切に残さなければならないのは当然だが

世界遺産に登録するメリットとは何?

世界遺産に登録しなければならない理由が見えてこない・・・


神はそっとしておくべきであり

神々の座ます地を世俗の価値観で穢して欲しくはない



日本人の価値観が「損得勘定」「経済至上主義」に傾いて

来ている気がするのは、世界遺産が「自慢合戦」に陥って

いると感じるのは長屋の爺だけだろうか・・・


日本人の原点が世界遺産でなければだめなのか?

形式 名称 うわべだけの称賛より、多くの日本人が

日本の神の実像を知ることが大切ではないか・・


ふと、この記事を観て、この国の神道は先が危ういと

感じた長屋の爺である。

                     

◎  日本書紀の真実と古代豪族 (番外その一) 

私たちが歴史書などを観るとき

それをわかりやすく解説してあって

まことに重宝する・・・

しかし、ある記述を観て「ハッと」してしまった


【 歴史資料の中に古代の書記が文法的に

間違いをしているのを発見したとき

研究者たちはこれを書記の間違いとしてすまして

しまうことが多いという

しかし、ほんとうは間違いではなかったかもしれない

と言うのである

ようするに、人は後から規則をつくって、それに古代の文字を

当てはめているという

古代人は文字を正確に使って書いていたのに、この文字ができてから

5000年も後に生まれた人間が勝手につくった文法で判断する

そこに問題があるのかもしれない・・・という内容であった】



万葉集の中に「どうしても解釈・読み解けない」歌が存在する

と言う文章を観たときに、「これだ」と思った・・・

6世紀や7世紀に書かれた文字を、数百年経た時代の人間が

その時代の文法・法則・慣例で解釈すれば「妥当」なものなのか

大いに疑問を感じてしまうのである



倭国という文字 「わこく」と現代では常識に思っている

しかし、本来の文字は「俀(たい)」と書かれていて

「俀国(たいこく)」と呼ぶのが正しいと私は感じている


研究者は 俀→倭 の書き間違いと判断しているが

もしかすると間違いなのは「間違いだと判断した者」

の見解なのではないだろうか

書き写す時に「書き間違い」をしたという説に

一片の信憑性も感じなくなった長屋の爺である


歴代天皇の名前は和風・漢風諡号で表記される

とは言っても、和風諡号など専門家以外に認知されてなど居ない

専ら「漢風諡号」で呼ばれることが多い


諡号とは本来は【諡(し・おくりな)】であり、「諡」と「諡号」は

厳密に言えば別である

例えるなら、桓武天皇の場合、【桓武】とは「諡」であり

【桓武天皇】は「諡号」という事になる


諡の起源は紀元前9世紀、中国周の時代という

初期の諡号には褒貶の義はなかったようだが

次第に好字とされる「褒諡」と暴君などに贈られる「悪諡」に

分けられるようになった

日本には8世紀中ごろには伝わっていたらしい

「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」「章」「壮」「景」

「宣」「明」「昭」「正」「敬」「恭」「荘」「粛」「穆」「烈」「桓」「威」「貞」

「節」「靖」「真」「順」「顕」「和」「高」「光」「英」「睿」「憲」「孝」「忠」

「恵」「徳」「仁」「智」「慎」「礼」「義」「敏」「信」「清」「良」「謙」「純」

これは名君といわれる天子に使われていた文字



「野」「戻」「厲」「昏」「煬」「幽」「夷」

これは暴君・奸臣に付けられた悪諡の例である


日本における灌風諡号は764年に【淡海三船】が

一括して撰進したという事になっているが、これも

かなり怪しい通説なのである

『懐風藻』(752年成立)には「文武天皇」という記述

があり、天平宝字2年(758年)に「聖武天皇」、

「勝宝感神聖武皇帝」とあり、孝謙天皇に

「宝字称徳孝謙皇帝」という記述がある

神武天皇の灌風諡号を撰進したことは事実かもしれない

が、淡海三船が一括撰進したというのは憶測の域を出る

話ではなさそうである

もう一つの「和風諡号」については、諸説あり

703年、持統天皇の火葬の際に「日本根子天之広野日女」と

奉ったことが書かれており、これが史料上最初の記録である

それ以前のものは諡号だとはどこにも書かれておらず、生前

からの別名である可能性が高い

ということは、和風諡号と呼ぶべきものは持統天皇の死を

起源とする考えも可なのだろう・・・


通説の怖さは何と言っても

ではないか?→と思われる→きっとそうに違いない

これが通説・定説の舞台裏である


それにしても気が付いてみると

日本の大きな括りの「形(決まり事・形式・儀式)」は

持統天皇の前後の時代に集約して成立している


日本書紀の編纂が何を意図していたのか?

その疑問の一つが天皇を称賛するものと、そうではない

間接的に貶めるものがあることに興味がわく

その手掛かりになるのが「漢風諡号」だと

私は考えている


この諡号というのも、先帝の血筋が正しく継承されたもので

あることや、その正統性を称揚するためのものであって

故人を悼むためとは感じられない長屋の爺である



次回は諡号に使われている文字について

史書の意図と藤原氏の不都合について考えてみたい。

                     


◎  日本書紀の真実と古代豪族 (五) 

血で血を洗う抗争

何とも嫌な言葉である

日本の歴史の中でこの現象が現れるのは

7世紀のころからで、あの中臣鎌足が歴史に

登場してからである


何とも日本的ではないこの言葉

日本書紀は鎌足をはじめ藤原一族が

改革という名で旧豪族を排除した歴史

を曲げて伝えたかったと感じている


この旧豪族・氏族の排除には冷酷な

大陸・半島の論理によって武装した

ヤマト人以外の匂いがプンプンしてくるのである


中臣鎌足は紛れもなく半島人であり、旧豪族

(蘇我氏・大友氏等)の改革を妨害した人物

手柄だけを横取りして大きくなった藤原氏と称する

一族は間違いなく外来種だと私は感じている


奈良~平安の時代とは、正直で素直な人間たちが

次々に殺された暗黒の時代であり、国の為とは名ばかり

滑稽で陳腐なほど「自分の為」の粛清を繰り返した

歴史上最悪の時代であった

日本書紀に記載されいる皇子の悲劇はほんの断片に

すぎないのである


安積親王(あさかしんのう)

聖武天皇の第2皇子であり、孝謙天皇の異母弟である

聖武天皇の第1皇子である【基皇子】が早世したため

次期天皇の最有力候補であった

しかし、母親が藤原一族でなく、縣犬養氏であったため

父母ともに藤原系である異母姉の阿部内親王が

皇位に就いた

例え孝謙天皇が即位したとしても、女帝である以上

後嗣は生まれることが無く、次期天皇の筆頭であることは

揺るがないはずだった

ところが、744年難波行幸の際、足の病(脚気)で恭仁京

に引き返し、2日後17歳の若さでこの世を去った

その当時の恭仁京の留守を預かっていたのは、藤原仲麻呂

だった

一説によれば、死因は毒殺で首謀者は仲麻呂だという

藤原の血筋で朝堂を牛耳る野心を持つ仲麻呂が

禍根を残さないために、暗殺したのではないかという

当時の安積皇子は「反藤原勢力」が全面的に推す

次期天皇候補筆頭であったのだから、仲麻呂や藤原一族

にとって、「不都合な存在」だったはずだ


私の推理では、この計画の首謀者は仲麻呂ではなく

光明子だったろうと思っている


基皇子が早世し内親王である孝謙天皇が即位した

ということは、光明子の血筋である藤原の血が

縣犬養氏の血筋に代わる事を意味する

自らを【藤三娘(とうさんじょう)】と署名するくらい

藤原の血を誇る女性である

叔母である光明皇后を後ろ盾に朝堂で絶対的な

権力をつかみたい仲麻呂には「否」という気持ちなど

なかったであろう


安積親王は大伴家持と親しかったという

その大伴家持が頼りにしていたのが

【橘諸兄(たちばなもろえ)】であり

諸兄の母親が縣犬養美千代、安積親王の

母親とは親類という事になる

この諸兄の異父妹が【光明子】なのだ


反藤原でありながら、妹が「籐三娘」という

複雑な環境で「正一位左大臣」にまで上り詰めた

橘諸兄も、藤原の餌食となってこの世を去ってしまう

大伴氏の氏長である家持は、名門氏族「大伴氏」に

昔のような栄華を取り戻そうと、腐心したことが窺える

が、頼みの安積親王、橘諸兄を失っては「大伴氏」の

名を残すことに切り替えるしか策は無かったのである


大伴氏とは次期天皇と思しき人物に肩入れしては

その対象を失う運命にあったのか・・・

父・大伴旅人は【長屋王】を失って酒に浸り

その子・家持は【安積親王】を失っている


さらに家持は【早良親王】の「春宮大夫」として

仕え、藤原種継事件に際し、自身死んだのちに

首謀者として断罪されている

大伴氏は早良親王の冤罪と共に受難の

絶頂期を迎えた・・・


大伴の 名に負う靫(ゆぎ)帯びて 

 万代(よろずよ)に 頼みし心  いづくか寄せむ


途方に暮れた家持の心情が見えるようだ・・・



余談であるが・・・

天武系の皇統が途絶えたのは藤原一族の大罪で

天武系と現在の皇統とは、明らかに別の皇統だった

可能性も否定できないと私は思っている

ご存じのとおり、御寺(泉涌寺)に9代(8人)の天皇の

位牌が無い、南北朝に分かれていた時代の南北両朝

の天皇の位牌でさえ祀られているにも・・・である


御寺とは天皇家の菩提寺というより、天智系皇統の

菩提寺と言ったほうが良い気がする

それ故、天武天皇から称徳天皇まで8人の尊牌(位牌)

は安置されていないのも頷ける


専門家はいろいろな言い訳をするが、納得できるレベルの説を

私は見たり聞いたことが無いのである


それでも尚、万世一系・125代の皇統という言葉に、違和感を

覚える長屋の爺は異常なのだろうか・・・・。

                     

◎  言わぬに朽ちて・・・ 

忍びつる ねぞ現るる あやめ草

  言わぬに朽ちて やみぬべければ


(中宮彰子後宮の女房 紫式部に贈りし歌)


解説書に依れば 「水底に隠れていたあやめの根が

現れるように、今日私は、あなたへの隠していた

気持ちを表しています。 そうでもしないと

何も言わぬまま、朽ちておしまいになって

しまいそうだから・・・・」

引きこもり自分の殻の中に隠れてしまった式部

を気遣って、「心配しています」と伝えた歌である


人は時として、何らかの出来事で「後ろを向いたり」

自分の中にこもってしまうことがある

他人には「計り知れない事」であっても、傍目に

気にかかる人が少なからず居るのが浮世である


何がそうさせているのか・・わからなくとも

手を差し出す、言葉をかけることが「きっかけ」に

なる事は確かにあると思う

心を寄せる とでもいうのだろうか?


明るく振舞っていても、沈んでいても、その心の内を

知ることは誰であっても不可能に近いことだろうが

押しつけではない「気遣い」「思い」を受け取ることは

誰しも「うれしい」ものだと思う


この歌を受け取った紫式部は、職場復帰を果たした

とされる

歌(情のこめられた言葉)に人は動かされるのかも

しれない・・・



蛇足ながら

いろいろな事情や感情で、ブログを閉じたり

発信を控えたり、人には言えない原因は数多ある

ご多分に漏れず長屋の爺も時折そのような

心境になることもあるが、何気ないコメントに背中を押され

気分一新してブログを更新できている


言わぬ言葉は通じぬ

判っちゃいるが ・・・・である

慮るだけでは何かが足りない

時がすべてを解決する は嘘である

全てを解決するのは「己の心」しかない

その心に一滴 沁みる言葉が必要なのかも

しれないと思う長屋の爺である



過ぎたる深慮は時として「的外れ」なこともあり

思い違い、考え過ぎは内にこもる要因にもなる


【生きてるうちが 花よ】

どう考えても人生

どう生きても人生

生きてこその人生である



                    

◎  日本書紀の真実と古代豪族 (四) 

有間皇子(ありまのみこ)

日本書紀では謀反人であり、悪賢い若者で

狂人を装っていたとされる

有間皇子は孝徳天皇の皇子で孝徳朝が続けば

次代の天皇となるべき若者だった

皇位継承の望みの薄い中大兄皇子にとって

眼の上のコブだったと私は考えている


通説でいわれているように、中大兄皇子は

即位を辞退したのではなく、即位できる位置に

居なかった人物だと思っている


桓武天皇と同じ境遇ではなかったか・・・


日本書紀は異常なくらい有間皇子を罵っていて

それが逆に、本当に謀反など企てたのか疑問に

思える根拠にもなっている


日本書紀の有間皇子に関する記述の最後が

【云々(しかしかいう)】と言う文字で終わっている

省略を意味する文字であるが、「もっと話は続く」とか

「・・・ということらしい」などの意味も持っている

「本当のところは???なんだが、書けませんよ」

というようにも受け取れる


日本書紀がどう描こうとも、有間皇子はその時点で

皇位継承候補筆頭なのである


私は女帝・皇極天皇(斉明天皇)に疑問を持っている

おそらく女帝と言うのは持統朝になって創作された

可能性や他の天皇を隠すために生み出されたもの

そんな風に感じることが多い


有間皇子が日本書紀に登場するのは657年

父・孝徳天皇が失意の中「憤死」した3年後である



本来なら孝徳天皇が崩御し次の天皇を決めるに

際し、女帝の重祚(再び天皇に復帰する)を選択

する前に、有力な候補が居れば当然のように

継承されるはずだが、中大兄皇子が即位しない

というか、即位できない状況ならば、女帝の再登板

よりも若き天皇を選択する道もあったはず


重祚の過程に有間皇子の名前すら挙がっていない

そのような境遇にあったから「謀反を企てた」という

理論で書かれている気がする


日本書紀の記述に漏れている歴代の皇子(皇位継承候補)は

数知れず

それが日本書紀の「とるべき態度」であり

制作(編纂)の意図であると感じている


不都合は【書かない】、【遺さない】、【許さない】である

有間皇子は中大兄皇子の取り調べだけで即刻処刑

されている

前天皇の皇子に対する処遇とは思えない

天皇みずから詮議しないことに違和感を感じる

天皇(斉明天皇)がお飾りだったか、架空だったか

そのどちらかしかない・・・

その処刑が事実であったならばの話だが・・

謀反騒動も事実なのかどうか?


私の私論(暴論)としては、有間皇子が牟婁温泉

(むろのゆ)に療養に行った帰りを襲い惨殺した

その首謀者は中大兄皇子、実行犯は蘇我赤兄等

(守君大石、坂合部連薬)であり、それらは皆

天智朝で出世していることからも間違いないだろう

謀反を企てて連座したものが出世すると言う事は

謀反自体が「罠」か「捏造」という事だろう


蘇我赤兄は天智天皇の時代に重臣として仕えたが

壬申の乱で一族そろって流刑になっていて、生没年も

定かではない

生没年は定かではないが・・・事件は詳細に残されている(笑)

これが日本書紀の日本書紀たる所以であろう


本来なら天皇の皇子である人物、詮議も十分にせず

急ぐように処刑したのは「不都合」以外に考えられない

悪賢く謀反を企てているとされたのは、実直で非の無い

皇位継承候補だった証ではないだろうか・・・


有間皇子が狂人を装ったのは「尋常」ではない

狂人を装わねばならないほど、中大兄皇子の異常な

権力欲に、命の危険すら感じていたのだと思っている



                    

◎  東照宮 

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日本で「東照宮」といえば久能山・日光であり

仙波、蓬莱山、滝山などが著名である

わたしが以前行ったのは【三州大浜 東照宮】

愛知県碧南市にあるれっきとした東照宮である

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規模の大小など論じる意味などない

神さまを祀るとは「心」の問題だと思っている

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この東照宮はお寺の中にある神社である・・・


寺の名前は 「東照山 称名寺」という

徳川(松平家)ゆかりの寺院らしい・・・

元は天台宗の寺だったが、時宗に改宗したといい

徳川家康の幼名「竹千代」の命名ゆかりの寺

なのだそうだ



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神々の  ながきうき世を  守かな

  めくりはひろき  園の千代竹


家康の曽祖父・松平信忠が1543年に

称名寺での「連歌会」で詠んだ句に由来するらしい



【狛犬】

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【手水舎】

お約束の「三つ葉青い紋」

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境内社 【渡宋天満宮】


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【神牛像】

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【称名寺 参道から本堂を臨む】

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【称名寺 本堂】

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仕事で訪れた神社・仏閣

訪れた家の近くの社寺の写真を

時折アップしてみたいと考えています。


                     

◎  また やってしまった・・ 

昨年の3月に「魔女の一撃」の洗礼を受け

大きな問題も無く過ごしてきたが・・・

昨日、久々に洗礼を受けてしまった


座っていて、ふつうに立ち上がっただけで

激痛が走り、座ることも歩くこともできず

大変な目に遭っってしまった(笑)


ここの所仕事が詰まっていて、気付かないうちに

体に疲労が蓄積されていたようだ

ここに来て「ぎっくり腰」は辛い・・・


今にして思えば、その兆候はすでに数日前から

あったのだが、痛いのは幾らでも我慢できる性質なので

特に気を付けることも無く、「いつものこと」程度で

片づけてしまっていた


とは言っても「仕事」はパスできないし、取り敢えず

フェルビナク5%を何枚も貼り、何とか2日間の業務を

こなした

整体もこの半年「サボって」行っていない

そろそろ「体の手入れ」をしなくてはダメか・・


10年前と比べると、体重が8Kg増え、体脂肪率が

10%上昇してしまった


現在ダイエットに取り組んでいるが、その影響では

ないと思う

まだ初めて一週間、少しづつではあるが効果が出てきた

私はほかの方と違って、無理な試みはせず目標に

到達することだけ意識している


体脂肪率 25,3% → 24,8%

BMI値 22,0 → 21,5

体重 -1,1Kg

一週間の成果としては上々かな?

体重が落ちないのは、無理な食事による

「過激なダイエット」に、はまり込まないように

心がけているからか?

低GI値によるダイエットを焦らず無理せず

齢相応に心がけるつもりである

一応、目標は体重マイナス 5Kg

体脂肪率 18%

昔のような体に戻る事などは無理な話

なのは承知、高望みせず、のんびりと・・・


                    

◎  日本書紀の真実と古代豪族 (三) 

蘇我石川宿禰~蘇我満智~蘇我韓子~蘇我高麗

~蘇我稲目~蘇我馬子~蘇我蝦夷~蘇我入鹿

馬子の兄弟は「蘇我摩理勢」

蝦夷の兄弟は「蘇我倉麻呂」

倉麻呂の子は・・・

果安・日向・連子・赤兄・蘇我倉石川麻呂


どうにも馬子三代の名前が気に入らない

悪意をもって後世の誰かが「名付けた」としか

思えないのである

馬子の名前の通説に、午年生まれであることに

因む可能性もあるとされるが、逆にどうして馬子だけが

生まれ干支に因んだのか?

その答えすら誰も言及しない(笑)



通説にある天智天皇(中大兄皇子)と蘇我本宗家の

確執の裏には、ある人物が潜んでいると私は考えている


第36代 孝徳天皇 である

即位前は【軽皇子】といい、乙巳の変の影の張本人と

いう人もいるくらい胡散臭い人物だ

飛鳥寺に群臣を集め「忠誠」を誓わせたという

なぜ「飛鳥寺」だったのか?

飛鳥寺の前身は【法興寺】であり

知る人ぞ知る  【蘇我氏の氏寺】である

うがった見方をすれば、天皇(孝徳)に忠誠を

誓わなければ、蘇我一族(本宗家)と同じ目に合わせる

そういう脅しの意味もあったのだろうか・・・

この天皇には蘇我の血筋は見えてこない

蘇我氏の流れでない者がどうして飛鳥寺だったのか

そういう視点から見れば、蘇我本宗家の末路を引き合いに

群臣を掌握・牽制する意図だったのかもしれない


この孝徳天皇は難波に遷都したが、のちに

中大兄皇子等によって難波宮に置き去りにされ

失意のうちに没することになる

ところが・・・この天皇【祟った】ような形跡がない

菅原道真ですら、冤罪で大宰府に左遷された恨みで

祟って出た・・・

天皇が周りに裏切られ、失意のうちに亡くなったとすれば

彼らに祟ってもよさそうなのだが、祟った気配が無い

それは「自業自得」「当然の結果」だったからではないだろうか


蘇我本宗家滅亡の陰の黒幕が「軽皇子(孝徳天皇)」だった

ならば、一人で罪を償わされたと思えなくもない

そういう目に遭うには、相応の罪があった

いわれ無き処遇ではなく、相応のなされ方を

受けたと思えてしまう・・・


実行犯は中大兄皇子等であったろうが、絵図を書いたのは

軽皇子ではなかったかと私は考えている・・・


孝徳天皇はそれまで続いてきた「豪族による政治」から

役人による政治(律令)に移行しようとした

蘇我の力が弱まったとはいえ、群臣たちの力は

侮れないものであり、反対勢力(旧豪族とその縁者)

の粛清が不可避となってゆく

それが「古人大兄皇子」の「反乱計画」を理由とした

殺害事件であり、持統天皇の祖父・蘇我倉石川麻呂の

冤罪でっち上げによる粛清である


蘇我倉石川麻呂は首を切られ、塩漬けにした首を

娘である「越智娘」に見せ、それをみた彼女は発狂して

その後亡くなったという

その張本人は中大兄皇子(天智天皇)である

通説では「越智娘」は中大兄皇子の后であり

持統天皇の母親である

ここまでの仕打ちをする意図が理解できないでいる

長屋の爺である



私はこの母子にも大きな関心を持っていて

とんでもない持論を持っているが、この先機会が

あれば書いてみたいと思っています。

                   

◎  日本書紀の真実と古代豪族 (二) 

仲の良い夫婦

妻はどこへ行くにも夫に従った

妻はよく夫の補佐をして、政務に明るかった

これは今上天皇ご夫妻の話ではない


天武天皇と持統天皇の通説である

妻である皇后の父親は「天智天皇」

夫は天武天皇、天武天皇の皇子は何人も

居たはずだが、どういうわけか即位しないで

政務を執ったという(称制)

その後、第41代 持統天皇となる


私は【称制(しょうせい)】というのは、別の意味を

持った名称だと考えている

称制とは即位の儀式を行わないで実際に政務を

執ったのではなく、即位の儀式を何らかの都合で

「執り行えなかった」結果の、詭弁だと思っている


何故なら、称制を行ったのは、長い歴史の中でも

天智と持統の親子だけという現実による・・・

称制と言う制度は中国から伝わっていたのだろう

しかし、日本の歴史上「称制」を行ったのはこの他に例が無い

どうしてこの親子だけ「称制」などという、面倒なことを

選択したのか、即位して当然と言うならば、きちんと

即位の礼を執り行えばよいではないか


非常事態でもない状況で、即位しなかったとは考えられない

即位しなかったのではなく、即位できなかった

そう考えれば、すべての事柄が氷解する


天智天皇も持統天皇も、周囲は即位することを

素直に認めなかった

即位するためには時間と策略が必要だった

障害になっている物を、一つ一つ取り除く

時間稼ぎが必要だったと私は思っている


私は持統天皇の伊勢行幸の旅は、障害を

取り除くための旅だったのではないかと思っている


天武天皇と持統天皇は本当に「おしどり夫婦」か?

そのヒントは「万葉集」にある

天武天皇は女性との歌のやり取りをしているが

持統天皇とは一切していない(記載されていない)

のである

あの額田王とのやり取りが記載されているのに

相思相愛、おしどり夫婦とまで言う「日本書紀」の

記述に不可解さを感じてしまう

天武天皇、持統天皇の二人の歌は残されているのに

お互いの歌のやり取りが無い事は尋常とは思えない


春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの

  衣干したり 天の香久山
 (持統天皇)


識者は季節感漂うこの歌を称賛する

百人一首にも登場するこの歌・・・

見方を変えると、とんでもない歌ともいえる


天の香久山といえば、天皇家にとっては

冒しがたい【霊山】である

そのような山に「洗濯物(衣)」を干すという事は

到底考えられない

言葉を替えれば、宮中三殿の前に「ふんどし」を

干すことにも近いと私は思っている(笑)


この中の「衣」とは、【天女の羽衣】を指していると

推理する識者もいる

羽衣は霊具としても重要なもので、これを着ると

「人」ではなくなる (竹取物語)


大嘗祭のクライマックスで、天の羽衣を着る事

で天皇は神聖な存在になるともいう


天の羽衣伝説の天女とは、「豊宇賀能売命」

伊勢神宮・下宮の祭神とされる【豊受大神】の

ことである

この歌となぜ伊勢・下宮の祭神が「豊受大神」だった

のかは、不思議とつながってくるのである

(これについては、またの機会に触れたいので

詳細はその時に・・)


ヤマト王家の霊山である「香久山」に、霊具である

「羽衣」が干してある、あれを自分のものにしてしまおう

そう考えたのかどうか・・・・・

称制などという不都合をごまかした裏側には

すんなりと手に入らない「皇位」を、如何にして

手中にするかという「女帝・持統天皇」の心境

を読んだ「暗号」という推理は無謀とは思わない


蘇我を考えるうえで、天智天皇とその近親を

抜きにしては語れない

一つ一つの断片は、見えない糸で結ばれている

なぜ ** だったのか?

それにはきっと「深いわけ」が存在する

長屋の爺は確信のようなものを感じている。

次回も「蘇我と天智朝」の周辺を考えたい。


                    

◎  日本書紀の真実と古代豪族 (一) 

日本の古代史の史料として「日本書紀」がある

言葉として、簡単な中身の日本書紀は知っていても

本当の日本書紀を知る日本人は割と少ない・・・

研究者や知識人がテレビなどで薀蓄(うんちく)を

語り、自論を展開する基準が「日本書紀に書いてある」

ということから始まっている

その日本書紀の何とも不可解なことを

日本人は気づいていない・・・


知っていても、知らなくても日本人として生きていける

そういう類の話なのかどうかはご自身で・・・


日本書紀は天武天皇が編纂を命じたという

これは日本の常識である

日本書紀は天武天皇が皇位を奪ったことを正当化

するために書かれた

これも通説として常識になっている


天武天皇のために書かれた歴史書「日本書紀」

(これを疑う事はタブーとされ、それが歴史の世界でもある)


これがとんでもない間違いかもしれない可能性を

考えてほしいと思い長屋の爺の自論を述べてみたい


天武天皇が命じて、天武天皇のために書かれた

とするならば、どうして天武天皇の生年が不詳なのか?


天武天皇を称える為に書かれた日本書紀であるなら

どうして天武天皇の幼少期~青年期が不詳なのか?


これが天武天皇とその系統のために編まれたという

思い違いの根拠になりはしないだろうか・・・


何らかの不都合があったからこそ、生まれた年も

幼少期の様子も、青年期の行動も秘匿しなければ

ならなかった理由ではないかと考えている


では最初に日本書紀の不可思議なことから

書いてみたい


日本書紀の成立

この日本書紀の成立の経緯は時代を経てから

編纂された【続日本紀】の記述による

「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂

に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」


この「日本紀」が現在の「日本書紀」といわれるものと思われる

舎人親王が天皇から命を受けて・・・その天皇には言及していない


日本書紀の記述

日本書紀にはある特徴があって、後世になって書き直した

あるいは差し替えたと思えるものがある

そのキーワードは【歴(れき)】

儀鳳歴(ぎほうれき) と 元嘉歴(げんかれき)


(儀鳳歴とは麟徳歴(りんとくれき)と呼ぶのが正しく

儀鳳年間(唐の時代)に日本に伝わったことから

儀鳳歴と日本では呼んでいる)

この儀鳳歴というのは西暦676年~679年ころに

日本に伝わった歴である

日本では天武5年前後になる

元嘉歴は445年~510年ころまで【宋】で使用された歴

これが重要なことを教えてくれる・・・

日本書紀の神武天皇(巻3)から安康天皇(巻13)までを

儀鳳歴 で書いてあり

安康3年より持統天皇4年までを 元嘉歴 で書いてある

そして持統天皇5年以降は儀鳳歴で書かれている


神代の時代を新しい歴で書き、途中の時代からほんの少し前

までを古い歴で書いて、最後の部分を新しい歴で書いて

終わっている

明らかに古い時代の天皇史を差し替えたか、

書き加えたか、そういう事ではないか


専門家の中には「分業」で複数の手によって

編纂されたから、歴が統一されなかった・・・

などと言う方もいるが、天皇史であり、国史である

そんないい加減な話は納得できかねる


史料としても「国史」としても、信頼のおけないものが

日本書紀であり、それに書いてあるから事実・史実

という有識者の論説には納得できないのである


全てを疑う事からしか古代史は見えてこない

とはいっても、99%の推測と1%だけ通説を信じ

自論とするしか道は無いのである


と言う事になると、いったい誰が何の目的で

日本書紀の編纂を命じたのか・・・

その答えは、天武天皇の半生が描かれていない事実が

ヒントになるかもしれない


成立年や歴を総合的に考えても、天智天皇である

可能性はほとんどない

天武天皇でなければ、いったい誰なのか・・


そこで最有力なのが【持統天皇】ではないか

と私は思っている

日本書紀が「仲の良い夫婦」を描いているなら

本当はその反対だったことも考えられる

(これについて次回以降に考えたい)


蘇我氏と天皇

蘇我氏と一括りにはできないが、日本書紀は

蘇我氏を徹底的に「悪者」に仕立てている

蘇我本宗家の「蝦夷」「入鹿」「馬子」という名も

好字・言霊から考えても、大豪族の本家が付ける名

ではないだろう

明らかに日本書紀の編纂を支持した者の思惑が

働いたという事ではないか

これも「獣」の名前を付けることは有ったと有識者は

言うのだが、それは低い階層の話であり、権勢を

ほしいままにしたという蘇我本宗家の当主には

あり得ないことだと思っている


それほどまでに「蘇我憎し」と感じる天皇とは

いったい誰だろう?

私は天智天皇の血統しかいないと考えている

そこの処を次回から考えていきたい。

                  

◎  人生にはこんな日もある 

書こうか書くまいか・・・

今日ほど日本人が情けなく感じた日はない

そんな思いをした一日だった


朝、いつものように現場に出かける準備を

していた時、遠くで「すいません」という声が

「ちょっと道を教えてほしい」

という言葉に、準備作業の手を止めその人の

処へ行ってみた

「高速道路のPAに行く道を教えてほしい」

というのである

分かりやすい道順を教えた後に、その男の言う事は

「静岡から一つ手前のPAまで高速バスに乗ってきた」

「6時間かかってここまで歩いてきた」という・・・

私が訪ねているわけでもないのだが、問わず語りで

北海道から仕事を探しに2ケ月前、友人が住む静岡に

来たといい、その友人が交通事故で入院し彼の住んでいた

アパートに出入りできなくなったというのである

さらに、北海道へ帰るためにアルバイトをして旅費を

工面して帰るか、ヒッチハイクをして帰るつもりだという

さらに、彼のいう事には「一番旅費が安いのはフェリーで

敦賀・舞鶴、名古屋から出ているので、とりあえず名古屋

に行きたい」というのである

私は黙って聞いていたが、訛りを聞く限り道産子だとは

思うが、年齢を聞けば私より少し下で、還暦を迎えたという

「とにかく、気を付けていきなさいね」 と別れようとしたとき

いきなりポケットから財布を出して、私に中を見せた・・・

空っぽのくたびれた黒い二つ折り財布・・・

「そら来た・・・」と私は彼の意図が理解できた

「旅費の無心である」 (彼の話が真実ならばであるが)

北海道に帰ったら、必ず送るから何とかならないかという

私はいろんな言葉が頭の中で飛び交っていたが、何も言わずに

聞いていた


最後の彼の言葉が「朝から飲まず食わずで歩くのも辛い」

私は思わず彼を殴りたい衝動に駆られた・・・

あまりにも情けない日本人、同郷人として・・・である

彼の言葉が真実、嘘、どちらでも構わないのだが

この安易な発想しかできない、最低の日本人を観て

「同情」ではなく「怒り」と「失望」を感じてしまったのである



二か月間、静岡にいたと言う事は、雪が解けてから

内地に来たと言う事だ

その意味することは、「出稼ぎ」に来た人間ではない

本気で仕事を探すつもりの人間が、そんな安易な

仕事探しの旅に出てくるわけがない


この男が本当に北海道に家があるなら、他人に無心する前に

家族・親戚に連絡するのが筋である

それができない人間に金を貸すほど長屋の爺は甘くない


その男の旅費(フェリー代)くらい、大した金ではない

貸すことも恵んでやることも私には可能だった


私は彼の言葉が少し本当で、凡その処「嘘」だと感じた

それでも・・・

私は彼に千円札2枚を渡して、何も言わず背を向けた

仕事に出かける準備も途中で、仲間が出勤してくる時間

が近づいていたからだ


こんな同郷人を仲間に見せたくない・・・と強く思った


駅前で「寄付金」を集める詐欺師の映像がダブってしまった


私はその金を「落としたカネ」として「忘れる」ことにした

一枚の千円札は「哀れな還暦男」に対して

もう一枚の千円札は「この男に会った」神の意志に・・・

「浄財」として渡したことにして、忘れることにした。


私も取引先に逃げられ、支払いに追われ飲まず

食わずの日を過ごした経験がある

それを救ってくれたのは古い友人たち


だから、飲まず食わずの男を観ていると、過去の自分を

観ているようで、言いようのない感情が湧いてくる

だから、彼に渡した金を「惜しい」とは思わないのである


黙って手を差し伸べてくれた友人たちがいた自分と

頼るべき友人のいない男の差はなんだろう?

腹立たしいやら情けないやら、という朝の出来事である。


ここで話は終わるはずだった(笑)

しかし・・神は更なる試練を長屋の爺に与えてくれた

仕事が早く終わり、老舗そうめんの店で昼食

6台のテーブルがある「座敷」の一部屋でワイワイ言い

ながら仲間と楽しい食事だった


気分よく食事を終え、さぁ帰ろうというとき

私が最後に座敷を出たのだが、「靴が無い!」

何処を探しても「無い!」

ほかの座敷の靴箱を観ても「無い!」

とりあえず店長を呼んで事情説明をした

その店長が靴箱から「汚い靴」を出して

これですか? と聞く・・・

「違う!」というと、座敷を覗いて客の様子を

確認して一言・・

「この靴を履くようなお客様は居ませんね」

その言葉の意味は、この靴の持ち主が履いて帰った

そういう事なのである(笑)

一年近く履いた靴だから、惜しくはないが気分が悪い


他人の靴と自分の靴を間違う神経が理解できない

似通った靴なら「うっかり」もあるだろう

しかし、残された靴はホームセンターか職人の店

で扱うような靴であり、私の靴は某メーカーの軽量

が売りの靴で、デザインもまるで違う靴なのである

店長もどういう言葉を出してよいものか困惑していた

「こんなこと初めてでして・・・」

当たり前である、頻繁に有ったら問題だろう(笑)


とりあえずは連絡先と名前をメモして

間違い客が連絡してきた時は電話します とのこと


本心は 「もういらんわ!」

何処の誰かが履いた靴など二度と履けないだろう

水虫のおまけつきで帰ってきたらどうする?

ほんと・・・トホホな一日であった

これも人生、これが人生・・・・

そんな一日でした(笑)

                    

◎  竜神とブログ 

竜神

世界大百科には下記のように記されている

【古代中国の想像上の霊獣である竜と,日本の水神の

表徴とされる蛇信仰が習合して生まれた神格で,竜神のほか,

竜王,竜宮様などとも呼ばれている。

竜神は,農耕生産と結びついて水をつかさどる水神とされ,

雨乞いはしばしば竜神のすむ池や淵でなされた。

この水神としての竜神は,さらに降雨や稲光をもたらす

雷神信仰とも結びつき,竜巻のときに天にのぼるとも考えられた】


古代日本では「死と再生」の象徴である【蛇信仰】があり

そこに外来である中国の獣神「龍」が合わさったものと

いうことだろう


蛇神は山に住み、川に入り姿を現す

川の神は蛇であることは常識であるが

池沼には「龍」が住むと言われている

どちらも「水」に深く関わっている

蛇神は高い山や水辺には現れるが、天高く

舞い上がる話は想像できない

ところが、龍神となったのちは空が似合う

神秘的な神の姿となる


空と龍、その姿は雲間に見え隠れする

雲は雨をもたらす(降らせる)神秘で

貴いものであった


雲の字源は【云】である、云は雲の下に

はみ出した龍の尻尾を表したもので、

ものを云うことである「ウン」と同じ音

であり云うと区別するため雨を加えて

「雲」となった

雲は「龍神」の潜む(住む)場所であり

さらに雲には雷神も潜んでいて、雷鳴を

轟かせた

いつしか【龍】・【雲(雨)】・【雷】が一つになり

【竜神】として信仰された


私は最近見事な龍を目にする機会を得た

ある方のブログに掲載されている龍の画を

みて感銘を受けた

このブログのリンクにも加えさせていただいた

龍好き画伯の妻

というブログ

一度覗いてみてほしいと思うほど、余計な宣伝

というか、一押しのブログなのである


龍が「竜神」である理由は、私的な解釈をすれば

観る人、観るときの心情、書き手の気迫によって

優しくも見え、怖くも見え、激しく感じ、穏やかに感じる

同じ画でさえ、観る日によって違った姿に見えること



私の思い込みかもしれないが、描き手と観客の

間に見えない何かが有ってそうさせているのか・・・


私は芸術とは無縁の人間である

権威のある方が絶賛したからと言って、私には

価値の無い作品もある

創作された有形の物には「主観」という眼で

観るのが本筋だという自論があり

皆さんの主観で観てほしいと思い、余計な

推薦記事を書いた次第です

(不必要な善意の権化 長屋の爺)

                   

◎  歴代天皇は本当に実在したのか 

日本は125代続く天皇を中心にしてきた国

気の遠くなるような時間を経過した日本と天皇家

そこで疑問・・・

神武天皇から開化天皇までの9代の天皇は、

架空の天皇というのが通説とされる


私は天皇の系譜を辿ってみて可笑しなことに

気付いてしまった

第10代 崇神天皇

この天皇は3世紀に実在したと

考えられている天皇だそうだ・・・

実在したと言う明確なものは、「記紀」以外存在しない

だから「考えられているだけの天皇」なのである

そのあとの天皇の経歴を見ると、とんでもない

ことが分かった・・

10代 崇神天皇から25代 武烈天皇までの

天皇は、活躍した(実在した)と考えられている天皇

たちなのである

当然のことながら生没年は不明(不詳)なのである

生没年が明確に記載されている天皇も不可解で

第30代 敏達天皇が 538~585年

そのあとの天皇は曖昧になっていて

第33代 推古天皇が 554~628年

これ以降はほとんどの天皇の生没年が解っている

ただ一人の天皇を除いて・・・

(天武天皇の生年が定かではない・・)

6世紀の天皇の生没年が記載されていて

7世紀の天皇の生年が不詳とは解せない話

日本書紀・古事記とはその程度の「史書」

なのである

国のために国のことを書き残したものが「国史」

特定の人間のために書き残したものは「私史」

そういう意味では「日本書紀」とは「藤原史」と

言えるのではないか・・・

不都合な事実は「隠し」「とぼけて」うやむやにする

これを逆から考えれば、架空とされた天皇なり王が

実在したことを藤原史は隠したかった

消してしまえば歴史は新しい状態になる

それでは不都合が生じる

(天津神の子孫なのだから)

途中を消すことは神代からの系譜を否定することに

なってしまう

そこで、生没年をうやむやにし、実在のようで

架空のような歴代天皇を書き残した

藤原史お得意の「とぼけ」である

「さて どうだったかな?」

「そうかもしれない」

「よくわからない」




たとえば、天智天皇の曽祖父である敏達天皇の

生没年は明確に記載されているが、聖徳太子の

父親であり敏達天皇の異母兄弟の用明天皇の

生年は不明であるなど、理解できないものが多い

ちょっと前なら覚えちゃいるが♪

ではなく、ずいぶん前なら覚えているが、ちょっと前は

分からないと言うことが腑に落ちないのである

都合が悪いから、省略(隠蔽)したということではないか


私はある天皇のことを「曖昧にする」「虚構で飾る」ために

それ以前の天皇を同じように曖昧な処理をしたと思っている



その候補が第31代 用明天皇

あの聖徳太子の父親とされる人物だ・・・

用明天皇の同母妹が推古天皇(豊御食炊屋姫)

であり、聖徳太子の前後に腑に落ちないことが多すぎる

私は推古天皇という女帝は存在していなかったと

考えている

推古天皇は実在しただろうが、女性ではなかったと

思い込んでいる長屋の爺である




第10代 崇神天皇とは・・

教化を基本とした天皇だとされるが、教化のために

武力を使って国中を治めたとされる

教化とは【徳】のことである

天皇は徳を以て「民を治める」のが理念だった

武力(暴力)でひれ伏させたものを「徳の政治」

と言うのだから「やれやれ」である(笑)


私は天皇制度を否定する気もなければ、天皇家を

貶める気持ちなどさらさらない・・・


私が否定したいのは「藤原氏による歴史」である

藤原氏に「日本人らしさ」が見えないのである

自分たちの栄華のためには、いかなる手段を用いても

ライバルを粛清する態度に、大和(日本)の匂いではなく

半島の匂いがプンプンしてくる

最近の北朝鮮の政治を7世紀~8世紀に実践したと

観れないことも無い・・・


私の偏見かもしれないが、冷酷さ、非情さがどうも古代ヤマト

の豪族諸氏との異質感を感じる


そんな藤原が編纂した「天皇史」が尋常であるはずがない

自分達に都合の良い天皇だけが誇らしげに書き残され

不都合な天皇は曖昧、改竄、抹消という手段で歴史の闇に

隠してしまったと私は考えている



日本書紀に「悪し様」に書き残された者たちは

藤原に対して「不都合」「邪魔者」であったにすぎず

ヤマト(日本)にとって「悪」だったとは思えない


日本は「言霊」と共に栄えた国である

漢字が伝わってから、「字義」「音」は大切なもの

忌み避けられるべき文字を使う事など不可解である


藤原の史書によって「悪く書かれた者」、その背景を

次回から長屋の爺的解釈で、考えてみたいと思います。

                    

◎  我が家の一大事 

昨日は午前中から深夜まで悪戦苦闘で

疲れ果て、更新もできなかった

昨日の10時ころ、ミコが戸口に向かって座り

何かを凝視している・・・

声をかけると振り向いて一声鳴くばかり

近づいてみたら、足元がぬ濡れているでは

ないか・・・

その時頭に滴がポタリ・・・

見上げればそこに「エアコン」が

エアコンの水漏れだった

それから昼食も抜きで一心不乱に格闘し

一向に治らないので、ネットで検索して

対処法を観てみたが、「結露」の様子はなく

排水パイプの詰まり、若しくはエアコン内部の

水垢ではないかと判断し、とりあえずホームセンター

に走り洗浄液(スプレー)と吸引具を購入してきた

それから数時間の格闘も空しく症状は同じまま


我が家のエアコンは離婚してすぐに購入したもので

11年を経ている老体である

壊れたら買い替えを覚悟して、エアコン本体の排水口に

乳酸系カビ取り剤の原液を流し込んだ(笑)

それでもポタポタは止まらず深夜になって不貞寝した


今日の仕事が早く終われば、電気店に相談に行って

話によっては買い替えも止む無しと覚悟した


ところが今日の現場、いろいろ手違いがあって

昼食抜きの夕方までかかった・・

クタクタで帰宅してみると、部屋の中は30度を軽く超えていた

バケツを下に置きエアコンをONする

30分経っても一時間経っても、ぽつりとも落ちてこない

「ラッキー」 

3000円少々で治ったことになる

エアコンクリーニング 10,000円

エアコン修理代  20,000円 が不要になり

見事に節約した長屋の爺です(笑)


しかし昨日の疲れと今日の仕事の疲れが合わさって

今にもダウン寸前・・・

休みの日に休めなかった代償は大きい

久しぶりの休みの予定は未定のままで

終わりました

と言うわけで、更新は明日と言う事で・・・

台風に猛暑と可笑しな気候です

皆様もお体にご留意してお過ごしください

    (長屋の爺&ミコ)
                 
                   

◎  とある記事を読んで・・・ 

秋篠宮家の料理番が職場を「ブラック」と告発! 紀子妃の厳しさに職員が...

 男子皇族・悠仁親王の順調な成長に、最近の"佳子さま"ブームと、皇太子一家を差し置いて、"我が世の春"を満喫している秋篠宮家。だが、ここにきてその秋篠宮家と紀子妃に、衝撃的なスキャンダルがもちあがった。

「週刊文春」(文藝春秋)7月9日号が『秋篠宮家料理番』の告白」という記事を掲載したのだ。

 皇族の料理番といえば、大正から昭和にかけて宮中で料理番として仕えた料理人・秋山徳蔵の人生を描いたドラマ『天皇の料理番』(TBS系)が好評だったが、この宮家の料理番の告白はドラマとは真逆のものだった。

 秋篠宮家は職員の間で"ご難場"と呼ばれているらしいが、なかでも「料理番」は苛酷な環境にあるという。天皇家や皇太子一家のための「宮内庁大膳課」ではなく、宮家の技官として雇われているのだが、秋篠宮家の「元料理番」はその内情をこう証言している。

「宮家仕えを一言で申し上げるなら、ブラックバイトのようなものですよ」

 詳しくは「週刊文春」を読んでいただきたいが、このタイミングでこういうバッシング記事が出た背景には、あまりに順調すぎる秋篠宮家に対する皇室関係者のやっかみがあるのではないかともいわれている。

 しかし、一方で、これまでにも、秋篠宮家、なかでも宮家を切り盛りする紀子妃が、職員に大層厳しく、人使いが荒いとの声はあった。

 例えば「週刊新潮」(新潮社)2015年1月22日号の「『秋篠宮家紀子妃』の鬱憤と溜息」では、内情を知る関係者の「皆さん異口同音に"あの家にだけは配属されたくない""カンベンしてほしい"などと漏らす」として、紀子妃の行き過ぎた職員への干渉や叱責に対してこんなエピソードを紹介している。

「(陛下の相談相手の宮内庁参与とのご懇談の席で)紀子妃殿下は、家屋の修繕などの"陳情"をなさったり、宮邸の職員、はては皇宮警察の担当官についても"お仕事ぶりがよろしくないので、どなたかに代えて頂けませんか"と単刀直入に仰ることがあります」

 宮家職員や皇宮警察にまで苦言を呈すのだから、さらに身近な「料理番」は尚更だろう。昨年には「料理番」が解雇されるという一件も起こっていた。しかもその原因は紀子妃の「料理番」への不満が積もりに積もり、遂に逆鱗に触れたためだという。これを報じた「女性自身」(光文社)15年6月9日号によると、紀子妃は料理に対し並々ならぬ興味と腕前、そして神経を使っており、かなりの頻度で厨房をチェックしていたという。

「ふと気配を感じて振り返ると、紀子さまが立っていらっしゃるんです。『使いやすそうですね』と私の包丁を手にとってご覧になることもありました。ご指摘から察するに、かなりの腕前ではないかと思いました」(元料理番のコメント)


© LITERA 提供
 また秋篠宮家の献立も、紀子妃が最終チェックをするし、子どもたちのお弁当メニューも紀子妃の指示の元、料理番が調理するという。また猫舌の秋篠宮文仁親王のスープは冷まして、しかし紀子妃は熱いうちにといった細かな指示まであるようだ。

 また「週刊文春」では「ブラック企業告発」をした人物とは別の、秋篠宮家でもっとも長く「料理番」を務め、その後、いつの間にか自己都合で辞めたという人物を直撃している。この「元料理番」は記者の問いかけに顔面蒼白になり、「もう昔の話なので。何も話すことはありません。思い出すこともありません」と語り、その後も再度「元料理番」を待つ記者を撒くように姿を消したという。

 紀子妃が嫁いで25年、多くの職員がその職を心労などで退いたと伝えられる秋篠宮家だが、悠仁親王が皇位継承順位をあげていくにつれ、問題は宮家内部のことですまなくなるかもしれない。たとえば、紀子妃が皇室内で隠然たる力をふるいはじめ、"女帝"化する危険性も指摘されている。皇室の抱える問題は必ずしも雅子妃の体調だけではないのだ。(田部祥太)




何やら東宮夫妻の「歯の欠けた櫛」のような公務が

大きく取り上げられている昨今

歯の欠けた櫛(comb)=途切れ途切れのコーム(公務)

などと冗談を言ってる場合ではない気もするが・・・

その効果が薄いと感じた【某宗教団体】が裏で工作した

結果が↑の捏造記事である


笑ったり怒る前に考えてほしい・・・

これは明らかに「皇室批判」ではない

「宮家批判」以外考えられない記事である

この記事を感情的にならずに冷静に読んでいただきたい

何が見えてくるのかは個人個人に違いが出るはずだ


バックに「影の圧力組織」と「影の女帝候補」の気配を感じる

長屋の爺である・・・。

この記事に対するFacebookコメントも紹介する



トップコメント投稿者 

誤:衝撃的なスキャンダルが持ち上がった!

正:衝撃的なスキャンダルに仕立て上げてやる!

難しいだろうけど、日本語は正しく使ってください。2点。

いいね 16


トップコメント投稿者 · 愛知県 豊橋市

何言ってんのこの記者。

自分が具体的に宮様方のお言葉を聞いたの?

貴様のほうが秋篠宮様、佳子様方にやっかんでるんじゃないの?

いいね 11


トップコメント投稿者 · 自営業(個人事業主) アパート管理人

皇室に唾を吐ける無謀な者は皇室以外にありえない。

確かに秋篠宮殿下は他の皇室から疎まれつつあるのかもしれない。

いいね 0


トップコメント投稿者

紀子さんの外見からは、意外としか言いようがありませんが、でも、

人は見かけではわかりませんからね。

貴族出身じゃないから、庶民的かな、と思っていましたが、

そうではないのかもしれません。

いいね 2


東京都 文京区

家族の健康を預かる立場の妻は誰でもそうするんじゃないの? 

ごく当たり前の事だと思います。

ましてや皇族に嫁がれて・・・苦労は計り知れないと思います。 

給料貰って働いてる人が何を言ってるんだか? くだらない!

いいね 13


トップコメント投稿者

バイト感覚で皇室に奉仕する輩は普通に辞めてくださって結構です。

そういう方が皇室で働いているというだけで国民はガッカリですし、

ましてや週刊誌に開示するとは(呆)。

皇室のために心身を尽くして奉仕したいという方たちに失礼です。

くだらない!

いいね 9


トップコメント投稿者

LITERAは物凄い反日ですから。

このような記事書いても驚かなくなりました。

非国民LITERA

いいね 2


不愉快極まりない、この種の覆面記事。

報道された側が容易に反論できないとわかっていて叩く、

卑怯卑劣このうえなし。

しかも相手は皇室。国に弓するようなもんだ。

唾棄すべき国賊の所業。

いいね 2


トップコメント投稿者 · 勤務先: 自営業

田部祥太という韓国の工作員が口にするのも憚られるような

記事を捏造して日本の皇室を汚している。

この輩は何ら証拠も示すことなくご皇室で働いていたという

料理人の話をする。

この料理人が誰かも、どんな仕事をしていたかも、全く何の

証拠も示さずに。何の証拠も示せないと言うこと自体がこの

記事が捏造に他ならないことを証拠立てている。

この行動は国際社会の如何なる礼儀にももとる最低の行いだ。

これが戦後を通じて朝鮮人達が日本に対して為してきた典型的行い

なのだ。

リテラという朝鮮人に支援された反日組織は常にこうした物語を

捏造してきている。

朝鮮人よ、我々日本人は強く警告する。

日本人のみならず国際社会にとっても最も聖なる存在に触るな。

お前達のこの言語道断の仕業は全日本人の永劫の記憶になった。

将来お前達の国にどんな事が起ころうとも、お前達は我々日本人からは

決して如何なる援助ももらえないことを心に刻んでおけ。

お前達は今回は一線を越えたのだ。

いいね 0


Facebookのコメントを一部引用転載しましたが

どう受け止めるかは自分自身でお考えください。



日本のマスゴミはそのほとんどを論拠を隠すことで

視聴者の下衆な感情に訴えかけています

週刊誌や三面記事の如く、フィクションとの境界線が

曖昧な記事ばかりでは、国民は見限ると思っていた


ところが、私には理解できないが、「興味津々」な人が

世の中には大勢居る事を感じることが多くなったのも

事実である

盲目的に「宮家」を擁護するのも問題だが、事実関係を

精査するにはあまりにも材料提供の乏しい記事には

フイクション・捏造の疑いが起こっても当然だろう


何処に嫁ごうとも、どのような仕事に従事しようとも・・・

苦労が伴わない人生・現実などあるわけがない!


書き残されたものには「主観と感情」が加味される

見る角度・位置が違えば、自ずと言葉(文字)に

差異が生じる

その記事が事実か虚構かの判断基準

も千差万別なのは仕方が無い事か・・


そういう現実を理解したうえで「モノを読む」ことに

対し留意したいと感じた記事であった。


事実と認められる論拠の無いものは「捏造」「虚構」と

この国では表現する

これを事実検証し「確たる事実」が出てこないなら

「慰安婦」「南京虐殺」と同じ種類の言葉の凶器と

いう事になる

考えない国民(お花畑国民)は「そうなんだぁ」と

思い込んでしまうことの怖さを痛感する・・・。

                  


◎  一休みします 

連日の雨中の仕事によって「風邪気味」

調子が悪い・・・

天候不順が体調不純になった?

神さまが「休め」と言っているのか?


と言う事でここらでちょっと「一休み」します

あわてない あわてない 一休み 一休み

週末には更新できると思います・・・。

                   

◎  藤原氏を考える 

日本の歴史には多くの矛盾と謎がある

数え上げれば「きりがない」ことになってしまう


私が興味を持っているのは、蘇我氏と藤原氏

とりわけ藤原氏は謎だらけ、矛盾だらけの一族である

藤原氏は神代から続く家柄であり

天児屋命を祖とする神別氏族だと言われている

(神別氏族とは、氏族の分類で【天津神・国津神の子孫】

をいう)

ところが、藤原氏(中臣氏)は神代から7世紀まで

系譜と業績が全く存在しないのである

日本書紀は藤原不比等が主導して編纂したもので

いくらでも好き勝手に書けたはずなのに、全くの

空白状態なのだから驚いてしまう

神の子孫と言うばかりで、その系譜も足跡も

何一つ存在しない「幽霊氏族」に近いのである


中臣鎌足という名前も、疑わしいものであり

鎌足の前の名前が、「鎌子(かまこ)」とされるが

中臣鎌子とは6世紀(欽明天皇の時代)に実在した

群臣であり、同姓同名というのも不可解なのだ

さらに突然「鎌足」に改名していることも、名前を

拝借したことを気付かれて、あわてて改名したの

かもしれない

藤原氏は「新羅嫌い」で有名だが、関裕二氏の

説をとれば、中臣鎌足とは百済王の【豊璋(ほうしょう)】

であり、鎌足が活躍している時期は「豊璋」が日本に滞在

していた時期と重なる

豊璋が日本にいないときは、鎌足の影がどこにも無い

関裕二氏の言葉を借りれば、「透明人間」になっている

と言うのである


これから先は長屋の爺の暴論であることを

承知してください


私の自論では、おそらく中臣鎌足は関裕二氏の言う

百済王・豊璋、あるいは「鎌足架空説」ではないかと

思っている

豊璋と言う人間は実在したが、鎌足とは無縁であった

鎌足と言う虚像は不比等の創作である


藤原氏の系譜も「不比等」から始まっており、神別というのも

後から付け加えた逸話に思える

文献や資料にも、不比等から以降の藤原氏には詳しく

触れているが、鎌足以前や鎌足と不比等の逸話など

見えないのである



天皇の外戚でもある「藤原氏」の系譜が無いと言うのも

不思議な話ではないか・・・

藤原氏の力をもってすれば、如何様にも書き残すこと

は可能だったはずなのである


不比等が持統天皇の信頼を得ていたというのも

持統天皇にすれば、祖父と母の死の原因となった

父・天智天皇への「複雑な感情」から推測するに

父と協力関係にあった「鎌足」の息子に対して

信頼など生まれるとは想像できない

鎌足と不比等は血縁関係が無いからこそ

信頼したのではないか・・・と思っている。


不比等の出生について、一説には・・・

『興福寺縁起』に 「公避くる所の事有り」 とあり、

これは不比等が天智天皇の御落胤であることを

意味するという

「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などにも

その事が明記されている

天智天皇の娘である持統天皇と側近の不比等

その関係が異母姉弟だったとすれば、信頼した

ことも納得できる


天智の娘でありながら、尊敬する祖父と愛する母を

父・天智に間接的に殺された持統天皇

天智天皇の子でありながら、日の当たる場所に

出られなかった不比等が持統朝という大輪の花

を咲かせたのかもしれない。

                    

◎  言葉の雑学 

連日の雨で体中「カビ」でも生えそうな気が

してきます

どうやら台風も3っつ発生していて

異常気象なのか?

農作物が日照不足で打撃を受けているとか

冷害の心配も現実味を帯びてきます

天人相関が迷信とは思えなくなりそうで

天変地異・異常気象も天の啓示なのか

なんて思ったりして・・・・。

さてと・・・

とかく人間というものは「比較」するのが

お好きなようである

その大部分は主観に左右されることもあり

「手前味噌」や「おらが村意識」が基準となる

場合が多い


では「神」と「鬼」、どちらが上か?

と言っても、正解などない言葉遊びのようなもの



これは意外にも【鬼】のほうが上なんです


なぜかと言うと、【神鬼】と言う言葉を聞いたことや

目にしたことは無いと思います

ところが【鬼神(きしん)】と言う言葉は存在するのです

鬼が先に来るということは、鬼のほうが上となります

優劣、幸福、龍虎、兄弟なども同じかもしれません

誰かが決めたルールでしょうか?

「鬼のチカラ」は「神の力」より上と古代の人は

考えていたのかもしれませんね


言葉の雑学

額(ひたい) 

古語では「ひたひ」という

「おでこ」のことであるが、なぜ「ひたい」というのか?

「ひたい」の(ひた)を漢字にすると【直】で

【ひたすら】とか【ひたむき】の「ひた」である

だから「ひた」とは、まっすぐという意味を持ち

そこから「相手にまっすぐ向き合う」こと

相手に向き合うのは手でも足でもなく「ひたい」

ということ、太陽(日)を拝するとき、日に向き合う

のは「ひた・ひ」であったのです

日(神)に背を向けず、まっすぐに向き合い

感謝の祈りをする、そういう事ではなかったか

と思っています


「額」と言う文字、もう一つの読み方がある

「ぬか」と読む、そう「額田王」で知られている文字だ

これから「ぬかづく(古語)」になり「ぬかずく」となった

もうお分かりと思う

ひたいを地面に付けることから「ぬか・づく」となった

日本語って本当に面白いですね(笑)

                   

◎  お田植え祭り*平安朝の名前 

DSC_0070.jpg


知人から借りた岡崎市の市政だよりの3頁目

一見するに間違いなく「気品」と「風格」を感じる

両殿下のお姿である


行事に参加・臨席する姿勢・態度に真摯に

向き合う人柄がにじみ出ていて、何とも

複雑な心境である

真剣に農耕器具や資料をご覧になる秋篠宮と

寄り添うようにかすかな微笑みを浮かべる

妃殿下には、「皇族」としての神々しさすら

感じてしまう

何がそうさせるのか・・・生まれだけではない

育ちだけではない・・・不思議な何かが備わった

言葉にできない雰囲気をお持ちであることを感じたのである


何ともならない、できないもどかしさを感じている

国民は私だけではあるまい・・・・


日本のマスゴミの論調の反対が事実だということ

あらためて感じてしまう両殿下の訪問であった





名前の話

平安時代の女性の名前は 【*子】 というのが

貴族の間で多く見られる

当然ながら【~子】は「~こ」と読む

ところが以前にも書いたが、ヤマトには「名前訓」

というものがあって、好きに読むことができた

【定子】も「**こ」と読むのだろうが、正確には

伝わっていない・・・


清和天皇の后・高子は【たかいこ】と読み

文徳天皇の后・明子は【あきらけいこ】と読む


当然、定子をどう読んでも不思議ではない

そこで考え出されたのが「音読み」で表すこと

「ていし」も「しょうし」も略称と言う事になる

記録に残らないのは、女性の本名は秘されて

いたからだけでなく、文字で書くことはできても

「呼ぶ」ことができなかったからだと、私は思っている


天皇が「見たい」と言えば、「欲しい」と言う事であり

名前を聞くと言うのは、自分の所有になれということ

迂闊に「本名」は教えられなかったのが平安の世

だったのだろう


因みに清少納言と紫式部、定子と彰子は対比

されて、犬猿の仲と思われがちだが、この組み合わせは

実際にはニアミスはあったかもしれないが、直接に

関わっていないのである

彰子が入内したとき、定子は出産のため三条の宮に

居り、彰子が里帰りしたとき一条院に入った

定子が三条の宮に戻った後、彰子が帰ってきた

そんなふうに二人が直接、接することが無いように

一条天皇と藤原道長が気を配っていたということ

ではないだろうか・・。

                    



◎  ミコの近況報告 

本日は妙にいらついている・・・

ノートPCだが、Bluetoothのワイヤレスキーボード

を使用している

32型のテレビをモニターにしているため、必要不可欠な

存在である

PCの引っ越しも最終段階で、セキュリティソフトを

インストールしたら反応しなくなってしまった

以前に使用していたキーボードを引っ張り出して

更新しているが、使い勝手が悪くイライラの連続である

どうも気短でいかん・・と反省だけはしている(笑)


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さて・・・

すっかり写真嫌いになった我が家のミコ

相変わらずカメラを向けると移動してしまう

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玩具やおやつで気を引きながらの撮影・・・

それでも時間が経過すると「不機嫌」になる

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我儘いっぱいに育てたせいなのか(笑)

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今回、雲隠れせず写真を撮らせてくれたのは

新しいカメラに興味があったからだろう(笑)

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寝てるか、食べているかの違いだけで

基本的に静かにしている・・・

時折、私に何かを訴えかけるのだが

私には彼女の言葉が理解できない・・・

言葉の大事さ、声に出すコミュニケーション

の意義も教えてくれる


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時には棚の上の物を落として叱られ

罰として「ケージ」に押し込められる

一応 反省しているようには見えるが

案外 気になどしていないのだろう

それが 猫 というものだと思っている


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雨が続き やっと「梅雨」を感じる毎日

雨がどうのと言ってるうちに、また猛暑が

やってきそうである

体にだけはご留意を・・・。

                   

◎  病気・けがと自分の人生 

最近 私の周りでは病院にお世話になる人が

増えてきた

そんな私は「医者嫌い」でよほどのことが無い限り

医者の門は潜らないことにしていて

自分の寿命・人生は「天が決める」と覚悟している


現在も左足の「脛(すね)」に傷と腫れがあり

傷は完治に近いが、腫れは十日ほどこんな状態である

骨がどうかなっているかわからないが、仕事・生活に

支障がないから「善し」としている

痛みに強いと言うか、鈍感と言うか、M体質なのか?


そんな長屋の爺もネットの知り合いが「良くない」

と聞けば、内心穏やかではない・・・・

だからと言って、世間並みの「見舞い言葉」が

出せない性分で、コメントすら躊躇ってしまう(泣)


私は案外古い人間で (案外でもないか 笑 )

思いは通じる・・・とか、祈りは通じるもの・・とか

以心伝心など真面目に信じる傾向にある


元妻にも「情の薄い奴」と思われていたかもしれないが

(元妻とは喧嘩別れしたわけでも、不倫したわけでもない

結婚とは本人同士の問題というのが嘘だったことが原因だ)

私の言葉は時として「鋭い凶器」のように思われている


言ったことを後悔したことは無いが、できるだけ本音は

抑えるようにしている

当然ながら、ネット上では「やさしい言葉遣いの爺」に徹する

ようになった


「素」の長屋の爺は、言葉遣いの乱暴な一面を持っている

一歩踏み間違えていれば「極道」の世界の人間である

その「陰」の部分を知らない人が多くなったおかげで

「やさしい、穏やかな爺」を満喫している


できればこのまま、「穏やかな爺」で終わりたい

自分には不釣り合いな「良い人生」だった

そう言ってその時を迎えたいものである


もし痛みを伴う病で倒れても、痛みは自分の

因果・自業自得、罪の償いと思って耐えようと

考えている

延命なんてまっぴらである・・・


そんな記事を書いている今このとき・・

友人からメールが来た

「手の骨が折れていた」というメール

半月以上「痛みが引かない」と言っていて

今日病院へ行ったそうだ(笑)

私の周りの友人はみんなこのような有様である

痛い痒いと騒ぐ人間は少ない

故に、手遅れになる可能性も否定できないが

子供でもあるまいし、還暦を過ぎた爺たちである

覚悟はできていると思っている・・・けれど自分の

価値観を押し付けるほど私は傲慢ではないし

なるようにしかならないのが人生というものなの

かもしれない・・・。


私がブログを書く理由

大それた話題ではないのだが・・・・

私がブログを書き始めた理由は「ひとつ」である

理由を書いては見てもそのほとんどが「後付」であり

本当の動機は「自分自身で考えてみる」である


なぜか今の日本人は「世間に流されている」と思い

情報が氾濫していて、そのどれもを信じて取り込む

姿を見ていて「ハラハラドキドキ」したのである


著名な大学教授が「言っていた」から信じる?

日本に関心がなく、自分の世界に浸っている現代人

モノには優先度が存在し、何のために生きるのかすら

どうでもよい話で

今この時さえ良ければそれで良いという思考


なんと刹那的な思考なのか・・・・

と、長屋の爺は「自分の頭で、自分で考える」

ことに決めたのである


しかし、考えただけでは忘れてしまう・・・

ノートに書けばどこかに埋もれてしまう・・・

ならば、ネットの世界に浮かばせよう!

というのがブログ開設の原点である


そもそも、政治や社会に「違う」を見つけたことから

始まったのだが、そのうち身の回りのことにも

「違う」を感じ、「いらんお節介」であるこのブログを

開設した

知ったからどうと言う事でもないかもしれない

爺が勝手に妄想していることに興味がわかない

読者もいるだろう・・・

それでも「書きたい」「書かねばならない」という

必要のない押し付け善意

それが「不必要な善意」の由来である(笑)


もう一つのブログ「花はそっと・・・」のほうは

以前にもどこかに書いたが、私は「サクラ」が好きで

日本人に生まれた名も無い爺、世間の片隅で

ひっそりと朽ちてゆくのが定めかもしれない


世間に知られることなくそっと産まれ、知らないうちに

静かにこの世を去って行く、まるで「サクラの花」のように・・・


人は晩節を汚すことなく、静かな最期を迎えるのが

日本男児としての矜持なのかと・・・


生まれた時はその他大勢であっても、凛として生き

社会の一員として、人知れず静かに人生を閉じる



そんな願望から「花はそっと咲き静かに散れ」

というタイトルにした

あまりにも「長屋の爺」に相応しくないブログ名である

                   

◎  神さまと神社を理解する (2) 

初歩的なことで恐縮だが、私たちが頭の中で

イメージしている「神社」というのは、7世紀

後半に作られたものである


古代日本に於いて古代豪族の割拠した時代には

存在していなかったというのが一般的な説

だと思う


古代ヤマトが統合された背景には、「話し合い」で

成されたわけでは無い

当然ながら「血を流した結果」での統合であり

無念の思いはいたる所に発生したことだろう


なぜそう思うのか?

平安時代の「蝦夷討伐」を観れば明白である

時代に関わらず「統一・統合」とはそういうものかも

しれない


これから先は「長屋の爺の自論」である


私たちの国日本も、地球上の国々と変わらず

自然神が人の上に君臨し、絶対的な「チカラ」を

顕していた

そんな時代とは違い、人が人の上に君臨する

言い換えれば「支配」する時代へと変化していった


百の部族が在れば、百の神が存在していた時代

その神々と原始宗教の神を「八百万の神」と呼ぶ

ことにする


日本には一万を超える神々が居るとされ

東大寺・修二会で勧請される神がそれに該当する


その八百万の神々を実世界と同様に「纏め上げる」

必要に迫られた

しかし言葉だけでは大きな影響力は望めないまま

神々の序列に苦心した結果、支配者である

人間を神に置き換えて、系統立てることにした


各地に散らばる「豪族が拝する神」の頂点に

新たな神を創作する必要に迫られた・・・

そこで考え出されたのが、天孫降臨神話であり

皇祖神というものだったのだろう


しかし、事は簡単にはいかなかった・・・

統合したとはいえ、絶対的権力を持たなかった

天皇家は古代豪族の信仰に苦慮することになる

結果、古代豪族の祖を神格化することで収めた

征服者・支配者は「前政権・前王権」は絶やすのが

一般的であるが・・・

絶やした後の「祟り・怨霊」に腐心することにもなる


野や山で「神請い」をするには何らかの問題があったの

だろうと推測する

常在の「館」を作ることで、頻繁に怨霊を鎮めること

が可能になったというところか・・・

怨霊封じ、鬼の祀りの確立である

(これはあくまでも長屋の爺の妄想にすぎない)


なぜ日本の古墳・陵墓に埋葬者の名前が無い

のだろうか・・・

これも諸説あるが、私は「原始宗教」の影響を

強く受けているからだと思っている

原始社会では亡くなった親や親類の名を口にしたり

そのことを普段話したりすることを忌み嫌っていた


(アイヌ神謡集 からの引用)

その風習の名残が古墳時代にも影響を受けて

被葬者の名前すら口にしなかったのだろうと思います


口にしない、話題にしない・・・・

だから文字の無い時代であっても、口伝すら

あやふや、不明とされるのではないかと思う


そこに、口にすることも憚(はばか)られた神とは

別の神が鎮座することになったのだろうか・・・


神社に「封じ込められた神」、「祟りを鎮められた神」

の名前さえも定かではなく、封じたことすら不明になり

霊験あらたかな「神さまの顔」だけが伝わったのかもしれない


良い面(ご利益)だけが伝えられる神とは、怨霊神、不遇の先祖

を隠すために、のちの世に創られた神さまなのかもしれない。

                    


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