不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  日本の昔 あれこれ・・ 

日本では昔、雁(かり)が渡ってくるときに

小さな小枝を咥(くわ)えて飛来した

その小枝の用途は、疲れた時に波間に落とし

しばしの間「羽を休める」ための止まり木だった

日本の海岸に到着すると、海岸に落としておいて

春になって帰るとき、それを拾って(咥えて)海を

渡って行ったそうである

しかし・・・・その浜辺にはたくさんの小枝が残されて

いたという

人にとらえられたり、事故や病気で命尽きた鳥たち

彼らが二度と使う事のない「小枝」が無数に・・・

人々はそれを集めて風呂を焚き、多くの人に

入ってもらい「雁の供養」を」したという

その風呂を 【雁風呂(がんぶろ)】 と呼んだそうだ

悲しい昔の言い伝えである。




【夏越(なごし)】

陰暦六月の晦日(みそか)に行う行事で

神道における【大祓(おおはらえ)】の神事の一つ

邪神を払い和(なご)すことを目的とするという


六月(みなづき)の なごしの祓え する人は

     千とせの命 延ぶというなり


夏越の祓えをする人は千年の寿齢を得ることができる

そういう言い伝えである


紙を人形(ひとがた)に切って、名前を書き神官が

ケガレを祓って川に流す

あるいは、神前に「茅の輪」を作り、そこをくぐって

身を祓い清めたりする

起源はおそらく平安時代、いまでも続く日本の

伝統行事である



【金魚玉(きんぎょだま)】

昔懐かしい日本の風物

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金魚玉


見ているだけで「涼」を感じる

ガラスの持つ透明感と金魚の朱が見事

まるで自分が中に入り込んだよう・・・


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明治時代には存在していたと言います

明治時代の俳句にも

 金魚玉 射る日や壁の 虹丸し

 金魚玉 三つ笠松に 吊るしけり

などと詠まれています

伝えていきたい日本の伝統と風物

風流な心地にしてくれる逸品です。

                    
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◎  カメラを買った長屋の爺 

今年の春は例年になく仕事が忙しかった

忙しかっただけで収入とは別の話なのだが(笑)

体のあちこちを痛め、何とか梅雨までたどり着いた

気分転換で何をしようかと日々考えてきたが

この際「カメラ」を購入することにした


若いころ「カメラマン」を目指して挫折した爺である

40年ぶりの「一眼レフカメラ」である

悩んだ末に「NIKON」に決定

昔は昔、今では素人同然の長屋の爺である

背伸びせずほどほどの機種を選択した

自分に対するご褒美というところか・・・


これにはわけがあって、春に梅園に行ったとき

デジカメで撮った写真に「愕然となった」ことがあった

自分のイメージと映ったものがあまりに違っていて

腕(技術)もさることながら、機械の差が結果(写真)に

現れることを痛感した次第である


実は所帯を持つときに、「カメラ禁止令」が出ていた

カメラを持たせると「家に落ち着かない」

亡き母が嫁(元妻)に伝授した言葉のせいで

家族親戚中から「禁止」が当然という流れになった


昔のように給料のほとんどを写真につぎ込む齢でもない

朝から晩までカメラを持って飛び回るわけでもない

一つの楽しみが増えただけ・・・

そう思うことにした



これが今所有しているデジカメ

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NIKON COOLPIX S600
(専ら 仕事に持ってゆくカメラ 使用期間10年)

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PANASONIC LUMIX DMC-FH10

(薄く軽いので外出用 使用期間 4年)

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CANON Power Shot SX160IS

(望遠倍率が大きいので イベント観賞用
 使用歴2年)

そして・・・今回購入したのが

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NIKON D5300



今のカメラは「電子機器」であり、習得するのに

時間がかかりそうである

神社めぐりに活躍することを願って、今から

操作に慣れておこうと思う爺なのである

                   

◎  名前の話 

最近の子供の可笑しな名前・・・

何とかネーム?

キラキラって言いましたっけ

最近流行だとおもっている私たち・・・

じつは最近ではなく伝統なんですよ


「徒然草」で有名な吉田兼好もその中で

「近頃は子供に小難しい名前をつけて

教養人を気取るアホな連中が増えている」

と書いている

日本はやたら「難読文字」が多い国でして

名前も御多分に漏れずということでしょうか

名前をきちんと読んでもらえない人はおそらく

相当な人数になるのではないかと思っています


日本には元々、【名乗り字】、【名乗り訓】という

ものが存在していて、どう読むかは勝手に

決められていたのです

源頼朝・・・これを「よりとも」と読むほうがおかしい

教わらなければよめなくて当然の文字(名前)

なんです

朝を「とも」という読み方はありません

名乗り訓の典型ですね


古代史の作品で著名な【小林惠子】さんという

作家、小林惠子(こばやしけいこ)と読んで

しまいがちですが、実際は「やすこ」さんです

ルビをふられていないと読めない文字ですね


「土佐日記」の作者・紀貫之の幼名はとんでもない

名前でした

【阿古屎(あこくそ)】と言います

今でいう「うんこ」君でしょうか(笑)

昔の貴族などは大人になると名前が変わります

だからと言って・・・「うんこ」はないでしょう・・

これにもふか~い理由(わけ)があります

子供の生存率が低かった時代

邪鬼や死神に子供が連れていかれないよう

関心を持たれないように、「大事な息子では

ないですよ」と悪い名前、ひどい名前をつけ

長生きさせようとする「親心」からつけられたもの

だったのです


もっと有名なのは豊臣秀吉の嫡男・鶴松の幼名

【棄(捨)】 すて と名付けられた

長寿を願い「捨て子は育つ」という迷信を信じたものだろう

・・・が、数え三歳で夭逝した

そして次男・秀頼の幼名は【拾丸(ひろいまる)】

「棄」で夭逝したから今度は「拾う」ことにしたのか?

親が子の長寿を願うのは古今東西変わらないということか


キラキラネームの起源は遠い昔にあったが

子供もいつの日か「大人」になるのが普通で

その子供の未来の姿を思い浮かべ、名付けて

あげるべきかもしれない・・・・。


中国の論語を絶賛する人は多い

この爺も時折「論語」の一文を引用したりする

しかし・・・論語に書かれていることは

どうして「書かなければならなかった」のか?

考えたことありますか・・・・

道徳の書としては素晴らしいと思うのですが

これを別の角度から見ると、その時代の

中国の歴史の一部が見えてきます

「親を大切に・・・」 と言う事はその時代は

親を粗末にする人が多かったから

わざわざ書き残したのでしょう


最近の「教育勅語」の評価の高さも

日本人の道徳観が荒廃しているからであり

条例などの規則・罰則が増えたと

言う事は裏を返せば、不道徳・非常識な

人間が増えたと言う事ではないでしょうか

                    

◎  在原業平と一むらすすき 

以前 訪れた寺院

その名は 【在原寺】

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寺名が示すように、【在原業平】ゆかりの寺のようだ


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三河の国 池鯉鮒(ちりふ)

現在の知立市にある禅宗のお寺

カキツバタが見事な八橋・無量寿寺が

見ごろになるとたくさんの見物客でにぎわう


7世紀後半の木簡に「知利布」(ちりふ)という記述

律令制以後の8世紀の木簡に「知立」とある

平安時代の『和名抄』に「智立」郷という名がみえる

江戸時代には「池鯉鮒」という東海道の宿場町として栄えた

「池鯉鮒」の名は知立神社の池にコイやフナが多数いた

ことに由来するらしい

ちなみに「知立神社」は三河二の宮である

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八橋の 一もとすすき  穂に出でて

  はるばる来ぬる  人まねくらん

(下総国 綱光)

この綱光という人物に心当たりはないが

もしかすると渡辺綱光のことかもしれない

尾張家家老・渡辺綱通の養子だった歌人

仙翁のことかもしれない・・・。


ら衣  つつなれにし しあれば

   るばる来ぬる   旅をしぞ思ふ

古今和歌集・在原業平の歌である

三河八橋・無量寿寺の杜若(かきつばた)を

見て「か・き・つ・ば・た」の五文字を句の頭に

おいて詠んだものだそうだ・・・・

無量寿寺には在原業平を追って想い叶わずに

自殺したという小野篁の娘・杜若姫の供養塔

があるそうだ

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在原の ありし昔を 伝え来て

   のこる形見の  竹の一ふし



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兼子義玄の句碑


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いまは昔 男ありける 松が青く

はこべ花咲く 旅のある日の すなおにも 

枯れ草に かすかな風が ある旅で

(山頭火)


仕事で神社仏閣を訪れる機会が多い

数年前まで特別な思いなど無かったのだが

最近はできるだけ写真に収めるよう努めている

これも何かの【縁】ですから・・・。

                   

◎  驚きと感謝 

一夜明けて今朝は驚きからスタートした

幸いにも本日は久々の休日だ

洗濯をする合間にPCをONしてびっくり!

読者の方々に余計な心配をさせる羽目になって

あらためてブログの素晴らしさと怖さを知った



この場を借りて読者の方に感謝と御礼を申し上げたい


さて・・・

凡その部分で心配・ご指摘の通りなのだが

私は今回のKUONさんのブログのコメント欄騒動に

めげているわけではない・・ことを申し上げたい


はっきり言って私のブログに直接・コメントする

人物の内容は、あの程度のものではない

私は自分より、それを観た読者が【不愉快】になる

懸念があるコメントは、即削除して人目に触れさせない

ようにしている

そういう輩はブログを書く意味も、ブログを閲覧する意味も

はき違えている「勘違い人間」か、「悪意をもって」あら捜し

する変質者であろうと思っている


気に食わなければ「見なければ良い」

反論するなら「自分のブログに書け」

他人様のコメント欄で持論を展開する「勘違い」

「非常識」な人間は怒る価値もない・・・


よって、今回の騒動は「きっかけ」にしかすぎず

落ちこんだり、へこんだりしているわけでは無いこと

をご理解願いたい


そんな程度で後ろを向く「長屋の爺」ではないです(笑)


私はすべてのことに「盲目的」になることはない

簡単に言うと、「好感を持ったから」なんでも信じるとか

素敵な人物だから、何でも許してしまうようなことも無い

政治家から物書き、芸人、近所の住人にいたるまで

「痘痕もえくぼ」ができない性分である

他人に厳しく、自分にあま~いのが長屋の爺です


さて今回の問題は非常に単純な勘違いから始まった

コメント主はブログを引用した方のコメント欄で

引用ブログの内容に異を唱えた

例えるなら、読書書評を書くブログに行って

作者の間違い・矛盾をブログ主さんにいちゃもんつけて

いることと同じなのである

こんな簡単な間違いが解らないコメント主を真面に

相手すること自体「無意味」なのである

まぁ、私のところに書いても「即効 削除」されるから

書いてこないのかもしれない(笑)



 【 講釈師 見てきたような 嘘をつき 】 

私の自論が間違いというのは、自身がその場にいた

と言う事になり、他者にゆだねない「確信的事実」を

お持ちと言う事になる


私は推量、憶測、脚色でブログを書いている

そういう意味では講釈師に近いかもしれない


と言う事は、それに反論・異を唱えるのは

観てきたような嘘ではない「確証」があるはずだ

書いてあるから事実は「見てきていない証拠」

専門文献も研究書も、一定の基準を物差しにした

推論の組み立てでしかない

長屋の爺の暴論と「おっつかっつ」の程度である


皇室に詳しい方が皇室関係の書籍を出版し

「皇太子は精力的に公務を行い」

と書けば、公務に勤しむ「皇太子」の虚像が出来上がる

これが、「書いてあるから事実」の本筋なのである


なぜ書かれているのか?

書く必要があったからに相違ないのである

歴史に残る文献は、勝者の論理で武装されたもの

これは戦後日本の姿を見ても明白である


ただ・・KUONさんに気遣いをさせてしまい

迷惑をかけたことは間違いなく

引用されても良い工夫(記述方法)を勉強しなければ

いけないな・・・と反省もしている

私の拍手コメにもKUONさんの読者から叱責をうけた

名前が無く、挨拶も無いので、通常は削除するのだが

今回は自分の戒めのために残してある

その全文は・・・

御ブログをひいたくおん様のブログで現在

コメント欄が荒れています。

どちらの言い分も分かるのですが、くおんさまのブログなので。



もっともなご指摘ですが、私が荒らしているのでも

ないのですが・・・

KUONさんのブログに引用された記事を書いた私にも

責任がある

そういう論理でしょうか

そうなんですよ・・・読者は不快感を持つと、その気持ちの

持ってゆく場所を探します

ところが「コメント主」が誰だかわからないとなると

双方のブログ主に「わかるのですが」という前置きで

気持ちを吐露することになる(笑)


今回の騒動で再認識したことは

不要なコメントは読者の目に触れさせない

自分自身が理解・共感できるものであっても

熱心な読者に不快感を与える懸念があるものは

従来通り「削除」することに決めた


通説ではない自論はもっと「丁寧な書き方」で

大きな誤解を生まない努力をするように心がける


私は研究家でも専門家でもないので、些末な個所は

「省く(端折るともいう)」事が多い

所謂手抜きの不完全な記述引用が多くなる

読者はこんな些末なこと興味ないよなぁ・・・

と勝手に推測して「切り捨て」つなぐことが多い


そこを勉強家の閲覧者が見て「違う」を叫ぶ

「いいじゃないか 幸せならば」

私のブログに私の暴論・自論を書いても・・

教科書に載るわけでもなし(笑)



・・・と、そんなわけで(どんなわけ?)

このブログが煮詰まってきていることは間違いなく

初心に還ってもう一度、神さまをゆっくり考えるべきなのか

充電する時間を長く持つべきなのか

迷っている(揺れている)状態なのです

今月の残りは、日本語・やまとことばの話で更新

できればと考えています

朔日(ついたち)はブログの休日で更新はしません

多くの励まし、助言に感謝! (長屋の爺)

                 

◎  不必要な善意 2年を過ぎて・・ 

このブログをはじめて2年3か月余り・・・

手探りで無知蒙昧もなんのその、恥ずかしい

駄文を綴ってきたが、ブログのおかげで

素敵な人たちと知り合えたことが一番の

成果だとおもう


中身でいうと「日本人」を客観的に観ることが

できたこと、「日本人の宗教観」を再認識できたこと

無学歴・無知識の爺にはとても良いブログ開設だった


じつは、これからの方向性に些か迷いが生じてきている


その原因が「書いてあるから事実」という意識を

拭えない人の目に、私の暴論・自論は理解されないと

思えることにある


私の暴論に対する見解や訂正コメントなどを

時々頂戴するが、その多くは過去の文献の引用

を根拠に「それは違うだろう」というものばかり

私の自論・見解が違っているのは納得できるが

それを論破するものの基準というのが

「文献に書いてあることが正しい」という意識


私は常々「歴史の正解はタイムマシンで」

そう言い続けてきた

その時、その場所にリアルタイムで立ち会わなければ

真実など解りはしない・・・・


つい70年前の歴史でさえ、「慰安婦強制連行」は

史実だと主張する人間が世界中に居る

強制連行は有ったのか、無かったのか

どこまで行っても「水掛け論」でしかない

それをはっきりさせるのは歴史証拠の収集ではなく

70年前のその場所に立ち会わなければ判断する

ことなど不可能なのである


歴史事実と言われるものは、何かを基準に認識した

結果であり、感情論も先入観も加味された「私論」

でしかない

ならば、長屋の爺の感情と先入観で満たされた自論も

「有り」なのではないだろうか

そんな不遜な考えからこのブログを続けてきたが

少々疲れてきたというのが本音である(笑)


ほとんどの書籍などは「史書」ありき、天皇125代

が事実という目盛りが刻まれていて

優等生の解釈・判断でつづられている

どうして「書かれていたのか」は論外なのである

書き残すには、それなりの理由(わけ)があるはず


ある天皇は「人民を差別することなく救済した」

と書かれている

ということは、ほかの天皇は「人民を不当に差別する」

ことが常態化していたと言う事になるのではないか

天皇のほとんどが「人民を差別することなく扱った」

のならば、わざわざ書き残す必要など無いではないか

「倹約に努めた天皇」が居たと言う事は、贅沢・浪費

する天皇が多かったことになり

「朝廷の古来の儀式や風俗を研究した」

というのは、儀式の作法が通常行われていなかった

ことであり、風俗も廃れていたと言う事だ

「禁秘抄(きんぴしょう)」を書き残したのは、古来の

儀式作法・儀式風俗を調べて(研究して)復活させる

ために残されたとみるべきだろう


私が平安中期で「神さま」が見えない、神さまの気配がしない

として、中断したのはそういう事が原因だった

本当に「人民(赤子)のために神に祈っていたかどうか」

私には気配すら感じないのである


しばらく休養するか、いっその事「縄文」まで戻って

本来の神祭りの再考をするか・・・

揺れているのが現在の心境である。



                    

◎  神さまと神社を理解するヒント? 

私が「挨拶」について頑なな意見を持っている

理由を簡単に述べてみたい・・・

私たちが「他者」の家を訪問するとき

いきなりドアを開けて「本題」を話し始めるだろうか

玄関のチャイムを鳴らし、あいさつを交わしてから

会話を始めるのだと思う



挨拶をするとは「例え」が違うかもしれないが

こういう事だろうと思っている


挨拶とは「力士の仕切り」と同じようなもの

自分は凶器など持っていない、真摯な態度で

臨みますという無言の宣言

あいさつは、相手に対し敵意の無いことの宣言

長屋の爺は、礼の前に言葉(挨拶)だと思っています



神道というと現代の神社神道を連想する

その神社神道ですら、100年ほどまえまでは

神と仏が一緒になった「神仏習合」の社寺であった

まず最初に神とは何だったか・・・である

神とは太陽であり、雲であり、風であり、雷であった

つまりは【自然】こそ「神」と呼べるものだった

日本人は自然=神という考え方であり

アニミズムを信仰してきた多神教の民である


神を祭る

自然に対する「畏怖の念」こそ、神祭りの動機であった

動機は「畏敬」ではない「畏怖」なのである

自然の猛威というものに「屈服」し、恐れひれ伏し

その「ちから」を和らげるために祭り・祈り・願った

と私は思っている

「神と共存」できるようになったのは、願い・思いが

神に通じたと感じた瞬間からだろうか・・・

そこから「畏敬」の念が芽生えたのではないだろうか

私の考える神に対する感情とは・・

畏怖→畏敬→崇敬→崇拝

という変遷を経てきたと思っている

神とは「めぐみ」と「破壊」の両面、もっと言えば

【誕生】と【死滅】の両方の「チカラ」を供えたもの

であり、それゆえ神と鬼がペアとなって語られる

のではないだろうか

元来「鬼」とは【死者の霊魂】であり「もの」と

呼ばれた

神=鬼 とは神の持つチカラの両方を言い表している

豊穣(誕生・成長)は神の顔

災害(死滅・破壊)は鬼の顔

漠然とではあるが、私はそう思っている


さて、仏教と言うと「お釈迦様」の教えを実践して

いると思いがちだが、私には日本人的宗教心から

創られた「日本式仏教」だと思っている

釈迦はあの世(来世)には言及していないという

あくまでもこの世(現世)を生きる心の持ちようを

説いたと言う事かもしれない

しかし、時代を経て仏教は死後の世界に重きを置き

葬式仏教と揶揄されるまでになった

「どう生きるか」を説いた釈迦

「どう死ぬか」を模索する日本仏教の違いである


仏教は日本に入ってきた当初は「国家鎮護」の

願い・祈りのためのものだった

ところが、密教が盛んになると「個人」のための

願い・祈りの宗教に近づいた・・・

平安の貴人たちが「公」より「私」を重んじた結果

阿る僧職たちが、あの世の「楽」、「安堵」を説いた

結果、国家鎮護・国家平安より、病気快癒・無病息災

を祈願するようになったのだろう

個人的な祈願をするのは日本仏教的なのかもしれない


そこで、神社の祈願ということになるが

なぜ神社があるのだろう?

これは古代からの神道とは別の話である

本来、神さまは「磐座(いわくら)」や「神籬(ひもろぎ)」

に依りつくものだった

専ら常住せず「神請い」により、巨岩・巨木などに

降りてくるものだった

当然、居住する館など不必要だったのである


なぜ本殿が必要だったのかは、ずっと後の時代の話

で、最初はとんでもないことからだった可能性さえある


これは【祟り(たたり)】と深い関係がある

神社とは「無念を残した者」を封じ込めて、祟りを

回避するための「器」だった

自然神を殿舎に閉じ込めることなどできるわけがない

それは「鬼」を閉じ込める館だったと推測する

鬼=死んだ霊魂 であるのだから、霊魂が蘇らない

ようにするため、祟りを起こさないようにするために

手厚く【祀った】のが始まりだろう・・・

人が鬼として祀られたのが神社の始まりではないか

だから器が必要になったと私は考えている


古い神社の由緒に「禁足地」というものがある

これは通説では「入ってはいけない場所」というが

本当の意味は「出てはいけない場所」なのである

鬼(もの)を封じ込めるための神社であるなら

当然の解釈と言う事になる

足を踏み入れてはいけない理由が希薄なのだ

神道、神社と言葉にすれば、皆同じと感じてしまうが

その時代によって神社や神さまも変わっているのである


さて日本は多神教の国である

 (何度も言うとしつこいか?)

その多神教は「なんでも取り入れる懐の深さがある

良い悪いの話は別にして・・・

神さまの区別をしてみたい

日本には様々な神さまが存在する

* 神話に由来する神さま

* 大和朝廷が創り・整えた神さま 

* 地方の神さま

* 外国から来た神さま

* 伝説上の人が神さま

* 神さまになった人間

* 自然の神様

どうしてこういう姿になったのかは

説明の要はないだろう・・・

多神教は数などに対し「鷹揚」な部分があり

なんでも否定しないし、とりあえず受け入れてしまう

その結果、いろんな経緯を経てきた神さまでも

信仰の対象になったのである

英霊というと靖国神社が代表的だが

英霊を分析すれば、身を以て国家鎮護を実践した

御霊であり、粗末に扱うと「祟り」を起こす懸念がある

だが、病死では「祟り」の起因にはなり得ないのである

英霊を神とする根拠は表向き【国の盾】となったことで

裏の事情は日本人の心に潜む「祟りの怖れ」だろう

(あくまでも長屋の爺の自論であるが・・・)

今でこそ「菅原道真」を道真公として崇めているが

最初の祀る動機は「祟りの回避」でしかない

冤罪で憤死した道真公の祟りを回避するために

手厚く祀ったものが、雷と言う手段で祟ったこと

から「雷=天神」ということで、天神様として

信仰するようになったが、最初から崇拝の対象では

無かったことは間違いないだろう

故に、一神教の神とは「似て非なるもの」が日本の

実在人物の神格化であると言える


最後に、どうして「大地・自然・国家」を祈願するべき

神社が個人の家内安全、学業成就、安産祈願、

交通安全などの祈願をしたり、「お守り」を授与する

のかというと、これも神道の色というより、神仏習合

の時代の遺産であり、仏教として「個人の祈願」をする

日本仏教ならではと言う事ではないだろうか・・・。


故人が神さまになったからと言って、その上に繋がる

かどうかは、仏教で考えれば「あり」で、神道では「なし」

と私は考えている。


神さまは死なない・・・・

死んだ者が神さまになる事の矛盾こそ「多神教」なのか・・


本来自然(太陽・風・海・川・山・空・星・風)は死なないもの

自然=神なのです

                    

◎  神託事件から見える藤原氏と天皇 

宇佐八幡宮神託事件

私はこれこそ「勝者の捏造・創作」だと思っている

僧・道鏡が天皇になろうとしたのなら、それは

皇位を奪う事であり、クーデター未遂に匹敵する

あるいは孝謙上皇(後の称徳天皇)と男女の

関係があったなら、戒律を犯した罪で「僧籍」を

はく奪されているはず

事実は770年8月、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜ

られていて、罪に問われた形跡などどこにもない

藤原氏によって左遷されたとしか思えないのである

姦通罪によって僧籍も奪われず、死罪や流罪にもなって

いないことから、神託事件とは「天皇」になろうとしたとか、

天皇をたぶらかしたような事件ではないと言える

その真相は藤原氏が隠蔽・抹殺してしまい、知る事は

できないが、権力に絡む「利権争い」の可能性もある


ではなぜ私が藤原氏の手による「隠蔽・抹殺」だというのか

この時代は8世紀後半で、道鏡は764年太政大臣禅師に任ぜられ

翌年には法王となった人物である

そんな要職についていた人物の生年が不明とされることに

歴代天皇の生没年が不詳の史書と同じ匂いを感じる

のである


もし道鏡が孝謙上皇を唆(そそのか)していたり、陰で

操っていたとするなら、結果から推量すれば、藤原氏の

意向を汲んで行っていたとしか思えない


もっと言えば、天武系を早期に終わらせる意図と

藤原氏復興を望む勢力の思惑は、道教が天皇の寵愛を

受けていることを利用して、易姓革命に近いような(天智系

の手に)権力を取り戻す計画の一つの駒として利用された

という見方もできる

結論を言えば、それほど後世の人間が思っているほど

道鏡は悪者ではなかったと言う事ではないだろうか


では、なぜ宇佐八幡宮だったのか? 


という疑問は、東大寺と聖武天皇の反藤原・反春日大社

さらに反興福寺に起因しているのではないかと思う


興福寺は藤原氏の氏寺(私寺)であったものを、国家の

手によって造営されていた

春日大社も藤原氏の手によって勝手に鹿島神を勧請し

氏神として祀ったもので、天武朝の伊勢神宮・皇祖神

が霞む勢いがあったのかもしれない

聖武天皇にすれば、私寺である興福寺の造営をを朝廷が

行うことに納得できなく、聖武天皇の発願で「東大寺」は

民衆の手による【知識寺】として完成させた

国家鎮護の寺を「国家権力」ではなく、民衆の熱意に

よって造営することが「反藤原」の錦の御旗だった

当然、その【守護神】は「春日神」であってはいけない

【宇佐大神】でなければいけない理由がこれなのである


東大寺と興福寺

宇佐八幡宮(宇佐大神)と春日大社(春日神)

天武系と天智系

聖武天皇と藤原氏



その対比がはっきり表れているのが

この時代の様々な出来事なのである


すべての事柄に共通するものは・・・

【反藤原】の強い思いではないだろうか


私は聖武天皇の凄まじい念を感じてしまう・・・。

                    

◎  縋る仏教 感謝する神道 

肩を痛めていたが、その肩を庇っているうち

背中を痛め、背中を庇うあまり腰を痛め

その反動で手首を痛めてしまった

満身創痍の長屋の爺です(笑)

仕事のピークもあと少し、ケセラセラで乗り切りたいw


この国に根付いた【仏教】とは本来は個人のための

ものではなかった

【国家鎮護】が本来の役目であったのだろうと思う


天皇が神に縋(すが)っても、天変地異・疫病など

国家・臣民の不安は解消されず、異国の「仏教」に

託したというところか・・・


いくら神に縋っても「神」とは感謝するものであり

縋るものではないから当然、平安など訪れるわけがない



天皇家が仏教徒になった起因は「縋る対象」を見つけたから

と言う事ではないだろうか


ところが密教が入ってきてから、天皇を守ることが

国家を守る事にすり替わってしまった

空海が始めたとされる【後七日御修法】とよばれる

天皇だけのための秘法がある

名目は「国土国家の安泰」と「玉体護持」

国の安泰と天皇を守ることである


空海が仁明天皇に行って以来、中断はあったが

江戸時代まで続けられた

明治期は廃仏の影響から【東寺】の灌頂院で現代も

続けられているという


去年の夏、インドの首相が来日したとき

安倍首相がモディ首相を東寺に案内したことがあった

どうして「東寺」なのか不思議だったが、一年近く経って

そういう意味もあるのか・・・と一人合点した


私たちは「田ノ神」というと一柱か二柱くらいに思っているが

おそらく膨大な数の「田ノ神」が全国に存在した

産土神(うぶすながみ)や「田ノ神」、鎮守の神など

狭い地域で「呼び名」は様々でも同じような神さまが

居て、神さまを中心に共同体のような集落が点在した


私たちが思っている神さまの形は、明治になって統一

されたもので、比較的に新しい姿なのである

神さまの呼び名(神名)や参拝作法なども、地方で

それぞれが伝えてきた方法を政府の意向で統一された

ニ拝 二拍手 一拝 など「明治からの作法」でしかない


私が神社の参拝方法など「神経質」にこだわらなくても

よいと言うのはそういう意味なのである

伝統的作法というなら未だしも、百年前に政府の都合で

決めたものに「縛られる」ことがどうなのか・・・

形より「気持ち」という事ではないだろうか

神さまが「**を供えよ」とか「こういう参り方」をせよ

「賽銭を入れろ」と言うはずもない


私が「天照大御神」を祀っていながら、「アマテラス」を

疑問視することの理由なのである


神さまを否定も排除もする気はないが、縛られることに

違和感を覚え、素直に感謝できる対象に「名前」など

さほど大きな意味はないと思っているのである。


                    


◎  藤原氏の本当の顔と天皇 

藤原氏がどうして権力を持ち、天皇家を

補佐するのか・・・

これは、権力を持ってから後に、その正当性

を「日本書紀」によって、宣言したものだと

私は考えている


藤原氏の祖は【天児屋命(あまのこやねのみこと)】

だとされている

天孫降臨の時、天児屋命は天照大御神から

「神鏡および天孫と同じ殿の内にいて、よく

警備に努めよ」と命じられ天孫とともに降臨した


そのことから、天皇を補佐することは神代から

藤原氏の使命であり、神命であるという考え方で

藤原氏の存在は天照大御神の神勅(しんちょく)

だという勝手な言い分なのである


大豪族であった【蘇我入鹿】を殺した理由が

天皇を守るためだったという言い訳も

称徳天皇を惑わした「道鏡」を排除して

光仁天皇を即位させたのも

陽成天皇を排して光孝天皇を擁立したのも

(藤原氏の三つの功績と呼ばれる)

藤原氏の負う「アマテラスの神慮」に適う行為

だという理屈である


アマテラスから天孫(皇孫)の補佐を託された

正統な氏族であり、時には強権を発動してでも

正道に引き戻すことが天から許された行いで

あるというのが藤原氏の言い分である


こんな「後出しじゃんけん」が許されるのも

藤原不比等が創作した「アマテラス」の皇祖神説

が基本とされたからである

日本書紀における藤原氏系図など

蘇我本宗家を亡ぼした言い訳であり

臣下の分際で「天皇」の排除・擁立を強行できる

免罪符にする意図が透けて見える


この理論の基本は「アマテラス」が皇祖神

という一点であり、それが崩れれば藤原氏の

出自も単なる胡散臭い系統の氏族になる

アマテラスが「創作・捏造」であったなら

天児屋命なども同じ類になる・・・・


全ての正当性は「史書に書いてある」ことが基準

であると言える

中臣鎌足の「大職冠」も胡散臭い話であり

日本書紀の記述も、時代を経て平安期あたりに

書き換えられたか加筆されたかもしれないと

長屋の爺は考えている



信じる信じないは個人の問題だが、学者先生の

定説・通説・正論は「日本書紀」ありきから始まる


子供に聞いても、「天皇の祖先は天から降りてきた」

と言えば笑われてしまう

その現実は何処かから日本に移り住んだ者の末裔

であり、天から降ってきたはずもない・・・


それでも天皇を尊ぶのはなぜだろう?


確かに藤原不比等の天皇・天孫説の果たした役割は

大きい、さらに明治政府が天皇を神格化したことも

大きな要因である

果たして、それだけなのか?


一番の要因は「祈る地位」であるからだと

私は感じている


天皇は祭祀王であると同時に「祈る天皇」でもある

自分のために祈る者は掃いて捨てるほどいるが

自分や家族は後回しにし、国民のために祈る


滅私の祈りをするからこそ「尊ばれ」「崇められる」


天皇とは「こういうもの」という定義が有るとすれば

その定義を外れない限り「尊崇」の対象になる


そういう意味からいえば、近代の天皇は自分や家族の

事より国民(赤子)のために祈る姿を見せてきた

平安の天皇より民のことを気遣い、民のために祈る

天皇の姿が見えてくる


滅私とは「己に厳しく」なければならない・・・

心の弱い天皇は滅私の姿を見せられない


昭和天皇の魅力とは「自分はどうなっても構わない」

国民が幸せになるならばとの「願い」に起因する


人それぞれ異論はあるだろうが・・・

祈る天皇の基準があるならば、昭和天皇が物差し

(基準)になるのではないかと考えている

                   


◎  宮中祭祀の真実 


今なお皇太子妃が参加しないとネット上で

批判されている「宮中祭祀」


皇祖・天照大神を祀る【賢所】

歴代天皇と皇族の霊を祀る【皇霊殿】

皇家の守護神・宮中八神と天神地祇を祀る【神殿】

この三殿で行われる祭祀を称して「宮中祭祀」と呼ぶ


歴代の天皇は三殿における祭祀を欠かさず行ってきた

・・・と言うのは正しくはない

明治以降はおそらく三殿における宮中祭祀を行って

きたのは事実だろう・・・


では、明治以前はどうだったのか?

天皇家は明治になるまでは「仏教徒」であったことは

世間では知られていることだが

皇居内に「皇霊殿」「神殿」などの宮中三殿というものは

明治まで存在すらしていなかった

だから天皇が自ら行う「親祭」などやりたくても

できなかったはずである


そこ(宮中)に在ったのは【黒戸(くろど)】と呼ばれる

仏式の祭場であった


今のような三殿の形になったのは明治22年であり

古代から続く宮中三殿における祭祀というのは単なる

イメージであり、明治になってから仏式を改めて作られた、

まだ新しい歴史の祭祀なのである

だからと言って天皇は祈ってなかったかと言うと

祈っては居ただろうが、神式か仏式かの違いがあるだけ

かもしれない

おそらく平安以降の歴代天皇は仏に対し「祈る」ことで

「祭祀王」の面目を保ってきたのかもしれない


特に【皇霊殿】は明治生まれの施設で、天皇のほかに

皇族が合祀されているが、明治10年に歴代皇后、皇妃

、皇親が、明治18年に岡宮御宇(おかのみやぎょう)天皇

つまり草壁皇子と祟道天皇など追尊された天皇が合祀

されている


宮中祭祀と聞けば古代から続く伝統のように思ってしまうが

正式に言うと明治41年に定められた【皇室祭祀令】からという

のが事実である

古代では天皇みずから祭祀を執り行うことは無く、神祇官が

天神地祇の祭りを執り行っていた

それが復活したのが明治時代なのである


それに付随して、各地の神社の祭りも、はるか昔から

連綿と受け継がれてきたと思っている日本人が多いが

これもその多くが、明治政府によって書き換えられ

古い形の「地方色・郷土色」が分からなくなってしまっている


その原因が日本の祭りは「神仏習合」で執り行われて

7~800年を経てきたものだったにもかかわらず

仏教排斥によって、神社から仏教色が一掃され

簡単に言うと「半分だけの祭り」になってしまった

その半分を埋めるために、新たな祭りの形式を

整えたものが今に伝わっている


私が日本の神道を壊したのは持統天皇。藤原不比等

と明治新政府だという根拠なのである



赤子のために祈る天皇

そんなイメージも明治政府が創作したものであるが

開かれなければ、見たくなかったものも多分に存在した

開かれた皇室とは、開けてはいけない【パンドラの箱】

だったかもしれない

                  

◎  長屋の爺の死生観と生かされている人生 

東日本大震災のとき

多くの外国人が驚いたことの一つに

悲惨な困難に直面した日本人が

暴動や略奪など一切しないで

整然として行動する姿を見た印象である


災害支援の炊き出しや配給にも

きちんと無言で並び順番を待つ姿を

外国人には「信じられない光景」として

映ったことだろう


他者を蹴落としてでも自分だけが

得をしたい、自己を満たすことが

最大・最終の目的である人間には

理解できないかもしれない


日本人の死生観・宗教観の根っこにあるものは

神と人をつなぐ【絆】であり

神への感謝=他者への感謝

どのような状況に在っても、感謝と祈りの心を

忘れない民族性といえる


生きている(生かされている)現状に感謝

などと言うと、綺麗言・世迷言と言われるかも

しれないが、長屋の爺のわずかな人生でも

それを実感したことは数多(あまた)ある


仕事柄、建設現場の足場から落下したことは

一再ではないが、一度もかすり傷すら負ったことは無い

大型トラックと衝突した時も、自車は原型を留めていなかったが

わが身はかすり傷ひとつなかったのである

九死に一生とは「自分の力で生き残った」のではない

見えない力によって「生かされた」と思うしか

私には気持ちの落ち着く場所が見当たらないのだ


私は10年ほど前までは、神さまも神社も寺も

一切かかわらずに生きてきた

人生50年を過ぎてから、目に見えないものに依って

漠然としてではあるが、生かされているような

感覚になった

その思いは還暦を過ぎてから一層強くなった


私は決して「健康な体」ではない

医者嫌いと寿命の信念だけで生きている

病に対して、争わず諦めず、折り合いをつけて

今日まで来た・・・


人は病気や事故では死なない

死んだ時が寿命なのである

おそらく長屋の爺は「畳のヘリ」に躓いて

打ち所が悪く、あっけなく人生を閉じる

そんな未来になるかもしれない(笑)


のどに餅を詰まらせて亡くなる人は

その時までが人生であり寿命だった

逝く人も残る人も、そう思えば日々が気楽になる


生かされているから、日々感謝する

風邪をひいても「この程度」で済んだことに

感謝する

【受け入れる】と言ったほうが適切か・・・

神さまを信じるのではなく、神さまを受け入れる

この受け入れる観念こそ、八百万の神に感謝

することに通じるのだろう


そんな長屋の爺の「絆」とは

「き・づな」であり、感謝する「気持ち」を

見えない糸で「つなぐ」こと


【気】とは「こころ」でもあり、「貴」でもある

【つな】とは、頼りにするものであり、たどる事

でもある

相手に寄り添い時には頼り、こころを結び

お互いの人生をたどる・・・

それを「絆」という文字で表している

稚拙で曖昧な持論ですが、私はそう信じて

生きて行くつもりです。

                    

◎  神の本質と大和魂 

日本の神話

これを荒唐無稽と考える日本人は少ないだろう

どうして謎や矛盾に満ちていて、現実味のない

話を日本人は信じようとしているのだろう・・・


これは「日本人の心(魂)」の原点だからだと

私は自分なりに勝手に思い込んでいる


日本神話はおそらく「原案」があり、それを

藤原不比等が改竄創作したものだと私は

考えてきた

しかし、この神話の中に日本人が原初から

つないできたものの片鱗が、隠されていると

私は思っている

具体的に言うと、アマテラスがスサノオを迎える

場面である

アマテラスはスサノオが天上に上ってくると聞いて

武装して迎え撃つ態勢をとった

女性神である「柔和」「やさしさ」「温和」という形容とは

程遠い「勇ましい姿」で表されている

これこそ、神とはどういうものかを明確に表現している

と思っている


神とはやさしい姿である【和魂(にぎみたま)】と

荒ぶる姿の【荒魂(あらみたま)】の両面を備えている

神とは豊穣や命の誕生を齎す【優しさ】と、荒ぶる力で

自然の猛威を使い人々を悲しみ・苦しみのどん底に

引きこんでしまう【怖さ】を兼ね備えている

まさしく【神】とは、穏やかな顔と恐ろしい顔を併せ持つ

存在であることは、古代から常識として認知されていた

その観念を具体的に示したのが、アマテラスの誓約の

場面なのではないだろうか・・・


【神】が二面性を備えていて、その赤子(せきし)である

日本人は当然のことのように、自分たちの心の中に

「優しさと強さ」を隠し持つことになっていった

その優しさと強さのバランスが採れた状態の「心」を

私は【大和魂】だと考えている


神道から神の魂の部分を取り出して、荒ぶる心を

諌められた者たちを【武士(もののふ)】と呼ぶ

(「もの」とは古代では「神」のことを指す)

神の賦である「武士」たちが大和魂によって浄化

された後、内に芽生えたものを【武士魂】と呼び

その状態を常態化することを【武士道】と呼んだのでは

ないだろうか

常態化するために行ったものが「体験」であり「体感」

で、理論(教義)ではなく実践から得られるものが

基本となっていったのだろう

「感じる神道」とは、まさにこのことなのではないだろうか


大和魂とは事に臨んで、神に対し恥じないように

荒ぶる魂を奮い立たせ、立ち向かうものであると

私は思っている


荒ぶる魂を奮い立たせる背景には、大切なものを

守る優しさがあり、意味なく荒ぶるのではない


現人神(天皇)のために「死地」に向かったのではない

守るべきものの為に魂を奮い立たせた

それが【大和魂】であり、【神の風】と称された


日本人は「おとなしい」「ひかえめ」と言われるが

その本質は「バランス感覚」を維持できる【こころの均衡】

を常に保持しているからで、どんな状況にも何を優先するか

の判断が各自でできるから、傍目に見ると「おとなしい」とか

「ひかえめ」と受け取られるのである


その証拠に欧米列強の兵士は日本人の大和魂に

少なからず恐怖を感じていたはずで、日本人から

【大和魂】を取り上げ、封印させるために、神道を

排除しようと企んだのである

日本人の神道観が正しく広がれば、日本人らしさ

も復活され、道徳心・倫理観も蘇ることになる

私はそう信じている・・・。

                    

◎  文字から想像する歴史 


数日前、仕事中に右肩を痛め、思うように

記事が書けない状態で、自分自身歯がゆく

一日更新を断念したが、左手だけでも記事が打てる

(書ける)事に気付き、事なきを得た思いです

不慣れなサウスポー記事に誤字脱字がありましたら

ご容赦願いたい・・・。


飛鳥

これを【あすか】と読めるのは習った(教わった)からである

どこをどうひねっても、「あすか」などとは読めない文字である

これは【アスカ】という音(言葉)が先に在って、後から充てた

文字としか思えない

万葉集には 【飛鳥の 明日香・・・】 として枕詞として使用

されている

飛鳥を「飛ぶ鳥」と読んでいたと言う事なのである

語源など諸説あり、私が納得できるものはないのだが

「分からないほうが良いこともある」

そんな一例かもしれない(笑)


明日香(あすか)という文字も、本当に「あすか」と

読むのかも疑問であり、ひょっとして「あすこ」と

読むなら「明るい太陽に向かって」という意味にもなる

《 アイヌ語で「コ」とは、~に向かってという意味である》


アシ・カムイ→アス・カムイ→アス・カ

アシ=降る 立つ 大きくなる

カムイ=神

神が降り経つ所・・・という意味になるのだが

こちらのほうがロマンがあって良い気がする


難読文字と呼ばれるものの多くは、音が先に在って

後から「漢字」をあてはめたものだろう

713年の諸国郡郷名著好字令によって本来の地名を

二文字の「好い字」に変えさせたことにより

失われたものが多いと言えるのである


ヤマトの古語は失われたものが多く、想像する

にも限界がある

その中でも、どうしてその言葉が存在したのか

という視点で考えれば、神に関することが

最大の関心事であり、神と人とのつながり(糸)の

ようなものが音(言葉)として残されたのでは

ないかと私は考えている。

                     


◎  半島から学んだものという誤解 

 【貴国は我が国に最も近い隣国であり、人々の

交流は、史書に明らかにされる以前のはるかな

昔から行われておりました。

そして、貴国の人々から様々な文物が我が国に

伝えられ、私どもの祖先は貴国の人々から多くの

ことを学びました】 



この文章が何であるか知る人は少ないかもしれない

1994年3月のことである

場所は「宮中」

発言者は「今上天皇」

宮中晩さん会の来賓は「金泳三韓国大統領」


さてこれをどう料理するか・・・

このブログをある程度の期間、訪問されている方は

半島から日本が学んだことは僅かであり

半島を経由したものは、大陸の制度・文化・文物であって

半島由来など皆無であることをご存じだろう


いまでは常識化している初等・中等教育の常識

これが常識・事実であると、国全体が信じ込んでいる


朝鮮半島の最古の史書(正史)である「三国史記」に

列島から流れてきた「脱解(タレ)」という賢者が4代目の

王位に就き、倭人を「大輔(テーポ)総理大臣のようなもの」に任命

したとされる

その後、脱解の子孫から7人の新羅の王が即位し、

新羅の基礎を作ったという。

これはあくまでも半島が王の命令で半島のために編纂した

史書(正史)に書かれていることである

「三国史記」というのは「高麗(コリョ)王朝」の時代に作られた

高麗は新羅から禅譲された王朝であるという国家基本を

確立しようとしていた

そんな国が「正史」の中でわざわざ「新羅は倭人が基礎を

創った」などと捏造する意味など無く、「正しい史実」を

国民に知らせるために書き残した・・とみるべきだろう


さらに【随書】には次のような一説が書かれている

【新羅、百済皆以俀為大国、多珍物、並敬仰之、

恒通使往来】


《新羅も百済も俀国を大国と見ている 優れた品々が

多いためで、新羅も百済も俀国を敬仰し、常に使節

が往来している》


これは俀国(倭国)が書かせたものではない

大陸の「隋国」の知識人が周辺の国のことを書いている

一説であり、事実かどうかも定かではないが・・・

隋という国から見た倭国と新羅・百済の第三者的評価

だともいえるのではないか


天皇陛下の言葉に異を唱えるのは恐縮だが

3世紀の半島の刀剣は【鋳物】であったが、日本の

刀剣は【鍛造】であり、明らかに文明の差があったことは

考古学から見てもはっきりとわかる


万に一つ、半島から日本が学んだとすれば、戦後に

半島人の民族性を思い知らされたことの一点に

尽きるのである


自虐史観よりさらに遠い昔の日本の歴史をいい加減に

教える「教育」の罪深さが、日本人を苦しめ、悩ませている

のではないだろうか・・・。

もしかして・・・天皇自身も「半島由来」と信じているのかも

しれない・・・という恐ろしい疑問がわいてくるのである。

                    

◎  明治政府が創った皇祖神はまるでイエス・・・ 


現在の日本の神道は【明治神道】である

こんな事を書くと他所のブログなら炎上か(笑)


日本の神道とは「八百万の神」を尊崇する

古代から続く「ヤマト神道」である

ところが、明治政府は「文明開花」の旗の下

精神的支柱である「神道」を、皇祖神・一柱に

よって集約しようと企てたのである


これは考えようによっては、日本神道の

【一神教化】ということにもなる



日本の神道は絶対的な支配をする神の下には

存在しえないものであった

そういう意味では、現在の神道が軍国主義の

亡霊を蘇らせる懸念の一つになっているのも

間違いではない

日本人特有の「曖昧な決着」「間違った気遣い」

などにより、糺すべき絶好の機会を、占領軍が

神道の廃滅を企てたことにより機を失したと

私は考えている

現在の神宮の祭神は「アマテラス」とされるが

本当に「アマテラス」なのか、「古代から続くアマテル神」

なのかという、議論もされないまま明治政府の策謀を

踏襲してしまったのである


昭和天皇を守ることと、神道の基本に還る事を

同じ土俵で考えてしまった

神宮を守ることが天皇を守る事と勘違いしたのかも

しれないが、天皇が「現人神」でないと宣言したとき

こそ、日本の神道の原点に還る絶好の機会だった

と私は思う


日本人が日本人の【こころ】と【らしさ】を置き忘れて

きたのが「あの時」だったのではないか



日本人は嘗て自然に宿るすべての物を【神】と

思い、神に感謝しその神(精霊)に感謝することと

同じように他者に感謝することとして実践した

これが日本人の「もてなしの心」であり、一つの

ものに支配されない「日本人らしさ」を形作って

きたという事ではないだろうか


言葉(言い方)は悪いが、皇祖とされる「アマテラス」

は天皇家の先祖かもしれないが、私たちの先祖だという

わけではない、あくまでも日本の祭祀を司る家系の

「祖」であるだけなのである

私にとって「太陽神」をはじめ【八百万の神】に対する

信仰心はあっても、一神教の神に匹敵する「神宮の神」

には疑問を感じ続けているのである


皇室を否定する気もないし、天皇家の繁栄に

なんら反対する気はないが、現在の神社の形は

一神教の神を信仰する外国の宗教に近くなって

いると感じているだけである



人の上に人を作らず・・・というが

神の上に神を作ることに言いようのないモヤモヤ感

が湧いてくるのである


日本の神は「人民を支配しない」というのは基本である

その神(アマテラス)が全国の神社の頂点(最高位)に

君臨するとされることが不可解なだけ・・・・


そんなことを言いながらも、我が家の神棚の中央には

天照大御神が鎮座していて、毎日欠かさず榊の水と

水を替えて拝礼している


神が悪いのではない

神を利用して「都合のよい政(まつりごと)」をする

人間が悪いのである


                   

◎  神道の本質は「ない」のが基本 


最近は「パワースポット」ブームによって

神社に対する若者の意識が高まったという


さらに、出雲大社と皇族の婚儀によって

あるいは伊勢神宮の式年遷宮などもあり

著名な神社の参拝者が増えているようだ


そんな最近の状況を見て、ふと感じた・・・

参拝者は「何に礼拝している」か理解しているのか?

本殿の中に何があるのかご存じなのか?

だからと言って、長屋の爺が詳しく知っている

わけでもないのだが(笑)


神社の本殿に何が入っている?と問われれば

「そこには何もないはずですよ」

と、私は答えるだろう・・・

「依代(よりしろ)」と呼ばれるものが入っている

かもしれないが、神さまなんて入っていないのが

真実だろうと思っている


神さまは姿が見えないものであり、ひと処に

とどまっているものでもない


神道は玉ねぎ、らっきょのようなものだという説がある

本質を探れば探るほどに、中心まで行っても【何もない】
 


というのである


姿かたちも無い、匂いも無いし、寿命の有無も定かではない

神に加護はあっても、御利益など疑問でしかない

だから神社で授かる物を【お守り】と呼ぶのである


神道には【教義(教え)】など無い

神道に【開祖】など存在しない

神道に【救済】というものは存在しない

つまるところ・・・

【ない】ということが【神道】なのかもしれない



「ない神道」の「ない神社」に足を運び

神職のいない神社の、神さまの「居ない本殿」に

参拝する日本人は「何教の信徒」なのだろうか・・・


現代の日本人は神さまに対し「願い事」をして

その「御利益」を得たいがために参拝する

私はその行為に言葉にできない「居心地の悪さ」

を感じてしまう


日本の神様は「感謝する」ものであり、元気(生きる力)

を与えてもらうものだというのが持論である


日本の神道を「感じる宗教」だという説もある

その具体例が近年流行の「パワースポット」

という場所なのだろう

境内を散策し「体いっぱい」鎮守の森の空気を

吸い込み、リフレッシュしたり

神社の大木に触れることにより、目に見えない「ちから」

をもらった気になる

それは神さまが境内のいたる所に存在して居たり

神社の大木に神さまが「依りついて」いることを無意識に

感じ取っているからではないだろうか


感じるもの=神さま であるならば、「なくても」良いことになる


神道は「偶像」は拝まないのが基本である

形ある創作物に対し、信仰の所作をしないのが

神道なのである


参拝者は特別な「素養」など必要ない

儀式・儀礼というならば、相応の知識・作法を必要と

されるだろうが、単に神さまに感謝し、参拝する事は

誰にでもできる

神社に参拝するのに、神職が同席しなくとも問題ない


神さまに向き合った瞬間、その人が【祭祀者】になり

神に対し無言の感謝と、希望の祈りとを【念じる】だけ

それが本来あるべき日本人と神さま、そして神社の

関わり方ではないだろうか・・。

                    

◎  もてなしの起源 

もてなす

もて成す とは「世話をする」「御馳走する」

という意味であり、これは古語も現代語も

同じである

日本人は誰かれなく「もてなしの心」を持っていると

言われているが、その根底にある「もて成す」

の起源が、おおいに関係していて

【もてなす】とは、神さまに対する感謝の精神から

始まったと考えられる


大雨や地震、台風などの自然災害に対し

日本人はすべてを自然の責任にすることはない

自然災害で愛する家族を失っても、遺族の口から

「恨み」の言葉は出てこないのである

原発事故や飛行機事故などでは、一様に「人災」に

対する「怒り」や「恨み」の言葉が聞かれることが

あっても、台風が憎い、「雨なんか降らなくていい」

とは誰も口にしない・・・。


どんなに自然に打ちのめされても、前を向いて

歩む日本人が多いと感じる

これこそ、自然=神 という無意識の産物ではないか


自然は「恵み」を与えてくれる反面、「猛威」をふるって

人間に悲しみを与える

そんな自然に対し感謝し、怒りを発しないようにという願い を

こめて、「もてなす」ことを始めた

感謝の気持ちが足りなくて「荒ぶる」なら、もっと感謝の気持ち

を表そうとして、さらに丁寧に【もてなした】

その習慣が日本人のDNAに刻み込まれ、他人に対し

感謝の意をこめて、ごく自然に「もてなす」ようになった

神さまとは 感謝するものであり、縋(すが)るものではない

長屋の爺の自論の根拠でもあります


それと同時に、日本人の【きれい好き】というもの

「清潔好き」と言ったほうが良いかもしれないが

これもいたるところに現れる神さまに対し

きれいにして「気分よく居てもらおう」という

気持ちのDNAによって行っている習慣で

道端や敷地、様々な場所の清掃を苦にしない

日本人ならではの行いなのである

                   

◎  悠紀斎田100年の記念式典に出席した秋篠宮殿下御夫妻 

昨日は秋篠宮殿下・妃殿下ご夫妻が

愛知県岡崎市で、大正天皇の大嘗祭(だいじょうさい)に

新米を献上した「斎田」に選ばれて100年を記念する式典に

出席されたというニュースを見て驚いた


実はその前日(6日土曜日)に、そのすぐ近くに

仕事で訪れたからである

目と鼻の先ほどの距離であった・・・


古くから住んでいられる農家の方ならきっとご存知

だったのだろうが、訪問先は住んでそれほどの年が

経っていない新しい家で、その話題は聞けなかった


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詳細は↓

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり (むつみゆきさいでんおたうえまつり)


年に数回、仕事でこの近くを通るのだが

年々「田んぼ」が少なくなって、住宅やアパート

工場が増えてきて、道路も広くなり往時の面影を

偲ぶには無理のような気もする・・・・


今朝の仕事中の話題は「決まり」だった

「一目会って 天皇になってほしいと直接言いたかった」

「いつでも 賛成するぞ~」

「悠仁殿下のためにも 天皇即位をするべき」

意外と政治話題に疎い連中も「この話題」には

食いついてきた(笑)


天知る 地知る 人は知る

天罰 神の怒り は必ずあると思えてしまう



個人的感情を抜きにしても、公務も満足にできない

人が、次期日本国元首の后で良いものかどうか・・


もう少し天皇陛下には在位していただいて

国民に現実を見る時間と、考える時間を与えて

ほしいと切実に感じる秋篠宮両殿下の訪問であった

                  

◎  聖武天皇と東大寺 (二) 

天皇家の「神」から綿々と続く貴き家系

誰もが一様に認知している歴史である


しかし・・・これも「日本書紀」という定規を

基に作られたもので、創作者は藤原不比等

と持統天皇である

それは神さまの大本である伊勢の大神が

天皇家の祖神であるという大前提の話で

本来は男性神であった太陽神(伊勢大神)

を女神・アマテラスにすり替えたことから

始まっている


天皇家が創った神社が「伊勢神宮」なら


天皇家が造った寺院は「東大寺」である


平城京は藤原不比等の時代に造られた

東側に張り出した部分(外京)はそのほとんどが

藤原氏の所有だったとされる

絶頂期の藤原氏は、そんな場所に【興福寺】を建て、

【春日大社】を祀ったのである


そのすぐ近くに聖武天皇は【東大寺】を建て

遠く九州から【宇佐八幡】を勧請した


天皇家の祖神を祀る「伊勢神宮」ではなく

どうして「宇佐八幡」だったのか?


はっきり言えることは、この時まで「宇佐」の

文字が「記紀」にすら書かれていないという事実

があり、藤原=興福寺=春日大社に対し

聖武天皇=東大寺=宇佐八幡という構図に

なっている

これは、なぜ「道鏡事件」で宇佐八幡の御託宣

だったのかという問題にもつながってくる気がする


反藤原は言い換えれば「反天智」であり

聖武天皇が「天武天皇」の【流れ】を意識していた

と言う事ではないだろうか

藤原京から平城京に遷るとき、藤原不比等は

左大臣・石上(物部)麻呂を旧都に置き去りにした


そして、聖武天皇は平城京から恭仁京に遷都する

ときに、当時の藤原氏の最高位であった藤原豊成

を留守居として置き去りにしたのである

これは「反藤原派」の明らかな「報復」といえる


このような事例を見ると、聖武天皇が「三宝の奴」

として北面した理由が、祭祀王を捨てたというより

藤原の「神道」から抜けたと言う事ではないだろうか


それまで、皇祖を祀っていると信じてきた「伊勢」は

不比等と持統天皇の思惑で創られたことを知り

不比等の「操り人形」から抜け出る宣言だった

その決意が「富も権力も我が手にある」と

高らかに宣言したことでも窺える

これは聖武天皇の傲慢から出た言葉ではない

あくまでも藤原の残党に対しての【勝利宣言】だった

だからこそ、この後に建立される東大寺の【守護神】

宇佐八幡でなければならなかった

藤原不比等の呪縛から逃れるための「宇佐八幡」

勧請ではなかったか・・・


東大寺・修二会(お水取り)の中で、全国14000柱の

神々に対し「参詣せよ」と勧請するのは、伊勢大神では

なく、全国に鎮座する「八百万の神」たちとの繋がりが

本来あるべき姿だと気付いたからだと思いたい


聖武天皇は作られた祭祀王ではなく、本来あるべき形の

祭祀王に戻ったのではないだろうか・・・・。
 


(つづく)

                   

◎  聖武天皇と東大寺 (一) 


東大寺は特殊な寺院と以前書いたが

それまでの日本の寺院とは向く方向が違った

向く方向?

それは「藤原」を排除しようとする決意のような

そんな雰囲気を持っている寺院なのである

東大寺を考える前に、聖武天皇の周りを

もう一度再確認してみたい


聖武天皇はまるで二人いたような生涯を送った

稀有な天皇である

前半期の部分は「藤原の天皇」であり、後半期は

「反藤原の天皇」であった

藤原氏の傀儡として存在していた聖武天皇が

母親・宮子と再会してから、別人になってしまう


通説では宮子は藤原不比等の養女という事に

なっている

「紀氏」あたりから藤原不比等の養女に出された娘

そんなふうに考えている

藤原宮子と言えば、【道成寺】 である

藤原不比等の養女で、文武天皇の夫人となり、

聖武天皇を産んだとされる

古代史のなぞの一つでもある「宮子」

天皇の后は皇族からと決まっていた

しかし、文武天皇は后がいたという記録が無い

宮子は夫人として最上位の女性だったのだ


仮説として・・・

皇族の后がいたが不都合があったため

史書は全てを抹消してしまったというものがある


私は最初から「皇族の后」は存在していなかった

そう思っている

その根拠が、聖武天皇の后が不比等の子

安宿媛(あすかべひめ)、つまり光明子だった事

がすべてを語っている

不比等はそれまでの天皇の后は皇族からという不文律

を変えようと目論んでいた気がする

その序章(試験的な試み)が宮子だったのではないか

精神を病んでいたというのが通説だが

本当なら相当な反発が宮子自身に向けられた

可能性はある

養父・不比等は持統天皇の絶大なる信頼を

背景に、飛ぶ鳥落とす勢いの貴族だった

この時期は表も裏も不比等の力が染み渡っていた

と私は思っている


しかし、心的障害のために「我が子」と36年間も

会わなかった(会えなかった)というのも不可解だ


私は聖武天皇が文武天皇と宮子との子である

ことに疑問を感じている


あくまでも妄想だが・・・

もし宮子が心的障害を患ったとすれば、聖武は

不比等の子であった可能性もあり、その事実に

宮子自身が「苦しみ・悩み」、不比等も親子対面

を許さなかった (事実を告げられる懸念)

文武、不比等が亡くなり、ようやく「僧・玄昉」に

よって諭され、面会する気になったのではないか

三流週刊誌の記事みたいだが、子を持つ親

親がいる子にとって、会うことができない理由など

そんなに多くはないのである

対話と対面は別である

宮子が病んでいたとしても、聖武が会えないという

のも不可解であり、不比等が許さなかったのが

最大の原因だと私は考えている

次回に続く

                   

◎  我が家のミコ 


最近我が家の「ミコ」の記事がない

そう思っている方もいらっしゃるだろう(笑)


彼女は健康でふっくらと育っている(デブともいう)

記事にしたくても写真がないのである

なぜ彼女の写真がないのか?

答えは彼女が「写真嫌いになった」からであり

時折カメラを向けても、咄嗟に移動してしまい

しっぽだけ、背中の一部、足だけ、後姿が記録され

とてもアップする代物ではないからだ

DSCN1143.jpg


DSCN1115.jpg


DSCN1165.jpg


DSCN1133.jpg

なんとか騙してでも近影をアップしようと

考えています  近いうちに・・・。

                     

◎  北面する天皇の誕生 


天皇が神の子であった時代

天皇は公の場においては北を背にし

南を向くことが当然であった

いわゆる南面することが常識だったのである


神の子が「釈迦の下僕」になった

749年2月 聖武天皇は前代未聞の行動

をしてしまった

南を背に「北面」したのである

私はこの時から、天皇は祭祀者であって

祭祀王ではなくなったと考えている

そして神の子孫という衣を脱ぎ捨て

以降、宮中での祭祀は「儀礼」として

続いてきたのである

祭事の形式をとった「儀式」であり、そこには

信仰(宗教観)が薄れていった天皇が居た


千代田に熱烈な感情を入れている人には

申し訳ないが、私は神道という括(くく)りの中で

判断するとすれば、そういうことだと思っている


東大寺は特殊な寺院である

過去のブログにも書いたのだが・・・

東大寺に残る神々の歴史

私はこの神名を読み上げ【神を勧請】する意味

が理解できなかった

もしかすると聖武天皇は自分だけでなく

国中の神々まで「三宝の奴」にしようと

考えていたのかもしれない(暴論であるが)

あるいは神の子であることを捨てた負い目

がそうさせたのか・・・


東大寺の修二会(お水取り)の起源は

若狭の遠敷明神が遅れてきたお詫びに

水を献じたことだという



遠敷明神(おにゅうみょうじん)

この名前から判断すれば、【おにゅう】とは

お・丹生 (おにう)の変化だろう

丹生とは文字通り「水銀の採れるところ」

丹(に)が生まれる ということだ


東大寺と丹(に)は深い縁がある

東大寺大仏(盧舎那仏)の制作には

「銅」のほかに「金」と膨大な「水銀」が

必要だった

当時の金メッキは水銀がなくては成り立たない

その「金」は日本で初めて【陸奥国】から産出し

天皇に献上された

本体には約一万トンの「銅」を、「金」は440Kg

水銀は2,4トン消費したという

今では全国各地に「丹生」の文字がついた

場所は相当数存在するが、この時は未だ

密教が浸透していない時代であり、大量の丹を

産出する地域は限られていただろう

福井県には今でも【丹生山地】と呼ばれる

山々がある

標高は500~600M程度の連なる山々だが

古代では辰砂が採れたのだと思う

水銀を献上してくれた者がいて、その者を

「丹生明神」として伝えたものかもしれない

献上したのは「水」ではなく、「水銀」だった

のではないだろうか・・・



428-daibutsu.jpg

私は仏教には全く知識がない

だから好き勝手な妄想を思い浮かべることが

できる理由だが・・・


修二会という名前・・

朱 丹 恵(得) (しゅにえ)が語源ではないか?

専門家が聞けば笑われるだろうが

長屋の爺の程度ではこのくらいが限度ですね(笑)

                   

 

◎  不覚 


昨日は雨の中、かなりハードな現場で残業だった

帰宅して入浴・夕食の後

いつの間にか熟睡してしまった・・・らしい(笑)


パソコンに向かう前に撃沈したことになる

目が覚めたら夜中の2時・・・

きょうは休日ながら、洗濯機がついに壊れ

午後から量販店(K`S)が設置に来る予定

(ついでに以前壊れてしまった冷蔵庫の

引き取りもお願いしてある 冷蔵庫2台も

独り身の爺には必要ない気もするので今回は

購入しないことにした)


こんなことでもなければ、大掃除もできないので

朝早くから家じゅうの大掃除になってしまった

幸いにも今日は「可燃ごみ」の収集日

あさから3回ステーションに足を運んだ

ちなみに「分別ごみ」の回収日でもあったので

都合4回二か所の指定場所まで「散歩」してきた

かなり健康的、健全な一日になりそうである(笑)


日本中のあちらこちらで揺れているが

いったいどうなっているのだろう?

大きな災害にならなければ良いのだが・・・。


夜には通常の更新を予定しているが

体力が残っているかどうかw

更新する気は十分にあるけれど、後は体力が

問題である

                   

◎  天皇家と菊花紋 

天皇家と言えば「菊の御紋」である




th_20150602211346f42.jpg


この菊花紋が天皇家の紋章と定まったのは

第82代 後鳥羽天皇 の時からだと言われている

貴族・武士にかかわらず、家紋は一つではなく

いくつもの紋を使用する風習があった

とくに後鳥羽天皇は菊花の紋を好んで使い

衣服や調度品、懐紙や車、刀剣などに

使用したため、菊花紋を使っていた他の者が

遠慮して使用を控えるようになった

天皇家の家紋として認知され始めたのは

後鳥羽天皇の時代と言って過言ではない

そういうことになる・・・

(正確には、十六八重表菊が皇室の紋)

しかし、公式に皇室の御紋が「十六八重表菊」に

定められたのは明治2年のこと

ちなみに、日本国のパスポートに描かれている

のは、「十六一重表菊」、国会議員のバッジには

「十一菊」、などが使用されている


秋篠宮家の御紋は下記の図案である

Japanese_Crest_of_Akisino_no_miya_svg.png



天人相関説によって「廃位」した天皇がいた

第111代 後西天皇(ごさい)

1657年 明暦の大火

1658年 江戸の大火

1660年 伊勢神宮の焼失

その後、諸国での洪水、大地震などの

天変地異によって、天皇の行跡がよくない

からだと徳川幕府から退位の要請があり

1663年 27歳の若さで譲位した

大変な努力家で、茶道・華道・香道にも

練達し、文芸面に秀で多くの著作を残した

天皇である


 あしはらの 中津国の名 国の風

   この道ならで なにあふかむ


   (後西天皇 )


儲君(ちょくん・もうけのきみ)

聞きなれない言葉だが、これは簡単に言うと

皇位を継承する者(君)ということ

皇太子とは別で、皇太子は皇位継承の筆頭候補

であり、「立太子礼」を経て正式に皇位継承者と

して皇太子となる

儲君に定められると言う事は、次期天皇

に即位することが決定されたと言う事でありながら

正式に立太子礼を行わず、次期天皇後継者に

定められることを言う

日本の天皇で最初に「儲君」に定められたのは

第113代 東山(ひがしやま)天皇である

                     



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