不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

◎  書いてあるから真実という誤解 

もしも自分の家系史を書き残すとしたら

どんな内容にするだろうか・・・

背乗り系で無い限り、高貴な家系なら

世間体の悪い事は省略したり、粉飾を

施すのが普通である

まして他人の手で書かれたものなら、注意深く

点検し「意に沿う」形に替える気がする


日本の国史といわれるものに、矛盾する記述が

存在する事に、私は違和感を覚えている



第21代 雄略天皇

この天皇の記述はまさに「祖先は殺人犯」とも

受け取れる内容である


これこそ「国史」を誰でも簡単に眼にすることが

できなかったのでは? と思う理由でもあり

国史編纂時の宮廷が、雄略帝は祖先ではないと

陰で認めているような気もしてしまう理由である


雄略天皇は兄や従兄弟、を天皇位を即位する為

惨殺したという、また罪無き臣下を平気で斬り殺した

とも言われている

ここまで「悪人」として書き残す意図は何だろう・・・

現朝廷は「雄略天皇の血筋ではないよ」と宣言したのか

現政権が前政権を「悪し様」に書くのはどこの国でも

共通するのだが、先祖の悪口は「日本の風習」から

考えても素直に納得できないのである


国史や史書に書いてあるから「事実」という錯覚


その国史というものが、特定の人間だけが閲覧でき

一般の耳目に曝されないものだったとすれば

編纂した人間達の「思惑通り」になったという事ではないか


今の時代のような感覚で、文書を考えると錯覚してしまうが

その当時は印刷技術も無く、手書きで書き記され、世間に

そのような貴重な文書が出回ることなど無かった

長屋の爺はそう考えている

内容は一部の人間以外、「極秘文書」のような扱いだった

かもしれないのである


現存する「古文書」は書き残された内の僅か数%程度か

ある物は破棄され、ある物は燃やされ、火災によって焼失し

風水害で流失されたと推測できる

一番多かったのは、「焚書」と呼ばれるもので、政権の意に沿わぬ

不都合な文書は総て「灰」にされたと考えている


国史と言うモノがあって、歴代の「オオキミ」の歴史が

書かれているらしい・・・世間の認知度がこの程度だったら

何を書くか、どう改竄するかは、その時の「政権」の

思いのままだったともいえる


その背景には、いつの時代も少数の人間だけが権力を持ち。

少数の人間だけが「事実」を知る事ができた

我欲のために「白を黒」と言い、阿(おもね)る人間達が

多かったという事になる



古代史に共通するのが、「百人居れば百通り」の説では

無い、通説が基準の「ムラ」感覚である

その基準である「物差し」が、資料とされる「史書」に書かれて

いる事が、「絶対的事実」であるという出発点から始まっている


その視点から言えば、「日本書紀」「古事記」に書かれて

いる事柄に「矛盾」「違和感」の論説が出ても、有識者・研究家

から否定されてお終いの世界なのである



邪馬台国論争というものが、研究者の間で二分されているのも

根っこの部分では共通している

邪馬台国を「やまたい」と読むか、「やまど」と読むか

魏志倭人伝の記述を「旅行記」と読むか、「報告書」と見るか

報告書であるならば、体裁を重視したものでよく、事実である

必要など重要ではない気がする

(嘘という事ではなく大雑把でもよかったという意味です)

天候などが原因で目的地に到達できない場合、役人はどうした

のかという疑問、おそらく現地の人間に訊(たず)ね目的地への

行程を書き記したかもしれない、到達してもしなくても、報告は

しなければならないなら、到達した事にするのが役人の務め

だったと思っている

その役人の在任中に、もう一度ヤマトの国を訪れる他の

役人がが居るかどうか・・・東夷の国とはそういう位置付け

だったと私は考えている

                   
スポンサーサイト

◎  梅の季節が近づいてきた 

昨日仕事の材料の不足を補いにホームセンターに

行って来た

そこで見かけた「しだれ梅」は、まだ固いつぼみであったが

凛として、素敵な立ち姿であった

う~ん 欲しいな・・・・(欲しいものは三日思案するのが基本)

2月中旬から3月上旬まで、市内の公園の梅林が見事に咲く

らしいので、今年は梅を観てこようと・・・

その時は写真をアップするつもり


年末に近くの神社にお参りに行って来た

その写真を掲載するのを忘れていたので

携帯で撮ったので写りはいまいちだが・・・


祭神はアマテラス・スサノオの誓約の時に生まれた「八柱の神」

dvc00005_201501302221400b4.jpg


こちらは境内社、近隣の小社を遷したとか・・・

dvc00004.jpg


長屋の爺の「神社巡り」

そろそろ始めようかと考えている

二月も前半はハードだが後半は何とか時間が

取れるかもしれない(あくまでも予測)

今年は伊勢・熱田など大きな神社から

地方の神社も廻りたいと思っている

姫路城も観たいし、松本城も是非観たい

関西まで足を伸ばせるか微妙だが

欲張らずにゆっくりと見て行きたいと

思っている


                    

◎  やさしさについて・・ 

【やさしさ】 ってどういう意味なのか

「人にやさしい」 「地球にやさしい」

「やさ・し」 とは、古来我々が思っているような

意味の言葉ではなかったと言ったらどう思い

ますか?

やさ・し とは《身も細るほど》 《つらい》

《たえがたい》、《恥ずかしい》 《慎み深い》

《遠慮がち》、《優雅だ》 《上品でしとやか》

、《感心だ》 《けなげだ》 という意味でした

現代の意味に近いのはどれだろうか・・・


【やさ・し】の語句のもとは、「痩す(や・す)」といい

現代語の「痩せる」である

【痩・す】というのは、やせる・細くなる、という意味であり

眼の前の相手が人格が優れていて、相手にした時

なんだか肩身が狭く、恥ずかしくなったり、気が引けたり

身の細る思いをすることを「痩・す」と言ったのです


「やさ・し」という言葉は、自分自身の問題(状態)を

表現する語句だったが、現在では全く逆の「相手の

様子を表現する」言葉に摩り替わってしまっている


現在の「やさ・し」は《思いやりがある》、《優雅だ》

《あたたかな情が見える》という意味で使用される


本来「やさ・しい」と言う言葉は相手に対する尊敬

の気持ちを表すものでした


「やさしい」と表現する前に、自分が相手に対し

「身が痩せるほど恥ずかしい」と思えるかどうか

このことを自問しなければいけないという


「地球にやさしい」とは、人が地球に対し恥ずかしく

ない行いは何か?をしっかりと考える事

恥ずかしさを感じることこそ「やさしい」ということで

命や環境を大事にし、尊重する行為や生き方を

選び、それらに責任を持つ事が「地球にやさしい」

という事ではないだろうか


世間(よのなか)を 憂しとやさしと 思へども

  飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 
(山上憶良)


【憂(う)しとやさしと】 は「私は情けなく恥ずかしい」と言う意味である

(訳) 世の中をつらい、恥ずかしいと思っているのだが、飛び立ち

のがれることはできない、鳥ではないので・・・


                   

◎  藤原氏と藤原京の虚実 

持統天皇四年十月条

「壬申に、高市皇子、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を

観(みそなほ)す。

公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」


同十二月の条

「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」

とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に

遷(うつ)り居(おは)します」



 【藤原】 ふじわら・ふぢわら

私達は何の疑いも無くこの文字を「ふじわら」と読んでいる

なぜ「ふじわら」と読むのだろうか?

先生が教えてくれたから・・・では納得できない

  《漢》 トウ 《呉》 ドウ 《訓》 ふじ

  《漢》 ゲン 《呉》 ゴン 《訓》 はら

藤という植物は日本の固有種であり、大陸にあった花の名を

訓読みしたわけではない

というより固有種である花になぜ「藤」という字を当てたのか

藤を《ふじ》と読めば「花」のことである

藤を《とう》と読めば「ラタン」のことになる

これからは長屋の爺の妄想である

大陸ではラタンの事は「トウ」と読んでいて、「藤」の字

をあてていた

ところが「藤の花」も蔓科の植物のように「つる」を這わせる

習性があることから日本では「ふじの木」のことも「トウ」と

呼ぶようになった

そこで「トウ」の音を持つ「藤」を充て《ふぢ》と読んだ

・・・ちょっと苦しいか(笑)

ふじ という音も、古代では「ふち」「ふし」などだったかもしれない

アイヌ語で「トウ」とは、二つの という意味である

「ケム」は 血 のこと、「ケン」は~の上 の意味である

藤原を「トウ・ゲン」と読めば、二つの血筋、二人の先祖と

いう解釈も出来る



【藤原宮】は、676年(天武5年)に工事が始まり、704年(慶雲元年)

に完成したという《考古学》

(通説では690年(持統4年)に着工され、完成は704年(慶雲元年))

ところが「藤原宮」という名は「日本書紀」に記されているが

「藤原京」という呼び名の都は何処にも無い

「新益京」という名が正しいというが、なぜ「藤原京」という

名が広まったのか不可解である

「大阪府」を後世の人間が「橋下都」と呼ぶようなものか(笑)

藤原の宮という呼び方は、後世の書き換えではないかと

思っている

なぜなら、京(みやこ)の名前を臣下の「姓」に与えるという

ことはありえないと思う

反対に臣下の姓を新しい都に命名するなど異常である


藤原氏にしてみれば、自分の姓が嘗ての京の名前であり、天皇から

下賜されたとなれば、これ以上の名誉は無いだろう

藤原の出自を偽造するための、後世の加筆・捏造の可能性

を感じている

藤原宮という僅か16年の間の日本の都

持統天皇がどの様な思いで、京の名前を「藤原」としたのか


天智天皇から中臣鎌足が「藤原姓」を賜ったのは669年である

天皇が下賜した「藤原」という文字を、新しい京に命名すること

は不可解でしかない


もし・・・嘗ての都の名前を「下賜」されたというなら

鎌足が天智天皇から賜ったというのは「嘘」であり

鎌足が本当に賜ったというなら、「藤原宮」も「藤原京」も

捏造である

藤原が絶大な権力を握ったのは、もっと後の時代なのである

藤原宮があったから、藤原氏が隆盛したのではなく

藤原氏の隆盛があったから、藤原宮と後に呼ばれたのでは

ないだろうか・・・・

                   

◎  言葉の不思議 (語源) 

毎日寒い日が続いている

「冬だから当然でしょ」

その通りなのだが・・・

なぜ冬というのか気になった爺

今回は言葉の雑学にしようと決めた(笑)

私が「アイヌ語」を重要視しているのはご存知

だろうと思うが、根拠は「古代の音」を残しているで

あろう日本最古の「言語」だからである

漢字などは1500年か2000年くらい昔に使われ

だした新参者である

太古の昔から、「音(言葉)」は存在していた


相手の言葉に対し「肯定否定」ともに

「本当!」「本当?」というときに何と言いますか

「ソンノカイ」「ソンノ」

アイヌ語ではそう表現します

「ソンノカイ」→「そうなのかい」「そうだったのかぁ」

「ソンノ」→「そう?」「そうなの?」

わりと説得力があるでしょ(笑)


「ソレクス」って何だと思います?

「それこそ」という意味です

「ラム」とは~と思う

古語では「らむ」は推量の助動詞で

~だろう たぶんと言うような意味で

縄文の言葉がそのまま残ったのかもしれない


「パイカル」って 春のことですが

何かを連想させる言葉ですね

「バイカル湖」はロシアにある湖です

今から3000年以上前、バイカル周辺の人は

南下をしてきた

行きついた先の最南端は「日本」だとも言います

1~5月は冬の季節であるバイカル、凍った海を

わたって南へ進めば進むほど暖かな季節になり

春にようやく到達したのかもしれません

あるいはバイカルから移住した人は、春のような

恵みを齎したのかもしれません


「フッネ」とは 狭い という意味です

古代の舟は「丸太舟」で、一人がやっと座れるもの

相当狭い空間だったのではないでしょうか


「マタ」 とは 冬 のことです

風の又三郎 も寒い冬の北風の精霊だったかも

マタギ というのは東北地方の「猟師」「狩人」のこと

マタ・タ・キ が語源かなと思っています

マタは冬、タは採取する、キは~をする

冬に狩猟をする人 ではないかと思います


「ハポ」は 母 の事です

ハポ→ハパ→ハハという事かもしれません

古代では a u o は入れ替わります(基本)


「ペイコ」とは 牛 のこと

東北で牛の事を「べこ」といいます

ペイコがなまって「べこ」になったのでしょう


「ニシ」とは 雲 のこと

古代人は雲は「西」から流れていることを

当然のように理解していたということです


最後に・・・

こんにちは、さようなら の意味分かりますか?

これはアイヌ語ではないですが

古代の日本人のDNAに通じる話です

私も最近まで本当の意味が分かりませんでした

次回はこの こんにちは さようなら を考えます。

                   

◎  ブログを書いてきて、今思うこと 

このブログの原点とも言うべき

ブログ開設の動機が これ である

誰に言われたわけでもなく、知識があったわけ

でもなかったのだが

生きる 死ぬ の境目に何があるのか覗いて

みたくなった

此処だけの話だが、私も何度か自ら死のうと

した経験もあり、死にそうな目にもあっている

「憎まれっ子 世に憚る」

だから私は「いまなお生きているのかもしれない」


人は病気や事故では死なない

病気や事故で死んだとすれば、それは寿命ではないか

私の「漠然とした考え」で、悟るなどという次元の話でもない

道路で「躓(つまづ)いて」転び死ぬ人も居る

マンションの上階から「転落」しても生きている人が居る

幼くして命を失くす人も居れば、100歳まで生きる人も居る

その差はなんだろう?

私の原点となった「疑問」である



生かされている→寿命が尽きる→死

寿命が尽きるときの「引き金・ボタン」が事故や病気

ではないだろうか、と思ってしまった長屋の爺

そう、思ってしまったのだ・・・・


「九死に一生」「奇跡的」などというのは、説明が

つかないからそう言っているだけではないか

寿命が尽きてないから、「生きていられる」

そう考えれば、今までの疑問が嘘みたいに霧消して

しまった

自分の力で生きているというのは、人間の傲慢な

考えかもしれない

私が今生きていられるのは、何かのお蔭である

自分の力で生きているなどと「口が裂けてもいえない」

誰かのお蔭で「仕事」ができ、誰かのお蔭で「糧」を口にし

誰かのお蔭で日々暮らしていける

その「誰か」を生かしているのも「太陽」である


日本人は「太陽」のことを、【お天道様】と呼ぶ

「いつもお天道様が観ているからね」

お天道様がいつも観ている理由は、それぞれの寿命を

測っているのかもしれない

お天道様に恥かしくない生活とは、「生かされている自覚」

を持っているかどうかを「戒める」ためではないか

なんとなく・・・そう思っている


自分の人生を振り返って人生は楽しかったとか、

良い人生だったと言うのは個人の捉え方である

何も良い事がなかった人生だったと思う人も、沢山居るだろうし

そこそこの人生だったという人も居るかもしれない

その物差しを作る(決める)のも、人それぞれなのでは

ないだろうか


私にとって「自分の人生」はどうだったのか?

自分のような人間にしては「それなりの人生」を

送ってきたと思っている

この空の下に「我が子」が生きていて

生きてきた意味が、私にはあったと思っている

                   

◎  伝える事の難しさと歴史の嘘 

【お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる】

これは江戸時代の「多賀講」信仰の流行によって

拡がった「里謡(りよう)」である

「お多賀さま」とは滋賀県にある【多賀大社】のことだ

祭神は「イザナギ命」「イザナミ命」の二神である

日本の神話の中の【創生神】として、詳しく古事記に

かかれている

古代ヤマトでは「死」は穢れたものであり、そのケガレを

一番最初に経験したのが「イザナミ神」である

神さまは「天上の世界」に居て、清浄なものとして

認識されているが、なぜか「不浄」「ケガレ」である「死」

を迎えてしまうという矛盾を伝えている

神は人間と違って「穢れである死」とは無縁だと思って

いたが、創生母神である「イザナミ神」は穢れてしまうことに

なっている

このイザナギ神・イザナミ神の神話は、見ようによって

現代にも通じる「人間模様」が描かれている


出現(誕生)→結婚→出産→諍い→離婚→死

という凡そ神さまらしからぬ、ドラマを演じている

これは特定の神様というより、各地に伝わる「創造神」

や「始祖神」の伝承を一つに纏めて作り上げた神さま

だといわれている

通説では、神様のイメージが人間に近ければ近いほど

より古い伝承であるという

近い時代の神さまは人間離れして、人間とは一線を画して

伝えられるが、時を経れば経るほど、人間臭さが加味されて

伝えられていくという

人の伝記も時と共に「誇大」や「神格化」され、現実とは

ほど遠い伝承になっていく傾向があり

人々の「願望」や「親近感」が、人の口を介して「尾ひれ」

がついて、形を変化させていくのだろう

一晩で何百キロも駆けたとか(今の時代なら可能か)

一人で36人を斬った荒木又衛門など(実際に斬ったのは二人)

「尾ひれ」の顕著な例なのである。




さて、文字のない時代なら、言葉(音)で伝える手段しかない

一人から一人でも、一人から多数でも同じ問題を孕んでいる

正確に「伝える」ことの難しさが此処にある

「*月○日 △時 ++の前で」

これを口伝えで行えば、どのくらい正確に伝わるか

おそらく「△時」が「△時ころ」「△時過ぎ」に変化したり

「++の前」が「++の辺り」だったり、「++の中」に

変わるかもしれない

人の記憶の曖昧さの根源は、情報と言うモノに「意思」

が加味されてインプットされてしまうからだろう

「++の前」は人ごみがすごいから、横でも良いよね

「△時」と言ったけど、電車の時間が分からないから

「△時ころ」でよいだろう・・・・

これが自分だけでなく、他者に伝える「情報に変化」して

拡散してゆくことになる

(これは想像ではなく、爺の実体験による考えである)


古代の史実と言うモノに、「諸説」あるというのは、おそらく

こういう事も原因の一つになっていると思っている

そして・・・その中で一番「尤もらしい」説が、通説とされる


通説、常識の嘘とは「人の意識」というフィルターを通って

確立された【仮説】である

古代史に模範解答のようなものはあっても、【正解】は

誰にも分からない(その時その場所に立たない限り)


「歴史書」に対して著者の勝手な思い込みなどと批判する

コメント・書評を観る事がある

百人居れば「百通り」の仮説があって当然であり、書いてあるから

事実だという人間の「程度」が疑われてしまう話だ


「その当時は、***が明確で、そのようなことは考えられない」

いつも、違う事がおきるから「最初」があるのではないか?

それを人は「異例な事」とか、「歴史上初めて」と流してしまう

通説も定説も、常識でさえ、最初は「常でない出来事」だった


神さまも天皇でさえ、書いてあるから実在したという思い込み

を少し違う角度から、観てみることも「有り」なのではないか


私の「歪んだ思考」かもしれないが・・・・

古代史は「歴史学」と「考古学」そして「宗教学」を総合的に

判断・解釈するべきだと私は思っている


その意味からも、天皇陵(古墳)を根拠の無い「比定」では

なく、きちんとした「学術調査」をすべきであって、神も祖先も

冒涜する事にはならないと思っている

(現実には宮内庁が廃されるか、皇室が解体されないことには

その実現は不可能に近い)


小学生に「異国の言語」を教える前に、この国の「本(もと)」を

キチンとおしえる必要があると思っている

架空の古代天皇に墓(古墳・陵)があることの不可解さを

どうやって教育するのか?

戦後において「軍国主義」を否定するならば、その背景にあった

偽りの天皇陵の「学術的解明」こそが、「現人神(あらひとがみ)」

ではない、本当の「皇室の在り方」を国民に示す事になるはずだ


口では「戦前の思想」を否定しながら、行動といえば悪しき風習を

踏襲している現在の政府・役所・機関の「矛盾」を国民が気づかない

ことも残念である

天皇は「神」ではない、日本の「元首」であり、「祭祀王」である


元首である天皇家の墓(陵)が「偽り」であって良いはずがない

祖神(祖霊)を冒涜しているのは、研究者達ではない、宮内庁という

「公僕」の思想こそ「皇祖の霊」を冒涜しているのである


私達が「**宮」だったり「*宮」であったとして、祖先の墓と

聞かされてきたものが、まるで関係のない墓(陵)だったとしたら

これほど酷い侮辱・冒涜はないのではないか

「責任者は出て来い」 と言っても不思議ではない話だ

天皇陵といわれる古墳は、宮内庁が昔々に「多分そうではないか」

と言われてきたものを、確たる根拠も無く「踏襲」しているにすぎない


一事が万事と言う言葉がある

天皇家の陵(みささぎ)でさえこの有様である

史実といわれる「史書」にどのくらい「不実」が書かれているのか

もっと言えば、史書自体どの程度信憑性があるのか疑問である

何度も書き換えられた形跡さえあり、一度に書かれたものでは

無いとまで言われている

私はこれからも「書いて無いもの」にこそ、真実の歴史が

隠れていて、形を変えて今に伝わる、先人の思いを探したい

そう思って「日本の古代史」を考えて行きたいと思う

                   

◎  振り返ってみた ため息をついた 


私の突飛な発想で、このブログを始めて

23ヶ月、約2年になろうとしている

その間に書いた557件の記事について

懐かしくもあり、恥かしくもある・・・


素人の「人生の旅の恥の書き捨て」であった

正直なところ、明日・明後日の題材は問題なく

更新できるだろうが、もっと先が見えてこない


興味が薄れたのではない

単に「私の知識・素養の希薄さ」が原因だろう

学歴も無いが、基礎知識も無い爺には、これ以上

続けていく「智の潤い」が不足している

そんなことを考えている


想像するにも、その「もと」になる物が必要であり

私はその「もと」を、書籍とネットの流れの中から

見つけてきた

見つけるものは、あまりに小さく少ない・・・

一つの目標に向かって、勉強・調査するわけではない

その日、PCに向かって「題材」を決め、参考書籍

参考書類、ネットの断片を纏めたメモなどを手元に置いて

ぶっつけ本番の時間を過ごす

体力的にも、少々きつくなってきた

このスタイルを変えない限り、更新を続ける事は無理に

思えてきた


何かを決めたわけではないし、何かが変わるわけでもない


継続するには「意外と力が必要」を実感している

その力とは・・・

精神力 知識力 想像力 表現力 かもしれない

【 継続とは力なり 】

見事に言い当てている言葉である 

例えて言えば、電池切れの状態に近づいてきた


我が家の冷蔵庫と同じ状態・・・

壁の白さが「まぶしい」状態の爺の頭の中である

後一月の間に、今後について考えて行きたい

そんなことを思っている


このブログに「目的が無い」ことは、私のゴルフと同じかも

練習場にも行かず、ぶっつけが当たり前で、当日の朝

あわてて支度をするのに似ている(笑)

スコアなど気にせず、ゴルフの後の入浴と昼食だけが

楽しみであり目的である


もう少しだけ、目的のない迷走する「不必要な善意」に

お付き合いください(長屋の爺)

                   

◎  梅や桜を思う 

少し早いですが、花見について少々・・・


花見といえば「桜」でしょう

ところが本来の花見とは、「梅」を愛でるものでした


花見の習慣はわりと遅く「奈良時代」といいます

中国から渡って来た「梅の木」を鑑賞することが最初と

言われています

春を告げる花でもあり、 一輪の梅の花を探す楽しみを

「探梅(たんばい)」といい

冬の季語でもあるのですが、「冬の季語」としたのは

松尾芭蕉だとか・・・



中国では、庭や梅園の花を愛でる場合を 「観梅」 といい、

山野に咲く梅を探す場合を 「探梅」 と使ったようで、

必ずしも冬の時期と限ってはいなかったようです


中国から輸入された「梅ノ木」は野生であるわけが無く

その当時は「探梅」というのは無くて、「観梅」しかなかった

ので、「探梅」は言葉だけ伝わって、梅が野に広がって

野生化してから、「探梅」をするようになったのか・・

それとも、捜し歩く場所が広大な山野ではなく、庭園の中で

最初に咲く花を探すことが「探梅」だったのかもしれません


万葉集には桜を詠んだ歌が40首、梅を詠んだものは100首

あるといいます

桜は野生種・自生種だけでも100種類ほど日本には在る

一般的な花ですが、平安時代になるまでは「愛でる」花では

なかったのかもしれません


奈良時代では「花」といったら【梅】をさしていました

では「桜」はというと、農業とくに米作の指標として

大事にされていました

「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれるものがあったそうです


桜を特に愛し「花見」を催したのが【嵯峨天皇】であり

花見を最初に公式に行ったのは嵯峨天皇かもしれません


また「左近の桜」「右近の橘」といわれるものが平安京に

あったが、桓武天皇が植えたのは「梅」であり、「左近の梅」

が本当だったが、枯れてしまい仁明天皇のときに梅の代わり

に桜を植えてから、「左近の桜」が定着したそうです


「パッと咲き さっと散る」 潔さ(いさぎよさ)と儚さ(はかなさ)

が魅力の桜は、平安時代と間を置いて明治・大正時代に

賞賛された

江戸時代は「すぐに散ってしまう姿」が、家が長続きしないという

イメージになっていて、武士社会ではそれほど評価は

高くなかったともいう


桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿

桜の木は幹や枝を傷つけると腐りやすく、梅ノ木は

枝を剪定しないと次の年に花が咲かないことになる

それを言い表した言葉です

間違っても、公園の桜の枝を切り折って、持ち帰るような

「馬鹿な真似」はしないように・・・(笑)



私は桜が大好きで、山野に咲く「一株の桜」がとくに好き

でして、ドライブや旅行、ゴルフなどの道中で見つけると

思わず車を止めて、見入ってしまいます


桜の魅力ってなんでしょう・・・


私は花びらが色あせてしぼんでゆくものとは違い

綺麗に咲き誇ったままで、あっという間に散ってしまう

美しいままに散る「見事さ」に惹かれます


私は「桜が散る」のは哀しいとは感じません

人にはない「最高の時」が「終わるとき」という

異質さに心惹かれてしまいます


ちなみに、日本の国旗は「日の丸」です

日本の国歌は「君が代」です、それでは日本の

国花は何でしょう?

じつは日本には、キチンと法制化された「国花」と

言うモノは存在しません

「桜」だとか「菊」という人も居ますが、根拠はありません

決めなければいけないと言うモノではないですが

日本人としてちょっと寂しい気もします・・・

                   

◎  言葉と語源のお話 


我々の世代は自分の妻を「かみさん」と呼びます

子供達は「お母さん」と呼びます

その語源はなんでしょう?


《 母 》 

 (漢) ボ (呉) ム (訓) はは 

漢字からは「ハハ」という姿が見えてきませんが

母さん(かあさん)という呼び方も不思議です


「かあさん」の由来は通説では、カカ に さん 

を付けて 「カカさん」、それから、「かあさん」そして

「かぁさん」となったようです


では「カカ」とは何でしょう?

通説の一つに、古代では「蛇」のことを「カカ」と呼んでいた

カカ=蛇 それから カカ・身・餅=鏡餅(かがみもち)となった

そんな話があります

鏡餅を上から観ると、まるで蛇が「とぐろ」を巻いているようで

そこから「鏡餅」となったといいます

鏡(かがみ)そのものも、とぐろを巻いた蛇の姿といわれて

カカ・身 → かかみ → かがみ になったといいます

では「かかさん」は蛇という事でしょうか?

これはたぶん蛇とは直接関係がないと

私は考えています

長屋の爺の自論ですが・・・・

古代の音(言葉)を遺していると思われる「アイヌ語」では

奥さんの事を 《カッケマ》 といいます


かなりの暴論ですが・・・

カッケ → カッカ → カカ と言う変化だったかもしれません

昔の呼び方に「うちのカカァ」などと言う人がいました

ドラマなどで、「うちのカカァが・・・」なんて台詞を聞いた事

がありますよね

昔は「かぁかぁ」だったという説もあって、その前は「カッカ」

だったと言うのです

カッカ→カァカァ→カカァ→カカ という事のようです

ある説では、 カカ → カ になったといいます

その 《 カ 》 とは「日」の事だというのです

「日」は言うまでも無く「太陽」のことを指しています

日 も 火 も 陽 も 「ひ」 であって 「か」でもあります

音が同じなら、そのものの本質は類似している

(「はし」のときに検証しましたね)

カカ=陽陽 日日 火火 であることも考えられます

太陽は万物を照らし、生きるものを育み、暖かく包み込む

「おカカさん」とは太陽のように明るく、家族を暖かく育む

そんな能力を持った人

そういう事なのかもしれません


ちなみに「お父さん」については、諸説在りますが

私はアイヌ語の「ト」から来ていると思っています

アイヌ語で ト = 日 のことを指します

これも 日日 で トト、 ととさんは太陽のことです

トトさん→ おトトさん→おととぉさん→おとうさん

ではないかと思っています


トゥ = 二つの と言う意味です

トオ = ずっと遠くに行くという事で、一家の主で

ある父親が遠くに行って「獲物」を採って帰る

家で待つ母親と帰ってきた父親が「二人」揃って

子供達を暖かく包む「トト」と「カカ」というお日様

に懐かれるような・・・


それでは「おかみさん」について

おかみさん→お日みさん→お日身さん

まるで太陽のような母であり、妻である女性を

日としてとらえ女性の体(身)が太陽のようだと

いう事で、日・身さん(かみさん)と呼んだのでは

ないでしょうか、家に帰って奥さん(母親)が居ない時は

きっと暗く感じ、まるで陽がささない天気のようで・・・

やはり女性は太陽のように明るく暖かく柔らかに

包み込む、そんなイメージが太古の昔から定まって

いたからなのでしょう


太陽信仰の古代では、太陽=神 でした・・・

「うちのかみさん」とは言い換えれば・・・

我が家の【神さん】なのかもしれません

                    


◎  平安時代と平安を代表する天皇 2 

【一条天皇】

懐仁(やすひと)親王 980~1011年

諱(いみな)は、大江斎光(おおえのただみつ)

が献上したという

【仁を懐(いだ)く】という意味であり、その名に相応しい

天皇であった

5歳で立太子、7歳で即位した

即位したと書いてはみたが、これが正常な

譲位ではなかった事だけは確かである

986年6月23日丑刻、花山天皇は秘かに

東山・元慶寺(がんぎょうじ)に行き出家した

同行した藤原道兼は逃げ帰り、兼家は内裏の

門を締め切り、【譲国の儀】を執り行った

謀略による「クーデター」といえるかもしれない

7歳の一条天皇に事情など理解できるはずが無い

しかし・・・懐仁親王は践祚し第66代 一条天皇と

なったのである

一条天皇の前期は「藤原兼家」が権勢を欲しい

ままに、身内の昇進を急いだ為、他の公卿の不評

を買い、不参(仕事に出ない)者が多くなり、ついに

「公卿は月に十日は出仕せよ」という達しが出るほど

混乱していた

そして政局は目まぐるしく変わっていった

藤原兼家 藤原師輔の長男 北家九條流

 摂政 関白 太政大臣

藤原道隆 中宮・定子の父 兼家の長男

 摂政・関白 内大臣

 妹・詮子は円融天・女御(一条帝の生母)

 妹・超子は冷泉天皇・女御(三条帝の生母)

藤原道長 中宮・彰子の父 藤原兼家の五男

 摂政太政大臣

 紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護した


権勢は藤原北家の間で移り代わり、一条天皇もその

激流に翻弄されてゆくことになる


一条天皇の御代で評価すべきは、廃れかけていた

【神祇祭祀】の復活である

987年、北野祭(天満宮天神)、吉田祭を行い

同年12月8日、一条天皇の【読書始】が行われ

一条天皇の学識を研鑽する第一歩が踏み出された

この時代から定まったものに、「神社行幸」がある

一条天皇は母親・詮子と共に、岩清水八幡や賀茂社

大原野社を頻繁に参詣した

一条天皇は幼い頃より「病弱」だったといわれ

その治癒と健康祈願のため、それまで疎遠になっていた

「神社参拝」を再開した動機かもしれない

一条天皇から後、天皇が自ら「社寺参詣」をする

ことが一般化されたとも思える


中宮は「定子(ていし)」、「彰子(しょうし)」

一人の天皇に二后という前代未聞の出来事が

生じた背景には、藤原道長の度を越した「権勢」

の行使によるものである

藤原の「無理を通せば 天の道理も消える」は

平安の時代には公然とされていたのである


その二人の中宮(后)には「枕草子」「源氏物語」の

清少納言と紫式部が仕えたことで有名である

一条天皇は中宮・定子を心から愛したていたと

伝えられている

定子の父親・藤原道隆は大酒がもとで亡くなった

と伝えられる

その父の死が定子の運命に暗い影を落としてゆく

代わって実権を握った道長は、娘の彰子を入内させ

一条天皇と定子の人生に深く関わってゆく

 この世をば  わが世とぞ思ふ  望月の
 
       欠けたる ことも   なしと思へば


そもそも定子と彰子は「従姉妹(いとこ)」の間柄で

道隆、道長も兄弟である、母が変われば他人という

その時代の現実を観る気がする



そんな女性達の陰に隠れて、忘れられそうな

人物が居る

安倍晴明((あべのはれあきら)

言わずと知れた【陰陽師(おんようじ)】のスターである

(「晴明」は清浄を意味する「清明」への改名を帝に願い出て

聞き届けられ「清明」と称した)

清明は一条天皇、藤原道長に大きな信頼を得ていた

一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を

奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙され

1004年7月には深刻な干魃が続いたため晴明に

雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は

晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたという

伝説では母親は「信太の白狐・葛の葉」と言われている

 恋しくば 尋ね来て見よ  和泉なる 

    信太の森の  うらみ葛の葉



一条天皇の周りには、数々の才人が参集し、仁を懐くとは

まさに言い得ているのかもしれない

この時代に「平安文学」が大きく花開いた事は「必然」だった

その優秀な人材は、一条天皇の才智によって引き出された

私はそう評価している

                   

◎  日の丸 


君が代 を書いたのなら、日の丸はどうした?

そんな声が聞こえてきそうなので(笑)

  日の丸

日の丸の旗  作詞:高野 辰之
         作曲:岡野 貞一

一、
白地に赤く 日の丸染めて
ああ美しい 日本の旗は
二、
青空高く 日の丸揚げて
ああ美しい 日本の旗は



この日本の国旗 「日の丸」

いつごろ決まったのか、知っていますか

これは江戸時代(1853年)に黒船が日本に

やってきて、「《ナショナル・フラッグ(国旗)》をつけ

ていない舟は、大砲を打ち込んで沈めても良い

世界のルールがあり、一年後来るときまで国旗を

つけて走るように・・・」

とペリーに言われ、あわてて決めたのが「日の丸」

という国旗だった

提案者は薩摩藩主・島津斉彬といわれている

「日本の将来は古代から日本人が命の恩として

愛してきた、かがやく太陽のようでなければならぬ」

ということで、提案されたという

しかし幕府は、「白地の中央に黒い一本線」の旗を

主張した、それに異を唱え断固反対し「日の丸」に

決定させたのが、水戸・徳川斉昭であった


世界の国々のニュースを観る機会があっても

うっかり見逃す光景に、国旗を振る民衆の姿が

あります

どうして何かが起きると、国旗を振りかざすのでしょう?

それは、国旗は「国のシンボル」であると同時に、領土権

を表すものだからです

国旗には、長い歴史・伝統・文化・誇りがこめられていて

其処に暮らす国民の権利を「宣言・主張」しているのだと

私は思っています

ですから、他国の国旗を踏みつけたり、焼くなどという事は、

「宣戦布告」しているのと同様なのです


戦争がおきても何ら不思議ではない行為なのです

(この事実が理解できないから、愚かな行為が平気で

行えるのかもしれません 日本が寛容なのか?)


そして・・・国民がその国旗を否定する事は、その国の国民

である事を否定しているのと、変わらないという事になります。


国土(自然)を表す旗のデザインが、太陽を表す赤い丸であること

は世界の「羨望」となっているはずです



日は太陽であり、その太陽によって生かされている

これは嘘でもなんでもない話です

明日の朝、太陽が昇らなければ、どうなるでしょう?

曇っているとかそういう問題ではなく、太陽が無くなったら

私達は瞬時に【死滅】するのは間違いありません

日 = 太陽 = 神 

神さまのお蔭で「生かされている」「生きてゆける」

太陽は作物だけでなく、生きるもの総ての「いのち」

の「もと」なのです

だから、「いのち(太陽=日)のもと(本)」

日の本であるから、日本という国名なのです

(なんとなく命名した国名ではありません)



日本だけでなく世界の多くの国で「太陽信仰」「太陽崇拝」

があります、それは同じような理由からだと思っています

インカ神話のインティ、エジプト神話のアテン、

ギリシャ神話のアポローン、モンゴル神話のナラン、

インディアン神話のツォハノアイ・・・

古代ではどの民族も太陽崇拝(太陽信仰)だった

その太陽を国旗に取り入れている国もあるが、

太陽そのものだけを国旗にしているのは日本と

バングラディシュくらいだろうと思います

アメリカへ行けば、どこでも「星条旗」がたなびいています

中国へ行っても、インドへ行っても、ロシアに行ってもです

国旗が表しているのは、国民の誇りと領土権の主張なのです

国旗は戦争のために存在しているわけではありません

其処に暮らす国民の「生きる権利」と「生きる誇り」を宣言する

そのために存在しているのです


太陽と共に繋いできた「いのち」

それを大切に守ってきた日本人

その日本人が誇れる国旗

それが「日の丸」だと私は思っています


学校で「日の丸」の掲揚をせず、君が代を歌わないのは

先祖が築いた「大地・自然」を捨ててしまうことであり

「いのち」を繋いでくれた太陽の存在を否定する事

愛するものを守らない「愚かな者」と宣言する事

生きていることに感謝しない人間を育てることなのです

                   

◎  伊勢斎王 

斎王 (さいおう)

古代から南北朝時代の伊勢神宮に奉仕した

女性(内親王・女王)のことで、賀茂神社の

斎王(斎院)と区別する為、斎宮(さいぐう)とも

呼ばれる

厳密に言うと内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は

「斎女王」といい、両者を総称して「斎王」と呼んだ

伊勢神宮の斎王は、伊勢斎王・伊勢斎宮ともいう

平安時代以降は、50人を越える内親王(斎王)が

伊勢入りしているが、それ以前の斎王については

虚構とする説もあり、不明な事が多い

原則として「未婚の内親王・女王」から選ばれ、長い

時間をかけ準備する

その過程は、卜定(ぼくじょう)→初斎院(しょさいいん)→

野宮(ののみや)→群行(ぐんこう)→退下(たいげ)となる

斎王はアマテラスの御杖代(みつえしろ)として奉仕した

《御杖代とは神の意を受ける依り代のこと》


斎王に任じられた者が任を終えることを

退下(たいげ)または下座(げざ)という

退下するのは、通常では天皇の崩御・譲位

であるが、斎王の父母、近親者の死去によっても

退下した

また、潔斎中の【密通】等の不祥事でも退下した


未婚の女性と言っても「性」が大らかだった時代であり

幾つかの事件も起きている

雄略天皇の御世、稚足姫皇女という斎王は、武彦との

関係を噂され自殺している

欽明天皇の御世、磐隈皇女という斎宮は、茨城皇子と

関係を持った罪で解任されている

敏達天皇の御世、菟道皇女という斎宮は、池辺皇子と

関係を持った罪で解任されている


退下後の斎王の消息はほとんど残って無いが

基本的に「内親王」の婚姻相手は「皇族」に限られ

ていたので、奈良時代までは天皇若しくは皇族のみ

が相手であったと思われる

しかし平安時代になると、【雅子(がし)内親王】と

いう女性は、歴史上唯一臣下に降嫁した

(皇族以外に嫁いだ前斎王(内親王)はただ一人)

歴史に名を遺した内親王という事になる


その相手は、右大臣・藤原師輔といい雅子内親王の

実姉・謹子内親王の夫である

(謹子内親王が薨去し後妻となり、雅子内親王が

死ぬと、妹の康子内親王を妻とした)

雅子内親王は過去に左大臣藤原時平の息子の

藤原敦忠と恋に落ちたが、斎王に卜定されて

悲劇的な別れを経験したが、斎王になってからも

歌を交わすほど情熱的であったという


匂薄く 咲ける花をも 君がため 

     折りとしをれば  色まさりけり

折らざりし 頃より匂ふ 花なれば 

     わがため深き  色とやはみる

あらたまの としのわたりに あらためぬ 

     昔ながらの  はしもみせまし

はしばしら 昔ながらに ありしかば 

     つくるよもなく  あはむとぞみし


とは言っても、多くの前斎王は生涯独身だったと

考えられている

                   

◎  君が代 

君が代

言わずと知れた日本の国歌である

この歌の起源はいつだろう・・・

1013年に書かれた【和漢朗詠集】という本に

書かれていたといいます


君が代は 千代に八千代に さざれ石の

いはほとなりて こけのむすまで



この中に出てくる「君」とは誰の事でしょうか?

答えは 「あなた」「キミ」の「君」です

代というのは、寿命・いのちを指します

だから、あなたのいのち、あなたの寿命と

なります

良く聞く話に、君とは「天皇」のことだと力説する

人も居ます、ですが天皇のことを指すならば

おそらく「大君(オオキミ)」と書くはずで、代も

天皇の代ならば「御代」となるはずです


だが、天皇に置き換えて歌っても問題は無いでしょう

それぞれの思いなのですから、何人(なんぴと)も

人の考え・思いをとめることはできません

人によっては、身近な相手を思い、またある人は

天皇陛下を思い、口ずさむことは問題ないのです


ですから・・・

あなたのいのちが、いつまでも長く続きますよう

小さな石が集まって大きな石になり、その石に

苔が生えるくらい、元気に長生きしてください

そういう意味だと思います

しかしこの歌の起源はもっと昔にあったのです


古今和歌集 三四三 (905年成立)

わがきみは 千世にやちよに さざれいしの

いはほとなりて こけのむすまで

《 題しらず  読人しらず 》



原詞は「わがきみ」となっている

「わがきみ」とは昔、女性が愛したり尊敬する相手

(男性)に使った言葉である

この歌は平安時代の、名も無き女性が愛する男性に

贈った「恋のうた」だったと考えて良いのではないかと

私は思います


そう考えれば、私達日本人の国歌「君が代」の原歌は

《恋する女性の恋の歌》だったことになるのです


国歌を歌わない風潮がある昨今、こんなに人を明るく

する要素をもつ歌詞の国歌を嫌う事が理解できません

このどこが「軍国主義」「帝国主義」なのでしょうか?




「君が代」にはもう一つの「秘話」があります

この日本の国歌「君が代」は、「ギネス・ブック」に

掲載されているのです

理由は・・・・

【 世界で最も古い国歌である 】

そういう理由なのです


私は英文は苦手なので、訳文で紹介します

【世界最古の国歌は、日本の「君が代」である。

その歌詞は、9世紀に始まる。】 


誇りに思っても良い、日本の国歌「君が代」

改めて見直してみませんか・・・・・

                   

◎  神さまとお賽銭 

運勢 星占い を信じる人は多い

幸運のアイテム 運気を上げるアイテム

幸運の壺 魔除けの御札・・・・


神社で拝礼するとき、いったいいくらのお賽銭を

投げ入れますか?

5円は「ご縁」に通じ、良いとされ

10円は「遠縁」に通じるからダメという

これを信じている人・・・結構多いそうです(笑)

これは「俗信」でしかないですから

根拠など皆無です、芸人の「語呂遊び」の類ですね

縁起を担ぐ、担がれる人は、ぐるぐる巻きにされて

身動きできなくなります

人を騙すのも「担ぐ」といいます、基を糺せば一緒で

縁起はそれを信じ込むことによって、騙されている

ことに眼を背けて都合の良い解釈をする

きつい言い方ですが、そういう事だと思っています

ご縁(5円)・縁遠く(10円)なるなども、もともとは

「言霊信仰(ことだましんこう)」の産物です

良い意味の言葉を使えば、運気が上がり

忌むべき言葉を使うと不幸になる

(ことばあそび も神さまと深い関係があります)


さて、そもそも神さまが「いくら頂戴」というはずもなく

参拝する人の「心を形に替える」手段でしかないのです

沢山入れたからといって、特別何かが変わるわけではない

・・・ですが、感謝する気持ち、見えないモノを敬う気持ちは

けっして無駄ではありません

神社の賽銭箱には

yjimage 4

yjimage.jpg


yjimage 5

と様々な形や、文字が書かれていたり、紋が彫られて

居たりします

この中に「浄財」と書かれたものがあります

yjimage 33

浄財 というのは、寺社などに寄付する金銭のこと

そうなんです・・・神さまに供えるというのは便宜上

で、寺社のために「使ってください」という寄付行為

なんです

それなのに、「ご縁がある」「縁が遠のく」なんていうのは

明らかに神さまを冒涜している事なんです

どうしても「5円」=「ご縁」を通したいなら

私がお勧めしたいのは、5円玉を何十枚か数珠繋ぎにして

賽銭箱に入れてみるのはどうでしょうか

地元の「氏神様」も修理や行事に「経費」がかかるもの

とくに禰宜さんや神主さんが常駐しないところなどは

維持に苦労していると思います

(余裕があるなら少しでも多くの賽銭を出してください)

神さまが寄進や浄財を欲しているなどという新興宗教は

100%出鱈目だと断言します


本来は神さま・仏様に「お供え」は不要な物

あくまでも供える人間の気持ちであり、言葉は悪いですが

「自己満足」でしかないと考えます

感謝の気持ちが「見えるように」形に替えたのが、「供物」

だったのです

私達は「これくらい感謝しています」と奉げることから、始まった

ものだと考えます

自分が神さまだったら、きっと喜ぶだろう、喜んでくれるはず

に違いない・・・という事なんです

賽銭が少ないから、供物が少ないから、ご利益が少ない

という発想は、「ギブアンドテイク」であり、「無私の祈り」

とは異質な物でしょうね

賽銭箱の中の「お賽銭(お金)」は神様の手元に入る

わけでもなく、その神社を管理する人にわたるのに

神さまが「どうこう言う」はずがありません

どう解釈しようと、賽銭を入れた私たち自身が思い込んで

いるだけに過ぎないのです

神さまのために使って欲しいという思い

それが「お賽銭」の存在する意味だと思います


見返りを求めないことが「神に感謝する事」

活かされている事、微笑むことができることに感謝する

その原点を心の片隅に置いて、神さまと向き合って欲しい

そんなふうに私は考えます

神さまは「本殿や祠」に居るのではなく、各々の心の中に

住んでいる

神さまに拝礼するという事は、自分の存在に感謝する事

言葉にすると理解し難いですが、感謝する相手(対象)は

親兄弟家族、自然大地、を含めて何処にでも居るということ

草花にも、小さな水溜りにも、線路脇の砂利にも、神様という

精霊が宿っている

その精霊に感謝する事が、神社での拝礼だと、私は思っている

のです



綺麗事に聞こえるかもしれませんが、信じることとはおそらく

神さまに何かを求めるのではなく、神様に感謝を表すこと

「自分が生きている事」に感謝すること

ただそれだけ・・・



熱心で無くていい、ほんの少しでいい、形なんてどうだっていい

神さまと向き合うのは、人それぞれでいい・・・


長屋の爺はそう思っています

                   

◎  言葉の力と魅力 

ある方のブログに書かれていた事で私の

思いを少しだけ・・・

最近の音楽(歌謡曲)に背を向ける中高年が増加

しているという

私自身も何でも聞くのだが(民謡・演歌・軍歌・唱歌・

ジャズ・POPS・フォーク・カントリー・クラシック・ロック)

最近の音楽はうるさいだけで、耳にも残らず聴いた次の

瞬間には何も思い出せない曲ばかりである

その要因の一つに、日本語で言えば「ことば」に心が

こもっていない

歌詞の一語一語に、想像させる言葉の「奥行き」が

存在していない

日本の言葉には、一言で「拡がる情景」「心の動き」が

察することができる「力」が備わっていた

その大きな原因が、文字を読まない習慣と、古の言の葉

を知らずに生きているからではないかと私は思っている


文字は色も形も無い「想像」の世界に漂っている

文字を読むだけで、言葉を聞くだけで、自分だけの

想像の世界が展開してゆく・・・

歌詞の一部がいつまでも印象に残るのはその影響だと

思っている

多くを語らなくても、事細かく説明するまでも無く、短い言葉で

総天然色の映像が浮かんでくる (総天然色は死語?)

「歌」とは【唄】であり【唱】でも【詩】でもある

その起源は、「訴える」である

何かを「うったえる」ために、歌われた・・・

歌うとは謳うことであり、唄う・謡う・詠うことでもある


そして・・古の言葉で訴えたのが【和歌】である

恋しい気持ちを歌ったのはずっと後のこと

始まりは命の事、神祭りのことを自らの言葉で表現

したものだと思っている

古の和歌の解説を観るたびに、その裏側にある悲痛な

叫びや嘆きを、読み解く「解読表」が失われた事が残念

で仕方が無い

私の個人的な思いで言うと、現代の作詞家・作曲家の

中で、本来の言葉を紡ぐことができる人は極端に少ない

そんな中で、私は「さだまさし」が一番だと思っている

私の好きな歌詞は、さだまさしの「まほろば」である

この曲は『万葉集』の磐姫皇后の歌2首を題材に

つくられている


在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日(巻2-87)

ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに


明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文(巻2-89)

居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも


まほろば  作詞・曲 歌 さだまさし
春日山から 飛火野(とぶひの)辺り
ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に
たずねたずねた 帰り道

遠い明日しか見えない僕と
足元のぬかるみを気に病む君と
結ぶ手と手の虚(うつ)ろさに
黙り黙った 別れ道

川の流れは よどむことなく
うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い

例えば君は待つと
黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは
まるで宛名の無い手紙

寝ぐらを捜して鳴く鹿の
後を追う黒い烏(とり) 鐘の声(ね)ひとつ
馬酔(まよい)の枝に引き結ぶ
行方知れずの懸想文(けそうぶみ)

二人を支える蜘蛛の糸 
ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
君を捨てるか 僕が消えるか
いっそ二人で落ちようか

時の流れは まどうことなく
うたかたの夢 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日
再び戻る今日は無い

例えば此処で死ねると
叫んだ君の言葉は
必ず嘘ではない
けれど必ず本当でもない

日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹(あおに)よし 平城山(ならやま)の
空に 満月

                   

◎  平安時代と平安を代表する天皇 1 

平安と聞けばなにを連想するだろうか

華やかな宮廷絵巻だろうか

それとも平安文学だろうか

意外と知られていない平安の世

神祭りの希薄な印象を感じる時代だが

少し覗いてみたいと思う


平安を代表する天皇といえば、どの天皇になる?


第50代 桓武天皇~第82代 後鳥羽天皇まで

私個人としては、嵯峨天皇、宇多天皇、一条天皇

そして後鳥羽天皇を評価したい


第52代 嵯峨天皇 (神野親王)786~842年

桓武天皇の皇子で23歳で即位

「薬子(くすこ)の変」が大きく取り上げられ、天皇の

業績に眼が向けられないが、評価すべきものは

多いのである

平安初期の政治を安定させた功績は大きい

その中でも、眼を引くのは・・・

平安時代は経済的な困窮で幕を開けた、平安初期は

大掛かりな「遷都」によって、朝廷は経済的に逼迫していた

そんな中で嵯峨天皇は、宮廷費を節約する為に、八人の

皇子を「臣籍降下」させた

それまでも臣籍降下する皇族は居たが、率先して皇子

を降下させたのは、この天皇が最初だろうと思う

(湯水のように宮廷費を浪費する事が、如何に罪深いかを

心得ていた天皇だったのである いつの時代も宮廷費は

人臣の租税から支出されるのは不変である)

また天皇は「詩文・書」に優れていた

書は 【橘 逸勢(はやなり)】、【空海】とともに三筆

一人に数えられている

「宇治拾遺物語」の中に逸話が遺されていて

内裏に落書きがされる事件が起こり、天皇はこのような

落書きが出来るのは「小野篁(たかむら)」に違いないと

篁に疑いをかけた

(その落書きは 【無悪善】というもので、篁は「さがなくて

よからん」と読んだそうだ、「さが」とは よこしま という意味であり

「嵯峨」を掛けた言葉であり、天皇を呪った言葉であった)

悪(さが)無くて善からむ ということなのか?

あるいは、【悪(嵯峨)がいなく無れば善い】なのか・・・

その嫌疑を晴らすために天皇から難題が出された

「子子子子子子子子子子子子」  (子という字が十二個)

これを小野篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と

読んで疑いを晴らしたという

ねこ の  の こねこ しし の  の こしし


第59代 宇多天皇 定省(さだみ)親王

光孝天皇第七皇子  867~931年

一度は臣籍降下した 光孝天皇の皇子で

20歳の時、性格が良く、心も広く天皇にもよく仕え

思いやりがあるとして、源氏姓を削り皇太子となる

そしてその日、光孝天皇は崩御し、親王は践祚した


権力者・藤原基経が望まなかった天皇即位であった

宇多天皇は数多く居た光孝天皇の皇子の中で、ひときわ

自分の意思や考えをしっかりと持つ親王だったからである

この天皇の最大の業績は、藤原氏以外の忠臣を抜擢登用した

ことである (菅原道真・平季長・紀長谷雄など)

代表は何といっても【菅原道真】の登用である

藤原氏隆盛の時代にあって、右大臣に抜擢している

この時代は学者の勢力争いが激しく、学者がマツリゴトに

口を挟み、混乱を招いた時代でもある

橘広相(ひろみ)と藤原佐世(すけよ)との確執は有名である

「阿衡(あこう)」

この時代の慣例として、重職に任命するときは、「三顧の礼」で

就任を求め、「三譲の礼」を尽くすのが習わしだった

就任要請があると直ちに辞退の意向を告げ、相手は再び

要請をしこれも辞退する、ところが二度目の要請の文に

「宜しく阿衡の任を以て卿が任と為すべし」と書かれていた

藤原佐世(左少弁兼式部少輔)は「阿衡」とは「位」のことで

司るべき職掌が無いと指摘し、基経が臍を曲げ出仕しない

という事件が起こった この勅答を作成した橘広相の失態に

かこつけ、基経の関白としての地位を揺るぎ無いものにし

親政を目指す天皇を押さえ込む策略だったのだろう

このとき菅原道真は、讃岐守として地方暮らしをしていた

が藤原基経へ「阿衡事件」についての意見書を出している


いつ観ても、いつ聞いても、日本人の感覚からすると

藤原の生き方は「日本的でない」と感じる、我欲の

ためなら横紙破りも辞さないやり口には、異国の匂い

すら感じてしまう

「和を以って 尊しと為す」は反面教師から出来た

言葉なのかもしれない、建て前は「話し合い」で、実際は

「手段を選ばず」理不尽の限りを尽くす

ヤマト以来の豪族諸族には見られない性質・気質だ


天皇は藤原基経が亡くなると、関白を置かず親政を行った

その中で天皇が意見を求めたのは道真だけだったという

学問に熱心な天皇で、「類聚国史」(菅原道真 編)や現存

最古の漢和辞典「新選字鏡」などもこの時代である

天皇の一番の業績は、「寛平御遺誡(ごゆいかい)」という

天皇の心得と天皇がなすべき事を書いたものを皇太子に

書き贈ったことである

神祭りが最優先される事を、自ら後嗣に伝えた事は

もっと評価されるべきだと思っている

以来長きに渡って、天皇の「金科玉条」とされてきた

天皇陛下の「申詞(もうしことば)」も、これのおかげで

知る事が出来るのである


天皇の信頼を受けた菅原道真も、次の醍醐天皇の時代

藤原時平(左大臣)の讒言(ざんげん)によって、大宰府に

左遷され、失意のうちに亡くなった

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな


(一条天皇・後鳥羽天皇は次回にでも・・)

                   

◎  遺したい日本の言葉 

歳を重ねるたびに耳にしなくなった言葉

日本人が愛して伝えてきた「日本の言葉」は

このまま消えてゆくのだろうか・・・


日本語は「口語」「文語」という区別だけでなく

日常の中からものすごい数の言葉を生み出し

使い分けてきた歴史を持っている

言葉は文化といってしまえば、それまでであるが

変わり行く日本文化の中で、私達日本人が

遺しておきたい言葉、忘れてはいけない言葉

そして・・・その言葉の本来の意味を忘れてはいけないと

私は感じている

この途方も無い事に興味を持ち、触れて

気づいた事は、「日本語は難しい」ということ

日本で生まれ日本で育った爺にも、日本語は

とてつもなく難解な言語だった

はっきり言って「挫折」を感じている長屋の爺である


そこはかとなく  やんごとない おもはゆい 

耳にするだけで「美しさ」が感じられる言葉

そんな言葉について、少しだけ雑学を・・・


【しじま】 漢字で書くと 「黙」 である

沈黙 無言 黙っている事 

そこから、静まりかえっている事を言う

夜のイメージだが、この言葉は昼間でも使うことが

出来る


【くれなずむ】 暮れなずむ である

暮れは、暮る・昏るの変化だろう

泥む(なずむ)は、なづむ からの変化で

停滞すること とどこおること 執着する事

暮れそうで暮れない、空模様を表現する言葉

暮れなずむ→暮れ残る→暮れ染める→暮れ行く

そして・・・ 暮れ果てる ことになる

おなじ夕景の短い時間を、古(いにしえ)の日本人

は多彩な「ことば」によって細かく表現したのである


【あさぼらけ】  朝朗け と書く

夜がほのぼのと明けてゆくころ

平安時代には、曙(あけぼの)を、「あさぼらけ」と

読ませている辞書もある

ほのぼのと・・同じ情景なのかもしれないが

時間的な推移とすれば、あけぼの→あさぼらけ

というイメージだろうと思う


【しぐれ】 時雨 と書く

晩秋から初冬にかけ、断続的に降る雨のこと

元々は中国の「時雨(じう)」に「しぐれ」の読みを

当てたものといい、本来は季節感を伴わない言葉で

それを日本人が季節を表す言葉に変えたようである

私の私観では、(しく) 敷く・領く・・一面に広がる

あるいは、(しく) 頻く・・・何度も繰り返す、度重なる

しく・る  しく・れ  しぐる  しぐれ 時雨 

そんな雨の情景を、時間を措かず降るさまを表現した

言葉なのではないかと思っている



【まほろば】 古語の「まほら」の変化

「ま」は接頭語で美称として、「ら」は接尾語という

漢字で書くと、「真秀ろば」で

優れたよい所という意味になる

「ほ」は、高く抜きん出ることを指し、優れている

と言う意味になる

この言葉の反対語とされるのが、「かたほ(片秀)」で

不完全ということから、容貌の悪さをいう

差別語の「かたは」はこの言葉からの転かもしれない



【たおやか】 嫋やか と書く

古語は「たをやか」、(たを)は、しなやか やわらか、で

(やか)は接尾語

性質や動作が「おだやか」「しとやか」なことをいう

この言葉から「たをやめ(手弱女)」、たわやめ、たおやめ

ともいう言葉が、意味は《か弱い女性》のこと

今の時代には希少種か(笑)


【たまゆら】 漢字では 玉響 と書く

ほんのわずかの間、ちょっとの間 の古語

玉のふれあう微かな、音の時間の間を表現した

ものだろう 風流心が無い爺には、残念ながら

その情景が結べない・・・・



失ってはいけない言葉の文化、日本人は合理的より

情緒・風情を大切にしたのだろう

遺さなければならない貴重な「日本の言葉」

まだまだあるが、またの機会に・・・

                    

◎  宮家の称号 

宮家

私達が普段、眼にし口にする「宮家」というのは

法律で決められたものではない


意外と思われるかもしれないが、皇室には「姓」が無い

天皇は【天皇陛下】であり、皇后は【皇后陛下】であり

ご夫妻の場合は【天皇・皇后両陛下】と呼ぶ

皇太子は【皇太子殿下】、雅子さまは【皇太子妃殿下】

ご夫妻の場合は【皇太子・同妃両殿下】と呼ぶ

あくまでも「天皇家」であり、我々のように(日本人として)

姓は存在しない


さて、宮家であるが公式には宮家が法律に基づかない

制度であるため一般的な呼び名と公式な呼び名に

分けて使われるのが正しい



秋篠宮家でいうと、一般的には【秋篠宮殿下】といい

公式には【文仁親王殿下】と呼び、紀子さまは

【秋篠宮妃殿下】と呼び、公式には【文仁親王妃殿下】

と呼ぶ、ご夫妻ならば【秋篠宮・同妃両殿下】であり

公式には【文仁親王・同妃両殿下】ということになる


「宮号」は成人になり結婚して独立した時に天皇から

与えられる、「姓」に該当する【称号】である

これとは別に「天皇」と「皇太子」の子供(幼少時)にだけ、

特別に与えられる「宮号」とは違うものである

例えば現・皇太子は「浩宮(ひろのみや)」であり、秋篠宮は

「礼宮(あやのみや)」と呼ばれていたし、愛子さまは「敬宮

(としのみや)」と呼ばれている

殿下という呼び名は天皇、皇后、皇太后などを除く皇族の

尊称で、嫁がれた女性だけは「妃殿下」といい、その他は

女性であっても「殿下」と呼ぶ、さらに歴代の天皇の「孫」

までを【親王】(内親王)と呼び、ひ孫からは【王】(女王じょおう)

と呼ぶことになる

成人にも皇室独自の決まりがあり、天皇と皇太子は18歳

それ以外の皇族は20歳と定められている

どうして天皇と皇太子は18歳で成人(成年)とされるのかは、

未成年の天皇の場合、天皇の代理として国事を務める皇族を

【摂政】として置く事になり、それを出来るだけ回避する意味で

成人年齢を下げているのである

天皇が未成年という事は、皇太子も未成年であることが想定され

天皇が「国家元首」であることを重んじたからだとも考えられる

皇族の摂政就任は、天皇が未成年であったり、天皇が病気・

事故などで国事行為が務められない場合に行われる

(昭和天皇も大正時代に、天皇に代わり摂政として公務を行った

ことがある)

皇族は成年になって初めて皇室行事にかかわる事になる

新年参賀や諸行事に参列されたりするのも【成年皇族】に

なるまで出来ない、大過なく成年に成長するという事が

歴史的にも意義のある事だったからではないだろうか


さらに各種公益団体の「名誉総裁」などに就くのも成年皇族に

なってからという事になる

                   

◎  皇室祭祀と宮内庁の大罪 その1 

【 国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援
 
、保全、監督ならびに弘布の廃止に関する件 】


これは昭和20年12月にGHQから出された指令

いわゆる 【神道指令】 というものである

事実、占領軍は神道に対する差別的圧迫を加えた

宮中祭祀は存続の危機はまぬがれたが、

「皇室の私事」という状況に貶められたのである


そもそも、被占領国の宗教に干渉することは

《戦時国際法》 に違反
するものなのであり、70年間

それを踏襲したことは、政府の怠慢でもある


なぜ政府の怠慢だというのか・・・

あくまでも私の私観であるが、GHQは神道指令に

観られるような、国家神道が「軍国主義」の源泉だという

誤った考え(妄想)に気づいたと考えられるからだ


その結果として、昭和24年の参議院議長の葬儀は公邸

において、神道形式で行われ、昭和26年、吉田茂首相の

靖国参拝にも異論は出なかった

そして昭和34年、皇太子(今上天皇)の御成婚では、賢所大前

での神式儀礼が《国事》として「閣議決定」されたのである

この段階まではGHQに貶められた皇室の立場は回復に

向かっていたと感じている


ところがこれを戦後GHQの間違った解釈に傾倒した

一人の日本人によって、崩れていく事になる

その男の名前は 【入江相政(いりえすけまさ)】 

という

昭和43年に侍従次長に就任してから、皇室の受難が

始まったのである

「悪魔の僕」、「神を冒涜する国賊」と私は評価している


毎月一日に天皇自ら行ってきた「旬祭」を年二回に減らし

新嘗祭(にいなめさい)の簡略化(形骸化)を図った

許すまじき奸賊なのである

宮中祭祀が「皇室の私事」とされたものが、現実として

改められる気運を、台無しにした事を私は容認できない

現在の皇室のあり方を思うとき、この悪魔の僕から

「宮内庁」の反国家観が芽生えていく事になったのだから

この男の罪は途方も無く大きいと言わざる得ない

さらに勢いをつけたのは、昭和49年宮内庁次長に就任した

富田朝彦という、自称「無神論者」が加わった事による

宮内庁幹部は今では「外務省」からの転勤組が主体であり

戦前までの「生え抜き」と呼ばれる人間は少数派でしかない


外務省(O氏派閥)→宮内庁幹部→皇室の専横化


本来なら「女性の管理職」を論議する前に、皇室祭祀が

最優先される「宮中」に、寄り添う者が無神論者や「皇室否定論者」

が務めるようでは政府の怠慢・大罪と言われても当然ではないか

日本の根幹に位置する「皇室」を占領軍から取り戻せないで

何を取り戻そうというのか?

眼の前に居る一人の「ジャーナリスト」を取り戻す努力をしない者が、

所在すら不明な拉致被害者を取り戻す事など絶望的ではないか

この論理が分からないから、適性を欠く人間が管理職になる事を

不可解と思わないで、女性なら誰でも管理職に登用し、数を増やせ

と企業に迫ることになっている

国に「反感・敵意」をもつ者が、政治の中枢にいる事が正しいのか

企業に「害する・軽視する」社員が、経営に携わる事など論外であり

その宗教を「否定し貶める」人間が、宗教中枢に昇る事は無い

皇室を支える人間が「皇室否定論者」であったなら、その任命責任者

は計り知れない大罪を犯していると言っても過言ではないのである


ここで簡単に宮内庁の何がいけなかったのか

それを短く説明してみたい

「国は如何なる宗教活動もしてはならない」(憲法23条三項


国の機関である「宮内庁」が皇室の私事であるはずの、宮中祭祀

の変更(簡素化)をすることは、あきらかな政治的介入(越権行為)

であり、《絶対分離主義》に抵触する事にもなるからだ



そもそも憲法23条に対する解釈に矛盾点が多すぎる

国は如何なる宗教活動もしてはならないのに、寺院や神社

御殿の整備・補修に関与している事実をどう説明するのか

皇室祭事に政府要人が公的に参加し、公務員を配置する事は宗教

にかかわる事ではないというのか?

私はこれが悪いとは思っていないが、事あるたびに「政教分離」

を免罪符に使い、政党と宗教との同一性をうやむやにする事が

はたして憲法に反していないのか、反している可能性があるならば

皇室祭祀を形骸化することの出来ないように、法整備をするのが

筋であると思っている

宗教が政治と無縁などという、馬鹿げた考え方こそ異常であり

アメリカ大統領の就任式でも、大統領は聖書に手を置き宣誓をする

これが日本の神道を政治から切り離そうとした「米国」の実態である


変えるべきは変え、守るべきは守り、伝え遺すべきものは、何を置いても

残すべきではないだろうか


どうして日本の神道が評価されないのか不思議で仕方が無い

日本神道は宗教的な問題で「内戦」を起こしたことも無く、宗派が

違ったり所属が違うからと言って、血生臭い紛争などした事はない

当然「所領」に関しても、仏教と共存した過去があり、いまでも寺院に

鳥居があったり、神社に仏教関連施設が同居している例もある

(明治政府の廃仏毀釈騒動は宗教問題ではなく政治問題である)


一神教のように、異教や宗派の違いによって、殺しあう事が通常の

世界にあっても、特筆するべき「特色」を保持しているのが神道だろう

総てを受け入れ、民のために国のために祈る宗教活動(皇室祭祀)を

国家が疎かにしたままでよいはずが無いのである 



                   

◎  皇后の仕事 


皇后陛下(以下皇后とする)の仕事に少しだけ

ふれてみたい

皇后は天皇と共に数々の行事に出席するが

そのほかに皇后独自の仕事も持っている

法律では皇后の務めについて、何も規定されて

いないという事実がある

しかし、現在の美智子皇后が歴史的な伝統に

プラスした形を作ってきた

それが現代の皇后の「務め」という事になるだろう

具体的には、皇后が名誉総裁を務めている

「日本赤十字社」の関係すること

同じく名誉総裁を務められている「国際児童図書評議会」

に関すること

さらに、国立ハンセン病療養所の所長を御所に招いて

現状や課題について説明を受けられる

「ねむの木賞」の受賞者を御所に招き、親しくお話を

されるなど、国民の眼には見えないことも多くある

このような務めの基本は「照憲皇太后(明治天皇皇后)」

によるものだとも言われる


だがこれらは皇后単独の行事(務め)であり

その大部分は天皇のお傍に在って、拝謁や会釈など

の行事に参加されている

さらに、天皇の皇室祭祀の半数(年十数回)にも

皇后はお出ましになっている


皇室祭祀は皇后にとっても大事な務めなのである

天皇が単独でも、皇后が単独でも、皇室の務めは成り立たない

天皇と皇后が揃ってこそ、皇室の存在価値(意義)が発揮される

それが明らかなのは、「皇后」の座は一つであり、天皇と共に

赤子のために祈る「祭祀の両輪」なのである


伝統とは疎かにしてはならないもの

まして祖神や八百万の神に祈ることが有史以来の務めに

なっている「皇室」において、皇后といえど疎かにしては

成立しないことなのである


「ひなかざり」でも、内裏様とお雛様が揃っているから

絵になる(価値がある)のではないだろうか

両輪と言うのは「片方でもダメ」であり、両方が機能しないでは

論外という事なのである


天皇皇后両陛下の公的・私的行事を書いてきたが

何を優先するかという事になれば、あの宮内庁でさえ

明言している 《皇室祭祀が最優先される》ことであり

天皇ですら風邪等では「執務」を休む事は許されない

現実があり、皇后はどんな状況でも、「痛い痒い」と言って、

手を抜く事はできない

それが皇室に嫁いだ「皇后」の宿命なのである


両陛下が何をするかしないかの基準は「皇室祭祀」を

頂点に、優先順位がつけられることになり、「甚大な疾病」

などでは、皇室祭祀も公務もできないことになり、存在

そのものが問われる事になる

后選びの基準が「健康である事」なのは、そういう事を

見越して定まっているのではないだろうか

(もう少し 書きたかったのですが「胃腸風邪」にかかり

体調がいまひとつなので、今回はこれにて・・・)

                   

◎  文字と漢字と音の話 


【はじめに言葉があった 言葉は神とともにあり、

 言葉は神であった (ヨハネ伝 福音書)】


私の自論である まず音(ことば)があって

その後 文字が当てられた・・・・

それを後押ししてくれる言葉が↑のヨハネ伝に

書かれていた


言葉を書き残す為に、文字が出来たとは思っていない

言葉を文字にする必要性がまるで見えてこないのだ

物体の形を表現する方法というか、現象・事象を後世に

伝えるために文字が作られたと思っている

象形文字はその時々の状況(形)を表したものではないか

その状況は特別な事であり、伝えていくべき大切な事であり

神と人のかかわりを伝えることから始まった

これは長屋の爺の妄想である・・・。


どの書物だったか忘れてしまったが、こんな事が書かれていた

【文字には当初、音(読み)が付いていなかった】

薄い記憶なので確かとはいえないが(笑)

神祭りや祭祀を形で現したとするならば、音が付いていなくても

不思議ではない

厳粛な「祭儀」に、祈りの言葉は無かったのかもしれないし

あったとしてもそれを記録し伝えるようなものではなかった

神を祭るモノの言葉は特殊だったのかもしれないし

神に平伏す民衆には「言葉」など不要だったかもしれない

日本の天皇の祭儀での【申詞(もうしことば)】にみられる

ように天皇から次期天皇への直伝という形もある

つまり神に関することから文字が作られた

言い換えれば、文字は神と言う存在を後世に伝え遺すため

に作られたと言っても良いと思う

その後、色々な事象も文字にして残された、それが文字の

始まりだったのではないだろうか

いきなり何百もの「象形文字」が出来上がったとは思えない

しかし最初の文字はおそらく「神祭り」の記憶を後世に

伝える手段だったのではないだろうか・・・・


やまとことば と言うモノがある

日本で生まれ日本人が使ってきた「ヤマトの言の葉」である

その特徴は「語感」にも多く遺されているという

たとえば「す」という音、これは猛々しさを表す音で

す・さまじい す・ごむ  など、「す」そのものが激しさを

表していると思えてくる語感なのである


「同音異字」ということばがある

音が同じなのに「漢字」が違い、意味も少しずつ違うもの

そういう言葉を聞くと「どんな字だったかな?」と考えてしまう

ところが「どんな音」だったかは誰も考えないという


端 箸 橋 嘴 梯 階 ・・・音はすべて「はし」である

【はし】とは、「先(さき)」の事だろうと思う

繋がったものの先端であり、長いものの先ということ

だろうと思っている

橋は長い丸太で出来た棒の先へ渡るものであり

箸は細長い枝の先を使って物をつまむもの

嘴は鋭く尖った長いものの先のことで

梯・階は長い木の尖端(先)に昇る道具のこと

そんなふうに考えてみた

なぜなら・・・音が先にあって、後から出来た文字を

それぞれあてがったのだから、音の意味は同じという

事になる理屈なのだ

だが、音は同じでも「発音」「抑揚」は微妙に違っていたかも

しれないし、「五十音」など近世の人間が作った可能性すら

ある「い」と「ゐ」は発音が違ったとか、「え」と「ゑ」も違って

いたと思ったほうが本当ではないだろうか

もしかして もっと多くの「同音異音」の言葉があったかもしれない


たらちね ということば

母にかかる枕詞(まくらことば)である

「たら」は「足る」の変異であり満たされる事をいい

「ち」は霊格を表し、不思議な力のあるものを指し

「ち」は乳(ち)でもある

「ね」は不動なるもの、動かないものをいう

「たらちね」とは満ち足りた乳を持つ不動のもの

という意味になり、まさしく「母」そのものなのである

すべてのもの(言葉も)には必ず理由(わけ)がある

そんな雑学でした・・・・(笑)

言葉の雑学は折を見てまたいつか・・・・

次回は「皇后の仕事」でも考えてみたい

                   

◎  私の「二者択一」の古代史 

私の自論に「女性天皇は虚説」というのがある

どうして日本だけが「女帝」を選択したのか

この問題に関する通説に説得力が無いと思っている

天皇に「何かが起こったとき」は皇后が即位する・・・

はっきり言って、平安時代の「後出しじゃんけん」に思える


第33代 推古天皇の即位の経緯が胡散臭いのである

この時代の皇位継承候補は複数存在した

中でも「血筋」「見識」「素養」どれをとっても抜きん出ていた

厩戸皇子が健在だった

その太子を差し置いて、歴史上初の女性天皇に就くなど

理解しがたいのである

そこで「魏志倭人伝」の記述が引っかかる・・・

倭のオオキミの姓は「阿毎(あま・あめ)」で

後宮に美女600~700人とあり、間違いなく

男帝だったという事になる

推古天皇は554年に生まれていて、即位したのは

39歳の時である

その時【厩戸皇子】は19歳~20歳で、推古天皇が

即位すると同時に、「皇太子」兼「摂政」に就いている

厩戸皇子は推古天皇の兄(用明天皇)の皇子であり、

全てにおいて申し分ない状況であったのに、即位できな

かった理由が不可解である

若すぎるなら政治総てを任せるはずが無いし、逆に言えば

それほどの技量があるなら、天皇になっても不思議は無い

という理屈になる


別の角度から考えれば、どちらかが虚偽(偶像)という

ことも考えられるし、両方虚像とも考えられる

何せ、藤原が編んだ「正史」なのだから、造作も無く

でっち上げる事は可能だろう

日本書紀ですら、44代元正天皇という内親王でもなく、

皇后でもない女性が天皇に即位した前代未聞の時代に

完成したのだから、捏造・改竄など造作も無い事

かもしれない



推古天皇が実在の天皇なら、厩戸皇子(聖徳太子)は

虚像ということになり、厩戸皇子が実在なら推古天皇は

虚像もしくは男性天皇だったことになるのである

なぜそんなことが史書に記されていたのか・・・

その後の女性天皇、皇極(斉明)天皇か持統天皇、

元明・元正天皇の即位を正当化するための、「前例」

を作るためだったと思っている

もう一つの仮説は、聖徳太子架空説である

出自の様子がまるで、キリストの生誕話を焼きなおした

かのようであり、十人の話を聞き分けたとか、天から

舞い降りたかのような「超人」と言われている

そんな「尊い貴人」が天皇に即位できなかったなど

信用しろと言うほうがどうかしている・・・。

その背景にあるのが、太子の皇子である「山背大兄王」

を蘇我入鹿が攻め滅ぼしたという通説に在る

それほど「高貴な太子」の息を理不尽にも死に追いやった

「蘇我入鹿」の大罪を後世に残すことであり、太子が「尊く」

あればあるほど、「蘇我」の悪者ぶりは歴史に刻まれて

いく事になるのだ

藤原鎌足・天智天皇→蘇我入鹿・蝦夷→聖徳太子と息子

「善」を滅ぼした「極悪」、その「極悪」を滅ぼした者は「賞賛される善」

そういう事になる

太子が立派で有ればあるほど、蘇我の悪者ぶりは大きくなり

その悪者を天に代わって「成敗」したのが「藤原の祖」と言う構図

だから藤原氏一族が「高位」を独占しても、天は許してくれる

そんなところではないだろうか・・・・。



古い時代から遡ってくると見えないものが、720年という時を

起点に古代へと戻っていけば、なぜ史書に記されなかったのか、

なぜこういう記述になっているのか、どうして即位できなかったのか

色々な事が見えてきそうである

全ての起点は「藤原の論理」からと思っている



ここに書いたことはあくまでも長屋の爺の「妄想」であるが

「歴史書」に書いてあるから事実なら、週刊誌や朝日新聞の記事も

事実になる時代が来てしまう・・・。

そんな偏屈な理由で少し暴走してみたいと思っています。

                    


◎  妄想 日本の女帝を考える 

ヤマト民族の眼は大陸を見続けてきた

その大陸とは「中国大陸」である

日本の文化や制度、いわゆる「国つくり」の手本は

大陸にあった

その中国では、国の頂点(トップ)に座るものは

男子で無ければならなかった

(則天武后という例外はあるが)

日本の制度・国つくりの基本的な思想によるならば

「女帝」は不可解そのものなのである

その最初は「33代推古天皇」ということになる

日本の史書に書いてあるから「事実」という視点から

視点を変えて「外(そと)」から見てみると、倭人伝には

女性天皇には一切触れていない事が分かる

範である大陸人から見て、「異常・論外」なことを

史書に残さなかったなど考えられない

《 書き残すのは恒ではないから遺すのである》

とりわけ不思議な事も無く、さして書き残す事は

日本のリーダーには見受けられなかった事になる

945年成立の【舊唐書(くとうじょ)】東夷伝の記述

「倭王の姓は 阿毎(あま)」とされている

《 隋書・東夷伝 にいうタリシヒコの姓は阿毎と同じ》

703年に粟田真人が唐に朝貢し、【日本国は倭国の

別種だが、倭国という国名はよくないので、日本にした


と記されている

これをどう判断するか、悩むところだが・・・

私の考える 推古天皇は女帝ではなかった とする

ならば、推古天皇に該当するのは【聖徳太子】であり

山背皇子(山背大兄皇子)の死によって、阿毎一族が

途絶えたか、文武天皇は【阿毎氏一族】とは違う血筋

だった事になるのではないか・・・

(第42代文武天皇 在位697~707年)

私の中では南北朝分裂以前に、奈良時代に大きな

天皇継嗣問題が起こっていた匂いを感じるのである

これを日本式の《易姓革命》と言っても良いかもしれない

識者が聞けば、何を馬鹿なことを・・・といわれるだろう



日本の正史が信憑性が無いなら、他所の国の史書を

参考に組み立てても不都合はあるまい・・・

なにせ「勝者が残した書」は利害が優先され、面目や

保身の為の記述は避けられないからだ

一方、同じ書でも面目も利害も発生しない「外国の史書」

には、偽る根拠が無いからである

律令制を大陸から学び、「大王(おおきみ)」と言う呼び名を

天皇(天之皇帝)とするくらいであるのに、女帝などという

タブーを犯すだろうか?

奈良時代の女帝は「捏造」であるか

若しくは、朝廷が分裂(並立)していた事も考えられる

根拠の無い妄想を暫らく考えてみたい・・・・。

                    

◎  天皇の祭り 古の行事「さば」 


明治維新を考えるとき、皇室祭祀や神道の

位置から見ると、もろ手を挙げて評価は出来ない


というより、日本の古代から続く伝統・祭祀を

今のような惨状に落としたのは、間違いなく

明治新政府であったと私は思っている


天皇の政治利用という形で、皇室の形骸化を

計ったのは「明治の西洋かぶれ」たちの仕業である

(若干 感情的な表現であった・・・)



「さば」という皇室行事がある

正しくは「あった」というべきだろう

古代から明治まで、千年の間続いてきた行事である

「さば」の行事は毎食ごと行われていた


* 天皇は食膳で傍らに置かれた皿に、一品ずつ料理を

取り分け、その後はじめて召し上がった

【この国はわが子孫が統治すべき地】という、天照大神の

精神を重んじて、「自分が治める国に飢えた民が一人でも

居るのは申し訳ない」という思いで、名もない国民のために

この行事を続けられてきたと伝えられている


「さば」は漢字で【生飯】と書くのが一般的で、梵語のようで

仏教由来の行事だといわれている


「さば」 ・・・ 生飯 散飯

《 食事の時に少し取り分けて、鬼神に供え、また食後に施餓鬼

の供養として鳥や獣に施すもの (古語辞典)》

《 食事の時に少しの飯粒を取り分けて鬼界の衆生に施す事

遍(あまね)く諸鬼に散ずるため「散飯」といい、最初に三宝

(仏法僧)、次に不動明王、鬼子母神に供するところから【三飯】

という (仏教辞典)》


日本独自の伝統文化を尊重するという明治政府の意向で

仏教的な行事は廃止されたのだという

これにも異論は多々あり、仏教由来説は「後出しじゃんけん」

のように唱える人も居る・・・


私は「さば」は仏教とは違うと感じている (漠然としてだが)

仏教で言う「陰膳(かげぜん)」とは似ているが異質感を

感じている、日本独自の風習では? 根拠は無い・・・(笑)


「食べる」の古語は「食ぶ」である

【食ぶ(たぶ)】

 「飲む」「食う」の謙譲語(けんじょうご) いただく

由来は【賜ぶ(たぶ)】・・・神と君より食を賜(たまわ)る

という意味である

天皇も初穂を神に謙譲し、その残りをいただく・・・

まさに「食べる」ことは「いただく」ことなのである


いただきます」を 命をいただく などと実しやかに

言う者もいるが

本来は 【神から食を賜っている事への感謝の言葉】 

・・・・ではないだろうか

これが神仏習合の時に、仏教由来として混同されたと

私は思いたいのである


飽食の時代にあっても、この日本でさえ「飢え」る国民がいる事

他所の国の人間が「労せず満たされて」、赤子が飢える現状を

歴代天皇はどう見ているのだろう・・・・

日本人が飢えることが無いよう、今日も千代田では祈りが

行われているかもしれない、天皇の祭祀は我々国民の為でも

あると思わずにはいられないのである。

                  

◎  門松立てて 祝う意味 


♪ 年の始めの 例(ためし)とて

終(おわり)なき世の めでたさを

松竹(まつたけ)たてて 門ごとに

祝(いお)う今日こそ 楽しけれ ♪


これは「一月一日」の唄ですが・・



さて、毎年のように眼にする門松、

我が家のようなところには無縁なのだが

門松と聞いても、竹が真ん中で主張するのを見て

門竹(かどたけ)の間違いじゃないのか?

なんていうのは「無粋(ぶすい)」といわれる


この門松もいろいろな「由緒」謂われが多く、通説も幾つか在る

真実は「その時に立ち会わなければ」知る事はできない

なんていうと、話が済んでしまう(笑)


通説としては、平安の貴族達が好んだ 小松引き と言う

行事で持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛

好する習慣から変遷したものだという

竹が中心になったのは江戸期といわれ、最初は

屋根にまで届く長い竹を使っていたらしい

今のように斜めに「削いだ」形式は徳川家康が始めたという


ところで名前が門松なのに、松を使わない「門松」もある

* 神戸市    生田神社

 元旦には門松は立てず【杉飾り】を立てる

 社内には松が一本も植えられていない神社


* 千葉県市原市   姉埼(あねさき)神社 

 松ではなく榊を用いた【門榊(かどさかき)】が飾られる

 この神社も境内には松は一本も植えられていない

《余談》

この神社が建つところは「姉崎(あねがさき)」といって

その昔、この地の名前は「あねがまつ」という地名だった

この地では姉妹がいる家からは妹ばかりが先に嫁いで行き

、姉が実家に長く残ることが多かったとされ、

「あねがまつ(姉が待つ)」という地名にその原因が

あるのではと考えた人々が、姉から先に嫁に行ける

ようにとの願いを込め、地名を「あねがさき(姉が先)」

に変えたのだという


(ちなみに、隣の町は五井(ごい)といい、TOKIOの

のリーダー城島茂の生誕地だという)



では門松はどうして飾るのか・・・

これも幾つか由緒があるようだが、一般的には

「歳神様」をお迎えするためといわれる

松は神さまの「依り代」とされ、松飾りをかざり

神さまをお迎えする風習になったものという

元々は穀霊(穀物の神さま)であり、五穀豊穣

を祈願する神さまなのである

五穀豊穣 → 家庭の繁栄 → 家の守護

家を守るのは【祖霊】であるが、いつからか祖霊

と同じ様に扱われるようになったという

【大歳神】

歳徳神・お正月様・恵方神ともいう

ある時期に遠くの地から訪れる「来訪神」である

 (出雲に集まる八百万の神と同じなのだ)

素戔嗚尊と神太市姫神の子・・・・

大国主神が素戔嗚尊の六代後というから、大歳神は

その上の神格という事だろう

(そのわりには扱いが・・・・まぁいいか)


本来は新しい年に、その歳の「歳神」を迎えるために

寄り代である「門松」を立てて、あらたなパワーを貰い

家内安全・家庭繁栄・健康長寿・商売繁盛を願う

そういう風習だという事になる



1番♪
年の始めの例(ためし)とて
終わりなき世のめでたさを
松竹(まつたけ)たてて門(かど)ごとに
祝う今日こそ楽しけれ

2番♪
初日の光差し出でて
四方(よも)に輝く今朝の空
君が御影(みかげ)に比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ尊けれ

この歌詞は天皇の御代が終わりなく繁栄し続け

天皇の御代を称える尊い気持ちを歌ったものである

天皇が居る日本に感謝と誇りを・・・・・

                   

◎  清和天皇の時代 (前期摂関政治) 

北海道・夕張や岩見沢は平年の倍の雪だという

札幌に住んでいたとき、アパートに戻りエンジンをかけたまま

入浴・着替えを済ませ、外に出たら車がスッポリ雪に埋まっていて

エンジンの排気だけがモクモクと出ていたことを思い出した(笑)


【踊る厄男に笑いと歓声 西尾、てんてこ祭】

 愛知県・西尾市熱池町の熱池八幡社で3日、県無形民俗文化財の

「てんてこ祭」が開かれた。

 同祭では、厄男6人が、真っ赤な衣装を身に付け、赤い布で覆面し、

沿道約400メートルを練り歩いた。

てんて~1


先頭の厄男がたたく「テンテコ、テン」という太鼓の音に合わせ、男性の

シンボルを形取った大根を付けた腰を振りながら踊るしぐさに、観衆から

笑い声があがっていた。

境内では、竹ぼうきで、観衆に向けてわら灰をまき散らすと、一斉に歓声が

沸き起こった。

わら灰をかぶると、1年間無病息災に暮らせると伝えられている。

 1150年ほど前の清和天皇の大嘗祭(即位後に収穫した穀物を神に

供える儀式)に由来するといわれ、元来のお田植えの神事が、やがて

五穀豊穣(ほうじょう)を願う豊年祭として毎年行われるようになったという。

  2015年01月04日 Copyright © The Yomiuri Shimbun


清和天皇 (第56代天皇)

日本で初めての【幼帝】といわれている(御歳9歳)

在位858~876年

この時代の出来事は、「応天門の変」が起きて

名門豪族・大伴(おおとも)氏が没落、紀(きの)氏が

中央政界から消えた時代

言い換えれば、「藤原の時代」の幕が開いた時代だった

幼い天皇を補佐するという名目で臣下が「摂政」に就いた

初めともいわれる・・・・ (藤原良房)

幼い皇太子はそれまで、「若い」というだけで即位できなかった

それゆえ「つなぎ」の女帝などが誕生した経緯がある

藤原氏に対し「異を唱え」「抑える」勢力が没落・凋落した結果

「歴史上初めて」が、まかり通る事になる

【無理を通せば、道理が引っ込む】 の典型となったのである

これを「摂関政治」、または「前期摂関政治」と呼ぶ

私の中では、清和天皇が27歳で、9歳の息子である皇太子

(後の陽成天皇)に譲位したことが、解せないのである

さらに31歳の若さで崩御したことも、納得しがたいものであり

藤原一族の権力争いに巻き込まれた可能性を感じている


陽成天皇(ようぜい) 第57代天皇

在位876~884年

この天皇も僅か9歳で即位した幼帝である

乱行・奇行が多かったとされているが、これとて

藤原の史書が書いていて、そういう事が事実として

流布していた可能性もある

17歳の若者は多感であり、意に沿わないことへの

反発も多かったかもしれない

「お飾り」で十分だった幼帝も、歳を重ねるごとに「政治」

に対し意見を持つようになって、疎まれたのかもしれない

「物の怪による災いが酷く、狂気の振る舞いは手が

つけられないほどだった」 と【愚管抄】に記されているが

書き伝えられているものの多くは、「勝者の言い分」であり

その勝者の「検閲」を受けているのである


本当に頭脳明晰(ずのうめいせき)であったならば、政権を

牛耳る者たちにとって、「好ましくない者」であって、存在すら

認められないのである

藤原政治の言う、能力が高かった天皇は「愚鈍」であり、問題があった

天皇たちは「頭脳明晰」「闊達(かったつ)」であり、「良識を持つ」

人格者だったのかもしれない

古代史は私にそう囁いているように感じているのである・・・。

                   

◎  天皇の仕事 拝謁 

天皇の仕事に「拝謁」というものがある

天皇の仕事の大部分を占めるものは

「人に会う」という事だといわれる

遠くから尊顔を拝する民にとって、間近に接する

ことは人生の「喜び」であり、「名誉」でもある

拝謁(はいえつ)の他に「人に会う」ことは

*会釈(えしゃく)

*お茶

*茶会

*会見

*引見

このうち、、「日本国民」と会うことについて触れてみたい

(海外からの賓客と会うことを「引見」「会見」という)

拝謁・会釈・お茶・茶会がそれに相当し

それぞれを簡単に説明してみたい・・・

【拝謁】
  国内の功績者と公式に会うこと

【会釈】
  国民と非公式に会うこと

【お茶】 【茶会】
  客を招きドリンクや軽食出して語らうこと

拝謁は勲章受章者などに、授与式典後に行われ

天皇陛下のお言葉がある

この際、勲章授章者が行うのは「あいさつ」ではなく

「天皇へのお礼」ということになる

拝謁が「お言葉」だけなのに対し、親しく会話をする

(語らう)のは【接見(せっけん)】と呼ぶ

接見ではドリンクなどが出され、親しくお言葉を交わされる


このほかには、宮内庁の移動職員の拝謁、侍従職の異動

陵墓で行われる祭儀に赴く「掌典(しょうてん)」や伊勢神宮

の祭儀に派遣される掌典なども出発前に拝謁がある

さらに、皇宮警察の警察官(皇宮護衛官)の新任・退官者も

拝謁がある

(これを内部的な「拝謁」という)



お茶・茶会というのは、国内外の要人を招いて行われる


国内の要人とは・・・衆・参両院の役員、日本芸術院受賞者、

日本学士院受賞者、新・重要無形文化財保持者(人間国宝)、

五輪・パラリンピック受賞者(メダリスト・入賞者)などである。

お茶・茶会というと、飲み物だけという印象だが、これも様々な

形態があり、軽いドリンクだけのものから、食事会のようなものまで

バリエーションに富んでいるという



【会釈(えしゃく)】というものは、我々が想像する「軽く頭を下げる」

会釈ではなく、非公式な「拝謁」というものである

そのほとんどは「勤労奉仕団」の参加者に会うことを指す

勤労奉仕団とは、赤坂御用地(皇居・東宮御所・各宮家)の敷地内

を清掃するボランティア集団のことで、15人以上60人までの団体

を組めば、年間を通じ誰でも応募・参加することができる

一般的には平日の四日間連続で作業する事になる

参加機関は皇居に通える場所に宿を取り、一般参賀でも

立ち入れないような領域まで立ち入って作業することになる

その期間中、天皇が外国賓客との行事が無ければ、両陛下

会釈の機会があり、間近で対面する事ができる

会釈は主に「火曜日」と「木曜日」の午前に行われる

(午後は天皇の執務があるため)

場所は皇居内「蓮池(はすいけ)参集所」という建物で

天皇陛下から「労い」のお言葉があり、その後親しく声を

おかけになられるという



会釈の最後に、参加者全員で【天皇陛下 皇后陛下 万歳】を

三唱して終わるという。

勤労奉仕団の存在は今では「なくてはならない」モノになっていて

少ない予算や宮内庁の職員では、管理・維持できないといわれる

                   

  

◎  初春のお慶びを申し上げます 

                  thumb5.jpg



          謹賀新年

あけましておめでとうございます

初春はまるでベールに包むような「白一色」の年明けになりました

眼に清き物だけを見せるかのような景色には身の引き締まる思いを

抱かせます

本年が良き一年であること、何かを感じ、何かを感じていただく

そんな一年になれば・・・・と願っております



けっして「人生は終わりの無い旅」などではなく

いつかは終わる人生という名の「旅のひと時」が現在かもしれません

知る事を知り

流される事なく

天に恥じないように・・・生きてみたい(願望)

見えないモノを信じる気持ちを思い起こし

損・得ではなく、尊・徳を文化にする日本に・・・

微力ながら今年は、そんな思いを発信できたらと考えています

本年も変わらぬご指導よろしくお願いいたします。

            ・・・長屋の爺・・・

                   


back to TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。