不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  女王・卑弥呼から女性天皇へ 

卑弥呼って誰?

誰でも知っている?

では、卑弥呼というのは【名前】なのでしょうか?

これをはっきりと断言できる人はすごい人だ


卑弥呼と漢字で書いているが、音はヒ・ミ・コ

あるいはフィ・ミ・コ、フィ・メ・コとも考えられる

万葉仮名のように、一音一字で書き表されている

これは魏の人が「音」の類似した文字に置き換えた

結果だと見るべきだろう

ではヒミコというのは、本当に名前だったのか

俾弥呼(ヒミカ)

日巫女(ヒミコ)

日売子(ヒメコ)

比売后 (ヒメゴウ)

卑弥呼(ピヤコ)

諸説あって判断するには難解だが・・・

私個人の考えでは、名前ではなく「尊称」の

類ではなかったかと考えている。

魏の人に、倭人の言葉が理解できたかどうか

聞こえた音を、後で文字に書き写した

それが、ヒミコ、ヒメコ、ヒミカ、フィミカだったと思える。


日本初の女性天皇と言われている【推古天皇】

名前を、【額田部皇女】という

ぬかたべのひめみこ と読む

彼女の場合、名前は養育された額田部連から

とられていて、皇女は彼女の地位・身分を表す

「ひめみこ」というのは、尊称であって、名前ではない

このヒメミコという呼び名が、何処から来ているものなのか

私は(卑弥呼)、ひめ・みこから発展しているのではないのか

そんなふうに考えている

つまり卑弥呼というのは、本来は「ひめみこ、ひめこ」だった

みこは「巫女」であり、呪術を得意とする女性であり

ひめは「日・女」であり、太陽神に仕える女性だった

卑弥呼とは一人の女性の名前ではなく、呼び継がれる

尊称だったのだろうと思っている。

では卑弥呼は女王だったのか?

魏志倭人伝を信じるならば、倭国の女王であったろう

その出身は「邪馬台国」という事になっている

この「邪馬台国」をヤマタイと呼ぶから複雑になる

素直に【ヤ マ ド】と読めば、倭(やまと)の女王になり

北部九州に「都」があったという事になる

私はヤマトは九州と近畿どちらにも存在したと考えている

初代卑弥呼は九州に、二代目卑弥呼・トヨが近畿に

都を置いた、そう考えている。

魏志倭人伝を何度読み返しても、卑弥呼は倭の女王に

擁立されたとしか思えない

その卑弥呼は「ヤマド国」の女王であったなら、邪馬台国

は初期ヤマト国と同一だったと考えるのが普通である。

神武東遷とは九州・ヤマトから、近畿・ヤマトへの

変遷譚ではなかったか?

そのように考えている。


卑弥呼という女性は、実在したと思っているが

倭人伝や倭伝を、鵜吞みにしてもよいものか

判断に困る事もある。

だが卑弥呼はわが国最初の「女王」であることは

間違いないのかもしれない。

書き残すという事は、「常でない事」だからであり

男王が通常の社会で、女性が「王」に就くことは

中国でも「異例」のことだったと推測できる。


その中国の歴史・4000年に於いても

女性の皇帝はただ一人である。

唐の聖神皇帝、日本では【則天武后】として

広く知られている女性である。

六世紀中ごろの人、中国三大悪女とも言われる。

私はこの則天武后こそ、女性天皇のモデルではないか

そんな暴論を思い描いている。

* 卑弥呼は「倭国大乱」において、乱を鎮めるために

  擁立された女性(女王)

* 推古天皇は蘇我氏と物部氏の争いを収めるために

  擁立された女性天皇

* 持統天皇は天智系と天武系の争いを収めるために

  自ら即位した女性天皇

そういう側面も見ることができる。

ただし・・・通説で言うような、正当性があったかどうかは

疑問に感じる事もある、

女性天皇というのは、古代も現代も「常でなゐ現象」

であり、よほどの事があったという事だろう。

はるか昔より、「男子を持って継ぐ」のが帝位・皇位という

認識が定着していたと見るべきで、それは古代中国を

範として国家形成を築いてきたからに違いないのである。

その中国を見て、女性皇帝の危うさを十分に知っていた

それでも女性(皇后)を皇位に就ける選択をした理由は

権力は「王位」に就いた人間ではなく、その側近が

掌握するという制度が、利用したに過ぎないのでは

ないだろうか・・・。

その証拠に、則天武后や西太后のように、「悪女」と

言われる「女性天皇」が居ない事が物語っているのである。


卑弥呼が誰であれ、どのような女性だったか

何処に住んで、何をしたのか、わからないほうがよい

そんな気がしている。

百人の日本人が、百通りの「卑弥呼像」を持っていたほうが

夢があっていいと感じている

その「卑弥呼」のイメージは、日本人なら大差ないかも

しれない

何と言っても、私達の祖先かもしれない女性である

大和撫子であることは、疑うべくも無いことなのだ・・・。

そして、卑弥呼=天照大神 という説もある。

この説は、出雲をお浚いするときにでも、詳しく自論を

書いてみたいと思っています。

もっと書くことが有るような気もするが、今回はこのくらいで

女王卑弥呼についての、長屋の爺論とします。

                  


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◎  言い訳 弁解 

じつは何度もメモ用紙に、文を書き溜め

先日途中までだったが「下書き」し、さらに

少しずつ書き足して、今日は続きを書き完成した

いや・・・はずだった。

ところが完成直後、PCがフリーズ・・・・

下書きを編集しても、自動保存されない仕組み

きれいさっぱり「消滅した」

ようやく状況を理解できて、萎えているところである。

冷静にさえ戻れば、ついさっきの事だから、思い出しながら

書くことは可能だろうが・・・・

気力がしぼんだままで、頭の中が白い状態だ

残った下書きは三分の一、殆んどが消えてしまった(泣)

もう少し時間がかかるという「言い訳」であり

更新できない弁解になってしまった(笑)

最近になく長文だっただけに悔やまれる

大きなファールボールのあとは、三振と相場は決まっていて

期待しないように、お願いします。

                  

◎  鬼の霍乱  

どうやら季節はずれの風邪を引いたようで

微熱と鼻水が止まらない

アレルギー性鼻炎かと思っていたが

風邪のようである

政治ブログなら、頭にあることを吐き出せばすむが

古代史となると、なかなか文章にならない

同じフレーズが堂々巡りをして、思考停止してしまう

症状が改善するまで、こちらのブログは休憩という事に

秋風が心ばかりか、体の中まで吹き渡ってしまった(笑)

つなぎの日記でも書けたら、更新します。

申し訳ない話です・・・・ではまた

                  

◎  天皇家と宗教 


日本の宗教は、古代神道から始まった

自然の神であり、人間にはどうする事もできない

大きな力をもつ存在、その大きな力を鎮めるために

祈り願ったのが「神道」であった。


その後、世の中に恨みを持って死んだ者が災いを

齎す「怨霊心」を、鎮魂する目的が加わった。


さらに「仏教」の渡来によって、神と仏が同居する

「神仏習合」として別の「神道」が誕生したのである。


ここまでは、私達がよく耳にする「神道」だが

この後、明治維新になると、神仏習合の神道から

仏教色を排除するような「神仏分離」、「廃仏毀釈」と

いう流れが起きる

その背景にあったのは、【水戸学】と呼ばれる教えであり

徳川光圀が始まりと言われている

その後、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らによる

【国学】に受け継がれ、仏教否定の流れとなって行く


簡単に言うと、仏教はインドの学問であり、儒学は中国の

学問である。

日本は日本の学問をするべきである、という考えから

【国学】が起こったという事なのである。


廃仏毀釈によって、仏を選んだ方は神さまのものを

全部壊してしまったり、神様を選んだ方が仏様のもの

を全部壊してしまったりした。


明治政府は、神道の基本的な考え方である

自然崇拝を無視し、天皇と天皇家の祖先を崇拝する

【明治神道】、【近代神道】と呼ぶべき、神道を唱えた

廃仏毀釈で仏教を否定し、本来の神道をも否定した

のである。


日本の近代化とは、仏教や神道を否定する事から

始動した改革だったということだろう


その中で、仏教徒だった「天皇」から、仏教を取りあげて

新しい宗教を完成させた

言い換えれば、「天皇教」、「皇室教」とも言えるような

神道とは遠くはなれた形に作り変えたのである。


江戸時代までは、伊勢神宮の信仰の中心は【外宮】で

明治になって、皇祖神である「天照大神」の座す【内宮】

が中心となった。

明治天皇を明治神宮に祀り、「天皇」を神とする

【天皇教】を創設したと考えられる。


そして近年、徐々にでは在るが、その祭祀も簡素化

されてきて、宗教なのかどうかも不確かな状況に

追い込まれている

天皇家を「明治神道」から解放して、今の皇室神道が

存在するが、これとて「日本神道」と呼んで良いものか

判断する事を躊躇ってしまう。

未だに「皇祖」が中心の「神道」が、日本人の「神道」かどうか

日本人はどう考えるのか・・・・。

変化は緩やかなほうがよい

まずは天皇家の意向が「仏教徒」を選択するなら

仏教徒に戻ってもらうことも有りなのかとも思う


アマテラス中心の神道が、日本の神道ではない


ここからゆっくりと考えてゆく事が重要だと思う

自然崇拝から鎮魂祭祀、先祖の慰霊と経てきた

神道の歴史をもう一度考えてみるべきではないか

疑問を持って、納得して、【天皇制度】を支えたいと

長屋の爺は考えている。

                  

◎  「通説の切り貼り」爺論の見直し 

世間で問題となっている「朝日虚偽報道」

私はこの問題を古代史に当てはめると

納得できることも多いと感じる

【書いてあるから真実】という先入観

新聞を見て「端から疑う」読者ばかりではない

古代史解説書、研究書を読んで、疑う人は少ない

そう感じている

書いてあることを眼にすれば、強烈な印象が

インプットされてしまう

さらに、それが単一的なものであれば、なおさらである


卑弥呼(ひみこ)

古代・邪馬台国の女王と言われている

本当に「女王」だったのか?

天照大神

本当に女神だったのだろうか?

持統天皇

本当に女性天皇だったのか?


女性を軽んじるつもりでも、女性蔑視・差別でもない

私達が「信じて疑わない」、これらの通説・定説は

本当なのだろうか・・・・。

古代史に疑問を持つ事は、仮説を仮説で論破すること

私にはそう思えて仕方が無い

けれども、史実は「永遠に解明されないものであり

その時、その場所に臨場し、リアルに体現するしか

「確認・検証」することは不可能である

私達が眼にする「史実」とは、仮説の積み重ねと

「書いてある文字」による判断材料に依存している

簡単に言うと、「書き遺された古文書」と、専門家の

推論の合作である。


「イエス・キリストは朝鮮人だった」を本当に笑えるのか

最近の長屋の爺は、その壁に押しつぶされそうである



りんご・ミカンの数を数えるのも、基準となる「単位」が

あるからできる

古代史も「何らかの基準」で、何処かで、誰かが決めたもの

その基準を解き放たなければ、通説・定説は覆らない

何かを否定するにも、仮説で仮説を論じる事になる

真実は一つでも、古代史には多くの「仮想真実」が

存在する事になり

私の書いている「古代史考察」も、所詮は通説・

仮説の「切り貼り」に過ぎないのである


ヤマトの古代史は、卑弥呼以前の歴史と、その後の歴史

を隠してしまったことで、幽霊のような歴史になっている



もう一度ヤマト以前の歴史を考えてみたい

「魏志倭人伝」しか頼れる「古文書」が存在しない

のは現実であり、それすら全て事実と言うわけでも

ないという頼りなさではあるが・・・

推論はいくらでも構築でき、膨らませる事ができる

私だけの「ヤマト古代史」があってもよいだろう


次回からは、どこまで通説・定説を無視した

「長屋の爺論」が出来るか挑戦してみたいと思う


それまで

ほんの少しだけ、時間の猶予を頂戴したい


                  

◎  仏教の内に見える神道の心 

私は「曹洞宗」の似非信徒である(笑)

実家が「曹洞宗」だから、私も曹洞宗の信者

そういう事になっているが、現実感は薄い

当然ながら他宗派に造詣など全く無い


昔から気になる事が幾つかあり・・・

今もって日本の「仏教」が理解できない爺である


そして

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

浄土真宗の仏教書、「歎異抄」の一説である


【善人ですら極楽往生できるのだから、言うまでも無く

悪人は往生することができる】 と言う意味だそうだ

つい最近まで、この意味が理解できなかった

悪人の方が善人より、極楽往生できる理由(わけ)が

わからなかった

それほど仏教というのは、悪人の為にある宗教なのか?


「阿弥陀様は、自分の名を呼びすがってきたものは

必ず助けてくれるので、変に自力に頼らない悪人の方が

救われやすい。善人はむしろ、自分はこんなにも良いことを

しているのだから、救われるだろうという自負を持ちやすい。

それが驕(おご)りとなるので、悪人より救われがたくなる」


解るようなわからないような説明解釈である(笑)


出家して、自分の力で「悟り」を開くことをめざす

それが釈迦の唱えた「仏教の教え」だと思っていた。


現在の日本の仏教徒は、普通の家に住み、妻を娶り

子供をもうけ、農業や商売や勤め人となり、一般人と

同じ生活をしている。

1500年経った日本の地では、お釈迦様の時代の仏教徒とは

まったく違った姿になっている。

本当に日本人は、「往生」とは阿弥陀様の居る浄土に生まれ

変わるとことだと信じているのだろうか


なぜこんな事を書いているのか?  というと・・・

日本の仏教は、神道の影響を色濃く受けている

そういう話なのである。


【往生】 おうじょう

念仏の結果、極楽浄土に生まれ変わること

というのが、本来の意味である。

ところが日本では、「いい死に方をした」と言う意味で使う

「多くの子や孫に恵まれて、大往生だった」

そんな老人の葬儀に参列した事がある

悔いのない良い人生を送ったという意味だろうか


もう一つ、【成仏】と言う言葉がある

成仏とは、念仏によって極楽で阿弥陀様の指導

をうけて、一人前の仏になる事

ところが日本では、「犯人が捕まり成仏できるね」

などという言葉で使うことが一般的だ

成仏とは、「死後に恨みなどが晴れたこと」

そんな意味で使うのである。

これって「仏教用語」とはいえないのでは・・・・。


そして、これこそ日本の神道から導かれた言葉

の使い方ではなかろうか・・・。

そんなふうに思えてしまう。


この背景にあるのは、【怨霊信仰】だろう

恨みを抱いたまま亡くなると、怨霊になってしまう

そして怨霊はこの世に「祟り」をなす・・・という

それには【怨霊】を作らないことが肝心なのだ

それが《恨みや悔いを残さずに亡くなってもらうこと》

良い死に方が大往生だと言うのは、往生すれば

怨霊になる心配がなくなるからであり

怨霊を鎮めるには、死者の恨みが晴らされることが

大事なのである



見た目は仏教だが、中身は神道ということ

日本人の心の隅々まで、【神道】が浸み渡っている


仏の教えですら、日本の神道に教化してしまう


「多神教」といい、根底に流れる「恐れ」と「ケガレ」

の根強さは、今の時代にも受け継がれているのである。

                  

◎  宮中祭祀について (三) 

宮中祭祀と政教分離は複雑である


皇室は政治とは一線を引いて分けられていて

天皇や皇族は政治に介入できない(原則)


であるならば、皇室の祭祀は政治とは無縁であり

政教分離には抵触しないと思えるのだが・・・。


宮中祭祀は宗教活動か否か

ここから考えなければ始まらないと思う

最初に神道は、「統一的教義」と呼べるものは無く

「布教」という概念もないのです

そして「宮中祭祀」は、あくまでも【儀式】であって

信者拡大などの意図はありませんし、【皇室】は

宗教団体などではないのです。


そうして考えてみれば、皇室の祭祀とは、世間で言うような

宗教活動に当たらないと言える。


国、若しくは国家公務員が宮中祭祀にかかわる事は

宗教活動とはいえないのではないだろうか・・・。


政教分離という法律はアメリカ合衆国にも存在する

ところが、大統領の就任式では、【聖書】に手を置き

宣誓する姿を見ることが出来る

政教分離を押し付けた米国ですら、このような状況

なのである

とかく日本人は厳格に物事を考える民族だから

仕方が無いのかもしれないが、宮中祭祀と

政教分離を、もう少し柔軟に考えてもよいと私は

思っているのである。



それでも宮内庁と言う役所が、「政治」というならば、

それを政治から切り離せばよいという考え方も出来る

宮内庁など無くても、他の組織を創設すれば、皇室の

存続は快適になるともいえる。


現在まで、皇室行事を「私事」としたり、「公事」としたり

その時代ごとに変わってきた経緯がある

しかし、そのような状況でも、天皇陛下は迷うことなく

赤子のために毎日祈ってこられた事実がある

国や民の安寧のために、私心を捨てて祈ってきた

天皇の祭祀を、「私事」と言うには、あまりにも情けない

話ではないだろうか・・・。


さらに、宮中祭祀が「宗教」であり、天皇家の私事と

言うのなら、宮内庁の役人が、天皇家の祭祀を簡素化

(改悪)することは、国家機関の宗教に対する介入という

見過ごせない罪を犯したことになるのである。


憲法改正の気運が高まっている昨今、この問題も避けては

通れない大きな問題なのである。


我が庭の宮居に祭る神々に 世の平らぎをいのる朝々

         (昭和天皇 昭和50年歌会始より)

星かげのかがやく空の朝まだき 君はいでます歳旦祭に

         (香淳皇后 昭和50年歌会始より)

                  

◎  宮中祭祀について (二) 

はじめにお断りしておきます

このブログは出来る限り、政治色を出さない

ように心がけていますが、題材によっては

どうしても政治に言及する場合があります

意図して政治的な記述をするつもりはありません

その旨何卒ご承知おきください (長屋の爺)



昭和22年5月 日本国憲法が施行される

「皇室祭祀令」等の「皇室令」が廃止された。


このとき、宮内府長官官房文書課長名の

「依命通牒(いめいつうちょう)」が出された

内容は・・・

「従前の例に準じて事務を処理する事」

つまりは、今までどおり祭祀を執り行う事、

伝統を守って行くように、という事である。


誰もこのことに疑義を唱えたものなど居なかった

その後・・・30年間は、戦後の多くの心ある日本人

の努力の結果として・・・・。



その人間は、地の底から這い出してきた「悪魔」

か、「「疫病神」だったか・・・

名前を【入江相政(いりえすけまさ)】」という・・・

藤原定家の子孫で、昭和天皇の「はとこ」でもある

かれが侍従長に就任して、祭祀の扱いが急変した

とにかく「儀式嫌い」だったという入江氏

天皇祭祀を簡素化しようと、あの手この手で策略を

めぐらした

(さすが藤原北家の末裔と「拍手」が聞こえそうである)


伝統や儀式というものは、全ての事に「意味」がある

ということを理解できない(理解したくない?)入江氏

だった

この「簡素化」という祭祀冒涜行為に抵抗したのは

香淳皇后と女官たちだった

今城詮子(いまきよしこ)女官などは、入江氏から【魔女】と

呼ばれていたというのだから、そのやり取りは相当陰湿な

ものだったのかもしれない。

皇后や女官から抵抗された入江氏は、直接天皇陛下に

働きかけて新嘗祭の取りやめや、四方拝を洋装で行う、

各種祭事の御代拝に同意を得たという

神をも恐れぬ所業とは、こういう事を言うのかもしれない

その後昭和天皇は、「退位」「譲位」を口にするようになる

天皇の大権を、侍従ごときが牛耳るなど有っては

ならないことであり、越権行為に等しいといえる。


昭和49年11月、伊勢神宮式年遷宮において

戦後間もなくのころ(昭和21年)より途絶えていた

「剣璽御動座(けんじごどうざ)」復活した。

天皇とともに動くという「古儀」の復活は、神社関係者

が待ち望んだ大事だったのである。

しかし、入江氏は「俺の眼の黒いうちは復活させない」

と猛反対していた 


(これは天皇の臣下が口にする言葉ではない究極の暴言である)



そして更なる「悪魔」の登場である

唱和53年 宮内庁長官となった【富田朝彦】

無神論者を自認する入江の共謀者である

天皇陛下が「A級戦犯」の懸念から靖国参拝を

取りやめたという記述の「富田メモ」の張本人である

(個人的にはこの問題は、富田氏の創作・思い込みに

よるものであり、陛下のご真意とは考えられない)

これがいわゆる、政教分離による、宮中祭祀の形骸化

・簡素化に拍車をかける事になった。

ではどうして、無神論者や祭祀否定論者が、宮内庁の

トップになったりしたのか?

それは戦前戦後の「生え抜き」の宮内庁職員が定年を

向かえ、他の省庁から配属された「無関心な公務員」が

多くなったことにある。

ただ無関心なら救いもある、あろうことか「何で宗教に

関わらなければならないのか」という、表六玉まで出てきて

は、宮内庁解体・再編も考えてしまう。

(つづく)

                  

◎  宮中祭祀について (一) 

宮中祭祀

この問題も日本の自衛隊と似かよった処遇

というと、不敬と言われそうだが・・・・

現在では「宮中祭祀」は皇室の私事という解釈だが

これも、GHQの方針に沿った便宜上の措置だった

「宗教を国家から分離する」ことに拘ったGHQは

【神道指令】というモノを出した

国家神道こそ「軍国主義」の源泉だと誤った考えをもった

GHQの「神道撲滅政策」の結果、便宜的な解釈をしたもの

それがいわゆる「皇室の私事」という位置づけだった。

そもそも、被占領国の宗教に干渉することは、あきらかな

【戦時国際法】に違反するものである。



「公」というと、何を連想するか・・・

辞典などによると、「私」の対義語、祭祀の対象、父、

父方の祖先、きみ、天子、諸侯、公爵、官公庁の、

役所、等々・・・という意味だそうだ

かつて日本では「公」とは皇室を意味していた

【天皇に私なし】といわれ、天皇は「公正無私」の

立場で、ひたすら民と国のために祈り続けてきた

その祈りを「私事」と言うには無理がある。


戦後初の侍従長・大金益次郎氏は国会答弁で

「天皇のお祭りは天皇個人としての私的信仰や

否やという点には、じつは深い疑念があったけれども、

何分にも神道指令はきわめて過酷なもので、論争の

余地がなかった」と語っている。


皇室の私事という解釈は、天皇祭祀を守るための「方便」

であり、いずれ時を見て、きちんとした法整備をする方針

だった。 (現在まで成されていないが・・・・)


このGHQの「神道指令」というものは、ある誤報から

GHQの元に届き、神道指令の草案に発展した。


米軍の日本進駐から一ヶ月後、ヴィンセント国務省極東

部長の米国本土向けのラジオ放送において説明した

「日本政府に指導され、強調された神道ならば、廃止

されるだろう」という内容を、二日後「朝日新聞」が

「神道の特権廃止」という、AP電の記事を載せた

寝耳に水のGHQが本国に照会し、神道指令の起草が

開始された。

米国政府の公式決定でもなく、極東部長の私観から

起きた神道祭祀に対する、現在の扱いに様変わりした

事の経緯である。 (つづく)

                  

◎  平安貴族のあれやこれ (二) 

平安時代の婚姻は「妻問婚」である

当然ながら、恋愛もデート(逢瀬)も、女性宅で行う

文の交換で親しくなると、邸に出入りする事ができる

ようになる(恋愛の初段階をクリア)


女性宅は二つの「御簾(みす)」で仕切られていた

母屋(もや)と廂(ひさし)、廂と簀子(すのこ)

その間に御簾がかけられていた


最初は簀子と呼ばれる「縁側」のような場所に

通される

早い話、半分外のようなところ、今風なら「濡れ縁」

のような場所であり、邸の外と内の間である

当然女性の顔は見えないし、話も女房の取次ぎを

通してしかできない


御簾と言うのは、布地で縁取られた「すだれ」みたいなもの

今で言う「ブラインド」のようなものだろう


次の段階で許されるのは、廂という場所、ここも御簾によって

隔てられている

廂は・・・廊下のような部屋というところか・・

ここまで近づくと、顔は見えないが、声だけは聞こえる

ちょっとだけ「ステップアップ」したことになる(笑)

会話が出来るようになって、いっそう親しくなれる


女性の心が、完全に打ち解けたと感じたら男性は

御簾を超えて女性とむすばれる事になる

しかし、これでも婚姻は成立しない

これは単に「恋」が成就しただけである



男性が女性のもとを訪れて、最初の夜を過ごした

とき、夜明け前には、家人に見られないように

こっそりと家を出る

その翌日も同じ様に、ひっそりと暗いうちに家を出る

そして・・・

三日目の夜に訪れて、はじめて結婚が成立する

その三日目が大事なのである

三日目の結婚成立の証として、「三日夜の餅」

の儀というものがあった。

三日夜の餅(みかよのもち)とは、新郎新婦の枕元に

きれいに飾られた餅が差し入れられ、これを食べる

餅を食べることで、結婚が成立した事になる


その三日目、ようやく男性は女性の家の家族として

認められ、その夜女性宅では宴会が催された

この披露宴を「所顕(ところあらわ)し」、「露顕(ろけん)」

という

平安の時代では、結婚とは「婿(むこ)」になる事であり

女性を中心に「家制度」が成り立っていたのである。


                  

◎  平安貴族のあれやこれ・・(一) 


清少納言

日本語と言うのはとても難しい・・・・

この名前の読みは 「せいしょう・なごん」

・・・・ではない

「せい・しょうなごん」が正しい読みである。

「清」は父親の苗字・清原からとったもの

「少納言」については、不明と言うのが通説である

古代の女性は本名で呼ばれる事はない

何度も書いてきたので、ご存知だと思うが

名前を呼ばれる事は、呼んだ人間の所有・持ち物に

なるとされていた

ゆえに女性を守るために「あえて本名を知らせない」

そういう風習があったのである


女性の名前は天皇の傍近くに侍る者など

公式に記載されているもの以外は

ほとんど遺されていない


名前と共に、隠されていたもの

それは「姿」である

平安貴族の女性は、家族以外に姿を曝す事を

極端に避けていた

名前を聞く → 所有する(自由に出来る)

姿を見る → 所有する

そういう事なのだろうと思う

天皇が「見ほまし(見たい)」と言えば、欲しいという事

であり、名前を尋ねる事は、自分のものになれという事

なのである。

では姿を見せない女性を、観るのにはどうしたのか?

覗き見る事だった・・・

垣間見ると言う言葉通り、垣根の間からこっそり窺う

「覗き見」が一般的であった

《源氏物語にも、そんなシーンがあったような・・・》

姿を曝す事は、その男の妻になる事を指していたのである

もちろん声を聞かせることもしない

取り次ぐ侍女を介して、肉声は聞かせなかった


肉筆は文字通り、「肉体をさらすこと」だった

平安貴族の女性達は、手紙は直筆ではなく「代筆」で

結婚を承諾する手紙のとき、初めて肉筆の手紙を

相手に出したといわれる

当時は、お見合いなどと言うモノは存在せず

会って相手を確かめる術がなく

文通によって、相手のことを見極めたようである

手紙の筆跡は、その人の人柄をあらわすもので、

文字の上手い「侍女」が選ばれたようだ。

そうすると、当然の如く「歌」を巧みに詠める人が

魅力的で素敵な人ということになる。


清少納言のように、高名な歌人の家に生まれて

恵まれていたかと言えば、逆にその事が

歌を詠むことに相当なプレッシャーになっていた

そんな例外もある。

清少納言の残した歌はおよそ50首ほど

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも

        よに逢坂の 関はゆるさじ


《中国の孟嘗君(もうしょうくん)の故事のように、

関所を開けさせようとして、夜の明ける前に鶏の

声音をしたとしても、男女が逢うという逢坂の関

はけっして開けないつもりです》

私にはこの歌が秀作なのかどうかの判断は出来ない

百人一首で知っている歌・・・その程度の知識である。

                  

◎  冷蔵庫と便利さ 

ついに骨董品の冷蔵庫が壊れてしまった

数日前、夕食の支度をしようと・・・・

ドアを開けたとたん、生暖かい風が飛び出してきて

完全に「単なる箱」に変身した

幸いにも、去年、嗜好品や飲み物を入れる小型冷蔵庫を

買い替えたので、そちらを使い急場を凌いでいる。

不思議な事に、電化製品というのは、伝染病のように

次から次と故障する「もの」のようで

近頃、洗濯機もおかしな状態である

この分だと、同時に買い替えという事になりそうだ


ヒトは一度【便利】に触れると、離れられない習性がある

洗濯板ではもう、洗濯できない自分が居る

氷の無い食生活、冷凍できない保存は想像できない


便利になったからと言って、幸福になったわけではない

便利さを手にした「見返り」に、何を失ったのだろう・・・。



戦後の食べ物が少ない時代から

飽食の時代へと生きてきて

幸せかと問われれば、「たぶんね・・・」

そう答える自分が見える


最近、「古き良き時代」という言葉を口にする

貧しかった幼年期

辛かった少年期

何かに抗っていた青年期

ひっくるめて、【良き時代】だったのかもしれない


「白いご飯が食べられますように」

「新しい靴が履けますように」

「お下がりでない、自分の服が着れますように」

些細な【夢】、願いに向かって、小さな胸を熱くした


貧しい事は恥ではない、貧しい事を恥じる心が【恥】

なのだ 貧しいからと言って、人様に迷惑をかけて

いるわけではない、貧乏は心の肥やし!


亡き父親の言葉である。

シナの最前線を生き抜いた男の言葉


気持ちだけは「裕福」に居たいと願う現在である。

                 

◎  壬申の乱の謎 

壬申の乱(じんしんのらん)

一般には、天智天皇亡き後の、大海人皇子と大友皇子との

皇位継承権の争奪戦と理解されている。

これは通説と言うモノであり、本当のところは不明である

大海人皇子が天智天皇の同母弟というのも嘘だろう


私は通説とは違う壬申の乱の、前後の歴史観を持っている

天智天皇の即位に纏わる歴史記述

天智天皇の薨去に関する歴史記述

大友皇子の即位説

大海人皇子の皇位継承権の有無

持統天皇の即位に関する歴史記述


一部については、過去のブログでも書いてみたが

万世一系を「血の継承」と考えている方には

申し訳ないが、そうではないと考えている。

万世一系とは、日本の支配制度の中の、皇位という

象徴制度が一貫して護られてきた歴史事実

象徴たる祭祀王の歴史系統を称して「万世一系」といい

その大部分が「血縁の継承」であった事も事実だと

思っている。

日本と言う国が、大陸や半島から文化を受け入れた

というのは事実であっても、半島人の血脈はヤマト人の

血脈でもあり、和人が半島で影響力を持っていたことも

事実なのである。


参考までに・・・

古代の半島南部に住み、日本列島の住民から韓人(カラビト)と

呼ばれていた人々は、倭人系民族だった。

彼らは、当然倭語(日本語)を話したし、現在の半島人とは

人種・民族が異なっていた。

カラ半島南部においてワイ語(現在の朝鮮語の基になった言語)が

公用語になったのは、8世紀以降であり、7世紀までは、

半島南部の公用語は倭語(日本語)だったのである。

古代日本人が交流していた相手は、あくまでも半島南部の倭人

であって、ワイ族(今の朝鮮人の先祖)ではない。

古代における日本列島住民と半島南部住民の交流には、朝鮮人

(ワイ族)は無関係なのである。

朝鮮人と半島人とは、異種である事を認識しないと

歴史に対し偏見を持ってしまう

あくまでも韓人というのは、倭人系だという事であり

交流・交易が盛んだったことの原因なのである。


さて、天智天皇の即位には多くの疑問がある

乙巳の変で「蘇我入鹿」を亡き者にしたことが

本当に「誅殺」であり、正当視されていたのであれば

即位しない(できない)理由が見当たらない

乙巳の変から23年後に即位したことに疑問がわく

私観ながら、私は古代天皇位は「山背大兄王」で絶え

舒明天皇からは別の系統に変わったと思っている

その舒明王朝を変えたのが、天武王朝だった

それが、御寺(泉涌寺)に天武系の天皇が祀られていない

理由だと思っている。

さらに天智天皇は拉致され、天武天皇勢力によって

その数年後に殺された

あとを継いだのが、大友皇子である

その大友王朝を倒したのが、天武王朝という事になる

壬申の乱とは、皇位の継承争いではなく、現政権を

武力で倒す「政治クーデター」だった

その天武天皇も、唐の政治圧力に呼応した、別の勢力

によって殺されたと思っている。

その後に擁立されたのは、大津皇子の王権であり

その数年後、今度は高市皇子の政権が誕生する

これが歴史で言う「持統天皇王朝」だった

史書に書いてある「女帝・持統」は創作であり

持統天皇とは、高市皇子の即位した姿だった

なぜ女帝・持統天皇は伊勢から東三河を訪ねて

旅したのか・・・

それはある勢力から、自身と「草壁皇子」を護る

ための逃避行だった可能性も考えられるのである

                  


◎  万葉歌と持統天皇 

 春過ぎて 夏来るらし 白袴の

 衣乾したり 天の香具山  (持統天皇)


これは万葉集に載っている歌である

通説によれば、駄作に入る作品だという

しかし、天の香具山が本当に今の香具山

なのか疑問に思うこともある

山と呼ぶには標高が低いこと

その他の万葉歌の内容からして、内陸部ではなく

海に面したところのような気がする 

ただし、日本の地形が現在とは違っていた事

を考えれば、一概には否定できないのも事実である


さて上記の歌であるが、香具山はいわゆる聖域であり

立ち入る事のできない場所に「白い衣」を乾す事の意味

が興味を引く

衣を乾していたら、盗まれてしまった といえば

あの伝説を思い出す


「羽衣伝説」である

聖なる山に乾してある羽衣を、盗んでしまおうという

そんな剣呑な意味にも受け取れる歌なのである

羽衣とは・・・政権(王権)であり、聖なる山とは

正統な皇統を意味する

前政権(正統な皇家)から、密かに政権を奪ってしまう

そういう意思表示の歌だとしたら・・・。


天の香具山とは、【海人の香具山】 であり

前政権とは天武朝のことなのか・・・・。

どうにも腑に落ちない持統天皇の即位

この歌の暗示する事とは、やはり・・・

正統な皇位継承者でなかった持統天皇は

策謀をめぐらして、皇位を奪ったのかもしれない。


天の香具山というと、【天の香具山命】を連想する

尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である

【宇摩志摩治命】とは母神を異にする兄弟神である。

ここでも尾張氏の影がちらつく

壬申の乱において、尾張氏が重要な鍵を握っていた

事は知られているが、持統天皇即位でも、尾張氏が

何らかの役割を演じていたかもしれない

それにしては歴史から抹殺された「尾張氏」とは

いったいどんな氏族だったのか興味深い

 次回は【壬申の乱】を考えてみたい

                  
   

◎  神々の食事と神宮 

忌む(いむ)

なんとも不吉な印象を受ける言葉である

しかし、神道(神の世界)では、違ったものという


外宮の裏手にある「忌火屋殿(いみびやでん)」

内宮の「由貴御倉殿(ゆきのみくらどの)」の奥にある

忌火屋殿

どちらも神々の料理を作る台所だった。

料理を作るために欠かせないのが【火】であり

その火をおこすのに「火鑽臼(ひきりうす)」と「杵」を

用いる

《古代では、ヒノキの板(火鑽臼)に山枇杷(やまびわ)

の木を心棒にした杵を上下に回転させ火種を作った》

縄文の火おこし    6051-26987-1902.jpg


神宮でもそれに近い形で「火おこし」をしていただろう

そして、そのおこした火を 【忌火(いみび)】 と呼ぶ

神に供えるものを煮炊きするための斎(いつ)み清めた火

清らかな火といえる

そもそも「忌」とは、神事に慎むこと、心身を清め慎む事の意

であり、潔斎(けっさい)と同じ意味なのである。

どうして死者のために籠もる「忌中」に用いられる事になったかは

疑問であるが、仏教的な発想と、神とは距離を置き近づかない

という観念が結びついたもの

神聖な神に対し、穢れたヒトとの接触を遠慮したもの

そのような事が原因だったかもしれない (私観である)

しかし、神の世界では【忌】は神聖で、清浄な意味だった


神々の食事は、竈で蒸す「強飯(こわめし)」であり、あとは

野菜や魚など、素材をそのまま盛り付けただけである

煮たり焼いたり、味付けをするわけではない。


ちなみに、神々の食事のメニューは、以下の通り

* 御飯三盛

* 御塩(みしお)

* 御水

* カツオ節

* 魚類(十月~三月生鯛、四月~六月カマス・ムツ
      暑い夏はスルメ)

* 海藻

* 野菜(大根、人参、牛蒡、里芋、トマト等40種類)

* 果物(ミカン、桃、柿、梨、スイカ、メロン、苺等20種)

* 清酒三献

野菜・果物は、そのうちどれかが、食卓に並ぶようである。



内宮の正殿の石段の下に、目立たない建物がある

名前を「御贄調舎(みにえちょうしゃ)」と言い

志摩地方で採れた【アワビ】を調理して、神饌として

神々に献上するところだという

なぜ「アワビ」だけが、忌火屋殿ではなく御贄調舎で

調理されるのかは不明である。

                  

◎  祭祀王の歴史 

日本の祭祀王と言うモノを

過去から観て行くと、私の邪念が起因するのか

男性の姿が見えてこない

不思議ではあるが、祭祀=男王 がイメージできない

私の意識の中にある「祭祀王」とは女性なのである

卑弥呼(ひみこ)を意識しているわけではないが

祭祀=呪力 であり

呪力=呪術者・巫女・祈祷師という思いがある

武力=男王 であり

男王=政治力・合議制・統率権という思いなのだ

ヤマト成立の時点では、男王と后(巫女)の役割が

明確に存在していたような気がする


あくまでも漠然としてなのだが、天照大神は天皇の

皇女が祀ることが出来ても、大物主神は皇女では

祀る事はできなかったという話から

天皇(男王)の血統では、皇祖神以外は祀る事が

出来なかった

古代ヤマトの祭祀とは皇祖神を祀る事が宿命の

系譜であり

【国つ神】を祀る祭祀の系譜は「別に存在」する

そんな事を思っている

(あくまでも「古代祭祀」での話しになるのだが・・・ )

天皇はヤマト以外の地から、遷って来た存在であり

初期ヤマトの后(祭祀王)は、ヤマト所縁の土着神の

娘(女王)が就いた

男王が武力を担い、女王が祭祀を取り仕切る

二人三脚のような関係

その後、男王(天皇)がその両方を一人で仕切るように

なる

その原因は「国つ神」の系譜の衰退であったのか

内紛による「粛清」の結果だったのか・・・・


その結果として、「祟り」の回避・鎮魂には

正統な子孫が祀る事の重要性に気づき

意富多多泥子(おおたたねこ)を見つけて祀らせ

国難を回避した事が物語っている。


政治とは「祀り事」であり、国を治めることと同時に

祀る事が求められた

結果として現代でも、政(まつりごと)と言われ

政をもって治めるのが【政治】なのである。


余談だが、政教分離をする事こそ、政治の根本理念

に反しているのではないか、と言う疑念を感じている

祀る事を疎(おろそ)かにして、国を治める事は不可能

なのかもしれない、と個人的に思っているのだが・・・。


話を戻す

男王・后の二人三脚から、男王の単独統治に変わった

ヤマト政権が、今度は仏教と言う信仰を手にした女性

の手によって、【女王の単独統治】に変えたのが、あの

持統天皇だったのではないか・・・。

私の考えでは、強引な即位と言うより、男系男子の系譜に

「待った」をかけた女性天皇の姿が見える


この計画を巧妙に利用して、暗躍したのが「藤原氏」であり

「国つ神」の娘(女王)の定席であった、后の地位をも窺う

陰謀をめぐらすことになる

この女性天皇の時代をもって、ヤマトの祭祀王の歴史は

一旦休む事になる


1000年の時を経て、天神地祇を祀る「日本の祭祀王」として

復活するには、悔やみきれない大きな過ちも、数多在った

それも含めて、現代の祭祀王・天皇は滅私の祈りを続けていく

宿命を担っているのである。

                  


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