不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  暑い夜の戯言 

本当に暑い日が続いています

世間では33度だ、35度だと騒いでいますが

そもそも現代の都市部に、芝生があって木々が繁り

風邪が通り抜けるような環境がどれほど有るか・・・

百葉箱の中の温度計で、最高気温を発表する現制度

時代にそぐわない「遺物」のような気がしています。

アスファルトの上に設置された「温度計」の最高気温は

正しくないという声もあるとか・・・・

何のための、誰のための、気象制度なのか・・・

私は気象庁の予報のプラス3度で仕事の支度をします。

経験値がものをいうそんな習慣です(笑)

例年ならば、この時期には何度か「軽い熱中症」になっている

のですが、今年はいまだそういう事態にはなっていません。

体質改善の食事、サプリの常用、定期的な整体通い、毎日の

ストレッチの影響かな?と勝手に思い込んでいる


暑いといえば、平安の衣装など、汗疹(あせも)だらけに

なっていたのでは? などと心配してみたり

知恵のある「大和人」ゆえ、何かしらの工夫があったのか?

きっとあったのだろう・・・などと埒も無いことを想ってみたり

気温ひとつでも、古代と現代を行ったり来たりしながら

思いを馳せるのも一興だ

今日などは「油照り」とでも言うのか、蝉の声だけが響き渡り

汗がとめどなく流れてきて、眩暈を感じるほど

橋の袂の温度計も35度を表示、連日の35度超えには辟易する

ばかり、一雨欲しいとは贅沢な願いか・・・

台風の雨で「ウンザリ」の人たちも大勢いるだろうに・・


言葉というものは、とても難しいと感じるのは私だけ?


例えば「綺羅星の如く」、地位の高い人や明るいものが

多く並ぶようすの譬えである

この言葉、【きらーほしのごとく】と読むそうだ

綺羅星という星があるのではないという(笑)


一衣帯水

一本の帯のような川の様子から、狭い川や海峡を

隔てて近いという事をたとえたもの

これは【いち・いたいすい】と読むのが正しいという


間違ったままその言葉が、普通に認知されている

そんな言葉もある


独壇場(どくだんじょう)というのは、本来は独擅場

(どくせんじょう)というのが正しかった

擅 を 壇 と読み誤り、正しいはずの「独擅場」を

使う人も少なく、独壇場が使われるようになった

独擅場(どくせんじょう)を知っていても、理解してもらえず

いつの間にか独壇場だけが使われ、文字通り「独壇場」に

なったという事だろう。


相手悪く言う言葉は数多いが、ストレートに「ばか」「まぬけ」

では粋じゃない・・・日本にはとてもしゃれた言葉がある

「おたんちん」 「おたんこなす」

どちらも、江戸時代の吉原の流行語だった

「なす」とは、するという意味で、間抜けな事をする奴と

言う意味だそうだ、言われても怒る気がしないのは

長屋の爺だけか?

暑さを忘れるような、しゃれた話も出来ないので

雑学の一つとして、お粗末様・・・・・。

                  
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◎  名前の謎 不思議 

名前と言うのは、とても面白い題材である

なぜ 名前があるのか?

相手と意思疎通をはかるため?

個人の識別をするため?

最初にこの国で、名前を付けた人は誰だろうか

名付け親の最初は、どういう気持ちで名づけたのか

色々な事を思い浮かべ、意外と楽しいことに気づく自分。


専門的な学説は抜きにしても・・

私が最初に名前の不思議と不可解さを覚えたのは

蘇我氏の名前だった

専門家は、昔は「獣」の名前を付ける事は良くあるという

たしかに否定するべき自論は無い

しかしなぜ? 蘇我本宗家ばかりが「動物」の名前をつけた?

古代では相手の本名を呼ぶ習慣が無かった

正式な署名をするとき、死後に書き記されるときと言う

これも、あくまで通説であり、真相はわかっていない

古代において、名前が残されている人間が稀であり

名前があったのかどうかも疑問である

一握りの「権力」の傍に集う人間達の間で通用していた

そう考えるほうが、自然ではないだろうか

名前が無くても、住む場所、部族の呼称、男女の別

年齢の区別、容姿の特徴、技術の熟練度など・・・

他人を区別し、コミュニティで暮らすには、それらで充分に

事足りたと私は考えている

ではなぜ、名前と言う「共通識別」が必要だったのか

別部族や他のコミュニティとの接触が進み、共通する識別の

「符号」が不可欠になっていった結果

「名前(共通呼び名)」が、形式化されていったのではないだろうか

時代を経て、異国の文化も伝わり、文字が使用されてくると

「音」から「字義」や「「引用」が重視されてくる

そんな中で、蘇我氏の名前の異常さは、通説を鵜吞みにする

わけにはいかないのである

ヤマト王権の主たる豪族、大王家とも遜色ないほどの

家系の長の名前に、選ぶとは思えない「蝦夷」「入鹿」「馬子」

正史を編んだ権力者の、「悪意」を感じるのは私だけか?


この頃から、神祀りの習慣が盛んになった気がする

ご神体と称する山や巨石、大樹の崇拝から、怨霊(祟り神)を

祀る事に変わって行く「ターニングポイント」が、乙巳の変だと

考えている。

いかにして祟り神を鎮めるか・・・・

祟りが盛んになったのは8世紀から10世紀という説がある

私は7世紀からだと考えている

まさに蘇我本宗家の滅亡の前後なのである。

厩戸皇子であり、蘇我本宗家、上宮一族の滅亡の辺りから

一般に知られた「祟り」の始まりだった。

記紀に書かれている事の多くが、一般には知られていなかった

可能性もあり、一部の豪族、王権だけが知る事象だった

その証拠が「法隆寺の謎」に隠されている気がする。


人の本名は護られていた

古代から日本では、名前を呼ぶ事は、相手を所有する事

とされている。

所有と言うと穏やかではないが、古代ではそういう事らしい

近代では身内だけの「特権」と言ったほうがしっくり来る

今現在でも、その名残が見える・・・

例えば「さゆり」という女性が居て、本名の「さゆり」という名を

敬称なしで呼ぶのは、家族と配偶者、広げても近しい親族だけ

極端な話、兄弟でも年下では本名は呼ばず、「姉さん」と呼ぶし

親類でも「さゆりちゃん」「さゆりさん」と呼ぶ事が多い

両親、祖父母、年長の兄姉、最近では「親友」と自負する人が

呼び捨てに「さゆり」と呼ぶくらいのものである。

名前を呼ぶのは、上位に位置する人間だけという事実の一例だろう

昔は【見す】といえば、結婚させることであり

【見る】といえば、妻にする、(男女)関係をむすぶ事だった

【呼ぶ】ことは非日常的なことで、名を名のる事は、相手に

許す事であって、許しを得た事により、初めて呼ぶ事ができた。

つまり女性の場合、名前は秘密であり、身を任せても良いと

判断した相手にだけ本名を名乗った

名前を知る事ができた男性は、自分の所有的な気持ちで

名前を「呼んだ」という事なのである。


雑学であるが、【夜這い】という言葉がある

夜半、男が女性の下に忍んでゆく行為であるが

本来は【よばひ(呼ばひ)】からきている言葉で

求婚の意味である

死んだ人の魂を呼び戻し、蘇生を願うことを

「魂ごひ」 「魂よばひ」というが、これも「よばひ」

からきているのだという。

                  

◎  日本の仏教を考えてみた 

子供の頃に本名ではない別の名前で

呼ばれていた人が居るだろうか?

現代の感覚では馴染まないかもしれないが

日本人は本名だけが名前ではなかった

むしろ本名を知られていない人が多かった

嘘のような話・・・・

本来、日本では名前を呼ぶ習慣・文化が無かった

天皇ですら姓が無く、その時代に天皇は一人だけで

名前を呼んで区別する必要が無かった

「大王(おおきみ)」、「帝(みかど)」で事足りたのである

現代でも今上天皇の本名を聞かれて、即答できる人は稀である

現在では西郷隆盛、勝海舟といえば凡その人は知っていると

答えるだろうが、当時の人で判る人は少なかった

西郷は「吉之助」であり、勝は「麟太郎」「安房」で通っていた

呼び名は人生で何度も変わり、本名は公式の署名か、死後に

書かれる事が多かったくらいである。


これを踏まえて考えてみれば、私達が知る古代人の名前が

いかに不確かであるかが、理解できる気がする

卑弥呼(ひみこ)も本当は名前ではなかった?

名前を呼ぶ習慣の無かった時代、呼称で事足りたのではないか

実際の名前を知る者が少なく、伝えられなかったとも考えられる

「ひみこ」という音だけが、異国の書物に当て字として残されていた

ただそれだけかもしれない

呼び名(名前)が違うから別人とは言い切れない

古代の難解さを、こんなところにも感じるのである


日本は仏教国である

だれも否定できない話だが、この仏教というもの

日本独自の「日本式仏教」なのである

それには日本古来の「神道」が深く関わっている

日本に仏教が入ってきた時期は諸説あるが

広まった理由は明確である・・・・。

「怨霊の鎮魂」である


仏教の教義の歪曲・・・

仏教と言うのは最終的に「仏(ほとけ)」になることであり

「悟り」を開くなどと言う

それを称して、「解脱」、「成仏」という

本来、仏になるための教えが仏教であり、その戒律の中に

「殺生の禁止」がある。

敵(仇)討ち、過去には沢山のあだ討ちという殺生があった

仇を討つのは殺された人間が、成仏できるようにという願いから

であり、殺生をすることで片方の死者が「成仏」できるという

摩訶不思議な理屈なのである(仏教とは異質)

ここで登場するのが、神道における「たたり」なのである

無念の死を遂げた人間が怨霊とならない為、供養と言う意味

で、「敵討ち」をする

結果ことが成就することにより、死者が怨霊とならず成仏してくれる

つまりは・・・・

死んだ人間を納得させることを、日本人は「供養」、「成仏」と

呼んでいる

菅原道真も天神として待遇したから成仏してくれるだろう・・・

そういう意味での供養もある

怨霊・祟りを回避する事が、供養であり成仏させる目的でもある

本来「悟りを開く」事が本願の仏教が、怨霊鎮護・祟り回避の

日本式仏教に歪曲されて、取り込まれた事になる。

まぁ、今現在では、葬式の為の仏教という、「新日本式仏教」に

変わってきているのは、周知の事実であるが・・・。


日本人は「怨霊」「祟り」という基本的な意識を無視して

物事を考えられない民族なのである。


たとえば、災害が起きても、「火事場泥棒」のような真似が

出来ないのも、日本人らしさなのである。

死者の身包みを剥ぐような行為は、「祟り」の原因でもあり

時を移して、自身に降りかかる天罰(祟り)が怖ろしいのである

良識ある人といわれる人間の多くは、その「日本人的宗教観」

を持っている(意識・無意識にかかわらず)と言えるのかも

しれない

潜在的に「怨霊」を恐れ、「祟り」に怯え、天罰を心配し、

他人の眼を意識する・・・「お天道様が見ている」意識の存在

が日本人らしさなのだろう・・・。

次回は名前の謎・不思議について考えてみたい。

                  

◎  ミーの近況報告 7・28 

今日は暑さが昨日までと違って、いくらか

凌ぎやすかった

久々に網戸だけの「夏の風」を満喫した

何十年住んでいても、この地方の夏の暑さには

慣れることはないようだ

雪国生まれなのに「冬の寒さ」も苦手である(笑)

p1000050-2.jpg【家政婦はみた?】

ミーはというと、夏の暑さは平気らしい・・・

飼い主と違い、ぐったりしているのを観た事がない

p1000116-2.jpg【私の羽毛布団を占領】

元気が何より、今の時間は爆睡中なので

夜中に走り回り、朝方私を起してから

また寝るつもりのようだ(笑)

洗濯機が「嫌な音」をたて始めた・・・

ついに買い替えの時期という事らしい

業者が家の中に入ったり、ドアを開けっ放し

になる事を考え、「ケージ」を購入した

p1000106-2.jpg【三階建て】

遊び場を兼ねて「大きい事はいいことだ」と

奮発してみたw

最初は恐る恐る、出たり入ったりしていたが

次の日には「自分のもの」の如く、馴染んでしまった

無駄にならずにホッとした長屋の爺である

p1000113-2.jpg【天井も遊び場に】

高いところが好きなミー

天井の網が気に入らないようだったので

大判のバスタオル(スヌーピー柄)で覆ってみた

意外と気に入っているようだ

p1000091-2.jpg【あくびも様になってきた】

盆休みまでもう一息、暑さに負けず

爺とミーは明日も 早起きしま~す

                  


◎  饒速日と東遷逸話 (2) 


日本の初代天皇は「神武天皇」という事は

多くの日本人が知っていることだ (たぶん・・・)

その状況に数々の不可解さが見える

饒速日という「天つ神の子」がヤマトを治め、神宝をも

所持していたと、記紀には記されている。

その先代の統治者である饒速日(にぎはやひ)から

禅譲されたと言うなら、初代天皇は「饒速日尊」という事

になるのではないか?

饒速日が単なる部族長であるならば、天皇という身分では

ないことになり、彼から禅譲されたものも「天皇位」では

無かった事になる。

禅譲と言うくらいだから、当然それ相応の「位」であったはず

一書(あるふみ)に曰く、饒速日は天孫・ニニギの兄だったと

書かれている。

ということは、饒速日も天孫であり、アマテラスの正統なのである

さらに不可解なのは、統治者の地位を譲った先代が、後継に対し

臣下の礼をとる事など、異常としか思えないのだ

正常な統治権の移譲と考えるには無理がある

さらに、饒速日の義父・長脛彦と闘ったと記されているが

饒速日と闘った記述が無いのも不可解である。

記紀の記述を信じるなら、一度は神武軍は大敗し迂回する

羽目に陥っている。

それくらい饒速日・長脛彦軍(先帝軍)は武力に勝っていた

その迂回したときに起こった事が、神武天皇即位に結びついた

八咫烏、吉野を進軍する途中出会った三部族

阿陀の鵜養(うかい)の祖

吉野の首(おびと)等の祖

吉野の国巣(くず)の祖

が大きな鍵を握っていると考えられる

いずれの部族も、饒速日が九州からこの地に移るとき

引き連れてきた臣下だったのではないか

土着の長脛彦たちと、九州から移り住んだ部族が

不仲の種を抱えていたとすれば、そこにつけ込んで

内紛・裏切りを誘ったとも考えられる。

ことが成就するには、障害となったのは饒速日と

長脛彦だが、先代旧事本紀によれば、このとき

すでに饒速日はすでに死んでいたという。


九州北東部から近畿地方に遷って来た初代大王は

饒速日であり、その業績と土地・富・権力を乗っ取ったのが

神武天皇(イワレ彦)だった

あきらかに長脛彦を殺したのは饒速日ではないし

死んだ者から「皇位を譲り受ける」ことは不可能だ

皇位の簒奪=皇位の禅譲 であり

東遷逸話も大方の部分は拝借であり、残りは創作と

私は考えている。

記紀信奉者にとって、敗者の古代史は認められないもの

「偽書」とするしかないのである。

敗者の残した伝聞・古書が凡て真実と言うつもりは無いが

片方(勝者)の言い分だけをもって、古代史としてしまうには

誰しも納得できないのである。

神武天皇が良い悪い、実在・架空という次元ではなく

「そのとき ヤマトで何が起こったのか」

私達は知りたいと願っているだけなのである。

                  

◎  阿多と天皇家 

【南九州の隼人は、大隅隼人と阿多隼人の二大集団

が東西に群居していた。

阿多隼人は記紀神話で天皇家の先祖とさまざまに

接触があったように描かれている名門である。】

       (森浩一著 敗者の古代史より)

阿多は「吾田」と表記される事もある。

神話に登場する【吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)】

これは木花開耶姫(このはなさくや)の別名である。

イワレ彦(神武天皇)は日向に居たころ、妻にしていたのは

「吾田邑(あたむら)の吾平津姫(あひらつ)だった。

その隼人の移住先が南山背(やましろ)、現在の京田辺市

付近と言われている。

日本書紀にも崇神天皇(ミマキイリ彦)の時代に、謀反を起し

たとされるタケハニヤスヒコ(孝元天皇の子)の妻の名が

「吾田媛(あたひめ)」という

記紀の時代に付けられた名前だと思うが、「あた」として創作

された理由は、神武天皇(イワレヒコ)の日向時代の妻の

名前と出自から拝借された可能性がある。

阿多はどこまでヤマトに関わっているのか・・・

興味は尽きないのである。

                  

◎  饒速日と東遷逸話 

私は神道の書籍も多少は持っているが

それほど多くは無い、理由は一つ・・・・

決まりきった一方向からの解釈で通説から

大きくも小さくも外れない「模範書」ばかり

大定義である「皇祖神の存在」から始まる話には

偏屈な長屋の爺の琴線には触れる話はないのである

正統性を主張する自慢話と創作逸話に食傷気味といえる


さて、やはり古代史は、神武東遷と蘇我本宗家滅亡が主流

そして持統天皇即位と続く・・・・


私は一番見えにくい、神武話が好きである(笑)

結論から言うと、神武天皇は居なかったと思っている

記紀に描かれたような「神武天皇」なる人物は居なかった

それは、その前後の各地の豪族たちの祭祀によって

推察できるのである。

神武天皇の東征(東遷)には、ニギハヤヒと長脛彦が主役だ

そのニギハヤヒを祀る神社は数多くあるが、神武天皇を祀る

神社は殆んど無い状況である

屈服して禅譲したニギハヤヒ

それを制圧したとされる神武天皇

後の人間もその功績(初代天皇)を知れば、主祭神として

敬い崇めて当然である

ところが、明治時代になるまで、祀られた形跡が殆んど無い

「ハツクニシラス」大王なのに・・・である

不思議を見つけると、爺の好奇心はMAXになるw


ニギハヤヒはどこから来たのか?

九州北部・宗像から豊前・豊後の一帯から来たとする

説がある (森浩一氏)

先代旧事本紀に東遷のことが詳しく書かれている

私が思うに、東遷逸話はニギハヤヒの話の拝借では

なかったのか?

ニギハヤヒは、九州北東部を治めていた部族長で

多くの民を引き連れて、河内に移り、さらに大和の地

に移動し、その地を治めた「王」だった

ニギハヤヒは長脛彦の娘・御炊屋姫(みかしきや)を妻にして

いて、その子・宇摩志麻遅(ウマシマジ)は物部氏の祖という

ここから考えられるのは、長脛彦とニギハヤヒは共に神武軍に

抵抗した末に、亡くなったと考えられる

ということは、物部氏の血には神武に刃向かった「長脛彦」の

血が流れているという事になる。

それでは不都合な事があり、ニギハヤヒが長脛彦を殺し、禅譲

した形に治めたのではないか

不都合を知る手がかりは、「新選姓氏録」にあった

石上(いそのかみ)朝臣、穂積(ほづみ)朝臣、阿刀(あと)宿禰

若湯坐(わかゆえ)宿禰、舂米(つきめ)宿禰、小冶田(おはりた)宿禰

弓削(ゆげ)宿禰、などは【神饒速日命の後なり】と書いている

饒速日を始祖とする氏族が、いかに多かったかという事であり

饒速日を悪者にする手法は、使えなかったという事である

それにひきかえ、神武天皇を始祖とする「氏族」は皆無であり

不都合な事情の裏づけをしているのである。 (つづく)

                 

◎  神の祟りか「鹿による自然破壊」 


野生の鹿が増え続けて、山林や農作物に多大な

被害が出ているという、鹿は樹木の表皮まで食い尽くし

て枯らしてしまい、大雨の土砂災害にまで関係してくる

ニホンジカなどはこの20年余で50万頭から

260万頭に増え、深刻な被害に頭を痛めている

そんな記事が出ていた。

理由は「オオカミ」の絶滅、食物連鎖の崩壊に起因

するという


狼(おおかみ)  ロウ、おおかみ と読む

ある地域では狼を【大神】と当て字で表記する処もあるという

??? 私にとっては、大神(おおかみ)が本来の意味するもので

後から「狼」と当て字したのが本当だろうと思っている。

音が先にあったのだから、狼も大神も当て字に違いない(笑)

『日本書紀』にも狼のことを、【かしこき神(貴神)にしてあらわざを好む】

と書かれているくらいなのだ

アイヌ語では「きな口の」という表現をするし、「狩をする神」

という言い方もする。

農耕民族が新たな農耕地を広げ、野生動物の領域を侵し

農作物を食い荒らす先住の主「草食動物」を乱獲し

その草食動物を「食糧」としていたオオカミが生きるために

食べ物を求め人里に下り、そのオオカミを農耕民族は

根絶やしにしてしまった。

考えようによっては、これは「大神」の祟りではないか

人は神にはなり得ない

大神(狼)と呼ばれた山の神は、神であり鬼でもあったのだ

増えすぎないように草食獣を間引きし、山の豊かさを支えていた

反面、山を降り郷に姿を現せば、民の生活に危難を与える鬼と

なって畏れられた。

先祖を祭るモノが居ないと「祟る」のである

八百万の神に共通する定説、大神にも当てはまるだろう

八百万の神の崇拝が薄れたヤマトでは、神をも駆逐する

蛮行(乱獲)が横行したようだ

狩猟民族は今日生きるために「狩り」をする

余分な殺生は断じてしなかったのである


農耕民族は、遠い先の日のために、敢えて殺生をするのだ

備蓄する、冬に備える、肉は干物にし味噌に漬け込み

毛皮は寒い冬の備えの為に貯えておくため、日常的に

狩猟したのである

そこには古のような、自然の精霊に感謝する信仰心は

見えてこない

神が居るから自分が生かされているという観念の喪失

自分が努力しているから生きているという発想に古代ヤマトの

信仰心は露ほども感じないのである。


人間はいつの頃から、「可哀想」という傲慢な意識で自然に

逆らうようになったのか?

自然と言うのは、人間の力が及ばなくても、自ら存続するように

定まっているのである

その自ら生きる力を持つ「自然」に横槍をいれ、傲慢な考えで

野生動物を過剰に保護すると、サルや鹿やイルカのように人間

の生活まで脅かすようになる、これは「天に唾」することに近い

と私は考えている。

                  

◎  粗忽な爺の恥ずかしい話 

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昨日 仕事中に「左手人差し指・中指」を突き指してしまった

ここまでは日常茶飯事なので、どうという事は無かった

帰宅後食事の用意をして、いざ 夕食というとき・・・

指に貼ってあった「湿布」のせいで、熱い味噌汁の椀を

落として、味噌汁を被ってしまった

さらに、ミーがその上に載ろうとしたので、右手で払い

退けたとき、しこたまテーブルに打ち付けて流血騒ぎw

左指は痛い、右手も痛い、Tシャツと短パンは味噌汁だらけで

熱い、泣きたくなるような時間を過ごした。

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後始末が終わって、気分は思い切りブルー

ブログ更新もせず、10時に不貞寝した

今日はキーボードを打つのも両手の指の不自由さでたどたどしく

ため息つきつつ、肩を落としてPCに向かっている

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たまには更新を休みなさい という神さまの託宣か?

体も頭も少しは休養になった・・・と思うしかない

無邪気なミーを観てると、ふとそんな事が頭をよぎる

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古代史の更新は明日以降ということで・・・

                  

◎  阿多族は小部族だったのか? 

あた 阿多と表記されるこの言葉

通説では隼人の部族のひとつという事に

なっている

本当に小部族だったのだろうか・・・

言葉や地名に残る「あた」の痕跡を探ると・・・

* 頭(あた・ま) 古語では「物事の始め」

* 当たり(あた・り) 仕返し 報復

* 辺り(あた・り) 遠まわしに人・家を指す

* 仇む(あた・む) 敵視する 憎む

* 惜し(あた・らし) りっぱだ すばらしい

* 熱熱(あた・あた) 熱さに苦しんで発する言葉

古語で観る限り、音 → 文字 という事が推察できる

この文字群だけでは多くを量れないが、阿多とは通説の

ような小部族ではなかったのではないだろうか

ヤマトの始まりは「阿多」だった

阿多はある時期までは、大きな力を有した部族だった

阿多は武力ではなく、謀略によって衰退した部族だった

全国に散った「阿多」族の生き残りは、ヤマトに抵抗した

ヤマトは「阿多」を徹底的に駆逐しようとした

阿多の存在そのものを、無かった事にする策謀があった 

阿多とはヤマト王権にとって、不都合な存在だった

そして、「阿多」の末裔達が根付き暮らした土地に

「あた」という音を残した

これは妄想かもしれない・・・・


安達太良山(あだ・たらやま) かつて蝦夷といわれた

先住部族たちが暮らした土地にある山

その麓には、安達が原(あだち・がはら)があり

鬼の伝説が残っている。

熱海(あた・み) 海人たちが海を渡って辿り着いた地

私は 阿多の海 が語源と考えている

熱川(あた・がわ) 伊豆半島の温泉地で有名

熱を「あた」と読む事こそ、音が先にあって文字が当てられた

証明のような地名である。

渥美(あつ・み) これも熱海同様に海人の移り住んだ地

た(ta)は つ(tu)にも と(to)にも置き換わる

熱田(あつ・た) 熱田神宮こそ阿多の一大勢力が移り住んだ

土地ではないか・・・

草薙の剣が熱田神宮に当たり前のように存在する理由も

ヤマトの創始に深く関わっているからではないのか


全国に広がる奇妙な地名・山名の「愛宕」も忘れてはいけない

愛宕を「あたご」と読む事は奇奇怪怪なのである

愛 アイ、オ めでる、いとし

宕 トウ、ドウ すぎる

いとしすぎる 思いをこめて「あた・ご」に当てた?

哀悼(あい・とう)の意味でわざわざ当てた文字か・・・・。


他にも、安宅(あた・か)、阿多岐(あた・ぎ)、安毛(あた・げ)

阿多野郷(あだのごう)など「阿多」の匂いがする地名は

各地に残っているのである。

                  

◎  天皇陵と古墳 

東宮一家が武藏野陵(むさしののみささぎ) と

武藏野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を

参拝したと報道された。

日本で天皇陵として確実なのは、殆んど無い

明治天皇の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ).

昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがし)

大正天皇の 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后の多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

昭和天皇の武藏野陵(むさしののみささぎ)

香淳皇后の武藏野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

そして・・・天智天皇陵の御廟野古墳(ごびょうの)

天武・持統天皇の野口王墓古墳だけである

これは最近の天皇陵以外は、何もわかっていないという事

日本の国家元首・天皇家の先祖の墓が不明と言う事実であり

それを積極的に解明せず、万世一系というには抵抗もある


この陵(みささぎ)を管理するのは宮内庁・書陵部(しょりょうぶ)

・陵墓課である

どれくらいいい加減な役所かと言うと、現在天皇陵と認定

されている古墳・墳墓の4%くらいが正当で、残りはてきとー

に決めているだけである。

50分の2・・・・殆んど不明状態

一例を挙げれば、欠史八代といわれ、存在すら疑われている

天皇の陵墓が決まっている摩訶不思議な事

初代天皇・神武天皇の御陵は三箇所の候補の中から

神武田古墳といわれるものを、丘と石垣を造って定めた

後の残り二箇所のうち、一つを2代綏靖天皇の御陵とした

その確たる根拠は見当たらないのが実状である


第八代孝元天皇の御陵は、三つの小さな古墳を

一つに囲って、御陵としている(笑)

第21代雄略天皇の御陵は、別々の「円墳」と「方墳」を

勝手につなぎ合わせて、前方後円墳にしてしまったものだ

誰もが知っている「仁徳天皇陵」である大仙古墳についても

仁徳天皇の時代と合わない事が立証されて仁徳天皇陵と

呼ぶ事はせず「大仙陵古墳」と呼んでいる

が、しかし宮内庁では仁徳天皇陵ではないと認めようとは

しないのである。

明らかに時代の違う天皇陵を改めない神経には疑問が湧く


どうして古墳の埋葬者が判らないのか・・・

日本の古墳・墳墓には「墓誌」が無いことが最大の原因で

次に考古学などの学術的な調査を、宮内庁が拒んでいる

ことが考えられる。

なぜ墓誌が存在しないのか?

日本は 死=けがれ の風土がある

死んだ人間の「再生」を恐れる宗教観があって

生き還ることで「祟り」が起こる事を異常なほど

心配し、殯(もがり)により朽ちるまで見届けた

殯について「復活を願い」という専門家が居るが

私は諸外国と違い、日本では「復活」は望んでいない

文化だったと思っている。

魂(霊)がこの世に現れるときは、祟りを起こすとき

そんな厄介な再生(復活)は望んでいなかった。

朽ち果てて「再生」の心配がなくなるまで、見守り

安心して埋葬した

それゆえ、その墳墓が誰のものか不明にし、帰る場所を

魂(霊)に判らなくしたのだと考えている。

参拝する事もせず、「触らぬ神(大王)に 祟り無し」を

通したのではないか。

死に接する事をを穢れとし、死者の朽ちた遺骸の眠る「墳墓」

に近づかなかった可能性もある。

さて、日本にはどれくらいの古墳があるのか?

文化庁の発表だと16万余とされている

実際は小さいものを含めると、その倍はあると

わたしは考えている。

3世紀末から7世紀末までの間の「天皇」と「后」

どのくらい居たのかと言う話・・・・・ 合わせても

60人程度だろう

そして古墳の数はといえば、奈良県で約9000

京都で11000、兵庫で16000これに大阪が

加わると・・・・・途方も無い古墳の数になる

不敬といわれるかもしれないが

もし、天皇陵だとされる古墳が全く関係のない

土着の部族長の墓だったとしたら

本来の天皇陵が撃ち捨てられていたとしたら

宮内庁は何を恐れているのだろうか?

所詮、古代史と言うのは、タイムマシンに乗って

その場所に行かなければ「真実」はわからない

キチンと考古学・歴史・文化に沿った調査をして

祖霊をキチンと御祀りするべきだと思うのは

私だけであろうか・・・・・。

                

◎  名無しの名前 決まりました 


今日は更新を断念する気でいた

実は椅子の上で「名無し」ちゃんが寝ていた

あまりにもスヤスヤと気持ちよさそうに寝ていたので

当然ながらPCに向かう事ができず

本日の更新は「取りやめ」にする予定だった

つい今しがた、うっすらと眼を開けて、一声鳴いて

水を飲みに離席してくれた(笑)

しかしながら、一度は断念した更新

頭の中で構想が纏まらず(いつもの事か)

日記にする事にした。

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本性を現してきた「お嬢さん」

よく食べ よく眠り よく遊び そしてよく甘える・・・

好奇心旺盛で、すこし怖がりでもある

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名前を決めてあげなくてはいけない

と・・・思いつつ今日に至る

ようやく決めることに(遅いかも)・・・

ミコ に決定!

巫女(みこ)、神子(みこ)、御子(みこ)など

文字に拘ってみたが、最期は「音」の響きで・・・

通常は「みーこ」「ミー」と呼んでいる

ご心配をおかけしました~ コメントくださった

多くの方に「感謝」と「御礼」を・・・・

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そして、ふと思い出した

1年ほど前に購入した画像・動画編集の

「BAMBOO FUN」というソフトを取り出してきた

未開封(笑)

我が家には購入したままの未開封アイテムが

押入れや棚の上にごろごろしている

買うには買うのだが、仕事に追われ後回しに

なり、気づけば埃を被って、押入れの住人に

日本経済に貢献していると「言い訳」をする爺

物事の出会いは「運命」なのだと悩んで買った

その結果が押入れの住人である(反省)

35度の猛暑が何日も続いたが、ようやく今日は

少し温度が下がった

そのかわり「雷」と「豪雨」には参ってしまった

梅雨明けも、もう間近である

夏本番を前に、健康には気をつけたいものですね。

                   

◎  「化野(あだしの)」の語源 


あだ 【仇/寇】

《室町時代までは「あた」》

1 仕返しをしようと思う相手。敵。かたき。
2 恨みに思って仕返しをすること。また、その恨み。
3 害をなすもの。危害。
4 攻めてくる敵兵。侵入してくる外敵。

きゅう 【仇】

[音]キュウ(キウ)(漢) [訓]あだ あた あだする
1 憎らしい相手。あだ。


何を書いているのか? と思われそうだが・・・

阿多(あた)という「音」を考えていたら、思いついた

現在の言葉(音)では、濁っている音(濁音)も

かつては濁っていない音(清音)だったものがある

そんなことを思い出したのである。


誰(だれ)という言葉も、江戸時代では「たれ」だった


九州とは「仇・州」、【あたのくに】ではなかったのか

仇州(きゅうしゅう)は阿多の末裔が暮らす国だった

そんな埒も無い事を考えていた。


古語辞典を開いて、【あたー】 には良い字義の言葉が

少ない事に気づいた

徒(あだ)  はかない、むだ、いいかげん

他し・異し(あだし) 古くは あたし と言い

  「他の」「別の」「異なる」という意味

空し(あだし) はかない、むなしい

与う(あたう) くれてやる、与える


そして・・・平安京の代表的葬送地「化野(あだしの)」

どう考えても、化野を【あだしの】とは読めない

阿多ー死ー野 あたしの・・・あだしの(化野)となった

飛躍しすぎとは思うのだが・・・

奈良県の吉野、桜井に隣接する「宇陀市」

この地名は近代のもので、宇太~菟田~宇陀 であろう

奈良県五條市に残る、阿田、阿太の地名

日本全国で町名地番の改定が行われ

その土地の歴史と由緒を見えなくしてしまう

自分が好きで、自分を大事にするヤマトの末裔

日本が嫌いで、日本を粗末にするヤマトの末裔

国も故郷も、郷の人も好きでいて欲しい

残して知る幸もあり、変えて知る喜びもある

阿多が教えてくれるものは、もっと沢山あるはずだ

ヤマトの言葉について、拘って考えたいと思うのである。

                  

◎  日本書紀の不可解な記述 


この際だから、日本書紀の不可解な記述に

ついて、少し書いておきたい

遣隋使・小野妹子という人物

聖徳太子の側近であり、信頼された人物だった

かれは遣隋使の成功によって、後に冠位十二階

の最高位である「大徳冠(だいとくかん)」を授かる

ところが、日本書紀はそのことには一切言及していない

さらに、隋から帰国の途中、百済で煬帝からの国書を

紛失したと記述している

これは明らかに不可解である

帰国には隋の大使である裴世清(はいせいせい)が

同行してきた

当然ながら、隋の皇帝・煬帝(ようだい)からの返書は

大使である裴世清が、直接手渡すために自ら持ってきた

そう考えるのが普通で、小野妹子が国書を預かることは

考えられないし、無論紛失する事など有り得ないのである

日本書紀は聖徳太子を礼賛しておきながら、太子の側近

に重大な罪があったように記述している

まだある・・・敏達天皇は広姫という后が居たが、早逝した

ため後の推古天皇と再婚した

二人の間には【菟道貝蛸皇女】という娘が居る

その娘・菟道貝蛸は聖徳太子の妻になったと日本書紀

は書いていて、またの名を【菟道磯津貝皇女】という

ところが、先妻の広姫の娘の名が【菟道磯津貝皇女】

敏達天皇の先妻と後妻の娘の名前が偶然に同じという

ことがありえるのだろうか・・・・。

同姓同名の腹違いの姉妹という不可解な記述の意味は?


日本書紀に奇妙な記述がある

『敏達七年春三月、菟道皇女を伊勢斎宮に遣わしたが、

池戸皇子(いけへのみこ)に犯され、ことが露見して解任

された』

池戸皇子とは「用明天皇」のことだという

用明天皇は聖徳太子の父親

菟道皇女は聖徳太子の妻

これは一体どういう事なのか・・・・。

これが事実なら、天皇家の「恥」である事件を

隠蔽すべきではないのか

用明天皇と聖徳太子の名誉のために・・・・。

日本書紀は太子を礼賛したり、辱めたりするのは

やはり「蘇我本宗家」の【悪】を際立たせるための

駒として、必要以上に礼賛しただけなのではないか

聖徳太子は蘇我の血統を受け継ぐ「皇太子」だった

天智天皇のサイドからすれば、憎む事はあっても

賞賛するのは合点がいかないのである

                   

◎  推古天皇の謎 日出づる処の天子 

怨霊と祟り

この世に恨みを残して死んでいった人の

執念がこの世にとどまり、自分を死に至らし

めた(陥れた)相手に復讐しようとする概念

(超自然的)のことであり、この復讐が祟り

と言われるものである。

祟る人間には相応の理由があり

祟られる人間たちにも、それ相応の理由がある

祟る理由=祟られる理由

これはあくまでも個人的な解釈であり

第三者から観た「評価」なのである

このヤマトの国では、数々の「陰謀」「私欲」により

理不尽な死を甘んじて受けた犠牲者が居る

その多くは「怨霊」となり、祟りを起してきた

日本書紀に書かれている「祟り」の最初は

大物主が祟りを起し、疫病で多くの民を死なせた

という話

この祟りの理由は、大物主が子孫の祭祀を受けなかった

ことだという

この【子孫の祭祀を受けない霊は祟る】 という説

日本の考えではなく、中国の発想なのである

古代中国、殷(いん)に「子孫の祭祀をうけられなくなった

霊は祟る」という考えがあったという。


さて、古代史では邪魔になった「皇位相続候補」に対する

理不尽な粛清や冤罪が散見されるが、そこには少なからず

日本書紀が書かなかった、書けなかった「祟り」があったの

では無いだろうか・・・・。

祟りがあったと書き記せば、冤罪・粛清が事実だと認めること

になってしまう

恨みを残した「怨霊」は、必ず祟るのだから・・・・。

では聖徳太子(厩戸皇子)は、山背大兄皇子が殺され

子孫の祭祀を受けられない一人である

祟ったのか?

私は間違いなく「祟った」と思っている


「太子礼賛」の背景にあるものは、祭り上げて祟りを回避

する姿が見えるのだ

私が「推古天皇」は女帝ではなかった、あるいは虚像だった

そういう自説を書いてきた

その根拠は、隋書に書かれた内容を重要視しているからだ

608年、遣隋使・小野妹子が帰ってくる

同行したのは、隋の使者「裴世清」と言う人物

自ら国書を持参してきて、天皇に拝謁し国書を手渡した

隋書には、王は裴世清に会い喜んで次のように言った

【 私は聞いている、海の西に大隋という礼儀の国が

 あると。そこでこうして朝貢したのです。われわれは

 野蛮人で、海の片隅に暮らし礼儀を知りません。

 よって今まで、島のなかから外に出ようとはしなかった

 のです。現在、道を整備し、館を飾り、ようやく大使

 (裴世清)をお迎えすることができるようになりました。

 できることならば大国の維新の化(け)をお聞かせ

 願いたい。 】

この記述の内容ではなく、「王に会った」「王と会話した」

ことが重要なのである。

魏志では、卑弥呼(ひみこ)をさして「女王」と書き記した

隋書としても、裴世清の報告を受けて、「女帝」ならば

女帝だったと素直に書き記すはずなのだ

その理由は、遣隋使に託した「国書」の文面である

【日出づる処の天子、日没する処の天子に致す。・・】

この大胆な国書を書いてよこした王の名はタリシヒコ

という、もしも裴世清が王に会って、王が女性であったなら

帰国後必ず煬帝に「倭王は女性」だったと奏上するのは

当然である。

裴世清は倭王に会って話までしている、日本書紀の記述

では大門(みかど)という妙な言葉で記されてるが・・・。

608年当時、日本の天皇は「タリシヒコ」という名前の

男性の天皇という事なのである。

推古天皇は男性だった、少なくとも608年には女性天皇

は存在していない。

日本書紀に記されている「推古天皇」の記述は、創作され

ていたという事になるのである。

では一体誰が・・・・天皇だったのか?

聖徳太子か押坂彦人大兄皇子のどちらか・・・

そういう事になるのかもしれない

                  

◎  推古天皇の即位を考える 

推古天皇

日本で初めての女性天皇と言われている

皇位継承候補が若かったから、已む無く即位した

そういうことになっている・・・・。

私がどうしても、納得できない歴史の一つだ

本当に有力な皇位継承候補は居なかったのか?

彼女が即位したのは、崇峻天皇が暗殺され

若い候補者が成長するまでの「繋ぎ役」とされる

この当時は、「譲位」という制度は存在せず

天皇が崩御しなければ皇位は遷らない原則なのだ

「繋ぎ役」でない事は明白であり、前例の無い女性の

皇位継承ということになる

その皇位継承候補だが、敏達天皇の皇子である

押坂彦人大兄皇子が居た、推古天皇の義理の息子

敏達天皇の皇后・広姫の嫡男であり、有力な皇位

継承候補である

さらに、用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子)

も居たのである

どちらも天皇の皇子であり、即位するのに問題は無い

通説では、厩戸皇子が若すぎたという事になっている

当時19歳、おそらく押坂彦人大兄皇子も同年代であり

彼女が即位しなければならない理由など何処にも無い

なぜ「若いから即位できない」という事が偽りかと言うと

推古天皇は即位するとすぐ、厩戸皇子を摂政として

政事を任せているのである(重要なこと)

押坂彦人大兄皇子は日本書紀などに殆んど出てこない

どうやら存在を消したいような気配すら感じる

ところがこの押坂彦人大兄皇子は歴史上ではとても

重要な人物なのである

第34代舒明天皇の父親であり

第35代皇極天皇の祖父であり

天智天皇・天武天皇の祖父でもある

そんな重要な人物を日本書紀は無視している

色々な理由を付けて、即位を阻止したその真意

私の有り得ない寝言かもしれないが・・・

推古天皇女性説は偽り、騙りだと思っている

即位の状況、在位期間の長さ、蘇我氏の興亡

を考えれば、複数の天皇の治世ではなかったか

そう思っている。

そもそも、崇峻天皇が暗殺されたというのも

腑に落ちないことであり、事実ならクーデターと

考えるのが普通だろう

天皇が暗殺されて、平然とする国など考えられない

崇峻天皇の暗殺、推古天皇の即位について

もう少し考えてみたい (つづく)

                  

◎  名無しの近況 

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名前はまだ無いけど 元気ですw

好物は・・・

本マグロの刺身

老舗和菓子店の「水羊羹」

高級「カステラ」

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お留守番も「お利口さん」にしている

つい興奮して、爪を立てて「怒られる」ことがあるが

反省はしない

最近はベッドで一緒に朝まで寝る

私が寝ていないときは、ベッド下で独り寝をしている

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一日の殆んどを寝て過ごすので

世話がかからない 本当に楽な子だ

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名前の候補

あずき かすみ よしの さと ・・・

動物病院で名前を聞かれる事を想像すると

どうにも決めかねてしまう(笑)

人間みたいな名前に抵抗感があるせいなのか

思いつかないのが正直なところだ・・・

猫らしい名前なんてあるのだろうか?

タマ ミケ ??? いまどきの アン?

アンコ アズキ あたりで(笑)

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◎  二神の婚姻・国生みの不可解な記述 

日本書紀のイザナギ・イザナミの国生み

ここでイザナミが、「あなにえやえおとこを」

と先に言葉を発したのがいけないと、やり直す場面

イザナギは面白くない様子で言ったという・・・

『私は男子であり、当然まず私から口を切るべき

なのを、お前は女なのにかえって先に言った。

これは良くない事だから、もう一度やり直しを

しよう。』

これはいつの時代の思想なのか

今なら「男尊女卑」「女性蔑視」と言われかねない

卑弥呼の時代でも、女性の首長が居たというのに

「お前は女なのに・・・・」とは

この神話を創作した時代を考えてみると

日本書紀が編まれたのは、8世紀であり

女性天皇(元正天皇)の時代である

そんな時代に「お前は女なのに・・・」は有り得ない話

この記述を観る限り、日本書紀の書かれた時代は

もっと後、あるいは後世に書き換えられた可能性も

有るのではないか・・・・。


私は何度も言うが、神様を祭ったのは祟りを忌避する

為だと思っている。

自然の精霊を敬うだけなら、神殿・本殿など無用なのである

その本質が変えられたのが、日本書紀の「神話」なのである

姿かたちの曖昧な「精霊」が、いつの間にか「人の姿」をした

神さまとして登場した

当初あったはずの「性別の区別の無い精霊」が、俗っぽい

男神・女神の区別がされ、太陽神までも「女神」に摩り替え

られてしまった

この時代、どこにも「女性蔑視」の状況は窺えないのである

そんな時代背景の中、「お前は女なのに・・・」の意味する事は

時代を経た「儒教」などの影響を色濃く感じるのは当然であろう。

唐代の儒教でも、私の知る限り、女性の自由を制限する思想は

中唐(8世紀中頃~9世紀前半)からであり、ヤマト王朝にこの

中唐儒教のような思想があったとは思えないのである。


論理的な組み立てをすれば、二神の国生みの神話は

比較的新しい思想の影響を当然とした創作と思え

日本書紀の「加筆」「改竄」の私的根拠になっている。


* ちなみに「あなにやし」と言う言葉の意味は不明であり

通説は殆んど「推測」と「妄想」である(笑)

これも以前書いたのだが、ヘブライ語の「アニーアシー」

ではないかという説がある。

意味は「私は結婚します」であり

エとはアイヌ語で「おまえ」「あなた」

『私は結婚します 貴方と言う良き男性と』

『私は結婚します 貴女という良き女性と』

そういう意味なのではないだろうか・・・・。

                  

◎  注目する謎について 

古代史の中でも、天智~天武はドラマが多い

その理由は、謎めいた記述と、それとは異にした

伝聞が多いからだろう

私は個人的には、それより少し前、用明天皇から

舒明天皇の時代に興味がある

崇峻天皇は実在したのか?

推古天皇は女帝だったのか?

厩戸皇子は即位していたか?

山背大兄皇子は即位していた?

舒明天皇の正体とは?


推古天皇の謎

脈々と繋がってきた皇統において

継承候補の男子が多数居たにもかかわらず

妃が即位するという不可解さ

夫である敏達天皇の皇后は「息長広姫」であり

皇后が二人とは前例がないことが気にかかる


崇峻天皇の謎

史上唯一の臣下に暗殺されたとされる天皇

陰の黒幕は蘇我馬子といわれ、実行犯は

東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)

暗殺後に特別な動揺や変事が無い事を

観ても、暗殺そのものが有ったのかどうか?

名前は「祟る」と暗示しているが、祟った形跡が無い

穢れと祟りの時代としては、相当不可解なのである

第一、蘇我馬子が物部氏と争ってまで擁立した天皇

といわれ、暗殺する動機が希薄なのである。


厩戸皇子の謎

謎だらけで、どれを謎と言って良いのか・・・

伝説と神話がミックスされた「伝記」の真実は

何処にあるのか?

思い込みを消して、別の角度から考えてみたい


山背大兄皇子の謎

厩戸皇子の子と言われているが、「記紀」にはその

ことに言及している記述は無い

噂のようなものかもしれないとは言い過ぎか?

聖徳太子として礼賛する皇子の、親子関係について

無視する「記紀」編者の真意は何処にある?


舒明天皇の謎

この天皇の存在が、皇極、天智、天武、持統の即位の

条件に成っている気がする

実在なのか、父親といわれる「押坂彦人大兄皇子」

の存在も詳しく残されていないことに疑問が湧く


神さま・神社と並行して、この謎を考えて行きたい。

                   

◎  日本語の不思議 

じつに日本語というのは難解である

日本人が日本語の事を知らないというのも

些かおかしな話なのだが・・・・

他所の国の人が日本語を覚えるのは、相当

厄介だろうと、同情してしまう


大和・・・やまと と読む  ことになっている

どうして、この文字を「やまと」と読むのか、誰も

教えてくれないし、疑問に感じている人の話を

聞いた事もない

長屋の爺は「偏屈」だから、どうにも納得がいかない

腑に落ちる説明は無いものか・・・・。

井沢元彦氏の説では、最初に「ヤマト」という音があり

それに後から「相応しい」文字を当てはめた、当て字だと

いう 

『 その国に名前を付けるとき、彼らは自分達が理想と

 する「和」をコンセプトに、大きな和を成し遂げる国という

 理想を掲げる意味で、「大和」という字を自らの「ヤマト」

 という民族名に当てたと考えられるのです。』



100%納得はしないが、井沢氏の説は今までのどの説

よりも「説得力」がある気がする。

最初に「音」ありきも、自論と合致しているし、ヤマト民族の

気質・性質を考えれば、理解できるのだが・・・・

日本人が読めない「日本語」の謎は数多くある

日本語という括りで、一緒に皿に盛った料理の如く

ヤマト言葉も日本語の中に埋没してしまったのか?

私は「ヤマト言葉」と「大和言葉」は当然違っていたと

思っていて、その違いに気づけないのが今の日本人

なのだろうと考えている。

邪馬台国 や 大和  奴国 や 委奴国

異国人が「音」で解釈した言葉を、さもヤマトの言葉

として、解釈する近視眼的な論理では、古代史は

永久に解けないだろうと・・・・。

通説や定説は時として、思考を停止させてしまう

・・・・だから

・・・・であるから

・・・・と言われており

その先にあるべき、「どうして」が抜け落ち、そういうものだ

といわんばかりの、傲慢ささえ感じてしまう。

歴史はピースの抜けた「ジグソーパズル」

歴史は空中に浮かんだ「積み木遊び」

何を基準に、どれから始めるか・・・・それが大切だ

私の古代史考も、日々変化する

凝り固まったとき、私の古代史ノートは閉じる事になる

いまだスタート地点から、いくらも進んでいない

変わる事、変える事、改める事、そして知る事

爺の古代史は、スライムのように形を変化させる

そんな「歴史考」が一つくらい有っても「いんでないかい」

                 

◎  参考文献 (6) 

最近 身の回りが慌しく、読書に没頭できない

文献も常なら、二度三度読み返すのだが

最近は一度きりで「付箋」を貼る程度に深く反省

重要な記述には付箋は欠かせない

読み込むたびに、色とりどりの付箋が増える

付箋は手放せない「必須アイテム」

Post-it と言うモノだが、これはとても便利だ


前回未読だったものも含めて、掲載してみる


* 古事記 (上)        次田真幸

* 古事記 (中)        次田真幸

* 古事記 (下)        次田真幸

* 現代語訳 日本書紀    福永武彦

* 日本書紀 (上)       宇治谷孟

* 日本書紀 (下)       宇治谷孟

* 伊勢神宮と天皇の謎    武澤秀一

* 学校では教えてくれない日本史の授業  井沢元彦

* 学校では教えてくれない日本史(天皇論) 井沢元彦

* 謎の女帝持統 日本初の女性天皇  関 裕二

* 天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀   榊原康彦

* 伊勢神宮と出雲大社        三橋 健

* 検証 平城京の政変と内乱    遠山美津男

* 天智と持統           遠山美津男


以上 敬称を略させていただきました

著者・編者の方々に、感謝しこの場にて

御礼申し上げます。

新たなる良書との出会いを願って

長屋の爺の歴史考を続けて行きたいと

思っております。 (感謝)

◎  額田王の謎 

額田 これは(ぬかた)と読む

小中学生に言えば、どうして?と反論されるだろう

呉音、漢音では ガク キャク と読む 訓読みは ひたい

しかし、そう読むというのだから仕方が無い話なのだが・・・

額田 は東大阪市に地名が残る

そして、愛知県西三河地方に、額田郡、額田町

というのがある(正確にはあった、現在は岡崎市)

さらに 兵庫県尼崎市に 額田町 という地名が或る


東大阪の「額田」の南に「東豊浦」という町があり

東豊浦の東には「鬼取」という地名がある

そして東豊浦の南には「出雲井」という町がある

豊浦 といえば、「蘇我入鹿」を連想するし、さらに

入鹿=鬼 を連想し、

出雲井とくれば、その町名だけで、古代史の匂いを

現在までひっそりと伝えているような気がする


さて、才色兼備の貴族女性というイメージがある

額田王だが、本当のところは殆んどわかっていない

通説や願望が独り歩きし、見目麗しい女性と言われている

天智ー天武との三角関係とか、実しやかに伝わっているが

根拠の薄い「通説」と観るべきである

私は額田王が女性という事が理解できなかった

女性ならば、額田女王と呼ぶのが正しいのかな?

額田王 というのは万葉集の表記から

額田女王、額田姫王 というのは日本書紀の表記

額田部姫王 というのは薬師寺縁起の表記である


通説では「鏡女王」と姉妹という

その確証は全く無く、額田王が「鏡王」の娘とされている

事から、「鏡」つながりで、憶測されたものかもしれない

女性で公式に名前が残るのは、皇族に嫁した女性の

中で、妃(皇后)となった人ばかりである(たぶん)

名前(本名)をよばれることは、その相手の所有になると

言われた時代

女性を守るための「防御策」が通称名だったのか?

きっと「額田王」というのも、あとから創られた名前の気配が

する、歴史上「額田」という皇族が実在した記録が無い

有るとすれば、大和国平群郡額田郷の育ちではないか

という可能性くらい

大海人皇子の妃の一人とも言われ、十市皇女の母となり

その娘が、天智天皇の皇子・大友皇子の妃となったとする

皇極・斉明天皇も信じがたい長屋の爺、謎の女性・額田王と言

われても

何処までが史実で、何処からが創作なのか、未だに判断でき

ないでいる。

皇極~持統の時代は、とにかく通説が独り歩きし、複数の人間

の手によって、書き足され消されて原型が判別できない状態

私の個人的感想では、そういう事になってしまう

一度、私なりの推論(暴論)を纏めてみたいと思う。


今言えることは、彼女がこの時代の歌人で、4世か5世の

皇族、少なくとも大海人皇子と関係が有り、皇極天皇の傍に

居て、代わりに歌を詠んでいただろう事である

絶世の美女だったかどうかは・・・想像するしかない。

                 

◎  話し合いの文化が息づく瑞穂の国 

日本書紀・古事記の編纂者は、出雲の現実を

知っていたのか?

話し合いによる「国譲り」は、いつの時代の

創作話だったのだろう・・・・・。

神武東遷・ニギハヤヒの逸話も、伊勢津彦の国譲りも

本当に「話し合い」だったのか・・・・。

諏訪のタケミナカタ神の説話も、三輪山の大物主も

疑い出せばキリがないのが事実である


現代の日本人も「会議好き」である

会議に諮るほどではない案件は、「稟議書」という

手法を使い、話し合う会議と同様の扱いにしてしまう

その根底にあるのは、「皆で決めたから、責任が曖昧」

という逃げ道が或る。

日本人は話し合う事が大前提で、独断専行を嫌う文化なのだ

強いリーダーを嘱望するのとは裏腹に、話し合う事こそ重要

だという面倒な気質が顔を覗かせる。


最近の政治を観れば、思わず納得してしまう自分が居る(笑)

慰安婦問題も「話し合い絶対主義」の産物なのである



日本の政治システムは、古代から何にも変わっていない

群臣(官僚)は、話し合って決めたという建て前論で、責任回避し

そのくせ、民衆(国民)は話し合いには参加できない仕組み

日本は歴然たる「階級制度」が色濃く残っているとも言える

一握りのやんごとなき公達(政治家)によって、国を思うとか

国を憂うとか言いながら、ヒトデナシは搾取され酷使される

そういう意味の「階級(階層)制度」なのである・・・・。

宮内庁にいたっては、国民の知る権利すら無視するありさま


下々のヒトデナシ社会では、話し合いによって「自治会長」

「PTA会長」、「商店会長」を決めるのが、暗黙のルール

それを選挙で決めようと、言おうものなら大反発を食らう

民主的選挙より、話し合いが最良の決定方法というDNAがある

推薦が独自立候補より勝り、方針も話し合いの末に決まる

日本中どこもかしこも、「話し合い絶対主義」が満ち溢れている


日本の歴史において、少なくとも「話し合い」の枠からはみ出した

人間は酷い目に遭っている

「出る杭は 打たれる」 のは常識なのである

話し合いが決裂して、武力で奪い取るか

武力で叩いてから、話し合いに持ち込むか

どちらにしても、「話し合い」とは名ばかりが実情だ

記紀に描かれた「国譲り」は、そのどちらの要素も

推測できるものなのである。

                  

◎  天皇とは・・・・何? 

日本の天皇は「象徴」? 「国家元首」?

殆んどの日本人は「天皇は象徴」であると

言うはずだ・・・。

元首とは、どういう意味なのか?

ある国語辞典によれば、こう書いている

「一国の首長。国際法上は外国に対して国家を

代表する人。君主国の君主。共和国の大統領など」



では質問、日本は君主国なのか共和国なのか

どう答えるだろう・・・・。

政治的には「議会制民主主義国」であるが

共和国でもないような・・・

君主国なのかなぁ・・・・


わかりやすい例が、イギリスと北朝鮮だ

イギリスは民主的な君主国であり

北朝鮮は独裁的な共和国である。


大統領制を実施している国なら元首は「大統領」だ

日本には大統領は居ない、誰でも知っている話

さらに、大統領のように国民の選挙で選ばれた

代表(元首)もいないのが日本である。

では総理大臣はと言うと、三権分立での「行政府」

のトップにすぎず、元首ではない。

という事は、日本は共和国ではないと言えるのだ

日本は独立国である (国際的に認知されている)

であるならば、当然外国に対して国家を代表する人

が居なければならない

外国に対して国を代表する人の務めとは・・・

国交の或る国に大使を派遣する等の信任状を発行

する、外国との条約の認証、外国からの大使の接受

にあたること。


現在、日本においてこの務めを担っているのは・・・

日本国憲法において、定められた「天皇の国事行為」

によって今上天皇が務めているのである。


天皇は単なる「象徴」であるなどと、軽んじる人間に

この理屈が理解できるだろうか疑問ではあるが・・・。


日本国の天皇陛下は、紛うことなく「日本国国家元首」

である。

そういう意味においても、自虐史観が天皇陛下の言動に

少なからず悪影響が及ぼしていると危惧するのである。


天皇は国の顔であり、国の威厳であり、国の誇りなのである


万世一系がどうであれ、古代史がどうであれ、天皇制度の

重要性は疑う余地が無いという事実、さらには天皇とは

象徴でも現人神でもなく、日本のトップリーダー「国家元首」

だという事実をもう一度、再認識すべきなのである。

                  

◎  私の名前は何? 

ようやく落ち着きを見せ始めた子猫

子猫 3


明日からは仕事に出かける予定

どうも文才が無いせいか、名前が思いつかない

名前は「音」の響きが大事とは思っている

字義にはあまり拘らない・・・

私は洋菓子は得意ではない

どちらかと言えば、「和菓子」を好む

和菓子の名前って、どういうものがあるのか

季節を感じる名前といっても・・・・

今どきの名前は私のほうが「照れ」てしまいそうだし

小倉(おぐら) 小豆(あずき) 大福(だいふく)

笑ってしまうばかり・・・・

20140707 子猫

名案はひねり出すものではなく

浮かんでくるものらしい・・・・・。 

◎  国譲り神話の不思議な論理 

日本書紀・古事記によって伝えられた神話

その中核を成しているのが、「国譲り」神話である

国譲り神話を簡単に言えば、皇室のルーツを書き残した

歴史書という事が言えるのではないだろうか

その内容は世界の常識を大きく逸脱するものであり

日本独特の文化を表している

十七か条の憲法の一条と十七条に書かれている

和を持って尊しとする精神 「話し合い絶対主義」が

神話の世界にも投影されている

世界の国々の歴史・神話は、自分達のルーツの

正当性を主張するものであり、支配するに足る

合理性を書き残すものである。

ところが、日本の神話では、高天原という外の国から

皇祖はやって来たと言うのである。

さらに、そこには先住の地主神が居て、その地主神

から「国を譲ってもらった」と書いている

そんな馬鹿げた事を、国史は臆面も無く書き記している

木々を伐採し、山を削り、石を取り除き、田畑にして

ようやく明るい将来が開けたところへ、国を譲れとは

マトモな神経ではない・・・・と思う。

「はい 解りました どうぞお納め下さい」

そんなこと言う人間を聞いた事も、観たこともない。

そこで起こった事は、話し合いなどではなく、武力衝突

だったはずなのだ

それでも、話し合って国を譲ってもらったという史書の言い分

インドやアメリカ、オーストラリアの歴史を観れば理解できる

後から移り住んだ「外の人間」たちが、話し合いなどで現在の

国を興したという国など私は聞いた事がない

古代インドには元々、ドラヴィダ族が住んでいたが、アーリア人

が侵入し、現在はカーストの上位はアーリア人が占めていて

生き残ったドラヴィダ族は最下層の位置にある。

これとて、話し合いなどで形成されたわけでもなく、武力衝突

という争いの末に、先住の民が滅んだ事は紛れも無い事実

なのである

アメリカとて然り、先住の民・ネイティブ・アメリカンを殺して

土地を奪ったのは周知の事実である

オーストラリアも同様である。

日本だけは違うという人も居るだろう・・・・。

例えば、ようやくローンの返済が終わった自宅に

突然見知らぬ他人が訪れて、私の孫を住まわせるから

家を明け渡せといわれて、「はいどうぞ」という人が

この世に居るだろうか?

警察も軍隊もない時代なら、命がけの抗争が起こったこと

は容易に想像できるではないか

出雲の国譲りとは、話し合い絶対主義の人間が考えた

過去の不都合さを正当化する「おとぎ話」なのである

その証拠が「出雲大社」の高さに現れている

雲太 和二 京三

日本で高い建物の一位から三位までを表した

平安中期の「口遊(くちずさみ)」という本に書かれた

教えである

当時の子供向けの「教科書」のようなもの

現代の子供達が習う「九九」もこの本に載っている

なぜ出雲大社が一番では可笑しいのか?

本来一番高い建造物は、宮殿か国家宗教の本殿と

相場は決まっているのである

欧州あたりでも、「宮殿」が一番高い建物という

二番が国家プロジェクトで造営された「東大寺大仏殿」

三番目が帝の住まう宮殿の「大極殿」

その高さが「国譲り」の本質を指し示しているのでは

ないのだろうか・・・・・。

                 

◎  新しい家族 一日目 


昨日 夕方、我が家に子猫がやってきた

玄関前で元飼い主さんから、受け取って玄関に到着

する間に、右手首を爪でえぐられ出血騒ぎ(笑)

その後、一時間程ベッド下に潜み、泣き続ける

二時間後、猫じゃらしヲ使って、居間に誘導する

三時間後、私と距離を置いて様子を窺う

四時間後、猫じゃらしに興味を抱き、ようやく遊びだす

五時間後、体を触らせてくれる、食事をする

六時間後、猫じゃらしの傍で、「遊ぼう」と催促する

パソコンに集中できない状態、泣き虫・怖がり、元気者

30秒程度は膝の中で我慢するようになった

子猫1

昨夜の就寝は23時、今日の朝3時に起こされ

、遊びに付き合うことに・・・現在6時、寝息を立てて

爆睡中(笑)

子猫2

昨日まで、母猫・兄弟猫との生活、当分は寂しさが

募るだろうが、気長に気長に・・・・。

相当な「お転婆」であることは実感した

あとは名前だけ・・・どうしたものか

             

◎  十七か条の憲法 

聖徳太子の十七か条の憲法

学校でも全文を教わった記憶が無い

全文を現代語訳で掲載している教科書などあるのか?

私達は誤解された十七か条の憲法の一部だけを

習い聞かされてきた。

「和を持って尊しとなす・・・」だけが記憶に残る

その第一条が如何に非論理的か、教える学校など無い

何が可笑しいのかを、井沢元彦氏の著書から引用する

それは条文の最後の部分、話し合えば「ことがらは

おのずから道理に叶い、何事も成し遂げられないことはない」

と言っている事です。

「道理」とは、物事の正しい筋道と言う意味ですから、

「道理に適う」ということは、話し合った結論は必ず正しい

ものになる、という事になります。


話し合えば、必ず正しい結論が出てくる?

「小さなことでは、この前の温泉旅行で何処に行くか

皆で決めたけれど、ハズレだったということから

大きなことでは、皆で話し合って開戦を決めたが、あの

戦争は間違いだったというようなことまで、話し合いの

結果が間違っていたことなどたくさんある。


話し合って決めるのは、物事の決め方であって、出した

結論に基づく行為が正しいか正しくないかは別物であると

井沢氏は述べている。

聖徳太子の言う、十七か条の憲法とは、こういう事なのだ↓

皆で話し合って決めれば、必ず正しい結論が出る

本当に聖徳太子の考えだったのか?

それ以上に「破綻した論理」の十七か条の憲法の言葉の

響きだけを評価し、内容の検証も成されなかった「歴史教科書」

専門家が言う事は正しいという妄想

あばたもえくぼ、盲信するがゆえの「歴史の鵜吞み」を

正しい歴史と信じてきた日本人

疑う事から始めてみるのも、良い事かもしれない。

通説のうそ、私達はその通説を基準に、古代史を読んで

いる、解釈も判断も推理も、理に適った物差しで測る癖を

身に着けたいものである。



十七か条の憲法 (現代語訳)

第一条

おたがいのこころが和らいで協力することが尊いので

あって、むやみに反抗することのないようにせよ。

それが根本的態度でなければならぬ。ところが

人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通して

いる者は少ない。 だから主君や父に従わず、

あるいは近隣の人々と争いを起こすようになる。

しかしながら、人々が上も下も和らぎ仲睦まじく

話し合いができるならば、ことがらはおのずから

道理にかない、何事も成し遂げられないことはない。

【 「日本の名著2 聖徳太子」 中村元 編より 】 

                     

◎  やっと見つかった子猫 

去年から猫を飼うことに決め、知人などに依頼し

探していたのだが、「縁」が無かったのか、見つからず

最近は半ば諦めかけていたのだが・・・・

今日仕事先で会った元請営業の方が「貰ってくれる?」

との言葉

即答で「譲ってください」

「じゃあ 明日自宅に届けるよ」とのこと

さぁ大変・・・・前の猫の用品は処分してしまった

仕事帰り、トイレやらキャットフードや食器等々・・・・

あれもこれも・・・親馬鹿ならぬ「猫馬鹿」の復活だ

メスの三毛猫の子猫、生後一月半くらいか?

仕事中の会話なので、詳細は不明、子猫を三匹

飼い猫が産んだそうで、何処も引き取り手が無かったのか

里子に出すのが嫌だったのか・・・・

それにしては、本当にいいの? と念を何度も押されたから

今まで「縁」が無かったという事なのか


我が家にも「新しい家族」ができた

メダカと猫と爺の生活が始まる

あと 名前を付けなくては・・・

だれか付けてくれないかな、公募するか?

公募するほどの猫でもないか(笑)

                  

◎  銅鐸を知れば・・・ 

銅鐸(どうたく)

この銅鐸を知れば日本の民族の歴史が解る

では銅鐸という呼び名のルーツから・・・

この「銅鐸」という呼び方は、明治時代になって

中国では鐘(かね)を鐸(たく)と呼ぶことから

そう「呼ぶことにした」だけなのである。

江戸時代では「蛹(さなぎ)」と呼ばれていた

地中に横たわっていたものが発見され、蛹のように

見えたからという

「日本書紀」「古事記」にも銅鐸に関する記述は無い

どうして記述が無いのか、一つだけ平安期に書かれた

「扶桑略記」の天智天皇の七年、地中から「奇寶鐸」

珍しい鐘のようなものが出てきたという記述がある。

少なくとも平安時代の人は、銅鐸が何という名で、何に使うか

知らなかったという事なのである。

これは「ヤマト」の民の道具ではなかった証拠である


出雲で発見された多数の銅鐸の意味するところ

少なくとも7~8世紀の大和朝廷では認知されていなかった

異民族の道具とも考えられる

西(九州)から移動してきた民と、銅鐸を用いていた民が

異民族という可能性も否定できない

捨て去ったものなら、名前や遠い昔存在していた「道具」の

言い伝えや逸話ぐらい残されているはずだ

「消し去った」「葬られた」感がする銅鐸である・・・。

察するに銅鐸を用いた「出雲族」と「天皇家」とは異なった

民族だったという事になる。

天皇家、いや現代の日本人のDNAに組み込まれている

穢れ思想は「農耕民族」の証明である

「狩猟民族」は、死=穢れ とは思わない

動物の死は神様からの慈愛の賜物であり

けっして穢れているという思想にはならない

動物を殺さずに生きて行ける「農耕民」特有の思想なのだ

アイヌの祭りに「イヨマンテ(熊祭り)」がある

小熊を殺して、神さまに感謝を捧げる

その子熊は大切に育てられた熊なのだが、大切に祭りの

日まで育てる理由が、「神さまが与えてくれた」物に対する

感謝の表現、殺す事は恩返しなのである

死=穢れ は農耕民族(弥生人)の宗教観でもある

穢れと汚れを混同する人が居る

けがれ と よごれ は別物である

穢れを簡単に言うと、精神的解釈 であり

よごれは 物理的解釈 とでも言うのか・・・。

亡くなった他人が永年使用した湯のみ茶碗を貰っても

使用するのに抵抗がある場合など、穢れ を意識して

いる例で、きたない と言うのではなく、その人の精神が

その茶碗に附着している気がする そういう事なのである

穢れと汚れを混同して、汚れという言葉で使われるから

私達は真意まで混同してしまう。

悪徳政治家を指して、汚れた政治家という表現をする

しかし、政治家が臭いのでも、体に何かついているのでも

風呂に一月入っていないで垢だらけなのでもない

精神的に腐敗し、汚職に手を染めた、悪い奴 という事なのだ

これも「穢れた政治家」と言うのが適切なのかもしれない


話を戻そう・・・

今の天皇家は「青銅器」を日本に齎した「農耕民族」ではない

今の天皇家は「鉄器」を持って、日本に移り住んだ「農耕民族」

の末裔なのである

縄文人といわれる日本原住民、そして青銅器を携えて来た

「農耕民族A」、さらに鉄器を携えて来た「農耕民族B」

その文化の集大成が大和文化なのかもしれない。

(つづく)

                 


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