不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  鬼と呼ばれた悲しい女性 

鬼 と聞けば口が耳まで裂け

角を生やし、怪しげな術を使い・・・

と世間では認知されている


私の中では「鬼」は怖いものではなく

理不尽な人生を生きた悲しい者たちであり

世間で言う「オニ」とは、悪魔のようなものだと

区別している。


紅葉伝説 というものがある

信濃にある山に囲まれた盆地に昔

水無瀬村という場所があったそうだ

その村に伝わる伝説が、「紅葉伝説」と言われる

簡単に言うと・・・・


【昔 会津生まれの少女「呉葉」という美貌と才覚に

恵まれた者がいて、16歳で京に上り「紅葉」と名を変え

源経基(清和源氏の祖)の局になり、懐妊したが19歳で

信濃に配流されてしまう。

紅葉が源経基の正室に呪いをかけた為というのだが

信濃では逆に正室の嫉妬による讒言(ざんげん)によって

追放されたことになっている。

さて、時は移り紅葉の生んだ男子は、経基の一字をとり

経若丸と名づけられ元服が近づいた

しかし、庶子の成長を快く思わぬ都人の意向で討たれてしまう

紅葉が妖術を駆使して近隣を荒らしたとされ

令泉天皇に派遣された、信濃守・平維茂によって紅葉母子は

討たれてしまった。

それ以降、水無瀬村を「鬼の無い山里」ということで

「鬼無里(きなさ)」と呼ぶようになったという。】


鬼は悪い事をしたから「権力者」に討たれたという構図

日本中に残されている

はたして、そうだろうか?

鬼と呼ばれた人は、ひたむきに生きていただけ

ほんの小さな「幸せ」を両手に持っていただけ

その心の豊かさを取り上げたのは、いつの時代も

一部の権力者と周りの人間達だった気がする。

本当は「鬼」をいじめ、亡き者にした者たちこそ

「オニ」だったのでないだろうか・・・。

鬼と呼ばれた人びとは現在では、庶民にささやかで

ちょっぴり豊かな「ご利益」を与えてくれる神様と

して信仰されている

その姿を考えてみれば、やはり「鬼」とは悲しい運命

を生きた「モノ」たちだったと思えるのである。


私が若い頃、「鬼無里の道」という唄があった

その当時は、歌詞の意味も解らずに、聞き流していた。

その歌詞が、この紅葉伝説を歌っている事に、数年前まで

知らなかったのである

今聞くと、とても素敵な歌詞だなぁと感じている

西島三重子さんが歌っている「鬼無里の道」

ユーチューブで聞く事ができる昔の歌謡曲です。


  鬼無里の道

むかし女に 化けし鬼の 忘れ形見と 伝え聞く

あぁ 紅葉訪ねて 鬼無里の道 女心を 君知るや


悪しき女と 世に流れ 覚え無きとも すべもなし

あぁ 紅葉訪ねて 鬼無里の道 陰に日向に 君思う


たとえ生涯 会えねども 募るいとしさ 誰に負けん

ついにもらさぬ わが心 のちに煙にくれようか


逢いし夫婦(めおと)の 語らいに

しばし安らぐ 浮世かな

あぁ 紅葉訪ねて 鬼無里の道 むすび適わぬ わが恋や
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◎  申し訳ないですが・・・ 


ここ数日ブログを更新していて思ったこと

平安を書いていてもあまり楽しくない・・

理由は簡単だ

神様が出てこないから・・・・


長屋の爺のブログは、神さまが似合うのか?

やはり、神社や神さまや鬼やキツネが無ければ

このブログは成立しない・・・気がする。


歴史としての平安、文化としての平安は魅力的だ

だが、想像する楽しさ、推理する興奮は与えてくれない

勝手に、気ままに、好きなときに、好きなように

神さまと神社を書いていたい・・・


頭の中を整理して、神さまを語りたい

不必要な善意 仕切りなおします


桜も綻んできて このあたりでは五分咲きか?

例年以上に「花粉症」が酷い

そのかわり、「鬱」の症状が比較的軽く済んでいる

どちらも「頭の回転」には、よろしくないけど

ボチボチと思いついたまま、更新してまいります。

  (長屋の爺)

◎  第63代 冷泉天皇 


第63代 令泉天皇(れいぜい)

村上天皇の第二皇子

諱(いみな)は憲平(のりひら)

母は藤原師輔の娘・安子(あんし)である


憲平親王は第二皇子であったが、なぜか第一皇子の

広平親王を越えて立太子・即位した。

この天皇幼い頃から精神の異常が見られ

臣下の間にも皇位継承に疑義を差し挟む議論が巻き起こった

そこは権力だけが生きがいの藤原一族

精神に異常があろうと、知能が劣ろうとお構いなし

むしろそのほうが御しやすしという見方もできる。

通説では村上天皇の意思で皇位継承したことになっている

ところが、村上天皇は第四皇子の為平親王を推挙していたと

いう説もあるのだ

為平親王の母親は「源高明(たかあきら)」であり

為平親王が即位すれば、藤原氏の権勢は衰えることになる

横車・謀略とどんな手を使っても、外戚の地位は譲れなかった

即位=外戚の権力 という平安ならではの構図が見えてくるのである。

令泉天皇の即位後、為平親王を越えて、村上天皇の第五皇子である

守平親王が立太子した。

母方の実家の血筋・家柄が物を言う時代

藤原の血筋以外は親王に非ずとでもいうようだ

在位967~969年(1011年崩御)


平安の時代、貴族の女性は家族以外の男性に顔を

曝す事は避けていた

家庭に篭る女性や妻達は特にそういう傾向だったという

当然、見ず知らずの男性に名前を教える事などタブー

もっと以前は、名前を呼ばれる事は、呼んだ相手の

所有物になってしまうという考え方であったから

素性や名前を知られる事を避けたと考えられる。

現代において、本名が判っているのは、皇族と

婚姻関係があって、正式に公文書に記載され、それが

今日に伝わっているだけであり、ほとんどの女性の名前は

不明のままである。

これは女性蔑視とは違うもので、逆に女性を守るための

苦肉の策という見方もできるのである。

◎  中央摂関政治 * 62代 村上天皇 

現代の社会の基礎を作ったのは平安時代である

何をとぼけた事を・・・と言われそうだ


基礎は明治維新であり、戦後の日本人の努力だ

なんて話は聞きたくは無い・・・・。


現代の日本人の考え方、行動は平安時代には

すでに確立していたと言うのである。


大東亜戦争の敗戦まで、日の本は一度も他国によって

侵略されなかったのか?

答えは「否」である

1019年の平安中期、九州が16日間だけ侵略を受けた

正式には「刀伊の入寇」という

刀伊(とい)とは、女真族(じょしんぞく)という

ツングース系の民族を指す

女真族は後に中国本土で「金」という国を建国した。


この国家的危難を撃退したのは、藤原隆家である

当時、九州大宰府権師という役職についていた。

藤原隆家といえば、一条天皇の后であり

枕草子の作者・清少納言が仕えた中宮・定子

の実兄である。


隆家が地元豪族・多冶久明、大神守宮、源知と共に

異民族の侵略を食い止めたのであるが・・・・。


藤原摂関政府は何も「恩賞」を与えなかった

そればかりか、隆家を叱責する事までしたのである。


簡単に言うと、攻めてきた事実を書面で知らせたのだが

あて先が天皇であるべきなのに、太政官にあてたもので

形式が整っていなかったという罪である。

国を揺るがす一大事の場面で、急ぎ知らせるのに「形式」

を優先させる愚かさ・・・。

中央官僚の危機感の無さは、平安時代から変わっていない

そういう話なのである。


今の時代、「いざ鎌倉」が起こったとして、自衛隊にあてて

知らせが入り、初期活動を行おうとしても、総理大臣の許可が

必要とか、正式文書で報告すべきとか、閣議に諮るべきとか・・・。

さらに、現場の判断で行動しようものなら、責任問題、始末書では

済まない大問題になってしまう。


ことの本質より、体面を繕う事に大きく比重が置かれ

国を守ることより、中央の権力者の体面が優先となる


平安時代も平成時代も、根本的には変わりは無いという

事である

平安時代に中央に権力が集中し、血の通わなくなった

国家機能は脈々と、平安から今日まで続いているという話



第62代 村上天皇

諱(いみな)を成明(なりあきら)という

醍醐天皇の第14皇子であり、朱雀天皇の同母弟

兄・朱雀帝とは違い、後宮に数多くの女性を入れ

19人の子をもうけるなど、艶聞家として知られる

文人天皇の評価が高く、王朝文化の先駆者とされ

朝廷の経済困窮に伴い、倹約令を出すなど苦労も

伝えられている。


 山がつの 垣ほにおふる 撫子に

  思ひよそへぬ 時のまぞなき


   (村上天皇 源計子に贈りし歌)

◎  第61代 朱雀天皇 

あまりにも平安から離れていたので

どこから再開してよいものやら・・・


では、第61代朱雀天皇の時代から

お浚いしながら書いて行きたいと思う。


朱雀天皇は、醍醐天皇の第11皇子であり

諱(いみな)を寛明(ゆたあきら)という

藤原基経の娘・穏子(おんし)を母として生まれる

三歳にして立太子、9歳で即位し天皇となる。


時代背景として、菅原道真の祟りが猛威を振るっていた

そんな時代の幼き天皇である。

祟りを畏れ、外出もままならない「温室育ち」の天皇で

幼い天皇を補佐する名目で、政治を取り仕切っていたのは

藤原忠平であり、皇室と藤原氏の関係は、このときに

必然的に生まれ、以来その蜜月関係は続いていくのである。

藤原忠平が藤原摂関政治の基礎を作った人物であり

大臣歌人として後世に名を残し、業績を讃え没後、

貞信公(ていしんこう)という諡(おくりな)を

贈られた。


小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば

  いまひとたびの 御幸(みゆき)待たなむ 
(藤原忠平)


振り返れば朱雀天皇は、数多くの「天変地異」や「乱」にあい

波乱万丈ともいえる在位時代をすごしたのである。


特に有名なものとして、承平・天慶の乱がある

平将門は桓武天皇の血筋、天皇の末裔が天皇に対し

武力抗争を起こしたという事は大きな歴史事実と言える

これが「貴族」対「武士」の対立の先駆けだったと

見ることもできる。

承平・天慶の乱の後、地方が荒廃し税収が滞り

朝廷が経済的に窮することになって行くのである。


朱雀天皇は29歳で実弟の成明(なりあきら)に譲位した

在位930~946年(952年崩御)

◎  出雲は深く、大きく歴史に関わっている 


日本の古代史は、気がつけば「いつも出雲」に

還って来る

それほど日本の古代史にとって「出雲」は特別な

土地なのである

どうして有識者は出雲を軽んじるのか?

考古学的にすごい出土があっても、どうも歯切れが悪い


その一つの原因が、皇室にあると考えている

天皇家が悪いとかいう話ではない

「万世一系」「皇紀2600年」・・・

あくまでも、皇統は一つという大前提の「物差し」で

語ることが基本であり、国家観の基本である。


それを踏まえて言えば、出雲という国家があり

皇祖がそれを滅ぼし、取って代わったなどとは

口が裂けても言えないことになった


その元凶が「藤原(中臣)氏」と「天智系」の王権である

その事実を知りながら、自分達にとって不都合な史実を

闇に葬ったのである

実在と架空、事実と虚偽、年代のごまかし

出自の隠蔽・捏造・・・


一度の「易姓革命」では無かった可能性もあり

それらを一まとめにして、万世一系を確立した

それが「悪い事」でないのは、歴史が証明している

平氏から源氏に代わったのも

鎌倉から室町に代わったのも

豊臣から徳川に代わったのも

徳川から明治に代わったのも

日本人は「悪行」とは考えていないのである

単なる「歴史的事実」に変わりは無い

良い悪いは観る角度、立場の違いで様々なのである。


自分達の保身のタメに、歴史事実を葬ったと言うなら

民族の損失は計り知れないものである


歴史が出雲を無視し、隠そうとすればするほど

出雲の存在は大きくなり

書き残せば残すほど、口を閉ざせば閉ざすほど

出雲への期待が膨らむのである


神武東征と呼ばれるものが、力を頼りに進軍したという

話ではない事、それは記紀にも残されているように

「禅譲」という国譲り、受け入れだった

神武天皇からだけ見れば、神話の通りだが

ヤマトの側から見た「禅譲」の真相は闇の中である

勝ち残った者たちの「勝者の言い分」だけを見て

歴史は語れないと思うのである。


神話を一つの視点から、時の流れで羅列する事は

不可能かもしれない

古代史の中でも、神代(神話の時代)は失くした

パーツが多すぎる「パズル」である

理想的な完成形など望むべくも無い

新しいパーツが見つかった段階で、手を加える

そういう「長屋の爺の古代史」にしてゆきたい

ここで、ひとまず神代から離れ、平安に戻りたいと

思っている

中途半端で自身も納得していないのだが

探し物は探すことをやめたときに見つかる

そんな気持ちで平安を考えながら、新しいひらめき

を期待して神代を離れる事にします。

◎  出雲という国ありき・・その名は 


古代 出雲に大きな「国」があった

その国を治めた王を「大きな国の主」として

崇めていた

出雲は何処から来て、何処に消えたのか



出雲という国が存在した事すら「消された」

わが国の古代史・・・・。


消したのは当然のことながら、持統天皇とその縁者

不都合な史実は破却し、その上に都合の良い神話を

捏造し、貴重な氏誌を焚書にした。



呉服 という言葉のルーツがある

日本書紀の応神天皇14年の記述に見える

「百済の王、縫衣工女を奉る。真毛津と曰ふ。

  是、今の来目衣縫の始祖なり」

(くだらのこにしき、きぬぬひをみな を

 たてまつる。まけつ という。いまの

 くめのきぬぬひ のはじめのおやなり)

古事記の応神天皇の段に

「呉服の西素二人を貢上りき」

(くれはとり のさいそふたりをたてまつりき)

呉服は応神天皇の時代、初めて百済から日本に

伝わったと記されている。

これは騙り(かたり)である いや嘘でしかない

百済は西暦346~660年に存在した国である

応神天皇の治世は4世紀後半から5世紀前半であり

時代としては重なり、尤もらしい話ではある。


ところが、肝心の「呉」という国に問題がある

中国の歴史に「呉」という国は3度存在していた。

1、春秋戦国時代 紀元前437年に滅ぶ

2、三国時代 222~280年

3、五代十国時代 902~937年

おわかりのように、応神天皇の時代の前後には

大陸には「呉」という国は存在せず、記紀が

編まれた時代以前の「呉」に限定すれば

三国時代の「呉」という事になり、藤原王権が

隠さねばならない理由が何処にあるのか?

三国時代の呉と交易・交流があったとすれば

それは当然「日本」の大きな部分を治めていた

主体国家であった可能性が出てくる

それが「皇統一族」の祖であったならば、隠す必要も

無く、後世に書き残すべき史実であろう

それを隠し、あたかも百済から伝わったと書いた理由

不都合な歴史事実としか考えられない

呉と交流があり、日本の主たる国家とは「出雲」

である可能性が高いのだ

あくまでも、文化は半島経由、百済からという決め付け

は藤原不比等と持統天皇系(天智系)の主題であり

直接、出雲が大陸の「呉」と交流があった史実は

許容できない歴史事実だったのではないか

とすれば、出雲は三国時代の「魏」とも交流があったと

考えてもおかしくは無いことになり

出雲がヤマトであっても、邪馬台であっても、倭であっても

良いのかもしれない・・・・。


この「出雲~呉」の国交を隠さねばいけなかった

工作してまでも隠したかった理由と当事者とは・・・

次回はそれを考えてみたい。

◎  魔女の一撃 キタァ~ 

私事なのだが・・

今日、仕事中に軽い道具を持って、立ち上がったとき

腰から下が雷にでも打たれたような激痛が走り

その場にうずくまってしまった

西洋では「魔女の一撃」というそうだが

日本では「ぎっくり腰」というやつらしい・・・。


今は湿布薬が効いていて、いくぶん治まっている

正確には「仙腸関節の損傷」だそうだ

臀部(尻えくぼのあたり)が最も痛く

腰というか背筋を伸ばせないのがとても辛い


そんなわけで(笑)更新はちょっと延期します

長時間の作業は翌日の仕事にも影響する懸念があり

万事、仕事優先という事で・・・

若くは無いと、無理やり言い聞かされたような

そんな出来事でしたが

気持ちだけは若いつもりの長屋の爺

気持ちだけでも・・・若く在りたいと思っております。

◎  出雲大社と祭神の不思議 


出雲大社の祭神は「大国主命」である

ところが、この祭神は拝む人から見て

横を向いている形で祀られている

私達が出雲大社を訪れて、拝んでも

そっぽを向かれていたのでは拝んだ事には

ならない
可能性も出てくる。

摩訶不思議な祭り方である・・・。


こういう話は他にもある

大物主神(大国主命)を祀る「大神神社」

ご神体は「三輪山」であるのだが

拝殿の前に立ち、拝む先には三輪山の山頂を

拝む事はできないという

拝殿の正面にあるのは、三輪山の南600メートル

のあたりを拝む格好になる。

拝めないという事は・・・・意図的に拝ませない

そういうことも考えられるのだ


出雲大社に戻ろう・・・

では、私達は出雲大社の何を拝んでいるというのか

大社の見取り図を見ると、御神座の大国主命は西を向き

その前に「扉(とびら)」があり、南側(参拝者側)に

「板仕切り」があって、直接横顔すら拝めない構造だ

その祭神の前には南(参拝者側)を向いて「御客座五神」

が居並ぶ奇妙な配置で、明らかに「大国主命」を監視している

そんなふうに見えてしまう。

そもそも古代では、「怨霊」は直線的にしか動けないとされ

鳥居から直線上に拝殿が無い状態の神社は怨霊を祀っている

といわれ、参道が90度直角に曲がっているのは明らかに

怨霊封じの構造という。

大国主命もたぶん「怨霊」の部類に入れられる祭神だろう

では・・・いったい誰を拝んでいるのか?


本殿の裏側(北側)に素鷲社(すがのやしろ)がある

祭神は「スサノオ」

八岐大蛇神話に封じ込めた、出雲侵略の立役者である


その相手が「大国主命」であり、騙まし討ちにあって

「怨霊」になっても不思議ではないのである。

つまりは、大国主命が主祭神と言われているが

本当の主祭神は歴史の勝者である「スサノオ」

その面前で横向きに「牢屋」に閉じ込められ

「御客座五神」に監視されているのが「大国主命」

そういう推理ができる。


平安時代前期までは、出雲大社の御祭神は

大国主命と言われていたが、14世紀ころになって

スサノオだという事になっている。


出雲大社の由緒によれば・・・

「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。

 八岐大蛇を割き、兇徒を射ち国域の太平を築く」

兇徒とは誰の事か?

まさか、大国主命を兇徒と言っているのか?

国域の太平を築く・・・

それで・・・・杵築大社(きずきたいしゃ)というのか?


さらに、荒垣入り口の銅鳥居の銘文によれば・・

「一を日神といい、二を月神といい、三を素戔嗚と

 いうなり、日神とは地神五代の祖天照大神これなり

 、月神とは月読尊これなり、素戔嗚尊は雲陽の大社

 の神なり」


14世紀から17世紀初頭までは、祭神は素戔嗚尊だった

この時代は武士が台頭した時代であり、藤原王権が衰退し

誰にも気兼ねなく「本当の事が言えた時代」だったのだろう

江戸時代中期、国学が盛んになって、元の「大国主命」が

祭神として扱われる事になったようである。

◎  長屋の爺の嘘と秘密 5 


5、空ろな日々


意図せぬ桜が咲いた年

私は五月の連休を待たずして、不登校の日々を過ごした

学校というものに「魅力」をもてなかった人間が

見ず知らずの人間と「お友達ごっこ」など到底無理な話だった


とくに「イジメ」があったとか、嫌になる事件があったわけではない

身が入らないというか、気力が出ないというか・・・・

一言で言うと・・・「つまらない」毎日だった


学校へ行かない生徒が、落ちていくのは時間の問題

私もあっという間に、「不良グループ」の一員となり

パチンコ店に入り浸り、2回の喫茶店でとぐろを巻いていた

吸えないタバコに手を染め、一端の悪を気取っていた。

そんな自分に対し、私の母親は小言の一つも言わず

「早く帰っておいでよ」と送り出してくれた。


その当時を思い返して、楽しかったか?といえば

ちっとも楽しくは無かったと思っている


とにかく周りのすべてが疎ましく、色あせて見えた

特定の「何か」に不満があったわけでもない

しいて言えば、「自分が嫌いだった」

他人に合わせ、他人が望むほうに向き

他人が喜ぶ姿に悪寒を覚え、心の中で自分を罵る私がいた


学校を辞めたいとも思わない

学校に戻りたいとも思わない

補導される事も怖くない

タバコも喧嘩もパチンコも、なんとなくしてみただけ

好きでも嫌いでもなかった


そんな毎日の中で、ひとつだけ予想外の出来事があった

私が不在の我が家に、毎日のように訪れる同級生がいた

帰宅する方向が反対の彼は、わざわざ自宅まで復学を

説得する為に、一時間かけて歩いてきた。

名前だけは知っていた

一月足らずのクラスメート、後ろの座席の同級生である

とっても「変な奴」だった

何年か後に彼に聞いた事がある

「誰かに頼まれて毎日のように、俺の家に来たのか?」

「いや! 俺もなんとなく学校が嫌で・・・話したくて」

つまりは、彼も他の級友と話すら、したくなくて

入学式直後に会話した私となら、心を開いて話ができる

そう感じたのかもしれない。


私が高校へ復学したのは、一月近く過ぎた日のこと

彼と最初に自宅で会った日の翌日からである

その時の会話は・・・

「出て来いよ!」

「楽しい事でも あるのか?」

「お前と話ができる」

「そうか・・・わかった」


次の日から、薄っぺらなカバンに「平凡パンチ」だけを

入れて、私の高校生活が再開した。

◎  やまと民族のDNA 

敬う(うやまう)ということと畏れるということ

相反するようで、根っこの部分では繋がっている

勝手な妄想かもしれないが、祀ることと祭ることを

冷めた眼で観ればそんな気がするのである

世の中に在る「逃れられない2面性」

愛する気持ちと憎む気持ち

優しさと厳しさ

暖かさと冷酷さ

コインの 裏・表 のようでもある

原始宗教の「祀り」とは、恐れを意識せずに

理解する事は難しいだろう


命の「生・滅」の繰り返しの現実において

形を決めて喜怒哀楽を表す必要があったのか?


眼に見えないモノに対する感情の、究極の向き合い方が

「万物に対する恐れ」だったのではないか

これが原始宗教・・・多神教の始まりだと考える。


畏れと感謝

畏れるから形式にも物にもこだわり

時(時刻)や道具や順番にまで気遣いする

感謝するのに極度の緊張を強いる「儀式」は似合わない

緊張の陰に潜む、こだわりの原因

それが「恐れ(畏れ)」ではなかったか


良い例が結婚式である

忌み言葉 切れる 分かれる 離れるなど・・多数在る

その奥底にあるのは、畏れである

言葉による「負」への恐れ

喜ぶべき(感謝すべき)「祭事」において

望まぬ事へ導くおそれのある言葉の排除

陰と陽 吉と凶 明と暗 である。

神社の成り立ちは、やはり「畏れ」から始まる

私にはそう思えてならないのである。


日本人の心身に刻まれた歴史の記憶

人は肉体が滅ぶとき、魂も滅ぶという

これは仏教の思想からいう事だが・・・。

人間の「感覚」は五感といわれる

その上に「意」という第六感があり

さらに「潜在」である第七感が存在する

これは仏教の「唯識論(ゆいしきろん)」で

いう「末那職(まなしき)」と言われるものだ

さらに上には「蔵」という意味の

「阿頼耶職(あらやしき)」というものが存在する

末那職が染色体

阿頼耶職がDNA

そう考える説があるそうだ・・・。


日本人の「お人好し」も潜在的な気質を超えて

DNAに深く刻まれたものかもしれない

相手を疑う事を「善し」としない

整然と手順を踏む「律儀さ」と「勤勉さ」

自己犠牲の上に成り立つ「滅私の行い」


否定されたくない、嫌われたくない

その奥底に潜む異常なまでの「恐れ」に対する

警戒心が、逆に人生の中で「他に対する警戒心」を

消し去る行動・意識を育んでしまう。


お人好しの日本人の中に受け継がれるDNAこそ

古代の全てのものに対する「恐れ」であり

恐れの対象に「自身」が定められないように

気遣いする、それが「おもてなし」であり

時に「優柔不断」であり、「八方美人」なのでは

ないだろうか・・・。


危機管理ができないお人好しの日本人とは・・

他を排除したり、否定することが「悪」という

観念を持ち続けてきた、優しいヤマト民族かも

しれない。


その優しさゆえ、そのDNAを持っていたため

天津神といわれる人びとに侵略され、郷土を追われ

衰退していった「土着の民族」だったと思っている。

◎  鬼というテーマで考える 2 


桃太郎 鬼退治 きび団子

きび - 黍 - 吉備 といえば

古代の産鉄地として代表的な土地である


其処を支配していたのが「温羅(うら)」

別名を「吉備冠者(きびかんじゃ)」という

その温羅を退治して豊富な鉄を略奪したのが

吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)といわれている。

吉備の語源は「忌避」、「鬼避」という説もある

それくらい朝廷にとって、厄介な土地であり

其処に住む集団だったのである。

その厄介極まりない「吉備」相手でも、其処に眠る

鉄の魅力は、朝廷にとって諦める事のできない物

喉から手が出るくらい欲しかったという事だろう。

その吉備の産鉄(財宝)を略奪し、温羅を殺した事

その伝説が「桃太郎」という童話に残されたのか


しかし、この「温羅伝説」は江戸時代頃に、今のような

名称に定まったという説もあり、当初は単なる「鬼」の

伝説だったという


さてイヌである

イヌは「犬飼健命」のことだという

または「鋳奴(いぬ)」の事だとも言う

吉備津彦命に従い、鬼退治に尽力した犬飼健命と一族

略奪に加担したのも、一族を養う為ともいわれる。


サル

サルは「猿田彦」あるいは「楽楽森彦(ささもりひこ)」

といわれ、「猿楽」の民のことだともいう

猿田彦はニニギと対立する地方豪族だったという説があり

アメノウズメの色香に誑かされて、ニニギの先導役を

務めて、用済みになった猿田彦は抹殺された

ゆえに「朝廷にそそのかされた」人間を「サル」と呼んだ


温羅伝説で朝廷の甘い言葉で寝返り、温羅を敗者にした行為

それを「温羅切り」「温羅斬り」・・・「裏切り」という

裏は表に対しての対極、表が朝廷なら、裏はまつろわぬ民

その「まつろわぬ善良な民」を切り捨てる行為こそ・・・

裏切り行為 と呼ぶのかもしれない。


きび団子 とは、「吉備を団子(手も足もでないよう)にする事」

その団子は報酬という名の、犬や猿や雉の生きてゆく糧だった

「一つください」とは如何にも「少ない報酬」だった事だろう。

◎  「鬼」というテーマで考える 1 

自分としては「柔らかな頭」で古代史を考える

そんな意気込みで今日まで来た

ところが、そんな自分も「ご他聞に漏れず」で

常識のトラップに行く手をふさがれている状態である


無意識の意識

ひらがなで思考しているつもりであっても

気づけば「漢字」の魔術に誘導されている

少々萎えていると言うのが本音かもしれない


気を取り直し いざ!


大国主 (オオクニヌシ)

なぜ? 大国主なのだ

それでは、中国主とか小国主が居たのか?

これが「漢字」の魔力である

そもそも、倭国は小さな国の集合体だったという

それを纏め上げていたモノが居たとしたら

たくさんの小国主たちのリーダー(首長)がオオクニヌシ

だったかもしれない

それも「個人名」ではなく、名跡のようなものかもしれない

と・・・考えてみたが、そもそも国主という発想が神代に

あったかどうかも疑わしいのである

やはり、「大国主」という言葉は、漢字文化が流入した後に

造られた言葉・呼び名のような気がする

それゆえ大国主=大物主であるのだろう

モノとは「鬼」の古代の呼び名である

古代中国では「鬼」の概念は「悪霊」だという

日本の鬼の概念とは少し違っている


鬼といえば「鬼遣らい」「追儺(ついな)」である

大晦日(おおみそか)の夜に、宮中で鬼払いの儀式を

執り行い、新しき年を迎える準備をする

方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人

が大内裏の中を掛け声をかけつつ回ったことが起源という

ところが9世紀になると、鬼をはらう役目の方相氏が鬼として

追い払われる事になったという。

鬼を退治するのは・・・鬼の役目なのである

古代ヤマト王朝の時代から、脈々と伝わる伝統である


鬼は角が生えて、赤や青の体で、金棒を持ち、金銀財宝を

たくわえ、人びとを苦しめる「悪モノ」とされる


これこそ造られた「鬼の虚像」である

鬼と呼ばれるモノたちは、角など生えても居ないし

体も赤くも青くも無かった


鬼と呼ばれるモノたちとは、赤(朱丹)を採掘し

青(砂鉄)を採り、鉄に精錬する技術を持ち

それを元手に必要な物品を手にし、豊かに暮らす

民人であったろう

そのモノたちが王権に服従せず、技術と富を渡さなかった

それ故、王権に従わぬ者「まつろわぬ民」として

人ではなく、「おに(於邇)」と呼ばれた

おに とは おん(隠)からの変化だともいう

山里に隠れ住む民・・・隠の民・・・隠


その鬼を退治(殺して)して、略奪した朱・鉄の力で

勢力を拡大したのが、ヤマト王権であろう

その罪の意識が、祀ることであったのか

恨み・祟りを畏れ、手厚く祀ったのが神社の起源

怨霊を祀るのは怨霊の子孫(血脈)でなければならない

その血脈が途絶えると、悪霊となって災いを齎すという

ここでも見える「鬼は鬼の手で」封じる手法である


日本の各地に「鬼は外」ではなく、「鬼は内」「鬼も内」

そう叫ぶ場所があるそうだ

これこそ、鬼が世間で言う「悪モノ」ではないことの証

代表的なところでは、天河神社、元興寺、鬼鎮神社などがある


鬼といえば、「桃太郎」「一寸法師」の童話である

これとて不可解なことだらけのお話なのだ


まず・・・桃から生まれた桃太郎???

これを言うなら、桃から出てきた桃太郎じゃないのか?

こういうと「屁理屈」と言われそうだが・・・。


なぜ黍団子だったのか オムスビとか餅ではだめなのか?

どうして家来は「サル」「キジ」「イヌ」だったのか?

大人も手を焼く「鬼」退治にどうして子供だったのか?


これは「吉備」地方においての、朱・鉄の略奪話の匂いがする

この桃太郎、本当に善人なのだろうか・・・

鬼を懲らしめて、金銀財宝を奪ったのは桃太郎

奪った財宝はそもそも桃太郎の物ではなかったはず

見方を変えれば、桃太郎は「略奪者」であり、退治され

財宝を奪われたのは鬼で「理不尽な扱いをされた」被害者で

地域の住民は金銀財宝による恩恵を受けていた

鬼とは本来「福の神」でもあったのである。

これが「鬼は内」「福は内」「鬼も内」の真相かもしれない


平安時代の「令義解(りょうのぎげ)」の雑令に

「官が採掘していない銅や鉄の鉱脈があった場合は、

百姓(民)が私的に採ることを許す」
という条文がある。


民が隠れて採掘していた鉱山が、おおっぴらに採掘できる

ようにして、所在がわかったところで、奪い取る・・・

その悪事の正当性を「童話」の中に閉じ込めたという事だろう。

ではなぜ「キジ」なのか・・・・キジとは「木地師」のこと

「木地師」とは漆器の木製本体を作る職人である

その木地師たちは、良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を

移住していたという

山中を移住するといえば、「鉱山師(やまし)」を連想する

踏鞴製鉄(たたらせいてつ)に欠かせないのが「炭」であり

良質の木材は重要である

何より「鳥」というならキジでなくても良かったはずだが

キジという鳥に定まった背景には「木地師」の姿が見えてくる


次回は「イヌ」について考えてみたい・・・。

◎  参考文献 4 

神代で停滞していても、食いしん坊のように

あれもこれも気にかかり

じっくりと読めない時間の少なさ、過ぎ行く時間の速さに

躊躇いながらも購入してしまう書籍の数々・・・

正月から数日前までに読んだ書籍の数に自身驚いている


時代小説だけで 114冊

社会・政治     5冊

歴史・古代史   10冊

おそらく 生活費より書籍代の方が多いかも・・・

なにせテレビ・ラジオ、新聞・週刊誌と無縁であり

寝る間を惜しんで読書三昧である

これほど幸せな事はない

時代小説は過去に藤沢周平を少し読んだだけだった

この機会に手当たり次第、時代小説に没頭してみた

葉室 麟、北 重人、乙川優三郎、今井絵美子、諸田玲子

宇江佐真理、澤田瞳子 等々・・・・

推理小説やノンフィクション物と違った読後感に嵌まり

気がつくと、100冊を越えていた・・・


葉室麟、乙川優三郎などは、最近の大量生産の如く

シリーズを多数持った「売れっ子作家」のような

いい加減さなど皆無で、しっかり書かれていて脱帽である

読後に読者に考えさせる、その余地を残してくれる

世間の評価通り才能の高さに驚かされた次第である


テレビ社会で「そのまま受け入れる」体質の現代人

考えさせる、考えるように導いてくれる

それが現代人に必要なものに思えるのだが

考えない人が多いから、書籍が売れない

当然の結果なのかと、納得する長屋の爺である。


 【参考文献 4】

大王のひつぎ海をゆく     読売新聞西部本社

八百万の神々          戸部民夫    

ツクヨミ 秘された神      戸矢 学    

八咫烏の「超」日本史     大加茂真也   

姫神の来歴            高山喜久子   

神社と古代豪族の謎       洋泉社      

日本のまつろわぬ民       水澤龍樹    

古語拾遺              斎部広成

鬼の研究              馬場あき子

道中記 卑弥呼の都邪馬台国 八尋秀喜


(以上 敬称略)

ありがとうございました。

◎  魏志倭人伝の面白さ (1) 

魏志倭人伝というと「邪馬台国」に結びつける

ところが魏志倭人伝の面白さはそれだけではない


現代訳で書けば

【 稲や紵麻(ちょま)・桑を植え蚕(かいこ)を

 飼い絹を紡ぎ綿や細麻を作る

 倭の地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)は

 いない。

 武器には矛、盾、木弓などを使用する。

 木弓は上が長く下は短く鉄や骨の矢じりを使う

 憺耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)などと同じである。】


魏志は3世紀末に編まれた「魏の国史」である

これを見ても、3世紀ころ日本では「鉄製矢じり」が

使用され絹織物・木綿・麻布が普及していたと思える

憺耳 朱崖とは地名で、漢の国・海南島の郡名である

その様子が倭国と海南島が同じだったと記している。


【 倭の地は温暖で冬も夏も生野菜を食べる

 皆、裸足である。家には部屋があり父母、兄弟、別々

 に寝る。朱丹を体に塗るのは中国の人が白粉を塗る

 ようなものである。

 食事には竹の食器を使うが手で食べる。】


ここで私が注目したのは、竹の食器、手で食べることである

この時代は日本に「箸の文化」が定着していない

それなのに、箸墓古墳といわれる建造物に「箸」の名がつき

「箸によって落命」という由緒があることに疑問を感じ

構築年代が3世紀末から4世紀初頭という「箸墓古墳」

この時代この国には「箸の文化」は届いていない

由緒も説話も「騙り(かたり)」というしかない。



【 倭国では真珠や青玉が採れ山には丹が有る。

 橡(とち)、樟(くす)、櫪(くぬぎ)、

 殭(かし)、楓(かえで)などの木が生え、竹は

 篠(矢竹)である。ショウガ、橘、山椒、茗荷なども

 あるが賞味することを知らない。猿や黒雉もいる。】


青玉とは私の知る限り、サファイヤのことだろう?

日本でもサファイヤが取れたのか?

当時はショウガ・山椒・茗荷を食べる習慣が無かった

当たり前のように食べる現代では考えられない食文化だが

牛肉や馬肉、羊肉を食べることもできなかった時代である。

冬に食べる「生野菜」とは何だろう?

はるか古代を思い浮かべるだけでも楽しいものである。

野草や茸が食べられるもの、食べてはいけないもの

それが理解されるまでに、多くの犠牲があっただろうこと

先人の苦労は計り知れないのである。

◎  天皇家と賀茂氏・三輪氏、八咫烏(2) 


前回 「タマヨリ姫」の名前が登場した

タマヨリ姫は賀茂建角身(下鴨神社 祭神)の娘である

また賀茂建角身は八咫烏のことだという

タマヨリ姫の子が「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」

上賀茂神社・祭神である

【賀茂伝説によると玉依姫(たまよりひめ)が賀茂川に流れ来た

丹塗矢(にぬりや)と婚して生んだ神だという】

賀茂別雷命はタマヨリ姫の子で、八咫烏の孫という事になる

しかし 前回書いた内容からすると、タマヨリ姫の産んだ子は

4人居て、三番目が御毛沼命(スサノオ)で、四番目の子が

若御毛沼命(神武天皇)ということ

では、タマヨリ姫が産んだ賀茂別雷命とは誰の事なのか?


タマヨリ姫が天鈿女命とするならば、夫である猿田彦は

ニニギ命ということ、そして二人の間に産まれたのは

スサノオ命と神武天皇という事になってしまう。


「八咫烏の名は賀茂建角身」であるという

すると・・・

賀茂建角身(八咫烏)-玉依姫(天鈿女命)-賀茂別雷命

あるいは、玉依姫(天鈿女命)-スサノオ命・神武天皇

玉依姫が四人の母親という事がわかっても

そのうちの「神武天皇」以外の素性が曖昧である

いや この仮説が凡そのところで史実に近いとすれば

大きな疑問が生じる

神武天皇が初代天皇で、脈々と繋がってきた「皇統」は

賀茂一族 八咫烏 スサノオを祖とすることになる

皇祖は「天照大神」ではなかったのか?

皇祖を祀っているのが「伊勢神宮」であるなら、アマテラス

とは誰を指して言っているのだろう

そういう疑問が湧いてくる

さらに、八咫烏が皇祖なら京都・下鴨神社の祭神をどうして

「皇祖」と呼ばないのか、大きな矛盾が生じてくる

仮説を組み立てても、次々と矛盾や疑問が湧いてくる

さらに考えてみたい・・・・。

◎  神話の裏側を推理してみる 

素戔嗚尊は三毛入野命(ミケヌノミコト)である

そういう仮説を以前書いた

これを基準に推理して行きたい


三毛入野命の母親は「タマヨリ姫」である


ホオリノミコト(山幸彦)の妻で、実体は「サメ」の化身

だった「豊玉姫」は「ウガヤフキアエズ」を産む

出産の時本当の姿を見られ、綿津見の宮に帰ったが

残してきた子供が気がかりで、妹の「タマヨリ姫」を

養育係として送り込んだ。

その後タマヨリ姫は「ウガヤフキアエズ」を立派に育て上げ

成人すると、その妻となった。

タマヨリ姫とウガヤフキアエズの間に生まれたのが

五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)

、若御毛沼命(わかみけぬ)の四子である。

御毛沼命が「スサノオ」であり

若御毛沼命が後の「神武天皇」という事になる。

この自分の産んだわけではない生まれたばかりの「子」

を養育し、さらに妻となる話に注目したい


市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

市杵島姫命は天照大神の子であり、皇孫「邇邇芸命」が降臨に

際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたこと

から、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている

アマテラスの子である姫が、兄弟の子(甥)を育てる神話である。

(大阪・藤井寺 辛国神社 伝承より)


さて、天河神社(天河大弁才天社)が奈良県・吉野にある

祭神は 市杵島姫命

この神社の神器が「五十鈴」といわれる「神代鈴」である

これは天岩戸開きのとき、天鈿女命が手にして舞った

「茅纏の矟(ちまきのほこ)」についていた鈴と同様の

ものだという

そもそも神器というからには、祭神と密接な関係にあるべき

ものだろう

市杵島姫命と天鈿女命とは「同一神」ということなのか?

この天河神社は正式には「天河大弁財天社」といい

元々は芸能の神さま「弁財天」を主祭神として祀っていた

神仏分離のとき、祭神が「市杵島姫命」に代わったという

それも不可解である・・・。

市杵島姫命をどう探っても、芸能とは結びつかないのである

やはり、市杵島姫命=天鈿女命 ということなのか

天鈿女命も芸能の神であり、弁財天も芸能の神である

天鈿女命=弁財天=市杵島姫命 ということに落ち着く。


アマテラスの命を受けて、ニニギの養育をしたのは

市杵島姫命(天鈿女命)であるなら、ニニギとは

いったい誰の事なのか?


天鈿女命は降臨後、猿田彦と夫婦になっている

その図式から言えば、猿田彦=ニニギ命 という事が

考えられる

では神話の「タマヨリ姫」は天鈿女命でもあり

天鈿女命=弁財天=市杵島姫命=玉依姫 となり

ウガヤフキアエズ=ニニギ=猿田彦 となる

トヨタマヒメは海神の姫であり、タマヨリ姫も同じだろう

タマヨリ姫の産んだ子が「スサノオ」という図式になってしまう

複雑怪奇な話であるが、もう一度冷静に整理しようと

思っている。

◎  かごめ唄と賀茂氏 

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 

鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ?

籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 

つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ?

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に

鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?


日本各地で歌われる「かごめ唄」である

歌詞は地方によって異なるようだが、意味も地方によって

解釈の差があるという

このような唄がさかんに唄われるようになったのは

「江戸時代」で、その後「明治時代」になり変化した

そういう事らしい・・・。


なぜ かごめ唄 など・・・と言われそうだが

これは本当に「かごめ」唄なのだろうか?


伝承・俗唄・民謡・わらべ歌などは、時を経て形を

変えることが多い事は周知の事実である


一説によると、かごめ とは「賀茂女」だという

かごめ ではなく、かもめ(賀茂女)とは興味深い説だ

籠の中の「鳥」とは、八咫烏(やたがらす)を指すという

古代「鳥」といえば「烏(からす)」を指したと言い

賀茂氏の女性(姫)が表舞台に立つことを願ったのか

すべった とは「統べる」から来ているともいう

賀茂一族が皇統から隔離され、皇位に返り咲く日を

待ち望む声が尾ひれをつけて、伝承されていたものが

江戸時代に注目された、そのようにも思えるのである。


八咫烏と賀茂氏、天皇家の関係を探っていく途中の

小さな逸話の一つである。


もう一つ これは雑学の類だろう・・・

君が代

言わずと知れた、日本の国歌 である

この歌詞は・・・

君が代は 千代に八千代に さざれ石の

  巌となりて 苔のむすまで


これは「和漢朗詠集」から引用されている。


わが君は 千代に八千代に さざれ石の

   巌となりて 苔のむすまで


これは「古今和歌集」に掲載されている



そして・・・

わが君は 千代にましませ さざれ石の

   巌となりて 苔のむすまで


「古今和歌六帖」という歌集にあるもので

古今和歌集や後撰和歌集、万葉集などから

採られた「私撰和歌集」であり古い時代を

色濃く残している歌集といわれている


もう気づかれていると思う

君が代の歌詞を例に挙げても、多様な形に伝わっている

古代の伝承といえど、正確に伝わっているかは疑問であり

何を基準にするか、どれを信じるか否か

古代史とは「個人解釈」の仮説であり、私情が多くの選択を

左右するものであり、答えは「神のみぞ知る」

そういう事になるのかもしれない・・・。

◎  三国史 魏志「倭人伝」を読む 


従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、

七千余里。 始度一海、千余里至対馬国。



三国史 「倭人伝」の原文の一部である。

倭人伝というと、誰もが「邪馬台国」の比定に腐心する

ところが、この倭人伝の冒頭部分は大切な歴史を教えている。


翻訳するとこういう事らしい・・・

帯方郡から倭に行くには、船出して、韓族の地を南や東に

進むと、その北岸である狗邪韓国に至る

海を渡ると1000里ほどで対馬国に着く(一里75㍍)


ここで重要なのは赤字で記述された部分「北岸」である

これは「倭人伝」である。

其の国とは明らかに「狗邪韓国」を指し、その狗邪韓国は

北の岸にあると言っている。

判りやすく言うと、鹿児島を述べるとき、「その県は九州の

南岸にある」というべきであり

鹿児島が日本の一部であるなら、鹿児島は九州の南岸に位置する

そう記述するのが当然なのである。


そのことを踏まえて言えば、狗邪韓国は韓族の地の「南岸」ではなく

倭国の「北岸」だったと「三国史」は記述しているのである。

この時代、「対馬」はおろか、半島南部も倭国領だった

歴史事実とはこういう事を言うのである。

ちなみに「狗邪韓国」というのは、半島(韓族の地)に在ったから

韓国という文字で表されているが、倭国の一部だった事に変わりは無い


では、もうひとつ・・・

「倭人伝」が載っている「三国史」ならば、もしかして


やはりあった「韓伝」という記述

その書き出しは・・・

 韓在帯方之南、東西以海為限、南興倭接

訳は

 韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、

 南は倭と接する

倭と韓は、海によって隔てられているわけではない

南部で両国は接していると「三国史」は記している

倭人伝だけなら、倭国の都合の良い「解釈」と言われそうだが

韓伝にも同様の記述があることで、疑いの余地を残さない

歴史事実と言えるのである。

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倭国(邪馬台国)の範囲が想像以上に広いという思いが

膨らむ、そんな「三国史」、魏志東夷伝「倭人の条」と

「韓伝」の記述である。

 【参考文献 呆韓論より】

◎  春の便りは「梅の香」 

梅が綻んだ

凛とした姿は言いようの無い気品がある

今日は山里での仕事

遠くまで来て、ご褒美を貰ったような気がする


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この後、屋根の上に「野猿」が現れて、少々驚いたが

考えてみれば、サルが住人であり、私が部外者だった

すると近所の飼い犬が「猿」を追い散らした

この里の主は「猿」ではなく

「柴犬」だったようである(笑)


興奮した彼(柴犬)を褒めてなでたら

思わず咬まれてしまった

彼は「甘咬み」しようとしたが

興奮して私の手を「ガブリ」と・・・

すまなそうな表情がとても可愛かったw


春の足音はもう眼の前である

「梅は咲いたか 桜はまだかいな♪」

もうじき 「桜」の季節がやってくる

春はやっぱり 里から来るのである・・・・。

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◎  ブログ「不必要な善意」 一歳を迎えて 

自業自得ということか

大雪や風邪で先延ばしにしていた諸々のこと

一度に纏まって降りかかってきた

町内会のこと

仕事関係のゴルフ参加

友人との食事会の約束

パソコンの不具合の解消

ポンコツ自動車の修理手配

数日前から「花粉症」の発症

そして・・・・お約束の「鬱」の気配

花粉症と鬱は薬に頼るしか手が無く

あとは体の自由がままならない状態

先送りのつけは時間と共に大きくなって還ってくる

「ケ セラ セラ」と笑ってみる

ジタバタしても仕方が無いのは事実

古代史の更新はもう少し落ち着いてから

自分自身に言い訳をしてみる・・・(笑)


今日は 3月3日 ひな祭り・桃の節句

もう一つ・・・このブログを書き始めた日

ちょうど1年前になる

以前書いていたブログを閉鎖し、適当なブログを探していて

GOOとFC2の両方を開設

放置状態だったこのブログに思いついたことを

書き始めたのが 1年前の3月3日だったのである

「花はそっと咲き 静かに散れ」というブログ

社会・政治に一言申す 

そういう主題で書き始めた 言いたい放題のブログである


長屋の爺は吼えるしか能がない

いいえ そんなことはない お人よしの爺でもある


そんな「独りよがり」の爺の戯言にするつもりだった

ところが何をトチ狂ったか長屋の爺・・・

古代史、神さまと皇統に言及してしまった

無知なる者の恐れ知らず

後の後悔先に立たず

途中で投げ出すのは「爺の沽券に関わる」てな具合で

未だに右往左往している

神代に区切りをつけて、平安の続きを開始したい

そんな思いでいる

花粉症とうつが軽い1年であること願って

新たな1年を迎える「不必要な善意」

明日から始動します・・・。



訪問してくださった読者の方に

この場を借りて御礼申し上げます


感謝感謝の1年でありました(合掌)

来年の3月3日も御礼を書けるよう

できるだけ多くの更新に務めたいと

思っております。

 管理人 長屋の爺

◎  パソコンの引越し準備 

最近のパソコンの具合の悪さを考え

近いうちに新しいパソコンを購入する事に決めた

デスクトップ(XP)のデータは、外付けHDDに移し

ノート(WIN7)のHDDを丸ごとUSB・HDDに引っ越す事にした


とりあえず昨日の夕方から開始

まずHDD自体が「2台目のパソコン」として使える

そういう謳い文句のI社のUSBHDD(1TB)を購入

その便利な機能が使えるソフトのダウンロードから開始

これがなかなか大変な作業時間

I社のHPから簡単にダウンロードできたのだが

ダウンロードからインストール完了まで6時間を越えた

ノートの性能、WI-FI環境では当然かもしれない

日付が変わった頃、ようやく引越し作業を開始・・・

起きている事が不可能になった時点で深夜2時

まだまだ作業は終わる気配すらない

終了時点でシャットダウンを選択し床につく

朝5時半に目覚めてみるとパソコンの電源はオフ状態

たぶん10時間は要した作業だったようである


私がパソコンを始めたのは16年ほど前

元請企業に「見積もり」「請求書」を届けたとき

事務員の女性に言われたある言葉に始まる

「書類を手書きしているの、**さんだけですよ」

「いまどき 手書きの見積もりは珍しいですね」

ポケットベルでは緊急の連絡がつかないといって

当時高額だった「携帯電話」を買わされ

書類が手書きだと見難いと言い、パソコンを強要された

下請け稼業の悲哀といえるかもしれない・・・。


始めようにも仕事があって「教室」にも行けず

解説書、ドリル、専門雑誌を片手にパソコンを覚えた

当時はWin95というOSで、マウスをクリックして

しばらく待つ、砂時計が消えてからまたクリックする

その遅さといったら、今では信じられないほど遅かった

今となっては懐かしい昔話である。


もしあの時、彼女が無視して済ませていたら

今の私のネット生活?は存在しない

人生は縄のように縒られ繋がっている

私の今を作るために、あの時彼女が繋いでくれた

「必然の人生」であり、世の中偶然で済ませるほど

簡単でも晴れやかでもない


パソコンは長屋の爺の生活の一部

あくまでも・・・・一部なのである。


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