不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  出雲国造家と天皇家 (3) 

出雲大社を考えるとき、私は一つだけ気をつけている

事柄がある、「大国主」と「大物主」は同一神ではない

その可能性を考え、大物主の記述は「大物主」として

大国主の記述は「大国主」として捉えることにしている


私の中では「大物主」は「饒速日尊(にぎはやひ)」であり

大国主とは別神だという前提で、文献を読もうと心がけている


そして、「古代出雲王国」の大王は、スサノオ~ニギハヤヒで

出雲大社に祀られている「主祭神」は、スサノオだと確信している


では・・・大国主とは何者なのか?

小国が乱立する時代、一人の王を立てて統治した

小さな国(部族)が集まって、大きな国の形を形成し

その国々を束ねる人間の呼称が「大国主」だった

大国主は「一人の神名ではない」と勝手に思っている


私は「邪馬台国」と「古代出雲国」は同等の規模、あるいは

出雲の方が巨大国家だった可能性を感じている

天皇家は「邪馬台国(やまとこく)」の流れであり

その后は代々「出雲王族」から選ばれた

それゆえ、天皇は「男子」であることが絶対条件であり

后がスサノオの末裔が納まる「定席」だったと思っている


万世一系とは、ヤマト(邪馬台)国の男子の血統であると同時に

スサノオ(古代出雲国)の血統でもあった


そう・・・あったのだ あのときまで・・・。

皇后家としてのスサノオの血流を閉ざしたのは、中臣鎌足

と中大兄皇子らである

なぜ? 「出雲」は祟る(たたる)のか・・・

どうして、スサノオの子孫でもない人間が祭祀を行うのか

それは、スサノオの血脈を絶えさせた「恐怖」から起こったもの

祀る子孫が居なくなると、その霊は祟ると考えられていた時代

蘇我本宗家を滅ぼした「罪悪感」こそ、「杵築大社」造営の

きっかけだったのではなかろうか・・・。

蘇我本宗家こそ、スサノオの正当な継承者だった

蘇我氏の権勢の大きさは、皇后家として至極当然であり

その皇后家の資格の無い、藤原(中臣)氏の簒奪劇が

乙巳の変(いっしのへん)であり、手柄を横取りしたのが

「大化の改新」と言われるものだったと思っている。


【 続日本書紀 元正天皇 霊亀二年二月丁巳

 ・・・伝えて曰く、始祖天穂日命、斎(ゆにわ)を大庭に

 開く。此処に至りて始めて杵築の地に遷す・・・】

これは北島家に伝わる「出雲国造家文書」の中の

「出雲国造世系譜」に記されている、26世 出雲臣果安の

項に記載されている文章の、一部抜粋である


出雲大社の前身である杵築大社は、最初は松江市大庭で

熊野の大神を祀っていたが、霊亀二年に杵築の地に移り

その時から熊野の大神と共に、大国主を祀るようになった

そう解釈できる

そして・・・霊亀二年とは 716年

【 新任の出雲国造は任命されるに際して上京し、負(おい)幸物

(さちもの)という品々を天皇から下賜されて帰郷し、1年間潔斎を

終えた後、一族と共に再び上京して天皇に賀詞を奏上する。

それも二度繰り返すという膨大な儀式である。

この儀式は最初が元明天皇の霊亀2年(716年)である。】

そう・・・すべては 716年を起源としていると思えてしまう。

まだまだ 出雲大社は不思議がいっぱいである(つづく)

                   



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◎  出雲国造家と天皇家 (2) 

出雲と言う言葉を聞くと、出雲大社、出雲地方

さらには出雲族、出雲国造まで同じ視線から

観てしまう・・・・。

めんどくさい話だが、これは別物として分けて

考えないとおかしな事になってしまうのである。

出雲国造家・・・アマテラスの血筋という事になっている

不可解な事である!

オオクニヌシは「祟る神」である、「古事記」にもちゃんと

記されている話だから、間違いなく「怨霊」だった

怨霊(祟り神)」を祀れるのは、その子孫だけである。

三輪山の大物主を鎮めるため、探し出されたのが

大物主の子孫である「大田田根子命」であった。

このことから言えば、オオクニヌシを祀れるのは

少なくとも「国造家」がオオクニヌシの子孫でなければ

つじつまが合わない・・・。

国造家は「アマテラス」の子孫と言うことになっているし

親戚だからと言うわけにはいかない

古代において、任命されたから当然という話にはならない

何事にも「決め事」と「理由(わけ)」が無くてはいけないのだ

もし・・・オオクニヌシの子孫でないというなら、残る要素は

祭祀の長という色合いより、オオクニヌシの監視・牢番として

国造家は赴任したのではないだろうか?

この神社(出雲大社)の祭儀は「まるで葬儀のようだ」という人も居る

これはまたの機会においておこうと思う・・・


この系図問題も、古の権力者が捏造・改竄した結果、不細工な

系図になったものと考える

この系図を信じるならば、「阿多命」の子孫には「出雲振根命」

や「野見宿禰(のみのすくね)」 がいる

野見宿禰といえば、「相撲」の神さまである

当麻蹴速との力比べで勝ちを得たことで有名だ

出雲振根命といえば・・日本書紀・崇人天皇の条にある

話の、弟・飯入根との事件が著名である

天皇が出雲大神宮に神宝の献上を命じたとき,兄に無断で

献上したため,兄に恨まれ殺された。

その出雲振根命は、崇神天皇の命により吉備津彦らに

誅殺された。

しかし・・・これを信じるわけにはいかない

崇神天皇の時代に「出雲大神宮」などと呼ぶわけが無い

この「出雲大社」は明治初頭まで、「杵築大社(きづきたいしゃ)」

と呼ばれていた

しかし、この杵築大社は元々、丹波にあった「出雲大神宮」を

遷したものという (丹波国風土記より)

私は懐疑的な記述に思っている、その中に書かれる文が

・・・杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。

もうお分かりと思うが、風土記編纂の時代に「出雲大社」

などと言うはずもない、さらに和銅年中という時代は、あの

元明天皇の時代、まさに「日本書紀」を編纂している最中である

ただし・・・これがすべて嘘かと言うと、満更「うそ」と捨てるわけには

いかないのである。

杵築大社の主祭神が「スサノオ」であり、後から丹後に祀られていた

「オオクニヌシ」を遷したともいえる。

「日本書紀」を編む時点で、何らかの「思惑」に駆られて、出雲の処遇を

変えた可能性も考えられるのだが・・・。

さて、国造家の話に戻ろう・・・

現在の「出雲国造」は第84代 千家尊祐(たかまさ)氏である

「出雲国造」が代替わりする際、朝廷に参向し「出雲国造神賀詞」

(いずものくにのみやつこのかんよごと)を奏上する。

これも 716年 に行ったのが最初と言われる儀礼だ

日本の大きな変革は、決まって7世紀後半~8世紀初頭に端を

発するのは   偶然なのか・・ 必然なのか

あの「伊勢神宮」の式年遷宮も同時期に行われている

というより、「伊勢神宮」そのものが、この時期に現在の姿に

なったのではないか・・・と私は思っている。

同時代に「伊勢神宮」「杵築大社」が現在に近い形で造られ

その両方が「暗号」めいた存在と言うのも、気にかかるのだ

参拝した方なら、誰でも記憶があると思うが、参道が不自然に

曲がっていて、一の鳥居を過ぎて曲がらなければ、二の鳥居に

たどり着けない・・・祟り神を祀る神社形式である。

出雲大社にいたっては、マトモに拝ませてもらえない

いや拝む事を拒絶するような構造になっている。


「出雲国造神賀詞」

大穴持命(おおあなもちのみこと)の申し給(たま)わく

己命(おのれみこと)の和魂(にぎみたま)を

皇孫命(すめみまのみこと)の 近き守り神と

貢(たてまつ)りおきて・・・


これは大穴持命(大国主)の名を借りて、国造が

皇孫(天皇)に忠誠を誓う文言(もんごん)である

祟る神が忠誠を誓うなど・・・ありえない話ではないか

これこそ「大国主」の子孫しか祀ることができない常識

を無視した祭祀の形ではなかろうか・・・。

(つづく)

                    

◎  出雲国造家と天皇家 (1) 

出雲には特別なことが幾つかある

その一つに「出雲国造家(いずもこくそうけ)」

または、「くにのみやつこ」と呼ばれる祭祀を

司る家系がある。

基本的には「一子相伝」といわれている

おそらく・・・この国造家を書き出したら、長い時間が

かかるかと思われ、複雑な諸事情も絡み、進んでは戻り

を何度も繰り返すかもしれない。

私個人の勝手な推理・妄想に我慢してくださいますよう

願うばかりであります。


出雲国造家は南北朝から明治期まで「千家氏」、「北島氏」に

分かれていたことがある

いわゆる「お家騒動」「跡目争い」というお決まりの内紛である

私個人の考えであるが、系統という事から言えば「北島氏」

が本流だろうと思ってはいる。

どちらにも言い分はあるだろうが、本を糺せば同じ親から産まれた

兄弟の争いである、良いも悪いも関係ない話だが

皇統は男子を以って継承すべし

を当てはめれば、千家氏の系統は娘婿である「大熊某」の血筋

に替わっていると観てよいと思う。

さらに分裂より25代前の古文書には、「出雲国造家北島」の

記述があり、相当昔から国造家の氏は「北島」だったと推察する

これが国造家の正統は「北島氏」ではないかと言う、私の

貧弱な持論の根拠である。

しかし、なぜ明治政府は「千家氏」を国造家と認め、「北島氏」

を「吉備津神社」に転勤させてしまったのか? 

今となっては闇の中である・・・。

国造家の家系図をみると、面白い記述があった

11代 阿多命 となっている・・あの「阿多」が此処にある

隼人・阿多族と関連はあるのか?

17代から「出雲姓」を名乗っているが、アマテラスの子孫を

称していて、「阿多」が祖先とすると、神武天皇とのかかわりは

複雑になって来る

国の制度としては廃止された「国造家制度」、今尚「出雲国造」と

いう呼び名の慣習だけが残り、職名が今では敬称のように扱われて

いるのである。

出雲大社では「宮司」、「神主」という呼び方はせず、「国造」という

呼ばれ方をしている稀有な神社である。

(つづく)

                  

 

◎  蘇我本宗家とは何者だった 

蘇我氏

蘇我氏というと、私達は学校の授業で教わった

大和朝廷で権力をほしいままにし、天皇にとって

替わろうとした悪人の家系(宗家)で、中大兄皇子と

中臣鎌足によっって誅殺され滅亡した。

さてさて・・・

蘇我本宗家が稀代の悪者と言っているのは誰なのか?

もちろん歴史の勝者である、天智天皇系と藤原(中臣)系

の末裔たちである。

ここでも、通説といわれる歴史だけが存在し、事実は封印

されたままである。

数々の疑問が在りながら、未だに 蘇我宗家=悪人 で理解され

ている。

では、蘇我という名前は本当だろうか? 

蘇 は蘇る つまりは死んだものが【よみがえる】ことであり

あまり良い字義とはいえないし、大和最大の権力者が好んで

使う文字ではないと考える。

音が【そ】の文字はいくらでもあり、本人が選んで使用するとき

字義の悪いものは避けるはずであり、誰かが後から書き換えた

と思うのは無理だろうか・・・

吾(我)は蘇る・・・・いかにも権力者が拘りそうな意味に思える

権力の最高峰に立つ権力者は、落ちることを想定し、蘇ることなど

口にするはずも無い、なぜなら「言霊思想」の時代なのである

「蘇る」という事を口にすれば、滅ぶ事を前提にする事となり

あろうはずの無い、文字選択となる。

以前にも書いたが、馬子・蝦夷・入鹿などの名前も、本名か

どうかは疑問が残る、理由は氏と同様に、権力者が好んで

わが子につける名前とは言いがたい・・・。

僧・道鏡事件のとき、使者にたった「和気清麻呂」に憤慨した

称徳天皇は「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」という名に

改名させたのは有名な話である。

私は「蘇我」は、「スガ」若しくは「スサ」だったのではないか

と思っている

出雲大社の北に鎮座する、「須賀社」を見てそう感じている。


さて、日本の最初の歴史書である「日本書紀」には、驚くほど

年代・年月の誤った記述が多いが、乙巳の変と大化の改新だけ

まともな年代記述になっている。

見方を変えれば、日本の歴史は「乙巳の変」を起点に、語り継がれ

ていると言っても良いと思っている。

きくけた政権、約定されたルールをしい王権になった

それが「大化の改新」という出来事だった

なぜ 「蘇我本宗家」は滅ぼされたのか?

蘇我氏は由緒正しい、日本の王族だったからである

古代天皇家と古代出雲王国の統合に際し、天皇は

天皇家の男子を以って継承し、后は出雲国から娶り

外戚たる皇后家は政治の全権を司る役目として継承

するという、暗黙のルールが成立して、ヤマトと出雲の

統合が完成した、日本国の誕生である。

その約定に「物申した事件」が乙巳の変であっただろうと

思っている。  (つづく)

                  


◎  スサノオとオオクニヌシは祟る神 

大国主神と大物主神は、同じ神の別名という事になっている

これを素直に信じてよいものか・・・

「大神神社」に祭られている大物主神、正式には

「倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたのみこと)」

といい、大物主という名の一部が世に知られることとなっている。

「クシミカタマ」といえば、櫛甕玉・櫛甕魂・櫛玉であり

「天照国照日子天火明奇甕玉饒速日尊」

つまり、「ニギハヤヒ」のことだという

栃木県・大神神社 【倭大物主奇甕玉尊】

群馬県・美和神社 【大物主奇甕玉尊】

島根県・来待神社 【大物主櫛甕玉命】

愛媛県・国津比古命神社 【天照国照彦火明櫛玉饒速日命】

兵庫県・井関三神社 【天照国照彦火明櫛玉饒速日命】

福岡県・天照神社 【天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)

これを観ても、大物主と櫛甕魂と饒速日が同一であることを

指し示しているようだ

ということは、「石上神宮(いそのかみじんぐう)」の主祭神

「布留御魂」と「大神神社」の主祭神「大物主」は同一神と

いうことになる。

天皇家の祖神である「天照皇大神」の初参拝が、明治期だった

ことと、初代天皇・神武天皇を祭る神社が明治期まで僅かしか

無かった事実をどう考えるべきか・・・・。


出雲大社

最近の発掘で立証された、三本束ねた大柱によって、聳え立つ

社殿、長さ百メートルもの階段を昇りきったところからみる景色

とはどんなものだったろうか・・・。

出雲については何度も書いてきた詳しくは こちら を参照 

おさらいすれば、本殿の主祭神といわれる「大国主」は西を向いて

鎮座していて、参拝者は北に向かっているのだから、私達の横を向く

形になる。

さらに、参拝者と大国主の間には壁があり、直接見ることはできない

その主祭神である「大国主」は、本殿右半分の場所に位置し

左半分の場所は「御客座五神」が陣取っている

その五神と大国主を分かつように「心の御柱」が聳え立つ

その拝殿の外、北側(本殿背後)に「須賀社」が建っている

祭神はあの「スサノオ」であり、まるで参拝者は「大国主」の横顔

を跨いで、スサノオを拝む形になっている。

そして、「出雲大社」の造りは「怨霊を祀る」神社形式になっている

いや・・・そうではない、古くから存在する著名な神社は少なからず

怨霊を祀る形式になっていると思えるのだ。

本来、拝殿を設けて祭神を祭るのは、鎮魂・怨霊封じのためであり

怨霊は直線的にしか動けないという考えから、参道は直角に曲がったり

大きくカーブする参道になっていた

裏を返せば、おなじ「祟る祭神」を祭る神社であっても、参道が曲がって

いないなら、近代になって建てられた神社と考えるべきである。

出雲大社が怨霊を祀り、その祭神が「大国主」若しくは「スサノオ」で

あった場合、どちらも「祟る神」であることに違いは無いだろう


スサノオもオオクニヌシも 祟る神 である 怨霊 だった

という推理は外れていない気がする。

次は・・・「蘇我氏」の出番だ・・・(つづく)

                   


◎  スサノオの家系と万世一系 

こう言うのをなんと呼ぶのか・・・・

数日前、やっと連休だと浮かれていた自分が居た・・・

昨日は、数日前に決まった、友人達とゴルフ・・・

そして、今日、友人の親が亡くなり

明日、明後日と葬儀が入ったため、連休は予定びっしり

取らぬタヌキの・・・である

この際だから、古くなった礼服を購入しようかと思っている。

寄る年波で腹回りも変化し、窮屈極まりない状態だ


さて、古事記には日本書紀に、書かれていないことが

書かれていることがある

私達が眼にし、耳にすることは「記紀」として、両方の

記述を混ぜ合わせて、理解している事が多い

その代表が「出雲」である

書記には全く記されていない出雲

古事記においては、神話という形式ながら、出雲の国譲り

として記されている

本当に同じ時代、同じ権力者の意を汲んで書き残されたのか

疑問に感じるのである

日本書紀は出雲を全く封印し、まるでそんな国が無かったか

のように、気配すら残していない

ところがなぜか、古事記は出雲と言う国があったことを

神話として書き残した

藤原不比等にとって、出雲に触れる事は「厳禁(タブー)」だった

それは父たちが犯した罪によるもの

ヤマト建国の「暗黙のルール」を破った罪を隠すためだと思える


万世一系とは、天皇家は男子を持って継承し、その后は

「外戚」と呼ばれる家系から、代々送り込み、その外戚の主が

国政を取り仕切る約定があった

その外戚は「古代出雲王国」の王家だった「スサノオ」の家系に

限られていた・・・と渡部雅史氏は言っている。

そこで、スサノオの家系についてだが

結論から言うと、スサノオの父親は「布都御魂(ふつのみたま)」

スサノオの「八岐大蛇」退治で大蛇の尻尾を切り裂いた「剣」のこと

とされているが、出雲・宇美神社の由緒から、生身の人間であった

とされる

奈良県にある「石上神宮」は、日本最古といわれる神宮であり

「物部氏」の宗廟でもある

ここに祭られている祭神は、崇神天皇の手によって、「ニギハヤヒ」の

荒ぶる魂を祀ったものだといわれている

「布都御魂(ふつのみたま)」

「布都斯御魂(ふつしのみたま)」

「布留御魂(ふるのみたま)」

「宇摩志麻冶尊(うましまじのみこと)」

という親子四代が祭られている

布都斯御魂は「スサノオ」のことであり

布都御魂はスサノオの父親

布留御魂は主祭神の「ニギハヤヒ」

そして宇摩志麻冶尊はニギハヤヒの子で

スサノオの孫に当たるという

なぜ布留御魂が主祭神であるのか?

石上神宮のある地が「布留山」であり、神宮の入り口

に「布留の社」という石標があって、其処を流れる川の

名が「布留川」ということから判断された。

以前、歴代天皇で最初に「伊勢神宮」に参拝したのは

「明治天皇」だったと書いた

天皇の祖神が祭ってあるはずの「伊勢神宮」にどうして

歴代天皇は参拝しなかったのか、甚だ疑問に感じていた

歴代天皇が参拝したのは「大和の三大神社」と呼ばれる

「石上神宮」  「大神神社」  「大和(おおやまと)神社」

であったといい、アマテラスは伊勢の地に、神武天皇など

明治時代に「橿原神宮」ができるまで、「宮崎神宮」に祭られた

だけであったと言う事実が、日本書紀の記述の不可解さを

如実にあらわしている。  (つづく)

                 


◎  出雲王国の謎が解けるか 



今日は連休初日(私にとって)で、今年初めてのメダカの

孵化があり、また養うメダカの数が増えた・・・・。

今日、卵から孵ったのは15匹くらい、孵化した稚魚の半分が

成魚になるとして・・・今年は400匹の大所帯になる計算だ

養子先を早く見つけなければ、大変なことになる(笑)



私は「古代出雲王国」というものが、たぶん存在して

いただろうと考えている

多くの人が「邪馬台国」に注目すればするほど

私の目は山陰地方に向かうことになった

「へそ曲がり」だからと言うわけでもない

藤原が編んだ「日本書紀」以前の日本の歴史に関する

文献が無いことを観ても、腑に落ちないことが多すぎる


2ヶ月以上前に、ある書籍を購入したが、多忙ゆえ本棚で

開かれること無く鎮座していた一冊の本

今日の午後、気づいて読み出したところ

どうして早く読まなかったのか・・・という内容の本だった

その書籍は「大和朝廷成立の謎」 渡部雅史著 である

私が疑問に感じていたことに、答を出してくれて、さらに考える

ヒントまで書かれていたのである。


以前のこのブログでも、出雲大社やスサノオ、オオクニヌシの

疑問と謎、蘇我氏滅亡の不自然さなど、いろいろ推理してきた

その方向性が、大きくは間違っていなかった気がする

この著者の説が真実と言うほど、古代史は生易しいものではない

だが、私の疑問と驚くほど波長の合う、解釈・説明に胸躍る思いだ

読み終えたばかりなので、頭の中の整理がついていないので

少しずつ「壮大な出雲王国」の話を、私の推理を補足する形で

渡部氏の記述を紹介したいと思っている。


やはり 日本は「万世一系」の国だった

出雲大社の主祭神は「スサノオ」だった

乙巳の変は日本の実権を奪ったクーデターだった

スサノオ・オオクニヌシは怨霊だった

蘇我氏は由書正しき天皇家の外戚だった


このような事を整理して、書き綴って行きたいと

思っている。

                  


◎  私の内の神さま・神道 

ご存知だろうか?

「神道」には「経典」も「戒律」というものも存在しない

だけど・・・宗教だと言われる


作法はあっても、祝詞を唱える人はあまり見かけない

「わずかなお賽銭」を出して、ささやかな「ご利益」を願う

宗教のようであって、宗教のようで無い

それが「日本神道」である


私達日本人の身の回りに何時も在って、疎遠になったから

と言って、「罰」が当たるわけでもない

「神さま」を広めなさいとは、誰も言わないだろうし

神さまはそれを望んではいない気がするのである。


しかし、「神社」サイドでは、PRに余念が無い・・・・

賽銭の多少は「神社に関わる人の死活問題」だから

勧誘にも力が入るのか?


「宗教心」というのは、「気づく」事だと思っている

宗教心が芽生える・・・とは

何かに「気づく」ことではなかろうか・・・・?

気づいたから信じ、気づいたから大切にする

自分にとって大切だからと言って、他人に押し付ける

のは、少し違っていると考える

「気づく」のは、他人様から言われて気づくことではない

自ら気づくことが肝心なのであり、勧誘・布教は言葉は悪いが

押し付け・洗脳のようなもの・・・

自分の意思で、身の回りの大切なものに「気づき」、首(こうべ)を

垂れ、手を合わせることが、「神教」であり、「神道」ではないかと

私は考える。

他人様に言われなくても、「神さま」は直ぐ傍に居て、何時も

観ているのであるから、私達は何時(いつ)「気づく」かだけなのだ

一生涯、気づかない人が居ても、それはそれで良いではないか

神さまは、気づこうと気づくまいとに関わらず、私達のすぐ傍で

観ていてくれる

日本の神さまとは、そういう「ありがたい」「温かい」モノなのである。


                     



◎  疲れがピーク 

五月も残すところ、あと一週間

ようやく明日から「五連休」、遅まきながら

ゴールデンウィークがやってくる

が・・・老体は満身創痍の状態

腰や肩、背中と「***があるじゃないか」を

貼りまくっている(笑)

手足の傷は数え切れず、衰えは確実に到来している

認めたくない自分が居て、認めざる得ない現実がある


現実と言えば、国を憂うのは「マイノリティー」という事を

日々痛感させられている

何処までも果てしなく、今の日本人は「お花畑」なのか・・・・


連休中、体調がよければ、どこか大きな神社にでも

行こうと思っている

哀しいときの神参り

切ないときの神詣で

神さまは「きっと観ている」

いっそ、「伊勢神宮」にでも行ってみようか・・・

電車に乗るのは9年ぶり・・・

どんな生活している? と言わないで欲しい

田舎暮らしは、「マイカー」頼みが常識で

バスに乗ったのも、9年前・・・・

タクシーすら7年以上も乗った記憶が無い(笑)

今年が健康で居られれば、松本城を観たいと思っている

来年は姫路城かな・・・鬼が笑うか

バツイチになって不便な事は、ただ一つ・・・

観光旅館は一人では、なかなか泊めてもらえない現実

超高級老舗旅館なら、お金次第だろうか?

だから、いつもは「ビジネスホテル」が専門である

観光が主目的だから、少し遠くても、時間の無理が利く

ビジネスホテルは重宝する。


とりあえず、今年の目標は「松本城」「伊勢神宮」だな

                   




◎  漢字の伝来と「古代出雲王国」 

古事記・応神天皇の段に曰く

【かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)

 すなはち論語十巻、千字文(せんじもん)一巻、併せて

 十一巻(とおまりひとまき)を、この人に付けて貢進りき】

これを素直に読めば、応神天皇の時代に、百済が王仁博士

とともに、「論語」十巻と「千字文」一巻を献上したという


これは「騙り(かたり)」である

千字文とは・・・子供に漢字を教えるために異なった千の文字

を使った漢文の長詩で、中国・南朝の梁(りょう)で6世紀前半に

作られた物のようなのだ・・・。

応神天皇の治世は、4世紀後半から5世紀初頭である

その時代に6世紀に作られた「千字文」が、百済から伝わるのは

不可能としか思えない

日本に「漢字」が伝わったとされる時代が4~5世紀の頃という

根拠が、古事記・応神天皇の段なのである

なぜ? 嘘をついてまで事実を隠したのか・・・

結論から言えば、それ以前に日本のどこかに、「漢字」が伝えられ

その事実が、ヤマト王権には「不都合極まりない」ことだったのである。


その不都合こそ、「出雲王国」の存在と、「出雲」と「呉」の国交の事実


三国時代の「呉」から「出雲王国」に、漢字が伝わっていた事を認める

ことは、「古代出雲王国」の実在を認めることになり、日本書紀の

編纂者である藤原不比等にとって、絶対に認めるわけにはいかなかった

重要な歴史事実だったことになる。

三国・呉は222~280年に在った中国の王朝であり

その当時、「古代出雲王国」と「呉」、古代ヤマトと「魏」が国交を

結んでいたと思われ、ヤマトにとって出雲からヤマトという図式は

好ましくなく、あくまでも「古代ヤマト」から「ヤマト」でなければ

不都合だったという事だろう。

なぜなら、古代出雲王国を滅ぼしたのはヤマトであり、すべて

古代ヤマトの物として伝えることに、矛盾があったのかもしれない。


                    

◎  創られた「女性天皇」説 

私はある「思い込み」をしていた

多くの歴代天皇の経歴には、舒明天皇の皇太子は

中大兄皇子だとされていたため、それが通説と考えていた

しかし、「日本書紀」には、そんな事は一切書かれていない

唯一その事に言及しているのが、「万葉集」である

確かに、どちらが事実と言うわけにもいかないが

それが事実なら、正史に書き残して何ら問題は無いはずだ

乙巳の変から長いときを経て、即位したと言う話すら、少し

疑いたくなってくる。


手元に「万葉集」に関する書籍がある

その著者は、「小林恵子(やすこ)」氏である

その中に面白い話を見つけたので紹介したい

信じる信じないは、個人の判断に委ねたいが・・・

(あくまでも小林氏の自論であり、事実は誰にも

解らない・・・。)

結論から言えば、皇極天皇と言われる「女性天皇」は

居なかったと言うのである。

現在皇極朝とされている時代の天皇は、聖徳太子の

子である「山背大兄王」だった、その王朝を滅ぼしたのは

「中大兄皇子」と「大海人皇子」、そして「蘇我蝦夷」だった

その後、蘇我蝦夷は「古人大兄皇子」を天皇の座に据えた

そして・・・危機感を覚えた「中大兄皇子」が入鹿を斬り殺し

(乙巳の変)、即位が実現可能になったという事である。


推古天皇も女帝ではなかった、という仮説が進み

今度は皇極天皇は即位していなかったとなると・・・

歴史上の女帝は持統天皇が最初となるが・・・。

(この「持統天皇」にも、本当は女帝ではなかった・・・

という話があるが、次回にでも・・・。)


聖徳太子の子(用明天皇の孫)を差し置いて、女性(皇后)が

即位する不可解さが、少し解消された気がしている。

卑弥呼(ひみこ)の先例を、利用して「女性天皇」をもぐりこませた

背景には、朝廷を二分するような諍いが起きていて、その諍いを

隠すために、「女性が統治すれば、治まる」という逆発想から

考えられた話なのかもしれない・・・。


                       


◎  血統とクーデターと女帝 

生意気な事を言わせて貰うと・・・

日本の歴史を考えるとき、普通はヤマト成立頃から

現代に向かって遡ってくるのである

本当にそれで良いのだろうか?

私は日本の歴史は残念ながら、持統天皇の時代を

起点にして、一方は過去の時代に降り、一方は現代に

向かって遡る道筋が本当だと考えている。

日本に「文字」が伝わったのは、3世紀とも4世紀とも5世紀

と言う人も居る

中にはそれ以前に文字は、伝わっていたらしいと言う方も居る

では仮に、文字が入ってきたとしたら、誰がそれを使ったのか

平安のエリート女性でも、難解だった「漢字」である

おそらく経典として、日本に伝わったのが最初だろうか・・・。

力を持った「古代豪族」の大王と、その側近しか眼にする事は

無かったかもしれない

では、どうして持統天皇の時代(天武朝)まで、書物・文献が

伝わらなかったのか?

伝わらなかったのではなく、伝えなかった・・・

燃やしてしまったと言うのが正解かもしれない(焚書)

だれが?

それは、持統天皇(天武朝)以降の権力者達に不都合があったから

そう考えるのが、最も正しいと思っている。

出自を飾り、家系を良く見せるのは、この世の常套手段であり

誇れる家系なら、何も他人様のことを貶めなくても、不都合はないはず

論理的に考えれば、答えは明白である

後ろめたい気持ちが、過去の消滅と、過去の捏造として現れるのだろう

ひたすら過去の歴史を改竄しても、辻褄の合わないことは、無視して強引な

歴史書に仕上げた為に、一書(あるふみ)と呼ばれる、古代豪族の文献

を写す事で体裁を繕った。

おそらく、一人の人間が徹頭徹尾、携わって仕上げたものではなく

複数の人間が長い時間(年月)をかけて、形にしたものが「日本書紀」

という歴史書だと考えている。

何処までが虚偽で、何処が本当なのかなど、今さら知ることはできない

唯一知る術は・・・タイムマシンを作り、その日 その時 その場所に

立ち会う事でしか歴史の真実の正解はありえないと思っている。


話を戻そう・・・

持統天皇に対する疑問は、幾つもある・・・

なぜ? 伊勢だったのか・・・

なぜ? 天孫降臨だったのか・・・

なぜ? 女性が即位したのか・・・


古代の天皇は、群臣の総意によって、祭り上げられた王で

実務は群臣たちが集まって遂行していた

にも関わらず・・・若いからと言う理由で、即位できなかった皇子たち

それは理由にはならないと、私は考えている

即位させたくない理由とは・・・


私が日本書紀の記述を読むとき、物差しにしているのが

悪く書かれた人間は、好人物だったと思って読むことにしている

祟ったと書かれた人物は、いわれの無い罪で、非業の死を遂げた

好人物、絶妙のタイミングで崩御した天皇は、誅殺された可能性あり

そういう目線で読むと、これはこれで面白いのである。

褒め殺し的な「賞賛」された人物は、捏造か架空の人物であり

手柄を大仰に書かれた人物は、「身内」にたいする「ヨイショ」である


日本の朝廷は過去に何度も「政治クーデター」を行っていた

暴論である・・・お許し願いたい

おそらく、一度目は 推古天皇の時代~皇極天皇の時代

二度目は、持統天皇の時代

いわゆる「天智朝」と言われる革命である

乙巳の変が最初で、天武朝から再び天智朝の血筋に戻したのが

二番目だと考えている。

私は「万世一系」は血筋の系譜とは思っていない

心の系譜という表現が適切かどうかはわからないが・・・

日本人のDNAの系譜の一つだと思っているのである。

血筋と言うモノが、いかに曖昧なものか・・・

例えばである・・私の先代は父母二人である

その先代は各々の両親が居て、四人になるこれで2代前だ

計算してゆくと、10代遡ると1,024人の先祖が居て、更に10代

遡ると私の先祖は1,048,576人になり、さらに10代遡ると

ようするに30代前は33,554,432人の先祖がいる事になる

30代前がどの年代になるのか見当もつかないし、その当時

3300万人も人口が居たとは思えないが(笑)

それほどまでに、血筋血統など時代を大きく遡れば、水より

薄い話となる

私が言う万世一系は血筋ではない、という理論はここからきている

この話を持統天皇に、直接聞かせたら、どういう反応をしてくれたか

そう考えると、とても愉快な気分になるのである。

                     


◎  女帝 推古天皇の謎 2 


さて、推古天皇が女性でなく、男性だったのではないか

前回そう書いたが・・・

なぜ、史書は偽りを記したのか?

それは、史書を編纂した時代が答を出してくれる

持統天皇・・・天武天皇の后でありながら、数多居る

皇位継承者を差し置いて、皇位を奪った女帝である。

先例(前例)があれば、誰憚ることなく即位できる

その先例が無ければ、創ればよい話なのだ

では何がおかしいのかを考えてみたい。

まず推古天皇は敏達天皇の皇后とされているが

これも疑問である

本来、皇后、皇妃、皇夫人などの呼称はあるが

敏達天皇の時代は、皇后という呼び名であり

それも一人が常識である

それなのに、敏達天皇だけは、二人の皇后が居たことに

なっているのである

息長広姫と豊御食炊屋姫(推古天皇)である。

本来ならば、一人が皇后、もう一人は皇妃であるはず

その名前も、「豊」「御食」「炊」の文字からも「ミケツ神」

「豊受大神」を連想させるではないか・・・。

考えようによっては、尤もらしい「天皇妃」を作り上げたと

疑ってしまう。

伊勢に「アマテラス」「トヨウケ」を祀ったのは「持統天皇」

アマテル神をアマテラス神に替えた張本人である。

では、推古天皇とは誰だったのか?

これは、またの機会にでも、考えることにしたい。


推古天皇には、有力な皇位継承候補が二人いた

田村皇子と山背大兄王である

結果として、田村皇子が即位し、舒明天皇となった

というのが、歴史書に書いてあることだが

推古天皇が捏造・架空であったならば、どう考えればよいか

もともと「継体天皇」の血筋が、一つの流れになっているが

欽明天皇の血筋から見れば、敏達天皇(継体系)ともう一つ

用明天皇(蘇我・物部系)に分かれる

蘇我・物部系は、用明天皇、崇峻天皇、聖徳太子、山背大兄王

と不審死・悲劇の死を遂げた人物ばかりである。

蘇我・物部系の天皇の流れを断ち切るための謀略があったのか?

それとも、蘇我・物部の凋落は、中臣氏の政治クーデターであり

天智天皇の異母兄である「古人大兄皇子」を推す蘇我入鹿を

抹殺する事が、即位の最終手段だった「中大兄皇子」の利害が

一致したために起こった「大化の改新」だったとも考えられる。


もう一人の女帝、皇極天皇である

これも、私は胡散臭い即位だと思っている。

舒明天皇の皇太子は「中大兄皇子」である

ところが若いからという理由で即位できなかったという

その当時16歳くらいか?

しかし、厩戸皇子の皇子である「山背大兄王」が成人していた

皇后が即位するより、蘇我馬子の孫にあたり、用明天皇の孫

である「山背大兄王」が即位できない理由は見当たらない。

史実から言えば、蘇我蝦夷の権勢が大きい時代、甥である皇子

の即位は願っても無い話、反対する理由が疑問であり

本当に「山背大兄王」は実在したのだろうか?

古人大兄皇子を天皇に推す「入鹿」、皇子の強力なライバルが

「山背大兄王」だったとされるが、なおのこと舒明天皇の次は

山背大兄王だったと考えるのが普通だと思うのである。

用明天皇の皇子である「厩戸皇子」が即位できず

その皇子である「山背大兄王」も即位できなかったなど

状況を考えれば考えるほど、不可解としか思えないのである。


                     


◎  私は解らない・・・ 

ウワ = カンガルー

何のことか?

上の二つの言葉の意味は、「解らない」である。

昔、オーストラリア大陸を訪ねた「欧州人」は

奇妙な動物を観た・・・・

そこで、原住民に尋ねたところ、原住民は彼ら欧州人の

言葉が理解できず、「わからない!」と答えた

それを聞いた欧州人は、その奇妙な動物の名前は

「わからない」だと、かん違いして覚えてしまった。

その原住民の言った「わからない」こそ、「カンガルー」

だったのである。


愛媛県にある「宇和島」、あるいは昔の地名に「宇和郡」がある

「ウワ」とは、古代原住民といわれるアイヌの言葉で・・・・

「解らない」という意味である。

まさしく、日本の「カンガルー」ではないか・・・。


宇和島は「わからない島」、「知らない島」だったのか?

だれにとって、知らない島だったのか?

だれが、わからない島と言ったのか?

旧仮名遣いでは、「ウワ」は、「うは」である

「さ」は古語で「神さま」のことをいう

「うわーさ」とは、知らない神? わからない神?

あるいは、「神のみぞ知る」という事だったりするかも

「うわさ話」は気をつけたいものである(笑)


今日は少々疲れ気味にて・・・

言葉遊びの更新となりました ではまた・・・・。

                       


◎  女帝 推古天皇の謎 

日本の女帝の最初は、33代 推古天皇 と言われている

歴史書に書いてあるから、「事実だ」という事だが・・・

若し、事実なら不可解なことの説明がつかないことがある。


崇峻天皇が暗殺され、その後即位したのが推古天皇(39歳)である

未だ「女性天皇」が即位した例が無いにも関わらず

数多居る「皇子」「王」を差し置いて、即位したことに納得がいかない

このとき・・・厩戸皇子(聖徳太子)御歳19歳である

文献によれば、厩戸皇子の年齢が若すぎたから即位できなかった

そんな話がある・・・笑ってしまう話である。

過去の例を取り上げようにも、推古天皇以前の天皇の生没年さえ

解らない状態で、皇子が若すぎたから即位できなかったとは

理屈にも何もなっていない(笑)

それを踏まえて、推古天皇の皇太子は「厩戸皇子」であり、

厩戸皇子に政治の全てを任せたという (摂政)

政治の全権を委ねられるほど、厩戸皇子は能力が高かったのであり

「若すぎた」のが、即位の障壁には成り得ない

若すぎるというのを、不承不承認めたとしても、厩戸皇子が亡くなった

のは皇子49歳のときである。

その30年の間も、若いから即位するに値しないとでも言うのか?


私は、「推古天皇」女性説に疑問を持っている・・・・。

若し、推古天皇という天皇が実在なら、それは女性ではなく男性

(男帝)だったと思っている。

根拠は「隋書倭国伝」の記載によって・・・・

 【開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比弧

 阿輩雞弥と号す。使を遣わして闕に詣る。上、所司を

 してその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以って兄と

 なし、日を持って弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を

 聴き跏趺して座し、日出れば便ち理務を停め、いう我が弟に

 委ねんと」と。高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここに

 おいて訓えてこれを改めしむ。王の妻は雞弥と号す。後宮に

 女六、七百人あり
。太子を名づけて利歌弥多弗利となす。

 城郭なし。】

開皇二十年というのは、西暦600年であり、まさに推古天皇の時代

遣隋使の様子を書き残した「隋書」には、明らかに「多利思比弧」

と記されており、「帯彦(たりしひこ)」という字名だとある

妻が居て、「キミ」と呼ばれ、倭王は「オオキミ」と呼ばれていた。

後宮に女性が600~700人居たとされ、倭国の600年当時

女性を多く従え、妻を娶る「男帝」だったことになるのである。

若し・・・若しであるが、推古天皇が男の天皇であったならば、あえて

譲位してまで、厩戸皇子に皇位を渡す理由が無かったと思えるのだ

皇太子のまま、摂政として力を振るった厩戸皇子が即位できなかった

最大の理由がぼんやりと見えた気がする。

それにしても、推古天皇の生没年は残されているが、暗殺されたとする

崇峻天皇の生没年が不明であり、推古天皇の兄である「用明天皇」の生年

が不明だったり、推古天皇の父親「欽明天皇」の生年も不明という事実

「冠位十二階」「十七か条の憲法」が、造られたとされる時代において

考えられない珍事としか思えないのである。

これは意図的に隠したとしか思えない事柄であり、29代欽明天皇から

34代舒明天皇までは秘密に包まれていると思っている。

              
 

◎  蘇我本宗家と乙巳の変 

昨日、仕事中に左手の指を痛めてしまい

お蔭で更新はあきらめてしまった。


さて、今日は「蘇我氏」について考えてみたい

学校の授業では、古代の「悪者」の代表として

描かれているが、本当はどうなのか?


蘇我氏は、「稲目」「馬子」「蝦夷」「入鹿」と四代

の間、権勢をほしいままにしたという

この四人の名前を見て、どう感じるか?

この時代の名前を数多く見て、不思議な感覚を抱く

ヤマトの権勢を独占した一族といいながら

四人の名前に、高貴さも、気高さも伝わってこない・・・

むしろ・・・蔑み、卑しめているかのようだ

これが、歴史の「書いてあるから事実」の見本のごとく

現代でも、信じて疑わない人が多いのである。

人は富と力を手にした時、「出自」いわゆる、家柄を

大げさに良く見せたがるもので、これは洋の東西、時代を

問わない既成事実だと思う。

それから考えれば、数多居る「蘇我一族」の頂点に居た

四人の宗家頭領の「気高い名前」とは思えないのである。

このような名前だった・・・と言っているのは、藤原の

編んだ「正史」といわれるものによってである。


古代では、相手に名前を呼ばれるという事は、相手の

所有・隷属することになったという

現代のように、直接相手の名前を呼ぶ「習慣」はなかった

と考えれば、本名が世間一般に周知されていたとは思えない

それ以上に、8世紀に編まれた「正史」に書かれた内容を

キチンと理解できた民が何人居たか?であり、公にお披露目

された事実すら定かではない・・・・。

蘇我氏を憎む気持ちが、正史編纂において、侮蔑的な名前の

表記で表した

蘇我氏が「悪者」であればあるほど、それを成敗・粛清した

藤原氏の業績(乙巳の変)が賞賛され、聖徳太子(厩戸皇子)

の子孫を絶やした事で、蘇我氏の「悪質さ」は際立つのである。


聖徳太子が異常なほど、才知あふれた人間像に描かれたのは

蘇我氏の「悪者ぶり」を糾弾するための「筋書き」であり

太子が気高く神聖であればあるほど、悲劇の上宮家の哀しさを

世に知らしめて、太子の血筋を絶やした蘇我本宗家の罪を

騙ったのであり、その後に起こった蘇我入鹿の殺害はたんなる

暗殺劇であったことは想像できる。

藤原氏と中大兄皇子の起こした「謀反」を正当化することになる

乙巳の変(大化の改新)とは、政治クーデターであり、日本人の

大好きな「勧善懲悪」とは、ほど遠い内容だったかもしれない

なぜなら、中大兄皇子はその後、民衆から支持されないまま

23年間即位できずに居たことが、全てを言い表していると思える。


私の想像だが、民衆は蘇我本宗家に罪が無い事を知っており、さらに

中臣鎌足と中大兄皇子の二人が、邪魔な蘇我本宗家を粛清した事を

知る民衆・群臣の支持・後押しが無かったと思っている。


藤原姓にしても、鎌足が死んだ後に「藤原」姓が鎌足に贈られ

(藤原姓は「鎌足」に贈られたものであって、中臣氏に贈られたもので

 はないと、私は理解している)

「大職冠(だいしきのこうぶり)」という冠位も贈られたことに

なっていて、中臣氏を名乗る「鎌足一族」の出自の捏造の疑いもあり

後世の誰かが、手を加えたと思っている。


私は古代の「女帝」の即位に大きな疑問を持っている

33代 推古天皇をはじめ、35代 皇極天皇(37代 斉明天皇)

41代 持統天皇 には歴史書に語られない、隠された史実があると

思っている。

全ての事には「理由(わけ)」が在る

聖徳太子と女性天皇は歴史の「醍醐味」かもしれない・・・・。


                   


◎  身殻別八万物運 

これは非情にデリケートな題材である為

何度も躊躇ってきた

差しさわりの無いところを記してみたい・・・。


身殻別八万物運(ミカラワケヤヨロヅノモノハコビ)

これが正式な呼び名である。

【差別語である「山窩(サンカ)」のこと】

自称 転場者(テンバモノ)


特徴は・・・

(1) 誇り高い古部族である

(2) 天の群雲の剣を写した「ウメガイ」という山刀を持つ

(3) 天人(テンジン)と呼ぶ自在鉤を使う

(4) ヤエガキという厳しい掟(おきて)によって暮らす


興味を引く中の、幾つかを書くと・・・

ヤエガキ という言葉は、スサノオの和歌に出てくる言葉

ウメガイ は ウメ=見事に、ガイ=断ち切るもの という

古和語で、出雲鉄で作るのが正式だという

彼らの死は、カミサリ(神去り)という


彼らの遠祖は、「火明命」とされ、反正天皇は一族の頭領

でもあったという

転場生活をしていた彼らが、まとまりを形成したのは

一条天皇の時代、藤原道隆の隠し子(道宗)が捨て子にされ

その地で、出雲族から箕作りなどの技能を学び、出雲族と混交

して一族の増加に伴い、掟を作り全国に分布した。

大事なことは、彼らは血縁集団が本来の姿ではなく、あくまでも

技能集団としての一族である。

ミカラワケが三代続くと、四代目からはハラコ(腹子)として

別格扱いされた。

厳格な一夫一婦制で、相続と言うモノは無い

葬は「風葬」で、古来の文化を厳格に守ることで、一族の

まとまりを維持していた。

厳しい掟の中に、一族のことを洩らしてはいけない、というモノがあり

世に知られることが無かった理由である。

万が一、掟を破り族外の人間に洩らせば、「暗殺刑」に処せられた。


彼らの婚姻の席で、スサノオの和歌が唱和されると言い

歌の前に、「イズモウ」という発声が次々に行われ、その後に

ヤクモタツ、イズモヤヘガキ、ツマゴミニ、ヤヘガキツクル

 コノヤヘガキヲ と歌われる。

なぜ彼らが、スサノオの和歌を唱和するのか?

なぜ イズモウ という発声をするのか?

ヤヘガキが「八重垣」とされているが、はたして?

この歌の意味は長屋の爺の独善的な解釈であるが・・・

出雲族よ歌え 出雲の掟を 妻を娶り一家を成す今

此処に掟をつくる この掟を・・・・



彼らが移動するとき、袋を背負って歩く姿を「ナムチ」と呼ぶ

オオナムチ(大己貴命)とはオオクニヌシのことであり

出雲との関係が強いことが窺える。


彼らは東北・北海道では、「エド」と呼び、転場しないという

エドは「穢土」「江戸」のことか?

北国では気候が厳しく、野営には向かない土地だから、転場せず

一所に留まったのかもしれない。

戦後間も無くのころは、彼らの生存が確認されているが・・・

現在は絶えたのではないかと考えられている。


彼らも考えてみれば、「順わぬ民(鬼)」の一部族だった

そういう見方もできるかもしれない・・・・。


私は・・・技能集団としての、「ミカラワケ」は消えたかも

しれないが、日本の古部族の血筋・文化はどこかで、今尚

伝え続いているような気がするのである

それが私達の見聞に曝されないことこそ、「ヤヘガキ」という

厳しい掟が、現存し機能しているのではないか・・・

古の人びとの熱い思いは、時を経ても息衝いていて欲しい

という私のささやかな願望が、そういう気持ちにさせるのかも

しれない・・・・。


            


◎  天狗 


天狗 (てんぐ)

てんのいぬ と書いて「テング」と読む

天狗は山に住む「鬼」のことだが、どうして

狗(イヌ)という文字が使われたのか?

私にとって「山」とは、鉱物や木材の採れる

資源の宝庫であり、権力者の略奪の対象である

「ここ掘れ ワンワン」ではないが、天狗とは

鉄や銅、水銀などの鉱物資源の鉱脈を探す能力を

もった「鉱山師(やまし)」を指すのではないだろうか

鉱脈を「嗅ぎ分ける」能力の持ち主「狗」だった?

鉱脈を見つける鉱山師を指すのに「狗」の文字を使うのは、

どういう意図なのか?

狗の文字は卑しいものとして、卑下する言葉に使われる

例えば 狗盗 走狗 などである

狗盗(くとう)、いわゆる「こそどろ」のことだ

走狗(そうく)、狩猟に使う犬、人の手先として仕える者

若し、権力者の手先として、鉱脈を探していたなら

まさしく「走狗」であり、順わぬ民(鬼)ではないことになる


私は「天狗」とは、順わぬ山人(鬼)だったと思っている。

苦労して「鉱脈」を見つけた鬼たちから、労せずして「宝」を

簒奪したのが「朝廷」であり、奪われ排除された鬼たちは

中部地方から東北地方の山を、移動していったと考えている。


なぜ「天狗」だったのか?

音(言葉)が先に存在したなら、「テング」の音に近い文字を

当てはめたのであり、原音は「テング」「テングウ」か?

母の時にも、古代では今と違った音で表していたと書いた

この「てんぐ」も発音が、少し違っていたのではないか?

そんな疑問を感じて、縄文の言葉に近い「アイヌ語」を探ってみた

行き着いた結論は「タン・クル」という言い方である

「タン」こちらの 「クル」人


タンクル タンクゥ タンク テンク テング・・・

私にはアイヌ語の発音は難しくて、どう発音するかは知らず

想像だけの推理であるが、順わぬ民から見て、まさしく彼ら

は「こちら側の人」であり、鬼の仲間「こちらの人」であった

独善的な解釈ではあるが、私は「天狗」は山に住む鬼であり

鬼たちの危難に際し、山から降りて助力する鬼の仲間

その思いが「鞍馬山の天狗」に反映されているのだと

思っている。


              



◎  鬼のお浚い 

久しぶりに、鬼の話をしてみたい

「鬼」おに、キ

古代では、モノと呼ぶこともあった

意外にも、「古事記」では「鬼」の文字を使っていないという

逆に「日本書紀」では、頻繁にこの文字が出てくる

「景行紀」には・・

【山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり】

と記され、邪神と鬼は同系として認識されている。

「神代紀」には・・・

【諸々の順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)を誅(つみな)ひ】

と書かれ、「鬼神」を「かみ」と読んでいる。


順はぬ悪しき神や鬼は、誅されるべき運命にあったものとし

鬼の概念を表現した最初かもしれないのである。


鬼とは・・・順わぬモノであり、誅殺しなければならない者

権力側から見た、「国つ神」「服従せぬ者」「富を献上しない者」

これらはすべて「まつろわぬ者」として、圧殺されたのである。

鬼 = 悪 という図式は正しくない

鬼とは、権力の「対極」に居る者たちの、総称なのである。


鬼の分類

【1】 神道系

   祖霊・地霊など日本民俗学上の鬼

【2】 修験道系

   天狗などの山伏系の鬼

【3】 仏教系

   邪鬼・夜叉・羅刹(らせつ)など

【4】 人鬼系

   賎民・盗賊・放逐者など自ら鬼になった者

【5】 変身系
   
   怨恨・憤怒・雪辱など復讐を遂げる為に鬼になる


鬼と聞いて、どんな顔を想像するか?

人によって、節分の鬼の面だったり、「般若」の面だったり

これは主観でしかないと思うが・・・

鬼の形相 がどんなものかは、きちんとした基準など無い

各々が頭の中にイメージしている姿が「鬼」の顔なのである


これほど日本の隅々まで、浸透している「鬼」について

私達は鬼の定義も知らず、鬼の顔すら知らない

そういう現実が存在するだけなのである。


鬼になった「蘇我入鹿」、「菅原道真」

鬼と呼ばれた「酒呑童子」、「温羅(うら)」

鬼は追い払われるものから、殺される、家来になる

と様々ですが

史実と思われるものの多くは、哀しい最期を迎えている

そしてその多くの話では、大切な「宝」「富」を奪われている

鬼と呼ばれた者たちは、本当に「悪しきもの」だったのかどうか?

私達が眼にする沢山の「歴史」、「古代史」は間違いなく

「勝者の言い分」であり、勝ち残った者たちの基準で伝えられた

弁護人の居ない「魔女裁判」であるかもしれない。


名も無き「鬼」たちの、声なき声、鬼たちの無言の叫び

地方に残る「鬼」の伝説に、その答があるのかもしれない。


             


◎  道徳教育と大和魂 

日本人は殆んどの人が学校で宗教教育を受けない

一つの宗教に偏った教育が、日本人には馴染まないからか

私の思い込みかもしれない話をしてみたい・・・・


西洋では学校の授業や教会で、宗教を学び

そして宗教から「道徳」を学ぶという


私の年代の人は、家庭で「道徳」を学んだ

人として、「やっては いけないこと」

人として「やらねば いけないこと」

宗教に関しては、特別な事は何も教えられていない


日本人にとって、「道徳」と「宗教」は無縁ではないが

けっして「イコール」ではないと思っている

日本人の道徳観は、自然崇拝と武士道によるものが

大きな柱となっている

「自然崇拝」は「祖先崇拝」、さらに「国土崇拝」となり

国(国家)とのかかわり方にまで及ぶ

自然 祖霊 祖国 という流れになる

母なる大地とは、父母・祖父母の眠る大地であり

祖先が土に還った「神聖なる大地」なのである

見方を変えれば、自然を拝む事と、先祖を拝む事に

何ら変わりは無いことになる

日本人の本来持っている、「愛国心」は言い換えれば

「愛国土心」と呼べるものかもしれないが

それを意識している日本人は居ないだろう


「躾け(しつけ)」というのは

幼い子供に「やってよい事」「やってはいけない事」を

理解させることだと考えている

「道徳教育」の初期段階、家庭の躾けこそまさにそれであり

やってよい事から、やらねばいけない事に進み

人としての生き方の「道」を標すのである

これが更に進んだのが、「武士道」だと思っている


少々、青臭い自論かもしれないが・・・


自然崇拝が「神道」となり、「武士道」と合わさり

、「大和魂」と言うモノになる。

大和魂とは、自然(祖霊)を敬い、母なる大地を大切にし

さらに日本人としての生き方を自覚する、この二つを

兼ね備えた「心のあり方」を指すものだと思っている。


国土を単なる「土地」「島」と思っている人には

残念ながら理解できないことだが

国土とは、先祖の霊の眠る「神聖な住み処」なのだ

日本人が近年、忘れかけている事・・・

愛国心 


道とは、未知なる場所への旅程表、あるいは目標?

目指すべき「境地」へ進む事が「**道」というのだろうか

日本という国が、千数百年、二千年と続いてきた理由が

大和魂に引き継がれているのかもしれない

「道徳」とは、日本人として、人として道を外さない「標(しるべ)」

誘導灯のようなものか・・・。


武士道とは・・・死ぬことと見つけたり(葉隠れ)

人によっては、死ぬことこそ武士の生き様であると言う

そうだろうか?


じつは武士道こそ究極の平和主義だと私は考えている。

よく武士は「忠義」のために、「切腹」をすると思われている。

形式上は「主君・お家」のために、自裁する事があったのは事実だ

しかし、その裏には親兄弟、妻や子供、親類縁者の命の存続を願って

、決断した場合が多かったのではないか

家とは住むだけの空間にあらず、愛する者たちの集う場所であり

将来の生活の寄る辺でもあったはずなのだ

その家を守ることは、主君を守ることであり

主君が在るかぎり、わが家族の生活も安泰なのである。


赤穂浪士の伝説から、「武士の切腹」は誉れ・模範のように

思われているが、本来の武士の「死」とは、家族を守るための

「愛ある死」でなければならないと思っている。

盲目の情愛に「守るべき道」は見えてこない

武士の死とは、如何に死ぬかではなく、如何に生きて

何を生かしたか、自らの死によって何を守ったかであり

明日の平穏を願った「平和の代償」としての「死」こそ

武士道であり、武士の死に様だと考えている。


死ぬ事を見つけたとは・・・

なぜ産まれて来たかであり、何を成すべきかを知って

何かを護るために人生をかけた身の処し方ではないか?

散ってもまた来年、必ず咲くことを願って、散ってゆく


武士道とは、人生を如何に他者の為に生きるかであり

死ぬその最後の瞬間まで、先祖を家族を、国を愛し続けること

そんなふうに私は解釈しているのである。









◎   漢委奴国王  

 漢委奴国王

唐突だが、これは学校で「かんのわのなのこくおう」

と教わった

正直なところ、私も最近までそう「信じて」いた

ある方の意見で、「委」の読み方に注文がついていた

「倭」を「ワ、イ」と読むが、「委」は「イ」としか

読まないというものである

漢・・・カン

委・・・イ

奴・・・ド、ヌ

と読むのが正しいことになり

カンのイのドの国王となり、意味が通じない

これは、「漢のイドの国王」と読める

そもそも「奴国」があったのは、卑弥呼の時代より

200年も前の時代である。

その時代に倭国が存在したかどうか?

さらに倭と委が本当に同じ国だったのか?

いったい誰が最初に、委を「わ」と読んだのか?


「音が先にあって、文字は後からつけられた」


そう考えれば、イド国とは「伊都国」ではないか

一般に知られる倭国の「王」は、邪馬台国の女王、

狗奴国の王、そして伊都国の王の三人だけである。

倭奴国王と委奴国王は、まったく別物かもしれない


どうしてこんな事を書いたのか?

日本の正史「日本書紀」に書かれているものも

少なからず、音を漢字に置き換え、それを後世の人が

一定の物差しで、測って解釈している

漢字を読んで、字義を考慮して一方向から観ている

漠然として・・・ではあるが、そう感じている。


漢字が伝来し、浸透するまでは、音(言葉)が主であり

時代を経て「漢字」に置き換えたものを、我々は眼にしている

その解釈法が、現代的な思い込みによるものでないと

言い切ることができるだろうか?


阿多を考え、丹を考え、天照大神を考えるとき

耳に伝わる「音」が不変の真実を表しているような

そんな気がしているのである。


                 
 

◎  日本語とアイヌ語 


しばらくぶりに、アイヌ語と日本語の話

卵が先か鶏が先かの問題だが・・・

アイヌ語から日本語に変わり、今に至ったか

日本語がアイヌに伝わったか、これは個人の

判断に委ねられる。


タネ     種子     

ソコッ    内底     

オンタル   樽、桶

カタキ    かたき(仇)

コンド    今度   

サケ     酒     

プタ     ふた(蓋) 

スリスリ   こする  

タマ     首飾り  


古代では、「は」の発音は、「パ」「ファ」

であったといい、「シ」は「チ」の音と同じ様に

使われていたとも言う

それが現代の「江戸弁」に残り、「しちや」「ひちや」

、「ひがし」「しがし」、など入れ変わり、混同が見える

だから、古代では「母(はは)」は「PaPa」であり

「ふぁふぁ」と言っていた可能性がある(笑)


アイヌ語に「パピプペポ」の言葉が多いことから、古代の

先住民の言葉から、今の日本語に取り入れられた言葉も

多いのではないかと思っている。


東北の古代氏族「安倍氏」も、アペウチ(火の神)から

アペ(火)に変り、「あへ」の名前の基になった・・・

なんていうのは、ロマンが感じられる


ちなみに、「アシ」という言葉の意味は・・・

立っている、 立つ、 大きくなる であり

足、葦、脚、芦の語源かもしれない・・。


これは私の個人的な妄想ですが、「日本」という国名

は「倭国」の時代にすでに存在した国(集団・部族)で

「倭」があまり良い意味の字義でない事を知った

その時代の大王(持統天皇?)が、侵略した「日の本」を

名乗る部族の名前「日本」を使うようになった。

そもそも日本語とは、その虐げられ、先祖の地を追われた

先住民の使用した「言葉」だったのではないか・・・。


最近では、確信にも似たそんな事を思っている。


                   



◎  古事記の疑問と民間伝承 

古事記が発見されたのは、1798年という

「古事記・真福寺本」は愛知県にある「大須観音」で

尾張藩士・稲葉通邦によって発見された

上・中・下3巻、1371~1373年に書写されたもの


では、それまで誰の目にも触れず、だれの話の端にも

出たことは無かったのか?


私は個人的に、古事記の成立年代は「平安期」だと思っている

それも、密かに書き綴られた「敗者の手記」

「日本書紀」が親百済の色が濃く

「古事記」はどちらかというと、親新羅の色彩が強い

日本書紀は「藤原(中臣)」の物差しで記され

古事記は「大海人皇子」の意向によって記された


世間で言われる、最古の歴史書なら400年もの間

各地に埋もれていた事実が不可解である


江戸時代というと、民話・わらべ歌・風習・文化が

大きく花開いた時代という気がする。

江戸時代がとりわけ、市井に生きる民が賢かったわけ

でも無いだろう・・・。

では他にどんな理由があるというのか?


私は「天子さま」の力の衰退に関係が有ると思っている。

朝廷や公卿の没落により、「公言できない」闇の話が

大きな声で言える時代になったと思っている。


藤原にあらずば「人に在らず」の時代は遥か遠くに去り

「さぶろうもの」が跋扈し、鬼の末裔に陽が当たる時代

口承・口伝の民話、俗謡、童話のタブーも無くなり

自由に語ることが許される時代

神や天皇、公卿の、有ること無い事が好きに語れる時代

文化が栄えたのは、このことだけでは無いだろうが

大きな要因だった事は、想像できるのである。


もう一つの変化は、「神道」の復古だ

仏教に傾倒し、仏教徒になった天皇家が神道を蔑ろにする

それまでの状況に憂慮していた、各地の神官たちの攻勢が

神社への参拝の勧奨、「**参り」ではなかったか

それまで、固く門戸を閉ざしていた「伊勢神宮」に

町人が大挙して、「お伊勢参り」、「お蔭参り」に

向かうようになる

次から次と、江戸市中に「稲荷神」が祀られ、町人が

大きな神社の神さまを、参拝する風習が根付いた


朝廷や貴族の「祭祀」だった「神祀り」が庶民(鬼)の側に

移った時代かもしれない

政治に利用されてきた「神祀り」「神祭り」が、庶民の文化に

溶け込んだ時代でもある


稲荷は「稲が生る」「鋳が成る」といわれ

工業に携わる職人・商人、農業に携わる農民に支持され

大きな信仰を得たのである。


鬼が鬼の話を語り継ぐ

それが「おとぎ話」であり、「わらべ歌」ではなかったか

「とおりゃんせ」、「かごめ唄」、「桃太郎」、「かぐや姫」

敗者、虐げられし者の「歴史語り」は様々な伝わり方を経て

現在のような形に落ち着いた

それをどう解釈するかは、鬼の末裔の大事な使命だと

長屋の爺は考えている。


             

◎  生きる為に食べ、そして祈る 

神さまに祈る

神さまに感謝する


古来より日本人は、生きる為に食べ

空腹を満たす事が喜びになり、日々精進した

満たされた事に感謝し

明日も食べられる喜びが訪れることを祈った

人を敬うことよりも、自分が、妻が子が、家族が

飢えないことを願い、今日満たされた事に感謝した

その対象が

命を繋げる主食を司る「稲の精霊」

海の生き物を司る「潮の精霊」

豊かな実りを助ける「水の精霊」

沢山の果実を与えてくれる「山の精霊」

生きる事は食べる事

汗水たらして日々励むのは食べる為

これは古より不変なはずだが・・・


現代では、嗜好品を買い求める為に「食」を

減らすおかしな風潮

一所懸命に生きるー十分に食べるー汗して働く 

が本当だと思うのだが

現代は

なんとなく生きるー食費を減らすーとりあえず働く


これでは、神さまに祈る事も、感謝する事も必要ない

精霊に祈り、感謝する事を止め

先人が作った「人神」を丁寧に拝み

精霊の存在を忘れてしまった


何時の時も、何処でも、「お天道様」は見ているのである

道端の草花の精霊も、田圃の稲の精霊も、小川の水の精霊も

いつも私達の「身近」で観ているのである。

日々感謝、この世で無駄なことなど無く、汗する姿を

きっと「お天道様」が見ていてくれ、さらに神さまは

褒美ばかりでなく、「試練」もちゃんと与えてくれる。


この瑞穂の国「日本」には、とても良い言葉がある

「倦まず弛まず(うまずたゆまず)」

途中で飽きて投げ出したり、気を緩め失態を侵さない

ための心得のような言葉である


その努力はいつかきっと・・・・そう信じて今日も

長屋の爺は神さまに「手を合わせ首を垂れる」


いつも変わらずにあるもの

それが「日本古来の神さま」なのである。


            
  

◎  丹生の読み方に疑問 


ここ数日、丹(水銀)が頭から離れない

ある程度、文書や専門家の説に納得なのだが

最終的には「腑に落ちない」こともあり

知恵熱が出そうな雰囲気である(笑)


どうしてなのかは解っている

「音」と「文字」の狭間にある、微妙な解釈に

私が納得していないことが原因だ


辰砂とは「硫化水銀」のことである

辰砂は中国の辰州(現在の湖南省)で多く産出

したので、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれる

水銀を精製したり、顔料にしたり、漢方薬の原料

にもなる鉱物である。

魏志倭人伝にも「其山丹有」と記されているくらいだ

たぶん最初は顔料としての「朱」を作るため

辰砂が採掘されたと私は思っている。

2世紀後半、出雲国の「西谷3号墓」には、すでに

「木棺の内側に厚くが敷かれていた」

というのである(塗ってではなく、敷かれていた)

この頃すでに水銀の「防腐力」を知っていたという事か?


ここで少し、漢字の読みについて書いておきたい

漢字の読みには、音読みと訓読みがあり

大雑把な区別であるが、一般的には

音読みにおいても、「呉音」と「漢音」とに分かれる


持統天皇が唐から音博士を招いて、漢読みの普及に努めた

ということからして、それまでは「呉音」で詠まれていたと

思っている。

その呉音は5~6世紀に日本に伝わった「文字」の読みであり

それまでは明確な文字文化は、日本には無かったと思われる


丹 これは呉音・漢音ともに、「タン」と読む

生 これは呉音で「ショウ」、漢音で「セイ」と読む


ニュウ と読むこの 丹生 という文字

呉音なら、タンーショウ と読むはずである

音が先に存在していた、という持論から言えば

不可解な文字なのである。

丹生という文字が、丹が産出される場所の意味は

理解できるのだが、なぜ「ニウ・ニュウ」なのか

ニュウという言葉・呼び名がすでに有って

その意味を明確に表す文字が「丹生」だったというなら

多少理解もできるのである。


文字は時々論理的な判断を、狂わすことがある

思い込み・・・・刷り込みとでも言うのだろうか

文字だけを観て文字のイメージを繋げて行くと

思考が勝手に向かうべき方向を違えてしまう


音に「当て字」をしたものと、意味から「文字」を

当てはめたものの違いを、見逃さないようにしたいと

常々考えているが・・・

これがとにかく、難解極まりない話なのである

己の無学を嘆いても仕方が無い話であるが・・・


西から東へ・・・・

文化・技術その他諸々が、西から伝播したという

通説に疑問を持っている

本当に「西から東」だったのだろうか?

阿多、丹生、大王家 まだまだ先が見えないが

都度目先を変えながら先を考えてみたいと思う。


               


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