不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  三種の神器と三貴子 4 

三種の神器はどうして「宮中」に揃ってないのか

それは天皇に祟ったからだと、言われている

鏡は崇神天皇に、剣は天武天皇に祟ったと言う

それで、勾玉だけが宮中にとどまっていると言われている

あくまでも「本物」といわれる物の話であるが・・・

なぜ天皇の皇位継承に欠かせない神器が、天皇に祟るのか

謎である

(ツクヨミを考えてきて、思わぬ方向に向いてしまったが

おそらくまたツクヨミにもどる予感がしてきた)


神社と言えば殆んどの社は「南向き」あるいは「東向き」

に建てられている

主な理由は「太陽信仰」に起因する

太陽は東から昇り、南に照り輝くもので、古代からの信仰も

太陽信仰から自然信仰、祖霊信仰と変遷してきた


ところが日本には「北向きの神社」が存在する

鹿島神宮は「真北」を向いている非常に珍しい神社だ

太陽に背を向ける神社とは・・・・・

飛躍するが、太陽ではなく「月」を臨んでいるとも思える

それ以外に「真北」をむく意図が見えないのである

「月」といえば「ツクヨミ」である

この鹿島神宮は武神である「武甕槌大神 」を祀る

平安時代末期の「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」
(梁塵秘抄)

という記述に、もしかしたらと探してみたところ・・・

残念ながら香取神宮は南向きに建っていた

しかし諏訪大社・上社は北北東を向いているという

しかし現在は元宮は東南東、前宮は北北東になっている

私は鹿島神宮も諏訪大社も、通説どおりの神社とは

思っていない

詳しくは別の機会にするが、諏訪の祭神・タケミナカタ神

はタケミカズチ神に出雲から追いかけられ、降伏してその地に

鎮座したと言われる「敗者の神」である

その神が「軍神・武神」というのも不可解な話だ

負けた神様が「戦の神」として鎮座する

さらに、諏訪湖という大きな湖があって、その湖が

御神体となっていない疑問が出てくる

本来は山や川、湖など自然が信仰の対象であったはず

あれほどの立派な諏訪湖があって、御神体になっていない

理由というか、諏訪大社の信仰の形が謎である。


鹿島神宮の建つ場所が、なぜか私には出雲大社を

連想させる 海を臨む中州のような場所・・・

鹿島神宮の祭祀は古くは伊勢神宮同様に庭上祭祀

だった(現在は殿上祭祀)と言うのも、なにやら謎めいて

いる気がする。

鹿島神宮の古代祭祀が「ツクヨミ信仰」だったすれば

何ゆえ藤原氏が特別視していたのか、さらに謎は深まる

ツクヨミが歴史の表に出てこない理由も、もしかしたら

藤原一族と深い関係があるのかもしれない。

                   
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◎  三種の神器と三貴子 3 

天皇たるものは、三種の神器を受け継いで

はじめて天皇となる

三種の神器が鎮座し、天皇の玉座がある場所

が御所である

その御所の所在する地が日本の都である。


どこかの市長さんに聞かせたい言葉である(笑)


天皇が泊まりで出かけるとき、剣と勾玉を携行する

これを「剣璽御動座(けんじごどうざ)」という

なぜこの二つを常に傍らに置くのだろう


まるで何かの「力」から、天皇の身を守っている

ような気もする

剣と勾玉・・・スサノオとツクヨミを傍らに・・

軍事と経済と置き換えれば、政治以外の力を常に身近に

おいているという事か

それを置いてくると誰かに盗まれてしまうからか?

それとも・・・過去の歴史において、軍事を蔑ろにして

武士に取って代わられた反省からか

経済を群臣(藤原)に牛耳られ、天皇の権威が落とされた

反省からか・・・

政治は元々が豪族(群臣)たちの合議によって執り行われた

その意味からも御所においてあるのも納得できる

もう一つ考えられるのは、三種の神器は三つ揃って、はじめて

天皇即位の効力を発揮する、留守中に神器を楯に皇位を

奪われる事のないようにとは、考えすぎか・・・


八咫鏡は宮中の賢所に保管されている事になっている

ある記述によると、八咫鏡が祀られている場所には

なぜか二座設けられているという

一ノ御座は中央に、二ノ御座は向かって右わきに鎮座している

同じ大きさの唐櫃(からひつ)で、重さは200キロ

高さ90センチ、縦横80センチといわれる

その唐櫃には紐が網目状にかけられている

天皇が即位したとき、あらたに天皇の手によって

かけ替える、これを「お搦め神事(おからめしんじ)」

というそうだ

紐で縦横に「九字」を切っているとも言われる

 臨兵闘者皆陣列在前
(りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん)

いかなる「魔」をも退散させる護身の呪文である

もともとの道教では

 臨兵闘者皆陣列前行

であり、封印の呪文だ、ということは

唐櫃を封印している事になる

そもそも「八咫鏡」は一枚のはずだが

なぜ二座あり、唐櫃が二つなのか

本当に鏡は一枚だけなのか・・・

皇祖神アマテラスの御神体ともいうべき

八咫鏡を封印するというのは、理解に苦しむ

話であるが

伊勢は祟(たた)ると言われている

皇祖神が祟るというのは有り得ない話

万世一系で綿々と続いているのだから

祟りようがない・・・・

唯一可能性があるとすれば、アマテラスは

皇祖神ではなく、天皇家によって滅んだ「神家」

「王家」と言う可能性

それも「封印」しなければいけないほど、強烈な

祟り神であるならば、非業の死によって一族が

絶えた家系という事になる

その鏡は天皇家に代々受け継がれてきたものと

思っていたが、もしかすると鏡そのものが、ほかの王家

に伝わる「神宝」だったとすれば、謀殺して奪った宝(鏡)

を封印しなければいけない事情も理解できる



ニギハヤヒが地上に降臨するとき、アマテラスから

託されたのが十種神宝(とくさのかんだから)という

瀛都鏡(おきつかがみ)

辺都鏡(へつかがみ)


八握剣(やつかのつるぎ)

生玉 (いくたま)

足玉 (たるたま)

死反玉(まかるかえしたま)

道反玉(ちがえしのたま)


蛇比礼(へびのひれ)

蜂比礼(はちのひれ)

品物比礼(くさもののひれ)


これを観て、鏡が二枚あっても不思議ではない

そういう見方も出来るわけで

玉も四つの勾玉を繋いだ首飾りであるなら

一つという事も考えられる

剣は八握剣は「十種の神宝」の「八握剣」であり

【十握剣】 と書き換えたとも思える


本来は八岐大蛇を退治した剣は【勝者の剣】で

大蛇から出てきた剣は【敗者の剣】なのだ

勝者の剣である十握剣は「石上神宮」に鎮座し

敗者の剣である草薙剣が天皇家に伝わるのが

どうにも腑に落ちないのである。

                  

◎  三種の神器と三貴子 2 

三種の神器は神代の昔から存在したのか?


知られているのは、当初は2種だったという

三種になったのは天武朝以降ということである

では八尺瓊勾玉はどう言うモノなのだろう

皇位継承は【鏡と剣の継承】だったとすれば

勾玉の出番はなかったという事になる


三種の神器は日本だけのものではない

むしろ大陸の方が先輩なのである

今から7000年前から5000年前の時代

揚子江文明にその起源はある

世界最古の文明にその形式が存在していた

その文化を 【良渚(りょうしょ)文化】 といい

都市国家としても最古であったという

この都市国家は長江の氾濫で滅んでしまった

その王宮にあたる場所から、たくさんの「玉(ぎょく)」

が発掘されている

(中国では玉は「聖なる魂が宿る石」と言われている)

発掘されたのは、玉を精密に加工した神器(三種)で

玉琮(ぎょくそう)・玉璧(ぎょくへき)・玉鉞(ぎょくえつ)

と呼ばれるもの

玉琮(ぎょくそう)・・外側は方、内側は円の筒型の玉器

   王の権力の象徴

玉璧(ぎょくへき)・・中央に穴の空いた円盤型の玉器

   富の象徴

玉鉞(ぎょくえつ)・・斧(おの)の形をした玉器

   軍事統率権の象徴


「政治」「経済」「軍事」を象徴する【三種の神器】である

これは【古代道教】の思想を体現するものと言う

三種の神器を採用したのは「天武天皇」と言われている

日本書紀に曰く、「天武帝は天文遁甲(てんもんとんこう)を

能(よ)くした」・・・・ということは、古代道教に精通していた

という事だろう、こういう記述をされた天皇は他に居ない

玉(ぎょく)とは天武帝のことで、天皇が座る場所が「玉座」

であり、天皇そのものを「玉」と呼び、天皇の御身体を「玉体」

と呼ぶ

天皇の権威の確立は天武天皇からと言うことなのである

(つづく)

                   

◎  三種の神器と三貴子 

「吾は子を生み生みて、生みの終(はて)に

 三貴子を得たり」

伊耶那岐命(イザナギノミコト)の言葉だ

三貴子(みはしらのうずのみこ・さんきし)とは

天照大御神・建速素戔嗚尊・月読命をいう

アマテラス = 八咫鏡

スサノオ = 草薙剣

ツクヨミ = 八尺瓊勾玉

とても重要な神といえる

ところが、ツクヨミだけが影の薄い存在に

なっている

日本で最も大事な祖神の系譜で、存在すら忘れ

られている 【月読命】 とは、どんな神さまなのか


記紀にも僅かな記述でしか残されていない神

男神なのか女神なのかさえ不明である

アマテラスの兄?弟?姉?妹? 

いや・・そもそも兄弟・姉妹なのかすら疑わしいともいえる

三種の神器の一つである 八尺瓊勾玉 は昔も今も宮中に

置かれ、天皇と共にあり

八咫鏡は伊勢神宮の、アマテラスの下にあり

草薙剣 は熱田神宮にあって、熱田大神の下にある

この部分が私考の壁になっている

本来は三種とも宮中に在ったとされている

八尺瓊勾玉だけが、宮中に残された理由とは

いったいどういう事なのだろう

草薙の剣は本来なら、スサノオの下にあるべきで

さしづめ「出雲大社」にあって当然である

それが「熱田神宮」にあり、そのままになっていることが

不可解なのである。


勾玉はおそらく、縄文時代から弥生時代まで作られ

その後、製作されていない気がする

その勾玉とはいったい何か?

装身具と言う見方もあり、呪具ではないかという説もある

どちらにしても、神さまと深い関係があったと思える

その形状は、胎児の形を模したとする説

魂の姿を象ったとする説

巴形を模したとする説

月の形を模したとする説

など多くの説が存在するが

私はどれも当てはまっていると考えている

月は潮の干満を引き起こし、人間の出産にも影響を

及ぼす

産まれでた命(胎児)は、清き魂を携え、自然の摂理に

よって再生を繰り返す、まるで巴のように・・・・



さて、なぜ ツクヨミ は無視されてきたのだろう

記紀では、アマテラスもスサノオも大活躍しているのに

もっといえば、アマテラスを祭神とする神明系神社は

全国に5400社あるという

スサノオを祭神とする八坂神社は全国2900社という

では・・・ツクヨミを祭神とする神社はどれくらいあるのか

というと、全国に85社しかない

さらに、その神社の過半数以上は近世になって比定された

ものであると言うから、実際は30~40程度だろうか・・・

この差別は何故なのか?

実在・架空にかかわらず、記紀だけでなく、日本の社会が

ツクヨミの存在を無視するかのようである

人気などと言うと「不敬」と言われそうだが

とても魅力のない神様とは思えない

この神社の数と、記紀に記された神話と、三種の神器

を総合して考えてみて、謎は1000%にもなってくる

もう少し、月読命を考えてみたい・・・。

                  

◎  風の神 


風の神

どんな姿を想像するだろうか

俵屋宗達の風神図だろうか?

某CMの風邪の神さんだろうか?

日本人なら、おそらく同じような姿を連想する

見目麗しい乙女を連想する人は稀有だろう

風の神といえば「風袋」、風神が担いでいる袋だが

この袋のルーツは、ギリシャ神話の女神の【ショール】

だと言い、インドで丸い袋になり、中国を経て日本に伝わる

    (そう・・・マフラーではないほうである)

しかし古代ギリシャ神話の風の神は、男神だと思っていたが

そのあたりの経緯が不明である・・・。


さて、風の神を祀る神社は、殆んどが【台風】の被害が

多発する地方に集中している

ということは、風は風でも「暴風」の神ということか?


天御柱神・国御柱神 (みはしらのかみ)

別名、志那都比古神(しなつひこのかみ)

    志那都比売神(しなつひめのかみ)

    級長戸辺命(しなとべのみこと)

風の神も古代では、眼に見えない「自然神」で

精霊の一つでもあるが、非常に怖ろしい神で

作物に壊滅的な被害を、川を氾濫させ人の命まで

奪ってしまう、海においては舟を沈め、途方もない

猛威を振るう「あらぶる神」である

その一方で、風は神さまの乗り物と認識されていて

風に乗って「災害」だけでなく、「疫病」や「旱魃」

「冷害」も運んでくると信じられてきた。

そうなると人々は、風の脅威を少しでも和らげようと

ひたすら祈り、祀るようになる

これが風の神の信仰の始まりだと考えられる


奈良県生駒にある、龍田の風神が有名である

崇神天皇の夢枕に現れて、自らをアメノミハシラ神

と名乗り、災いを除くため【龍田の宮】を造り祀る事を

要求したと言うのだ・・・。

何処かで聞いた話にも感じるが・・・・

風の神を祀る代表的な神社は、以下の通り(抜粋)

* 龍田大社 (奈良県生駒郡三郷町)

* 伊勢神宮内宮・風祈日宮 (三重県伊勢市)

* 伊勢神宮外宮・風の宮 (三重県伊勢市)

* 鳴無神社 (高知県須崎市)


その他にも、主祭神と共に風の神を祀る神社もある

* 綾部八幡神社 (佐賀県三養基郡)

* 諏訪大社 (長野県諏訪市)

* 阿蘇神社・風の宮 (熊本県阿蘇郡)


おそらく日本中に、風の神を祀った祠は、相当数

あると思っている

時代と共に、形や名前が変わり、往時の面影を

遺していないものもあるだろうが


富山県富山市八尾地区

ここでは有名な 【おわら風の盆】 という伝統行事が

遺されている

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江戸元禄期からと言われているが、「風の盆」の呼び名の

由来は不明とされる

この地方では、今尚「棚田」が盛んで、収穫期になると

台風や大雨に心を痛めるという

そんな地区の片隅に、【風の宮】という小さな祠が建っている

たぶん地区ごとに、そういう祠が存在するような気がするが

その起源はやはり、収穫直前の台風・大雨の懸念だろう

「おわら風の盆」が単なる伝統行事、お祭りなのだろうか

哀切のこもった囃子、万葉歌を思わせる五千種を超える

歌詞の数々・・・・


ふと、この風の盆の起源は、風を鎮めることを願うためと

亡くなった身内の慰霊を兼ねた【風鎮祭】ではなかろうか


祭りの前に、大きな「迎え火」を焚き、三日三晩踊り続ける

そのパワーは、風の神すら鎮めてしまう

伝統は肥えたり痩せたりしながら、いろんなものを

纏って伝わって行く、最初の起源がどうあれ、人々を

掻き立てる「力」の源は続けること、伝え続けることこそ

明日への希望であり、祈り願いなのだと感じるのである。

                  


◎  全知全能の神の創作 

久しぶりに神さまについて考えてみたい

日本において、最高の神は誰なのか?

アマテラスなのか、オオクニヌシなのか・・・

日本における【全知全能】の神であるのに

ほとんど知られていない神さまが存在する

その名は 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

宇宙の根源神、高天原の最高指令神である

この神さま、近世になるまで何処にも祭られて

いなかった不思議な神さまである

宇宙の中心に居て、この世界を創造した神

古事記にも書かれているのに、誰もこの神さまを

祀ろうとはしなかった・・・

不可解な話である

造化三神(ぞうかのさんしん)であり

別天神五神(ことあまつかみ)でもある


この神様の事を考えていると、神と社と祀りに

ついて、おぼろげながら見えてくることがある

神祭りは、その神さまの神位や神徳には無関係で

あること


私の考えでは、造化三神といわれる神は

架空の神さまで、ある程度の宇宙観が日本に

伝わってから、考え出された神様達ではないかと


なぜ人は〈神を祀る〉のだろうか・・・

神とは本来、人間が自然の驚異を感じたときに

初めてこの世に誕生したのではないか

それは眼に見えない〈何か〉であり、自然の猛威と

いう荒々しい現象の表現者だった


祀ると言う行為は、そもそも人間が自然に対し

供え物をしてひたすら願い祈る

ところが人間の考えた祀りは、無謀にも神様を呼び出し、

その場所に縛りつけようとしたのではないだろうか

見えない精霊(神)を人間の力で抑える事は出来ない

その行為が原因で、神の怒りという新たな〈畏れ〉を

生み出してしまった


まつる まつりあげる と言う言葉から察するに

縛る、あるいは縛って担ぐような行為とすれば本来

祀るとは、神さまに「大人しくして」欲しいという願いと

願いを聞いてくれたら、もっと供え物をします

そういう人間の勝手な事情ではなかろうかと考えている

神さまが供え物や立派な社殿を望むということに

人間臭さを感じてしまうのは、人間の都合の良い

理由付けが発端ではないだろうか


台風の風であったり、雨であったり、日照不足

であったり、人間の営みに大きな障害となるもの

水害に悩まされた住民は、水の神を

風によって作物を荒らされた住民は風の神を

祀ったのが最初だったと思う


その神さまに「名前」など必要が無く

水の神、風の神、日の神で事足りたのだろう


農耕民は水辺で暮らし、水と太陽の恩恵を

受けて暮らした

太陽に日照を願い感謝し、川の神の怒りを恐れ

穏やかな事を願い、水に感謝した


地方の小さな祠を観ると、古代の住民が身の回りの

見えない精霊(神)を特別視していた事が窺え

神と共に生きてきた名残が、地方のちいさな祠に

息づいているように思えてくるのである。

次回は・・・風の神でも

                  

◎  ついでに金太郎 

最初に桃太郎の補足を・・・

桃太郎が江戸時代に流行った「お伽話」だと

聞いて、半信半疑の方もいると思う

江戸時代中期、巷で流行った「黄表紙」「赤本」

と呼ばれる「絵草子」に書かれたのが最初だそうだ

「酒天童子」「一寸法師」「ものぐさ太郎」などを集めた

「御伽草子」にも載っていない。

桃太郎にはそれまでの伝承を書き留めた本や

絵巻などの資料が皆無なのである。


もう一つ、金太郎というお伽話があるが、これも江戸時代

に創作された話である

「足柄山の金太郎」は江戸初期に創作された

モデルは平安期に実在した「下毛野(しつけぬ)公時」という

藤原道長の護衛をしていた、近衛府の下級役人である

この公時という人物、12歳で左大臣・藤原道長の随人と

なり、18歳で相撲使として下向していた、筑紫で亡くなった

相当優秀な若者だったようで、道長の評価が残っていて

「左右の近衛府のなかで、一番の者であった」と記される


坂田金時は、源頼光の四天王の一人とされていて

実在の「下毛野公時」も頼光の元で働いていたと考えられる。

ではどうして、下毛野公時が坂田金時になり、そして金太郎

になったのだろう・・・そういう疑問が湧いた


江戸時代初期に、人形浄瑠璃が盛んになって

「源氏のゆらひ」という浄瑠璃本が作られた

その主人公の名が、「坂田部金時」といい、あだ討ち

が題材だったそうである

その「源氏のゆらひ」の金時を、金時の息子「金平」

を主人公として新たに創作したのが「金平浄瑠璃」というもの

江戸はおろか、上方でも大盛況だった

強いのなんの・・・その強さにあやかって創られたのが

「金平牛蒡(きんぴらごぼう)」という精力料理である。


ただし、これは表の表情に過ぎない

なぜ「金太郎話」が造られたのか、酒天童子なら

鬼退治として成立するが、金太郎には鬼退治は

出てこない、坂田金時とは違う「意図」があるはずだ


お約束のように、私の中では何かを隠すため

あるいは、歴史事実を見えなくするため

そんな思いも、ちらついている

おそらく「酒天童子」のなかの「金時」は真っ当な

動機で鬼退治をやったわけではない気がする


その金時を賞賛し、親孝行の力持ちで、京に上って

源頼光に仕え、鬼退治をした英雄という筋書きを

酒天童子=悪  金時(金太郎)=善

そして鬼は「子供の特別な能力」で退治するもの

そういう事ではないだろうか

以前にも触れたが、酒天童子の話は、鉄精錬の民

すなわち「山の民」の富の簒奪(さんだつ)だった

と私は考えている

産鉄民と呼ばれる山の民は、反体制的な集団であり

「まつろわぬ民」だったのである

権力者(藤原政権)が容赦なく奪い取った話が、

元の伝承ではなかったろうかと考えている



鬼の話は必ずと言って良いほど共通点がある

それは「鬼」と呼ばれる者は、山に住み富を有する

言い換えれば、産鉄民、鉱山師、踏鞴場の民である

彼らは一様に「山」に住み、政(まつりごと)とは無縁の民

であり、まつろわぬ民だったのだ

そう考えれば、桃太郎も本当は鬼が島ではなく、山の民

を襲い略奪したと考えても不思議ではない話だ

紅葉伝説」も鬼女を退治したのではなく、産鉄民や鉱山師

の富を簒奪した話が伝わるのを懸念し、鬼の伝説を

実しやかに創作したのかも知れない


お伽話は子供には楽しい話になっているが

裏の話は勝者の「罪」を隠し、正当性(鬼が悪い)を

主張する虚偽話かもしれないのである。

                  

◎  漢字の読みと音の関係 

私の仕事は「アベノミクス」のお蔭で


今月は開店休業状態

例年の4割減の惨状です

本当に景気が良くなっているのか疑問だ

たかが3%、されど3%である

余裕の無い家庭から「家」に関する仕事の

工事依頼は期待できない・・・

愚痴っても詮無いことは承知なのだが(笑)


さて、リフォームの準備で何かと慌しい日常

本も読めず、ぼんやりする時間も無い


風呂の中で考えてみた・・・

漢字は中国から伝わったもので、呉音・漢音で

読まれるのが普通だ

日本人はそれをさらに、訓読みという手法を考案し

日本の漢字の領域を拡げた

では、訓読みの元になったものは何だろう?

てきとーに決めたわけでもあるまい

根拠、物差しになった音があったはずなのだ


西 という文字 セイ サイ と読む

訓読みが何で にし なのか?

相当強引な推理をしてみた

ニシ とはアイヌ語で 【雲】を意味する言葉

ヤマトから見て西の方角は 【出雲】、東は【伊勢】

そういう解釈をする専門家もいるが

雲の土地=ニシの土地でもある

出雲のある方角を指す文字に「ニシ」を

当てはめたのは創造できる

では 東 はどうか?

これは トウ と読む、訓読みは「ひがし

かなり強引ながら、カシ とはアイヌ語で

~の上・小屋の意味である

日カシ ~ ヒカシ ~ ヒガシ 

まさに、日(太陽神)の祠 日の神の小屋

伊勢は古代、小さな祠に祀られていた太陽神

が起源である

何も無いところから、突然「訓読み」が発明された

訳ではないだろうというのが私の自論である。

文字を発明するまでは、言葉(音)の世界だった

文字が発明されても、文字に音(読み)は付いていない

これは文字の専門化も、言っているから確かだろう

音を当てはめたのも、根拠になるものがあったはず

私は神祀りに関する言葉(音)が最初につけられ

その後、生活に密着した言葉(音)がつけられた

私観であるが、そう思っている。

                  

◎  今日は秋の大祭  


今日は地元の神社の秋の大祭だった

朝から「子供神輿」が練り歩き、夜には

花火大会が催された

地方の秋祭りとはいえ、盛大な花火が

秋の夜空を彩った、手筒花火も豪壮で

日本人で良かった・・・と感じてしまった。


あらためて考えると、このブログは片付かない

部屋のようである

散らかったまま、まだ開封してない物

食い散らかしたものなど、煩雑に山積みされている

理由は至極簡単で、私がその日に書くことは

PCの前に座ってから決めるから

題名は後付けであり、書き貯めもしない

何処まで書いたか覚えていられず、連載が

気楽に感じたりする

意外と仕事中だったり、人と話をしているときに

もやもやが消えることがあるが、それを帰宅まで

覚えていられるかどうか、それが難題である(笑)



私は生涯、日記というものを書いたことが無い

とうぜん小遣い帳なども無縁である

人はどうして「文字を残すのか」

毎日同じことが繰り返される日常なら、敢えて

書き残す事もしないだろう、「前日と同じ」ですむ

それなら書き残す必要が無い

だれもが普通にしていることは、特別でも興味深い

ことでも無いわけだから、わざわざ書き残す事もしない

そして、もう一つ日記は他人が観る事が無いもので

意外と正直な私観を書くことになる

ところが、報告書や備忘録、公的資料となれば、不特定

多数の目に晒される事になる

他人の眼を意識した内容で、無意識・意識的に関わらず

書き残されることになる。

人の目に触れることを前提としたものは、フィクションが

多少でも含まれる可能性があり、「書いてあるから真実」

とは一概に言えないことになるのである。


日本書紀・続日本紀・日本後紀に書かれていることが

真実といえないと考える理由の一つである。


ある天皇が聡明だったとか、武術に秀でていたとか

人望が厚かったとか、特筆するほどの事柄でもない

それは天皇は概ね「聡明ではなかった」ということであり、

「武術など苦手」なひ弱な天皇ばかりだったことになり

天皇を選ぶのは群臣たちで、庶民からの「人望とは無縁」

な天皇が普通だったということである。

日記ブログを書かれている方も、非日常的な話題こそ

書き残す意味があり、愛読者もそれを楽しみに訪問する

朝起きて朝食、昼にどこそこでランチ、夜は何々を食べた

これでは読者も落胆してしまうだろう

非日常な事こそ、書く価値があり、観る価値がある

歴史書を少し乱暴な見方をして、なぜこの事を書き残したのか

それを考えるのも面白いと思っている。

長屋の爺は「へそ曲がり」だから、他人とは違う事に

関心を持ってしまうのである。


どこからか、「だって教科書に書いてあったし・・・」

「どこの新聞にも書いてあったよ・・・」

「テレビで偉い先生が言ってたから・・・」

それって本当? とは思っても、その裏側には意識が

及ばない

だから・・・簡単に詐欺に引っかかる人が多くなる

そんな美味い話、自分なら「他人に教えますか?」

絶対教えないと言うなら・・

自分なら教えない話を、相手が教えるには「理由」が

あると考えるべきで

「うそ臭い」「やばい話かも」と、警戒するのが正解なのです


これが「書いてあるから真実」の裏側に潜む「ヒント」である

なぜこれを書き残したのか、書き残さなければ成らなかった

裏の事情とは・・・と思って読むと、違った歴史書に見えてくる



明日からボチボチと、神さまを考えて行きたいと思っています。

次は・・・・九州か?四国か?信越か? 悩むところです

                  

◎  お伽話 桃太郎の謎 

これから書くことは「夢の無い桃太郎話」で

学校で習った「桃太郎さん」とは別物である。


では・・・どうして「桃」だったのか?

梨でも柿でも栗でもなかった理由から考えたい

《桃》 ほんのり赤く、甘くて良い匂いの果実

それは現代の話で、古代ではそれほど美味しい

果物ではなかった

もっぱら薬用、観賞用に用いられた

今のように甘い果実になったのは江戸時代から

それとて現代の味には遠く及ばなかったと思う

桃は薬にも毒にもなる

未熟な果実や種子には、《青酸配糖体》が含まれている

当然、葉にも含まれていて、未乾燥だと湯に入れると

換気をしなければ危険だという

なぜ桃だったのか・・・これは古事記にも出てきた果実で

あの世の「鬼女」も逃げ出す「効果」があったとされる

桃でなければならなかった理由はこの「効果」にある

効果が相応しくなければ、霊力とか神通力とでも・・・


この桃の「大きな力」は中国の神話が基になっている

西王母(せいおうぼ) 姓は楊、名 は回という

中国で古くから信仰された女仙、女神である

その実体は、人の姿で豹の尾、虎の歯で、よく唸る

蓬髪に玉勝(宝玉の頭飾)を載せていて、穴に住む

といわれる《半人半獣》である。

【三羽の鳥】が西王母に生贄を運ぶ役目だったという

西王母とは人間の非業の死を司る《死神》だった

そのことから「非業の死を司る死神を崇め祀れば

、非業の死を免れる」とされ、さらに恐れから発生した

信仰で、《不老不死の力を与える女神》に変化した。

そして、西王母の【仙桃】を食べると寿命が三千年

延びると言われていた。

古代中国では、桃は仙木・仙果と呼ばれ、邪気をはらい

不老長寿を与える植物とされていた。


ここまでは「古事記」がなぜ、桃を登場させたかの説明に

なったのだが、桃太郎が出てこない・・・・

そもそも「桃太郎」というおとぎ話は、江戸時代に流行り

明治時代に定まった「お話」なのである。

だから「桃太郎伝承」は一つでは無いし、日の丸の

鉢巻に陣羽織、犬、猿・雉の家来というのも、明治政府が

作り上げた「姿かたち」であり、「キャスティング」だったのである


そこで、なぜ桃太郎だったか

幾つかの推理が出来るが、桃の特性を考えれば

薬にも毒にもなる・・・・神にも鬼にもなる 【モノ】

鬼は鬼が退治する

伝承の中には「敗者の言い分」も残されているのか

下地になった「伝承」は沢山あったはずで、その伝承

は「桃太郎」、「かちかち山」、「一寸法師」などの

要素が混在した、その地方ごとに違ったものだった気がする

鬼の城伝説、温羅(ウラ)の話にも似かよっている

《温羅(ウラ)については別の機会にでも・・・》


だが、川上から流れてくる桃というのは、古代人が海洋民族

だった記憶の伝承であり、老人と小さ子という設定は、あの

世に最も近い特別な者と考えられたからである

流れてきた桃は邪気をはらい、不老不死を齎す果実で

「お爺さん・おばあさん」は不老不死の【象徴】として

描かれたわけで、不老不死に梨や栗ではダメだった

理由だと推測してみた。

明治の時代背景を思ってみれば、文明開化と共に

西欧列強に追いつけ追い越せの時代風潮があり

「産めよ」「増やせよ」ではないが、子供が大きくなって

日本のために「鬼退治」するような、元気な男の子が

育つ事を願って、作り出された「近代版・桃太郎」だった

そういう見方もできるのではと、爺は考えています。

余談ですが

桃太郎は食い物と引き換えに、家来を集め

鬼というだけで、情け容赦なく退治して、鬼の

財産を奪ってしまった。

それを自分のものにしてしまった桃太郎は《盗賊》では

ないのかという説もある(笑)

鬼は悪い奴、持っている財産は「盗んだもの」という

固定観念、鬼を退治したものは「善人・ヒーロー」という

勧善懲悪のストーリーになっている。

本来は敗者の悲劇の伝承を、逆に利用した説話という

見方もできる。


幾つかある「桃太郎話」の中で、流れてくる桃は一つ

ではなく二つ、青い実と赤い実が流れてきて

おばあさんは「青い桃はあっちゃ行け」

「赤い桃はこっちゃ来い」というらしい

《私の幼少期に母親から聞いた話も同様だった》

これは赤い桃は食べても良いが、青い桃は

食べると危険だ、という事を知っていた事になる

しかし・・・不老不死と言うのも、後出しじゃんけん

のような気がしている。

桃は外見的にも「女性」をイメージするのが普通であり

桃そのものを女性として捉えたからこそ、「産まれ」た

という流れになったのではないだろうか・・・

《桃から出てきた》と表現せず、《桃から産まれた》のは

桃が女性だったからの証ではなかろうか


飛躍して考えると、桃が女性と同一と考えていたから

女性(女の子)の節句を【桃の節句】というのではないか

そんなふうに思っている。

                  

◎  漢字の雑学 

桃太郎の構想が纏まらないので、繋ぎとして

漢字の雑学などを・・・


漢字と言うのは神に関係したものが多いそうです

右 という文字、これはそのまま右手の形です

その 口 になっている部分は、口 ではなく

祝詞(のりと)を入れる容器 【サイ】 を顕わしています

Aをさかさまにした形、が原型で サイ と呼びます

《ターンエー みたいですけどガンダムでは有りません(謎)》


では左はどうかと言うと、同じく左手が原型です

ナ だけで 左 を意味していたらしいですが

今度はサイではなく、持っているものが エ になります

これは呪術に使う 呪具 だといい

右手に祝詞、左手に呪具をもって神祀りをした

そういう事だと思います。


巫女の 巫 と言う文字、これも左右の手で エ を

奉げ持つ形とされている

現在は省略されて、人 が両脇にかかれているが

本来の象形文字では、右手と左手の上に エ が

描かれている

呪具を奉げもつ姿が 巫 で、呪術を行っていたのは

女性だった、卑弥呼も 鬼道(呪術)を良くしたという

古代では神祭りは「女性の仕事」だったという事でしょう。


大 という文字は、人を正面から観た形

その 大 の上に大きな頭を載せた形が 天 である

一番上にあるから 天 なのだという

そこから空の上を 天 と呼ぶようになったらしい

天は神の居るところ、神聖な場所という認識が生まれた

兄 という文字 これも 【サイ】 の下に 儿(ニン)が

付いた形で、サイを頭に乗せている形である

《 ニン は人を横から見た姿 》

長兄が一家の祭事を担当した名残りかもしれない


光 も 儿 がついた文字

火を頭上に掲げる人を横から見た形

火は神聖なもので、祭祀には欠かせないものだった


示 という文字

これは神を祀るときに使う「テーブル」の形

この 示 が入っている字はみんな神に関係する

文字だという


祭 という文字

これは 示 、月、又 で構成されている

示はテーブル、月は肉月の肉、又は手を表している

神さまを祭るとき、台の上に手で肉を供えている姿


祝 という文字も神さまに関係する

兄については説明してあるので・・・

横に 示(ネ) が付くと

サイを掲げる人の横に神を祭るテーブルがある

神にお祈りをするという意味で、神に祈る人に変化し

「いわう」の意味に変わったという。

古文書などでは「祝(はふり・ほうり)」として出てくる

祝詞(のりと)は文字通り、神にお祈りをする言葉である


社という文字

示 に 土 、土は 土主(土地の神)のこと、土饅頭である

古代では土饅頭を築き、そこに神さまをお迎えして

お祀りしたのが 社 であったという

立派な木造建築が 社 ではなかったという事です。

今回はここまで・・・

またの機会に、文字の成り立ちの雑学でも

                  


◎  鬼の最初 


台風が通り過ぎて日中は暖かかった

ところが日が落ちると嘘のように気温が下がり

Tシャツでは寒くてかなわない(笑)

今月から来年まで改築・リフォームの予定

台所・風呂・トイレの改築はプロに任せ

部屋のリフォームは自分の手で行う

今月後半には一部屋目に着手する

何かとバタバタして落ち着かない

本を読む暇も無くなりそうである・・・。


さて

日本の文献で、鬼が最初に登場するのは

「出雲国風土記」である。

現在の島根県大原郡大東町(旧大原郡阿用郷)

のあたりだという

八岐大蛇で知られる斐伊川に合流する赤川と

阿用川の流域だ

風土記には

・・・古老(ふるおきな)の伝えていへらく

昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき

その時、目一つの鬼来りて、佃る人の男(をのこ)

を食いき。

その時、男の父母(かぞいろ)、竹原(たかはら)の

中に隠りて居りしときに、竹の葉、動(あよ)げり。


なんと日本最初の鬼は「一つ目」だったのである

現在の鬼のイメージは「般若」だろうか・・・・

般若は「鬼女」でもある、能が生み出した鬼の代表

世阿弥は「形は鬼なれど、心は人なるがママ(ゆえ)に」

と言い表している。

平安以降とその前とでは、鬼に対する捉え方が違っている

本来中国では「鬼(き)は帰なり」といい

死者の魂が帰ってきた形が「鬼」だったのである。

その思想が日本に伝えられ、日本独特の「鬼考」が

定まっていった

水辺から生活が始まる古代社会では「恐れ」と

「畏れ」が入り混じり、「神」と「鬼」が混沌となるようになる

神を「オニ」と呼んだわけが、まさにこれなのである。


話を出雲の鬼に戻そう・・・

この伝承では、「一つ目のオニ」が登場する

私はこれは「たたら場」の職業病である「片目」を

連想した、火の温度を色で見分ける為、何日も

竃の日を見つめ続けて、ついには失明してしまう

鉄精錬の踏鞴(たたら)場に生きるものの定めである。

現在でも「刀鍛冶」などは、鋼の温度は色で見るそうだ

そのたたら場で「人の死体」が入用になるときがある

踏鞴の火加減が悪くなると、人間を燃やすと回復する

詳細はわからないが、そういう話を聞いた。

この伝承も、「男を食った」のではなく、連れ去ったのかも

しれないし、本当に食べたのかも・・・・。


大国主は別名「オオモノヌシ」という

鬼はオニであり、モノでもあった

大鬼主神、とんでもなく怖ろしい神さんに思えてしまう

ところで、大国主神・・・・

これは音を漢字に当てはめたものではない

8世紀頃に「史書」を編む為に、作り出された名前だ

本当の名前は解るはずも無いが(私は架空という説をとる)

この漢字に騙されては居ないだろうか?

大きな国の主というイメージは、漢字から湧いてくるもので

オ オ ク ニ ヌ シ と書けば、どの文字を当てはめるか

悩んでしまうはず・・・・。

こんな名前など存在したのだろうか・・・・。

もし それらしき人物が居たとしたら、どうだろうか

大ではなく、この出雲の地「意宇」の首長であれば

【意宇 国 主】 オウクニヌシ~オオクニヌシ

古代では a u o は入れ替わるという

大国主のルーツは、意宇国主だった気がする


次回は「桃太郎」を考えてみたい・・・。

                  

◎  716年(霊亀二年) 

霊亀二年

西暦716年

霊亀二年に創建された社寺

たいした意味など無いのかもしれないが

杵築大社が創建されたのが霊亀二年である

偶然なのか・・・必然なのか?



由緒を頼りに調べた結果は

* 龍高寺(りゅうこうじ)  

  富山県富山市 高野山真言宗

* 羽賀時(はがじ)

  福井県小浜市 高野山真言宗

* 太山寺(たいさんじ)

  兵庫県神戸市 天台宗

* 性海寺(しょうかいじ)

  兵庫県姫路市 天台宗(創建時 法相宗)

* 日向薬師(旧 日向山霊山寺)

  神奈川県伊勢原市  僧・行基創建

* 伊豆山神社 (旧 不老山神社)

  秋田県大仙市

* 熊野神社

  新潟県佐渡市

* 気比神社

  山形県鶴岡市

* 須岐神社(すきじんじゃ)

  石川県金沢市

* 宇佐神宮・摂社/小山田社

  大分県宇佐市

* 白山神社

  福岡県北九州市

* 綾延神社 (旧 墓辺社)

  愛媛県西条市

* 上新川神社・下新川神社

  滋賀県守山市

* 青蓮寺 

  福井県美浜町 高野山真言宗


おそらくもっと細かく探せば、さらに多くの社寺が

霊亀二年に創建されているように思う。

だからどうなんだ? と言われても、確たる考えは

持ち合わせていないが、意図的に数多くの社寺を

建てたのには「理由」がありそうなのである。

                  

◎  伊勢と神宮と神話 


伊勢神宮のイメージ

清流の音を聞きながら宇治橋を渡り

玉砂利を踏みしめ、五十鈴川で禊をする

神域に連なる「町屋」の喧騒が嘘のような静寂

鬱蒼と茂った杉やヒノキの香に包まれ拝殿に向かう


というのは、近代の話なのである

お蔭横丁で馴染みの町屋は庶民が伊勢参りに

熱中した頃(江戸時代)から

鬱蒼と茂った杉の巨木も無く、シイ・カシ・クスなど

亜熱帯性樹木が茂っていた

私達が観ている神宮の森は鎌倉時代に

植林されたものであり

玉砂利も室町時代後期から、始まった姿なのである

人の気配の無い「神宮の杜」を想像できるだろうか

まさに「神宮」とは、参拝する事を拒み続けた「社」で

神社と呼ぶより、「陵地」と読んだほうが適切か・・・



そもそも「神宮」というのは漢語である

意味は「霊廟」で、2世紀の後漢の文献には

王朝の祖先神を祀る廟を、「神宮」と呼んでいた

中国古代の宗教思想では、天上の神々の世界

冥界の死者の世界は常に「相似」の形で考えられて

いたという

何時、誰が、神宮と言う呼び名を伊勢に宛がったかは

不明だが、古代中国の宗教観を知っていたとしか

思えないのである

この宗教観が、古代ヤマト成立の「神話」の原点では

ないかと考えている。

何度も言うが、空想するにも、創造するにも、具体化

するためには、何らかの「素地」が必要なのであり

知らないもの、認識できないものからは、想像も創造も

できないと私は考えている。

それを「手本」とか「参考」と呼ぶことも有るが、観たことも

聞いたことも無いものは、想像(イメージ)することすらできない

日本の神話には、必ずその下地となる説話や宗教観が存在

したはずなのである。

                  

◎  出雲のなぜ? どうして 


出雲国造の不可解さは何処から来るものなのか

この数日、仕事の合間に無い知恵を振り絞ってみた

出雲国造は出雲大社の宮司である

祭神である大国主を丁寧に祀っている神官だ

ところが、神饌を食するときの礼儀を観ても

現人神と呼ばれることも、神に向かう真摯な態度

の裏側にどうにも納得できない何かが残る

普通でない何かが・・・・。


伊勢神宮の創建は諸説ある

【大神宮諸雑事記(だいじんぐうしょぞうじき)】

ここに書かれている内容を簡単に言うと

持統二年(688年)に内宮と外宮の造営が開始された

そう記されている

さらに持統四年(690年)に内宮が、持統六年(692年)

に外宮が完成し、遷宮が行われたとされる。

この「遷宮」という言葉が曲者なのである

私の自論では、このときに祭神の変更があった

可能性として考えられるのは・・

* 内宮の祭神と外宮の祭神が入れ替わった

* 内宮の祭神(アマテル神)が(アマテラス神)に

  すりかえられた

* さらに外宮の祭神(男神)をトヨウケ神に変え

  正体を隠蔽してしまった

それに付随して、内宮・外宮の宮司家を変更した

このとき、藤原氏の何らかの工作があった



伊勢神宮が成立したのは、文武天皇二年(698年)だと

いう見方をする人もいる。

現在に近い、体裁を整えたのが「成立」という事なのだろう


さて、もう一方の杵築大社はというと・・・

日本書紀、斉明天皇五年(659年)に斉明天皇が

出雲国造に命じて、「神之宮を修厳(つくりよそ)わしむ」

という記述があり、「神之宮(じんのみや)」とは大社の

ことを指すと考えられている。

諸説を総合的に観ても、杵築大社の方が先に建って

いたのは間違いないようである。


伊勢神宮は歴代天皇が参拝しなかった神社だ

持統天皇が行幸してから、明治になるまで誰も

伊勢には足を運んでいない

では出雲大社は?

これも探してみたが、そういう記述は存在しなかった

皇室とも密接な関係と言われるわりには、直接の接点は

無かった事になる。


そこでもう一つのなぜ?

どうして八百万の神は「伊勢」ではなく「出雲」に集まるのか

これを誤解している人が、殆んどだろうと爺は考えている

【伊勢ではなく、出雲に集まる】

出雲大社に集まるのではない、出雲の地に集まるのである

伊勢に神々が集まらないのには理由があるはず

これは出雲が古代日本の中心的国家だったから

八百万の神=諸国の長

年に一度、出雲の大王の下に、部族長が集まり儀式や相談を

行った伝承に端を発している

あくまでも言い伝え(伝承)だった

日本各地に散らばった出雲族の末裔達が、語り継いだもの

出雲族に代わり住んだ民には、この伝承は伝わらなかった

だから出雲の人は、近世まで「神在月」とは思っていなかった

日本各地で認知されていた「神在月」、その発信元は先祖の地を

追われた「出雲族」だった

《あくまでも長屋の爺の自論ですが・・・・》

もう少し違う角度からも、出雲と伊勢を考えてみたい

そう考えています。

                  

◎  出雲の不思議の本質 

昨夜は危うく「寝落ち」しそうになって

慌てて途中で投稿してしまった。

頭の中で文章を整理していると

最近は「空の上」に浮き上がってしまう(笑)


では

出雲は不思議なことが沢山ある

よく聞く言葉だが、出雲の不思議の本質は

出雲地方と出雲族、出雲大社という明らかに

違う「出雲」の仕業なのである。

またまた、わけのわからない話になってます・・。


出雲大社はそもそも「意宇にあった熊野大社」であり

出雲族は現在、殆んどが全国に散らばってしまっている

そして出雲地方は、出雲族以外の人々が主流になっている

(これは、あくまでも長屋の爺の私観である)


この出雲の数々の謎は、天皇家と言うより

藤原氏の都合で決められたことが発端である。

そのキーワードは、「なぜ蘇我本宗家が滅んだのか」

もうひとつ、「なぜ物部氏は滅んだのか」

ヤマトの建国に功績のあった「古代氏族」

物部と蘇我の衰退と、出雲神話~出雲国造~

出雲大社が、大きく関わっていると思えるのだ。

ではどうして、藤原と蘇我・物部氏が関係あるのか

古代ヤマト建国の主体は、吉備と出雲である

いや・・・正確には、吉備地方勢力と出雲勢力が

中心となって興ったのが「古代ヤマト」だった。

その吉備勢力(吉備王国)の支配者が「物部氏」で

出雲勢力(出雲王国)の支配者が「蘇我氏」だった。

吉備は瀬戸内地方をも勢力圏にして、一大王国を

形成していたのではないか

そして出雲は、越から東北南部、東海地方までも

勢力圏にしていた。

云わば「古代ヤマト建国の祖」とも言える二大豪族を

滅ぼした藤原氏は、途中から出てきた「渡来氏族」

あるいは、成り上がりの氏族と思える。

その蘇我氏の古代の功績、血統や天皇家との関係を

そのまま後世に伝えるわけには行かなかった。

蘇我氏の出自が天皇家に匹敵する「名門氏族」、あるいは

それ以上の高貴な出自だとしたら、その一族を滅ぼした

罪は計り知れないものとなる。

その史実を知っていたからこそ、神話の中に全てを封じ込め

伝承の神々を寄せ集め、「大国主神」という不透明な神さまを

作り上げた。

その舞台を、蘇我氏出身地である、意宇の熊野大社から

杵築の地に「大社」を遷し、祭神を「大国主」という曖昧な

神さまに仕立てた。

大国主とは、特定の神さまではない、古代日本の各地を

治めていた「族長(国主)」の頭領のことだった。

だから、オオナムチであったり、大物主であったりする

そして出雲大社の主祭神は、本殿の奥・背後に祭られている

「素戔嗚尊」なのであり、その素戔嗚尊は、意宇の熊野大社

の祭神を分祀したものと考えている。

それゆえ、出雲の国一ノ宮は《熊野大社》なのであり、二の宮

は《佐太神社》なのである。

もし現在「出雲の国一ノ宮・出雲大社」が正当なら

火臼や火杵を借りに、自ら出向き頭を下げることが不可解

という事になる。

元来「一ノ宮」とは、その地方の一番格式の高い神さまが

祀られている神社のことである。

大国主と素戔嗚尊、素戔嗚尊の7代後が「大国主」である

祖神をさしおいて、格式・神位が高いと言うのは解せない

藤原が作った神話を逆手に考えても、そういう事になるのである。

(つづく)

                  

◎  出雲の不思議 身逃げ神事の裏側 

身逃げの神事

前回は誰から逃げるのか 何から逃げるのか

そんな疑問を書き残した


そして主役は「禰宜(ねぎ)」と書いた

宮司や権宮司が居るにも関わらず

なぜ「主役」が禰宜だったか?

布団の中で考えた・・・・。


朝、台風の風の音を聞きながら、文献を手当たり次第

開いてみたところ、付箋が貼られた個所にめぐり合えた

忘れっぽくなっているので、こんな具合が常である(笑)


たぶんこれを書くと、けっこうな長文になってしまう

思い切り端折るにも、何処を端折って、何処を残すか

メモ用紙もあわせると、気が遠くなる文字数である。

今回は書けるところまで、書いてみたい

長いので途中で寝てしまうのは、管理人・訪問者どちらも

有りという事にしてほしい。(笑)

大筋から・・・

主役は表面上は「禰宜」であるが、裏の主役というか

本当の主役は「宮司」である国造なのである。

囮(おとり)として禰宜が儀式を行っている最中(さなか)

裏口から人知れず飛び出すのは「宮司」だろうと思う。

禰宜の行動に「逃げて」いる姿が想像できない

民には「見るな」と言ってはいるが、公然と「道中」を歩んでいる

この儀式に「逃げる」要素は見当たらない。


では宮司は何をしているのか?

「身逃げ」とは何なのか・・・・


神話と大社の関わり

国譲り神話では、事代主(ことしろぬし)は海中に

身を投げて死んだ事になっている。

これは実際にあった事件の「言い伝え」が基礎になって

作られた神話である。

空想するにも、捏造するにも、何らかの骨子が必要である

これを経験とか、記憶とか、知識とでも言おうか・・・。

日本全国の「言い伝え」を知ると、【事代主は生きている】

そんな妙な気分になってくる。

源義経生存説、明智光秀生存説、と同じかもしれないが

国譲りとはヤマト勢力の出雲侵略を、「話し合い」で解決した

という「穏便説」であり、本当は血の流れた争いだった

その場から逃れたのは、事代主だったと考えている。

《神話では、逃げたのは諏訪の建御名方神になっている》

禰宜の行動は、「大国主」がヤマトの視線を集めるためで

宮司の行動は「事代主」が逃げる古事の再現か・・・。


ちなみに私が興味深く感じているのは、司馬遼太郎氏の

【歴史の中の日本】という本の記述である。

出雲は出雲国造家に簒奪された・・・という言葉である。

富氏は富當雄と言うのが本名だとか正式には

出雲では、富上官出雲臣財當雄 と呼ばれる
(とみのじょうがんいずものおみたからのまさお)

富氏一族は代々、出雲で迫害を受けていた

かつて毒殺された者、発狂したふりをして身を守った者

ドラマか小説のような話である

しかし、世に言う 「事実は小説より奇なり」 かもしれない。

私は以前にも書いたが、怨霊・祟り神を祀るのは

その子孫で無ければならない。

そう繰り返し書いてきた、その条件に「出雲国造家」は

適していないのである。

宗教学者や神道関係者がなんと言おうとも

祟り神を祀る(鎮魂)事ができるのは、その血筋の人間だった

現代では想像できないような、厳しい理念が存在していた。

世に言うような、皇祖と出自が同じなら、強烈な祟り神である

「出雲の祭神」を祀ることなど、できるはずがないと・・・・。

思い出してほしい、以前書いた記事に「宮司(国造)は神のよう、

人間だけど現人神(あらひとがみ)のような存在です」。

地元の信者が話すのを聞いた(たぶんNHK)

普通は神饌(しんせん)を食すのは、内殿に向かってだが

出雲国造だけは、内殿を背にして食す・・・。

簡単に言うと、神と共に食事をするときは内殿(祭神)に向き合う

のが一般的であり、神に背を向けるということは、神を軽視して

いるか、神より上、もしくは自分が神と思っていなければ

出来ない事で、つまりは神への侮辱なのである。


なぜ廃止された「国造家」制度が、出雲だけに残っているのか

それは「藤原の正当性」を助ける役目ではないか・・・・。

本当は杵築大社の神職は別にいて、3世紀の歴史を

改竄・抹殺する為の「藤原に都合の良い」神社・祭神が

必要だった。

すべて「日本書紀」を編むために造られた建造物

オオクニヌシと言う架空の「神」を仕立て、本当の祭神

である「祟り神」を封じ込めた。

その犠牲になったのが、當氏一族ではなかったか


熊野大社が意宇に遷ってから、「大国主神」が祭神となり

杵築大社と名乗る(716年)

それまでは「素戔嗚尊」が祭神だったのである。

なぜ架空の大国主神が必要だったか?

それは藤原の正当性、「蘇我氏=悪」の歴史を固めるには

蘇我氏の出自と共に、不都合な問題、物部氏の存在である

事代主(言代主)とは、物部氏の祖だった

そしてその言代主を祀っていたのが、當氏一族で

當は【当たる】という意味であり、阿多が當(あた)に変えられ

阿多氏の末裔が、當氏(あた)~當氏(とみ)になった。

この続きはまた・・・・。

                

◎  出雲の不思議と通説 


出雲の不思議は数多ある

私が興味を覚えるのは、「身逃げ神事」

八月十四日に行われる「神幸祭(しんこうさい)」

別名「身逃げの神事」である。

大国主の行幸をあらわすとされる儀式だ

主役である「禰宜(ねぎ)」は十日から潔斎して

儀式に備え、十三日には儀式で通るコースの

下見をする。

十四日の深夜一時に儀式は始まる

下見したコースをなぞるように進み、神を誘導する。


不思議なのは、この十四日は地元である大社町の

人々が早くから戸締りをして、外出を控えると言うのだ

理由は、道中で禰宜が人に出会ってしまうと、ケガレに

触れた事になり、大社に戻って一からやり直さなければ

いけないという。

また出会った人の方は、「神罰」を受けると言われ

町内では一切の外出をひかえるのだという。

なぜ「身逃げの神事」と言うのか疑問なのだが

通説では、神職がケガレを避けるという意味からと

されている。

解るような解らないような説である(笑)

逃げるのは誰から?何から?と思うのは私だけか・・

まさか町内の人間から身を隠すようにして逃げることなのか

神さまが逃げる(身を隠す)意味・・・・とは?


神在月については、地元ではあまり認知されていなかった

日本各地では知られていて、地元が知らない理由を

考えていたが、もしかすると伊勢神宮の御師の例を

考えれば、出雲にも観師がいたと思われ、その御師が

広めた伝承だったのではないか、それゆえ地元では

知らない理由だとも思えてしまう。

平安時代の「奥義抄(おうぎしょう)」に記載されてはいるが

私は全国的に広まったのは、江戸時代ではないかと

勝手に思っている。

そして・・・地元が認識したのは、もっと後・・・

つい最近、明治以後ではないかと考えている。

不都合な歴史を隠蔽しているから、大々的に広まる

事が無かった、そんな推理も出来るのである。


その根拠が、出雲に神様達を迎える「神在祭」

地元では、「御忌祭(おいみまつり)」と呼ぶこと

八百万の神を迎えて、相談する事がなぜ「忌む」なのか

そしてこの期間、地元の人は謹慎し静かに暮らす習慣

だと言われている。

まるで・・・「喪に服す」姿に似ていないだろうか?

さらに不思議なのは、出雲で神々を送り出す儀式の

「神等去出祭(からさで)」の後、神々はそれぞれの

地元に帰るわけではないというのだ

もう一箇所、出雲大社の東に在る「佐太神社」に行き

もう一度「神在祭」が行われると言うのである。

出雲地方では二つの「神在祭」が存在する。

私は「神在祭」の原型は、杵築大社ではなく、この

佐太神社にあったのではないか?

そんな事も考えている。

佐太神社は717年に創建されたといわれている

(神社の由緒では、垂仁54年の創建とされ、養老

元年717年に再建されたという)

あの・・・興味深い716年の翌年である

716年と言う年は、興味深い神社仏閣が創建された年

であり、杵築大社が出雲に遷された歳でもある。



日本書紀の編纂されたちょうどその時代なのである。


出雲と【霊亀二年(716年)】は眼に見えない「糸」で

むすばれている。

さらに出雲と伊勢を考えてみたい。

                  

◎  出雲と伊勢の通説を考える 

ここ数日の話題は、「御嶽山噴火」

そして「出雲大社」・・・・。

不幸と幸福の対象的な話題である。

出雲は日本の注目を一手に浴びるはずだった。

それでもマスゴミは、当然のように報道をする。

これが天皇家の問題なら、「喪に服す」べき

そんな言葉も出そうだが・・・・。

宮家から一般に嫁ぐので、委細は問わずなのか

何はともあれ、祝福すべきなのだろう(笑)

さて

杵築の社(出雲大社)は現在、【神在り月】である

以前にも書いたが、これは近代になってから

何処からか「神在り月」だという話が広まった。

出雲では昔から、世間と同じ「神無月」だったのである。


ところが最初は「国造家」も否定していたという話も有り

いつの頃からか、「否定」しなくなり、ついには「容認」する

ようになったらしい。

そのほうが「杵築大社」にとって、都合の良い歴史に

思われたからか?


これは少し私の暴論を書いたほうが、理解してもらえそうだ

杵築大社の祭神は【大国主命】と言われている

通説で言うと、「国津神」である

言葉を変えれば、「地方神」であり、八百万の神の頭領だ

その大国主尊の6代前の祖は、【素戔嗚尊】である

皇祖・アマテラスの弟神といわれる・・・・。


その素戔嗚尊の子孫が「大国主命」だ

アマテラスは「天津神」の頂点とも言える神様なのだ


八百万の神さまが、出雲に集結したら

伊勢は空っぽにならないのか?

皇居に坐ます神々のうち、八百万の神は不在なのか?

そんな疑問を口に出すと「不敬」と言われるか・・・。


話を変えてみる

杵築大社の創建は不明となっている

確認できる範囲で言うなら、日本書紀・659年

斉明天皇の時代の記述部分には・・・

「出雲国造に銘じて神の宮を造らせる」 とある。

私見ではあるが、伊勢神宮より先に「杵築大社」

は建っていたと想像出来る。

伊勢神宮の創建(完成)は、持統天皇が伊勢に行幸した

692年と観るべきだと考えている。

そして698年に現在地に天照大神が遷され

翌年に現在の原型が成ったと思っている。


天津神の姉弟が、天つ神と国つ神に分けられるのか?

逆から考えれば、国つ神の「大国主」の祖が

天つ神であっては不都合だったからでしかない

追放しようと勘当しようと、血は変えられない!

そのことを基準にすれば、素戔嗚尊はアマテラスの

弟ではない事になる・・・。

赤の他人だと通説は教えてくれている。


そして「出雲大社」と言う呼び名も、近代の呼び名で

本来は「杵築大社」といい、明治4年に現在の呼び名

「出雲大社」になったのである。


出雲大社の由緒によれば・・・

「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。

 八岐大蛇を割き、兇徒を射ち国域の太平を築く」

出雲大社自体が、主祭神は素戔嗚尊と宣言している。


不思議な事が満載の「「大社(おおやしろ)」である。

(つづく)

                  

◎  ミーの近況 2014、10月  

我が家に来てちょうど三ヶ月になる

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「おてんば」と「きまぐれ」は相変わらずだ

気の強いのがちょっと・・・・

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最近 食べ物に「好き嫌い」が出てきた

喜んで食べていた「ササミ」を最近食べなくなった

わがままに育てたつもりも無いが

気候のせいなのか? 成長したからなのか?


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とにかく元気一杯である

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