不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  パソコンの悩みと予算不足 

最近パソコンの調子が悪い

Wi-Fi が原因かと思っていたが違うようだ

1年ほど前に購入した「タブレット」で閲覧すると

軽快に閲覧できるし

何よりも瞬時に起動できることに感動モノである

原因はノートパソコンの処理能力だった

ウィンドゥズ、その他の更新のたびに重くなってきた

Win95、98の時代を思い出すようである


閲覧が早いとは言ってみても、所詮7インチであり

ブログ更新には無理がある

愛読ブログの閲覧は「7インチ タブレット」で

ブログ更新は、当面ノートでということに


この秋は何かと物入りになる予定で

パソコンの買い替えまで、無理っぽい気がする


部屋のリフォーム

スチール物置の購入

タイヤ・アルミホイールの買い替え

そして・・・冷蔵庫の買い替え(骨董品のため)

これ以上は来年に回すしかないのが現実だ


たぶん 今度のパソコン買い替えが自身の最期の

パソコン買い替えになる気がする(経済的に考えて)

Win9が出るとか出ないとか・・・・

それまで毎日更新できなくても、このノートに頼るしか

方法が無い


いっそガンダムのコレクションでも、オークションに

出そうか? などと思ったりして・・・

パソコンくらいは買える数と種類は持っている

還暦すぎた「ガンダムマニア」は他に居ないだろう

そろそろガンダムも卒業かもしれない(笑)

                 charzaku.jpg

                  
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◎  遺産相続の今昔・・・ 

下世話な話で申し訳ないですが

遺産相続について、ちょっとだけ・・・

最近父親が亡くなり、遺産相続で悩んでいた友人

話を聞いて「持てる者の苦労」に同情した


遺産相続、現在は残された「配偶者(母親)」が半分

残りの半分を子供達で均等に分ける(一般的な例)

のが普通である

これを【均分相続】という

この制度は、戦後に定まった相続方法である。

では戦前はどうだったのか?

一番年長の男子が全てを相続する【長子相続】だった

女の子は他家に嫁いで行くから、相続は必要ないとされ

次男・三男は長子に万が一が起こった場合の「スペア」で

部屋を与えられ、厄介者として生きていた

運よく他家に養子の話でもあって、纏まれば幸運といわれた。



この「均分相続」は、不平等を是正した近代の相続形式

という気がする

ところが、今のような相続は「鎌倉時代」に同様の形で

行われていた。

男女の差も無く、均等に遺産相続できる制度(均分相続)

が鎌倉時代にあった。

そのおかげで「鎌倉幕府」は崩壊したというのである。


御家人と呼ばれる「武士」が亡くなると、子供達が

その領地を均等に分ける事になる

子供が三人居れば、三分の一を相続する事になる

しかし、官職(**守)という役職は長子が引き継ぐ

ことになり、御家人の義務はそのままで、収入は三分の一

で武具・馬・人を維持しなくてはいけなくなってしまう。

つまり代が変わるたびに、武士はどんどん貧乏になって行く

( 「田分け」の語源もこれなのか? )

内情の苦しさを「商人」に借金する事で凌いでゆくが

それも返す当ての無い「借金」では破綻は眼に見えていた

何度か「徳政令」を出し、御家人の義務を果たさせようとしたが

代が変わるたびに貧乏になる制度は顕在であり、その不満は

幕府へと向けられていくようになる。


持てる者とその子孫の呪縛と言っては言い過ぎだろうか・・・。

均分相続が鎌倉幕府を崩壊させたとは複雑である。


今の日本は均分相続である

嫡出子・非嫡出子に関係なく均等に分けられる制度だ

その不満は政府に向かう事になるのだろうか?

分けられた土地は増えることは無く

個人の土地は時代と共に少なくなって

国や自治体、大企業の所有となり

平安時代のように、一部の人間と、国家の財産となって

貧富の差が大きくなり

国内が大きく動く事になるのだろうか

時代は繰り返す・・・そうはならないことを祈りたいものである。

                  

◎  東国と海人族 

古代ヤマトから平安にかけて

「コメ作り」は西日本が主流であった

そういう固定概念で判断している

東日本とくに東北地方は稲作には適さない

そういう認識である

温暖な九州から近畿にかけて、豊富な恵みを

受けていた・・・。


朝廷が反抗する「蝦夷」を征伐したのには理由があった

理由も無く土着の民が朝廷に刃向かうはずも無く

東北地方の広大な土地、そこから生まれる稲が欲しかった

理不尽な土地の略奪・簒奪行為が「蝦夷征伐」である。

陸奥の国が最大の面積を有し、常陸の国が二番目で

山城、大和の国は真ん中辺りの面積だったという。

西日本よりも広い大地に稲を植えることが朝廷の

計画だった。

旱魃や台風により朝廷の台所は困窮を極め

ヤマト以外の東国にも、触手を伸ばした結果が

「蝦夷討伐」という史実になっている。

そのほかにも、鉄や銅、水銀、毛皮など東国は

豊かな未開の地だったのである。

歴史は「勝者の言い分」ということが、ここにも

遺されている。


日本は「島国」である、この言葉の響きを「閉鎖的」

に感じるのはなぜだろうか?

おそらく徳川幕府の「鎖国」が影響しているかもしれない

日本の国は、現在6800余の島で構成されている

よく離島という言葉を使うが、それはあくまで政治の中心

から観た表現であり、他の国々から見れば、離島こそ

一番近い日本の国なのである。

島国であるから閉塞していたなんて言うのはかん違いであり

積極的に海に漕ぎ出していったのが、私達の先祖なのである

天つ神も、もしかすると「海人つ神」だったかもしれない

海人(あま)とは日本の原型を作った一族の一つ


色々な地域からこの日本に辿り着いた、海と共に生きた

一族の中には、魚介類を採って生計を立てるもの

遠くの大陸まで往復し、交易をした者もいたはずである


古代において、神の居る場所を「天(あま)」と呼んだとは

到底思えないのである

天(てん)という発想はあっても、【あま】という言葉(おと)

をそれに当てはめたとは思えない

【あま】という言葉があり、それが部族の名称だとすれば

多くの民を統べて、先頭に立つものが【あま】氏一族で

初期ヤマト以前の日本を、統治した一族ではなかったろうか

神話の「天つ神」とは、この日本を治めていた先住の王族

【海人族】の伝承を、焼き直したものかもしれない。(つづく)

                  

◎  天皇家が続いてきた訳 

世界に類を見ない「万世一系」という系譜

どうしてこんなにも長い期間、天皇家は続いて

来たのだろうか?

日本の歴史を考えるとき、天皇の歴史かあるいは

武士の歴史かと問われれば、間違いなく後者を

選択する人が多いと思う

武士の歴史は大雑把に言うと、700年近くの期間

日本の統治権を握っていた事になる

【飛鳥時代 118年 奈良時代 74年 平安時代 390年

合計年数 582年間

武士の時代は、鎌倉・室町・安土桃山・徳川時代の

1185年~1868年 683年間をいう】


ではどうして武士政権は、天皇家を滅ぼさなかったのだろう

古今東西を見渡しても、権力を握ったものは、必ずと言って

よいほど、前政権を根絶やしにしている。


どうして、源頼朝や足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

等は天皇家を存続させたのか・・・・。


高貴な者を理不尽に殺せば「祟り」が降りかかる


これも「怨霊思想」によるものだろう

身分の低い武士が、高貴な身分の宮廷人や皇族を殺めることは

即「祟り」の対象となる・・と考えたのか?

(武士は土地の所有も認められない、遡れば流罪にあった

ものの末裔や、下級役人の末裔だったりする

自他共に認める「下層階級」の人間達だった。)

武士の時代、天皇は邪魔をする事はあっても、益することは

あまり無かったと思える。

それでもある程度の庇護をして、存続させたのは「怨霊思想」

以外に理由が見当たらないのである。


天皇家の存続は、ヤマトから綿々と続く「怨霊思想」と「祟り」

があったお蔭かもしれないのである。




武士の中で誰が好きか?

と聞かれても、直ぐには名前が思い浮かばないが

だれの業績を評価するか?

と問われたら、私は「源頼朝」と答えるだろう

彼が高位の身分を欲しがらず、実利を選択したことが

その後の「武士社会」「武士政権」の基礎になった

つまり 【日本国惣地頭】 と 【日本国惣追捕使】に

任命された事なのである。

日本国惣地頭とは、国の公職である「地頭」を任命する

権利を有する役職であり、地頭に任命された武士は

その土地の所有者になれ、武力を強化できることに

なったのである。

日本国惣追捕使とは各地に「追捕使」をおく権利がある役職

で、追捕使は後に「守護」という名称に変わって行くのである

いわば警察権と検察権、さらに刑罰権をも手にしたことになる


国家の最高権力者が、軍事権や警察権を手放す事など正気の

沙汰とは思えないが、これも「ケガレ思想」によるものだろう


いきなり「こわもて」の人間が前に現れ、「何かくれ」といったら

何を差し出すか?

通常なら一番大事なものではなく、一番必要の無いなものを

差し出すのは理解できる話で、いかに朝廷が「警察」「軍事」

を忌み嫌っていたかという事なのだろう。

                  

◎  持統天皇と仏教(火葬) 


日本で最初に火葬された天皇

持統天皇

702年(大宝2年)12月22日薨去

その後、遺体を安置するための殯宮(もがりのみや)

を設置した

四十九日の斎、百か日の斎会を経て

703年(大宝3年)12月17日飛鳥の岡で火葬


仏教の色合いの濃い史実であるが、「続日本紀」

を観る限り、飛鳥・平城時代は仏教より神事のほうが

多く記載されている。

仏教的な49日斎会や百か日斎会などは、まさしくこの

時代あたりから頻繁に催されるようになったのである。

持統天皇は伊勢神宮を整備し皇祖中心の神道に傾注

したかの感があるが、朝廷の仏教信仰の後押しをした

「仏教天皇」であった。


感謝状や表彰状を授与されるとき、無言で執り行われたら

奇異な感覚を覚えてしまう人も居る

日本人は感謝状や表彰状は「声に出して読む」ものだと

幼い頃から「刷り込まれ」ているからだ

不思議に思わなかったが、そう考えると無言で渡されると

変な気分になるかもしれない

これも「言霊思想」の一例なのか・・・

言葉は本来、声にして発するから「力」が生まれる。

唱える事は神をも動かすと、古代では信じられてきた

そのため、重要な詔などは【宣命体】という特殊な文体

で書かれていたという。

すべて漢字で書かれているが、もちろん漢文ではない

れっきとした「和語」である

万葉仮名に近いかもしれない(?)

その中に「詔る」という言葉が頻繁に出てくる

「のる」と読む

意味は「仰せられる」 

詔(みことのり)とは、尊が詔る(みこと が のる)から

出来た言葉なのか・・・。

宣り給ふ(のりたまう) 「言う」 の尊敬語。おっしゃる。

それが変化して、宣ふ・曰ふ(のたまう)になったのか


日本語というのは、なんと複雑で優雅で響きを基本に

作られてきたのか、この文化は庶民とは離れたところで

伝えられてきたことも、遺されている要因である。


何かといえば、省略することが美学のような風潮も

時代と共に激しくなり、今では日本語なのかどうかも

判別できない言葉が社会に蔓延している。


ブログを書くにしても、変換されない言葉が相当数ある

ブログを書くより、変換すべき文字を探し当てることが

最大の苦労かもしれない。

小学校以来の「漢字学習」は、この年になって新しい楽しみ

に変わりつつある。

知らない事は恥ではないというが、知ったところで自慢にも

ならないが、自分の血肉の一部になっていることだけは

実感できるのである。

勉学は学校でするだけではない

いつでも 何処でも その気さえあれば、無学な爺でも

偉そうにブログを書けるようになれる

この楽しみをもっと若いうちに気づいていれば・・・


たら・れば、は御法度の世の中でした(笑)

                  

◎  更新できなかった理由 

お久しぶりです

更新しないことが数日続くと

無用な気遣いをかける事になり

申し訳ない気持ちです

詳しくは「花はそっと咲き 静かに散れ」のほうで・・・


久しぶりの「バス」での遠出

富士山に行ってまいりました

といっても、富士登山ではありません

富士の裾野、御殿場の陸上自衛隊の

演習を観覧して来ました。


戦車が撃つ大砲の音は、花火の比ではないです

花火の音が「耳に響く」音ならば

大砲の音は、体の内を揺さぶる「振動音」でしょうか

米国製の「耳栓」を装着しても、内臓が震えるのが

実感できます(笑)


私が感じたのは、眼の前で繰り広げられる演習と同様

の事が、実際に起きないことを願う事でした

戦争反対、軍備反対と叫ぶ人たちの、気持ちもわかります

しかし、眼の前で発射される砲弾の目標が、愛する者である

可能性も否定できません

そして、富士の山土の如く、吹き飛ばされるかもしれない

愛する者を思えば、持たなければならない「武力」だと

実感しました。

日本には「徴兵制」は根付きません

全く無意味な制度なのです

それは現実の自衛隊を見れば理解できます

わが子と変わらない若者の「目」は、優しく

真剣で、誇り高く感じました

嫌々やっている業務でない事は、眼を見ればわかります

酷い扱いをされても、失わない「誇り」「使命感」

災害の起きるたびに「感謝」され

他国で騒乱が起きるたびに、是非を問われる存在

島国ゆえ、船舶・航空機が重要視され、存在すら

問われたこともあった「陸上自衛隊」

くさらず、めげず、しっかりと訓練を重ね、国土防衛の

任を全うしようとする姿を、眼に焼き付けてきたのである。

                   

◎  「言霊思想」と「ケガレ思想」 

日本中が「集団的自衛権」だの、「軍国化」だの

騒がしいですが、世界から見ると不思議な国と

観られている事でしょう。

日本には古代から、軍隊や警察というものを

極端に嫌う習慣、というより思想が根強いのである。


これこそ「言霊思想」であり、「穢れ」の思想である

平和だから軍隊も警察も要らない

世界中が呆れてしまう考え方

じつは「平安中期」にこの思想があった


軍事を司る「兵部省(ひょうぶしょう)」

裁判・刑罰の執行をする「行部省(ぎょうぶしょう)」

今で言うところの、「自衛隊」と「警察」「裁判所」だ

そもそも、この律令制度は中国から輸入された制度で

数え切れないくらい争乱が多かった中国は、外的に備え

防衛する国軍(軍隊)は不可欠だった

中国の律令では重要な組織・機関といえる

(現在まで、中国が軍隊を持たなかった事は一度も無い)

そんな事情から、日本では国防の為の組織「兵部省」と

裁判と刑罰を執行する「行部省」があったのだが

ところが平安時代、この組織の形骸化が進み、ついには

機能しなくなってしまった。


理由は「穢れ思想」である

「血」や「死」はケガレであって、触れる事を強いられる

軍隊に就任する役人が居なくなった

要するに、「あんな仕事、穢れているから就きたくない」

貴族も役人も現場の軍人も、みんな居なくなった

当然、現代の警察と裁判所が一つになったような「行部省」

も同じ様な理由で機能しなくなった


泥棒や犯罪者にとって天国のような状態

強盗が入っても、捕まえる役人も居ないし、罰を与える

役人も居ない状態なのだ

裕福な貴族は頭を痛め、苦肉の策で「検非違使」という

律令に無い組織を設けた(令外官)

これには理由がある

「官位相当制」といい、各省のトップ【卿(かみ)】というのは

位階が正四位下でなければ就くことができなかった

ところが令外官である「検非違使」の長官には、位階は

問わなかった

下級貴族でも、やりたい者がいればどうぞということであり

都の治安を護る為の苦肉の策だったのである


検非違使がなぜ律令に無かったのか?

当然、軍事・警察は「兵部省」「行部省」があり機能して

いれば「律令外」の組織など必要が無い話である。


今でも日本は軍隊は「ケガレ」にふれる存在であり

軍隊など無い日本と言う国は、平和憲法さえあれば

未来永劫「平和」なのだという、言霊思想が根強い


現代の日本の状況は、平安中期と似たところがあり

警察官が拳銃を使用することは、「死」「血」を連想し

ケガレを感じるから NO なのであり

平和なんだから、「死」を連想する軍隊は必要ない

平安時代と平成時代はとてもよく似ている


その結果どうなるかは、史実が教えてくれる

都の治安は最悪になり、白昼堂々と強盗や殺人が行われ

犯人は平然と逃走し、何度も同じ様な悪事を重ねる事に

なり、都の住人はされるがままの状態だった


なんでも話し合いの日本人、玉虫色の決着が得意の日本人

ところが軍隊と警察だけは、ハッキリ拒絶してしまう

これこそ平安から続く、ケガレ思想、言霊思想の影響なのである。


軍隊があれば戦争をして、「死」を招くから軍隊はいらない


警察官は拳銃を持っても良いが、使用してはいけない

拳銃を撃つと「血」が流れて、「死」にいたるから許さない


平安時代の先人が教えてくれた

盗賊は護るべき者が居ないと、好き勝手に悪さをする

軍隊・警察が「睨み」を利かせているから平和なのであり

最低限の抑止力であることを・・・・。

                   

◎  神仏習合(本地垂迹) 


続日本紀

日本書紀に続く日本の正史である

日本書紀は神話を軸に書かれた書であり

言ってみれば「物語り」の様相である

ところが「続日本紀」は公文書を元に整理された

真面目な史書と言える

だが、どちらにも共通しているのは、当時の権力者

にとって好ましくない出来事、不都合な史実はかなり

省かれている点である

文武天皇元年(697年)から、延暦十年(791年)まで

95年間の出来事を40巻にまとめてある。

日々の出来事を箇条書きにした装丁で、見方によれば

「素っ気ない」ようにも見えてしまう。


平城京の遷都に関し「始めて平城に遷都」とだけ書かれ

唐の高僧・鑑真が戒律を伝え、戒壇を作ったという記事

は何処にも無い

当時の権力者が鑑真和上をどの様に処遇したか

聞くまでも無いことの証だろう

鑑真については、故井上靖氏の「天平の甍」によって

注目されたもので、それまでは歴史に埋もれた史実だった。

遣唐使についても、続日本紀は多くを語っていない

好ましからざる史実が当時の権力者にあったという事か

逆に力説するかのように、称徳天皇と僧・道鏡のことは

かなり詳しく書かれている。

権力者にとって、存亡の危機とも言うべき事件であり

怒りの矛先は、史書にも及んでいるのである。

その道鏡の事件を阻止した「和気清麻呂」は

後年 【護王大明神(ごおうだいみょうじん)】という神号を

与えられ、京都・護王神社に祀られたのは明治時代である。


さて、都(みやこ)というのは、天皇が居るから都なのではない

祭儀の中心であり、天皇が臣民を統べるところ

「宮のある処」であり、みやこ(宮処)なのである

祭儀とは「祭祀」であり、当初は天神地祇を祀ることで

後に「神仏」を祀ることを、「祭儀」という解釈になった 

日本の祭祀王は、「天神地祇」を祀る祭祀王から

神と仏を共に祀る「祭祀王」に変化したともいえる

現代の今上天皇の姿が、古代の祭祀王の姿かもしれない


ではどの様に神と仏が融合したのか

これを説明しだすと、なが~い話になってしまう

その時々において解説することにして、基本的な

ことだけを書いてみたい

神仏習合の基本は「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」

という思想から興ったもので

日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として

日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えで

奈良時代に始まり、平安期に【本地垂迹説】として

理論付けされたものなのである。

天照大神は密教の最高神・大日如来の垂迹であり

日本は大日如来の国であるというもの

だから、大日如来の本国なので、大日本国という

(そこから明治時代に「大日本帝国」と呼んだ?)

天皇は【金輪聖王】であり、大日如来の化身は

太陽の御殿にいたため、日本の神は【天照尊】だと

密教は唱えたのである。

大国主神=大黒天、

スサノオ=牛頭天王=薬師如来

市杵島姫 = 弁才天

八幡神 = 阿弥陀如来 = 応神天皇

日吉 = 天照大神 = 大日如来

これを「本地仏」という。

これによって、ますます解りにくくなる「天神地祇」

何時しか神の社は、本地仏に取って代わられた所も

あったかもしれない


偶像は拝まない事が基本の「古代神道」

いつしか「仏像」を拝む信徒で席巻されてしまった

古代神道を見ているつもりでも、いつの間にか

仏の領域に入り込んでいる


「日本の神」を突き詰めていくと

自然に宿る精霊と自然の力への畏怖の念

本来は感謝し畏れる気持ちに、縋(すが)る弱さは

備わってなかった

仏に縋る事でしか生きられなかったヤマト朝廷

祟りとは心に潜む、弱い気持ちと精霊を蔑ろにした

宮廷人への自然の怒りだったのかもしれない

日本人の原点、自然に畏怖を感じ、感謝し祈る

それが大事なのだと、教えてくれたのだろう

天はいつも観ている、神は身近なところに居る

天罰も神罰も、自然の力なのだと、現代人も

早く気づくべきかもしれない。

                  


◎  天皇と仏教(密教) 二 

天皇が毎日欠かさなかった遥拝

【毎朝遥拝】

天皇自ら清涼殿で四方の神祇を

拝礼するものである。

この毎朝遥拝を始めたのは、第59代・宇多天皇である

この宇多天皇は、あの菅原道真を抜擢した天皇でもあり

一度降下し「源」姓を名乗っていた、少し異な天皇でもある

そして藤原氏からは歓迎されない天皇だった

自分と言うものをしっかりと持った、意思や考えのハッキリした

聡明な若者だったので、権力を握る藤原基経にとって、喜べない

天皇だったということ、権力者にとって、愚鈍な天皇こそ歓迎され

聡明・明敏な天皇は扱い難いだけだったのである。

遣唐使を廃止したことでも解るが、物事をよく理解した天皇だった


宇多天皇は【賀茂の臨時祭】を始めた天皇でもある

賀茂の神のご神託により、即位できた感謝の為に、例祭とは

別に「秋の臨時祭り」を執り行った (889~1870年)


天皇の寝室(夜御殿)に置かれていた神鏡を、温明殿に遷し

毎朝遥拝で神鏡を拝むようになったのも、宇多天皇からで

天皇が天照大神の神鏡を、拝礼したのは9世紀末からなのである


ここまで観ると、宇多天皇は祭祀王という身分を理解した

素晴らしい天皇のようだが・・

やはり仏教徒、それも熱心な信徒だったという

四方遥拝でも、伊勢神宮~内侍所~諸社~北斗 であり

北斗信仰(北斗拝)は天皇が熱烈な密教信仰者だった事を

表していて、特に真言宗の僧・観賢(かんげん)に師事した

そもそも「毎朝遥拝」を始めたのも、仏教心からだった

17歳の時、出家して僧侶になろうと思っていたほどで、即位した

為に断念したのである。

その思いが歴史上初の【法皇】という形になる

宇多天皇は嵯峨天皇のたび重なる「太上天皇」の尊号贈与を固辞し

退位の2年後、受戒・出家して【宇多法皇】となったのである

この宇多天皇の凄いところは、皇族・殿上人の形ばかりの

「旦那芸」ではなく、本格的な修行をした密教の【阿闍梨】である

ことだろう

正統の嗣法(しほう)の阿闍梨として血脈(けちみゃく)に連なっている

空海ー真雅ー源仁ー益信ー禅定法皇(宇多法皇)-寛空ー寛朝・・・


仏教に縋る(すがる)天皇と言うより、密教と共に生きた密教天皇だった
                  
                  

◎  八幡様を知ろう 

八幡宮

八幡神社という名でも呼ばれる

この八幡宮、神社のようで神社とは言いがたい

そういう「施設」だった・・・

またまた訳のわからないことを言い出しました(笑)



正確に言うと「宮寺」という

祭神を仏教の祭り方・考え方を神祇信仰と一つにして

祭ってきたお宮のこと、簡単に言うと、寺と神社の性格を

併せ持った「宗教施設」ということなのだ。

寺であり神社でもある不可解な施設なのである。

江戸時代までは、僧侶がトップに立って祭祀を行っていた

例えば、「岩清水八幡宮」を考えてみると、そもそもこの八幡宮

は、宇佐から神霊を招いて祭ったものだが、招いたのは

奈良・大安寺の僧侶「行教(ぎょうきょう)」であり、八幡神も

「八幡大菩薩」と呼ばれ、最初から僧侶が管轄する宮寺だった

名前も 【岩清水八幡宮護国寺】とよばれていた。(三大実録)

祭神も現在言われているような「応神天皇」「神功皇后」「比賣神」

ではなく、これは後世のこじ付けで決められたもので、本当の祭神は

諸説あってはっきりとは判らないのである。

ただ、八幡大菩薩の男神が一品、女神が二品の神階を天皇から

授かっていることから、天皇ではないことだけは解っている。

(神階や位階は天皇が臣下に授けるものであり、授ける側のまして

 先祖の天皇に授けるものではない)

そういえば、八幡宮の外観はなんとなく神社っぽくない気がしませんか

お寺のようでお寺でもない、神社のようで神社でもない・・・・

この岩清水八幡宮は皇室の祭祀・四方拝で遥拝されている一つである。

【四方拝 元日の午前5時30分に、今上天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる

 束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に

 設けられた建物の中に入り、伊勢の神宮の皇大神宮・豊受大神宮の

 両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する祭事。

 伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、

 大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)

 ・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・

 常陸国一宮(鹿島神宮)・下総国一宮(香取神宮)である】

かつては宇佐神宮が四方拝の対象だったが、中世以降は岩清水八幡宮

に代わったという事である。

神社の認識が日々変わっていく・・・現実を知る事も大切、複雑でもある。

                  

◎  天皇と仏教(密教) 一  

宮中祭祀

皇祖・天照大神を祀る 【賢所(かしこどころ)】

歴代天皇と皇族の霊を祀る 【皇霊殿(こうれいでん)】

皇家の守護神、天神地祇を祀る 【神殿(しんでん)】

これを 【宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)】という

年間を通してさまざまな行事が執り行われている。

今話題の東宮妃が参加しないといわれる宮中祭祀は

この三殿で行われる祭事のことである。

三殿が現在の形に定まったのは明治22年のこと

明治以前は今のような宮中祭祀は行われていなかった

今のような宮中祭祀が整備されたのは、明治41年の

皇室祭祀令が、できてからだという・・・。


つまりは・・・仏教徒だった皇室の仏教を廃した事から

復活した祭祀ということになる。


身近な話で言えば・・

地方の神社のお祭り、これも多くは明治政府になってから

書き換えられ、古い形が曖昧になったものも多いという

どういう事かというと、8~900年の間、日本のいたるところで

神仏習合のお祭りを行ってきたから、仏式を排除することで

新たな形式を定めたようである


 【神社祭式制定】

中世以降わが国では神道の祀典はまともに行われていなかった

それを細部に到るまで定めたのが、神社祭式と言うもので、現在の

神道を教える学校の「作法」の原型になったという

(宮中祭祀の詳細はまたの機会に)


ということは、明治以前は宮中での祭祀は、神仏を対象にした祭祀と

いうことになる

今、私達が考えている、神道の祭祀王とは違う、天皇の姿があった

例えば、聖武天皇は大仏の造立の発願にさいしての詔で

「それ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり。」

と絶対的な力を有している事を宣言している

その絶対的君主である天皇は、詔の中で、「三宝(仏法僧)の威光

と霊力に頼って、天地ともに安泰となり、・・・・・」といっている。

神の力ではなく、仏の力(霊力)に頼ると宣言したのである

なぜか?

それは天神地祇の威光では、天災、祟りが抑えきれない

あとは仏の力に頼るしかない・・・そういう事なのだろう。

大仏が国家鎮護の為と言うのは建て前であり、本音は

祟りが天神地祇を祀る事では、抑えきれないと判断したから

あらたな仏の霊力に縋ったという事だ

これ以降天皇が仏教に傾倒することが顕著になる

とりわけ密教と天皇の関係は深いものがあり

その原因は、密教の唱えた・・・「鎮護国家」なのである


天皇の即位と聞けば真っ先に、践祚・即位の義・大嘗祭

と思うのだが、じつは56代清和天皇のときから

「凡そ天皇即位には、すなはち仁王般若経を講説す」

これを【一代一度大仁王会(践祚仁王会)】という

天皇即位に密教の経を講じることが制度化されたのである

(つづく)

                   

◎  神話の不思議 

記紀に書かれている神話

7世紀終りから8世紀初めにかけて

編まれたものである

通説を信じるなら、各地に伝えられていた話を

纏めたものという

ひとつ不思議に思うことがある

古代人がこの世界を「葦原中國」と呼んだわけでは

ないだろう

この文字は記紀編纂時に作られた文字の可能性が

考えられるのだが

元になる言葉で語られ、伝えられたと見るべきであり

それは縄文の言葉だったと推測できる

葦 (あし) 原 (はら) 

いわゆる【湿原】、【湿地】の事だろう

これを縄文(アイヌ)言葉で置き換えると・・・

【サル】 葦、萱、湿地 【タ】 茂るところ

葦原とは、サルタのことなのである 

サルタヒコとは葦原中国の大王の事かもしれない

猿という文字に誘導されて、異形の神と信じてきて

本当は猿ではなく【サル】だったとすれば、道案内した

逸話も創作に感じてしまう

伊勢の二見が浦に祭られている「猿田彦神」

伊勢の地にどのくらい古くからあるのか調べてみたが

元々は猿田彦の子孫である、大田命の末裔が自宅の

邸内に祭っていた【屋敷神】だったという

それを明治政府が改めて、神社とし「猿田彦神社」という

物になったという事らしい

神社の歴史は、早く言えば明治生まれなのである。

本当はすごい神さまかもしれない「猿田彦神」だが

異形神話といい、猿という文字といい、明らかに後世の

悪意を感じてしまう

もう一度、神様の歴史と神社を見直さなければ

そんなことを考えている。

天皇家と仏教

仏教と神社

神社と明治、を考えてみたいと思う。

                 

◎  出雲大社と死を考える 

出雲のお浚いをしてみたい

出雲大社 この国(日本)を治めていた神

大国主を祀るといわれている古社である

古くは「杵築の社」「杵築神社」と呼ばれていた

出雲大社と呼ばれるようになったのはわりと新しい

この出雲大社を管理する「出雲国造家」の祖は

天皇家の祖である、天照大神の子、アメノホヒ

が先祖だという

平安時代の文献には、ヤマトで一番高い建造物

だった事が知られている

古くには現在の2~4倍の高さがあったという

巨大な注連縄は、世間の神社とは反対の向きに

飾られていて、参拝作法も「二礼四拍手一拝」である

60~70年に一度、遷宮が行われる


出雲を考えてみると、命の鼓動らしきものは感じず

ひたすら陰鬱さだけが漂っている

神社というのは、元来楽しさや明るさがある場所ではないが

言いようの無い息苦しさは、なぜなんだろう・・・。

その答が、名前に隠されている、というのは私の妄想だ

雲が出るという不思議なネーミング

雲とはいったい何を指すのか

日本といえば、アマテラスの子孫が治めている国である

アマテラスは「太陽神」だといわれている

太陽と雲

明るい日の光と、それを遮る黒い雲

太陽が「生」ならば、雲は「死」を暗示する

太陽神の子孫にとって、邪魔で疎ましい存在が

雲なのである

それも扱いが難しい、強烈な「たたり神」なのだ

本殿の配置をみれば一目瞭然、祭神は西を向き

参拝者とは正対しない形を取り、その面前には

ヤマト所縁の神・五神が居並ぶ、祭神の南側には壁を立て

参拝者たちと隔絶する意図が見える

天井には「七つの雲」が描かれ、祭神である「雲」を加えて

「八雲」の完成を成すなど、いたるところに「敵意・悪意」

を感じてしまう。

皇祖神(天津神)が国と命を奪った相手の祭祀を、自らの子に

務めさせる不可解さ

本来は祟り神を祀るのは、その子孫でなくてはならないはずで

祟りと穢れのセオリーから逸脱することになる

出雲国造の正統性が疑われる話ではないだろうか

出雲国造とは、祟り神である出雲主祭神の監視役

その難しい役目を負う見返りとして、皇祖神の末裔という

血統を手に入れたのではないか?

本来は意宇の「熊野神社」の神官だった「北島家」が

どうして「杵築神社」の神官になったのかは謎である

出雲の人は、「千家国造」(宮司)を、【人であって神のようだ】

と言う人もある、「現人神」のような存在に近いのか?

 【鬼は鬼に祀らせ、鬼を退治するには、鬼に任せる】


私達が知りうる出雲大社とは、8世紀に書かれた記紀

によるものであり、その当時の思惑で編まれている事を

理解しなければいけない

記紀編纂時は皇族も宮廷も、一様に「仏教」に傾倒して

いる時代であり、持統~元正天皇の真意がいまひとつ

測りかねるのであるが、彼らの願いは大国主がこの世に

戻ってくることが無い事、それだけだったのではないか


ただ確信として言えるのは、「雲」とはアマテラスにとって

邪魔者であったこと、雲は死を象徴する「死の使者」であり

アマテラス一族への反逆者の象徴だった

大国主という名の一人の神が居たわけではないこと

アマテラス(ヤマト大王家)にとって「鬼」であり、排除すべき

対象すべてが「雲」だったのである。

四は死に通じ、雲は死の象徴なのである


注連縄の逆向きについては、井沢元彦氏の本に興味深い

記述がある

人は死ぬと、死に装束を着るのが一般的であるが

井沢氏の言葉を引用すれば・・・

【それは使者の着物を「左前」にするのと同じことである。】


【死者の持ち物は、現世の人間の持ち物と向きを逆にする

これは日本に限らず古代では広く見られた習慣だ。

日本では、左前の白衣を着せる事がそうだし、北枕もそうだ

し、死者の枕元に立てる屏風は上下さかさまにすることもそうだ】


【大社は死の宮殿であるからこそ、注連縄は「この世の神社と

正反対」なのである。】

説得力のある言葉だ、私はさらに禁足地の状態だろうと

考えている

そこから出さない為、本来は「魔」が入り込まないための

注連縄を逆向きに張ることによって、そこから出さない役目

だと思っている。

参拝の作法について、諸説多々あるが、この作法も調べてみれば

明治になって政府から指導されて統一されたものだとも言える。

まだ調べる余地がありそうである。

                  

◎  墓の改修と天皇陵 2 

私は前回の記事を投稿した後

ぼんやりと考えてみた・・・

天皇家は仏教徒だった

にも関わらず、御陵へ足を向けようとはしなかった

なぜだろう・・・・



そもそも「陵(みささぎ)」というものは、触れてはいけない

ものだったのではないだろうか

死=穢れ の古代では、たとえ天皇であっても、死んだ者

は穢れているという意識があり、死(穢れ)に近づいては

いけない風習だった

だから墳墓(陵)が荒れ果てても、殲滅(せんめつ)しても、

だれも関わろうとはしなかったのでないか

仏教徒であり祭祀王である天皇が、自身の先祖の墓に

参らないそんなことがあるわけがなく

使者や代理を派遣することもしなかったのは、穢れの意識が

有ったとしか思えないのである。

125代を数える天皇、その天皇陵の96%が定かでないのは

異常としか思えない

ところがヤマト人の宗教観では、死者の再生は願う事はない


古代ヤマトでは殯(もがり)という風習があった

死者を本葬するまでのかなり 長い期間、棺に遺体を仮安置し、

別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、遺体の腐敗・

白骨化などの物理的変化を確認することであった

完全なる「死」を確認して、再生しない事を確かめたのである

この殯(もがり)は一応上記のように解釈されているが、実際は

不幸な死、異常な死、疫病などの死では、短い期間で埋葬して

しまった、それはそういう死に方をした者は、「穢れている」と

考えられたからだろう

穢れに触れれば、その人間も穢れてしまう・・・

埋葬してしまえば、あとは近寄らないし、口にも出さない

結果として陵(みささぎ)が、どういう状態なのかも人々

から忘れ去られていった

だからヤマトの最上位の地位にあった「天皇」の陵墓が

埋葬した後、殲滅(せんめつ)しても、誰も気にかけず

記録さえ無かった理由かもしれないのである。


思えば皮肉なものである

仏教徒だった頃の天皇家は、先祖の陵墓に参る事をせず

完全なる神道祭祀者となった現在、先祖の陵に足を向ける


理屈では理解できても、釈然としないのは、古代と現代では

「死」に対する意識と、先祖の墓に対する意識が明らかに

違う事ことが理由なのだろう。

もしかすると、天皇陵を定めないほうが、古代人の意に沿う

事なのかもしれないなどと、思ってもみたが

やはり、先祖を大切にするのが、ヤマト人の心だと考え

天皇家のためにも、調査をするべきだと、強く思ったのである。


次回は、「死」と「出雲」の繋がり、出雲のお浚いしてみたい

                  

◎  墓の改修と天皇陵 

私は20代の頃、数年間「石材店」で職人修行をしていた

そのときに、「33回忌」のための、墓の改修に携わった

その土地は田舎であり、32年前は「土葬」だったらしい

私の仕事は・・・・

古い墓石を撤去して、墓を掘り返し、遺骨の回収をする

ことであった

それはちょうど今頃、蝉の声を聞きながら、寺の墓地で一人

土を丁寧に取り除き、遺骨を掘り起こした

意外と人間の骨は、風化せずにちゃんと残っていた

適度な湿度が保存を良好にしたようだ

知らない人が観れば、「墓泥棒」?

新聞紙を広げ、真夏の日光の元で、32年ぶりの空気に

遺骨を曝してあげた

ほぼ完全と思える遺骨の回収は、遺跡の発掘に近いと

思ってもらっても良い、慎重な手作業なのである

墓の傍に「線香」をたき、その時の私の心境はというと

仕事としての義務感も、恐怖感も無く、ただ「仏様」に快適な

環境に遷ることの一助を・・・という事だった気がする。

宗教心も無い、20代前半の青二才である

子供の頃から、盆の墓参りは親についていった記憶がある

生前会った事もない他人の遺骨だったが、不思議と嫌でもなく

怖くも無かったし、逆に「大切なもの」という意識を感じていた。

遥か遠い昔々の思い出である。


さて、日本の天皇の墓、「御陵」について、墓を調査発掘する事は

墓を冒涜するものだという

本当にそうだろうか?

私の経験から言えば、古い墓をキチンと整備・改修することは

子孫の義務であると、依頼者の言葉で教えられた。

何もしないで朽ち果てるに任せることが「供養」なのか

新しい墓石、壊れた骨壷の交換、快適な環境で静かに

眠って欲しいと願うのは、残された人間の心情だろう


この墳墓の発掘調査を「墓を冒涜」すると考える背景には

「そんな事したら、祟りがあるかもしれない」

そんな見当違いの意識があるのかもしれない

各家庭の「お仏壇」が長い年月を経て、荒れ果て観るも無残

になっても、そのまま放置する子孫がはたして実在するのか?

私が知る限り、何かのきっかけで(周忌・回忌)新しく新調される

ものだと考えている。

アマテラスの神殿は20年ごとに新調するが、先祖の墓は放置する

事に等しい話である。

万が一全く違う墳墓を「天皇陵」として、草や木の根が張るに任せ

後世に押し付けることが、はたして子孫の取るべき道なのだろうか

といっても、なんだかんだと言って、反対するのは「宮内庁」の役人

である、陛下の思いは知る由も無いが・・・・。

* 桓武天皇 柏原陵 (明治13年御冶定)
  陵は壊滅せしものと考えらるゝに由り、陵のありし跡と考えらるゝ
  三人屋敷の地に就て陵域を定む

* 崇峻天皇 倉梯岡上陵 (明治22年御冶定)
  陵は夙(はや)く湮滅(いんめつ)せしものと考えらるゝに由り、
  天皇の皇居なりし柴垣の宮の旧地及天皇屋敷と伝えらるゝ
  両地を一郭として陵域を定む

* 二条天皇 香隆寺陵 (明治22年御冶定)
  陵所香隆寺址も留めざるに由り、香隆寺の中心部と考えらうゝ
  地域附近の良地を相して陵域を定む

* 安徳天皇 阿弥陀寺陵 (明治22年御冶定)
  天皇崩御の後、八年崩御の處(ところ)に一堂を建て御陵に
  擬せられたるに由り、其(その)堂を以って陵とす

* 仲恭天皇 九條陵 (明治22年御冶定)
  陵所所伝なきに由り、御在所九條殿に因みて凡(およそ)
  九條に相当する東山東福寺の山中の浄地を卜(ぼく)して
  陵域を定む

* 光明天皇 大光明寺陵 (明治22年御冶定)
  二陵一墓御同域
  陵は湮滅したるに由り、陵所大光明寺の故地内の浄地を
  選びて陵域を定む

これが「天皇陵」の実態であり、96%が推測とこじ付けで決め

られたもの、さらに先祖の陵墓が不明だったり、所伝がないと

言うのだから、言葉も無い・・・。

ということは、古くには皇室の「墓参」は殆んど無かったことになる

墓がわからないのに、墓参りでも無いのである

さらに言えば、現代感覚の墓と古代の陵墓は意味が違っていたのか

湮滅するという事は、皇室も宮廷も無関心だったという事になる

天皇陵墓が跡形も無く消えてしまったという事はどういう事?

陵が湮滅するという事は一大事では無いのか・・・

・・・と、長屋の爺が小さな声で言ったところで詮無いことかも

しれないが


だからこそわかる範囲で、調査するべきなのではと思うが

日本人の皇室と歴史に関する「意識」が今以上に熟さないと

適わない望みなのだろう

日本と言う国が、皇室を柱とする「民族国家」という意識が

浸透するには、まだまだ時間が必要なのかもしれない。

                  

  

◎  神社の祭神と靖国の英霊 

私の神社に対する考えは、近世の神社とは

「怨霊の慰霊」「怨霊の鎮魂」のための場所

そういう見方をしている。

当初「神を崇拝」するのは、神が特定の場所に

来て、神祭りが済めば「お帰りになる」ものだった

神祭りが神祀りとして、永久にその地に留まるという

発想は、「怨霊に対する恐れ」から始まったと考えている

祟りの回避こそ、神祀りの出発点である

百の部族があれば、百の呼び名の神が居て、神を招き

供え物を整え、祭ることからこのクニの「神祭り」は起こった


それは「狩猟民族」が中心の、古代ヤマトでは当然のこと

だったのである。

侵さず、争わず、自然と共に生きた古代人

ある日、銅製器を携えた農耕民族(弥生人)がこの地に

降り立った頃から、争いと居住地の侵略が起こった

さらにその後、鉄製器を携えた新たな農耕民族が加わり

争いは過熱し、多くの命が消えていったと推測する

天変地異に自分達の行いが起因すると考えた弥生人は

丁寧に祀ることで「祟り」から逃れようとした

そのためには日常的に「祀る」ことが重要とされ、その「魂」の

居場所を、祠や神殿に定めた、それが現在の神社の起源だと

私は思っている。

怨霊の慰霊こそ、神祀りの起源であり、神社に祀られている神

とは、怨霊だったのである。

怨霊をさして、「御霊(みたま)」と呼ぶ、最近では亡くなった人

全般を「御霊」と呼ぶが、本来は「怨霊」の事だったと思っている。


よく災害や事故でなくなった方を、報道では「御霊」と呼んでいる

災害・事故で無念の死を遂げた「魂」なので、恨みや執着心が残って

いても不思議ではなく、「御霊」と呼ぶに相応しいかもしれない。

ところが、この方達を祀る神社は無い

怨霊になるには、呪い祟る相手が明確でなければならない

自然災害では、自然に祟っても意味が無い

事故の責任者に祟った話も聞かない

これには理由がある、祟られる人間に罪の意識があるかどうか

罪の意識があって、初めて「たたり」が成立するのである。

その罪の意識が「無意識に感じる天罰」と言うモノである

ひょっとして、あの事が原因で、今回の事が起こっているのか?

そういう疑心暗鬼の気持ちが、神やお天道様が見ている

そういう「意識」が起因していると考えられる

言い換えれば、「人は元々、善人である」ことから興る観念

罪の意識の無い人間は疑心暗鬼にすらならないのである。


ところが根っからのヤマト民族は、DNAの中に「お天道様」の

意識が組み込まれている

だから無宗教とか無神論とか言いながら、神社で無意識に

手を合わせるのである。

その神社の祭神が、誰であろうと、人間でも神でも・・・

祀られている対象にではなく、神社の「建物」である本殿に

手を合わせているともいえるのではないか


なぜこんな事を書いているかというと・・・

靖国神社の話題が夏になると騒がしくなるから

靖国に祀られている(と言われている)人の霊(魂)を

神と思って参拝している人がどれくらい居るのか?

神社に祀られている限り、それは「神」でなければならない

英霊という名の「人」であり、「神」と同じとされる「御魂」

わが国では、神社に祀られた限りにおいて、生前の「人」では

なく「神」なのである。

日本における神とは、姿が見えないものであり、偶像を拝む事

はしないのが基本である。

靖国の英霊という神は、紙片に書かれた「生前の俗名」だけであり

まさに神と呼ぶに相応しいのである。


神を参拝することの理由など、論ずる必要性も無い

わが国の宗教に、難癖つけるほうが異常なのであり

キリストやアッラーを拝む国家に、異論を唱える事に等しい

宗教を捨てた「野蛮人国家」の戯言に、配慮など不要という

長屋の爺の「靖国参拝」の基本的な思いである。


これは日本の神社、神という観点から考えていることで

日本人としての思想的な問題に尽きるのである。



日本国民、ヤマト民族としての見解は、また違ったものになるが

このブログでは、政治的な見解はしない事を心がけているので

別ブログにでも、書いてみたいと考えています。

                  

◎  回線の不具合と寝落ち 

最近ネットのつながりが悪く

夜になると回線が切れたりして、編集途中の

記事が消える事がしばしばある

やはりこの地域でのWi-Fi接続では無理があるようだ

北側と東側では山が遮り、西側には高速道路が10M余

に迫っている。

南側は丘になっていて、ほとんど穴倉生活に近い(笑)

やはりいまどきの「光回線」にしようかと考えている。

PCもデスクトップが壊れ、予備で買ってあったノートを使用中

これがまた・・・遅くて、ストレスの原因になっている。

今月中に決断しないと、秋には部屋のリフォームをする計画

もちろん自分でやるのだが、何かと忙しくなる気配なので

それまでには、ネット環境を整えておきたいと思っている。

更新が出来ないのはネット回線だけが理由ではない

最近歳のせいか、本を読んでいるうちに寝てしまうことが多い

パソコンを点けたまま、いわゆる「寝落ち」というやつだ

自分には関係ない話と笑っていたが、自身が根落ちするようになった

翌日編集すると、回線が切れたり、PCがフリーズしたりで、記事が

どこかに消えてしまう

少しばかり「へこんでいる」長屋の爺だ・・・・・


雑学をひとつ・・・

イタリア料理といえば、やはり本国イタリアだと思う・・・

ところが 【古典イタリア料理は日本にある】 という

本国イタリアでは、フランス料理の影響を受けたり

近代化された機械などによって、本来の「味」が忘れられて

きたそうだ。

ところが日本のイタリア料理、カンチェミ・アントニオ氏の活躍で

古き良き「古典イタリア料理」が伝わっているという

日本に住みたいという、子供の頃の夢を叶えて来日し、終戦を

神戸で迎えたアントニオ氏

素朴で力強い正統なイタリア料理は、奇跡的に日本に残った

「パパ・アントニオ」の名で親しまれている南青山の名店アントニオ

現在は3代目とか

今でも愛弟子たちが、日本各地でその心を護っているという


そしてもう一つ、アントニオ氏の義理の兄弟(奥様が日本人姉妹)

であるオラッツィオ・アベーラ氏が開いた、「アモーレアベーラ」

(兵庫県宝塚市)というイタリア料理店がある

このオラッツィオ氏が開発した創作料理がなんと・・・

【スパゲッティ ミートソース】 なのだそうだ

スパゲッティ・ミートソースって日本生まれだったんですね(笑)

                   




◎  ミーの近況 8・05 

口癖のような挨拶「暑いですね~」

終戦記念日を前に、暑さも凄みを増してきた

その暑さにも平然とする我が家のミー

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最近では「遊んでコール」が頻繁になり

本を読むのも、片づけをするにも、食事の支度にも

邪魔になってきた(笑)

そんなギャング・ミーは元気一杯である

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この小さな体の何処にパワーが潜んでいるのか

とにかく元気・元気・元気

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このミーちゃん グルメである

好物は【上等な餡】、安物(コンビニ)のどら焼きの

餡は見向きもしない

私が通う和菓子屋の餡なら喜んで食べる

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当然カステラも「長崎・松翁軒」や「大阪・江久庵」が好物

どんな猫なんだw

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昨日は地元産の「こち」の刺身にご満悦のミー

我が家のエンゲル係数はうなぎのぼり

やけくそになった飼い主(長屋の爺)

頻繁に「ひつまぶし」を食べている(財布は大丈夫か?)

夏ばてもせず、食欲も落ちず、夏を乗り切れそうである

ただし・・・破産しそうな勢いである(笑)


盆休みまで残すところ あと4日

読まなければいけない本が山積みだ

水羊羹に冷麦、そして読書が待っている。

                 


◎  物部氏について 

出雲を引き合いに出して、物部を一括りにすること

に警鐘を鳴らしたが、内実は私も咀嚼できていない

単純に【物部連(むらじ)の祖は 伊香色雄(いかがしこお)】

    【物部氏の遠祖は 饒速日命】

という、記述に拘っているだけかもしれない

なぜ日本書紀は、物部氏と物部連を区別して記したのか

あきらかに「物部氏」と、「物部連」は別系譜だったことを

知っていたからではないだろうか

「物部連」は軍事部門を統括する一族であり

「物部氏」は神祀りを執り行っていた「土着の氏族」

現在のところ、そう考えている


万葉集を題材にしない理由は以前にも書いたが

私は通説の万葉集の解説には納得していない

史学者や研究家の思い込みというか、独断的な

解釈で決め付けられていることに反感を覚えている


例えば【可美(かみ)】という言葉は、神、上、髪の表音

であるが、【可】をウマシと読む事に違和感を覚えるのだ

【味酒】をウマサケなどというのは、あきらかに表音文字から

逸脱している

さらに【可怜国】をウマシクニと読む事の不可解さ、誰が読んでも

表音で表すならば(カレ、カリ、カル)ではないか?

万葉かなはあくまでも、音を漢字で表したにすぎず、字義は無関係

なのであり、訓読みで解釈する事の矛盾を感じ、万葉集について

私は自説を述べないできたのである。

(つづく)

                  

◎  物部氏を考える 1 

昨日は久しぶりに「寝落ち」し、今日は少し前に

書き上げたブログが「消えて」しまった・・。

虚脱感の中で書いているこのブログ、見苦しい

個所があれば、容赦願いたい・・・(笑)


古代史というと堅苦しくて難解な学問と

思ってしまう

じつは・・・その通りである(笑)

なぜ難解か? といえば、古代史は思ったもの勝ち

言ったもの勝ちの世界である

史学者の権威という方が、「こうである」「あぁだった」

といえば、それが通説になり、基準になってしまう

それにたいする異説を書けば、妄想・妄説と斬り捨てられる

古代史は「(いにしえ)をえる問」だということを

基準にすれば、まさしく「考古学」と同じなのである

流石に素人に考古学は厄介である

わたしが書いていることなど、古代史でもなんでもない

古代私考、誇大私考の類だろう(笑)

古代史は「ロマン」が匂わなければ、味気ない堅苦しい

マイノリティーたちの学問にすぎない

その「ロマン」というエッセンスをふんだんに使う「私考」

それが「不必要な善意」なのかもしれない。


消えた部族、消えた豪族という通説がある

消えたという事は、今は存在しないという事か?


「消えた」と「隠れた」では少々様子が変わる

そもそも「**氏族」という括りが正しいのだろうか?

以前に書いた、出雲と出雲族、出雲大社と出雲国造

どうかすると、同じ【出雲】という大きな括りで混同して

考えてしまう自分が居る

そして、物部氏という部族にも、同じ事が言えるの

ではないか、そんなことを思っているのである。

物部氏は単なる「豪族」ではない

天皇家と同格の「天孫」を始祖とする名門である

始祖はアマテラスの孫、饒速日(ニニギの兄神)である

正統が存在すれば、皇位継承候補になれるかも?

・・・なんていうのも「ロマン」である

出雲氏、尾張氏、和邇氏、吉備氏、葛城氏、蘇我氏

などは、土地の名称が「氏族名」となった

ところが物部氏は「官職」が氏族名となっている

そこで疑問・・・・

官職は有る程度時代が進んでから採り入れられた

そういう認識で考えると、土地の名から発生した

氏族のほうが、時代の古さを感じてしまうのである。

そんな腑に落ちない「しこり」のようなものが、私の頭の

なかで渦を巻いている

やはり、私の中では「物部」とは「鬼」であった

漠然とではあるが、氏は別にあって、職掌としての地位

を通称名としたのか、記紀編纂時に意図的に記され

たかのどちらかかもしれない

物部氏  通説では軍事を司る家系であったという

私はこの説には納得していない

もし、もしも物部という氏が本当なら、軍事を担った氏族

というのは「眉唾」である。

この国は多神教・アニミズムの国であった

キリスト教のような一神教の神と違い、日本の神は精霊だ

万物に宿る精霊を神として崇拝したのである

一神教の神は「絶対的な正義」「絶対的な善」である

ところが、アニミズムの神(精霊)は、恵みをもたらすと同時に

災いをも齎す二面性を持っている

絶対なる正義でも善でもない・・・・。

神=鬼 であり、どちらも物質に宿る精霊なのだ

早い話が、物質こそ「モノ」なのである

モノは神であり、鬼であるなら、モノを司る氏族は

モノの部と称するのではないか?

神を祭る特権を持った部族、それが「物部氏」だった

なぜ神祀りを独占してきたのか?

それは「太陽神」の末裔だからである

天照神こそ饒速日であり、伊勢の主祭神である

そう・・・持統天皇の時代までは・・・。

物部(もののべ)とは、モノの部であり、モノノベである

モノのブ・・・【もののふ】という事も言える

気高く、力を持って、高位に君臨する者こそ

もののふであり、時代を経て「武士」をさして もののふ

と呼んだのではないか・・・。

もしも、仏教問題で反対の立場を唱えたとしたら

それは仏教導入の「不純な動機」に異を唱えたのでは

なかろうか

不埒な人臣の謀殺によって、怨霊鎮護・祟り回避のために

異教である「仏教」に縋ろうとした事に、異を唱えた

それは「仏教」にではなく、理不尽な殺行為をする、ある氏族

たちに向けたものではなかったか

本来神祭りをする名門豪族を滅ぼし、その後釜に座る為に

地方の祭祀氏族の「中臣氏」を祖と称し、凡ての責任を

蘇我氏と物部氏に押し付け、あたかも両氏族が争った事にした

私の中での、蘇我氏対物部氏の争いとは、創作話なのである

その著者は、一番利を手にしたもの・・・藤原氏なのである。

蘇我本宗家と物部宗家は親類であり、同族にも等しかった

わたしはそう考えている。

 (つづく)

                  

◎  氏と姓と名前・・・ 


名前を付けるとき、由緒ある家系では

先代や先祖の名前の「一字」を継承することがある

理由は立派な先代に「肖(あやか)って」一字を

貰うことである。

その肖る意識が高じてくると、襲名という習慣が起こり

*代目 光右衛門 とか言うようになる。

名前が人から「家」を表す形に変化して行き

現代の「老舗」といわれるのも、言い換えれば「家系」を

表す名前が誇りであり、また自慢できる由緒でもあり

やがてその「家系」の誇りを【暖簾(のれん)】と称するようになる


さて名前と言うと、自ら付けたものという認識だが

氏(うじ)、姓(せい)は天皇(朝廷)から与えられたもの

逆に自分で勝手に名乗ったのが「名字」というもの

我々が現在眼にする「名字」は、大部分が自由に名乗った

ものなのである。

「氏」は祖先を同じくする、同族とされる家の集団を表し

簡単に言えば「家柄」「家系」のことである。

私など氏素性の不明なる家系の出自であり

名字と名前が判明しているだけだが、由緒ある家系では

名字=氏 という羨ましい現実も存在する

出雲氏、尾張氏、和邇氏、吉備氏、葛城氏、蘇我氏、毛野氏

物部氏、大伴氏、阿曇氏、額田部氏、膳氏、日下部氏

藤原氏、橘氏、源氏、平氏、豊臣氏、多氏、阿倍氏


本来は血縁集団としての「氏」だったが、家族単位の集団

として作られたのが、「名字(苗字)」である。

その家族集団が大きくなって、新たな苗字集団を分化させ

多様な苗字の社会になったものと、私は考えている。

区別化・差別化である

その顕著な例が、藤原から派生した佐藤、加藤、伊藤など

氏は藤原、苗字は伊藤というようになったのではないか


徳川家康も、氏は源であり、姓(かばね)は朝臣、名は家康

「源朝臣家康」が本当の名称という事になる(本当かな?)

征夷大将軍は「源氏」の頭領に許されたもので、秀吉は氏を

「平氏」としたため、征夷大将軍になれず、後に「藤原氏」となり

関白の称号を得る事ができたという


次回は「消された氏族・豪族」を考えてみたい

                  



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