不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  特定化された太陽神アマテル 

【 大師は弘法に奪われ 

  黄門は光圀にとられた 】

あるいは、【 太閤は秀吉に奪わる 】


これは普通名詞として一般的だったものを

固有名詞のように扱われるようになった事を

揶揄した言葉である

「大師」というのは偉大なる師という意味で

高徳の僧への敬称として使われ、朝廷から

高徳の僧に賜られる号のことである

ところが日本では「大師」といえば空海を指し

空海の別称という位置づけになってしまった

中国や日本にも多くの「大師」が居るのだが

「大師様」といえば「弘法大師・空海」に限定されて

しまった

「黄門」というのは、中国皇帝の傍近くで勅命を伝える

職務であった「黄門侍郎」のこと

転じて、日本の中納言の唐名を「黄門侍郎」または

「黄門」といったことから、「水戸中納言光圀」のことを

「水戸黄門光圀」と呼び、何時からか「黄門」というのは

「徳川光圀」を指す固有名詞になってしまった

「太閤」とは摂政または関白の職を子弟に譲った

人物を指し、特定の人物の名称ではなかった

ところが豊臣秀吉を「太閤殿下」として呼び習わし

「太閤」=秀吉 という固有名詞のようになった


なぜこんな話を書くのか・・・

神器である「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」という名称

これもおそらく普通名詞だったという説がある


アマテラスが八尺瓊勾玉を咬み砕き

その霧の中からアメノオシホミミが生まれ

八尺瓊勾玉は消滅したのに、降臨の際

天孫・ニニギに八尺瓊勾玉を持たせたと

書かれています

都合よく「二つ在った」などでは納得できない

古典には同じ名前の勾玉が登場していて

私も特定の「宝物」ではなく、普通に勾玉を

そう呼んでいた気がする

八咫鏡も特別な鏡のことではなく、手のひらサイズの

普通の鏡のことだったかもしれない


「八」という文字

末広がりで縁起が良いというのが通説だが

本当だろうか?

「八」が縁起が良いという発想は、漢字の

「八」が浸透してからの問題であり、古代に

おいて「末広がり」など「眉唾もの」でしかない

参考までに古代の数字と「八」との関係

古代では「奇数」は”吉数”、偶数は”凶数”

ということになっている


普通名詞であった「宝物」を神器としたのは

本来幾つも有ったものが「固定」「特定化」した

モノだった、私にはそう思えるのだ・・・



*阿麻氐留神社 (対馬)
 あまてるじんじゃ

*粒坐天照神社 (播磨)
  いいぼにますあまてるじんじゃ

*天照玉命神社 (丹波)
  あまてるみたまのみことじんじゃ

*天照大神高座神社 (河内)
  あまてるおおかみたかくらじんじゃ

*鏡作坐天照御魂神社 (大和)
 かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ

*他田坐天照御魂神社 (大和)
  おさだにますあまてるみたまじんじゃ

*木嶋坐天照御魂神社 (山城)
  きじまにますあまてるみたまじんじゃ

*新屋坐天照御魂神社 (摂津)
  にいやにますあまてるみたまじんじゃ


上記の神社は相応の由緒ある神社だが

アマテル、若しくは天照御魂を冠する神社で

あまてる と読む

ここから推理できるのは、私達が「アマテラス」

と呼ぶ神は、地方では「アマテル」であり

太陽神の霊魂(御魂)なのである

鏡作坐天照御魂神社の祭神は「天火明命」

であり、天照御魂とは月読命と対比して

「延喜式」に載っている

ということは、アマテルは日神、ツクヨミは月神

を意味しているのである

アマテル(天照)に大神を付けようと付けまいと

アマテルは「太陽」なのだから、皇祖神として

特定する事には無理がある

そして・・・どこにでも居た神さま

言葉を換えれば、普通名詞のように意識

されていた日の霊魂(天照御魂)なのである


古事記には「あまてらすおおみかみ」で

統一されて記載されている

ところが日本書紀には、【日神】【大日孁貴】

【天照大日孁尊】【天照大神】と多彩である


柿本人麻呂が草壁皇子の死去に際し詠んだ

挽歌には、、【天照らす日女尊(ひるめのみこと)】

と書かれていて、たしかに皇祖神として扱っている

しかし、名前は「あまてらすおおみかみ」と定まって

いない事が見えている

持統天皇の時代でも、皇祖神という認識は存在しても

あくまでも【天照らす日女尊】であって、我々が知る

天照大御神ではなかったのであり

天皇が太陽神の子孫という認識は固定化されて

いたと思われるが、その祖先の神の名は確立して

いなくて、「ひるめのむち」という一般名称を

使っていたと思われる

                   
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◎  漢字の雑学 

云(うん)

これは空に浮かぶ【雲】をあらわす

云の成り立ちは「龍の尻尾」のこと

龍は春になると天に昇るといわれ

夏空の雲の下に「尻尾」を出している姿

これが「云」の始まりである

ではなぜ「云(うん)」を、「云う」という読みに

して、「しゃべる」ことに使ったのか?

古来の「しゃべる」という音も「ウン」と言った

ので混同して使われるようになったという

それで「空の上のウン」は雨を加えて「雲(うん)」

と書くようになったらしい

雨+云=雲

ともに音は「ウン」である


申 シン ( もうす さる )

この一字で「神」を表す

象形文字では「イナズマ」の形である

古代では「イナズマ」「雷」は空(天)の

神さまと考えていた

菅原道真の天神様と考えれば判りやすい

最初は「申」だけで事足りていた神だったが

「申す」という使い方は始まってしまい

「示」という祭壇の文字を加え、【神】という

文字になった 示+申=神

本来は「申」だけで神様の事だったのである


では空の神さまが「申」であり、イナズマの事

だったのなら、イナズマはどう書くのか?

本来は「電」というのが「イナズマ」のことである

空の神さまだから、雨+申=電

ならば・・・カミナリは?

カミナリは「神鳴り」とも言われ、靁 と書いたが

現在では三つから一つに変わり「雷」となった

象形文字では三つ(四つ)の太鼓のような図形

が描かれている

雷神さまの絵を観た事があれば、小さな太鼓を

打ち鳴らす姿が描かれている

古代の人は空の神さまが太鼓を打ち鳴らすのが

「カミナリ」だと考えていたのだろう


土 ド(つち)

これは本来「地の神」のことである

ところが後に、専ら土壌を表す語に使われる

ようになった

そこで「土」に神を祀る祭壇「示」を加えて

「社」の字が作られた 土+示=社

社とは元々は「地の神」「土壌神」のことだった


里 リ (さと)

田+土=里

土(土地)の守護神に守られた田んぼのこと

神様に守られているから豊穣にしてくれる

神さま抜きに「実り(稔り)」は有り得ないのだ

言い換えれば、神さまから穀物を頂く場所だ

ただし古代では「田(でん)」とは水田の事で

はなく、キチンと甫条の整えられた耕作地のこと

(ちなみに「畑」は日本語であり、漢語ではない)


林 リン(はやし)

林は林野であり、鬱蒼と茂った「森林」のことでは

ない、「おじいさんが柴刈り」に行った場所のこと

其処は「野(埜)」であったわけで、古代で「里山」

といえば、こんもりとした田園の中の「林野」のこと

まさに【埜】だったのである

林+土=埜(の)   土地神に守られた林であり

神さまから燃料をいただく場所だったのである


古代中国では「大河」を表すのに「一音」で

済ませていた

文字の無い時代には「一言」「一音」で事足りた

「カ」とは黄河のことであり、「コウ」は長江のこと

「イ」は渭水のこと、「カン」は漢水のことである

総て「形声文字」といわれるもの、意味ではなく

「音」によって作られた経緯を持つ文字の事だ

「江」も コウ から創られたのであって、重要な意味

は無いようである


漢水は長江の支流で、その流域を漢地方と呼び

王朝の名前にも使用され、中国の名前と言っても

よいくらい知名度が高い



朝に対する言葉は何でしょう?

「夕」ではありません

「暮(ぼ)」 なんですよね・・

【朝】という文字を分解すると

+日+月 の分かれます

++は「草」のこと、日は「太陽」です

草と草の合間に日が昇り、振り返れば

其処に「白い月」が消えようとしている光景・・

それが朝の文字の由来です

それに対し「暮」は【莫】(ばく)が元の文字で

草原に日の沈むことを表しています

莫とは、かくす・かくれるという意味の言葉で

も使われていて

もともとの「日の暮れる」ことを表すにはさらに

「日」を付け加えるようになった


莫(ばく)+土=墓(はか)

土で覆い隠すこと

莫(ばく)+巾(きれ)=幕(まく)

布で覆い隠すこと

莫(ばく)+心(こころ)=慕(ぼ)

押し隠した心のこと

どれも音は【ボ】である・・・・。

                    

◎  更新休みます 

大変申し訳ありませんが

本日の更新は休みます・・・。

先ほど完成した記事が・・・消えてしまった

脱力感で一杯です

力作に限って固まるPCに立腹です(泣)

これは消えないだろうか????

                   

◎  謝罪と土下座の文化 

日本では毎日何処かで「謝罪会見」がある

おそらく世界で一番「謝罪」する文化の国だろう

謝罪なんて世界共通だろうと思っていませんか?

ところが「日本人の謝罪」の文化は、異常なほど

多いのである

A,では他国は「謝罪会見」はしないのか?

Q,ほとんどしません!

種を明かせば、「謝罪会見」ではなく

「釈明会見」をするのが、世界の常識なのです

記者会見という名目で、「釈明」「説明」するのが

「会見」を開く目的なのです

しかし、日本では「会見」といえば、間違いなく

説明・釈明の前に「謝罪」を口にし、頭を下げるのである

どれだけ謝るのが好きな民族なのか・・・・。

ところが、日本人も戦前・戦後では「釈明」を容認

する風潮が存在していたのです

言ってみれば「寛容」な日本人が多かったという事に

なるのかもしれません


この謝罪会見が頻発したのはつい最近の話で

21世紀になってから、極端に増えたというのが

現実なのです

それだけ日本人が「言い訳」する姿より、親妙な

顔をして「謝罪」する姿を見たがっている

そんなふうに感じます

他人の過ちに「寛大」な対処が出来なくなったのか

他人の不幸は蜜の味がお気に召すのか・・・

なんか・・・国会の野党の姿とダブって見えるのは

私だけでしょうね(笑)


真意はともかく「とりあえず謝る」のが昨今の

日本人の処世術になってしまった

周りの国が「ごちゃごちゃ言うから」

とりあえず謝っておくか・・・

謝って溜飲を下げるというのは、幻想でしかなく

謝った次に問われるのは「誠意」という代物である


誠意って何でしょう?

謝っても「誠意」が感じられないと言って

どんな言葉で謝罪しようとも、許す事が無い

誠意って「胸を切り開いて」見せられるものでも無し

そこで、誠意を具体化することが要求される

それが「倍賞」「慰謝料」というものだ

では謝罪を省いて、「釈明」だけにして「誠意」

という名の「慰謝料」「倍賞」だけで人は納得

するのかというと、それも絶対ではない・・

「カネやモノではない、誠意を持って謝罪しろ」

となってしまう(笑)

じゃあ どっちなの?


自動車部品のT社が「謝罪」しても、それではダメ

と言い、倍賞をしても制裁を課す国がありますが

欧米諸国は「誠意」が基本の習慣なのでしょう

誠意=カネ が21世紀の常識なのです

謝ってもらっても「腹は満たされない」

これが現実かもしれません


さて、日本には「土下座」という文化があると

言われています

これって日本人は間違って覚えている文化

なのです

土下座ってどう言うモノか、調べてみました

ウィキによれば・・・

【土下座(どげざ)とは、土の上に直に坐り、

平伏して座礼を行うこと。

日本の礼式のひとつで、本来は極度に尊崇高貴

な対象に恭儉の意を示したり、深い謝罪や請願の

意を表す場合に行われる】


【相手に向かい正座した上で、手のひらを地に付け、

額が地に付くまで伏せ、しばらくその姿勢を保つ】


申し訳ないが・・・大笑いさせてもらった

日本人の文化がこんな形で捻じ曲げられているかと

思うと・・・哀しくなってきます

では土下座とは何なんだ! といわれるでしょう


説明しま~す

日本において「土下座」とは、明治までは

宗教儀式として行われるか、高貴な人に

向けて行われていたもので、恭順や畏敬

の念を表すものだった

さらに、日本人が土下座をするようになったのは

「江戸時代」からなのです

「土下座」という言葉すら、江戸時代からであり

古代の日本人は日常的に土下座はしなかった

江戸時代の土下座とは、「下座」することだった

「下座」?

大名行列が通るときに、行うのが「下座」であり

【低いところに下りて、うずくまる】 ことが下座である

膝を突いて手を地面につけるなんてぇのは、誤解

なんです

今で言うところの「ヤンキー座り」みたいなもので

よかったのである

もちろん「体育座り」でもけっこう(笑)


日本の時代劇に出てくるシーンを思い浮かべ

殿様の前に両手を付いて、頭を畳にこすり付ける

姿を表現すれば、「平伏」というのである

下座はあくまでも「低い所に下りる」のであり

土下座は「地面に降りる」ことなのである


さらに、下座しなければいけなかったのは

【徳川将軍」【徳川御三家】【徳川家から嫁いだ姫】

この三通りしかなかった

それ以外の大名には、道の脇に寄る程度の事で

構わなかったというのが事実である

時代劇の脚本家の無知ゆえか、見た目だけ

を追求した「見栄え」の為せることなのか

徳川時代に描かれた資料にも、「紀伊家」の

大名行列の様子が残されていて、武士や

役人は平伏しているのだが、町人はみんな

「ウンコ座り」をしている(笑)

申し訳ない・・・言葉が悪いですね

正確には「蹲踞(そんきょ)」して

行列を見物と言うか、眺めている姿が

描かれています

庶民にとって「下座」「土下座」とは

たんに「しゃがむ」事でしかなかった


「土下座に曝される」という言葉が実際に

明治時代の新聞に載っていたといいます

土下座とは「単に地面に座る」ことの証明

といえるかもしれません


日本人は明治以降、土下座の誠意や畏敬

の念は薄れていき、昭和・戦後においては

土下座は「カジュアル化」されてしまい

誠意の対象には成り得なくなってしまった

だから土下座して謝罪しても、誠意を見せろ

という展開になってしまう

日本人の誠意がどのあたりを言うのか疑問

であるが、「平伏」「謝罪」くらいでは、誠意を

見せたことにはならないのだろう


私は「土下座」の姿を遠い昔に見た記憶がある

いや・・・土下座をした記憶があるというべきか

学校の廊下や教室を「雑巾がけ」した光景

まさに膝をつき、両手を床につき、土下座に近い格好

をしていた

手で雑巾がけをすることを、日常の教育とされた

今の老人達が、教育者や経営者として生きてきて

土下座に抵抗感が無いのも、幼少の教育の

産物かもしれない


庶民の土下座は日本の文化ではない

戦後日本、それもつい最近の日本人が安易に

謝罪のパフォーマンスで行っているだけのもの


土下座を強要するというのは、「ハラスメント」

であり、誠意を表すものでなく、当人の心情など

測る事などできないのだと思っている。


古代人は「神」の前に、額ずき手を突いて

畏敬の念を表現した

土下座のルーツは神に対する尊崇の心情を

表す「儀礼」だったのである。

人間に対し「土下座」することは・・・

【神】を冒涜する事であるのかもしれない。

                    

◎  神宮の幻想と現実 

神宮といえば「伊勢神宮」のことである

では、「神宮」とはどういう意味なのか


神宮というのは、2世紀の中国後漢の文献

に【祖先を祀る廟(びょう)】として出てくる


日本では伊勢神宮に関する文書に「宗廟」の

語が出てくるのは、平安末期(12世紀半ば)から


神宮=宗廟 が一般化したのは鎌倉初期である

鎌倉時代には外宮に「伊勢神道」が勃興し

神宮=宗廟 を盛んに強調したという

じつはこの伊勢神道(神宮=宗廟)は、中国由来

の道教・儒教思想によって理論武装された神道に

他ならない

ということは、鎌倉期までは一般的な認知としての

神宮=宗廟 というものは存在しなかったか、あるいは

希薄だったという事かもしれない


日本書紀に言う「皇祖神」を祀る伊勢は

「神宮」=宗廟 に疑問が湧く・・・


では日本の神宮の由来はというと

和語の【カミノミヤ】と呼ばれていた「祭祀施設」に

大陸から入った漢語の「神宮」をあてた

というのが、通説である。

【宮】とは、御屋(みや)が語義だとするのが一般的

な説である

ところが宮の語源は【庭(ミャー)】であるという説もある

祭祀は大きく分けて、「野外」と「屋内」の二つ

野外で行うものの中で、庭で行うものを【庭上祭祀】という

一方、屋内で行うものは【屋内祭祀】である

其の中間に当たる形式が、高床建物の「床下」で行う

【床下祭祀】というものである


伊勢神宮の祭祀は原則、社殿の外庭で行われ

「八度拝」などは「庭」で執り行われる

さらに、特別重要な【秘儀】は床下で行われている


なぜ・・「心の御柱」が床下に存在するのか

どうして「心の御柱」の祭儀は秘されているのか

その答が、この【床下祭祀】に隠されているような

気がするのである


神宮を訪れた方は一様に「ありがたさ」を感じる

何か「洗われた心地」さえするのは私だけでは

ないだろう

そういう日本の善男善女には申し訳ないが・・・

神宮の本当の姿を知って、今までどおり「崇拝」

して欲しいと願い、これから書く事は「事実」で

あって、神宮を否定する意図など無いと思って欲しい

【宇治橋】

宇治橋が現在の場所に架けられたのは、鎌倉末期

それ以前には、現在のように橋の中央から、日の出を拝む

光景はありえなかった、「写真で見る日の出」は近世に

なって姿を変えたことに因る「ご利益」かもしれない

【広場】

橋の手前の広場、かつては「土産物屋」が密集していた

がしかし、大正年間にはすべて撤去されてしまった

橋を渡った現在の「神域」にも、町屋が連なっていて

明治20年に撤去されてしまった

【手洗場】

五十鈴川の辺にある手洗場が整備されたのは江戸時代

庶民も立ち入る事が可能になった時代に、整備された

ものなのである

【玉砂利】

これも室町後期に敷き詰められたのが最初で、玉砂利を

踏みしめる、「厳かな気分」は、わりと新しい形なのである



【神宮の森】

神宮と言えば「森」をイメージする

その森も現在の森とは「似ても似つかない」姿だった

中世までは鬱蒼と茂った「広葉樹の森」で、亜熱帯樹木が

生い茂る古代のままの姿をしていた

ところが中世以降、杉やヒノキの針葉樹を植樹し、大木に

囲まれた神域を形成することになった

古の神宮の森とは、五十鈴川の「せせらぎの音」と、

「野鳥のさえずり」だけが響き渡る、静寂の地だった


この世には、変わらない「美しさ」もあれば、変わり行く

「美しさ」もある

どうも人間と言う生き物は、変わらないものに価値を

見出し、求める傾向があるようだ


神宮も例外ではなく、古代から変わらぬ「古のまま」を

強調したがる

ところが、人と自然が「折り合いをつけ」、協調しながら

造り上げて行く「美しさ」「価値」もある気がする


神話を「タブー視」することも愚かではあるが

神話として認知されているものに、飾り立てた「虚飾」

を付け加えて強調する態度にも問題があるように

私は感じている

「古(いにしえ)のまま」「古から変わらず」というから

それに異を唱える私のような「へそ曲がり」が出現する


神話は「日本神話」として【市民権】を与え、史実は

きちんと「あきらか」にすることことこそ・・・

神宮のあるべき姿なのだろうと

長屋の爺の暴論かもしれないが、私はそう確信

しているのである


本当のことを知ったからといって、人の心が離れる

というのも考えすぎなのではなかろうか・・・

離れる人間は神宮の本質を理解しないで「幻想」

の世界に酔っていただけであり

上辺ではない「内なるもの」が大切なのである。

                  

◎  神話を語ることの是非 

 ≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫

 2月11日は建国記念日です。そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧になられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がっていないことに気付いたのです。

 仁徳天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。

 税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。

 三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたということです。

 「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」

 そして、一緒におられた皇后に「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。

 皇后はそれを聞いて「陛下は変なことをおっしゃいますね。衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」

 すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったといいます。

 この話は神話であり、作り話であるという説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。
 こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。

 「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰してほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充ててほしい」と述べたのでした。

 それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下の手を握り、「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。

 このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。

 日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。しかし、だからといってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。
 古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家であったのです。

 私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。(原文のまま)



上記の文は愛知県一宮市立奥中学校の

岩原豊起校長が朝礼で子供達に対し

日本の伝統や国民性の素晴らしさに

ついて話した内容です

これに対して一宮市の教育委員会は12日、

岩原校長に対し口頭で注意を行い、岩原校長は

ブログを削除したという




自分達の国の神話を語ってはいけない国

自分達の国に誇りを持ってはいけない国

「ウソ」と「創作話」には大きな相違点があります

「ウソ」に未来はありませんが

「神話」には未来へ続く【希望】があります

日本の教育を蝕む「病巣」は夢を持たせない事であり

「志」を抱かせないこと

「カネ」がすべてであり、西欧主義が絶対であり

日本の良さを否定する事から始まっています

違いが判らない子供を育てる事に何の意味があるのか


この神話から「何を感じ 何を汲み取るのか」

それは子供達自身に委ねるべきなのではないでしょうか



                  

◎  長屋の爺の本質(竹島の日・信じること) 


今日は仕事の無い日

仕事を入れなかった日

「竹島の日」でもあるからだ

この日くらい、日本人が祖国、郷里、地域、隣人

の事を、真剣に考える日にしたい

そんな漠然とした理由で休みである

今月は27日も休みである

これはついで・・というか亡母の誕生日だから

昔を懐かしんで、焼酎でも呑もうと決めた


さて・・

拙ブログを何度か訪れている人はお気づきだろう

長屋の爺は「性格が悪い」

謙遜でもなんでもない、本当のことである

優しい言葉に「ありがとう」と言いながら、心の内で

真意を測っている自分が居る


やたら褒める人間は信用しない

褒められると「お尻がムズムズ」どころか

其の言葉の裏を探ってしまう

なぜなら、私自身が褒められるべき「人間」

だと自覚していないし、私も安易に他人を

褒めたりしない (正直に褒める事もある)

褒めるときは「皮肉」であったり、一種の

「突き放し」の気持ちで発する

じつに「嫌な爺」なのである

よく聞く言葉に「他人を疑うマネはしてはいけない」

この言葉は、「人の感情」を逆撫でするように

感じられてしまうから、してはいけないのだろう

その「逆撫で」するような【快感】が私には堪らない

いわゆる「変態」なのかもしれない


永年研究してきた「玄人(くろうと)」の説を、世間の

隅っこで蠢いている爺が、偉そうに反論したり、仮説

を書くなど、「性格の良い」人間には不向きである

真実の探求など後付の「タテマエ」でしかない


人間は他人の【ウソ】が暴かれると快感を覚え

喜ぶ傾向にある

その「格好の玩具」を見つけたならば、飽きるまで

言葉を変えながら「ネチネチ」と追求する


逆に自分の【ウソ】が暴かれると怒りが芽生え

言い訳を考え、だめなら「謝罪」して済ます


その防御本能が働いて搾り出された言葉が

「人さまを疑うものではありません」

なのである

ダメといわれたら、疑いたくなるのは「人情」だ

長屋の爺の「性悪」が経験則から熟成したのは

間違いないのだが、生来と言う噂も存在する(笑)


その根底には「自分」の中に、【信じる】という部屋があり

これは誰でも持っている「無意識」が管理する部屋だが

その「信じる」という観念は、理屈ではなく「意識の殻」

の中から伸びるセンサーのようなもの

上手く言えないが、おそらく「我」のDNAみたいなもので

信じたいことだけを信じる目安(基準)になっている

その範囲から飛び出した事は、「信じない」になる


この信じる、信じないは知能が高いとか、学歴・教養の

有無には関係なく、「信じたい」と思ったもの、感じたもの

だけを信じるのが「人間」なのかもしれない


アマテラスが「皇祖神」だと信じて疑わない人に

いくら「口角泡を飛ばし」説明しても、信じてもらうこと

など絶望的なのである

その人が「良い悪い」ではなく、そういう生き物だと

こちらが納得していれば、読者に阿ることも、気遣い

することも不要となる


確信的な内容のブログ記事や、個人の見解に

愚かな「反論コメント」を送りつけるのも、信じている

事と違うからなのであり

信じたいこと=ウソ=自分を否定

という錯覚に陥り、自分のウソを暴かれたような

反応を見せることに繋がる

書き手であるブログ主は、信じることを「自己見解」

として発信すればよいのであって

読者に「敬意」「感謝」をもっていさえすれば、なんびとにも

阿ることも遠慮することも、要らないという事なのである


そこから導き出されたのが、「自論は自分のブログ」に書け

という、長屋の爺の主張になっている


嫌がらせのような「反論コメント」を書く人間ほど

自分のブログを持たず、書かない傾向にある

その原因は「明日はわが身」の意識から来る

天に唾する行為は、自分の身にかかる

勇気と決断ができない者ほど、他人様のブログで、

いちゃもんともいえる言葉で、論(あげつら)うものなのだ


私はそういう人間よりも「性格が悪い」から、気にした

事が無い(笑)


私は特定の人間や組織に「傾倒」したり、「夢中」

になった事が無い

希望は持っても、期待した事は無い

期待は失望と背中合わせである

期待する事は何かを「得たい」という強い思いである

それが達成されないときに、強い「喪失感」を感じる

私は「世界一」臆病な人間だから、極度の喪失感に

自身が壊れてしまうかもしれない恐怖をい抱いている

だから用心深くなり、期待しない爺になってしまった

希望を抱くとは、「夢を見る」こと

夢は覚めてしまえば、其処にあるのは日常なので

喪失感など皆無であり、また希望を育てればよい

そういうように考える事にしている

竹島の日から大きく逸れたが(笑)

朝からぼんやりと、止め処も無いことを考えて

わけのわからない更新になってしまったが

長屋の爺の「偏屈さ」「性悪」をちょっとだけ

曝してみました・・・。


                

◎  アマテラスと伊勢大神 (三) 

【時に天照大神、倭姫命に誨(おし)へて

曰く、「是れ神風の伊勢国は、常世の浪の

重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。是の国に

居らむと欲(おも)ふ」。

故(か)れ大神の教(みおしへ)のまにまに、

其の祠(いはひ)を伊勢国に立てたまふ。

因りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴川の

川上に興(た)つ。是を磯宮と謂(い)ふ。

則ち天照大神の始めて天より降ります処なり

(「日本書紀」垂仁天皇二十五年条)



何気に流し見てしまうと、見落としてしまう

そういう文章である

ここに「重大」なアマテラス神の秘密が

残されている 

《 天照大神の始めて天より降ります処なり 》

もうお分かりだと思います・・・

歴史の通説では、大和の地から幾たびも移り

ようやく「伊勢の地」に辿り着いたという事に

なっているのだが、これを観る限りアマテラスは

天から伊勢の五十鈴川の上流に降りてきたと言い、

その時はじめて天から降り立ったというのである


大和から移ってきたのではなく、最初から宇治の

地元民の「まつり」を受けるために降りてきていた

そういう事なのである

だから・・・アマテラスという名前の神ではなく

自然神として崇拝されていた「神」だった


伊勢を訪れたことがあれば、足を向けた人も

多いと思うが、「朝熊山(あさまやま)」という山が

あり、その山の伝説にも、「天から山の頂上に

降りてきた」というものがある


《お伊勢参らば朝熊をかけよ 朝熊かけねば片参宮》


私は両参宮とは「外宮」「内宮」を指していると思っていて

まさか、ここで「朝熊山」を訪れることが参宮すること

というのに驚いている

「伊勢志摩スカイライン」を走って、標高500Mの頂上に

向かうと、伊勢神宮の鬼門を守る寺「朝熊岳金剛證寺」が

有ります

江戸時代のお伊勢参りでは、必ず金剛證寺にもお参り

する習慣だったそうだ

私はこの「俗謡」は江戸時代に作られたのではなく

古来から「語り継がれた」ものがベースになった

俚謡(りよう)だったのではないか・・・

そう思っている


【撞賢木厳之御魂天疎向津媛命】
つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ

おそらく最も長い名前の「神」さまかもしれない

あまり知られていない神様だが、日本書紀には

ちゃんと記されている神様である

日本書紀・神功皇后条から抜粋すると

「先の日に天皇に教えたまひしは誰(いず)れの

神ぞ。願はくは其の名(みな)を知りたてまつらむ

と欲(おも)ふ」

「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県(わたらいあがた)

の、拆鈴(さくすず)の五十鈴宮に居る神、名は

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」

つく とは憑依することであり

さかき は「榊」・・神棚に飾るものです

つくさかき は神の依りつく樹木を指します

そう・・「御阿礼木(みあれぎ)」のこと

いつのみたま とは尊い霊魂のこと

あまさかる は天からはるか遠くにきた

むかつ は津に向かってくるという意味

津とは五十鈴川のほとりの事でしょう


整理すれば、天から「山」に降りてきて、

みあれ木に依りついて、五十鈴川の辺に

運ばれ、川の中で「御生れ」したカミのこと


ところが「御生れ」するカミは男神である

そのために「棚機(たなばた)つ女」が

一夜妻となるのだから・・・

ではなぜこのカミは「媛(ひめ)」なのだろう

ある説によれば、そのカミの司祭者が

棚機つ女だったから「神とみなした」のでは

ないかという

どうにも腑に落ちない説である・・・。


ブログ記事   伊勢の祭神の謎

「心の御柱」とは何だったのか・・・

其の答が漠然としてではあるが、御生木に

関わっていると思うようになった


鼓ヶ岳(つづみがたけ) 標高355M

内宮から直線で1.2KMにある山

ここから一本の木を切り出したものが

「心の御柱」になる

半分地中に、半分地上に・・・

其の神事は女の司祭者(少女)と神宮の

高級神官たちによって、秘密のうちに

執り行われている

心の御柱とは、神(しん)の御柱であったという事

かもしれない

神が憑依しその後、内宮に留まっているとは

考え難いが、その「みあれ木」を本殿の下に

留める真意が見えてこない・・・

御生した神というのは、「伊勢のオオカミ」であって、

皇祖神・アマテラスではないことだけは理解できた

五十鈴川の流域には、ある特徴があって

【大神之御蔭川神】おおかみのみかげかわのかみ

を祀っている神社が多い

この地方の川には神が「みあれ」していた事を

今に伝えているのではないだろうか・・・。


                   

◎  印伝という伝統工芸 


印傳(いんでん)

羊や鹿の皮をなめしたものに、染色を施し

漆で模様を描いたもので、専ら鹿革の加工製品

を指す事が多いという

その歴史は古く、印伝の足袋が正倉院宝庫内にあり

東大寺に奈良時代の文箱が現存する

印伝の由来は、江戸時代にインドの装飾革が献上

され、インド伝来という事で「印伝」と呼ばれたという

江戸時代には各地で作られていたようだが、現在は

【甲州印伝】が残っているだけである


じつは私も幾つか所有していて、とても気に入って

いる

と言っても、「小物」程度で、高価な作品など高嶺の花

であり、店頭で眺める事しか適わない(笑)


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長屋の爺愛用の【印伝 小銭入れ トンボ】

普段は持ち歩かないのだが、出かけるときに

ショルダーバッグに入れている


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これは普段持ち歩いていて、忘れるわけに

いかない【印伝 免許証いれ トンボ】

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これも普段持ち歩く事は無いが、仕事・買い物

以外の「お出かけ用」の財布である

【印伝 長財布 トンボ】

サラリーマンをやめてから30年、二つ折りの財布

しか持たなかったが、この財布に一目惚れ「長財布」を

所有する事になったお気に入りである

長財布の利点は「ピン札」が保存できることか・・・

何かと「付き合い」で、ピン札が必要になったとき

重宝するのである

とにかく肌触りが心地よい

手にしっとりと馴染み、眺めてもよし、この風合い

は他のものでは味わえないと思う


今度は二つ折りの普段使いの印伝財布を予定している

のだが、トンボ柄がなかなか見当たらなくて、数日前も

覗いてみたが「模様違い」しか並んでいなかった


日本には沢山の伝統工芸品が存在している

知る人ぞ知る物から、誰でも知っているものまで多彩

イタリア製やフランス製のブランド品も良いのだろうが

なぜかビニール製のバッグ、財布が何万円~ウン十万

もするそうだ(笑)

日本の製品の方が「値段も手ごろ」「品質優秀」であり

それに印伝は「本革製」で漆工芸品?でもある

メイドインジャパンの価値を見直しては如何だろうか

ちなみに財布なら一万円少々で入手できる

色・デザインも豊富にあり、ちょっとだけオシャレな雰囲気

を味わえる (爺に似合わないという意見もあるのだが)

                   


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◎  寒い日の水仕事で気付いた 

この時期、おコメを研ぐと「手が痛い」

冷たい水で「手が切れそう」になる(笑)



最近、「コメを洗う」という活字を観た

え?

どうして洗うのだろうか・・・

私は子供のころから「コメを研ぐ」と教わってきた

一定方向に「コメとコメを擦りつけ」まさに包丁を

研ぐように、動かしなさい・・・と教わった

またまた、爺の”なぜなぜ病”が動き出した(笑)


結論から言うと、「コメを研ぐ」の語源は簡単である

米同士をしっかりとこすり合わせる様が、まるで

包丁を磨くイメージだから・・・「研ぐ」なのだ

だが、どんなに調べても、その「研ぐ」が使われた

時期については不明のままである


なぜ「研ぐ」という言い方になったのか?

平安時代の辞書「新撰字鏡」によれば

【 濤米米加須 】とあり、「米をとぐ」意味だという


「米をかす」と言う言い方がある

「澵す」という字を充て「米を研ぐ」ことである

ところが、中部地方から関西・中国地方では

「かす」とは、米をとぎ水に浸けることの意味

なのだそうだ

そういえば私の田舎では「うるかす」という言葉

があって、「物を水に浸し水分を吸い込ませて

柔らかくする事」の意味で使っていた

「潤・かす」とは、「水分を含んで、生気を帯びる」

事なのだろう・・・たぶん


平安時代頃は「かす」というのは、「研ぐ」ことを指し

その後、「「研いだ後、水に浸す」までを「かす」と

言ったのかもしれない


米や麦を蒸したりして「飯」にすることを

【炊く(かし・く)】という

「かし」とは、「焚く」ことによって、「食べられる」

状態にすることでもある


研ぐは「解く・溶く」からの転なのか?

固まっているものが液状になることであり

固いものを「ほどく」、「とかす」と言う意味でもある

もっと飛躍して、「斎(とき)」からの変化であれば

「食事」「食」のことでもある


おそらく、「研ぐ」という言葉は、室町~江戸期に

武士社会から発生した言葉に感じる



「米をかす」「米を研ぐ」という素敵な言葉が

ありながら、「米を洗う」という無味乾燥な

言葉にされては、何とも残念で仕方が無い


おそらくどの料理本にも、「米を洗って」という

記述になっているのだろう・・・

残していかなければいけない「言葉の文化」

親から子へ、子から孫へ

失ってはいけない「日本の文化」である古き言葉を

次世代の日本人の胸に、刻まれることを願いたい

                  

◎  江戸は誰が名づけた・・ 

風邪の具合が最悪・・・

喉の痛みがちっともなくならない

肘の具合も同じ状態、「テニス肘」らしい

ポンコツだから仕方が無いのだが・・・


江戸

何気なく当たり前のように使う「江戸」という言葉

どうして江戸と言うのか?

爺のくだらない疑問の虫が動き出した(笑)

ウィキによれば、

「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が

史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した

地名であると考えられている。

地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、

戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える

説が有力である

11世紀に秩父氏から出た平重継(江戸重継)は、

江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、

江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す

と記されている


さて・・・どう考えればよいのか

平安という時代が本当なら、「良い場所」という

意味合いで「吉土(えど)」「恵土(えど)」だろうか

鎌倉以降なら「衛努(えど)」「衛堵(えど)」

「枝徒(えと)」だろうか・・・

誰かが名づけたのだろうが、その真意までは

分からないのである


「え・と」、え(兄)と(弟)の意味である

「え」とは、お前(相手)を表したり、できるという

意味もある

「と」は動作の相手を表すとされ、~と共に

などの意味である

飛躍すれば、 貴女(貴方)と共にとなる


さらに「と」は【外】でもある、都から遠く離れた地は

政(まつりごと)の外、都から遠く離れた未開の土地

に暮らす者たちの領地であった

秩父氏という中央政権から外れた貴族の末裔

腐敗と陰謀の渦巻く京から遠く、穢(ゑ)の外(と)

にあやかった、なんて言うのも面白い・・・。


徳川家康は1590年、小田原攻めの論功行賞で

北条氏の旧領を基に伊豆・相模・武蔵・上総・下総の全域

、上野の大半及び 下野の一部を、居城を江戸城と

することが秀吉によって決められた

秀吉は徳川家康をどうして江戸の地に留めたのか?


私は「えど」だったからではないか・・・

そんな思いがしている


本来は「政治的」「軍略的」理由からだとは

思うのだが、秀吉の心の中に「厭離穢土」の

旗印が浮かんだのかもしれない


穢土=江戸


小田原でもなく、鎌倉でもない・・・江戸

小田原氏の「後釜」としてではない事を露骨に

表している

秀吉が家康の潜在能力を過小評価していたか

これがあったからこそ、家康の「全国統一」が

成し遂げられた可能性もある

塩分が強く「飲み水」すら乏しい「江戸」の地に

家康は「厭離穢土 欣求浄土」の思いを

膨らませたのかもしれない




平安時代以前にこの地を「エド」と名づけた者

エドは蝦夷(えみし)の支配地の入り口であり

蝦夷の地への入り口(戸)、夷(い)戸(と)だった

私には平安よりずっと以前に、そう呼ばれていた

ような気がするのである。

                  

◎  アマテラスと伊勢の大神 (二) 


いこま山 手向はこれか 木の本に

 岩くらうちて 榊たてたり
    源兼昌


神山に 天の岩舟 漕ぎよせて 

繋ぎそめしも わが君のため
  賀茂氏久


久かたの 天の岩舟 漕ぎよせし

神代の浦や 今のみあれ野 
 賀茂遠久


葵ぐさ とるや御蔭の 山辺には 

月の楓も ことにみえけり 
   藤原清輔


そのかみの 御蔭の山の もろは草 

長き世かけて 我やたのまむ
   中原師光


契りをきて くもらぬの みかげ山 

むかしの跡ぞ 今もかしこき   
   藤原為家


和歌の話を書こうと言うのではありません

神の降臨、御生(みあれ)について、直接・間接に

ふれている歌を拾い集めてみたのです


伊勢を考えるには、古代祭祀の状況を幾つも

検証して、拾い集めるのが近道だと思います


御生山(みあれやま)は比叡山の南、御蔭神社の

背後に聳える小高い山を指し、古の時代では

「御蔭山(みあれやま)」ともいった

双葉葵の植生するところから「二葉山」ともいう

かの司馬遼太郎の著述には

「今の比叡山麓に、御生山(みあれやま)という小

さな岡がある。 八咫烏は、この岡のうえに住んだ。

八咫烏を祭神とする御蔭(みかげ)神社という名の

古社が、その岡に残っている。

京福電鉄三宅八幡駅の東北にある」

「八咫烏は、建津身命(たけつみのみこと)という、

もっともらしい名前までつけてもらっていた」

(今回は「八咫烏」については言及しないです)


なぜ御蔭山・・・・について、書くのか?

平安時代、「祭り」といえば「葵祭」を指したという

正式には「賀茂祭」といい、賀茂御祖神社

(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で

5月15日に行なわれる例祭で、石清水八幡宮の

南祭に対し北祭ともいうそうだ

その葵祭の前日に執り行われるのが、御蔭祭である

そもそもこの祭は「御生神事」と呼ばれる行事だった

それが明治になって。「御蔭祭」と改名された

上賀茂神社の本殿にはカミの坐はあるが、カミは

居ないという、つまり「空っぽ」なのである

その訳が今回のテーマになる


本殿の裏手にある山を神山(こうやま)と呼ぶ

別名・賀茂山という神聖な山のことだ

人々が拝殿から本殿を観て拝礼すると

この神山を拝むことになるという

(まるで、三輪山と同じ状況なのである)

その賀茂祭の前祭・御蔭祭の神事が前回の

ブログ記事と酷似しているのである

簡単に説明すると・・

《 カミは山の頂から、神山を伝わって、麓の

「御阿礼所」と呼ばれる聖域に下りてくる

そこには「御阿礼木」という樹木が用意されていて

カミがその気に依りつくと、人々は御阿礼木を

加茂川の川辺まで引いていく(みあれ引き)

川辺に着くとカミは木から離れ水の中に・・

そのとき「斎王(いつきのみこ)」が川に入り

カミを河中からすくい上げ、斎王はカミの

一夜妻となる》

賀茂神社とは、古くからこの地に住む豪族

の「賀茂氏」が、【雷】であるアマツカミを

祀っていたという事なのである

社殿が造営されたのは後世の事で、当初は

磐座だけがあり、その前に「御榊」が置かれ

原始信仰の形式だったと考えられる

こういう形式と言うか、「祭儀」を【磐座祭祀】と

呼ぶのだろう

その後、磐座(いわくら)や拝殿、鳥居だけの

簡素な形式に変化したと想像でき、最期に本殿が

創られ現在の形に近くなったと思っている

磐座が中心の「磐座祭祀」から、「本殿」を中心

とした現在の「神社祭祀」に様変わりした

漢字で尤もらしい名前のカミも、その本性は

自然神「雷」であり、カミ・ナルから「かみなり」

になったのかもしれない

カミ・ナルは本来は、カミ・ノルではなかったか

石の舟に乗って降りてくる神

石の舟に「ノル」カミであるから、というのは

少し飛躍しすぎかもしれないが・・・

この「御蔭神事」の所々に、古代の磐座祭祀の

痕跡が残されているのである

もう少し両「賀茂神社」、賀茂祭を調べてみたい

(続く)

                   

◎  アマテラスと伊勢の大神 (一) 

何処から書き始めてよいのか

何度か「伊勢神宮」と「皇祖神・アマテラス」に

ついて書いてきたが、私は「アマテラスは、天皇家

というものを確立される為に「創られた」神だと

信じて疑わない

私は天皇制を否定するつもりもないし、皇室を

冒涜する心算も無いが、日本人が日本を知らない

という事に、我慢が出来ないのである


アマツカミ(天つ神)とは、天空に住む霊魂という

日本中の何処でも、昔から祭っていた「普通の神」

がアマツカミだった

天つ神とは何なのか・・

それは大空の自然現象であり、日・月・風・雷・雲だ

天つ神とは、日の神であり、月の神であり、風の神でも

雷の神でも、雲の神でもあったのだ

伊勢の大神というのも、そういう普通の神だった


日本書紀には「虚実」がちりばめられている

その断面を切り取って「つなぎ合わせる」ことが

古代史を知る手立てであると確信している

理に適う検証、論理的に説明のできる推論

それが出来るかどうか・・・


「日本書紀」 敏達天皇六年の条に、こう書かれて

いる 【 詔して日祀部を置いた 】

この時点で、天皇家は「太陽」そのものを崇拝していた

そういう意味なのである

天皇家は「日まつり」を行っていて、まだ祖先神として

のアマテラスは存在していなかった

敏達天皇六年とは西暦577年だ、六世紀後半には

天皇家は「太陽」を崇拝し、「日まつり」を行っていた

皇室の祖先神はこの後に誕生した事になる

ではこの「日祀部(ひまつりべ)」は何処にあったのか

それは現在の奈良県桜井市の北、他田(おさだ)で

現在の大神神社のある所なのです


以前、私は大神神社の「御神体」は三輪山であり、

本殿が無く、拝殿があるだけと書いています

さらに、不思議な事に拝殿を拝むと、その先には

三輪山ではなく、三輪山の中腹を拝む格好になる

そう記しました なので・・・

拝ませないようにしたのか? という疑問が湧きました


ところがこの事実を知って、大神神社の祭神は三輪山では

ないかもしれない、そんな考えが脳裏を過ぎったのです


早速地図で確認したら、確かに三輪山は拝殿より

少し南にずれていて、北斜面の方を拝む形になる

その拝殿の先は真東方向、太陽が昇る位置になる

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三輪山の頂上・山腹・麓には、「目立つ岩」があり

古代人はその岩を伝って神が降りてくると信じた

そうである


【神の出現】

カミは大空を舟に乗って駆け下り、めざす山頂に

到着する

そこで人々が前もって用意しておいた樹木である

御蔭木(みあれぎ)に霊魂が拠りつく(憑依)

人々はその拠りついた樹木を、川のそばまで引いて行く

(御蔭引き)

川の辺に御蔭木が到着すると、カミは木から離れ

川の流れに潜り姿を現す(幽現)

カミの誕生であり、この状態を神の御蔭(御生みあれ)

と呼ぶ

カミが河中に出現するとき、カミをまつる巫女である

棚機つ女(たなばたつめ)が、川の中に身を潜らせ

御生をするカミを流れの中から掬い上げる

そして・・・そのカミの「一夜妻(ひとよづま)」となる


これは伊勢だけではなく、日本各地で普通に一年に

一度行われていたという

当然、伊勢の五十鈴川上流の宇治でも行われていた


伊勢の大神は持統天皇の時代までは、毎年決まった

場所に降臨する「天つ神」であり、天空の自然神だった

のである

《宇治(うじ)という語源も、アイヌ語に残る「ウシ」で

意味は決められた場所を指す「~するところ」、

「~につく」だと私は思う》

 (つづく)

                   

◎  近況という名の言い訳 

ここ数日の雪・霙(みぞれ)の中

真面目に仕事した結果、風邪気味である

花粉症も若干出てきたか・・・

おかげさまで、鬱は未だ大丈夫・・・

ところが、正体不明の右ひじの痛み・・・

ぶつけたわけでもないが、箸を動かしたり

マウスを操作すると痛みが走る

昨日は大事をとって早めの就寝だった

まだ痛みがあり、どうしようか思案中

「筋違い」であれば、そのうち良くなるだろう


今気付いたが、キーボードを打つにも頻繁に

打てていない個所があり、自分の腕ではない

そんな印象である

元来、痛みには強いというか、わりと痛みと共存

出来る体質?なので、動かせれば問題なし(笑)



私の父は「碁」は打ったが、「将棋」は指さなかった

一度だけ聞いた事があったが、元軍人であったから

なのか、「相手の駒(捕虜)を自軍として使うなど、邪道

だ」 と・・・

故に我が家には「碁」はあったが、「将棋」は無かった

それでも子供のころは他所で、将棋を覚えたものだった

社会人になってある人から、「碁」の手ほどきを受けたが

積極的に向き合うことなく、今に至る・・・

最近「碁」を始めてみようかと考えている

「ザル碁」未満の「初心者」だが、一から学ぼうと

決意した(笑)

とりあえず周囲を見渡したが、本も読まない奴ばかり

将棋や碁の趣味があるなど有り得ない連中だ

暫らくは解説書片手に「独学」をする

毎日「ラーメン」ばかりでは飽きてしまう

当然、読書ばかりでは「鬱々となる」

頭のリハビリと気分転換をかねて(笑)

精神修養にもなるのか?

強くなるなどという無謀な考えは持っていない

何か「変えなければ」、「変わらなければ」

そんな獏とした想いである

ゴールに向かうには、まだまだ「勉強」である


琢かざれば、器を成さず

  人 学ばざれば、道を知らず


   (長屋の爺の座右の銘)

                  

◎  「江戸しぐさ」の真っ赤な嘘 その三 


「江戸しぐさ」は1981年8月28日付

読売新聞の「編集手帳」において、最初に

現れた言葉であった

「江戸のよさを見直す会」の研究テーマの

一つに「江戸しぐさ」なるものが紹介されている


その後、【芝三光】と言う人物は、読売新聞を

舞台に普及活動を行っていったようである

しかし、その中で「江戸しぐさ」に対する具体的な

説明も無いまま、その効能だけを紹介して

いたというのである


生前の芝氏に弟子入りをした【越川禮子】氏という

人物が、現在の「江戸しぐさ」の形を作り、広めたと

言われている

越川氏も読売新聞のコラムである「編集手帳」を観て

新聞社から図書館の書籍へ、その書籍から「江戸を

見直す会」に辿り着き、弟子入りしたとされる


「江戸しぐさ」は芝・越川氏の創作ではないかと言う

質問に、何と彼女はこう述べたと言う・・

 「”神”より”紙”を信用する日本人が多いのは困ったもの

”江戸しぐさ”がフィクションなら私はよほどの天才ですよ。」 


そう・・・まさしく越川禮子という人間は”天才”であった

いまの教育界に根を下ろした「捏造」の江戸文化の歴史を

ここまで実しやかに拡散したのは、天才的である。


芝氏が「まいた種」は芽が出るのか、花が咲くのかも知れぬ

曖昧な概略だけというか、思想や願望の世界の産物で

あったものを、現在の「オカルト」に近い、虚説によって

武装した「江戸文化」「江戸しぐさ」は、現実から大きく

乖離した越川氏の「生み出した」架空の伝統である。



【七三の道】

江戸っ子たちは道路の七分目は公道とし、自分の

道は三分目と考えていた

こうして道をあけておくことで、いざというときにはいつでも

けが人を戸板に乗せて運ぶ人も、急ぎの人も気兼ねなしで

往来できる


「なるほど」と思った人は、江戸の町の現実を知って

欲しい

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江戸の人口は100万人とも言われている

その殆んどが江戸城の南にひしめいていた

生き馬の目を抜くとされる「江戸の町」

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「物売り(行商)」は左右の何処から「声をかけられ」

ても良いように、道路の真ん中を「振り歩いた」

右側を歩いていて、左の店から声がかかったら

通行人を横切るように動かなくてはならない

それこそ「無駄」であり、「ぶつかる危険」があって、

理屈に合わない話だ

現代では「路上駐車」で緊急自動車が通れない

道路もあるとか・・・そういう現代に対する「理想論」

であり、「希望」でしかない


【駕籠(かご)とめしぐさ】

駕籠に乗れる身分になっても思いあがっては

いけない ふんぞり返って乗るようなことは止め

、人様を訪ねたときにも、”おかげさまで、こうして

お駕籠に乗せていただけるようになりました”

といった気持ちをもって、目的の家の少し手前で

止める。 けっして乗り付けるようなことはしない。

これが「駕籠とめしぐさ」。謙虚な振る舞いだ。



笑ってはいけないが・・大笑いである。

江戸は間口が狭い商家・住宅が並ぶ

そんな江戸の町で、手前で駕籠を止める

という事は、「他所さま」の店(家)の前に

大層な駕籠を止めるという事だ

「はた迷惑」もいいところである

それに「駕籠」と言っても、江戸の町人は

徒歩が常識、駕籠に乗るのは「女性」「老人」の

ような体力の無い人が専ら利用したり、急用で

乗る場合が多く、当然店先、玄関先に乗り付ける

物なのである


もうひとつ・・・

【後引きパン】

江戸には後引きパンという大人気の

黒砂糖入り(上等な物はショコラ入り)の

おいしいパンがあった。

食べ終えたあとに、もうひとつ食べたいと

思うので、あとひきパンと呼ばれた。




嘘もここまでくると、頭が痛くなってくる(笑)

たしかに日本には宣教師によって、西洋の

パンが伝えられたが、16世紀「バテレン追放令」

によって、世間から忘れられてしまった。

それが再び注目されたのは、明治時代になって

からで、木村屋總本店の「アンパン」からである

ましてショコラなど、西欧においてすら16世紀に

広まった食べ物であり、ショコラが菓子類に利用

されたのは19世紀になってからという

そんなものが江戸時代に日本で「食べられた」とは

大嘘と言うしかない・・・。


江戸しぐさが悪いと言う心算は無いが、これを

日本の江戸で実際に使われていたなど、「虚説」

であり、こんなものを子供の教育の一つとして

教えることが許せないのである

                  

◎  徳川家の菩提寺に行ってきた 

今日は朝から神社仏閣に出かけようと

予定していた

あくまでも予定で、未定だったが、起きたら

車が真っ白に凍っていて、寒いのなんのって

断念しかかったが、せっかくの休みでもあり

昼前に支度をして、出かけることに・・・

昼前の時間からでは、伊勢神宮に行くと

帰りは夜になる・・・という事で却下

熱田神宮にでもと思ったが、何度も訪ねている

ので、新鮮味が無いので却下

豊川稲荷は行ったことが無いので、いいかもしれ

無いなどと考え、おそらく夕方までには帰宅できると

一応候補地に・・・

う~ん 車が込んでるので、気持ちが萎えてきた(笑)

車の中にメモが・・・「徳川家康没後400年」

あぁそうだ・・・そういう手も有るか

日光は遠すぎ、久能山は帰宅が夜中になる

という事で、徳川家の菩提寺に行くことに決定

道路も意外と空いていて、絶好のドライブ日和

でした



成道山松安院大樹寺

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              《 大樹寺三門 》




大樹寺は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたとき、

大高城から大樹寺へ逃げ帰えった場所と言われていて、先祖の

墓の前で自害を図ろうとした家康を思いとどめさせたたのが、この

寺の住職 登誉上人で、厭離穢土 欣求浄土の教えを説き、自殺を

思い止まらせたという


厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)

戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、

国土が穢れきっている。

その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、

必ず仏の加護を得て事を成すとの意味である

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             《 大樹寺由緒 》


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             《 三門と前の道路 》

ご覧のように前の道路は、アスファルト道路ではなく、

片側一車線の【石畳】であった

ゴツゴツとタイヤの音が響き、明らかに「異世界」を

感じる雰囲気だった

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            《 三門から本堂を臨む 》

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               《 本堂 》

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              《 三門脇の碑 》

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               《 手水舎 》

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             《 手水舎にも葵の紋 》

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瓦など、いたるところに【葵の紋】が彫られている
当然と言えばそれまでだが・・・

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        《 子安地蔵尊 》

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           《 子安地蔵の横にある 人形供養塔 》

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         《 鐘楼 現在の鐘は9代家重改鋳の二代目 》

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            《 多宝塔 重要文化財 》

今回初めて訪れたのだが、一番の目玉は

ビスタラインと呼ばれる景色だ

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          《 三門から南を臨むと 小学校の中に総門が・・ 》

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          《 三門から南の総門を臨む その先に・・ 》

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         《 総門の彼方にぼんやりと・・・岡崎城の天守 》 

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 今回 ぜひ見てみたかった景色の一つで

以前テレビか何かで、ロケしていたのを覚えていて

今日実際に、カメラ越しではあったが目にできた(笑)


もう一つ、意外な物を発見した・・・

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                 《 豊国稲荷 》

徳川家康の菩提寺の敷地内に【太閤秀吉】が

祀られていた・・・・

祟らないように、災いが降りかからないように

祀ったものだろうか?

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         《 供養塔か? 》

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     《 よくわからない石像 》

岡崎城は何度も訪れているが、この寺は今回

が初めて、意外と整備されていないと言うか

徳川家菩提寺にしては手入れが・・・

日光東照宮や久能山を比較してはいけないの

かもしれないが、菩提寺=洗練されている

そんな先入観だったので、ちょっと拍子抜けしてしまった

次回は、未だ行った事が無い「豊川稲荷」でも足を

伸ばそうと計画している。

                    

◎  話しの語源を考えて 


何気なく 当たり前のように使う言葉

起きてから寝るまで、私以外の人はきっと

誰かと話をするのだろう・・・


大丈夫です・・

今のところ「鬱」の症状は出ていません

これもブログのお蔭かなと思ったりしています


ふと 長屋の爺は気付いたのです

「話」、「話し」って普通に言ったり書いたりしてますが

何で 話し って言うのだろうか?

普通に考えれば、「わ・し」としか読まない字である

漢字が普及してから、「はなし」と言うのなら

それまでは「話す」ことを何と言っていたのか

どう表現していたのだろう・・・


何処にも書いてないし、当たり前のように

人が会話する事を「話す」ということになっている

漢字が入ってくる前は、話しはしなかった?

そんなことは無いだろう・・と思う

漢字が入ってくる前に、「はなす」という言葉(音)が

有って、それに会話の「話」を充てたのではないか

長屋の爺はそう思ってしまった・・・本当に

だけど、調べようが無い

こんな「どうでもよいこと」に時間を割くのは

長屋の爺のような「変人」しかいない、という事は

他にいるわけ無いという結論になった(笑)

でも爺の「おつむ」の程度ではかなり無謀だ

これを思いついたのは、正月である

かれこれ一月以上悩んでいる(泣)

先ほど大吟醸を飲みながら、ハタと閃いた

「はなし」の語音に近い言葉がきっとあるはず

調べてみたら・・・ありました

ハワシ  これは「言う」というアイヌ語です

説明するまでもなく、ハワシ →→→ ハナシ

「言う事」「おしゃべり」「報告」「相談」「会議」・・・・

そういう動作をは古代では「はわし」と言っていた

(あくまでも長屋の爺の妄想でしかないので注意)

中国ではそれを「会話(かいわ)」と呼んだのかも

しれない (爺には解らないが・・)


語源の通説では、「雑談」のことを話すと言い

心事を放すという意味から「放す」が語源という説

もあるという

尤もらしい「禅問答」のような説である


「はわし」も発音が現代とは微妙に違っていたかも

しれないが、人が言葉を交わすことを「はわし」から

「はなし」と変わり、漢字の「話」を充てたと思いたい


そう、この「ブログ」では、結論などは必要ない

どう思うか どう解釈するか それで納得できたら

十分なのである

私の中で、「話し」の語源は、「ハワシ」であり、後に

漢字の「話」を充てたと思うことにします。

(他所で自信たっぷりに言わないほうが無難ですョ

あくまでも自己責任で・・・)


余談ですが・・・

倭(わ)という文字は中国では「従順な」と言う意味だそうだ

魏志には「俀」と書かれていて、「倭」と「俀」が同じ語なのか

不明だとも言う

「俀」 はタイと読む 訓読みは「よわい」

本来なら「わこく」ではなく、「たいこく」と読むのが

当然だったのである

どこで「わこく」になってしまったのか、「和」ありきの

強引なこじつけであった可能性も否定できない

「魏志倭人伝」だと思っていたら、「魏志俀人伝」だった

だれもそのことには触れないのが「歴史学会」という

世界なのかもしれない

                   

◎  神社もどきと建国記念の日 

 受験シーズンに合わせ、神戸市中央区の「神戸どうぶつ王国」に、

木から落ちることのないナマケモノにちなんだ展示ブース

「ナマケモノ神社」が登場し、来園者が手を合わせて願っている。

 ナマケモノ神社は「なまけてても落ちない?!」をキャッチフレーズに、

3月末までの期間限定で開設。職員らが展示ブースに鳥居や本坪鈴

などを設置し、神社風に改良したという。

 飼育されているのは、雌の「タムタム」と雄の「ムイムイ」。

止まり木につかまり体を丸めて眠ったり、リンゴを食べたりと

のんびりした2匹に、学生らが手を合わせている。

 同市須磨区の高校2年、村上朋香さん(17)は「部活の関西大会

が開かれるので、良い結果が出るようにとお願いしました」と笑顔で話した。



【本坪鈴(ほんつぼすず)とは、神社の拝殿に紐で吊り下げられている

大きな鈴の事である ここから「鈴木」姓が生まれたとも言われている】




この記事を読んで何とも複雑な思いである

神さまや神社に親しむのは結構な事だが

誰かが聞いたら「神様を何と心得る!」

「神社を冒涜するのか」と、お叱りを受けそうだ


この記事の中で私が一つだけ不愉快に思ったのは

「なまけても落ちない」という発想で、神社風に改良

したという事なのである


神社形式であろうと無かろうと、手を合わせることに

異論は無いが、「若者に精進・努力」ではなく、怠惰を

推奨するが如き発案は如何なものだろう・・・


これが倫理観・道徳観の希薄な「現代風」なのか


楽しければよい、楽して益を得る

汗することの大切さを失うと、お隣の国のように

なってしまうだろう

「そんなに難く考えなくても・・」と言われるかもしれない

しかし・・・

緩く楽に、おおらかに物事を考えて来た結果が、今の

日本の現状であることも事実である



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今日は「建国記念の日」である

建国記念日ではない

建国記念の日である

昔は「紀元節」と言ったそうだが、これは神武天皇

が即位した日という事らしい・・・

神話の中の天皇は、架空の人物であるともいう

天皇の記念日なら、天皇誕生日があり、国という

「しばり」で考えれば、日本が出来たのは「何時」か

という視点から考えるべきだろうと爺は考えるのだが


それが曖昧なままに、記念の日などと理解できかねる

休日では、「単なる休みの日」としか国民は思わないだろう

他国であれば、「独立記念日」であったり、正式に国として

「国家樹立」を宣言した日などを、その日に定めている


日本が「植民地」になったことが無いというなら、倭国が

「日本国」となった(宣言した)日を、建国の日として

定めるべきだと私は思う・・・

国民の目線から、国民の立ち位置から考える「建国」

それは天皇家の起源などではなく、あくまでも「日の本」

が産声を上げたときが、最も相応しいと思うのだ

「それは何時か?」

自慢じゃないが、長屋の爺は知りません



10世紀の【旧唐書】には、日本と倭を区別して記述していて

「日本はもとは小国であったが、倭国の地を併合したとも言う」

そんな記述が残されている

11世紀の【新唐書】には、「日本は昔の倭奴国である。・・・後に

やや漢字を習い、倭の名を嫌い、新たに日本と号した」とある


倭奴国とは金印で知られる「わのな」と言われている国だ

私はこれは「倭の奴(わのな)国」ではなく、「倭奴(いと)国」

だと思っているが、その根拠でもある新唐書の記述である


ある解説にはこんな事が書かれていた

【日出処天子(太陽がのぼる東の方の国の天子)

といったことなどから、やがて日本という国号(国の呼び名)

が生まれてきました。

日本、つまり日のでる本の国というわけでしょう】

さらに・・・・

【日本という国号を正式に使ったのは大化の改新のときで

、この頃でも日本と書いてヤマトと読んでいたようです】

説明のようで説明になっていない・・・(笑)


その大化の改新の時というのも、天武朝以降の藤原氏の

「史書」によって知られたのであり、「にほん」ではなく「ヤマト」

だったという理解しがたい解説である


日本を国号に定めたと言う「大宝律令」は701年発令という

時の天皇は文武天皇(持統天皇の孫)、藤原不比等の全盛時

であり、これが真実であるなら「藤原不比等」が日本と定めた

と言っても過言ではないだろう

がしかし、その大宝律令ですら、記述に矛盾点や不合理な

部分が多く、後世の加筆・改竄も指摘されている


「にほん」と言う国の名は何時から使われたのかさえ定か

ではないのに、「日本」という漢字で考える事に言いようの無い

モヤモヤ感を感じてしまう

何を基準にするにせよ、「記念の日」などという

曖昧模糊な表現の休日は勘弁して欲しいと思う


時間は流れていて、「その時」も動いている

何処を切り取るかだけの話であり、物差しは一つに

決めたほうがよいのではないだろうか

学校や会社に創立記念日があるように・・・

                   

◎  アマテラスの語源と天皇家 

天照大神

ご存知、アマテラス神のことであるが・・・

これを小学生に読ませると、おそらくは

上手に読んだとしても、この文字であれば

「あまてる おおかみ」 と読むような気がする

いや、そう読むべきなのだと長屋の爺は考える


私は今の日本人は「漢字脳」で物事を解釈する民族

「中華脳」の信徒でもあると常々思っている


日本人はいつからか「どんな漢字だった?」といい

「どんな言葉(音)だった?」と思わなくなったのか

音で考え、響から想像し、意味を考える事をやめて

しまった「ヤマト民族」が悲しい・・・


さて、本題に戻そう・・・

【アマテラス】が先か、【天照】が先か・・・

漢字ができた後に神様が誕生したなら「後者の説」で

その言葉(音)があって「文字」を当てたなら「前者の説」

ということになる

後者の説であるとすれば、明らかに都合のよい神を

漢字が普及してから、創作したことになり

前者であるならば、古代の人が日常的に呼んでいた

神様の名前という事になる

古代では「天(あま)」や「照(てる)」という「音」の

(それに近い)言葉が実際に使われていたという

事になる


これからは、長屋の爺の妄想である(笑)

アマ・テル アマ・テラス という言葉で呼ばれた神

【アマ・トゥス】

「アマ」 とは、~する(行為)、~しておく、置く、脱ぐ

「トゥス」とは、巫術(ふじゅつ) 

そういう意味の「アイヌ語」である


アマ・トゥス→アマ・トス→アマ・テス→アマ・テラス

かなり強引であるが、 【巫術をする】 という意味である

その言葉に「ト」を加えて【アマ・ト・トゥス】

太陽(日)の巫術をする

そういう意味になるのだが・・・


「アマテラスは日本中の何処にでもいた」

そういう「口伝」もあるという

アマテラスは太陽に仕える「巫女」だった

そういう事では無かったかと考えている


では冒頭の「あまてる」はどう考えるべきなのか

アマ・トォル→アマ・トル→アマ・テル だったか?

トォル とは、火の神の垢(炉の中の灰)のことだ

日=火 でもある

アマとは、~する(行為)、~しておく、置く、脱ぐ

日の神が寄り代である炭の垢を脱ぎ捨て昇華する

その状態を連想した

祭祀において「日の神」が宿る木(炭)が燃えて

後に残った「灰」を祭壇に供えたものか・・・

その「灰」がまるで神さまが皮膚を脱いだ「垢」

のように感じたものではないだろうか



古代縄文の民は、太陽神・アマテルとその神に

仕え、巫術を駆使する巫女・アマテラスをきちんと

区別していたのだろうと考えている



その古代伝承を都合よく利用したのが、持統天皇

という女帝だった

祖神が女性であり、太陽神だったという歴史は

自らの存在を正当化し、「天孫降臨神話」によって

自分の孫を天皇位につける正当性をも演出した


それまで伊勢の地に鎮座していた「太陽神」を

押しのけて、持統朝から始まる「女性太陽神」を

皇祖神として創作したのかもしれない

伊勢に行幸しない「天皇家」とは、本来の太陽神

を封印し、その「守り役」である「日の巫女」を神と

して祭り上げたものだったから、遠くから遥拝して

も近づく事を避けていたのかもしれない。


(いつかは「大神」についても考えてみたい)

                  

◎  「江戸しぐさ」の真っ赤な嘘 その二 

「江戸しぐさ」を虚説というのが正鵠を射ているか

私には自信が無いが、「発明」とか「創作話」と

いうなら、これは正鵠を射ている言葉だろう


前回の「こぶし腰浮かせ」で、江戸にもベンチの

ようなものがあったけど・・・という反論

たしかに「茶店」といわれるようなところにも

ベンチ状の「縁台」は存在した

ところが縁台とは「腰掛」であって「テーブル」でも

あったのだ

お茶と団子を注文して、こぶし一つの「空間」に、どうやって

皿と茶碗を置くというのか?

それとも江戸時代では、客は熱い茶と団子の乗った皿を

膝の上に置いて食べたとでも言うのだろうか(笑)

右手に茶碗、左手に団子の皿で、どうやって食べたのか

小学生でも理解できる現実が其処にある。


【傘かしげ】

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 《雨や雪の日、道路ですれ違うとき、相手も自分も

傘を外側に傾けて、一瞬共有の空間をつくり、さっと

すれ違う。お互いの身体に雨や雪の滴がかからないよう

にするとともに、ぶつかって傘が破れないようにする

実務的な意味も含んでいた》 



とても理に適った所作(仕草)に思えるのだが

現代の傘を基準にすれば、こういう発想になる

のかもしれない・・・

まず江戸時代の「傘」というのは、唐傘(和傘)で

庶民の手に入るような「安価」なものではなかった

どうしても私達は、「傘」=コンビニ傘を連想するが

おそらく当時の傘は高級品だったと考えて良いと

私は思っている

江戸末期になってようやく、傘が庶民にも手に入る

というか、普及したと言われている

高級品だから、傘の紙を張替え、リサイクルしていた

だろうし、内職にするにも「それ相応の単価」だった

から武士の内職だったという事なのだろう

傘は「大店(おおだな)」と呼ばれる商家の宣伝用に

屋号と番号が書かれた「番傘」が主体で、「蛇の目」と

呼ばれるお洒落な物は、金持ちの持ち物だった

時代劇ドラマのように、誰彼なく使っていなかっただろうし

私の知る限り、江戸の庶民の多くは「蓑傘(みのかさ)」が

雨具であったと思っている


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そして・・・和傘の特徴は、自ら開き・閉じる構造で、雨風の

状況では「窄(すぼ)めて」使用したと思っている

現代の傘は閉じると濡れた面が「表」に出るが、和傘は

濡れた面が内側に隠れてしまう構造である

乾し方ひとつとっても、大変な道具だった

和傘は扱いを慎重にし、大事に使っていたと思って

間違いないだろう

つまり、風で「きのこ」になっては、大損失なのである

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普段から傘を全開にせず、からだがぬれない程度に

開いて使用していれば、傾げる必要など無くなるわけだ


江戸時代では傘を「店内」や「家内」に持ち込む事はない

当時の玄関先は「三和土(タタキ)」と呼ばれる土間で

しっかり突き固めてられていて、埃がたたないように

なっていた

「土をたたき固めた」から、タタキというわけで、そんな場所に

滴(しずく)が垂れるような傘を置けば、土間がぐちゃぐちゃ、台無し

になってしまう

つまるところ・・・

「傘かしげ」とは、その土間に向かって傾けるのだから

通り沿いの商家はたまったものではない

そんな「仕草」が江戸商人の行動哲学であるはずがない

早い話、非常識も甚だしい「所作」という事になる


傘かしげという行為は、お互いに暗黙のルールが存在し

同意していなければ、滑稽な姿になってしまう

片方が傾げて雨を浴び、相手がそのままだと相手の傘

から落ちる水滴も同時に浴びる事になる(笑)

それなら最初から、どちらかが遠慮して「譲り合って」交差

するのが合理的である

同時に行き交う必要など全く無い話ではないだろうか

それに関連して、「肩引き」という仕草も「江戸しぐさ」だと

いわれている

【肩引き】

 《狭い道路や路地、または込み合う道路で、前方から

人が来たとき、お互いに右肩をいて、身体全体を斜めに

し、胸と胸を合わせるような格好ですれ違う》
 
 

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 どうやら「江戸しぐさ」というのは、他人同士が同時に

同じ事をすることが「重要」というコンセプト
 
があり

江戸時代では・・・という事より、現代の東京ではという

発想から創られているとしか思えない

前から人が来て、すれ違うのが困難なら、どちらかが

待っていれば済む話であり、何が何でも交差する必要は

何処にも見当たらない・・・。


総ての基準が現代の東京を想定して、作り出された

「奨励する所作」というのが本当のところではないか

「江戸しぐさ」が「江戸商人の行動哲学」であるなど、

大嘘である事がバレバレなのである。

もう一つ・・

「江戸しぐさ」は、平等と共生の哲学だという

その平等思想については、「尊異論」「三脱の教え」

で語られている

【尊異論】

 《有能な番頭は顧客のニーズを数だけでなく、質で

とらえ、商品を仕入れた。たとえば”これが売れている”

と小僧達の十中八九が賛成しても、ユニークな小僧が

”こっちの方が売れる”と言った商品に番頭が共感したら

番頭はそちらの方を採用した》 


もはや言葉を失ってしまう・・・

江戸期の商家の身分制度を知っていれば、こんな

滑稽な発想が出てくるわけが無い

小僧というのは、12歳過ぎの「下働き」で、雑用が

主な仕事の子供のことであり、そんな子供達が大事な

顧客の前に出ることも、会話する事もナンセンスである

そもそも番頭と言うのは、仕入れから販売までを統括する

責任者であり、永年の経験で奉公している

年端もいかない小僧の意見など聞くとは思えない


百歩譲って、そのユニークな小僧の言葉を採用するとして

「尊異論」の基本である、少数意見の尊重以前に、多数意見

を無視することになってしまい、民主主義にも反し、尊異論にも

矛盾が生じることになる

【三脱の教え】

 《「江戸しぐさ」では初対面の相手に、年齢・職業・地位を

聞かないルール、触れてはいけない仕来りだった。江戸時代は

「士農工商」という身分制度が存在したが江戸後期になると

経済力の差から、武家の権威が落ち、あまり身分制度を

意識しない傾向が出てくる。三脱の教えはこうした背景から

生まれた》
 


どんな事を言っても、身分制度は歴然として存在

名乗るまでも無く、身分はその容姿・風体(髪型・衣服)

で誰にでも理解できたはず、武士は武士なりの格好をして

職人は職人の、商人は商人の、農民はそれなりの

外観で察しがついたから「問うまで無い」

地位も大身旗本と貧乏御家人は聞くまでも無く

商人も旦那と番頭、小僧はもちろんの事、職人も

親方と弟子っ子は明らかに姿かたちで判別できた

娯楽時代劇の観過ぎで、そんなふうにかん違いしてした?

助さん角さんと、「うっかりはちべぇ」の変装・会話など

絵空事でしかないのである (笑)


(次回に続く)

                   

◎  こんにちは って何のこと? 

こんにちは (今日は) 日本人なら誰でも

普段使っている「挨拶」の言葉です

どんな意味なのでしょうか

この意味を説明できる人は殆んど居ないそうです

私も去年まで知らない側の人間でした

(と言っても、私のいう事が正しいとは言えませんが)


語源を調べてみると、「今日はご機嫌如何ですか」

の「今日は」だという

「今日は」以下を略すようになり「こんにちは」に

なったとされる (語源由来辞典より)


それはわかっているのですが・・・・

今日って、明日とか昨日などの「今日」なのか?

どうも分かったようで分からない説明である

「こんにちは」 ってどういう意味か書いたものが

無いのが現実である


高知県では「太陽」のことを【こんにちさん】

新潟のある地方では【こんにっさん】といい

岐阜県では「コンニッツァマ」と言うそうだ


かつて日本では何処でも「今日様」と呼んでいた

「古代」では太陽などという言葉は無かった

というのも納得できる話である


謡曲や狂言では、「こんにちは」を言うときは

【こんにっ・た】と言い、意味は「本日は」「きょうは」

のことだという


「こんにちは」の後に「お元気ですか」などと続き

「こんにちは 元気ですか」とか「元気でしたか」と言う

場合もあります

そうすると「太陽さん お元気ですか」とは、ちょっと

不思議な言い方に感じるが・・・

元気とは「もとの気」であるから、太陽の気(エネルギー)

の事になる

(ますます複雑怪奇な事になってきたぞ・・・)


人間も太陽の気を貰って健やかに生きている

だから、「太陽さんと一緒に過ごしていますか」

というのは、「お天道様に感謝して生きていますか?」

という問いかけであるのかもしれない


言葉足らずで理解してもらえない気がするけど

要するに太陽(お天道様)が無ければ生きて行けない

という宿命に「感謝」している事を、お互いに確認すること

から、この「挨拶」が始まったのではないか

漠然とではあるが、私はそんなふうに理解している


では、「さようなら」とは何だろう?

さようならは、その後に「ごきげんよう」と続く

正確に言うと「さようなら(ば)、御機嫌よう」

庶民は「ご機嫌いかが」などと使うのは稀(まれ)

であるが、「機嫌」は本来「譏嫌」といい、「そしりきらう」

事であるから、ご機嫌いかがとは・・・

「あなたは他人をそしり・嫌っては居ないでしょうね」

と言う意味になる

つまりは、お天道様に顔向けできないような事は

していないでしょうね・・・という事だ

さようならば・・・とは

・・・その様(お元気そうなので)であるなら

御機嫌よう・・・とは

他人を嫌ったりしないで「気分よく洲お過ごしください」

という意味だと私は考えています


江戸時代までは、別れ際の挨拶は・・

「さらば、ごきげんよろしう」

「さようなら、ごきげんよう」

と言う使い方をしたといい

さらに、明治時代になると、男性が

「さようなら」と言うと、女性は「ごきげんよう」

と言って別れたと言います


「さらば」とは「然・らば」で、仮定条件の

それならば、そうしたら、という意味ですが

話の話題を転じるときにも使うことから、

会話の締めくくりとして用いられるようになった

という事だそうです


やはり日本の「挨拶」は、あの太陽が関係していた

太陽の国「日の本」ならでは、ということなのでしょうね

                   

◎  天皇家の血統と桓武天皇 3 


桓武天皇は何を目指したのか・・・

簡単に言うと、日本の「唐風化」だろうと思う


それと同時に山城の長岡に遷都し、間も無く

平安京に遷都するなど、莫大な費用をかけて

遷都した背景には、「祟り」から逃れたいという

想いが強かったからではないか

平安の都の庶民からすれば、最悪の天皇であり

敬われることが少なかっただろうと思える


唐の都を参考に、当の文化を範とし、目指す道の

上にはいつも「流血の壁」が立ちはだかった

目指せば目指すほど、血が流れその「祟り」に

怯えてゆく連鎖が生涯続いたのである


桓武天皇は「仏教」とは距離を置く政策を

実践した天皇でもある

斑鳩宮(いかるが)・百済宮・藤原宮・平城宮と

歴代の都は「仏都」でもあった



桓武天皇は仏教を嫌い、仏教勢力が新しい都に

盤距(ばんきょ)する事を嫌ったと思われる

その証が平安京に「東寺」「西寺」を配しただけで

当初は寺院の建立を認めなかったことである


桓武天皇は歴史上の天皇の中で、様々な改革を

実行した天皇と言われているが、私が興味を持ったのは

古代から続く豪族に支えられる「オオキミ」から、中国の

「皇帝」のようになるべく、藤原氏を重用し「専制君主」と

いう形を目指したことである

もうひとつ、桓武天皇は服装についても、旧来の服装

ではなく、「唐風」を取り入れた

それまでは天皇は「祭祀王」という性質上、「白」が基本

であったが、中国的な服装を徐々に取り入れていった

(現在の「神職」が白を基調とした装束であることを見れば

理解できると思う)

今上天皇がお召しになる装束は平安初期に「嵯峨天皇」

が定めたものが基本となっている

神事の際は【帛衣(はくのきぬ)】 《白の練絹のこと》

元日に臣下から朝賀を受けるときは【袞冕十二章(こんべん)】

《太陽・月・龍などの刺繍がある服のこと》

2702.jpg


毎月朔日(ついたち)に、臣下の報告を受け、外交使節と

面会するときは【黄櫨染(こうろぜん)】の服を着用するように

なったのである (ともに中国皇帝にならった服装である)

1-4.jpg


ここで疑問に思うことは、それまでの「大王」は

神道の祭祀者であったが、「専制君主」である

皇帝になる事は、祭祀王という表の顔が薄れる事

になる事なのである

仏教を嫌い遠ざけて、祭祀王である「オオキミ」を

止め、皇帝に君臨しようとしたのはなぜなのか・・・

平安時代が平安でなかった理由は、此処にあるのかも

しれない

自らの出自を呪い、手ずから権力の頂点に立とうとした

桓武天皇が、「神仏(かみほとけ)」を軽んじ遠ざけた結果では

ないだろうか・・・・。

愛する者を次々と亡くし、ようやく「仏教」に縋るようになる

天神地祇・八百万の神は「祟り」から開放して

くれなかったという事だろう

(当然といえば当然であり、神は縋るものではなく

感謝するものだから・・・)

最澄・空海を唐に派遣したのも桓武天皇だという

桓武天皇は、仏教には理解を示した形だが、「皇祖」

、「天神地祇」にたいする思いは伝わってこない


祈り感謝する祭祀王より、ただただ仏に縋る一人の人間に

成り下がり、皇帝と言う地位にある「普通の人」になった

のが、「桓武天皇」だったのかもしれない

歴代天皇の中で、最も「祟り」を恐れ

死の際まで「怯えていた」

そんな人生を送った天皇であった


自分が「野心」を持っているからといって、他者も

「野心」を持つとは限らない事を、知らずに人生を

終えた可哀想な天皇だったのかも知れない・・・。


《格式》 きゃくしき

【格】とは、律令の補足や偏向を規定した法令

【式】とは、律令格の施行規則のことである

法令用語で、新しい格式が定められると、古い格式は

廃止される

ところが日本では、古い格式と新しい格式が併用されると

いう独自の運用が為されてきた

桓武天皇も、大宝律令後に出された厖大な数の単行法令を

整理し、現行法として有効なものを集めて、養老律令を改め、

新たに法典を編纂しようと試みたが結局は断念した


現在では格式(かくしき)と呼び、社会的に格付けされた

身分や家柄を指したり、生活上のしきたりや礼儀作法など

のことを言うようである。

                  

◎  「江戸しぐさ」の真っ赤な嘘 その一 



「江戸しぐさ」というものを知っていますか?

長屋の爺は知りませんでした

知らなくてよかったとも思っています

長屋の爺は「時代小説」を糧にしてきました

江戸時代の「時代考証」は少なからず承知して

いると勝手に自負しております(笑)


何でも小学校とかで教材にもなっているとか?

これは忌忌しき問題です

結論から言います・・・

これは完全なる「嘘」です

長くなるので何回かに分けて、検証してみたい

そう思っています


【三大しぐさ】

傘かしげ・肩引き・こぶし腰浮かせ 

根本的にありえないのは「こぶし腰浮かせ」です

《川の渡し場で、乗合舟の客たちが舟の出るのを

待っているとき、あとから乗って来た新しい客のために

、腰かけている先客の2~3人は、腰の両側にこぶしを

ついて軽く腰を浮かせ、少しずつ幅を詰めながら、一人分

の空間をつくる》


これを観て、長屋の爺は大笑いしました

ナンセンスで、現実を無視した妄想に脱帽です

浮世絵でも時代劇ドラマでも結構ですから

思い浮かべてみてください

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私の子供のころにも「渡船」はありましたし、私も

乗った経験があります

渡船と言うのは舳先(艫)の方を向いて座ります

せいぜい一列に2~3人が座れば身動きできない

くらい狭いのです

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このような動作が出来るとすれば、電車とか乗り合いバス

のような「ベンチシート」でなければ不可能です

これが「江戸しぐさ」の真実です

現代なら賞賛される「所作」であっても、江戸時代に

このような非論理的・非現実的な「所作」が存在する

わけがありません


今回は、もう一つ・・・

喫煙しぐさ」というものがあるそうで、どんなものかと

調べてみて長屋の爺は「唸ってしまった」(笑)

本当に江戸時代のことを知っているのか疑問である

《タバコは相手が吸わなかったら自分も吸わなかった。

とっくの昔から喫煙のしぐさには不文律があった。

禁煙と書くのは無粋である。料理店などで相客に

気付かずに吸っていると、店の方で「根付(タバコ入れ

などにつける装飾)をいただいてよろしいでしょうか」と

預かりに来た。灰皿がない時は吸ってはいけないと

心得た。》
 


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江戸の風習は、腰を落ちつける客に対し、最初に

タバコ盆を差し出すのが礼儀だった。

相手が吸おうが吸うまいが、タバコ盆を引き寄せて

一服するのは当たり前であったのである

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それに簡単に「根付(ねつけ)」というが、根付は

何も煙草入れだけに付けるわけではないし

「煙草入れ」を預かるではなく、「根付」を預かる

という時点で、江戸の文化を知らない人間が考えたに

違いない話である

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例えば【茶道】でも、煙草盆に関する細かい作法が

存在すると聞いた事がある

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茶道用の煙草盆は複数をセットにして販売するとか

正客の前にあらかじめ煙草盆を置いておくらしい・・・。

煙草盆(灰皿)が置いてなければ吸ってはいけないと

言う以前に、置いていなければ「店の無作法」が問われ

る大問題なのである

この二つを考えただけでも、「江戸しぐさ」がとんでもない

「嘘っぱち」であることが理解できる

「都市伝説」や「縁起担ぎ」なら笑って済ませるべきなのだが

これが「教育」に使われているというのなら大問題である

嘘を教える「教育」が文科省の許可を得ているなら、社会問題

になってしまう可能性も・・・。


江戸しぐさ の作者は【芝三光(しばみつあきら)】

本名 小林和雄 と言う、おそらく1980年代に創作

された、歴史虚説だと思われる

次回も「江戸しぐさ」の虚説を明らかにしてみたい

                  

◎  天皇家の血統と桓武天皇 2 


桓武天皇が即位したのは40歳半ばである

桓武帝は奈良・平城京から山城・長岡に遷都

を計画する

これは天武朝の京から、天智朝の京への転換

だったとも考えられるが、奇しくも曽祖父・天智帝

が大津に遷都したことと関係があるのか?

天智天皇がなぜ飛鳥から近江に京を遷したのか

通説に疑問を感じているのだが

私が考える「遷都」とは、【祟り】からの逃亡・避難だったと

考えている

桓武天皇も例外ではない

長岡京の立地を見れば、およそ新しく造営する京に

相応しいとは思えない

当然のこととして、人臣から反対され、意志を押し通す

ために藤原種継・百川などに「力(権力)」を与えた

その人事政策に異を唱えたのが、皇太子・早良親王で

あった

その早良親王を支え、近い場所に存在したのが「大伴氏」

だった、藤原種継を長岡で射殺した犯人が「大友継人」等

や春宮(とうぐう)の側近がいたこともあり、首謀者の一人と

して早良親王が廃されてしまった

しかし、これは「こじつけ」であったろうと思っている

種継を射殺したのが「大友家の家臣」であったにせよ、その

背景にあったのが、藤原氏と大伴氏の争いだったという事である

桓武天皇は称徳天皇の晩年に凋落した「藤原氏」の復権を

勧めていて、平安の藤原時代を迎える「種まき」をした天皇で

あったといえる

桓武天皇は「たたり」に悩まされる日々を過ごした

天武の京を天智の京に移すために、多くの血を流し

無実の命を奪ったのである

他部親王を冤罪によって葬り、「祟り」から逃れる為に

長岡に遷都しようと計画するも、種継事件にかこつけ

実弟の早良親王まで冤罪で葬り、新たな「祟り」と向き合う

事になってしまう

気の休まる時は無かったのかもしれない・・・

早良親王の「祟り」は桓武天皇にとって、尋常ならざる現実を

見せてくる

長岡京に移った桓武天皇の周りで忌まわしい出来事が頻発した

788年夫人である藤原百川の娘・旅子が病死、789年、実母の

「高野新笠」が死去、翌年には藤原百川の娘である皇后・乙牟漏

(おとむろ)が亡くなり、さらに皇太子・安殿親王も病にかかってしまう

陰陽師に卜させると、「早良親王」の祟りであるとされた

そこで平安京に遷都することを決意するが・・・


平安とは名ばかりの、新都への船出であった

平安京は未完成のまま遷都したが、疫病などは

治まる事がなかった


桓武天皇が平安京を作った背景は「祟り」からの回避

だったが、その内容は「唐の都」をモデルに、政策は大陸の

「中華思想」を範としたものだった

その一つが「東国の蝦夷征伐」であった

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ蝦夷平定を積極的に

推し進めた

(坂上田村麻呂は渡来系の武門の家系である)

言葉は悪いが「外国かぶれ」であり、大陸・半島を

重視した天皇だったともいえる

蝦夷征伐は中華の「東夷」の模倣であり、いかに桓武天皇が

中華思想を範としていたかの証であろう

ところが、祟りの兆候は止まず、疫病や飢饉が続いて

桓武天皇は藤原緒嗣(おつぐ)の意見を取り入れて

軍事(蝦夷討伐)と、造作(平安京造営)を中止した

(緒嗣の儀)

【方今、天下の苦しむところは軍事と造作となり。

この両事を停めば百姓安んぜむ】

いかに民衆が平安京造営によって疲弊し、蝦夷征伐に

狩り出され、苦しんでいたかという事である

平安という命名は、国家の安寧を願ってというのが定説

であるが、私は「桓武天皇」の心が穏やかに安んじる事を

願ってつけたのではないか
、そう思っている・・・

それほど「道理」を外せば、お天道様は大目に観てくれない

そんな現実を桓武天皇は身をもって感じたのではないだろうか

祟りとは心の病であり、気持ちの病である


平安京が「国家安寧」とはほど遠い「混乱の都」となったのは

必然だったのではなかろうか

桓武天皇は平安京の礎を作ったが、藤原復権と天皇家の

凋落を導いたのかもしれない・・・・。


とにかくこの時代だけを見ても、皇統の継続には「多くの血」

の犠牲が存在していて、一口に伝統とか万世一系などと

言って、誇れるものだけではないという現実を日本人は

受け入れる必要があるのかもしれない



皇室の神道は「祟り」に対する怖れから始まった

その起源は「出雲神」に対する「祟り」と「恐れ」であり

祟られる要因があったからこそ、丁寧に祀ったと思う

民間のアニミズムとは異質の「祭祀」の匂いを感じて

私の中の「神道」と「皇室神道」のギャップは様々なところで

現れていると考えている

皇室の神社参拝をそういう視点で見れば、「なるほど」という

事が散見できるのである。

                  

◎  生者必滅会者定離 

生者必滅会者定離・・・

せいじゃひつめつ えしゃじょうり

平家物語 巻十 維盛入水の一説である

何をトチ狂って平家物語なんぞと言われそうだ


会釈(えしゃく)

軽く挨拶を交わし 礼をすることであり

相手に心配りをしたり、思いやったり、斟酌すること


語源は仏教語、和会通釈(わえつうしゃく)

一見矛盾する教義を照合し、根本にある共通する

真実の意味を明らかにすることだという

それが中世になって、「様々な状況を考慮する」

となり、さらに「儀礼に適った態度をとる」になり、

「愛想よく応対する」になって、江戸時代になると

「お辞儀をする」に変わったとされる


・・・で、このような事を聞いても長屋の爺である

「あぁそうなんだ~」とはならないのである(笑)


そこで冒頭の維盛入水の一説になる

会者定離、これは えしゃ ではなく、ゑしゃ である

ゑしゃ・く という意味で考えてみた

漢字が入ってきて、その【動作】が起こったとは

とうてい思えないのだ

その動作・言葉(音)があって、それに「漢字」をあてた

私の自論である(暴論とも言うが)

会者(ゑしゃ)とは「出会った者」と言う意味だ

では・・・「く」とは何だろう?

「く」は「来」である

「く」とは、「以前からずっと」、「はじめる」、「来る」、

「行く」という意味である

会者来(ゑしゃ・く)となると・・・

夫々別の人が出会って、交わす「ふれあい」の所作

であり、何処からか「来て」どこかへ「行く」その刹那

(接点)は以前から決まっていたこと

即ち、縁(えにし)に通じているという事ではないだろうか

言い換えれば、【袖振り合うも多生の縁】の一コマでもある

縁をつなぐのも縁を切るのも、ずっと前から決まっていた事

会釈すらできないのは、出会うはずの無い者同士だったのか

この世の縁を否定しているのか、ではないだろうか・・・


暗黙の了解にも、眼だけの会釈もあるはず

会釈は「所作」であって「所作」ではない

「心の出会い」だと爺は考えております。

                  

◎  天皇家の血統と桓武天皇 1 

よく聞く言葉に「天皇家は半島の血統」だ

という

何を以って「血筋」と言うのか、何を根拠に

先祖というのかである


「皇室の先祖は半島人」の根拠は多彩である


渡来人が初期の朝廷に影響を与えたこと

天皇の数人に半島人疑惑が根強いこと

政権を牛耳ってきた藤原氏の出自の謎

文化・風習が半島由来という誤解


たしかに初期ヤマトでは、大陸の影響を根強く

受けているし、半島を経由して文化が入ってきて

も居るが、半島の文化が日本に入ってきたというのは

誤解されている面も多々ある

その当時(現在もだが)、半島の文化は「独自性」は

稀であり、殆んどは中国の文化と言っても過言ではない

たまたま中国の文化が日本に伝わる経路上に「半島」

があったと観るべきだろう

現在の半島人は「ワイ族」であり、朝鮮族ではない

朝鮮人とは半島北部(中国)に住む、中国系部族であり

ワイ族が住む前の半島の住人だったのである


何でも「朝鮮発祥」というが、そのほとんどが中国起源

と言ってもよいだろう

日本は魏・宋・唐・漢・呉などと直接・間接的に外交を

してきた

半島に住む人間も倭人が多かったし、その国々の中にも

倭人が「王」だった国さえある


私が考えている「皇室朝鮮人祖先説」の一番の根拠

は、「桓武天皇」ではないかと・・・あくまでも妄想である


桓武天皇 第50代天皇

光仁天皇の皇子でありながら、出自(母親)の低さから

中務省の役人であった時代がある

当然、皇位継承など望むことなど無理な立場だった

私はこの天皇は「結果」に恵まれた人物だと評価して

いる

言うなれば、「あがいた結果が好結果を齎した」

天皇の子でありながら、母親の出自のために、将来

の夢も乏しく、悪魔の誘いに乗っても不思議ではない

そんな境遇だった

唯一の救いが、父である光仁天皇が「凡愚」であった

この天皇も即位など夢また夢の立場で、政争に巻き込まれ

ないように、人生の大部分を「酒びたり」ですごした人物

その天皇の後継者として「皇太子・他部親王」がいた

母親は聖武天皇の娘・井上内親王で、申し分ない血筋

だった、

ところが、この井上内親王・他部親王を冤罪によって

抹殺してしまう

通説では、藤原種継、藤原百川の陰謀だというが

私は山部親王(桓武天皇)が加わっていたと考えている

藤原種継・百川の傀儡に納まるような山部親王ではない

さらに、その当時の朝廷の原則は「母親が天皇の子」か

「藤原の女」である事が求められたのである

そのどちらにも当てはまらない母親・高野新笠の子では

即位など絶望だったはずで、他部親王の存在は揺るぎない

ものだったのである

今で言う「コンプレックス」が桓武帝のエネルギーだった

しかし、一つ道を誤ると、それを押し通す(正当化する)ため

新たな「わき道」に足を踏み入れてしまう

早良(さわら)親王の「廃太子」と謀殺である

早良親王は同母弟であり、自分が通った道が弟の

通れる道となった事に「不安」を感じたのかもしれない

さらに、自分の皇子・安殿(あて)親王に皇位を継がせたい

欲求に駆られたという事も言える

間違いなく、高野新笠が半島人であるならば

皇室の血筋に「半島の血」が混じった事は否定できない

(あくまでも何処までを血筋と見るかであるが・・)

かれの人生は、血塗られた京(みやこ)からの脱出に

傾倒することになる

長岡京への遷都である、わずか10年の京にこめられた

ものとは、「過去」から逃れる為、天武朝の都から自らの

都への遷都を模索していた

平城京とは「天武系の都」であったわけで、他部親王を

抹殺したことで、天武の血筋は途絶えてしまった


子孫が絶えた家系は「祟る(たたる)」のである

その祟りから逃れたい為、新しい「天智系」の都が必要

になったという事だろう・・・。

(次回に続く)

                    
        

◎  和を以って 貴しと為す 

先日、とある店で、店を出ようとドアを開けた

すると、数メートル先に店に入ろうとする人が

私は開けたドアを手で押さえ、その人物が

ドアを開ける手間を省いてあげた・・・

つもりだった・・・


現実はドアボーイの横を悠然と通り過ぎる

客が一人いただけだった

お礼が言ってほしくて為した行為ではないが

しかし、この国には「礼」と言うモノがあり、

さらに「感謝」という言葉も存在し、更に言えば

「和」という概念が存在すると思っていた

そう・・・長屋の爺は「思っていた」のである


家に帰りぼんやりと考えているうち

ふと、疑問に思うことが・・・

本当にこの日本に、「和」という概念があるのか

それはどんな事なのか知っているようで知らない

自分が其処にいた


「和を以って貴しと為す」 聖徳太子が制定した?

といわれる十七か条の憲法に書かれている言葉

でだれでも聞いた事がある言葉なのだが

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ここで疑問が湧いた・・・

和とは? 貴しとは? 

貴し・尊し などと言う言葉は、私の古語辞典には

一切載っていないのである

一つだけ載っているのが、【貴(あて)】である


この憲法の原文は【以和為貴】である

いつだれが、この【貴】という文字を「とうと」と

読んだのか・・・

どうでもいい事かもしれないが、爺は気になって

しまったのである


【貴】 漢・呉ともに(キ)、訓 たっと・い とうと・い

そもそもは「値段が高い」という意味である

日本にはいってから「身分が高い」「容姿やふるまいが

優美、気品がある」などの意味になったのだろう

この言葉が用いられるようになったのはおそらく

奈良・平安時代だと考えている

いわゆる【王朝文化】が始まったころではないか


【和】 とは元々中国では「穏やか」 「睦まじい」 「よしみ」

「親しい」という意味であった

それがいつの頃からか「日本」を指す言葉に変化した


【貴】は「身分が高い」「家柄がよい」「上品である」

「優雅である」という意味だ

以和為貴 とは、へそ曲がり的解釈をすれば

穏やかに円滑になる為には「身分が高く」ないと

いけない
・・という事ではないか(笑)

「身分の低い人間が政(まつりごと)にかかわる事を拒絶し

身分の高い人間だけが政を担えるようにすべきである」

だれが言ったか知らないが、傲岸不遜な言葉に

聞こえてしまう (あくまでも長屋の爺の妄想である)

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「和を以って貴しとなす」は後世の人間が

お人好しで善良なヤマト人として、好意的な

解釈をしたのではないだろうか


三位以上の人間が「公卿」として君臨し、四位から

五位までの者が殿上人として「ヒト」であり

それ以外は「ヒトデナシ」であった王朝時代で

下賤の者を含めて、「和」に言及する社会では

無かったのではなかろうか

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教えられた解釈は確かに理想的な内容だが

本当に「その意味」で書き残したのかどうか・・・


書き残した時代が、どういう時代だったのか

事実は「話し合い」とはほど遠い【権謀術数】が

渦巻く時代、せめて解釈だけでも【深慮遠謀】に

したかったのかもしれない・・・。

                   

◎  朔日の更新お休みの告知 

大事な事を忘れていた・・

今年から毎月朔日(ついたち)は更新を休むことに

それを決めたにも・・・告知する事を忘れていた

年はとりたくない・・・・


というわけで、急病・旅行以外、朔日はお休みという事で

よろしくお願いいたします

                   


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