不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  古人大兄皇子の謀反事件 

人の移動 物の移動を考えるとき

私達は現代の整備された「陸路」を念頭に

移動というものを考えてしまう

古代で「道」と呼ぶものは、獣道と変わらない状態が

殆んどだった気がする

山、谷、川を越えて、人や物が往来するには

数々の苦難が伴うことになる

そんな時代では、移動手段として海を利用することが

極めて大事だったのである。

土器や銅器などを担いで、日本列島を移動したのでは

そんなに遠くまで、移動する事など出来ない

山陰の文化が信越地方に広がり、中部から東北にまで

伝播するのは、徒歩の移動では「非効率」でしかない

島国・日本に「人や文化」が、伝わったのは「海」を

渡ってきたから可能だったのである

近場なら「陸路」も可能だが、遠くに移動するには

「海路」を使うことは古代の常識ではなかったか?


古人大兄皇子が謀反の罪で襲われた話

日本書紀の記述 「或る本に云はく、十一月三十日に、

中大兄、阿倍渠曾倍臣(あべのこそへのおみ)・佐伯部

子麻呂(さえきべのこまろ)、二人をして、兵四十人を将(ゐ)して、

古人大兄を攻め、古人大兄と子とを斬(ころ)さしむ。その妃妾、

自経(わな)きて死すという。」

これは単なる「逸文」を載せているだけであり、殺害を断定して

いるわけではないという。

日本書紀の得意技、そういう話も有る・・と有耶無耶にしている。

古人大兄皇子の周りには、警護の兵(つわもの)が多数居たはず

であり、容易く討ち取られたとは考えられない

まして四十人の雑兵が相手である。

返り討ちまでは考えなくても、逃れる事は可能だったのではないか

その逃避行の行程が、吉野~伊勢~志摩~答志~渥美(安曇)

~飽海~大海

なぜ三河だったのか?

古人大兄皇子の母方(物部氏)の勢力地だったからである

そして信州という土地、天武天皇の「壬申の乱」のときの

あの行程とほぼ同じなのである。

なぜ五ヶ月滞在しただけの、古人大兄皇子の名前が

「吉野太子(ひつぎのみこ)」だったのかと言う疑問

大海人皇子が吉野に隠棲した後、壬申の乱を征し、

皇位を継いだから、としか思えないのである。

【あくまでも、古人大兄皇子=大海人皇子という前提の話】

飽海は現在の豊橋、大海は碧海・西三河地方の事だろうと

考えられる。

豊橋、豊川、岡崎からは信州への街道もあり、言い伝え

などを裏づける根拠ともいえる。

天武天皇(大海人皇子)が歴史に登場するのは、孝徳天皇

を「難波長柄豊崎宮」に置き去りにした事件の記述が初である

若し私が思うとおり、古人大兄=大海人であるなら

古人大兄が死んだとされるときの年齢が22歳であり

置き去り事件はその八年後であるから、皇子30歳という

事になるのだ(西暦653年)

そして中大兄皇子の当時の年齢が27歳である

古人大兄は3歳年上であり、大海人皇子も3歳年上と

されている。

空白の八年間、大海人皇子は何処で何をしていたのか?

22歳から30歳の血気盛んな時代、三河の地で・・・・。

天武天皇の知られている子供はすべて30歳を過ぎてからの

子供ばかりである。

それまで女性も子供も居なかったなど、考えられない

これも大きな宿題となりそうだ・・・・。

(つづく)

                 
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◎  古人大兄皇子と大海人皇子 


大海人皇子の幼少期を私は知らない

乙巳の変でも名前が出てこない・・・・

ある日、突如として天智天皇の弟皇子として

表舞台に登場する

私の仮説は、大海人皇子=古人大兄皇子 である

それも古人大兄皇子を自害したとして抹消し、後に

弟皇子として「大海人皇子」を登場させた

そう、舒明天皇の第一皇子「古人大兄皇子」は生きていた

だから大海人皇子は中大兄皇子より「年上」だったのである

天智天皇は古人大兄皇子の娘を娶っている

しかし、大海人皇子の娘は一人も娶っていない

ところが、大海人皇子は天智天皇の四人の娘を娶っている

これこそ、天智天皇と天武天皇の関係を知る手がかりではないか

四人の娘と一人の娘・・・

天智天皇は天武天皇を恐れていた・・・・と考えれば納得である

天智天皇が病床で即位を促したときに答えた言葉・・・

「洪業(ひつぎ)〔皇位〕は大后(おおきさき)〔倭姫王〕に

 お授け下さい。そして大友皇子に、諸政は行わせて下さい」

辞退したが、内実は娘の産む子が天皇位を継ぐことを願った

そう考えるのが、娘を持つ父親の心情ではなかったか・・・。


古人大兄皇子の墓といわれる古墳が信州にある

さらに、天武天皇の皇子・草壁皇子が住み暮らしたという

言い伝えが東三河地方(愛知県)に残されている

さらに壬申の乱の折、大海人皇子は三河(愛知)を訪れていた

そして・・・伊勢行幸の持統天皇もこの地を訪れていたという

伊勢から舟で渥美半島は直ぐの距離である

近江朝の兵が恐怖のあまり逃げ出した原因は東三河にある?

草薙の剣が「熱田神宮」に祀られている理由も同じなのか

伊勢地方から尾張・三河地方に謎の鍵が埋まっていそうである。

                 



◎  持統天皇の出自の謎 

私は推古天皇は実在しない女帝だったと考えている

もし推古天皇という天皇が実在したなら、それは女帝

ではなく、男性の天皇だったと思っているのである。

そして、皇極・斉明天皇もたぶん女性ではなかった

可能性も考えている。

そうなると、史上初の女性天皇は「持統天皇」という事になる

淡海三船によってつけられた漢風諡号は「継体持統」から

名づけられたという・・・。

を維する天皇とは、一体どんな人物だったのか?

持統天皇とは・・・

父 天智天皇 母 遠智娘 

母方の祖父は【蘇我倉山田石川麻呂】

これだけを観れば、父は皇統男子、母は蘇我系女子である

女性でなければ、皇位継承に問題など一切無いのだ

以前にも書いたが、この時代は母系社会である

【皇極天皇、孝徳天皇、そして天智天皇も血筋から言えば

皇位継承において「出自」と言う点から考えれば、有力な

皇継承者では無かったとも考えられる(父が茅渟王)】

持統帝は蘇我石川麻呂の邸で育ったはずであり

石川麻呂は孝徳天皇によって、謀反の罪を問われて

妻子と共に「山田寺」で自害している。

謀反説は中臣鎌足と中大兄皇子の陰謀と言う説がある

もし陰謀説が本当なら、父親が祖父の「仇(かたき)」で

憎むべきは父親・天智天皇だった事になる

さらに石川麻呂の死によって持統帝の母(遠智娘)は

嘆き悲しんだ後に病死しているのだ

父親が実母と祖父の仇だとしたら・・・

石川麻呂の事件が649年、持統天皇は4~5歳

幼くして祖父と母とを相次いで亡くしているのである。

持統天皇は天智天皇を憎んでいたかもしれない

少なくとも後世の人は持統帝を天智系とは思っていない

なぜなら、菩提寺である泉涌寺には位牌が無いのである

天武天皇から称徳天皇まで、スッポリと抜けている

いろいろな説があるが、時代を経て位牌を追加する事など

造作の無い話だが、今日までそのような事実は無い

宮内庁の人間が列席する行事が今尚続く「御寺」なのに

抜け落ちた位牌の補填が成されない理由とは・・・・・。

居なかった事にしたいのか?

正統な血筋で無いからなのか?

どちらにしろ、この形を続ける限り、「万世一系」の論理が

破綻してしまう事になる

創建は鎌倉時代という「御寺・泉涌寺」

天智天皇と九代後の光仁天皇から始まる位牌

鎌倉以降の時代に万世一系を唱えるなら、どうして

欠け落ちている天武天皇~称徳天皇を追加しなかった

そこに天智天皇の位牌が無く、光仁天皇から始まる

というなら、別の事情も考えられそうだが

意図的に外したとしか思えないのである

それ故、持統天皇が天智天皇の娘という説に疑問が出る

系統から言えば、持統天皇は天智系であり、文武天皇も

持統天皇の孫、母親も天智天皇の娘(元明天皇)であり

紛れも無く「天智の血統」なのである

「天智系でないから外した」のでは無いことは明白である

考えられる可能性は・・・・

持統天皇は天智天皇の娘ではなかった

天智天皇は架空の天皇だった

皇極帝から天智帝までは何者かの創作だった

酷い仮説なのは百も承知である

後世の朝廷すら、手を出さなかった「御寺」の謎は

不都合な真実を知っているからこそ、正さなかった

そう考えるのが一番すっきりする

欠史8代の天皇すら容認するのに、どうして天武・持統

系の8人の天皇を否定するのか謎でしかない。

                  

◎  持統天皇から始まった (女性天皇) 

気づけばいつの間にか、天皇の話題に進んで

神さまが見えなくなってしまった

以前もこういう状況になったことがあり

つらつら考えるに、ちょうどこの時代(大化の改新)辺りから

神さま(神道)が希薄になったのか?

それともこの希薄さが本来の神道の姿なのか?

本来祭祀王だと思っていた天皇が、仏教信徒になり

神道色が薄れたからなのか・・・・・・。

祟りを鎮める場所、封じ込める場所が「神の杜」から

「仏の堂」に代わった時代と言うことだろう

その「神の杜」の軽視を逆手にとって、権力を使い

最高の政治手法として利用したのが、持統天皇では

なかったのか・・・。

持統朝以前の神社の「意義」と、持統朝以降の神社

の「意義」は全く別物になった可能性もある。

そのきっかけは「伊勢神宮」を舞台にした、祭神の交替

不確かでしかなかった皇統の歴史整備を、「神話」に織り込み

尚且つ、自身の皇位継承の正当性(正統性)を主張した

この時代の真実は、地方に残る「言い伝え」、神社の「由緒」

に残されているように思えてくる。

見方を変えれば、神道が宮廷(皇親・貴族)の手から、庶民の

手に戻ったのが、持統天皇の時代以降ということも考えられる。

少なくとも、「日本の神社」を今の形に近づけたのは、持統天皇

だったように思う。


天武と持統・・・

私は「称制」というものは、存在しなかった気がしている

当時の天皇は今以上の権限を持ってはいたはずだが

やはり「象徴」「国の祭祀王」という存在だったように思っている

いわば象徴の座を「空位」にする理由が見つからないのである

もし、称制といわれる状態が続いたとしたら、それは「内乱状態」

であり皇位継承が上手く行かなかった事になる

称制をとったという事は、即位に反対する大きな力・障害があった

ことの証明ではないか

天皇位を継承するに足る「資格」に何らかの問題があり

その障害を排除するのに、年月を経なければならなかった

実務は群臣たちが切り回していたはずで、天皇の決済は

追随する形でも機能したと思っている。

その機構を根底から覆すものが、女帝の出現だと考えている。

称制をとった天皇こそ、「即位の資格」に何らかの問題があった

暴論と言われそうだが、私は皇統男子をもって継承するという

本来の「万世一系」の不文律を、壊したのは「持統天皇」だと

思っているのである。

日本の皇統の歴史は「持統天皇」から、初代が誰とかいう事ではなく

系統付けて万世一系の姿かたちに創作したのは彼女だった

私は持統天皇を見つめたい・・・・。

                  

◎  天智天皇の謎 (番外2) 


倭姫王 (生没年不詳)

古人大兄皇子の娘、天智天皇の皇后、母親は不明

持統天皇の父親の「后」について、殆んど伝えられていない

専門家が物差しとして崇める日本の正史「日本書紀」という

歴史資料の現実である。


梅原猛氏の言葉を借りるならば、古代史の学説というのは

如何なるものも「仮説」に過ぎない、正しい仮説と言えるのは

事実や文献と矛盾することなく、そう考える事によって、今まで

よく解らなかったことが、いっそう明白に説明できる学説を言う。

至極明言だと思う・・・。

その仮説を導き出す過程において、文献の吟味・取捨選択も

重要な役割を持っていると私は考えている。

矛盾も疑問も、本を糺せば「基準が何処にあるか」によって

見え方が異なってくるものではないか・・・と思っている。

古代史に暴論、正論、通説、逆説、異説は常識であるはず

長屋の爺の自説は「暴論」か「異説」か、はたまた「狂説」か?

読者の物差しに委ねたいと思っています。


古人大兄皇子は「謀反の罪」で天智天皇の指示によって誅殺された

皇子が祟って出た形跡が無いところから、「冤罪」とは思えない

それより謀反を企てたなら、敗者の弁と言うべき「由緒」「言い伝え」

が有ってもよいのに、墓所が松本・小丸山古墳じゃないか程度のもの

神社にいたっては、松代・熊野出速雄神社 に配祀 されているだけ

なぜ?長野なのか・・・・・不思議である。

唯一、生きていたと想定される材料が、書記に書かれた

「韓人が鞍作臣を殺した 私の心が痛い」の言葉だけである

妃の名も知れず、娘といわれる「倭姫王」も居たのかどうか

雲を掴むような・・・とは、このような事か

これが天智の娘たちが書き残した「正史」の実体である。

天智天皇は病死したことになっているが、沓塚の存在が

不審死を暗示し、行方不明なら国を挙げて捜索するのが常識

この謎は正面から見ていても埒が明かない気がするのだが

単なる暗殺事件とも考えられず、未だに謎のままである。

とにかく、持統天皇までの、女帝の即位は疑問だらけで

腑に落ちないことが多い

次は天武天皇か、さらに女性天皇か、謎に事欠かない

古代史である。

                  


◎  天智天皇の謎 (番外1) 


 正史が記述した人物を「架空」と言うのも気が引ける

しかし、無理やりこじつけるような通説では、納得しろと

言うほうがどうかしてる

日本書紀の記述には、そう思える部分が沢山あるのだ


筆頭は中臣鎌足、彼以上の胡散臭い人物を聞いた事がない

そもそも彼を「藤原鎌足」と呼ぶのは腑に落ちない

彼が最初に登場したとき、「中臣鎌子」と呼ばれていた

ところがしばらくして「鎌足」と称するようになる

亡くなった時は「中臣鎌足」である

藤原は死後に送られた「姓(うじ)」であり、鎌足本人に授けられた

藤原姓という事なのである。(私個人は否定している)

その鎌足の息子(不比等)が手がけた「日本書紀」に鎌足の

生年月日が明記されていない

鎌足の死去時、不比等は13歳であり、生前の父親の記憶もあり

生年月日くらい知っていても不思議は無いはずだ

正二位・右大臣まで昇った「不比等」の父親について

口を閉ざす真意はどこにある?

日本の古代史上唯一の「大職冠」を授かった貴人なのに・・・


私は中臣鎌子という名前は、ちょいと拝借した仮の名だった

ところが、100年前の欽明帝時代の群臣「中臣鎌子」では

差しさわりが出たため、鎌足と改名したのではないか

近代の「背乗り」と同じ事が行われた可能性もある。

ではなぜ私がそのような私見を書くかというと・・・

日本書紀における、天智天皇の「白村江」での数少ない

記述に、「百済皇子で人質としてヤマトにいた豊璋を

百済王として擁立するにあたり、【職冠(大職)】を授け

軍勢五千余を付けて百済に送り返した。」

その後、ヤマトでは「中臣鎌足」の消息は途絶えてしまう

「掻き消えた」という表現をするくらい見事に存在が消えている

そして、鎌足に与えた国内唯一の「大職冠」を百済皇子「豊璋」

に与えている、いわば唯一が二人居たことになる

「鎌足」と「豊璋」が同一だとすれば、死後に送られた職冠ではなく

白村江の戦いに際し、はなむけに贈られたものだったということに

なってしまう。

機会があればこの件も、もう少し考えてみたい。


次は「古人大兄皇子」である

乙巳の変の後、邸に逃げ帰り 「韓人が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した

私は心が痛い」 と言ったとされる。

そして直ぐ後に、出家し吉野山中に隠棲する

これと同じ事が直ぐ後に起こっている

天智天皇の崩御直前、大海人皇子が突然出家し吉野山中に

隠棲した、ともに天智帝を恐れるように・・・・

いや・・・天智帝と藤原(中臣)の次の行動を察していたかのような

素早い行動なのである

ちなみに、乙巳の変では「大海人皇子」の姿形が見えない

三人の皇子のうち、仲大兄皇子と古人大兄皇子の二人だけ

どうにも解せない状況である

もしかすると、古人大兄皇子=大海人皇子 という仮説も

有りなのかもしれない

一説によれば、大海人皇子は弟とされているが、年上である

ということも実しやかに囁かれている

「大兄皇子」とは大海人皇子の事だったという仮説(妄想)だ

古人大兄皇子は、古人皇子とも古人大市皇子(おおちのみこ)

亦の名を「吉野太子(よしののひつぎのみこ)という名前だった

娘が天智の皇后だったとされ、その娘「倭姫王」の生没年が

これまた不詳なのである

天智天皇の皇后(大后)であるにもかかわらず・・・・・。

そして、謀反の罪で天智帝に責め殺されたという古人皇子だが

冷静に考えれば、第一皇位継承候補はやはり、大兄である

古人大兄皇子である

謀反を起こしてまで皇位に執着していたのか?

出家までして逃げ出した人間の行動ではないと思うのである


一人の人物を複数の人物の歴史に、複数の人物の偉業を一人の

人物の手柄に書き換えた、そういう解釈も出来るのである。

 (つづく)

                 


◎  天智天皇の謎 (3) 

天智天皇は病に倒れ、その病床に大海人皇子を

招き、皇位継承を促したが、皇子はこれを辞退して

出家し吉野に隠棲した。

病状が重かったという天智天皇だが、近江宮で崩じた

という

ところが、平安時代に書かれた「扶桑略記」には、天皇は

行方不明になったとある

探したが、履(くつ)が片方だけ見つかったらしい・・・・

消えた天皇、天智天皇とは何者だったのか?

孝徳天皇の皇太子だったとされているが、どうも生きている

人間臭さが感じられないのである

もしかして「天智天皇」は虚像だったのか?

天智天皇の架空説もあるくらいなのだ

天智天皇の系譜が、矛盾に満ちている事も一因だが

天智天皇が実在する事で、「利」を得るのは紛れも無く

「藤原不比等」という事が、大きな意味を持つ

藤原の正当性、持統天皇の不可解な即位

天智天皇の最高の理解者・協力者は「中臣鎌子」であり

天智帝から、「藤原姓」と「大職冠」を授かった忠臣一族だ


天智天皇が架空なら・・・・・

持統天皇はいったい誰なのか?

天智帝の娘という通説も揺らいでしまう

皇位継承資格の要因は、天武帝の皇后と天智帝の娘と

いう二つの身分が担保なのである

この件はいずれ書いてみたい・・・。


さて、天命開別尊という和風諡号を付けられた天智天皇

この諡号が問題なのである

天命開別とは天帝の命令によって、全世界を支配する皇帝

の事で、この意味は「王朝を開いた特別な人」ということだ

王朝を開いた初代皇帝、「王朝の始祖」といったところだろうか

考えてみれば、日本書紀には「初代天皇」が多く出てくる

神武帝、応神帝そして天智帝・・・・

女帝が絡む皇位継承には、少なからず捏造とも思える

多くの矛盾が見える

天智帝は実在したのか?

天智帝は病死だったのか?

天智帝は暗殺されたのか?

天智帝の遺骸は何処に消えたのか?

疑問は尽きないのである (続く)

                

◎  天智天皇の謎 (2) 


皇極天皇が譲位を発議した時、皇位継承候補である

三人の皇子は揃って「固辞」したという

* 中大兄皇子は中臣鎌足の忠告(兄皇子や叔父

  を差し置いて若輩の自分が継ぐのは善くない)

  に従い固辞した

* 古人大兄皇子は出家し、皇位継承権を放棄した

* 軽皇子は古人皇子こそ舒明天皇の皇子で年齢も

  申し分なく、皇子が皇位を継ぐべきだと固辞した

絵に描いたような「美談」であり、天智、孝徳天皇が

人間的に優れた徳を持っていた

そのように言いたかったのだろうが、かえって逆効果で

すでに継承権を放棄し出家した古人皇子を持ち上げるなど

姑息な記述に思えるのだ

ここでも、「死人に口なし」で、古人皇子の真意は不明である

本来なら、蘇我系の皇后の第一皇子が、継承することは

必然であり、どこからも異論が出ることなど無いはずだ

私はそれが怪しいと感じる

身の危険を感じるほどの策謀が察せられたから、古人大兄皇子

は出家して、身を引いた・・・・・。

あれ? この話どこかで聞いたことが・・・・

天武天皇が吉野に出家し隠棲したことと同じである

つまりは、天武天皇の逸話の「焼き直し」なのかもしれない

この後、古人大兄皇子は吉野山中で出家していたが

謀反の罪で中大兄皇子によって殺され(絞殺)たのである。

皇位継承~出家~吉野山中~兵を差し向ける

コピーしたように、「大海人皇子」と「古人大兄皇子」は

同じ経歴を共有している

唯一違いが有るとすれば、大海人皇子は天武天皇として

勝ち残り、古人皇子は理不尽にも殺された敗者である。


とにかく「日本書紀」は天智天皇に関し、陰謀をめぐらし、

罪無き人を殺める「非情な人間」を匂わせるような記述

は皆無なのである

辻褄が合わないことが多い日本書紀

その中において、徳が高く慈悲深く、自ら剣を手にする

「武」の人、大化の改新で観られるような「文」の人という

印象の「ヒーロー像」に仕上がっている。

虚実混じりあった「天智天皇像」の中から

一つでも多くの真実を拾い集めたいと思っている

(つづく)

                 

◎  天智天皇の謎 (1) 

ある程度の年齢になった人が、古代史に興味を持ち、

眼にする「文献」の中に書かれている内容に少なからず

驚く事が多いものである

私も小さな「ショック」をうけた一人であるが

学校で習った事がすべて史実で、動かしようの無い

検証された通説(常識)だと、信じて疑わなかった

とくに天皇家に関する題材は、日本人なら意識の底に

強い「不敬」というものが邪魔をして、疑う事をよしとしない

傾向にあるものだ

それでも私は純粋に、知りたいのである

(お隣の家庭の諸事には興味は湧かないが)

日本という国の「古代史」に、言いようのない好奇心が

勝手に暴走する・・・・古代史中毒の長屋の爺である。


諱、贈名、諡号というものがある

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、名を 葛城(皇子)

和風諡号は、天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと )

漢風諡号は、天智(天皇)である

中大兄皇子の「大兄」とは、天皇の同母兄弟の中の長男に

与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」とは

次男を指して使う呼び名である

ここで疑問・・・・

彼は「皇極帝」の長男であり、本来ならば「大兄」と呼ばれて

当然である、なぜ「中大兄」だったのか?

通説によれば、古人大兄皇子が第一皇子で、長男にあたり

それに次ぐ皇子ということで、「中大兄」だったという

これも騙りでしかない・・・・

古人大兄皇子はたしかに舒明天皇の第一皇子であるが

母親は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)

つまり、同母弟ではない天智帝が「中大兄」と呼ばれるのは

解せないのである

さらに天智の皇后は「倭姫王」、古人大兄皇子の娘だという

とにかく不可解な事を取り上げると、きりが無いくらい謎の

多い天皇なのである

まずは天智帝の第一皇子「大友皇子」の母親が定かではなく

大友皇子の弟妹も「書記」に掲載は無く、疑問視されている

皇太子である第一皇子の生母が不明と言うのもどうなのか?

大友の皇子が天智帝の子だったかどうか、疑いたくなってくる

常識で言うなら、次期天皇と目されていた皇太子の母親を

正史は口をつぐみ、他の嬪、夫人、采女、宮人が正確に伝えられ

ていることから観ても、惚ける理由が思い当たらない・・・。

続きは次回に・・・(つづく)

                   


◎  天智天皇と乙巳の変・大化の改新 

天智天皇 彼は通説が「独り歩き」している天皇だ

彼のイメージは、蘇我入鹿の首を刎ね、大化の改新

を主導した「英雄」として認知されている

はたして本当だろうか?

私は「中大兄皇子(天智天皇)」が、実際に乙巳の変

において、直接手を染めたのか、疑っている。

人を殺める行為は、「穢れ」に触れる事であり

王位継承をめざす皇子は、絶対に人を殺めてはいけない

という不文律が、当時は歴然と生きていたと考える

皇位継承できなかった理由が「穢れ」だったのか

それ以外の「資格」が無かったのかは不明だが

大化の改新といわれるものも、彼が主導したとか

発案したとかという事実は何処にも見えない

日本書紀にも、一つだけ孝徳天皇の諮問をうけて

奏上した事が記されている

これは諮問をうけて、それに答えただけであり

積極的に改革を推し進めた形跡は皆無なのだ

ところが、歴史は天智天皇と藤原鎌足が大化の改新を

成し遂げたと、誤解される説を広めている気がする


乙巳の変において、蘇我親子が皇位を奪おうとしている

とか、権力を欲しいままにし、天皇を疎んじているなどと

皇極天皇に進言しているが、そのような事実があれば

天皇自身が知っていておかしくは無い話であり

その場面で天皇は、中大兄皇子に対して言った言葉が

「いったいこれは?どうしてこのような事をしたのか?」

そう記されている。

天皇が蘇我蝦夷・入鹿親子に危惧を感じていたとは

到底思えないのである。

その後の譲位は、身の危険を感じ(中大兄皇子に対し)

皇位を投げ出したとも考えられるのだ

これが乙巳の変という、謀反でありクーデターと呼ぶべき

ものだった可能性もある

もし通説の通りならば、皇統存続の危機を救った彼が

勲功を評価され、次期天皇に就くのが当然なのである

それどころか、人臣は冷ややかな態度だったという

辞退する理由も希薄であり、即位できなかったという

のが本当のところかもしれない


ではなぜ蘇我本宗家を滅ぼしたのか?

皇后家である「蘇我本宗家」が健在なら、皇位継承は

限りなく不可能であったのか?

だが、彼は皇極天皇の皇子であり、黙っていても時が

くれば、皇位は手に入ったはずである。

あくまでも、皇極天皇が女性であり、母親だったらという前提

の話なのだが・・・・

皇位継承に危機感をもつ理由は、皇極帝の皇子ではなかった

という仮説からなら、いくらでも説明がつく話なのである。

何十年待っても、皇位は転がり込んでこない境遇とは

いったい何だったのか?

次回も天智天皇を考えてみたい・・・。

        
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◎  斉明天皇と天智天皇の謎 

斉明天皇が崩御したのは、飛鳥岡本宮ではなく

遠く離れた朝倉橘広庭宮(福岡県)であったという

しかし、葬られたのは奈良・越智崗上陵である

朝倉橘広庭宮は、わずか二ヶ月間の間「都」だった

ことになる

朝倉神社の木を勝手に切って建てたので、怒りを買い

建物が崩壊し、多くの人が病に倒れたともいう

これも解せない話なのである。

遷都するのは「相応の事情」があり、尚且つ「相応の代償」

を伴う問題である

百済を助ける為に、都を九州に移して、民族の大移動の如き

大遷都を実行したのかどうか

それにしては、歴史の中に埋没しているように見えるのは

私の思い過ごしだろうか

平城(なら)から平安(京都)に、遷都するときにも多くの

犠牲を強いられた、規模は違っても「遷都」に変わりは無い

どのくらいの人数で、どの様な引越しが行われたのかは

日本書紀には詳しく記されていないようだ

この遷都は、すでに百済が滅んだ後に行われた

新羅の侵略に備えるためと言われているが、はたして

侵略に備えるための遷都なら、戦争の最前線に国の中枢を

移した事になり、理解に苦しむのである。

私は「斉明天皇」は筑紫には「行かなかった」と思っている

当然、遷都など行われず、仮宮としての造営はあったものと

考えている

そして・・・斉明天皇は実在しなかった

私の個人的な妄想でしかない・・・・・

もし・・・遷都が強行されたのであれば、天皇を

謀殺してから、行われたものであり

また、斉明天皇という「天皇」が実在したなら

その人物は「有間皇子」ではなかったのか?

皇位継承候補にすら挙がっていなかっただろう

中大兄皇子であるが、即位できなかった理由は

母も伯父も「皇子・皇女」の資格が無く

当然、彼の出自も怪しかったからではないだろうか

即位しなかったのではなく、資格が無かった

彼の即位前の行状は、反乱・謀反に等しいとも

思える言動が多いことから、謎だらけの「天智天皇」

といえる

私は「天智天皇」は、即位していなかった!

そう思っている

天智天皇と言う「虚像」は、藤原不比等にとって

藤原一族の正当性を印象付ける「主役」に選ばれた

それが、藤原姓と鎌足の「大職冠」であるのだと思う

その根拠は、天智帝の名が「葛城皇子」であり

神功皇后の新羅討伐に将軍として派遣された人物の

「葛城襲津彦」を連想させるもので、新羅討伐という

共通事案を考慮し、葛城の皇子を作ったのではないか

彼が忽然と消えた理由も、暗殺若しくは自然消滅としか

考えられない状況が残るだけで、謎だらけの天皇と言える

以上が私の「天智天皇は即位していない」、さらに

「皇極・斉明天皇は別人である」という自論であり

あくまでも、私の「妄想」で、偏見と思い込みの推論

裏づけるものなど一切ないのが本当のところである(笑)

                 




◎  疑惑の女帝・皇極天皇 

「死人に口無し」

あまり良い言葉ではないが、敗者には弁明は

許されないという意味だろう

蘇我入鹿は何を語りたいのか・・・・・

乙巳の変で、蘇我入鹿の首を刎ねられた「絵」を

見た方もいるだろう

古代、倭では「人の死」は【穢れ(けがれ)】であり

忌むべきものだった

御簾を隔てていても、天皇の面前で「誅殺」された事

は、天皇に降りかかる「穢れ」であったはず

皇極天皇の心中はどうだったのか?

乙巳の変の後、皇極天皇は天皇位から身を引いた

同母弟である「軽皇子」に天皇位を差し出した、あるいは

譲り渡したと言うべきか・・・・。

これが日本史上最初の「譲位」とされる

明治以降、常識となっている、天皇の即位手順は、先帝の

崩御によって、皇位は継承される

じつは、原則的に36代天皇から120代天皇まで、先帝崩御

に伴う皇位継承はあるが、譲位というものが朝廷で認められて

いたがその最初が、皇極~孝徳 というバトンリレーなのである。

そこで、鋭い方はお気づきかと思う・・・・

皇極帝は本来「皇女」を名乗る立場に無かったと前回書いた

その皇極帝の同母弟ならば、条件は同じであり、孝徳天皇は

「軽皇子」と呼ばれるのは甚だ不可解なのである。

「軽王」「軽大兄王」というなら理解できるが・・・・

この孝徳天皇の即位も、何か裏がありそうである

(これについても、機会があれば書いて見たい)


私は皇極~孝徳~斉明~天智という流れは捏造、または

改竄された系譜ではないか、そんな根拠の無い妄想を

抱いているのである。


専門家の先生は、当時の天皇の即位は、群臣の推挙(合議)に

よって、はじめて成されたものだったという

その合議・推挙の根底にある「和」の精神は、いつの時代にか

廃れて「有名無実化」していたとは、考えられないだろうか?

天皇家と大王家というような、権力を二分する構図があっても

不思議ではない、私はそう考えている・・・。

万世一系にばかり拘ると、見えてこないものがある

万世一系は神祀りの系譜であり、血の系譜ではない

祭祀王の系譜は間違いなく、万世一系として、今に伝わっている


乙巳の変に到る当時の状況は、史書などを観ると殆んどが

蘇我氏の専横を糾弾するものばかり

上宮(かみつみや)家などの苦言や訴えなどを大きく取り上げ

蘇我氏に繋がる上宮家(聖徳太子の子孫)まで、異を唱えていた

と主張する

その中で、特に目を引くものがある

蘇我入鹿は「上宮の王」を廃して、古人大兄皇子を天皇に

擁立しようと謀ったという

それでは、乙巳の変の直前は、上宮の王(山背大兄王)が

次期天皇候補の筆頭だったという事になる

あるいは「廃し」とあることから考えれば、山背大兄王は

このときすでに「立太子」されていたか

もっと言えば、すでに即位していた可能性も否定できない

「廃し」の意味するところは、謎に満ちているのである。

これが私の「山背大兄王」は即位していた・・・・の論拠である。


皇極~天智の時代をもう少し調べてみたい。 

                 


◎  女性天皇のミステリー皇極帝 

日本の女性天皇に纏わる「謎」

最大の謎は持統天皇だと思うのだが

不可解な即位をした女性天皇は他にもいる

推古天皇、皇極天皇、元明天皇など・・・・

推古天皇については、以前にも少し触れたので

今回は皇極天皇を考えてみたい


第35代 皇極天皇

この女帝も「生年」が不詳である

崩御した年が明確であるのに、生年が不詳とは解せない

皇極帝だけなら、たまたま抜け落ちた、不確かな資料しか

残っていなかった・・・・となるが、あの天智天皇の母という

事を考えれば、正史が書き落とすわけなど有り得ない

そういう立場の女帝だったというのが通説である。

諱は「宝皇女」といい 敏達天皇の血筋といわれ

34代 舒明天皇の皇后だったという

舒明天皇の父親は、敏達天皇の息子・押坂彦人大兄皇子

母親は押坂彦人大兄皇子の異母妹(糠手姫皇女)である

そして皇極天皇は押坂彦人大兄皇子の孫という。

正確には、伯父と姪の関係である

有り得ない話ではないが、どうも釈然としない

その舒明天皇の「生年」も不詳であり、崩御の年だけがわかっている

橋の下の「小屋」で生まれた、ヒトデナシの子供とは違うのだ

やんごとなき高貴な生まれである、天皇の生年が不詳と言う理由

一つなら「たまたま」、二つなら「偶然」、もっと多ければ「謎」と言える

いや   これは何者かの「意図」を感じてしまう

29代~34代の天皇と后の系図を見ると、言いようの無い不可解さを

感じてしまう

スサノオとその娘、大国主との関係系図を観たときと同じ印象

細工がしてある・・・(あくまでも私の直感でしかないが)


皇極天皇がなぜ、即位したのかという単純な疑問

皇太子といわれた「中大兄皇子」は謎が多い

彼が皇太子として、立太子したという記述は一つしかない

それも正史ではないから、信憑性も今一である

誰もが立太子されていたのに、即位を辞退したと思い込ん

でいた、ところが立太子そのものが不確かとなれば、即位

しなかったのではなく、即位などできなかったとも考えられる

では、皇極帝は適任者が居なかったから、仕方なく即位した

あるいは、19歳と若かった中大兄皇子の「繋ぎ」として即位

したのか?

それも有り得ない話だ、皇位継承候補者は数多いた

古人大兄皇子、中大兄皇子、山背大兄王、軽皇子と

適齢期の四人の候補者が居た

複数の候補者が居て、争いが起こるのを回避するため

やむなく皇極天皇が即位した・・・という説もある。

後出しじゃんけんのような説としか思えない。

そもそも、↑で書いた「宝皇女」という諱からして

不可解極まりないことなのである

皇極帝は父親が敏達天皇の孫、母親が欽明天皇の孫

ということは、「日本書紀」のいう、即位前の皇極帝の

諱に「皇女」がつくのは異常なのである

本来ならば、「宝女王」若しくは、「宝姫王」といわなければ

いけない。

 (天皇の娘だけが皇女を名乗る、現代の内親王
 
  に相当する名称だから)

「語るに落ちる」とはまさにこのような事か・・・・・。


私は蘇我本宗家の滅亡後に書かれた歴史のミステリー

は、女帝といわれる天皇即位、その履歴に凝縮されて

いると思っている。


皇極帝が女性天皇ではなかった可能性は否定できない


本当は皇位継承候補者の誰かが即位していた

皇極天皇と斉明天皇は別人だった

山背大兄王は即位していた

天智天皇は即位していなかった

大友皇子は即位していた

私が考えているこの時代のミステリーは

以上のようなものである

引き続き 女性天皇を考えてみたい (つづく)

                

◎  伊勢の祭神の謎 (2) スサノオ 

与謝野晶子の未発表の歌(二点)が見つかったそうだ

くれなゐの 牡丹咲く日は 大空も

       地に従える こゝちこそすれ

春の夜の 波も月ある 大空も

       ともに銀絲の 織れるところは


たぶん・・・良い歌なんだろうと思う

私にはその才が全く無く、コメントすら適わない(笑)


さて前回は、アマテラスが巫女で、神を待つ身であった

そう書いた、では誰を待っていたのかという疑問が湧く


アマテラスの神話から想像するに、誓約(うけい)という

男女の性交に似た「儀式」をしたというスサノオが脳裏に

浮かんでしまう。

馬の皮を剥ぎ、機織小屋に投げ入れたことから、アマテラスは

機織女でもあった

スサノオとは、蛇神であり、荒ぶる神、しかも太陽神でもあった

そういうことも考えられる。

そもそも太陽神と蛇神は同じと、古代では考えられていた

脱皮して生命を永らえさせる姿と、夕方に消え(沈み)、朝に

再生(昇る)する姿を同一視していたのである

となると、太陽神=蛇神 ならば、スサノオは蛇神であり

太陽神という事になり、アマテラスは彼を待つ「巫女」だった

という事になるのではないだろうか

そうすると、スサノオとは大物主ということなのか?

大いなるモノの主とは、太陽神・スサノオのことだと

断片的な論理の組み立てによって、「微かな姿」を見せ始めた。

出雲大社の秘された祭神は「素鵞社(そがのやしろ)」の祭神

素戔嗚尊であり

伊勢神宮の秘された祭神は「太陽神」である素戔嗚尊

そして、三輪山に古より祀られていた大神神社の祭神である

大物主はスサノオの事だったとすれば

祟る「出雲」「伊勢」「三輪」に合点が行くのである。

ではどうして、太陽神である「スサノオ」ではなく、神を祀る

巫女である「アマテラス」が太陽神になったのか

なぜ太陽神であるスサノオが祟るのか?

伊勢の成り立ちと、天武朝~持統朝における数々の逸話

に、持統天皇の思惑(藤原の思惑)が大きく関わっていると

いうことだろう

実子ではなく孫を後継にした正当性

男子を持って皇統を継ぐという不文律の変更

実際の皇祖が不明になる事すら省みない策謀

本来の皇統である者なら、けっして侵さない領域の

不始末に、釈然としない気持ちが残ってしまう。



持統天皇は実在したのか?

持統天皇は通説通り「女性天皇」だったのか?

意図的に皇祖を変えたり、神では無いものを神として

捏造したというなら、持統天皇も天智帝の娘ではなく

皇統以外の出自だったと考える事もできる

もっと言えば、天智天皇にすら眼を向ける必要が生じる


日本の最初の女帝という説もある

推古、皇極帝は架空の天皇、あるいは男子天皇を改竄した

虚像という説まである

持統天皇の周辺を、もう少し調べてみたい・・・。

                  


◎  伊勢の祭神の謎 (1) 心御柱とは 

古代日本では、神は年に一度、山に降りてきて

川を下り、人々の住む国を訪れると信じられていた。

そのために川辺の清浄な場所に、小屋(湯河板挙)を

つくり、神の妻となる処女を住まわせ、神が訪れる

のを待ったという。

この女性は「棚機津女(たなばたつめ)」と呼ばれ

神の衣を織り、それを着て神の「一夜妻」になった

そのことから、女性は「巫女」であり、訪れる神は

蛇の姿をしている「男神」だったとされている。


小屋で男神の訪れを待つ女性・・・・

倭迹迹日百襲媛命」の神話を連想させる

箸墓古墳の被葬者と考えられている姫皇女である

待つ相手は「大物主神」であり、「蛇神」であった。



話は変わる・・・

京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神事のひとつ

「御阿礼神事(みあれしんじ)」がある

これは秘儀で、神社でも五人しか内容を知らされない

神事だという

その内容は・・・

【神が天から降臨するとき、舟に乗って大空から上賀茂神社

の北北西にある神山(こうやま)の山頂に降りる。

そして麓まで下りてきて、人々が用意した「阿礼木(あれき)」

という樹木に憑依する

その後、人々はその阿礼木を川辺まで曳いて行く

神はそこで木から離れ、川に入って姿を消す。

これを「神の御生(みあれ)」と呼ぶ。

このとき、神を祀る巫女も川に入り、御生した神を

すくい上げ、神と一夜を過ごす妻となる。】


驚く事に、かつては「伊勢神宮」でもこれと同じ事が

行われていたといい、その「阿礼木」こそが、正殿の

中央の床下に立てられる「心の御柱」ではないかと

考えられていると言う。



アマテラスも小屋で「機を織っていた」・・・・

この記述からすると、彼女も神の訪れを待つ「巫女」

だったという事になり、アマテラスが機織りをしながら

待った神とは、いったい誰だったのだろう・・・

その相手が「外宮」に祀られている神なのか?

伊勢の祭神をもう少し考えてみたい (つづく)

                  


◎  伊勢の祭神と大物主 

伊勢神宮の不思議について、何度も書いてきた

今回は「祭神」について考えてみたい


伊勢は祟る・・・これは間違いなく祟り神だ、正史にも

ちゃんと書いてある。

崇神天皇の時代、宮廷内に「天照大神」と「倭大国魂」が

祀られていた。

天皇は神の「勢い」を恐れ、別々に都の外で祀る事にした

天照大神は流浪し「五十鈴川」の辺・宇治の里に落ち着いた

一方、大国魂を祭った「ヌナキイリヒメ」は髪が抜け、やせ細り

祀る事ができなかったという。

そうしているうちに巷では、疫病が蔓延し人口が半減する事態となり

天皇自ら「八百万の神」にお伺いをした結果

大物主が現れ、「私を敬い祀れば平穏が訪れる」と言い

大田田根古に祀らせて、ようやく国が安定したという。

故に、三輪と伊勢は間違いなく「祟る神」なのである。


鎌倉時代まで、天照大神は「男神で蛇神」だと信じられていた

皇大神宮(内宮)の神は「蛇」で、斎宮(巫女)はその后だという

細かい事は後にしても、アマテラスには妻が居たのである。

女神に妻は必要ないとなれば、祭神は男神としか考えられない

「通海参詣記(つうかいさんけいき)」

「元長修祓記(もとながしゅうばつき)」にも書かれている。


ここで疑問に思うこと、アマテラスが女神であることは

持統天皇の時代に定められていたのではないのか?

日本書紀が世間に周知され、正史として読まれていたなら

このような風聞は広まらないだろう?

日本書紀そのものに、疑いを感じる原因はまさに此れにある

皇大神宮は「女千木」であり、女神を祀っているといわれる

そう言っているのは「持統朝」と「藤原氏」である

祟り神であるアマテラスの、「性別」を偽る真意が解らないし

蛇神だったとすれば、三輪山の大物主とも共通するのだ

もっと複雑な「隠し事」があるようだ・・・。

ふと、思い出した・・・

能の「三輪」の最後の部分で、こういう台詞があった・・・

 「思えば伊勢と三輪の神。

 一体分身の御事。

 いわくら(磐座・言わくら)や」
 


これを信じるなら、伊勢に祀られている「神」とは

大物主という事になる。

大神神社は今でこそ神社らしい体裁を見せているが

現在の拝殿は寛文4年(1664年)に造営されたものであり

それ以前は三つ鳥居(三輪鳥居)とそれに続く瑞垣がある

だけだったという。

御神体は「三輪山」であり、相当古くからこの地にあった

「神さまが降る里」のようだ

「オオミワはんは、ジンムはんより先だ」 という言い伝えが

あることから、【大田田根子に祀らせた】という記述がどうにも

信じがたい 

おそらく記述どおりなら、別の場所の「三輪」に祀ったとしか

考えられないのである。


次回は伊勢の祭神と心の御柱を考えたい・・・・。

                  

◎  持統天皇の使命とは・・・・ 

持統天皇を現代の女性に例えると・・・・

ヒラリー・クリントン?

夫が元大統領、自身は現在次期大統領候補・・・・

もし彼女が大統領になったとすれば、これは米国版

持統天皇と呼べるかもしれない(笑)

私達は持統天皇を語るとき、天武の后という視点で見てしまう

この発想を変えてみると、どうなるだろう

天智天皇の娘  この言葉が一番しっくり来る

天武天皇とは、単に「天智天皇の娘婿」という事になる

天武天皇(大海人皇子)は、乙巳の変で一切登場しない

過去の文献を信じるなら、持統天皇が嫁いだのは13歳

当然、乙巳の変のときは、産まれたばかりか、産まれる前

であり、大海人皇子は、乙巳の変当時の年齢も不明である

持統天皇は天武天皇の妃と言う立場から、皇后という立場に

上ったのは必然だったのか、それとも・・・・・。

天武天皇は天皇家の娘を妃にすることで、自ら天皇に就くこと

を欲したのかもしれない

それが危うくなったとき、実力で皇位奪取に動いた

壬申の乱とは、そういう事ではなかったのか・・・

私は持統天皇の立場から考えれば、夫であった天武天皇が

皇統ではなかったと言える訳が無く

やむなく天智の弟という筋書きを考えたと観ている

それが天武天皇の生年不詳の真実だと思う。

持統とは「皇統を維持する」の意味で、後世に付けられた諡号

正当な皇統に戻す事が主命でありながら、藤原の力を頼ら

なければ、成しえなかった現実がそこにあった

そのためには「強い天皇」「気高き女帝」の姿を見せること

その主役に選ばれたのが、「アマテラス」だった

皇統は男子を持って継ぐ、皇后は「素戔嗚尊の子孫」の

女子をもって継ぐことの皇祖の遺志を違えたのは残念だ

藤原が自ら天皇に就く事を欲しなかったのは、天皇を

自分の思うままに操る事の悦び、天皇以上に「権力」を

有する忠臣であることの実利、そして「蘇我氏」にとって

代わる優越感が、藤原を存続させる処世術だった。

最上位の天皇は、堕ちることがあって別の主が誕生して

も、それを支える「ナンバー2」の権力は、やり方によっては

不変であるという理屈だろう。

それが「蘇我氏」が行ってきた「外戚」というもので

天皇の母を作ることが、権力を生むことを本能的に承知して

いたのではないだろうか・・・・。

何を信じて、何を否定するかは個人の問題だが

人間は、好む好まないを問わず、論理的な行動をするもの

私は常々、そう考えている。

 物事には必ず「理由(わけ)」がある 

                  

◎  持統天皇と藤原姓の謎 

持統天皇は「伊勢神宮」を今の形に定めた、賞賛すべき

神道の祭祀王というイメージがある。

さらに持統天皇は天武天皇の遺志を継いで政を行った

という解釈が通説だが、私は否定的な見方をしている。

天武天皇は皇親だけで政治を行い、大臣も任命しなかったという

ところが天武天皇の遺志を継いだはずの持統天皇は、太政大臣

や右大臣を用いて、官僚制度に戻したのである。

その中に「中臣(藤原)不比等」の名前も出てくる

私は本来、藤原姓は「鎌足」個人が、「一代限りの姓」を賜った

そういう解釈をしている。

乙巳の変の「恩賞・褒賞」という考え方である

その持統天皇が都を「藤原京」の遷都し、不比等の

意向を受けて、一代限りだった「藤原姓」を中臣不比等に

与えたのではないかと考えている。

いや・・・もしかすると、そもそも鎌足は藤原姓など授かって

いなかった可能性すらある

藤原姓の最初は、持統天皇に取り入り、藤原京遷都に

あやかって不比等が藤原姓を賜り、その事実を父親の

功績に書き換え、後ろめたさを和らげたのではないだろうか

天智天皇が唐突に「藤原」を持ち出した真意に、疑問を感じ

ていたが、藤原姓は藤原京から取ったもので、藤原京の主

持統天皇にしか、自由に名乗る事を許す人間が見当たらない

もう少し、持統天皇を考えてみたい・・・。

                  


◎  日本書紀の矛盾と女帝 

私達は日本書紀を読むときに、最初から暗示を

掛けられていた?

つまり、この正史を「天武天皇」の勅命で編まれたという

先入観・誘導に端からはまり込んでいた。

天武天皇の血縁の者たちが、編集に関わっていた

だから「天武天皇」寄りの記述が多いだろう・・・。

という先入観が成立してしまう。

ところが、持統天皇と言う、「天智の後裔」が天武の意思

などお構いなしに、藤原とわが子のための「史実つくり」に

突き進んでしまう。

それを引き継いだ女帝(元明・元正)は、藤原の専横に

抗うことはできず、静観するしかなかった。

天智の血と、藤原の血が仏教に傾倒する「祭祀王」に

変身させてしまった。

その天皇こそ、「聖武天皇」である。

日本書紀にはいろいろな疑問が生じ、書き直し

書き足し、削除等が見受けられる。

古い年代の記述が、新しい言葉で書かれていたり

新しい時代との間の中間が、古い言葉で書かれていたりする。

後年、何者かが改竄した(手を加えた)という疑問も

信じるに値するかもしれないのである。

とにかく、誰の命令であろうと、国史編纂は国の大事業であり

私情を挟もうと、誇大表現になろうと、一向に構わないのだが

皇祖の生没年くらいは、キチンと明記し、後世に伝えなくては

ならない事だと思っている。

そもそも、天武天皇の発案で始まった編纂事業である

その天皇の出自もあやふやな、正史を信じろというほうが

虫のいい話ではないだろうか。

わずか数十年前の天皇のことである、判らないことこそ

不可解極まりない話と言える。

ある説によれば、天武天皇は新羅の将軍という話も出ていて

壬申の乱は天智朝への政権奪取(クーデター)という見方を

する人も居る。

そして、中臣鎌足は百済の王子だったという話

百済は新羅に滅ぼされた過去の因縁の間柄である

それゆえ、天武天皇を排除することこそ、藤原の使命であり

天智の血脈と藤原の血脈をもって、権力・政治を我が物にする

大きな野望が存在したのだと考えられる。

しかし、その標的が天武天皇だけに限らず、初代から32代

の天皇の生没年・在位年まで、改竄する必要は何処にあった

のか、考えられることはただ一つ・・・・

持統天皇が后と言う立場から「女性天皇」に即位した

正当性(正統性)を知らしめるために、遡って歴代天皇の

履歴を改ざんし、即位することが如何にも当然であり、即位

することになんの障害もないことを、記したように思えてくる。


日本の古代史と神道を考えるとき、持統天皇を外して考える

訳にはいかないと、私は強く思うのである。

                   


◎  正史に残された天皇史の疑問 

日本の天皇史に幾つか疑問がある

日本書紀を編んだ時代は「天智天皇」の皇女が天皇

という時代背景で、自分のルーツを書き残す大事業であった

それなのに、なぜ不可解な記述ばかりを残したのか?

一例を挙げれば、33代推古天皇の父親は、29代欽明天皇

である

しかし、父親だという、欽明天皇の生まれた年が不明であり

さらに30代敏達天皇は推古天皇の夫であるが、この天皇の

生没年は明確にされている。

そして、31代用明天皇の生年が不明になっていて、次の天皇

32代崇峻天皇の生年も不明なのである。

この、モヤモヤとした不可解さは、どういう事なのか?

私は推古天皇(女帝)は存在しなかった

そう思っている・・・・あくまでも自論であるが

存在を疑うような天皇の生没年が明確で、それ以前の

天皇の殆んど(敏達天皇を除く)が、生年不明、生没年不明

と言うのは解せないのである。

畏れ多くも「歴代天皇」の過去帳ともいえる正史に残さなかった

のは何故なのか?

私は持統天皇までの天皇史は、大部分において捏造・改竄され

真実とはほど遠い内容である、という疑いを持っている。

欠史八代どころか、33代を含む歴代天皇の実像は闇に葬られ

虚飾に満ちた「正史」ではないかと思っている。


以前にも書いたが、作文であろうと誇張であっても、もう少し

理路整然とした内容、つじつまが合う内容にする事こそ、国家の

正史としての威厳も保てるはずなのである。

敢えてそれをしなかったことにより、正史とは名ばかりの

藤原のための「物語り」、いや「者騙り」に終始している。

私達は意図的に改竄された「天皇史」を信じさせられてきた

「書いてあるから真実」というなら、歴代天皇の生没年の不可解さ

をどう説明するというのか

下賤の祖先の話ではない、事は国の最高責任者である天皇の

歴史を、いい加減に書く事こそ不敬の極みではないだろうか


すべては持統天皇が即位した、正当性を記す為に、遡って歴代の

天皇の生没年を改ざんし、女性天皇が存在したかに見せかけ

自らが天皇に即位する正当性・整合性を主張する意図が

透けて見えるのである。

私は「万世一系」は、皇統の男子をもって、継嗣するという

皇祖の遺訓が存在していると思っている。

その后は、素戔嗚尊 の子孫が担う定位置(ポスト)だという

認識である。

その両方を「無視」した、藤原一族と天智系女帝の犯した罪

は大きいと言うべきであろう。


素戔嗚尊の末裔である「蘇我氏」に代わり、藤原氏が・・・

皇統男子という不文律を、持統天皇が破却・改変した

私は迷うことなく、そう確信している。

そのためには、太陽神の男神を「外宮」に、日の巫女を

太陽神として「内宮」に祭り、いかにも皇祖が「女性」であった

という自己主張したのが、「伊勢神宮」の両宮の真実ではないか?

皇祖が女性であるならば、女性が天皇に就いても問題が無く

持統天皇の思惑と藤原の権力欲が合致した神宮造営の

起点ではなかったか

不敬と言われるのを覚悟の上で、自論を述べてみた・・・・・。


                


◎  古から続く伊勢の社と遷宮 

神威(しんい)が強い神様・・・などと言う

大国主神や天照大神などが代表である

神威とは何だろう?

肌で感じる何かなのか?

それとも「祟る」力の強いことなのか?

辞典に書かれていることなど、鵜吞みにはできない


私は「神威」とは、民の声の大きさだと考えている

言葉を変えれば、民衆の支持の大きさを言い表す言葉

それが、「神威」ではないだろうか・・・。



伊勢の地に遥か昔から鎮座するという「神宮」

縄文の時代から変わらず、そこにあった・・・・・

というのは、どうも疑わしい・・・(不敬と言われるか?)

私達が現在、眼にしている「神宮」は古(いにしえ)の姿とは

違った佇まいになっている。

白い玉砂利・・・心を洗われる錯覚を覚える

この玉砂利も室町時代後期から、始まった姿であり

縄文の姿を今に伝える「神宮の森」も鎌倉時代に

植林されたもの、古代の伊勢地方は、シイ・カシ・クス

などの亜熱帯性樹林に覆われていた。

式年遷宮にしても、今の形になったのは「明治時代」

江戸期までは、新しい社殿の横には、それまでの社殿

いわゆる「古殿」がそのまま残されていたという

その古殿が解体されるのは、遷宮の39年後だといい

その古殿には、一般参拝客が自由に立ち入れたとも

伝えられている。

伊勢神宮は事あるごとに、「古代のまま」を強調する

調べりゃ直ぐに解る話を、どうして曲げてまで力説するのか

古代から綿々と続いているといえば言うほど、不可解な

創建逸話が世間に知れることになる

明治や大東亜戦争前後でもない今の時代、口に鍵をかける

研究者だけではない、宮内庁が否定しようと、口を閉ざそうと

庶民は本当のことが知りたいのである。


式年遷宮の「式年」とはどういう意味か?

二十年という定まった間隔で、遷宮を行うから・・・

というのは、建て前論である

式年と言う言葉を最初に使用したのは、南北朝の時代だ

それ以降、しばしば用いられるようになる

その語源は何? という疑問が湧く・・

その答えは、「延喜式」において定められた「年」だから

延喜式年・・・・・・式年 となったのが原義だったそうである。

では式年遷宮は、「伊勢神宮」だけに伝わる祭事なのか?

答えは NO だという

住吉大社、香取神宮、鹿島神宮でも、20年に一度遷宮をしていた

この三社の遷宮は遠く奈良時代から、続いていたという説もある。

しかし、平安前期に建て替えをする遷宮を止め、破損した部分の修理

だけ行う「随破修理(ずいはしゅうり)」に変わったという。

ではなぜ20年に一度、建て替えるのだろうか?

耐久年数の問題という説がある

眉唾も良いところだ、寺院のように瓦葺き、楚石立ての工法

にすれば、建て替え自体不要になるはずだ

掘っ立て柱工法に拘ったとしても、屋根の茅の傷みが一番早く

掘っ立て柱は「古殿」の例を観れば解るが、39年後も壊れずに

耐えているではないか、そうなれば立替ではなく、「随破修理」

で済ます事も可能なのである。

もう一つの説である「技術伝承」のための二十年説はと言うと

建築関係の方なら、笑ってしまうくらい、遷宮に関する「特殊技術」

など何処にも見えない気がする。

なんら特筆すべき「高度な技法」は存在せず、この説ほど陳腐な

説もないのである。

ではなぜ、二十年に一度建て替える必要があったのか?

この遷宮は、始まった当初から、建て替えることが目的だった

そのためには、瓦葺工法ではなく茅葺きにして、常に新しく

建て替える必要性があった。

神宮が古代から綿々と続く、由緒ある社 という印象付けが

遷宮を計画した当時の朝廷の「青図面」だった

「この新しい社殿は、遷宮によって建て替えたから、新しいのであって

古より続く由緒ある「皇祖神」が座す、神の宮である」 と言いたかった。

神宮を持統天皇が建てたとは、口が裂けても言えない、知られたくない

そういう事なんだろうと思っている。

                 


◎  天神地祇と神社の屋根 

天神地祇(てんじんちぎ)

天神とは、天つ神・高天原で誕生した神のこと

地祇とは、国つ神・国土神・土着神のことだ

「天神地神」といわないところが面白い

なぜなら天孫族は自らを「神」と宣言している

天下った「尊い神」なのである

神は天から降りてくるのが正当であり

地上の「土着神」とは別であるという論理か?

地祇などという何やら馴染みの無い言葉を使っている

国つ神のことをそう呼ぶと言われても・・・・

地神ではダメだったのだろうか?

これも、勝ち残ったものの論理・言い分で現在は

これが定説になっているのである


地祇=地方神・土着神 であるという

天神によって粛清・討伐された国神が、祟らぬように祀った

場所が「神社」であるなら、その神社の一番高い処

に祭り上げられている「土着神」が「地祇」であり

「千木(ちぎ)」ではなかろうか?

男の神を祀った神社の一番高い所に「男千木」

女の神を祀った神社では「女千木」が立てられ(祀られ)

「地祇」であったものが「千木」という文字に変えられ

明確な「千木」の由緒すら不明になっている

これが長屋の爺の考えた「地祇(千木)」の語源である


そして・・・伊勢神宮・外宮の「男千木」が意味するものは

いったい何だろうという話に戻ってしまう


では、 隠された鰹木(かつおぎ)の語源は何だろうと

いう事になるのだが

私は神社の屋根に「かつお」は無いだろう・・・と思っている

私の必殺技である、縄文の色を残す「アイヌ語」から考えてみた

「かつおぎ」とは「か・つお・ぎ」ではないかという事から

「ka tu o gi」の tu を to に入れ替え、katoogi(かとぉぎ)とし

さらに 「カ・トォ・キ」 と変化させてみた

カ  ~の上 ~も  糸  という意味であり

トォ  はるか  ずっと遠く という意味になり

キ  ~する ということで・・・・

【遥か上に祭りあげる】 という意味に解釈してみた

こじ付けと言われそうだが、定説のない語源である

そもそも「偶像崇拝」とは無縁の「神社神道」だ

祀る 祭り上げる とは言っても、何を 何処に 祭ったのか

そういう意味からしても、神社の屋根の上に祭りあげたのは

地祇といわれる 「国つ神たち」 であり、その意味を

「鰹木」が説明していると考えれば、納得できるではないか


                 



◎  伊勢の不思議と注連縄 

1年前に伊勢についてブログに書いていた

その中で・・・

伊勢にはなぜ 鈴が無い

伊勢にはなぜ 賽銭箱が無い

伊勢にはなぜ 狛犬がいない

伊勢にはなぜ 注連縄が無い


どれも明確な回答が出ていないのが実情である

そのどれもが神宮創建時には無かったものだから(笑)

愚問に名答かもしれない・・・・とは行かないのが現実である。

「鈴」が無いのは、「出雲式祭祀」の銅鐸に通じるものだから

持統天皇は「鈴」を排除した・・・と推理してみた

と言うよりは、拝ませたくなかったというのが本当だろう

これは「賽銭箱」と共通する話、大和朝廷にとって、出雲同様に

封印しなければいけない「祟り神」が祭ってあり、なんびとにも

拝ませるわけには行かなかった

それが天皇以外の参拝・奉献を禁じた理由だと思っている

誰にも参拝させない「封じた社」に参拝する者のための

「鈴」も「賽銭箱」も必要なかった

狛犬はおそらく、創建時には習慣が無かったと思う

最初に祀られたのは、平安中期の宮殿内といわれ

由緒ある社にあるものでも、平安後期頃からだろう

「注連縄」が無いのは、内・外宮だけで、伊勢地方でも

注連縄の習慣が普通にあり、それも「出雲式」の左元の

注連縄に「素戔嗚尊」由来の「蘇民将来」の御札付きである

もう、お分かりと思う・・・

注連縄も「出雲式」「出雲流」なのである

出雲の「怖ろしい神」を封じる為の「注連縄」

数多居る諸国の「地祇(ちぎ)」を鎮めるために

祀ったのが神社の起源と考えれば、注連縄の

効能・威力は祭る相手に合わせて、使い分けたの

かもしれない

諸国にある注連縄は、出雲発 と考えれば、持統天皇に

とって、排除する理由が明確なのである。

それでは「伊勢」は祟らないのか? というと、間違いなく

祟る(たたる)祭神が座ます社である。


出雲のように、結界は張らないのか?という疑問が出る


これが「伊勢の伊勢たる所以である」

本当は「注連縄」で抑えたいが、「持統天皇」には

皇祖神「アマテラス」を祭っているという事に拘る理由があり

いくらなんでも「皇祖」を結界で縛り付けるわけには行かない

それに対処する「苦肉の策」が、天皇以外の参拝・奉献を

一切禁じたということである。

出雲の祟りは、垂仁天皇の逸話でも知られているが

伊勢ほど頻繁に「祟って」いないのが出雲であり

出雲式の注連縄による結界より強力な、125社という

とてつもない社(神宮125社)によって、細やかに封じている

のだろうと私は考えている。

 (つづく)

               

◎  伊勢の不思議 

出雲大社  宇佐神宮 と書いてきた

今までも何度か書いてきた「伊勢神宮」にも

今回触れておこうと思う・・・。

伊勢も謎と不思議の多い神社だ

過去の記事を観ていただけば、ご理解していただける

そう思っている

伊勢神宮の本殿の床下に、人目を避けて鎮座する「御柱」

正式には「心御柱(しんのみはしら)」という

それが何であるのか謎であり、何のために床下に据えられている

のかも謎である。

鎌倉時代に書き残された「心御柱記」というものがある

「心御柱記」に書かれている文字は・・・

山口木本鎮 

御棚南向也  祝者向北申也

棚広 三尺 長各 五尺  幡 十二本 五色

八度拝 二度拍手


長さ五尺の柱(150センチ)が、地上三尺 地中二尺

これが実際の「心御柱」のかたちであり、四方に立つ

杭から伸びる板によって、支えられているという。

出雲大社の本殿中央に、「心御柱」が存在するが

出雲大社ではキチンと存在が確認できる一番大きな

立派な柱である (だから大黒柱と言うのか)

諏訪大社にも「御柱(おんばしら)」というものがある

こちらは社殿の外側、四隅に立てられて「野ざらし」の

状態であり、三社三様の「御柱」になっている。


さて、「心御柱記」の中の、「八度拝」というのは

礼拝 八度 拍手 八回 を行うお努めだ

これがまた・・・奇妙な礼拝なのである

神官が立ち上がり、そして跪く(ひざまづく)

それを八回繰り返す・・・その形は異教である

イスラムの礼拝に似ているのである

神道の直立し姿勢を正して、深くお辞儀をするという

あの姿とはほど遠いのである

さらに、拍手八回と言われているが、私の観る限り

1-3-4-1 の九回拍手をしている

なぜ九回なのか? それでも八度拍手になるというのか?

この「八度拝」は、持統天皇の即位式で初めて行われた

と言われており、伊勢には持統天皇から始まったものが

数多くあり、伊勢を知るには「持統天皇」を知ることが早道

であるような気がする。

伊勢の式年遷宮では、本殿の新築だけにとどまらず

「神宝装束」という数々の、備品も新しく作られ奉納される

その数・・・714種 1576点 という膨大なお宝である。

神はそのようなものを「欲して」いるのだろうか?

皇祖神だから最高の物を献上・奉納せよ

それは「神」の意思ではなく、「持統天皇」の意思だった

その裏側に潜むのは、伊勢の地の「富力」を削ぐ狙いか


二十年ごとに繰り返される「遷宮」とは、伊勢の国力を

衰えさせ、カネ(鉄・水銀)を放出させる手段だった

出雲が「修理」の遷宮であり、伊勢は「建て替え」の遷宮だ

持統天皇が行幸した目的も、そこにあるのかもしれない。

               


◎  宇佐神宮と大神神社 

前回、宇佐神宮の宮司継承の件において

とても重要な事を「さらり」と書いて流した

その事に気づかれた方も居られるかと思うが

今一度、お浚いしてみたい・・・。

【 さて、宇佐八幡の神職を束ねるのは、大宮司である

古来から「大神氏」が代々務めてきたという大宮司

平安時代の中頃、神主職を「宇佐氏」に譲り、以後

宇佐氏が大宮司職を世襲してきた 


もう、お分かりだと思う

なぜ 宇佐神宮 の宮司を「大神(おおみわ)」氏が

務めていたのか・・・という疑問である。

大神 とは三輪山にある「大神神社」を連想させ

その祭神は「大物主神」である

主祭神が誰なのかすら不確かな「宇佐神宮」である

祭神は「大物主」というのは、無茶な発想だろうが

本来は「応神天皇」などではない・・・という推理である

近世ではよく聞く話に、その時代に信仰の盛んな神さまを

主祭神にするという、商売上手な神社が多々在ったという

しかし、古代ではそれこそ神罰(祟り)が怖ろしくて、そのような

無茶はできないだろう。

無茶と言えば、大神を「おおみわ」と読めと言うのも無茶である

素直に「大三輪」と解釈するほうが自然だ

本来、名字の類は「土地の名から付ける」のが筋であり

三輪山の「大神神社」に縁(ゆかり)のある一族が

宇佐の祭祀を務めていたと考えている。

祭祀を司るのは、基本的に祭神の子孫であることから

「宇佐神宮」の宮司を務めていたのは、「大物主神」の

末裔ということになる。

大和朝廷は三輪山一帯には「遠慮」をしている気配があり

出雲の神をかなり畏れていた気配もある

大神氏が祭祀から退いた背景に、主祭神の交替があったの

ではないだろうか?

由緒では「平安時代」となっているが、私はそれ以前の

時代・・・・「道鏡の御託宣騒動」の時だったと思っている。

不都合な事実の陰で、「変わるモノ」と「替えられた者」があった

それ以降、「宇佐氏」が宮司職を世襲するようになったのでは

ないだろうか・・・・。

「宇佐の大神」とはだれ?

「大物主神」との関係は?

「大国主神」との接点は何?


これは私の宿題である・・・。


この「宇佐神宮」、「宇佐八幡」と呼ばれている

ところが、ず~っと昔は単に「八幡社」と呼ばれていたそうだ

宇佐の地名など付いてはいなかった

「岩清水八幡宮」ができてから、区別する為「宇佐」が付いた

という事になっている

それまでは、「やはた」と呼ばれていた

「はちまん」ではない、「やはた」「やあた」「やわた」である

「阿多(あた)」の痕跡を消す為に、「はちまん」という不可解な

読みを当てたのか?

その「岩清水八幡宮」の創建は、860年である

この「西暦 860年」というのが「鍵(かぎ)」なのだ

古代史を考える上で、「西暦860年」は実に興味深い

社寺の創建が異常なほど多いことを知れば

この年(時期)に何かが、このヤマトで起こっていた

そう思えてくる・・・。

本当に宇佐も「面白い題材」である

これからがとても楽しみである・・。

               






◎  宇佐神宮と出雲大社 

宇佐神宮(うさじんぐう)

別名 宇佐八幡 宇佐八幡宮

最近話題の神社で、由緒正しい「八幡宮」の総本社である

わたしの自論では、この宇佐神宮と出雲大社は、奇妙な縁で

むすばれている。

この「宇佐神宮」と聞いて、出雲に関連すると言うのは・・・

「イナバノシロウサギ」ではなかろうか?

うさぎ 宇佐妓(うさぎ) 宇佐の巫女 白拍子・・・

大国主が助けたとされる、「シロウサギ」とは、宇佐の女性

だったのではないか?  妄想の類だが・・・。


こちらは妄想ではないのだが、宇佐神宮の参拝作法は

二拝 四拍手 一拝  である

そう、あの「出雲大社」と同じなのである。

古くから九州の海神として、「宇佐の神」信仰が強く

あるときを境に、応神天皇を祭るようになったという

謎だらけの神社である。

そしてこの神宮の祭神も、不可解な祭神なのである

八幡大神 比賣大神 神功皇后 

この話題は 宇佐神宮の主神・比賣大神とは  を参照

さて、宇佐八幡の神職を束ねるのは、大宮司である

古来から「大神氏」が代々務めてきたという大宮司

平安時代の中頃、神主職を「宇佐氏」に譲り、以後

宇佐氏が大宮司職を世襲してきた

だが、鎌倉時代末期に「二家」に分裂し、兄の「公敦」が

「宮成家」、弟の「公連」が「到津家」と称し、二家が交互に

大宮司職を継いできた。

しかし、戦後は「到津家(いとうづ)」だけで世襲してきた。



ところが、ここへ来て、神社本庁と「到津家」がもめてしまった

宇佐神宮以外の宮司を指名するという、前代未聞の禁じ手

を神社庁は使ったことに、責任役員や到津家(克子氏)が

猛反発し、泥沼の争いに陥っている。

神社本庁の担当者にしてみれば、たんなる神職の任免程度の

意識だろうが、到津家にしてみると、世襲が習わしであり、制度

そのものの「否定」と受け取ったのだろう。

どちらが良い悪いという話ではなく、神社と言う伝承文化・宗教の

後継者問題に、余所者が深く介入する事の「是非」が問われそうである。

「道鏡事件」のときも、伊勢や出雲など数多ある神社を差し置いて

「御託宣」を請うたほどの「宇佐神宮」である、過剰な介入は

伝統を壊すことにも繋がりかねない、天皇家とも縁の深い神社

「皇室軽視」「皇室祭祀」の否定と、言う声が聞こえてきそうである。


今回の紛争の大きな問題点は、拘束力の無い「神社本庁」が

不思議と強気に介入している点である。

極論を言えば、神社本庁という宗教法人は、「伊勢神宮」系の

色彩が強い団体である。

最近は忘れられているが、「出雲系」の教義をする神社を

快く思わない風潮が明治期より続いており、今回の跡目

相続に「伊勢神道」と「出雲神道」のわだかまりが噴出して

おきたことかもしれない。

仮に「到津克子氏」が、出雲よりの考え方を口にしたり、伊勢

にとって不都合な考えを洩らしたとすれば、遠ざけられる要因は

あったのかもしれない。

だが、神社は「神社庁」に属するかどうかは、神社の考えで決める

ことができる、加入も脱退も思いのまま
であり、そのことから言えば

宮司任免に不服なら、脱退すれば問題そのものが消えることになる

部外者にとやかく言われたくないなら、脱退する道を模索すること

こそ、諍いの早期解決になると思っている。


宇佐神宮も謎の多い神社である

いつの日か、宇佐を深く考えてみたい・・・・。

                   

◎  参考文献 (5) 

今年も沢山の書籍・文献にお世話になっている

その都度、引用元を記すべきところだが、更新するのが

精一杯の長屋の爺、途中で挿入することを失念する

結果、このように纏めて定期的に著者の方々に御礼を

申し上げる事で、ご容赦願っている次第である。


参考文献 (5)

平城京 全史解読        大角 修

保元・平治の乱          元木泰雄

平安朝の生活と文学       池田亀鑑

すり替えられた天皇        小林惠子

大和朝廷成立の謎         渡部雅史

白河法皇               美川 圭

物部氏の伝承            柳井 弘

日本書紀が隠し通した天皇の正体  関 裕二

本当は怖ろしい万葉集(壬申の乱編) 小林惠子

神社仏閣に隠された日本史の謎と闇  中見利男

卑弥呼誕生           遠山美都男

清少納言と平安貴族の謎    川村裕子

名字のヒミツ            森岡 浩

武士の成長と院政        下向井龍彦

なぜ日本人は最悪の事態を
  想定できないのか?(新・言霊論) 井沢元彦



以上 敬称を略させていただきました著者の方々に

深く御礼申し上げます。

新たな書籍との出会いを励みに更新してまいります。
            
     管理人 長屋の爺   
                   


◎  出雲国造家と天皇家 (7) 

出雲について書き出すと、どういうわけか話題に事欠かない

それは裏を返せば、それだけ謎だらけ、秘密だらけと言う

証かもしれない

大社(国造家)の説明にも、おとぎ話風の説明が多く

知りたい欲求を満たしてくれるものは、殆んど無い現実

大きさや古さと、国造家の由緒ばかりが前面に出て、私たち

が本当に知りたいことは、歴史の闇の彼方に封印されたまま


さて、私達は日常的に「受け入れる」ことの「善」に慣らされている

疑う事、疑問に感じる事は「悪」とでもいうような風潮がある


「出雲」という文字、これをどこかで教わらねば、「いずも」とは

読むことはできない・・・そうではないだろうか?

音で当てはめたなら、「シュツ・ウン」、「スイ・ウン」になるはず

「いずも」という言葉は、何処からやって来たのか・・・・。

この言葉も「蘇我 蝦夷」と同様に、後世の人間によって

貶められた「呼び方」の被害者かもしれないのである。

雲が出る・・・雲は「蜘蛛」でもあり、「隈(くま)」でもある

蜘蛛とは「朱を知る」と言う意味で、水銀採掘集団のこと

さらに鉄生産集団をも指しているかもしれない

順わぬ山の民を指して、「蜘蛛」と呼んだ気がする

隈(くま)とは、すみっこ、奥まったところ、入りこんだ場所

物陰になった暗い処、などの意味であり、あまり良い意味で

使われることは無い

古代倭語では「a,u,o」の音は、互いに入れ替わることが多い

という特徴があるという、例えば「くま」が「かま」、「こま」にも

成り得る そいうことらしい・・・。

雲 と 熊 は本来同じ音(言葉)だった可能性は高いと思う

「Ku-Mo」 「KU-Ma」 と a が o に入れ替わる事は普通だった

熊野大社・・・隈 の おおやしろ

出雲大社・・・雲 の おおやしろ

すでに「熊野大社」が創建されたとき、辺境の地に追いやられた

「不都合な一族」の気配がしてくるのである

では隈や雲はいったい、どこからこの地に来たと言うのか


今回、出雲を書くに当たって、最初に注意を促したこと

「出雲」という地名、「出雲」という一族、「出雲」という神社

「出雲国造」という役職、これらを混同すると、見えなくなるもの

が多々ある

出雲に代々住まう「国造家」は役職名であり、「出雲族」ではない

出雲の地に住む人が皆「出雲族」というわけでもない


出雲族は何処から来て、何処に行ったのか?

「天つ神系」と「国つ神系」の嘘と常識、これはどうなのか?

話は変わる・・・

出雲大社の神殿の天井(てんじょう)に描かれた「八雲の図」

実際は「七つの雲」が描かれている


この不思議を考える前に、意識しなければいけない事がある

そもそも、神社と言うモノは、古代では「民の都合」「信仰心」

から建てられた建造物ではないという事だ

支配するもの、権力を持ったもの、勝者の都合で造られたもの

それを踏まえないと、大きなかん違いをしてしまう事になる

由緒とは・・・「(権力を)持つ者」の都合・思惑で書かれた物で

もっともらしい筋立てになってはいるが、実際は己らの「非」を

巧妙に隠蔽した可能性も考えなければいけないと思うのである。


話は戻る・・・・ではどうして「七つ」だったのか?

単純に考えれば、「七つ」は吉数であり、最高に良いとされた数字

北斗七星、七つの祝、七福神など、古来から縁起の良い「数」であった

逆に「八つ」は忌むべき数字であり、好んで使うことは無かった

「末広がり」で縁起が良いなど、都市伝説以下の話だ・・・・。

その根拠は、私の考えでは、「八皇子」神話がきっかけか?

アマテラスとスサノオの「誓約(うけい)」によって生まれた神

男神・女神の八柱である、どうして皇祖神の神話に「八」を選んだ

のか、そのどちらかの神、若しくは両方の神を貶める為の工作で

有った可能性もある。

八神とは、生まれて来てはいけない、忌むべき神の子

その血筋を呪っているかのような、そんな文字選択だ

その忌むべき血統が「スサノオ」なのか「アマテラス」

なのか、それは謎である

本来「奇数」は吉数であり、偶数は凶数でもある

七五三は吉数ゆえ、選ばれたもので、神さまにお参りして、健康を

感謝し、息災を願うのでなかろうか・・。

その意味からして、「八」は不吉な数字であり、八雲の言葉自体

好意的な神社創建ではなかった事を連想させる

そこに描かれた「七つの雲」に、後一つの雲である「大国主神」が

合わさり、忌むべき「八つの雲」となり、「封印」が完成する

だれを封じているのか? 当然ながら「素戔嗚尊」であろう

転場者(サンカの事)の時にも書いたが、彼ら部族の「八重垣」とは

掟・戒律のようなものだ、なぜ彼らが「八重垣」を護るのか?

素戔嗚尊の歌として、伝えられている

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

八雲の意味するところは、これからも謎のままなのだろうか


その意味から考えると、「八幡」という文字も「忌むべき言葉」では

なかろうか? 八幡神は「誉田別尊(ほむたわけ)」、つまりは

応神天皇のことである

その15代天皇を主祭神とする神社の名称に「八幡社」とは

不可解である 

神社の起源が「敬う為に造った」という認識では、この問題は

理解できないだろう

祭神を祀る為に「神社」という建造物を建てたのは、「畏れ」

「恨みの回避」以外に、思いつかないのである

祖神を祀る「神社」というものは、時代を経てもう少し後の時代

ではないか、皇祖神という命題を、最初に持ち出したのは、

持統天皇からか

沢山の歴代天皇の墳墓として「比定」されるものが有りながら

「仏教徒」である天皇家が「伊勢」の地に皇祖神を祀った事が

腑に落ちないのである。 (つづく)

                 





◎  出雲国造家と天皇家 (6) 

注連縄(しめなわ)についてのお浚いです


誰でも一度ならず眼にしたことがあるはず

鳥居や拝殿に飾られているあの注連縄・・・・

日本におそらく注連縄の無い神社は「伊勢神宮」の

内・外宮だけではないだろうか・・・。

神社と言えば「注連縄」、各家庭でも正月に飾る

日本の風物詩でもある

一般的に「どこでも見かける」ことができる注連縄だが

通常は【右に太い部分、左に向かってだんだん細くなる】

これは「神棚」の上に飾るためのもので「大根注連」

(だいこんじめ)と呼ぶ

細く長く編んだものもあり、こちらは「牛蒡注連」(ごぼうじめ)

と呼んでいる

ちなみに伊勢地方では、左に太い部分が来る飾り方をする

真ん中に「蘇民将来子孫家之門」という文字が書かれた注連縄

が一般的である。

編み方にも特徴があり、「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と

右綯え(みぎなえ)の2通りがある。

左綯えは時計回り、右綯えは反時計回りに編んでゆく

イメージ的には、足を伸ばして座り、注連縄の元部分を

足元に固定し、手元側に向かって時計回りなら「左綯え」

手元に向かって反時計回りなら「右綯え」ということになります。


さて、出雲大社の「大注連縄」である

出雲大社の注連縄が【左を元に右に向かって細くなる】ことを

逆・反対という話を聞く、この話の出所はいったい何処なのだろう?

何かを基準に「正」「逆」の判断をするわけで、それが神社庁あたりが

言うのであれば、尺度の基準が何処の神社なのか、伺いたいものだ

たしかに世間では、右に元が来て左に向かって細くなる・・・が

一般的に思われている。

出雲地方の神社では、ほとんどが「左が元で右綯え」になっている

私の家の神棚の注連縄は、「右綯え」で左に元があるタイプである

いわゆる「出雲形式」「伊勢形式」のものである


そう言っては「身も蓋もない」話になってしまうので、あくまでも

一般的な話として、注連縄を考えてみたい

伊勢地方や出雲地方の話は別として、世間の神社の注連縄と

出雲大社の注連縄が「逆」になっている理由を考えてみる場合

注連縄とはなんぞや?

これから推理しなくてはならない

神前や境内地、御神木、岩など神聖、清浄な場所を示す為に張るもの

あるいは、神聖な場所を区別するためのものである

優等生的な解釈は上のとおりだが・・・・

本来、「魔」が入り込まないための「結界」だろうと思う

神聖な物・場所に邪悪な「魔」が入り侵さないようにするためのもの

これが「注連縄」の本来の目的・役目・効能だと思っている

神社に祀られている「神さま」が邪悪なものに汚される事を

封じるために結界を張る

これが神社・神域の注連縄の役目だと考えている。

では、出雲ではどうなのか?

外から「魔」が入り込まないようにする注連縄が逆向きで

あった場合、「入り込まない」為でなく、「出さない」ためだと

しか思えない。

そう・・・祭神をその場所から「出さない」「自由にさせない」

その目的で反対向きの「飾り方」をしている

そう考えれば、「大国主神」が牢獄のような御座所に座し

横を向いている姿に、納得してしまうことになるのである

そこを基準に考えれば、「国造職」というのは、祭神である

「大国主神」を監視する、あるいは封じ込める役目ということも

いえるのではないか

五柱の御客座神、横向き(西向き)、逆向きの注連縄、そして

曲がった参道・・・

これだけ念入りに封じ込めなければならない「大国主神」とは

いったいどんな神さまなのか・・・・強烈な祟り神の実像とは?


余談だが・・・

禁足地 というものがある

世間での解釈は、「足を踏み入れてはいけない場所」

「立ち入ってはいけない場所」という・・・・。

ところが、本来の禁足地とは、些か解釈が異なるのだ

禁足地とは・・・「其処から出てはいけない」場所を指す

封じ込めている事を「秘匿(ひとく)」するため、恣意的に

「出てはいけない事」から、「入ってはいけない事」へと

解釈の誤解を広めたのかもしれない・・・。


出雲大社・本殿への立ち入りは禁じられている

これも、立ち入らせない事=外に出さないことであり

遷宮の仮宮への引越しで、白い布で囲われて、自由を奪われ

押し込められた状態の移動かと、感じるのは私だけだろうか?


出雲は祟る・・・それゆえ丁寧に祭っている

これが世間の常識であるが、丁寧に祀っているとはほど遠い

印象が出雲にはある

その原因は出雲の祭儀の数々に、不可解なことが多く

出雲国造の秘伝めいた、所作に訝しさを感じるのである。

(つづく)
                 


◎  出雲国造家と天皇家 (5) 

前回の記述で、「火継式」を神魂神社で行う

と書いたが、記述違いではなく、私の思い入れで

書いた事、「千家氏」は熊野大社にて火継ぎを行い

「北島氏」は神魂神社で火継ぎを行うことになっている

しかし、本来は熊野大社で行われていた「火継ぎ式」

だが、神魂神社が建てられてからは「神魂神社」で

執り行われるようになったという過去がある。

杵築に社が造られて、国造が意宇を離れ杵築に移って

から、神魂神社が建てられ、意宇の神魂神社で執り行わ

れるようになったとされる

716年以降、大領の兼務が続いた798年まで、私は

神魂神社での「出雲国造家」の火継ぎ式が通常だったと

考えている。

私は個人的に、「北島氏」が正統国造家という思いがあり

不自然な記述となっていることはご理解願いたい。


とにかく「出雲国造家」は不思議・謎・異常性の宝庫であり

火継ぎでもお分かりのように、死んだ国造に衣装を着せ

寝かせるのではなく、死体を座らせ、さらに食膳まで配置する

その異常さ・・・・想像するだけでも、正気の沙汰とは思えない。

そこにあるのは、亡き者にたいする情愛より、祭祀者としての

「職」を継ぐ形式だけ、非情と言われても仕方が無い「姿」が

見えるだけである。


それほどまでに「神」は、非道を強いると言うのか?


これこそ、神祀り とは、人間が犯した卑怯な行為の

結果、涙を呑んだ人間が居て、その者を「鬼」「神」と呼び

畏れるあまり、祭り上げたのが「神社」の始まりだった証明

では無いだろうか・・。

そもそも祀るという行為は大事にすることではない

「祭り上げる」とは、おだてあげて特別な処遇と思わせる

ことであり、恐れから逃れる為の、卑怯で姑息な手法と

いう見方もでき、祀るという本来の意味は「封印」すること

相手を縛り上げて「押さえ込む」、裁縫の「まつり縫い」も

ここから来ているのかもしれない。


とにかく、話題に事欠かない「国造家」である

世間で言うような、由緒が事実かどうか、不敬といわれる

覚悟で、疑問は疑問、非論理的な事象は?を投げ、独断の

解釈で綴ってみたい・・・・と、思っている。

反対向きに飾られた「大注連縄」の謎

本殿天井に描かれた「八雲の図」も謎であり

祭神の祭り方も、異常としか言いようの無い形式で

参拝の作法も独特というか不思議なことであり

大社関係の説明を聞いても、腑に落ちないことの連続

謎なら「身逃げ神事」というものもあるのだが・・・


その摩訶不思議な「出雲大社」の祭祀者である、「出雲国造家」

「国造職」に固執する一面も窺え、真摯な「祭祀者」の顔の裏に

「まつろわぬ者」とは違う、暗い部分も併せ持っている気がする。


私達は「神様」や、過去の皇家の問題は、一方的な説明や

不可解な押し付け歴史で武装されたものを、ただ信じてきた

すべての事には、必ず理由(わけ)がある

私達は・・・その理由(わけ)を知りたいと思っている

疑う事が「不敬」というなら、甘んじて不敬の謗りを受けるつもり

日本人が日本のことを知ることが「不敬」であるはずが無い

都合よく「神」「天皇」を利用する者への、ささやかな抵抗なのかも

しれない・・・。


次回は「注連縄」の謎解き、国造家の系譜を考えたい(つづく)


                    



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