不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  天皇と天人相関説 


連日五月とは思えないような暑さに打ちのめされ

気づけば今日で五月も終わりだ

毎日ニュースは「地震」「火山噴火」

異常気象というより「天変地異」というところか・・


こういう時は古代なら「天人相関」を口にする

「てんじんそうかん」とは、人が行う政治の結果

について、天が祝福したり災厄を与えたりする事

で、人間が行う政治の結果と自然現象は密接な関係

があるという「儒教」の考え方だ

古代では天皇が政治(政事)を取り仕切っていた

日本の最高権力者であった

疫病や干ばつ、台風や地震などは、天皇の行いが

悪いから起きると言われていた

しかし、現在は政治権力者(政治責任者)である首相が

執り行っている

たんなる「迷信」「オカルト」の類であっても

「災い」とは誰かの責任にしたくなるのが人情である


政治責任者は首相であっても、国の元首は紛れもなく

日本国の天皇陛下である

千代田の雀たちが、この時とばかりに「天皇の言動」に

神経を尖らすことだろう (笑)


日本の戦後復興は昭和天皇を抜きには考えられない

人々が必死になって復興を目指せたのは、昭和天皇と

いう存在があったればこそだと私は考えている


雲の上の「天皇陛下」が庶民の目の前に降りてきた

実感のない「天皇」という姿は、国民と同じ空気を吸う

生きた人間であることの「驚きと喜び」

心の心棒を失いかけていた日本人にとって

天皇の姿は明日への支えになったのかもしれない


私は、この時から天皇という存在が、尊崇する対象

から、敬愛する対象になったと思っている



靖国に眠る英霊は「尊崇」する対象であって

千代田に住まう天皇一家は「敬愛」するものになった



命と引き換えに、日本の未来を残してくれた英霊は尊崇

生きて日本の復興の灯りとなった天皇家は敬愛

そんな例えをして良いものかどうか分からないし

不敬と言われるかもしれないが、私はずっと思い続けている


言えることは、天皇家は日本の復興・発展に欠かせない

存在だったと言う事である

この先天皇家が日本と、どのように関わって行くのかは

だれにも分からない気がする・・・・

                   
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◎  ケガレ思想と天皇家の存続 


私たちが当然のように感じていること

それが「意外なこと」である場合もある


ひょっとして、他所の国の人には不思議

なことも我々の身の回りにある

その一つが、天皇家の存在である


日本の政治は「宮廷」を中心とした

宮廷政治が主体であった

天皇を頂点に長い歴史のある日本だが

政治は朝廷だけのものではなかった


そう・・武士の政権に代表されるものだ

朝廷や貴族は、警察権・軍事力を「ケガレ」

として考え、自分たちの周りから排除した

その結果、「さぶろう者」である「武士」が

力を持つようになった


「そんな事はわかっているよ」

と言われるだろうが・・・

これこそ、日本人的な日本人だけの思想

なのである


他国では前政権から政権を奪った者は、前政権

の血筋を根絶やしにするのが常識であり

源氏の政権である「鎌倉幕府」

徳川の政権の「徳川幕府」も、天皇の粛清は

行っていない

その国の政治のトップに君臨したものは

前政権の「悪行」を書き残し、後顧の憂いを

排除するため、前政権をことごとく消し去る

のが常識なのである


やろうと思えばできたはず・・・

なぜ源頼朝や徳川家康等武士は天皇家を

滅ぼさなかったのか?

あの家康でさえ、豊臣家を根絶やしにした


権力者の家系は「一元化」しないと、後々に

大きな争いになってしまう

親兄弟でさえ、「権力」という魔物を前に

すると、骨肉の争いをするのは歴史が

教えている


その「答え」とは関係なく、天皇家の血筋を

武士が絶やさなかった結果として、現在の

皇室・皇族が存在するのは事実なのである


前政権を根絶やしにしなかったので

徳川末期に「大政奉還」して、政治権力

を朝廷に返す羽目になった

形式的な「征夷大将軍」の任命が

「大政委任」だったのかもしれないが

他国のように根絶やしにしておけば

幕府転覆は違った形で行われていたかも

しれないと思うのは不敬か・・・


なぜ「根絶やし」にしなかったのか?


その答えはおそらく日本人特有の

「ケガレ」と「怨霊」だろうと思う


というのは、朝廷にとってケガレの元凶は

「死」と「血」であり、言い換えれば、「犯罪行為」

と「軍事的紛争」による流血を忌み嫌った

そのために、警察権と軍事権をヒトデナシである

武士たちに与えた(任せた)のである

ケガレの元凶を任された武士こそ「ケガレ」

であるという考え方

武士たちもその意識を感じていたのではないか

さらに、けがれた自分達が神の子孫である

「天皇」に刃を向けて命を絶ってしまって「根絶やし」

にすれば「怨霊」となって、祟(たた)られる

そんな意識があったのではないかと思う


源頼朝が足利尊氏が徳川家康が・・・

その一線を越えていれば、日本の歴史は

大きく変わっていたかもしれない・・・


天皇家が神の子孫であるという認識が

武士たちの決断を鈍らせた原因かもしれない



普段意識しないが、「ケガレ」という感覚は

現代の私たちにも残っている


特別な肉親でもない限り、生前使用していた

「箸(はし)」、「湯呑」「茶碗」など、生活臭が

しみついたものは敬遠する傾向があり

見ず知らずの人が使っていた物に対する

「言葉にできない嫌悪感」こそ「ケガレ」

というもので、言い換えれば「他人の念(思い)」

というのかもしれない


その証拠に日本人は「割りばし」を多用した

大事なお客様に対し、家族が使っている箸

ではなく、未使用の割りばしを出すことに

ケガレを極力排除する無意識が表れている



きれいに洗ってあるとか無いとかの問題ではなく

それが「汚れ」とは異質の感覚「ケガレ」であると

私は感じている


天皇家は「ケガレ」の無いものという認識は

時代を経ても残っているのだろうか?

もし・・・その意識が薄れているとしたら

GHQと宮内庁(外務省)の意図したことが

功を奏した結果ではないだろうか・・・。

                   

◎  宮内庁不要論 その罪深き所業 

私が宮内庁を悪し様に言う理由とは・・

まず第一に皇室を支える者たちが

無信教と公言する愚かさである

バチカンを陰で支える者たちが無信教

だったり、異教徒であるだろうか?

宮内庁はGHQや反日の思惑で皇室の監視

無力化の指示を受けたものの巣窟である


これが許される背景には、政府の中に多数いる

「反日思想」「国家神道の否定」を画策する

人間に対しても、国民は声を上げないことに

よって理解できるのである

皇族に対する怨嗟の声は聞こえても、その陰で

暗躍する「宮内庁幹部」に言及する言葉が無い

のだから、悲しくなってしまう・・・。


皇室の過去と未来(一)

皇室の過去と未来(二)

にその一部が書いてあります



その次に、「古墳(天皇陵)」の問題

宮内庁は「社稷を守る役目を担う者として、

先祖の墓を暴かれるのは善しとしない」

というようなことを言っているとか・・・

血の通った日本人なら、先祖が眠る墓が

朽ちてゆくのを傍観することなどあるはずがない

庶民は機会があれば「改修したい」「改修するべき」

と思っているのである


私は若いころ「石工」の修業をしたことがあり

墓の改修に携わり、墓を掘り返したこともある

感謝されることはあっても、墓を暴いたなどという

発想は日本人的発想ではない

「お墓の引っ越し」や「お墓の改修工事」などは

先祖に対する冒涜であるはずがないのだ

見て見ぬふり、朽ちるがままに任せるほうが

よっぽど「先祖に対する冒涜」ではないか?


そうすると・・・明治天皇から昭和天皇まで

三代前まできちんと整っているから、その前は

どうでもよいという発想なのか?


明治天皇以前は・・・他人だから?

そんな不敬な考えすら浮かんでしまう


しかし・・・事実は誰が埋葬されているか不明な

御陵に皇族が足を運ぶのも問題があり

比定(ひてい)されていること自体、眉唾なのを

皇室が認知しているから無視している

そう考えたほうが自然かもしれない


開かれた皇室は何も開いては居ない


天皇陵のとんでもない事実の一部を

書けばこういうことになる ↓


現在の【神武天皇陵】は、「ジブタ(神武田)」という

小さな古墳を「修復」と称して、丘と石垣を作り

神武天皇陵として1863年に決められたもの

その際、候補地が幾つかあり、残った候補地の

古墳の一つ(塚山)を「綏靖天皇陵」と決めた


というか・・・欠史八代といわれる架空の天皇に

御陵が在ることこそいい加減なのである


第八代孝元天皇の御陵はちいさな古墳三つを

一つに囲って御陵としている


第21代雄略天皇の御陵は別々の円墳と方墳を

つなぎ合わせて、前方後円墳として捏造したもの

なのである

実際の話、現在「天皇陵として比定」されているものは

明治時代に整えられたもので、年代的な裏付けもなく

言葉は悪いが「テキトーに決めた」「いい加減な代物」

なのである


それでも、宮内庁は天皇家の私的墓地として

立ち入りを許可していないものがほとんど

税金の無駄使いの最たるものが「宮内庁」という

政府機関なのだ


宮内庁病院があっても、「個別医師団」が認め

られるのも、宮内庁が機能していない(仕事しない)

組織だという証明なのだ

私から見れば、宮内庁とは天皇家の対外国関係

を円滑にする組織であって、皇室の伝統や儀礼に

いっさい関心がないばかりか、その伝統を破壊

する役目を担っている「反国家機関」だと思っている


その現状は「隠蔽体質」であり、「閉ざされたもの」

をさらに閉ざし封印する大事な役目を担っている


車輪はどちらかが反対の動きをすれば進んで

行かない

現在も両輪が同じ方向に進もうとしているから

さまざまなことが、下賤の者の思いとは乖離して

進んでいるのかもしれない

宮内庁と皇室が円滑に機能しているならば、今

の状況などは、双方の思惑による結果では

ないだろうか・・・・。

                     

◎  青銅器文化と古代ヤマト 

【鷹狩(たかがり)】というものがある

タカを使って狩猟をすることだが、武士の

嗜(たしな)み、遊興と思われている

ところが、農耕民族の長の末裔である天皇が

「鷹狩」に勤しんでいたという説がある

その最も著名なのは、桓武天皇、嵯峨天皇、

光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇など・・・

多くの平安初期の天皇が好んで行っていたと

いうのだから驚きである

「死」「血」はケガレである

これは時代を経ても変わらぬ日本の思想だった

ケガレ思想で強固に武装した古代天皇たち

そんなケガレの最たるものである「狩猟」を

好んで行っていたというのは興味深い

平安以前の天皇と平安期の天皇の思想の違い

とはいったい何だろう・・・

この問題だけを考えると、平安以前の天皇と

平安以降の天皇は別の民族性を見せている

忌み嫌っていた狩猟民族の「残虐性」や「ケガレ」

を、いとも簡単に受容したのはなぜだろう・・・

私の中で、ヤマト人とは単一民族ではなく

複数の民族の集合国家だったという妄想が

わいてきた

単に「農耕民族」「狩猟採集民族」という

区分けではなく、複数民族が結集して、

古代ヤマトを形成していたのかもしれない

ケガレを受容できない民族があった中で

陰では「受容できた」民族がいたかもしれない

なんでも「ひとくくり」にすることが、大事なことを

見えなくしているのかもしれない



やまとことばで銅鏡は「かがみ」、銅剣は「つるぎ」

では銅鐸は何と言ったのか?

こたえは不明である・・・・

銅鏡も銅剣も、そして銅鐸も、ほぼ同じ時代の遺物である

にもかかわらず、銅鐸(」どうたく)のやまと言葉が伝わらず

存在すら抹殺されてきたのは事実である


鐸(たく)とは中国の言葉で【鐘(かね)】のこと

それでは、銅鐸が鐘として使用されていたという

確証でもあるのだろうか・・・

名前すら伝えられなかった遺物の使用法だけ

分かるというのも不可解であり

銅鐸という言葉ですら、日本書紀にも古事記にも

記載されていないのである


銅鐸という名称が最初に出たのは8世紀の

史書・「続日本紀」である

しかし「銅鐸」というのは、漢字が導入されたのち

の呼び名である

現物(銅鐸)はそれ以前の遺物である

名前がないというのも不思議であり、そのことに

史書・日本書紀が「知らんぷり」をしていることが

私には不可解なのである


通説では北九州の銅矛、近畿東海の銅鐸といわれ

ているが、銅剣の中国地方との関わりは謎のままである


歴史事実を隠蔽、抹殺するにはそれ相応の理由が

なければならない

出雲・荒神谷遺跡から出土した青銅器のことを

記憶されている方もいると思う

出雲産の銅剣が358本

北九州産の銅矛が16本

近畿東海産の銅鐸が6口

これが意味することは、古代出雲が日本の

大部分を統治していた時代があった可能性

そして、それを侵略・征服した者がいたという

可能性である



ヤマト王朝が銅鐸だけでなく、【青銅器文化】を消した

のにはきっと理由があるはずだ

いったいどんな不都合があったのか?


私は神話の中に隠されていると思っている


日本の王朝(皇統)は青銅器を使用した民族

とは異なる文明の民族だった

それが【鉄器文化】を持った天皇家の祖で

あった可能性が高い



神話の中に、神武天皇より先にヤマトの地を

治めていた者がいたことと大きな関連が

あると思っている



銅鏡 銅剣 そして銅鐸

八咫鏡 草薙剣 八尺瓊勾玉

三種の神器と言われるものとの相似に

新たな興味がわいてきた



                   

◎  弥生人とケガレ思想 

縄文人と弥生人の違いとは・・・

何と言っても「狩猟採集民族」か「農耕民族」か

という違いだろうか


縄文人という区別・分類をどう解釈するか

それによって古代史も少なからず影響を受ける

のかもしれない


日本における差別の起源は「農耕民族」の

東進が起きてからだと考えられる

その背景にあるのは【ケガレ思想】である




ある日、農耕民族が大陸や半島を経由して

日本にたどり着いた・・・

それが「青銅文明」の集団だったのか

「鉄文明」の集団だったかは不明だが

耕作地に適した土地を求め、彼らは

九州から徐々に東に侵攻してきた


狩猟民族は「動物」の命を絶って生きていた

その血に染まった民族を虐げていくうちに

「狩猟者=血のケガレ」としての意識が

培われたのかもしれない


農耕民族は動物の肉を食べなくても生きていける

しかし、狩猟民族は主食を動物の肉に依存して

いたのだから、動物の血はケガレでもなんでもなく

獲物は神さまがくれたもので、それを殺すことは

神さまへの恩返しなのである


農耕民族(弥生人)はエリートであり、支配者として

狩猟民族(縄文人)を征服・追放していった


【現代の部落差別の起源は、おそらくこの時代に

誕生した思想の影響を色濃く受けていると思える】


これは人種差別ではなく、農耕民族による「文化的差別」

といえるかもしれない

そして外来民族である農耕民族のトップが【天皇】である

宮中祭祀の捧げ物(供物)の中に、動物の肉や

生贄(いけにえ)は存在しない

生き物というなら魚介類だけ、あと穀物・野菜・果実

だけである


もし、神社の祭礼で「動物の肉」「生贄」が供えられて

いるとすれば、その神社は古代祭祀を引き継いでいると

私は思っている (祭神に関係なく)


その弥生人(農耕民族)は出雲神話、出雲王国に

深くかかわっている

天皇家と出雲のかかわりは、まさにその時代に

起きていたのだと私は考えている。


次回は青銅器文化と出雲神

さらに天皇家について考えてみたい

                   

◎  通説・定説の誤解 史実は事実に非ず 

偶然であろうと意図的であろうと

不確かな史実が常識として「独り歩き」する

そんな事例は枚挙に暇がない

その根本的な原因は、「書いてあるから事実」

というものである


源頼朝が流された(流罪)のは、伊豆の蛭ケ小島

という通説も、のちの時代の文献から言われ出した

もので、「伊豆に配流」されたのは事実だが

蛭小島というのは真偽は不明なのである


鶴岡八幡宮は昔はもっと海に近い処に建っていた

通説では、治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を

挙げ鎌倉に入った源頼朝は、宮を現在の地である

小林郷北山に遷した

なぜ移したのか?

それは足を運ぶのも難儀するような「湿地」に

建っていたからに他ならない・・・

この時も参拝できず「遠く高台から遥拝」した

可能性が高い


なぜ鎌倉だったのか・・・

鎌倉は当時酷い湿地帯だった

それは守るのに適した環境だったのである

頼朝は無勢の将である

責めることよりは当面守ることに尽力した

重い甲冑を身にまとった武士たちが

湿地の中を進軍することは最悪である

守るのにはうってつけの環境だったのである


それに関連して、農繁期の戦争は回避されていた

これも、農作物の収穫が最優先されたという定説

私はこれも歪められていると思っている

農繁期は「田んぼ」に水が張られている

そんな中で戦をしようものなら、足を取られて

命がいくつあっても足りない話なのである

田んぼの中で「泥んこ祭り」を経験された方は

ご存知だと思うが

泥に足が埋まり、足を引き抜くことも容易ではない

その当時の戦闘員は重い槍・刀を持ち、甲冑を着込んでいる

そんな状態で「田んぼ」に足を踏み入れたなら

身動きできずに「敵兵」の餌食になってしまう

私は「コメは大事」だが、「命」はもっと大事だった

そう思っている




日本に最初に鉄砲を持ち込んだのは

ポルトガル船のポルトガル人という通説

種子島に寄港した船はポルトガル船ではなく

中国船であり、【五峯(ごほう)】という人間が

伝えたものだった

五峯は本名を【王直(おうちょく)】といい

海賊である「倭寇」の船長だった

中国人が倭寇? と思えるのだが

当時の中国は【明(みん)】という国で

貿易は許されていなかった

海外貿易をする人間は厳罰に処されたという


そこで王直は「日本人」になりすまし

長崎・五島列島を本拠地として活動していた


だから・・・「五峯」という名前にしたのだろうが

その五峯がポルトガルから手に入れた鉄砲

を、ポルトガル人が売ったという名目にして

売りさばいたのである

もし、五峯が中国人であることが明国に知られると

厳罰を受けることになるのだから、あくまでも

ポルトガル船の船長が売った、その仲介を五峯が

行ったことにしたというところだろう


その明の政権は「朱子学」であった

朱子学は商売を徹底的に弾圧した

当然、海外貿易など、とんでもないことだった


その朱子学を取り入れたのが「江戸幕府」だ

士農工商 という階級制度

なぜ「商」が最下層なのかは、必然なのである

大義名分だけでも、朱子学としては「商行為」は

忌むべきものだったのである


意外と間違って覚えられた通説

誰でも知っている史実が「事実」でないこと

私たちの周りにたくさん転がっている


好都合な虚説や後世の人間の理想や憶測

そんな事柄を「記述」したことから「独り歩き」

した通説・定説は多々あります

                    

◎  大和言葉と遺伝子 

蝶(ちょう)のことを大和言葉では【かわひらこ】

と言うそうな・・・

通説では「川の上をひらひら飛ぶ」からとか

実際にはきちんと答えたものに巡り合えていない


蛾(が)の大和言葉は「ひいる」と言うそうです

ひいる→ひひる 

「沖る」と書くことも・・・

空高く上がる事だそうだ

特に【蚕蛾】のことを指して呼んだ言葉ともいう


どういうわけか私の「古語辞典」には二つとも

掲載されていない

平安末期の辞書には載っているそうだが

万葉集にも使われていない言葉で、古語の

ミステリーといえるかもしれない

蛾や蝶の幼虫は かは・むし(皮虫)と呼んだそうだ

もしかすると、蝶も蛾も最初は区別せず同じものとして

呼んでいたのかもしれない


それから考えると、幼虫が皮虫なら

成虫は かは・ひら・こ であっても良いだろう

丸い体の幼虫が成長して脱皮し、出てきた姿が

平たい羽根をもった虫

皮 平 子 (かわひらこ) というのも面白い

文字文化以前の言葉であるなら

違った言葉から変化したとも考えられる


カ・ワ・ピリカ

虫 から美しい糸 が採れる

カ=糸 ワ=~から ピリカ=美しい

カワピリカ→カワピラカ→カワピラコ→カワヒラコ


ちなみに大和言葉とは大和に朝廷ができてから

生まれた言葉ではない!

日本の古代(文字を持たない時代)からある

独自の言語(言葉)で
、現在の日本語は

「やまとことば」と「漢字からできた言葉」が

合わさって整えられた言語である



私たちの体の遺伝子は5000人の遺伝子を

引き継いでいるそうです

これをある角度から見て表現すると

前世の因果

とみることができます

あくまでも「体の遺伝子」としてですが・・・


どこまでが「血筋」で、「正統」なのかは

個人感でしょうが、あまり「血筋」を前面に

出すと先祖の功罪までも、話題になって

微妙な空気になる家もあることでしょう


俗に言う、ヒトデナシの血筋がほとんどで

「やんごとなき血筋」など微々たるもの

といわれ、由緒正しいのは「貴族」「皇族」

ではなく、「ヒトデナシ」の血統ではないか

などと思えてくる


皇族は藤原氏などの豪族の血が混じっている

それに引き換え、庶民は脈々と「ヒトデナシ」の

血筋を続かせている


私など「由緒正しい貧乏人」の末裔だ


5000人の遺伝子と言うが、わずか12~13代

遡るだけでこれを超えてしまう

20代遡ると、先祖の数は1、048、576人

血が濃い薄いという論理の愚かさを感じる



人生50年といわれ、25歳で子を成すとして

10代前は250年前、20代前は500年前と

いうことになる (あくまでも推定だが)


100万人の夫婦(50万組)の子が、結婚して

25万組の夫婦ができ、その子たちが夫婦となって

125000組の夫婦が成立する・・・・

その結果が、長屋の爺という一人の人間の誕生に

なったということなのである

高貴だ由緒だと言ったところで、どこかで繋がって

いるかもしれないのが「人の系譜」なのである

                   

◎  天皇と梅の木 


勅(ちょく)なれば いともかしこし 

鶯(うぐいす)の 宿はと問はば

いかが答へむ



この和歌は 紀貫之の娘の作である


今から千年余り前・・・第62代・村上天皇の御代

宮中の梅ノ木が枯れてしまった

村上天皇は大変残念に思い、代わりの梅の木

を見つけるように命じた

天皇の勅命である

係りの者が懸命に探し、一本の見事な梅の木を見つけ

宮中に移植したという

おかげで京都御所は芳(かぐわ)しい香りに包まれた

ある日、村上天皇が梅の枝に文(ふみ)が結びつけ

られていることに気付き、文を読んだ天皇はその梅の木

を元の持ち主の家に返したという・・・。

その文に書かれていたのが、冒頭の和歌なのである

この和歌の意味はというと・・・

帝のご命令ですから、梅の木は謹んで差し上げます

でも、この木を止まり木にしている鶯が「私の宿は?」

と尋ねてきたら、どのように答えたらいいのでしょうか?



天皇の命令に直接「断ったり」「拒否する」ことはできない

そんな彼女の気持ちを、鶯に託した歌だった

父である紀貫之が生前、愛(いつく)しんだ梅の木

だったのかもしれない

それとも、亡き父との思い出の梅だったかもしれない


和歌で伝えた娘の間接的な「訴え」も素敵だが

その真意をくみ取って、持ち主に返した村上天皇も

さすがというべきだろう


日本人の「粋」のキャッチボールを観るようだ


「粋(いき)」というのは、「善(い)き」「意気」であり、

「好(い)き」、「良(い)き」、「生き」、と同じもので

観ていて「気持ちの良い(善い)もの」

露骨に拒否して「角を立てない」配慮と奥ゆかしさ

民の心情を汲み取る「懐の大きさ」の絡みは

時を経ても「ほっこり」するような話である。

(大鏡 の記述より)

                    

◎  日本の始まりと神道 

人間は無意識の「思考の迷路」に入り込むことがある

私自身も例外ではなく、ネットの情報に何の疑いもなく

信じ込み、それを【事実】として受け入れてしまう事も

時にはある


仮に私が「日記」を書く習慣があったとするならば

その間違った【事実もどき】を他人の眼に触れない

日記に書き記すかもしれない

そして・・・後世の誰かがその日記を眼にして

【事実もどき】が、独り歩きし始めたとしたら


古文書が正しいというほど、信頼性も信憑性も

それほど高くないと私は思っていて

不都合は排除されるという定義があっても

不都合を意図的に残すという「策」もあり

あまりにも露骨な遺留品は疑っても良いと

思っている

遺留品の多い事件ほど「迷宮入り」になる?


連綿と続く(後世に残される)文書(もんじょ)とは

焚書に遭わなかった都合のよいものがほとんど

といえば、言い過ぎかもしれないが・・・


歴史古文書とは【勝者の言い分】にすぎず

敗者の言い分(稗史)は残すことを許されなかった

これこそ、歴史解釈の刷り込みである

もし意図的に敗者の言い分を勝者の言い分に

紛れ込ませたとしたら・・・

何を拾い、何を捨てるか・・なのである


日本とはいつから始まったのか?

何を基準にするかにもよるが、この国を

【日本】と呼んだ そのとき からと考える

その基準から言うと、7世紀、持統天皇の時代から

あれ? 2600年じゃないの?というのは無しです


これが不満という人は、アメリカ合衆国という国は

1万5千年前にパレオ・インディアンが住み着いた

国だから、米国の歴史は1万5千年とは言わないだろう

(こんなこと言うのはシナ・半島人だけである)


アメリカという名前が定着したのは15世紀から16世紀

アメリカという国が始まったのは、欧州による植民地時代

若しくは独立戦争に勝利した18世紀後半だと言える


日本という国名を使用したのが国家の起源という

論理に間違いはないが、何を基準にするかという

条件付きの話である(笑)


日本といえば天皇である

天皇といえば祭祀(国家神道)である

神道といえば神社ということになる

ここで、すでに先入観が発動されている

神道(祭祀)=神社

これを疑わない人は先入観の僕(しもべ)である


この日本で祭祀が始まったころには、神社というものは

存在していない

つまり 神道=神社 は思い込みなのである

神道(原始神道)では、巨木・巨石などに神が降りる

という観念で執り行われた


この形式は現在でも残されている

家を新築したり、建物を作るときに行う【地鎮祭】

これは神の降りる樹木である神籬(ひもろぎ)を立て

その前で祝詞を上げ、神鎮めの祭祀を行っている

神殿も拝殿も鳥居も無い、そういう状況で行われていたのが

神道の祭祀であった


神社の拝殿の前に立ち、ニ拝二拍手一拝をする

これも見方を変えると「思い込み」に近い

この作法、いつのころから始まった?

おそらく答えられる人は居ないと思う・・・

明治政府が統一した「拝礼作法(神社祭式)」は

途方もない「大雑把」な代物で、「再拝拍手」という

記述だけであり、「二拝 二拍手」としか書かれていない

現在のように「二拝二拍手一拝」というのは、昭和23年

に改定された「神社祭式行事作法」によって定まった

そもそもこの作法は神職のためのもので、実際は

昭和17年に 再拝→祝詞奏上→再拝 という形式

になったこともあり、一般参拝者のものとは

思えない内容なのである

つまり、現在の神社の参拝作法は、戦後(昭和23年)に

決められた新しい作法という見方もできるのである


伊勢神宮の神職は八開手(やひらで)という拍手を

うち、その拝礼は【八度拝】と呼ばれている


宮中祭祀では「柏手」は打たない?

現在の宮中祭祀では、大嘗祭で皇太子らが

八開手(やひらで)を打つことは知られている

が、女性皇族は「柏手」を打たないというのが

現実である

え? うそ~ と思われるかもしれませんが

宮中祭祀と神社祭祀は別物といえる



日本の文化・風習は「江戸時代」に始まった

ものが多く、神道系は持統天皇の時代と

明治になってから始まったものが大勢を占める

そして・・・戦後に新しく定められたものも

意外と多いことに気付くのである


逆に言うと、古代から続いているものを

探すほうが大変なことなのかもしれない。

                   

◎  天皇家とキリスト教 (二) 


 朕(ちん)と爾等(なんじら)国民との紐帯(じゅうたい)

 は、終始相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ、単なる

 神話と伝説に依りて生ぜるものに非ず
 
 】


これは大東亜戦争敗戦の翌年、正月元旦の昭和天皇の

「人間宣言」といわれるものの抜粋である

これは「現人神」の否定と、神話や伝説を纏(まと)った

人形ではなく、生身の人間であることを国民に宣言

したものと私は考えている


この宣言の 相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ 

という部分こそ、現在の天皇家と日本国国民の

たった一つの「結ぶ糸」なのである


では、なぜ昭和天皇はこのような宣言を行ったのか

言わされた というのが真実だろう・・・


GHQ・マッカーサーは原案で、天皇が「神の裔(すえ)」

であることを否定し、「架空」という表現をした

それは天皇家の歴史を全否定することだった

しかし、日本は天皇が現人神であることは否定しても

神話と神の末裔であることは護りたかったようだ


アメリカやバチカンは天皇と皇族を「クリスチャン」に

したいという願望があった

しかし天皇の改宗は実現しなかった

もしそれを強制すれば、日本国民がどのような

反応を見せるか想像できたのだろう・・・


ところが、その年(昭和21年)に来日した米国

教育使節団のジョージ・ストッダート博士と

昭和天皇の会見で、天皇が皇太子(今上天皇)

の家庭教師に「クリスチャンの夫人」を依頼した

という・・・

これは、アメリカの天皇家の改宗強要だったと

私は考えている

天皇が「米国人家庭教師」を依頼したというなら

「そういう事実もあったのか」と納得するしかないが

天皇みずから【クリスチャンの夫人】と限定することに

言いようのない不快感を感じる

これは言わされた(強制された)としか思えない


昭和天皇の戦後責任の取り方の一部分と

見れないこともないが、天皇とマッカーサーの

会談で何が残され、何が失われたのか

そして何が取り決められたのかは不明である


現実に皇太子の家庭教師はクエーカー教徒の

ヴァイニング夫人が就任し、週に一度「教養」と

いう名の英語教育が実施された


これは私の私感であるが、教養とは「キリスト教的

価値観」の洗脳であり、現在に至る皇室の動向に

日本的ではない「欧米的思考」が土台となっている

姿に表れている気がする


その証拠にヴァイニング夫人が皇太子に教えたのは

欧米的な家庭像だった


家族は一緒に食事をし、食後はくつろいだ雰囲気で

コミュニケーションをはかる・・・・


戦前の天皇・皇后と皇太子は別々に暮らし

養育係が身の回りの世話をして、親子が自由に

会うことすらできないかった

そんな皇室は欧米人には理解できないものだった


自分の子供を腕の中で育てる、欧米的家庭を

理想としたのかもしれない

天皇家は改宗する以前に、欧米的価値観を

目指すことになってしまった


なぜ 「クリスチャン夫人」 だったのか?

それは家庭を持つ女性による「欧米的家族」の

意義や価値観を学習させることだった

男性の学者や学問一辺倒の堅物ではダメで

家庭を持つ夫人、それ以上でもそれ以下でも

不適格だった


そうなれば、昭和天皇自ら望んだとは到底思えない

アメリカもしくはGHQ、バチカンの思惑が昭和天皇

を動かしたということではないだろうか・・・


ひらかれた「皇室」とは、欧米的価値観に染まった

伝統とは別世界の空間であり

悠久の時を刻んできた日本の天皇制度の瓦解を

意味するのかもしれない


【免疫】という言葉がある

少なからず現代の日本人は「欧米的価値観」

の影響下にあり、欧米的思考に免疫がついていて

疑問に思わないことも多い

ところが見るべき場所(位置)を変えると

疑問に思う事が次から次へと増えてくる


すべてのことには「必ず理由(わけ)」がある

世界は「女性」の力で変化してきて

女性の望む方向に舵は切られてゆく


なぜ美智子妃殿下(皇后)だったのか?

香淳皇后はなぜ反対したのか?


なぜ雅子妃殿下だったのか?

昭和天皇はどうして反対したのか?


見方によって、現在の天皇家が「一神教」

の価値観で動いていると思えるのも

必然なのかもしれない・・・。

                   

◎  天皇家とキリスト教 (一) 


日本神道の祭祀者である天皇家

その天皇家とキリスト教の関係に違和感を

感じる日本人は少なくない・・・


ところが本当はキリスト教と神道は近しい関係

がある・・・・というと、語弊があるかもしれない


順を追って説明すると

日本の神道は「多神教(アニミズム)」から

始まっている

生きとし生けるもの全てに神が宿る

いわゆる「大自然」に神の力を認め

祀ることで災いから逃れる(災いを遠ざける)

ことを実践した

万物には神(精霊)が宿り、その神から「生きる」

力をもらって、人は存在する

そのことに感謝するのが「アニミズム」である

ところが農耕が普及したころ、日本人は

大自然だけではなく、自分達の先祖をも神と

して崇拝(祀る)するようになった

生きていた人間(先祖)を神として祀ったのである

その口伝が「神話」のもとになった

神話に出てくる神々は日本の各地の部族の

先祖なのではないかと私は考えている

これを別の視点からみると、一人の人間を

神として祀ることであり、一神教と酷似する現象

といえる

たとえば「聖徳太子信仰」であり、菅原道真を祭る

「天神信仰」、応神天皇を祭る「八幡信仰」も言い変えれば

一神教と言えないこともないのである

神社でいうと、明治神宮、東郷神社、人麻呂神社、などは

実在の「人」を没後に神として祀り、神社という形式で

信仰している

ここには起源となったアニミズムとしての「神道」は

存在しない


八百万の神を崇拝しているつもりで、気づけば

一人の人である「神」を崇拝しているのが日本人

なのである



だから東郷平八郎が神様であっても、違和感なく

参拝できるのであって、そこに日本人の宗教観が

垣間見えるのである


天皇家も例外ではなく、アマテラスという祖先神

を崇拝している姿は、欧米人が「キリスト」を崇拝するのと

いささかも違わないと思えるのだ・・・・


天皇をキリスト教に帰依させようとした人物

これは紛れもない事実で、その名を・・・

フランシスコ・ザビエルという

彼は鹿児島出身の「やじろう」という日本人から

日本のことを知り、日本で布教する決意を固めた


その基本が、天皇は宗教家を統括していて

絶対的な権限を持ち、政治的なことを「将軍」と

呼ばれる者に任せている

これをザビエルはヨーロッパの状況に置き換え

ヨーロッパの宗教的権威である「ローマ法王」と

権力の実行者である「皇帝」の関係と同じと

考え、天皇をキリスト教に帰依させれば、日本は

キリスト教の国になると考えたのである

つづきは次回に・・・

                    

◎  天皇家と仏教 

天皇家は「仏教徒」だった

これに異論を唱える人はいないだろう

仏教伝来の後、天皇家は仏教とともに

つないできた・・・


聖武天皇にいたっては、「三宝の奴」と公言し自ら

盧舎那仏を建立した

聖武天皇は

【それ天下の富を有(も)つ者は朕(ちん)なり

天下の勢を有つ者も朕なり】

と絶対的な力を持っていることを宣言している

そんな聖武天皇は国家の安泰は仏法僧を

頼りにしていると表明していた


「三宝」とは仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)

と呼ばれる三つの宝物を指す

悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)

仏の説いた教えを集大成した「法」

法を学ぶ仏弟子の集団である「僧伽」のこと

その三宝に帰依(きえ)・受戒することで

正式な仏教徒となる


その聖武天皇から50年後・・・

日本に【密教】が入ってきて、天皇家に

浸透していくことになる

どうやって密教が天皇家に入り込んだのか

それはただ一つ・・【国家鎮護】

神の末裔、天孫の家系である天皇家が

国を統治するのに「神」ではなく「仏」に頼った

神祭りが儀式化・儀礼化していた証である


では天皇家は仏教だけを受け入れていたのか

という疑問がわく

聖武天皇の后である「光明皇后(光明子)」が

景教(けいきょう)の思想に感化されていた

という説がある

景教とは簡単に言えば、キリスト教のことである

736年に来日した景人・皇甫(こうほ)らの思想に

感化されて、慈善活動を行ったというものだ

皇室の慈善活動の基本は「キリスト教」の

ボランティア活動と天皇家が結びついた結果

であるとも考えられる

(キリスト教との関係は別の機会に・・・)


高松塚古墳は西暦700年ごろの古墳である

この古墳は「壁画」によって多くの人に知られる

ようになった

この壁画は東の壁に【青竜(せいりゅう)と太陽】

西の壁には【白虎(びゃっこ)と月】

北の壁には【玄武(げんぶ)】

そして、壊されていた南の壁には【朱雀(すざく)】が

おそらく描かれていたはずである

これは【四神(ししん)】といって、中国思想の

東西南北の方角の守り神であり

古代中国の思想である【道教】の影響なのである

少なくとも「高松塚古墳」を造営した者は、道教を

理解し信仰してということになる

被葬者が誰であるかは不明だが、道教の思想に

よって埋葬されたことは間違いなさそうである


もし・・皇室の関係者であれば、神道の家系で、

仏教徒であり、道教思想の信奉者ということになる

この高松塚古墳と同時期に作られた天皇の陵墓

の中に、同じ形式の八角墳があり、おそらく内部の

壁面も【四神】で守られている可能性が高い・・・


しかし、宮内庁は天皇陵に比定されているものの

調査・発掘は許可しない

すなわち古代史の永遠の謎と歴史遺産の埋没である


次回は「天皇家とキリスト教」に触れてみたい

                   

◎  日本語と言葉の雑学 (二) 


使わないと「退化」するのは言葉も同じこと

これを称して【死語】という


もっけの幸い

思いがけない幸いや、予想よりはるかによかった

今風に言えば、「ラッキー」というところか・・・

この言葉「儲け(もうけ)」を連想しそうだが

実際は【物の怪(もののけ)】からきている言葉

人知でははかり得ない状況、思いがけないこと

を言ったという

しかし、本来は不吉なこと、けしからぬことを言った

最近ではほとんど耳にしなくなった言葉である


煙管乗車 (きせるじょうしゃ)

定期券や乗車券・入場券を使い、各駅の中間の料金を

不正に逃れることを「キセルする」という

煙管(キセル)は吸い口と雁首にだけ金属が

使われていて、中間は羅宇(らう)と呼ばれる竹

の筒であるところから「キセル」と呼ばれた

正式には「中間無札(ちゅうかんむさつ)」という

定期券の範囲外から入場券で乗車し、定期券の

範囲の駅で降りることが一般的だ

煙管は忘れられたがキセル乗車は、いまだに

健在である


妙齢の女性

意外と間違って覚えられる言葉の一つ

「妙齢」とは年が若い、若い年頃のことをいう

ところが言葉(音)で「みょうれいのじょせい」

と聞いただけでは、「妙齢」「妙麗」のどちらか

区別がつかない

「妙麗(みょうれい)」というのは、優れて美しい

という意味であるから

妙麗の女性といえば、若かろうと少々お齢を召して

いても、【美しい女性】のことなのである

受け取る側は自分の年齢をわきまえて、その言葉

がどちらの文字なのかを判断する

十代~二十代前半の女性なら、妙齢・妙麗の

どちらにも該当し、それ以外の女性は【妙麗】と

言われたと思って間違いない(笑)


おざなり・なおざり

意外と知っているようで曖昧な記憶の言葉

「おざなり」の おざ とはお座敷のこと

なり は、道なり・山なりなどと使うように

お座敷の雰囲気そのままに合わせる

そんないい加減なことばである

意味は適当に済ませること


さて、「なおざり」である、これは心や気持ちから

くる言葉で、さして気にも留めない、本気でない

という意味の言葉で、意味は何もしないで放っておく

ことである

「おざなり」は江戸時代にできた言葉で

「なおざり」は源氏物語の時代からあった言葉


ひつぎ

さて、言葉で聞いただけでは何のことか

迷うような言葉です

ふつうは「棺(ひつぎ)」、「柩(ひつぎ)」を連想

するでしょう

このブログの常連読者さんは「日嗣(ひつぎ)」

を連想するかも・・・

これは霊力・霊格・霊魂を表す「ひ」という言葉と

継続を表す「つぎ」とが合わさった言葉である

肉体は死んでも霊魂は死なないで永遠に

継がれていく、霊魂を継ぐものが「棺」ということだ

「ひつぎ」とは、魂を継ぐために入れておく器

そこから「日嗣の皇子」とは、祭祀王の魂を

継ぐもののことになる

万世一系が「血脈」ではなく、魂の継承の総称

という長屋の爺の持論の根拠となっている

                    

◎  仏教と神道と天皇 

天皇は日本神道の最上位祭祀者である

これは現代の常識となっている

本当にそうだろうか?

おぼろげながら最近までの天皇は間違いなく

祭祀王であったと思っている


しかし・・・明治維新までの天皇はどんなに

贔屓目で観ても、祭祀王とは程遠い状態だった


私は天皇家や天皇制度を否定するつもりはない

ただ現実はどうだったのかを考え知るべきだと

思っているだけである


私はかねがね、歴史を破壊したのは明治新政府

だと言い続けてきた

特に神道と仏教に関し、極端な思想を以て強引な

政策を実行した

それが【廃仏毀釈】である

「廃仏」は仏を廃し(破壊)すること

「毀釈」は、釈迦の教えを壊(毀)すという意味だ

見方によっては「仏教弾圧」かもしれないが

その当時(江戸時代末期)の寺院は宗教というより

政治的な厚遇を受け、堕落した「無用の長物」と

化していたように思う

その特権と堕落した聖域を整理したという意味では

評価すべきものもあるとは思っている


私は現代の仏教、特に寺院の状況を見ると

人は同じ轍を踏む生き物だと憂いている

国が宗教を聖域としたことにより、過去の

諸問題を学ばないことの結果であり

西洋的思考で伝統や文化を維持する

ようなちぐはぐさを感じてしまう


1858年に孝明天皇が高野山に送った

御内書に興味深いものが残されている


【我が国は、はるか昔から国政を補佐する

もの
として、仏教を用い続けてきた。けれども

今日の状況をみると、仏教は地に堕ちている。

仏教が地に堕ちるときは、王法もおのずから

衰徴するであろう。それを思うと限りない恐怖が
 
湧き起ってくる】


祭祀王という立場のはずの天皇が、仏教を

国政の補翼 と明言している


この時代の天皇は「仏教徒」だった

宮中祭祀は「儀礼」「儀式」でしかなく

心は「御仏(みほとけ)」の傍にあったということだ


明治新政府の「廃仏毀釈」とは、天皇から

仏教を遠ざける狙いもあったのだろう

仏教伝来から以後、祭祀王であった天皇は

たんなる仏教にすがる仏教徒にすぎなかった

私が歴代の天皇を考えてくる過程で、神の気配が

消えて、意欲減退に陥ったことがあった


まさしくこの仏教徒・天皇が原因であった


なぜ京都から江戸に「遷都」したのか?

その答えは天皇から「仏教」を遠ざける意味も

多分にあったと思っている


明治になって仏教徒から日本神道に復帰し

本来の祭祀王の立場になったはずの天皇

しかし現実は、祀る立場から祀られる立場に

現人神(あらひとがみ)という立場に置かれ

大東亜戦争終結を受けて、GHQの手によって

神道の祭祀王でも、仏教徒でもなく、現人神でもない

あいまいな立場に置かれている



本当なら欧米諸国の願いは、天皇とは儀式を行い

ながら日本国民を束ねる精神的支柱となりながら

欧米風の「一神教の信徒」に変わることを望んでいる

そのための「開かれた皇室」であり、一神教に造詣の深い

皇族の育成が必要となってきた

日本の精神的支柱を内部から破壊するのは

無信教であったり、一神教の信徒が増殖すること


まさに無信教の宮内庁幹部とクリスチャン皇族の

現実に垣間見ることができる

宮中祭祀が公的行事であってはならない理由

それが宮中祭祀の「古儀」の形骸化と簡素化

無信教な天皇が望まれている原因かもしれない


戦後の東宮妃選びに多くの異論があったことは

今では常識である

歴史の功罪は時間というレンズを透してしか

判明しない

今このときは・・・将来の「あの時」なのである

                   

◎  日本人の感性 (色彩) 

色というのは人間に大きな影響を及ぼす

特に「日本人」は【色彩】に驚くような

特殊性を発揮している

私の知る限り、色の表現の豊富さ・多彩さは

日本人が他を圧倒していると自負しています


江戸時代、幕府は庶民に対しても、贅沢を

禁止しさまざまな制約を課した

ところが江戸の庶民は、その制約の中でも

自由に色を楽しんでいた

自由というのは制約の中にあってこそ、そのエネルギー

が最大限発揮されるものだと痛感します

野放し状態に素晴らしい「自由な感性」は花開かない

つくづくそう思います


江戸時代、庶民に許された着物などに使う

「色(色彩)」は3種類に制限された

茶色 ねずみ色 納戸色

ねずみ色は「灰色」のこと、火事の多かった江戸では

火事を連想させる「灰」は使わなかった

納戸色とは、納戸を開けた時の薄暗い空間の色

どちらかといえば「紺色」に近い色のことです

この三色を江戸っ子のセンスで素晴らしい色彩の

着物に仕上げてしまいました

茶色には、海老茶(えびちゃ)・白茶(しらちゃ)

・江戸茶(えどちゃ)・蒲茶(かばちゃ)・鶯茶(うぐいすちゃ)

・千載茶(せんざいちゃ)・団十郎茶(だんじゅうろうちゃ)

・利休茶(りきゅうちゃ)など48茶と呼ばれる茶色を作った

(実際は100種類ほどあると言います)

というより、茶色の微妙な違いを細かく区別したと

言うほうが正解でしょうか・・・・


鼠色も、藤鼠(ふじねず)・茶鼠(ちゃねずみ)・江戸鼠(えどねず)

・利休鼠(りきゅうねずみ)・桜鼠(さくらねず)・梅鼠(うめねず)

・源氏鼠(げんじねず)・鳩羽鼠(はとばねずみ)など・・・

鼠色も100種類に及びます

これを 【四十八茶 (しじゅうはっちゃ) 百鼠(ひゃくねずみ)】

と呼ぶそうです


北原白秋の「城ケ島の雨♪」 の中にも【利休鼠】の歌詞が

使われていて、そのいくつかは耳にしたことがあります


さらに地味な表地とは違い、見えない部分の裏地に

正絹の派手な染色の生地を使い、「お上」に対し

意地を通すところなど、これぞ【粋】の手本と言いたく

なります (これを称して「裏をかく」ともいうそうです 笑)


地味な着物の間から「チラリ」と見える派手な色

これを見逃さないのが「通(つう)」というもの・・・


真っ向から反発するのではなく、制約・制限の垣間を

縫って楽しんでしまう先人たちこそ【粋(いき)】と

言うのでしょう

                  

◎  「和を以て貴しとなす」の弊害 

日本人にとって良くも悪くも影響している思想

のようなものがある

「和をもって貴しとなす」 という既成概念である

一言でいえば日本人は【複】であり、西洋人は

【個】の思想文化の上に立っている

複の概念は「自己の主張」を善しとしない

その結果、話し合いの場である「会議」では

最終目的が「着地点の確認」のための話し合い

に終始する

日本の会議に欧米のような「侃々諤々」のシーン

はほとんど見られないのが現実である


「和を乱す」=自己主張

同じ髪型で、同じ服装で、同じ物を持ち

同じ価値観を共有する

それが「一番安心」できることでもあり

和を乱さない最善の選択になっている




日本人は本来他人がやらないことに

精魂を傾けるDNAを持っている

日本人のそういう特色は過去に多く見られた

しかし、日本人の「和を尊ぶ」思想と、他人と

違うことをすることの拒否反応は残念な

現実も見せてくれる

青色LED問題でもわかるが、個より複が大事であり

個人の業績努力<全体(組織)の和

失敗は個の責任で、成功は全体(上司)の手柄になる


北里柴三郎

世界的な医学者で、名前くらいは誰でも知っている

彼はドイツに留学し破傷風の純粋培養と血清療法

を成し遂げた細菌学者である

一説によれば、赤痢菌の発見も、北里の偉業だとする

ものがあり、発見者とされる「志賀潔(しがきよし)」も

北里は共同研究者というより、志賀が研究助手のような

状態だったと回顧している

そんな北里は英国・ケンブリッジ大学の細菌学研究所

の初代所長という要職の勧誘を断り、日本に帰国し

日本に細菌研究所を作りたいと政府に要望するが

政府はそれを認めず、かれは祖国において、無職

(プータロー)になってしまう

結果としては、伊藤博文が私財を投じて研究所を

創設したのだが・・・

技術大国といわれながら、その多くを欧米に流出

させている背景にあるのも、同じような「個」の軽視

であるかもしれない


北里柴三郎が福沢諭吉から受けた恩を、弟子である

志賀潔に送り、あるいは野口英世を米国に行かせ

最後は福沢諭吉の創設した慶應義塾に返した

(北里は慶應義塾の医学部に、志賀潔や北島多一など

北里研究所の名だたる教授を惜しげもなく送った)

慶應義塾大学医学部が私学でありながら、日本でも最上位

の医学研究の場であることは、こういうことから始まっている


上記のようなことを江戸時代では【恩送り】と言ったとか

江戸時代に生まれていない長屋の爺には定かでは

ないが、恩を返すのは直接でなくとも、巡り巡って

本人の喜ぶ場所に還っていくものなのかもしれない。

◎  日本書紀と万世一系 

私が天皇家の万世一系に疑問を感じる要因は

日本最古の史書といわれる【日本書紀】の中身

がお粗末だからである

天皇の歴史と言いながら、歴代天皇の生没年

すら不明になっている現実に違和感を感じている


どうして不明にしたのか?

ずっと考えてきたが、その考えは間違っていた

ふと、そんな考えに行き着いた・・・


書かなかったのではない

別の系譜の人間には「分からなかった」だけ

天智天皇の前後の系譜と、それ以前の天皇家の

系譜が別物だったとしたら・・・・

書きようがなかった可能性がある


さらに皇統を改ざんして、つじつまを合わせた結果

生没年を書くことによる矛盾に直面し、不明のまま

史書を編纂した


天智天皇より四代前の天皇から生没年が明記されている

その四代前こそ・・・ねつ造・改竄した【推古天皇】で

創作なのだから生没年は脚本の一部であった


日本の天皇で生没年が知られている最も古いのは

第30代・敏達天皇である

(推古天皇の夫といわれている天皇)

しかし・・・そのあとの第31代・用明天皇は不明である

(聖徳太子の父親で、子供の聖徳太子も不明である)

さらに暗殺されたとされる32代・崇峻天皇も不明である

そして・・・33代推古天皇は明確に記されている


これらを見れば、持統天皇の時代から時間を遡って

不都合は削除し、捏造・改竄・創作した天皇だけ

巧妙に生没年を記したと思えるのだ

書かなかったのではなく、書けなかったにも関わらず

書いた理由は、自らの系譜の正当性を主張するため

書き残した・・・


国家プロジェクトでありながら、お粗末な「日本書紀」は

限られた人間の目にだけ触れるものだったのでは?

そう考えれば古代天皇家(大王家)の系譜など

大きな比重が置かれることもなく、由緒ある系譜に

紛れ込むためだけの「史書編纂」だった



なぜ・・・・女帝だったのか?

なぜ崇峻天皇の後継が推古天皇(女帝)だったのか?

舒明天皇の後継がなぜ皇極天皇(女帝)だったのか?


私の考えは女性天皇の時代は天皇の改竄があり

不都合な天皇を消すために、油彩画のごとく上から

新たな女性天皇を書き足した

中国大陸でも女性皇帝は一人だけ・・・・

則天武后だけなのである

国の統治は男性が行うものという不文律があり

大陸から文明を学んだ国に女帝は存在しない

特に大陸を範として、積極的に律や令を学び

実践していたヤマト朝廷が、そこだけ独自色を

出す必然性が見当たらない

シャーマンとしての資質が尊ばれた卑弥呼の

時代とは明らかに違っている時代なのである


天智天皇は即位せず【称制】を行った

(称制とは、新帝が即位の儀式をせず政務を

執ることをいう)

私の中で「称制」とは、後世の人間が都合のよい

言い訳をした形だと思っている

天智天皇と持統天皇が称制を行った天皇である

なぜこの親子だけが称制を行ったのか?

称制とは即位することが許されなかった人間の

言い訳だと思っている

即位できない理由は数多ある

一番考えられるのは、皇位継承権の低さであり

最低限の資格を有していなかった

天智と持統は即位できる資格がなかった

そんな可能性も考えられるのである

                   

◎  開かれた皇室の実像 

天皇家が2600年余の万世一系だという説

この大本を探れば、明治維新に行き着く

確かに藤原不比等と持統天皇のコンビが

皇統を捏造した疑いがあるが、それを利用して

万世一系を強調し、国民を洗脳したのは明治政府

長州と薩摩の策士等である


日本の皇室の歴史に無かった事が

起き始めたのは明治維新からである

なぜ京都から江戸への遷都だったのか?

どうしてタブーの「伊勢参拝」が実行できたのか?

どうして突然、天皇は現人神に祭り上げられたのか?

明治維新という内戦に始まった皇室の変化は

大東亜戦争の終結と共に佳境を迎えた・・・

大ヤマトの歴史、日本神道の血脈が西洋化に

舵を切ったのはまさにそのときだった・・・


開かれた皇室とは何だったのか?

御簾の内側で悠久の年月を重ねた祭祀

開かれた皇室とは・・・

開けてはいけない「パンドラの箱」かもしれない

徐々に、少しずつ変わったかどうか定かでない変化

それが本来の伝統であり、ある日を境に変わることは

伝統の破壊に繋がる

西洋的な皇室とは、伝統の意図的破壊でしかない


人としての皇族であっても良いだろう

父としての姿が見えないなど気持ちが悪いだけ

母親の愛情が感じられないのは現実的ではない


しかし、この世には「許される事」と「許してはいけない事」

があり、父母である前に、人として踏み外してはいけない

事柄がある

分(ぶん)を弁(わきま)える

国民の血税で生活するのは、祭祀王であるからであり

国家元首の家系であるからなのだ


仮病を許しているかぎり、明日の皇室は無用のモノとなる

著しい疾患で「公務」が担えない者は「皇籍離脱」すべきだろう

そういう意味からも、天皇の定年制も現実的になる


時間と共に宮家の数は間違いなく激減する

存続するのは「秋篠宮家」だけになる可能性がある

それで宮家が存続できなくなれば、それも定めか・・・

伝統という特効薬で存続してきた天皇家は

伝統という特効薬が失われたときに消滅するだけ


売り家と 唐様で書く 三代目

昭和~今上と続いてきた戦後天皇家

三代目は唐様ではなく、西洋(静養)で傾ける?

皇室の西洋化とは、伝統の否定、軽視、冒涜であると

長屋の爺は考えている


どんな色眼鏡、フィルターで観ても

一連の東宮問題は、誰も「諭さない」「糺さない」ことから

起こっている

いったいだれが「クビに鈴」をつけるのか・・・

その答が国民には理解できるから

両陛下への不信の言葉に繋がっている


不敬 < 不実

国家元首である前に、天皇である前に

父親である前に、人として、皇統の長として

言うべき事、するべき事があったように思うのである。

                  

◎  PCの世代交代 7から8へ 

どうにもPCが末期症状をみせている

この更新は予備のノート(Win8.1)で

書いている

ようやくこのパソコンでも記事が書くこと

ができるようになった(笑)

とにかく早い・・・

ストレスは存在するが、起動する・しないの

次元からは解放された

未だ移行しなければいけないデータが

多数存在するが時間をかけて引っ越しを

するつもりだ

10連勤の真ん中で、疲労もピークである

しばらくは「不定期更新」ということで・・・

◎  日本語と「ことば」の雑学 (一) 

「み」と「からだ」の違い

人の身体のことを「からだ」と言ったり

「み」と言ったりします

どう違うのか? 同じなのか?

ある説によれば、「からだ」とは

「から」に接尾語の「だ」がついたもの


「から」とは「亡骸(なきがら)」「籾殻(もみがら)」

などと言うように、「から」は根幹を指す言葉

【そのもの】を表す言葉なのです


「み」とは何か?

「み」は果実などの「実(み)」と同じ音で

【実】と【身】は大きく関わっています


「からだ」とは、具体的な肉体を指し

「み」とは、精神的で象徴的な存在だという


「からだ」は、樹木の幹・枝のようなもので

黙っていても大きく成長する

一方、「み」は自らの努力無しでは成熟する

ことは無いという・・・


「み」は努力して経験をつんだ成果として

木の実のように「みのる」もので

「からだ」は事故や怪我で損なわれる事はあるが

「み」は損なわれる事がないとも言う


「身から出た錆び」と言う言葉

「身体から出たさ錆び」とは言わない事でも

なんとなく理解できる気がする


「身をもち崩す」

「身の上話」

こういう言葉の中の【身】とは、その人自身の

中身を伴った言葉


「体を壊す」

「体が丈夫」

こういう言葉は身体の機能や状態を表現している



ちなみに、古代人は手足のことを【えだ】と呼んだ

「枝(えだ)」を手・足と区別するようになったのは

奈良時代ころからという


「義肢(ぎし)」と言う言葉も、枝→肢 となったものかも

しれません(長屋の爺論)


余談ですが、「て」という言葉

「行く手」「右手の方」 などと使うが

この「て」とは指し示す方向、その辺り一帯

を表すときに使います


古代で「て」とは・・・風のことを言います

疾風(はやて)と言う言葉も、「早い風」であり

ある地方では「はやて」のことを、「はやち」という

この場合の「て」「ち」とは、長く伸びるもののこと

つまりは「風」を指している


これと関連しているのが「みち」という言葉

「ち」に接頭語の「み」をつけて、「み・ち」となった

長く伸びるものの正体は、延々と続く【道】のこと

「みち」は道路だけではなく、進む方向を指している

「科学の道に進む」 「医学の道に進む」

【道】とは方向を指す言葉でもある


その方向の先に何があるのか・・・・

見極めんとする気持ちが「*道」というもの

柔道、剣道、茶道、華道という世界なのかもしれない


(つづく)

                  

◎  聖徳太子と蘇我本宗家 (三) 

蘇我本宗家を書くとき

中大兄皇子を抜きには語れない

本宗家を滅ぼしたのは中大兄皇子

後の天智天皇と呼ばれる人物である

私は中大兄皇子は即位していないと

考えている

百済再興のために人臣の反対を押し切って

【白村江(はくすきえ)の戦い】を行い

戦いに破れ、西日本の各地に城を築き

ヤマトに戻らなかった・・・

いや、戻れなかったというべきだろう

唐の軍勢と戦うには、飛鳥の地の方が

近江の地より適していたと思っている

戦略的に不利な地に遷都したというのも

藤原の騙りとも思える

これは遷都ではなく、反乱軍の拠点に等しい

南北朝よりはるか昔の時代に、朝廷が二分

していたのかもしれない


通説のように「乙巳の変」という功績があり

皇太子であったなら、即位できない理由など

見当がつかないのである

飛鳥の都に戻ることが出来なかったから

交通の要衝である近江に宮を造営した


なぜ戻ることが出来なかったのか?

親蘇我派の豪族や人臣らが、帰京を許さなかった

飛鳥にはすでに天皇が即位していた

「天武天皇」という蘇我系の天皇である


通説では天武天皇(大海人皇子)が武力で

皇位を奪ったようになっているが

私の中では、正統である天武天皇に対し

皇位奪取をもくろんだのは中大兄皇子であり

大友皇子だったのではないか

その復讐を実行したのが、天智天皇の娘である

持統天皇と藤原不比等だった


漢風諡号の【持統】とは、皇統を維持するの意である

どの皇統を維持したというのか疑問ではあるが

少なくとも 天智~持統~子孫たち という

奪った皇位をそのまま守ることを指して「維持」と

解釈すれば

奪った皇統を維持するために即位した天皇

という見方ができるのである


持統天皇の母方は「蘇我氏」となっているが

それは蘇我本宗家ではなく蘇我倉山田氏という

蘇我氏傍流の出自であり、蘇我本宗家にとって

敵の娘ということになる


持統天皇は天武天皇の死後も即位せず

【称制(しょうせい)】という不可解な状態にあった

これも【大津皇子】が即位していたからであって

天武天皇の皇子が天皇となっては即位などでき

るはずがない

究極の手段が暗殺・クーデターによる皇統奪取という

形をとったのではないか

天武の皇后だから即位できたのではない

女性天皇の正統性を主張しなければならない

理由とは、策謀を駆使して非道に奪った皇位

だったからこそ、神話の世界に起源を定め

アマテラス神話と天孫降臨を創作した

その功労者が藤原不比等だった可能性が高い

不比等の重用は、持統の正当性を最優先に

権力を行使できる形にするためであろう


その正当性・正統性を主張するために考えられた

のが、日本書紀の改竄・捏造である

徹底した「蘇我隠し」と「蘇我巨悪説」、さらに

天武天皇の年齢隠し、履歴隠しとなった

その一部分が、聖徳太子礼賛と長屋王隠しに

繋がっていくのだと考えている


ここまで書くと、あきれ果てた暴論・妄想かもしれない


史書の矛盾を突き詰めていくと、こんな馬鹿げたような

空論も、僅かばかりの可能性があるのではと思えてくる

のである (つづく)

                  

◎  神と仏と鬼 

パソコンが思うように動いてくれない

昨日は途中で断念・・・

タブレットで閲覧だけは出来るのだが

更新となるとPCが変換してくれたり

してくれなかったり、誤変換の連続に途中で

萎えてしまい、本日再挑戦する・・・

先ほど2時間かかってGooブログを更新

通常なら10分もあれば終える内容である

このブログも今日中に更新できるか

おおいに疑問だが、連勤の疲れもあり

今日は簡単な内容で茶を濁すことにします


神と仏

神は見えないものというのは古代神道の

常識である

ところがアイヌ語で「熊」のことをカムイという

カムイとは「神」の事でもある

ある説によると、日本語の「かみ」がアイヌに伝わり

カムイという言葉になったというものがある

それではそれ以前には、アイヌ民族には神という

言葉も、神という「概念」は無かった事になる


東北日本で【最強の生き物】は熊だった

食物連鎖とは別次元の世界で、最強と思われて

いたのはおそらく「熊」だったのだろう

神によって生かされていることを「本能的」に

知っていた古代人(縄文人)は、神に対する

畏怖の念を「カムイ」という言葉にして崇拝した

カムイ=熊=神

熊野という地名、隈とか隅という文字をあて

辺境の地だとする説が通説である

↑の式から考えれば、熊野=神野 ということが

考えられる

【野】とは広い原っぱの事ではない

野は本来【埜】である

埜(の)は、林の中に社が立つ形が原型で

野(の)は、田の神を祭る社のあるところで

坂のあるスロープのような場所をいう

吉野や熊野はけっして平坦な場所とは

言えない地形である

山から伸びる緩やかな坂のある地形

そこに社があって、神が立ち寄るところ

吉野は「好字令」で選ばれた文字だろう

おそらく元々は、「あしの」ではなかったか

アシ とはアイヌ語で「降る・立つ」という意味

山から神が降り立つ場所という事になる

熊野は神野であり、文字通り【神が降り立つ処】

だったと考えている

では「仏」はどうして【ホトケ】と呼ぶのか

私は仏(ほとけ)は ホト・ケ ではないかと

考えている

「ぶつ」「ふつ」というのが本来の読みであるが

Fu-Tu が Fu-To に変わり

Fu-To が Hu-To に変わって

H o-To に変わったと思われる

「ほと」がなぜ「ほとけ」になったのだろう?

「け」とは【もの・の・け】の「け」ではないか

見えないもの、ハッキリとは理解できないもの

そういう曖昧模糊な姿を「け」と呼んだ

ほと・けとは神と同様に見えないものであり

ハッキリと説明できない不明な物のこと

神も仏も物の怪も、いるのかいないのか

どんな形なのかもわからない不思議なモノ

モノとは鬼のことでもある

神=仏=鬼 は見えない糸で繋がっている

のかもしれない・・・・。

                   

◎  聖徳太子と蘇我本宗家 (二) 

聖徳太子

厩戸皇子(うまやどのみこ)というべきか・・・

この皇子は超人・聖人として伝わっている


厩(うまや)で生まれたというのも

イエス・キリストを髣髴とさせ


生まれて間も無く言葉を発したというのも

釈迦が生まれたとき【天上天下唯我独尊】

と唱えたことの引用だろう


一度に沢山の人の話を聞き分けたというのも

当時の優秀な役人は、多言語を理解できる者が

重用されたからではないか

海洋貿易国家ヤマトにおいて、言語能力は高く

評価されていたのだろう



聖徳太子礼賛は桁外れのスケールであり

感嘆ではなく「非現実さ」ばかりが眼についてしまう

この通りの人物が実在していながら、皇位に

就かなかった、就けなかった理由があるだろうか?

125代の天皇の中に、彼以上の資質と徳を持っていた

天皇がいただろうか?


聖徳太子は通説では621年に亡くなっている

推古天皇が即位したのが592年(39歳の時)であり

その時に厩戸皇子は摂政・皇太子に就いている

少なくともその時、成人していたとすれば、50歳前後で

亡くなったと考えられる

即位できない理由など何処にも存在しない

政治を全て任されていた厩戸皇子の能力に

一点の曇りも無いといえる


即位できない理由は、生きている人間ではなかった

それくらいしか考え付かないのである


推古天皇の後継者問題でも、厩戸皇子の子である

山背大兄王は即位できなかった

即位できなかったばかりか、自死してしまっている

それも妻や子まで道連れにして・・・・


しかし・・・日本書紀は聖徳太子と山背大兄王が

親子とは記していない

親子という通説は「上宮聖徳法王帝説」という

聖徳太子の伝記に書かれているだけである

隠す理由もないのに、どうして明言しなかったのか


二人が実在で「親子」ではなかった

聖徳太子は架空であり、嘘は書かなかった

厩戸皇子は実在で、山背大兄王は架空だった

二人とも藤原不比等の創作だった



私は厩戸皇子という「平凡な皇子」は実在し

聖徳太子は捏造であり、山背大兄王は実在した

山背大兄王という人物は不比等と何らかの接点

があったかもしれないが、非業の死はありえない

そう思っている

非業の死を迎えたものは、「鬼」になる

山背大兄王が祟った話が無いことから

自死説も虚説と思われる

もう少し聖徳太子と蘇我氏を考えてみたい

(つづく)

                    

◎  聖徳太子と蘇我本宗家 

聖徳太子は実在したか?

私は実在の人物ではないと思っている

「理想の皇族」の姿を描けばこうなる・・・


藤原が描いた「物騙り(ものがたり)」

しかし・・・主役は、あくまでも「蘇我氏」であり

その主役を際立たせるための「善玉」として

理想の皇族を登場させている

この物語は時系列を遡ると意外と簡単な

種明かしが見えてくる

あくまでも出発点は、藤原の史書なのである

7世紀末~8世紀初頭から

古代へと進んでいく「歴史物語」なのだ


事の発端は、乙巳の変での蘇我入鹿の暗殺

蘇我本宗家を滅ぼしたことの正当性を後世に

向かって「弁解」したのが始まりである

蘇我氏が「古代豪族」「大豪族」という認識は

史書による部分が大きい

私はそれ以上の存在、天皇家と肩をならべる

大王家だったと思っている

天皇家に非常事態が起こったとき、一時的に

天皇をつなぐ役目を担っていたとも思える

その代表的な出来事が崇峻天皇の暗殺である

このとき事態を収束させる為に「蘇我天皇」が

即位した可能性がある

この人物が誰だったのかは想像するしかないが

蘇我馬子だったかもしれない・・・・

そんな特別な立場の蘇我氏をクーデターによって

滅ぼしたのは、天智天皇のグループである

朝廷内の不満分子がいたとしても、大王家を

滅ぼす事に大きな後ろめたさがあったと思える

その「非道」を正当化するために、蘇我氏の横暴を

書きたて、架空の聖徳太子の子孫を根絶やしにした

悪行を超大作に書き上げたのである

聖徳太子が「偉人」「聖人」であればあるほど、その人物

の血統を絶やした氏族の悪質さが高まってくる

聖徳太子が素晴らしい聖人であり、その子孫も尊き血筋

で、それを滅ぼした蘇我氏は【極悪非道】という図式に

なるのである

蘇我の悪行をどれほど書いても、日本の大聖人・聖徳太子

の血筋を絶やす事には及ばないほどの悪行という事だ

聖徳太子が後世に伝わる「偉人」「聖人」であったなら

どうして推古天皇という女性が即位する非常事態に

即位できなかったのか・・・・

即位できない理由は「実在しない」人物だったから

推古天皇の甥にあたり、父親は用明天皇で母親も

欽明天皇の娘、申し分のない血統である

まして推古天皇即位後に皇太子となり、摂政に就任する

ほどの能力も資質も備えていたのだから・・・

推古天皇(女帝)は虚説であり、聖徳太子も架空だと

私は思っている

推古天皇は蘇我氏のいずれかの人物であり

私は蘇我馬子ではないかと考えている

蘇我馬子=聖徳太子 であるかもしれない

(つづく)

                  


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