不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  邪馬台国探し 

体調が芳しくない

「鬼の霍乱」・・・軽い風邪である


このブログは下書き無しで書いている

そのため時間と体調に影響する作業だ

頭の中で纏まらなければ、先に進めないのが辛い

できるだけ更新をと思うのだが、長い文章は厳しい

少しずつ書いていこうと思う


「天岩屋戸神話」

スサノオが高天原へ行った時の神話だが

アマテラスは弓・矢で武装して迎えた

いくら「乱暴者」でも、戦争支度とは穏やかではない

つまりは侵略者を迎え撃つ支配者の姿を想像するのだ

スサノオは田畑を馬に乗って踏み荒らしたという

このことから、アマテラスは「農耕の民の神」の姿

田畑を踏み荒らすスサノオは「騎馬民族の神」に見える

であるならば、これこそ騎馬民族による侵略の逸話で

その後アマテラスの「岩屋戸事件」が起きるのであるから

高千穂の地に騎馬民族に関係する外部民族が攻め入った

歴史的事件の伝承と考えられるのである。


アマテラスとスサノオが敵対関係にあったとすれば

この神話の中の「天の岩屋戸」にアマテラスが篭った

のは、幽閉・監禁されていたという事になる。

それを救ったのが「タヂカラオ」であり「アメノウズメ」

「オモイカネ」だったという事になる。

救ったということは、スサノオが敗れたことであり

追放されて「新羅」に流された事も納得できるのである


これがある程度真実を伝えていると仮定すれば

高千穂の地に攻め入るだけの「騎馬民族」勢力が存在し

一時でも侵略が成功する力が存在したなら

九州のほぼ全域を掌握することは可能であり

小国の争いなど、長い時間続く事は考えられない

その観点からみれば、この逸話は「倭国大乱」の後

ヤマト誕生の前後に起こった歴史史実ではないのか

そういう思いも湧いてくる。


ヤマト ことばでは遥か昔から、この国はヤマトであり

倭国からヤマトになったわけではない

邪馬台国を「やまたい」という言葉を漢字にしたのか

とても疑問である

大陸が「ヤマト」の音を、「邪馬台」に当てた

「台与(とよ)」という文字を観ても解る

「台」は「と」という音で呼ばれた

邪馬台国とは「やまたいこく」ではなく

「やまとこく」だったからである


論語にこういう言葉が有る

 「事は易きにあれどこれを難しきに求む」 

考えすぎて難しくしている

答えは案外単純で簡単な事かもしれない


「邪馬台国」探しは、結局は「ヤマト」を探す事なのである


倭国とは以前にも書いたが、日本人が「魏の人」に問われ

質問の意味が理解できないで、答えた「自分は・・・」と

言葉を「わ」と言い、聞いた相手が「倭」と

捉えただけなのである

単純で簡単なことだと長屋の爺は考えている。


倭とは現在シナ国が侮蔑的な言葉で言う

「小日本」という意味なのである。
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◎  長屋の爺の嘘と秘密(2) 

2 中学校生活

私は今で言う・・・「帰宅部?」だったわけで

転校生の禊(みそぎ)を毎日のように受けて

寡黙で全部捨てたような毎日だったと記憶する

クラスの半分は「無関心」であり、その他は

新しい「玩具」を手にしたように「いじめ」を

楽しんでいた

有るときは陽気に、有るときは陰湿に・・・・。

田舎に居たときは、喧嘩・乱闘は日常茶飯事だったが

内地では耐えることが肝心だといわれ

我慢の日々を送っていた。

これが後に「素行不良」の燃料になったのは皮肉である


家に帰って何をすればよいか、判らずに途方にくれた

駒の不足した将棋、安っぽい碁石、そして大小さまざまのサイコロ

私は当時、「丸」という雑誌を愛読していた

思いついたのは、学校では使い道の無い?ノート(笑)

暗記している「日本海軍の艦船」「丸」によって覚えた

鬼畜米英の艦船名・・・・。

自分独自の「海戦ゲーム」を造ったのである

将棋の駒に紙を貼り、大和、武蔵、信濃、長門、伊勢等

補給艦に至るまで詳細に作成した

ルール作りから、厚紙を貼り合せてゲーム盤作り

今なら「幼き軍事オタク」と言えるかもしれない。

中学生活の半分をこの一人きりの「海戦ゲーム」で

過ごしたような気がする。


明日なんて興味も無く、ただじっと下を向く生活

そんな自分に声をかけてくれたのは

3年の担任になった女性教師だった

女性であろうが、教師は教師である

ただその教師は普通の女性教師とは違った・・・

この教師が私の人生を変えてくれた恩人である。


その人は「男勝り」の雰囲気があり

腫れ物に触るような態度は一切しない

言葉は乱暴だが、言ってる言葉が筋が通っている

今でもあの人は「男」として生まれるべきだった

そう思っている


「**(私の苗字)、お前 何で部活をしないんだ?」

「・・・・・」

「私が顧問をしている クラブに来てみないか」



3年になってから、クラス替えもあって

数人の同級生とは会話するようにもなった。

競馬好きの委員長、ボーリングに凝ってるボンボン

そして・・・ヤクザの娘等々・・・

私の中学3年の日々は、力強くはなかったが

弱々しくも、ちょっとずつ羽ばたき始めたのである。

  〔つづく〕

◎  そして 卑弥呼(ひみこ) 

ここ数日厳しい工事に没頭し心身ともに

悲鳴を上げている

マウスを握ったまま、撃沈する毎日である

来月上旬に予定された仕事さえ乗り切れば

例年通りの寒い骨休めの日々になるだろう。

歳を重ね「口だけは現役」に心が痛む・・・。


さて、スサノオを追いかけてみたら

「卑弥呼(ひみこ)」に遭遇した前回

その通説との矛盾・疑問を推理してみたい。


年代の相違がなぜ起こったか?

どちらかが「嘘」を書き残したか

書き間違いをしたか

そして、どちらも真実を書き残したか

そのどれかだと考える

魏志倭人伝は特別な意味を持って「倭人伝」を

書いたとは思えない

東方の小さな島国の国情など、瑣末な話でしかない

改竄する必要も無ければ、捏造する理由も無いはず

魏志倭人伝は凡そのところは正しい記述だと考える。


では、三国史記のほうはと言えば、これとて史書でもあり

国交の有る「倭」の政情など捏造する必要性は感じない

記述が残る173年の記述からすると、以前から国交が

あり、初めての遣使とは思えないのである。


ではどういうことか?

「魏志倭人伝」「三国史記」が間違った記述をしていない

その事を基準に考えれば、答えは一つしかない・・・。


173年に新羅に遣使を送った卑弥呼と、238年に魏に

遣使を送った卑弥呼は別人である。


魏志倭人伝や後漢書倭伝を観れば、その姿が鮮明に

見えてくる

後漢書倭伝によれば、「倭国大乱」と呼ばれる時代のあと

一人の女性を立て、王とし鎮まったという

その年代は、後漢11代恒帝と12代霊帝の間の時代だと

記されている

恒帝の在位は147~167年

霊帝の在位は168~189年である

延烏郎が日本に渡ったとされる157年も遣使が送られた

173年もこの時期にピタリと当てはまる


この時期に「倭国大乱」が起こって、女王が立てられ

その女王は卑弥呼という名であり、その卑弥呼が新羅に

遣使を送った。


ここで奇妙なことに気づいた・・・。

魏志倭人伝では女王の都について、伝聞のごとき記述しか

残していない、当然自らの足で訪れてはいないからだろう。

三国史記においても、倭国の都には一切言及していない

これは「女王の都」と言うものが、現代のように固定化

されていなかったのではないか

その都度、政情により幾つかの都(祭祀場)を

転々としていた

それゆえ他国の使者であっても、容易に訪れることが

できなかったのではないだろうか


ところで、もう一つの遣使はどうだろうか

魏志倭人伝に記される倭国女王の卑弥呼とは?

私は卑弥呼が死んだ後、男王を立てたが国が乱れ

「台与(とよ)」という女性を王に立てて鎮まった

その記述に注目している

2代目卑弥呼としか考えられない

卑弥呼とは一人の人間の呼び名ではなく

日の巫女である女性の尊称「ひ・みこ」なのである

魏志に描かれた女王・ひみこと、遣使を送った女王は

別人であり、年代が違って当然であり

魏志倭人伝に記される女王は「初代ひみこ」のこと

その魏に遣使を送ったのは「2代目ひみこ」なのである。

◎  スサノオを追いかけてみる 

新羅に僧侶・一燃(いちねん)という人が居た

その一燃が後世のために纏めた書物がある

高句麗・百済・新羅に関する「史書」である


その名は、「三国遺事(さんごくいじ)」という

日本で言えば「古事記」のようなものか

その中に興味深い記述がある

西暦157年の事として、次のような話である

「新羅の国の東海の辺に、延烏郎(えんうろう)と

 細烏女(さいうめ)という夫婦が住んでいた。

 ある日、延烏郎が海で藻を採っていたら、一つの

 岩が延烏郎を載せて、日本へ流れていったという。

 日本の人びとは、これはただならぬ人だと言って

 即位させ王とした。さらに、海辺に捜しに行った

 細烏女も岩に載って流され、日本に流れ着いた。

 そして貴妃として定められた。」

半島の古い「言い伝え」なので、真意のほどは

わからない・・・。

ところが、さらなる記述に驚かされた。

「このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまい

 わが国にあった太陽と月の精が日本に行ってしまった

 から異変が生じたと、日官は王に奏上した。

 王は二人の元に戻るようにと使者を遣わしたが

 二人は戻らなかった、代わりに細烏女が織った

 絹の織物を祀るようにと言伝し、帰って祀ったところ

 太陽と月は元のように戻ったという。」

この逸話の時代は、西暦157年

太陽と月が隠れる・・・・どこかで聞いた話である

わが国で紀元後最初の「皆既日食」は一説によると

西暦158年7月13日といわれる

この時の経路は、北朝鮮から日本の中国・近畿地方を

通り太平洋に抜ける道だったそうな

この年代の一致をどう考えるかだが、根も葉もない

作り話と捨てられない気がするのである。

日官(気象を司る役人)が王に奏上するのに、わざわざ

延烏郎と細烏女の名前を言い、皆既日食の理由にしたのは

二人がそれなりの身分だった可能性を含んでいる。

細烏女の織った絹織物を「国宝」として、貴妃庫に納めた

という記述から観ても、二人は「王族」という事も考えられる

延烏郎とは何者なのか・・・



鵲(かささぎ)という鳥がいる

鳥綱スズメ目カラス科の鳥で、胸一面が真っ白であとは真っ黒である

別名「カチガラス」、「コウライガラス」ともいう

熊野本宮大社の神使いが三本足の「カラス」というのは関係あるのか

ちなみに主祭神は「スサノオ」である

葦原中津国を追われ、新羅に逃れたというスサノオと

なにやら因縁がありそうな展開になってきた。

新羅の史書に「三国史記」というものがある

日本で言えば、「日本書紀」に相当する史書である

その中に、え?と思う記述があった

三国史記・西暦173年の記述によると

「夏五月、倭の女王卑弥呼(ひみこ)が、使者を

 遣わし来訪させた」

どういうことか? 魏志と年代が違っている

魏志倭人伝によれば、遣使は238年、243年

247年の出来事になっている。

だが、皆既日食との兼ね合い、三国史記の記述といい

否定する事も躊躇われる。

スサノオを追いかけてきたら、卑弥呼に遭ってしまった

もう一度じっくり考えてみたい・・・。

◎  長屋の爺の嘘と秘密 

私はブログの中で「学歴が無い」と再三書いてきた

私は謙遜でも脚色する気もないが

正直に言えば、多少とも隠している事実がある


形式だけを言えば、「高校は卒業」している

形ばかりである

勉強はほとんどしたことがない

それでもなんとか卒業した

家が貧乏だったせいもあり

最も近場の県立高校という厳しい条件

運も味方して、隣の町にある「新設校」に

もぐりこんだ

レベルは今とは比べようも無い状況の時代

現代国語だけは授業を聞くだけで成績は良かったが

総合的には常にクラスの最下位に鎮座していた

どうしてか「進学学級」に入ることになったが

教科書など家に持って帰ったことも無く

いつも新品同様の状態であった

個人ロッカーは教科書、体操服の保管場所で

薄っぺらな「通学カバン」は「平凡パンチ」と

外国製タバコしか入っていなかった(笑)


私が高校のことを語るとき、教師という存在を

語るときである

最悪の教師と、最高の教師の二人の話

私が勉強が嫌いになったのも教師

私が高校に籍を置いたのも教師のおかげなのである


私が教師を忌み嫌うのは、自虐史観ばかりが原因ではない

十代半ばの一人の人間の人生を変えた

傲慢で思慮の欠けた一人の数学教師の影響である


この話をすると、非常に長くなる

一晩話しても終わらないかもしれない

私はこの思いは「墓場の中」まで持っていくつもりであった

半世紀近く過ぎて、あの世とやらに持っていくほどの

話でもないのかな・・・と考えを変えた


何回かに分けて、古代史の「箸休め」のつもりで

差しさわりの無い程度に長屋の爺の青春時代を披露

しようと思う

興味の無い方はスルーしてください、役に立つような

素敵な逸話はどこにもありませんので悪しからず。


1 転校

私は父の仕事の関係で、中2の時に転校した

一学期が終わり、とても暑い夏の事だった

産まれて初めて「東京タワー」に昇ったことを思い出す

人がせわしなく歩く姿が、怖ろしい生き物の動きにも

感じて、声も出なかった記憶が残っている

夏休み中に転校手続きを済ませ、不安と期待で「その日」

を待っていたような気がする。

その日はついにやって来た!

残暑の厳しい二学期の始業式も終わり

翌日、運命の初授業・・・

曇りの蒸し暑い日だったと記憶している

真新しい教科書を前に、その授業は始まった

転校生という事もあり、教壇の前に席を与えられ

始業ベルが鳴り、教師が入ってきて、待ち望んだ転校生活

が始まった


授業が始まるや否や、その教師は感情のない面持ちで

「一学期のおさらい」と称する、過去の問題を生徒に

質問し始めた

ついに私の順番が来た

「この三角形の面積の求め方は?」

わからない・・・全くと言っていいほどわからない

だまって下を向いていると

木製の「三角定規」で頭を殴られた

それも三角の角で・・・・。

私は転校する前、田舎の学校ではそれなりの成績で

予習復習をしていて「クラストップ・校内上位」の成績を

収めていた、教師に叩かれた記憶も無かった

世間知らずのお山の大将、山猿である

その自分が習った事もない問題を出され

尚且つ、理不尽にも体罰を加えられたことに衝撃と

怒りを覚えた

当時の「数学」は数式と図形が大きな柱

私の田舎では、一学期に数式、二学期以降図形という

教科書を使用していた

ところが、転校した学校では、一学期に図形が教えられ

二学期以降に数式を教える形だったようだ

当然、習った事もない問題に答える術を知らない自分である

その後、どうやって家に戻ったか記憶が無い


次の日、担任に呼ばれ事情を聞かれた

誰かが担任に「ご注進」したようで、どういうつもり

だったかは知る事はできないが

私の様子がそれほど「異常な態度」だったのかもしれない

担任には隠さずに言葉少なに説明したような気がする

「わかったから 気にするな」

「**先生も 悪気があったわけじゃないから」

この瞬間から、私の教師嫌いが始まったのである

理不尽な扱いを受けて、謝罪の無い現実に嫌悪を覚えた

以降、私は数学の時間は、教科書もノートも机の上には

出さず無言で中学時代を過ごしたのである。

   〔つづく〕

◎  葛藤 

葛藤(かっとう)

その意味は、葛(かずら)と藤(ふじ)が絡み合い、

もつれ合っている様を表している

人と人とのさまざまな気持ちが、心の中でからみあう状態、

もつれ、いざこざ等のことである。


私はこの意味がつい最近まで、腑に落ちないまま

過ごしてきた。

なんとなく・・・わかるような、わからないような

モヤモヤとした気分だったのである。


なぜ?葛(かずら)だったのか

なぜ?藤(ふじ)だったのか?

別に野山に自生する樹木なら、他にもあっただろう

合点のいかない気持ちで居たのである


その答を教えてくれる文献があった。

葛とは「葛城氏」、「出雲族」などのヤマト王朝のこと

藤とは「藤原氏」、正統ヤマト王朝を簒奪した一族

その両派が複雑に絡み合う事の様が「葛藤」である

「眼から鱗」 である


では、なぜ葛藤なんて言葉を引っ張り出したか

神々とヤマト王朝を考えるとき、避けては通れない

問題が「正統ヤマト王朝」と、藤原(天智)王朝との

かかわりなのである


葛城・・・出雲と切り離せないのが「八咫烏」であり

これらがヤマト王朝の正統であるという

アマテラスにどう繋がるのか、少しずつ整理しながら

書き進めてみたい・・。


◎  もう一度 アマテラス (二) 

今 私の目の前には、数冊の分厚い本がある

「八咫烏(やたがらす)」関連の本

「ツクヨミ」関連の本

「アマテラス」関連の本

そして「八百万の神」の関連書である

古代史は絡み合った「糸」のように複雑に

、ある時は巧妙に立ちはだかり簡単には前に

進ませてはもらえない

アマテラスを探っているうちに、いつしか別の

神々の前に居たり、そうかと思うといつの間にか

アマテラスの前に居たりもする

アマテラスの探検の「キーワード」はズバリ・・

「丹生都姫」だと考えている




「天照大御神」は「丹生都姫」であり「稚日所尊」である


ではなぜ記紀はこのことを書き残さなかったのか

いや、書き残せなかったと言うべきなのだろう


日本各地の「水銀鉱床」がある土地には多くの

「丹生都姫」を祀る祠があるという


「丹生都姫」とは朱砂を生み出す女神 という事

朱砂を支配する一族によって祀られていたと

私は考えている

朱砂を支配する一族の産土神を記紀に残さなかった

さらにその女神の名前を変えて祀った理由

「丹生都姫」が「天照大御神」だと仮定すれば

朱砂の支配を略奪し、その事実を隠す必要があった

「丹」の存在を隠すためにも、「丹生都姫」の痕跡を

消さなければいけなかった

それが「ヒルメ」であり、「アマテラス」だったのでは

簒奪された一族の産土神は丁寧に祀られることなく

小さな祠で崇拝されていった。


以前、全国各地に昔から何処にでも「アマテラス」は

居た、そう書いてきた

たぶん朱砂が取れる地域、鉱物の採取された山裾の

地域では、当たり前に「丹生都姫」(アマテラス)が

祀られていたという事なのだろう。

「丹生都姫」は水の神でもある

水の神とは龍蛇の神でもある

水神は龍とも白蛇とも言われ、水と深い関わりを持つ

「龍神」と言ったほうが解りやすいか・・・。


アニメ映画「千と千尋」の中で、川の神(水の神)

「ハク」として登場していた

ハクは龍の姿で描かれていたのは有名である

ハクとは「白蛇」という意味であろう。


ではなぜ、「朱砂の女神」が「水神」になったのか?

水銀の鉱床は「古代採掘技術」で行われていた

当然ながら現代の技術とはほど遠い稚拙さである

坑道には地下水が溜まり、排水技術も無く難儀し

ついには新しい鉱脈へ移る事の繰り返し

水によって生きる場を奪われ、生活の場を

山裾の平地に移す、その仕事は「農業」だったろう

その朱砂の女神の性格も、「農耕水神の神」という

形に変化したのではないだろうか

「丹生都姫」とは「朱砂の女神」から「農耕の神」

そして「農耕水神の女神」に変化していったと

考えている

では記紀に「丹生都姫」の名前が無いのはなぜ?

「丹生都姫」は国津神(土着神)であり、記紀とは

天津神(皇祖神)の正統性を高らかに誇示するために

編まれたものである

そういう意味からも、「丹生都姫」という名ではなく

「稚日所尊」という名で大事な場面に登場させ

それとは別の名(アマテラス)で天津神の最高神と

して描いたのではないだろうか・・・。

◎  もう一度 アマテラス (一) 

天津神

皇祖神といわれている

天上から降りてきた神という

それを「真実」と思う人はいるのか?

いないだろう・・

では、どこから来た? 

ここから推理するには無理がある


国津神

日本土着の神といわれている

原住の神であり、「天津神」は謂わば、日本原住神から

観ると「余所者(よそもの)」の神なのである

こう言うと、では我々は「何者」なのかという話になる

天津神の末裔である可能性はきわめて低い

なにせ「ヒトデナシ」の末裔に「天津神」も「国津神」も

関係ないから・・・

だが、ひょっとして隣に座る人が「神」の末裔という

ことも否定できないのである(笑)


天津神と国津神を区別した理由を考えてみる

神はどうあっても神なのではないか

善神、悪神の区別ではなく、「天」と「地」に分けた

理由とは・・・


天津神の定義とは

天地初発のとき、天に出現した独神(ひとりがみ)、

神世七代(かみよななよ)のうち男女対の五代

天津神が高天原(たかまがはら)の神話の中で

活躍し、その後、葦原中つ国に天下り天皇家や各氏族

の祖先となった神を指して「天津神」と呼ぶ


国津神の定義とは

葦原中つ国の土着の神々

もと天津神であって、天下って国津神になった神々

そして夷狄(いてき)視されている神々


もうお解りと思うが、これこそ「勝者の言いぶん」だ

征服し統治したものが、原住の民を卑下するに同じであり

勝者は選ばれしモノなのである


さて神さまの区別がわかったところで

アマテラスとスサノオの関係を探りたいと思う

誰でも知ってる姉弟神という事になっている

記紀を観る限り不可解な事が多いのも事実である

誓約(うけい)で子供を8人も作り

姉は庇ったと思えば、匙を投げて「岩屋戸」に閉じこもり

仲間の神々が外に引っ張り出すということに発展する

ここで、大事な事に気づく・・・

姉弟が約束しただけで「子供」は生まれない

だって神話だから・・・・などという理屈は通らない

当然のこと、姉弟の関係など嘘である

さらに、「天岩屋戸」の話を観る限り

アマテラスは「最高神」というより、仲間に助けられる

単なる女神として登場しているのだ

これは絶大なる力を持つ「最高神・太陽神」の姿とは

ほど遠いといえる

これは何を意味するのか?

皇祖神、太陽神と権力者が言い張るのなら

どうしてこんな説話にしてしまったのか?

それには、そうしなければならなかった理由

不都合な真実が隠されているのではないか

アマテラスの姿を追って行こうと思う・・・。


高天原でスサノオが暴れまわったとき、機織を

するアマテラスに向かって「馬の皮」を投げ入れ

それに驚いた「天の機織女(はたおりめ)」が

機織の道具で女陰(ほと)を突いて亡くなった

その機織女の名は「稚日所尊(わかひるめのみこと)」

この女神は別名「丹生都姫(にうつひめ)」と言い

アマテラスの妹神だという(丹生都比売神社由緒)

ちなみに「丹生都姫」という名は、古事記・日本書紀

には登場しない

日本書紀には「稚日所尊」という名前でたびたび登場

する

神功皇后の新羅征討の後、舟がくるくる回り先に進めなく

なった時に、原因を占った場面で登場する

「わたしは活田長峡国(いくたのながお)にいたい」

と言ったのでそこにお祀りした・・・生田神社である。

その生田神社の言い伝えでは、「ワカヒルメ」とは

天照大神の「幼名」だとされる。

わかひるめ(幼名) → オオヒルメ(成人名) 

オオヒルメとはアマテラスの別名である


熊本・八代から大分・佐賀関、愛媛・佐田岬

吉野川から紀ノ川にかけての中央構造線に沿って

分布する「丹(に)」、その丹(硫化水銀)を手にする

一大勢力の産土神(うぶすながみ)が丹生都姫である。

そして、丹生都姫は稚日所尊であり、天照大御神なのである

◎  倭国を考える 

不本意ながらヤマト以前の国を倭国と呼ぶ

倭国とはどのような国だったのか


私の私見である

倭国とは九州北中部地方、山陰山陽・四国の一部

小国というより部族・ムラのような集団の集合体

そんな気がする

統一国家とはほど遠い「原始集団」だったかもしれない

農耕民族のサガである農地拡大、不足物品の搾取によって

諍いの絶えない混沌とした時代背景が想像できる

対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国

投馬国、邪馬台国

魏志に残る数少ない「国名」である

百余国というからもっともっと存在してただろう

交通手段は「徒歩」「舟運」だったか

物々交換の交易は定着していたかもしれない

その小国とは別に、九州南部には異民族の国があり

高千穂以南を領土としていたと考えている

「倭国」に属さない 狗奴国(くな)であり

のちの「熊襲(くまそ)」と呼ばれる民である


通説どおりかんがえれば、半島経由の諸物の流入が

想像できるが、舟は接岸できる津(港)さえあれば

何処にでも文化の伝播は可能なのである

その舟が北陸地方や越地方に渡ったとしても

不思議ではない

私はそういう小さな勢力が、新しい文明の力を

携えて、西に進んだのではないかと思っている


この2~3世紀ころ魏志の言う「卑弥呼(ひみこ)」

という首長(女王)が居て、何らかの理由で亡くなり

その後、戦乱の時代に入ったと考えられる

それを鎮めたのが「トヨ」と呼ばれる女性首長だった

史書はそのことにも固く口を閉ざす・・・。

想像するに「口伝」のほかにも、書き記したものが

ある程度は残されていたはずだが、全て土に還ったと

考えている。

それが「故意」であったにしろ、「結果的」であったにしろ

失われた国の大切な「息吹」だったように思う。

自分達の祖先が何処から来て、何処に還って行ったのか

ふるさとの土とは、祖先の命の果ての姿なのである。

それを知る事を拒んだ、時代の王権に落胆せざる得ない


これからは神話という名の「モノ騙り」を探っていこうと

考えている

アマテラスとは誰だったのか?

スサノオとはどんな人物だったのか?

オオクニヌシとは?

天孫降臨の本当の姿?

参考文献を遡りながら、想像してみたいと

思っている。

◎  三貴子のツクヨミの処遇 


ツクヨミ

アマテラス、スサノオと並び「三貴子」と呼ばれる神

アマテラスの弟神という

最高神アマテラスの弟である、当然手厚い祭られ方を

しているはず・・・

ところがこの「ツキヨミ」はどうでもよい扱いだ(失礼)

形の上では主祭神として祭られているだけ

伊勢・外宮など、別宮の扱いである???

外宮の主祭神は「豊受大御神」であり、単なる食事の世話係

それが「三貴子」のツクヨミより高い位置の待遇なのだ

これは「親王」が「侍従」より軽んじられているようなもの

その真相はいったい何だろうか・・

本当に「三貴子」は姉弟なのだろうか?

私はアマテラスを皇祖神に据え、スサノオの粗暴を

演出することに傾注して、ツクヨミまで手が回らなかった

そんな気がしている。

ツクヨミが実在した神で、弟神ならば今のような

いい加減な祭り方はしないはずである

太陽神を女神にする事の正当性を、「日月信仰」を

拝借して付け刃の如く、月神を登場させた

スサノオは別な問題から、兄弟神として挿入した

私はそう思っている

スサノオの所業を隠蔽する為、神話の世界に挿入した

その所業が出雲の国譲り・・・出雲略奪だと思っている。

神々が恐れおののいた、スサノオの本当の姿とは

出雲を武力(荒ぶる力)で奪い取るような

侵略者の姿なのである。

◎  原点に戻れば(神話と記紀) 参 

神話や神さまを考えるとき

私は呼び方の違う神様は「別もの」として

考えるようにしている

言霊の世界であり、文字が普及しない時代である

後世で「同じ神さま」と書いてあっても

音(言葉)が何よりも優先される

偏屈な理由かもしれないが、頑なにそう考えている。

だが呼び名はあくまでも「呼称」にすぎないのであり

だれがどのように呼ぼうと勝手なのかもしれない


葦原色許男(あしはらのしこお)

播磨風土記の記述に、葦原色許男が天日槍と争った

と書かれている

天日槍(あめのひぼこ)とは鶏林(新羅)から来た

移住者(王族)らしい

新羅から来て日本に永住し、なおかつ王にまでなった

人物、さらに葦原色許男が通説の「オオクニヌシ」

ならば、新羅から来て出雲の大王と争った者という事

になり、葦原中国を追放になって新羅に行き、出雲に

足を踏み入れた「スサノオ」しかありえないのであり

スサノオ=天日槍 ということも考えられる

これが、出雲の八岐大蛇の神話がスサノオの

出雲国の侵略譚ではないかという個人的論拠である



ここで忘れてはいけない事は、争ったのが

出雲ではなく播磨だった事である

天日槍は葦原色許男に対し、上陸の許可を

願ったが聞き入れられなかったともいう

つまり・・・舟で新羅から来た事になり

瀬戸内海から北へ進軍したのである


これを観る限り、播磨国風土記の記述は

古老の言い伝えをある程度素直に記したものであり

これを基に書き換えて記紀を編纂したことが窺える


ここでも重要なヒントが隠れている

上陸の許可を願ったというなら、意思の疎通は

できていたという事であり、新羅の人間も和語が

話せ、相手も理解できていた事になる。

◎  原点に戻れば(神話と記紀)弐 

風土記

現存する風土記といわれるものは

常陸国(ひたち)

播磨国(はりま)

肥前国(ひぜん)

豊後国(ぶんご)

出雲国(いずも)

の五つである

出雲を除く四つの風土記には天皇の巡行に

纏わる「地名起源」が残されているが

なぜか「出雲風土記」にはそれが書かれていない

そもそも「風土記」は元明天皇が713年に

全国六十数カ国に命じて作成させた「地誌」である

その勅命によれば・・・

* 山川原野の地名の由来

* 古老の言い伝え

を史籍(しせき)に載(しる)して言上げせよ

というものであった

単に地理的なことにとどまらず、それぞれの土地の

成り立ちや歴史を綴る地方史書として作成された


残された五つの風土記に限って言えば、出雲風土記は

地元の国造家が製作したものであり、残りの四つは

地方官吏が製作したものである事の違いが有る


四つは「お手盛り満載」のちょうちん地誌であり

出雲風土記は「敗者の叫び」が読み取れるのである。

その結果、古事記や日本書紀の記述と風土記の記述に

大きな違いが見えてくることになる



全ての事には理由が有る

神話を考えるとき、出雲という土地と風土記を無視して

は先に進めないと思うようになったのである


記紀に載らない神々・姫神たち

記紀との相違、通説の不思議

そのなぜを考えてみたい・・・


じっくりと神話の世界を創造(想像)して行きたいと思う

◎  原点に戻れば(神話と記紀)壱 

古代の神さまを思うとき

どうしても「天の岩戸神話」と、「八岐大蛇退治神話」

を無視できないのである。


以前にも書いたが、出雲国風土記には八岐大蛇退治は

いっさい触れていない

まるでそんな事実が無かったかのようである

では本当に無かったのか?

空想だけであそこまでの神話は創作できない

人間の空想・妄想もそれなりの素材があればこその

産物だと思っている。

「絶世の美女」を思い浮かべるとき、トウモロコシを

見ただけでは、美女は思い描けないのである。

それ相応の「女性モデル」があったはずなのである。

物語・神話とて同じ理屈になる。


さて・・「やまたのおろち退治」とは何だったのか

この世の中で、八頭八尾の大蛇が居たと信じている人は

いないと思って書くのだが・・・。

ここで重要な鍵を握るのが、助けられた姫のことである

名前は「櫛稲田姫」、スサノオの妻になった女性で

スサノオの活躍だけが、その後の記紀にも登場するが

姫に関してはほとんど記述が残されていない。


私見である・・・・。

私はこの神話のモデルは、スサノオの出雲国の侵略譚

では無かったか、そう思っている。

相手は大蛇ではなく、「オオクニヌシ」であり場所は

出雲・斐伊川上流と考えている。

櫛稲田姫とは「オオクニヌシ」の妻であり、オオクニヌシの

子を産んだ姫神だったと思っている。

出雲の主(王)だったオオクニヌシに酒を飲ませ

酔いつぶれたところを襲い殺した

剣で非情なまでに「切り刻んで」(八つに刻む)

出雲の主の大事な剣を奪い

その最愛の妻までも奪った犯人がスサノオだった

奪われた妻の名は「櫛稲田姫(くしいなだひめ)」

奪った剣の名は「草薙の剣」だったと考えている。


なぜ「大蛇退治」の逸話に置き換えたかといえば

出雲の主が崇拝していた祭神が「蛇神」だったのでは

ないか?

あるいは、山々で鉄の鋳造に使われる「炭」を焼く炎

製鉄の炉の炎が「赤く燃える大蛇の背」に見えたか?


出雲の主が「鉄」と「水銀」などの鉱物を握って

支配していたとも考えられる

そもそもが出雲の主が「朱砂の王」と呼ばれ

その地方一帯を治めていた王だったと思っている。


それを奪ったのが「スサノオ」と呼ばれる人物だった

朱砂の王を殺し、自ら「スサノオウ」と名乗った男

それが記紀に描かれたアマテラスの弟・スサノオである



八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに

     八重垣作る その八重垣を



日本最古の和歌(スサノオ作)と言われている

それすら怪しい話なのであるが

この歌の真意は、奪った姫をおのれの妻とし

幾重にも重ねた垣の中に「妻を閉じ込めた」と聞こえる

若しかすると、この作者はスサノオではなく

姫神の作歌だったかもしれないし、その事実を嘆いた

出雲の民が読んだ歌かもしれない・・・。

◎  なぜ「倭人伝」だったのか 


魏志倭人伝

中国の史書「三国志」の「魏書」巻30の

烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷伝(とういでん)

の中の倭人条(わじんのじょう)の事である

一般的には「魏志」倭人伝と呼ばれ

ヤマト王権が出来る前の時代(3世紀以前)の

日本を書き記したものである

なぜこの倭人伝が重要視されるのか?

日本の史書は8世紀に編まれたものが最古とされ

2~3世紀の史実は詳しく遺されていない

倭人伝はリアルタイムの日本の一部を書き記した

貴重な文献である


ある書物に驚く記述があった

なぜ? 倭人伝なのか・・・

「倭国伝」でも「倭伝」でもないのはどうしてか?

どうして「倭人」という表題だったのか?

たしかに言われてみれば、不思議である

外国の事を記述するのに、国ではなく人を記述するのか

その真意が理解できない


おそらくこの時代は夥(おびただ)しい数の小国(部族)が

日本中に犇(ひし)めきあい、統一国家の体を

成していなかった事を「魏国」は承知していたから

ということは当然考えられる

平たく言えば、国・国家とは呼べるものは

魏人の目には映らなかったという事だろう

倭人たちが日々争い、対立する混迷の島国

それが海の向こうの「魏」が眼にした「倭人の地」だった

だから、倭国ではなく倭人の地として、その時代の

状況を書き記した

その多くが北部九州一帯の地域だったと推測する

邪馬台国が何処であれ、倭国が何処だったのかなど

たいして大きな問題ではない

その魏国の人間が眼にした倭人たちが、どのような

道筋を経て、倭国、ヤマトに変化していったのか

その事が大事なのだと思っている


8世紀に古事記や日本書紀を整えた人びとには

3世紀ころの史実はある程度、伝えられていただろうと

長屋の爺は考えている

それを書き残す事が出来なかった理由

書き残す事が許されなかった理由

遺さない事を選んだ人々の思惑とは何だったのか

全ての事には理由がある

時間をかけてもう一度、考えてみたい・・・。

◎  古代豪族と大王家 

古代の豪族と言われる人々

本当に豪族と呼ばれる天皇の臣下だったのか?

記紀に書かれているから真実

そう簡単な話ではない


蘇我や物部の争いに腑に落ちないものが多々有る

臣下同士が争いを起こせば、上に立つ天皇がそれを

ただ傍観するだろうか?

私は古代豪族が力を有していた時代

豪族とは「独立した王家」の一つではなかったか

その独立した王家同士の諍いに「大王家」は静観

するしかなかった

そういう見方もできるのである

古代を判断する「定規」が近世の目盛り、そんな基準で

考えると見誤ってしまう事もあるはず


ではなぜ?

大王家(天皇家)は静観したのか

鬼を征するには鬼をもって征す

大王家にとって好ましからざる力は、その対立する力に

よって排除する事が望ましい

ゆえに「静観」したのではないか

その結果、天皇家を頂点とする統治制度が

確立することになる

とにかく「合議制」の大王擁立という統治から

天皇を中心とした世襲制に移行した

その正当性を大きな声で、示さなければいけなかった

それが後の「国史編纂」という事業である


ふと思いついたことを書いてみる・・・

よく古代史で「半島から」「百済から」「任那から」

「新羅の」という記述を眼にする

私はこれこそ「近世の目線」で観てはいけないと

常々考えている

当時の半島は現在の民族とは無縁の人びとが

暮らす、そういう国々であり

言葉も当然のように「日本語(和語)」だったと思っている

なぜか?

半島には嘗て「古代朝鮮語」という言語が存在し

現在では消滅した言語と言える

朝鮮半島には近世に発明された「ハングル文字」の

前は「漢語」であり、その「古代朝鮮語」との間に

「和語」が存在したのではないか

古代朝鮮語といわれるものが、もしかすると

古代和語だった可能性も否定できない

そういうふうに思っている


ただ、その当時の半島人は今の半島人とは異なる

民族であり、日本(古代倭国)の中の一つの国だった

あるいは同盟国だった可能性も有る

そういう事も言えるのだ・・・

「観て来たように言う」のは講釈師か(笑)


古代史は言ってみれば、「個人の嗜好」の感想みたい

どのように判断するかは個人の感じ方だけである

一説によれば・・・

万葉集は「古代朝鮮語」といわれるもので

書かれているという

どうして歌が詠まれ、書き残されてきたか

さらに伝えられてきたか

童謡が虐げられし者の「敗者の想い」であるように

古の歌は「世の中の叫び」「まつりごとの事実」を

後世に伝えたものかもしれないのである。

◎  人の笑顔を消す 失くした職人の誇り 

職人は器用である

常識として思えるこの言葉

私からすると、NOだと思う

全てにおいて不器用ゆえ、一つ事に打ち込む

それが私の「職人像」である

目端が利いて器用に生きられれば

職人に納まってはいない


器用がどのあたりまでのことを言うのか

何でもソツなくこなす

そういう意味では、そうなのだが・・・


あるモノに一定以上の知識と技を持つものの呼称

それが「職人」であり、更なる精進をし、努力を

する姿勢が「職人技」と呼ばれ

その結果が「職人芸」とも言われる

そこに流れているのは職人の「誇り」、プライドで

それを失ったものは「プロの職人」ではない


なぜ? このような事を書いているのか

最近の身の回りで起きる「事故」「事件」

あまりにも稚拙な事故が多い

工場での事故、公共施設での事故

その事故に関わる「裏方」に職人の臭いがしない

そう感じている

単なる仕事をこなす「給料取り」である

時間から時間、与えられた仕事を形ばかりこなす

これからの時代、日本には数多くの事故が起きるだろう

ものづくりの国の、ものを作る職人が消えていく

仕事<金 誇り<収入

古きよき時代の職人は、金よりも職人魂を重んじた

恥ずかしくない仕事

自分の眼の前にある仕事の、その先にある人の笑顔

それが見えない者は、職人には不向きなのである


世の中、序列が決まっている

客(施主・依頼主)

業者(元請企業)

専門業者(下請け業者)

施工者(職人)


職人は客から直接に報酬を受け取る事はない

だが、「ありがとう」の言葉は受け取れる

金を払う最上位の顧客が、最下位の職人に

礼や労いの言葉を言う必要はない

お客様は神さまなのだから・・・・

その神さまの一言で、職人は救われる!

某かの報酬をもらい、更にお礼を言われる

「職人冥利に尽きる」 瞬間でもある。


「ありがとう」の言葉は、職人の誇りを

活性させる特効薬であり

世の中の人を笑顔にする最高の

「おまじない」でもあるのだろう

長屋の爺はそう考えている。

◎  言葉の由来に想いをめぐらす 

勾玉(まがたま)という言葉

いつの頃からそう呼ばれたのだろう?

漢字で書かれる以前の遠い時代・・・・

まがたま という言葉が存在したのなら

どんな意味だったのだろう

これはずいぶん前からの疑問の一つだった


アイヌ語から想像してみた

タマ とは、「首飾り」のことを言う

マ とは、~して・泳ぐという意味らしい

カ とは、~の上・という意味である

マ・カ・タマ ・・・糸を通した首飾り

そういう事になる。

だから、小さな丸い穴が開いているのだろう


まず言葉が先に在り、後に「漢字」が当てはめられた

これを観れば納得してしまうのである


シ とは、本当の・主な・大きい という意味で

ル とは、道・様子の事だという

シ・ル とは本当の様子(真実)のことか?

知るとは真実を理解する事だろうか・・・。

シ・ル・シとは、本当に大事な道のことか?

だから「標し」となった・・・などと想像する

とても楽しい・・


フミ とは、「音」のことであるという

音を文字で表したから、「文(ふみ)」というのか

フムも「音」のことであり、文(ぶん)に置き換えたのか


イ とは、私・我々と言う意味

セッ とは、寝床・部屋・の事だ

檻(おり)は「居り」から生まれた言葉ともいう

私が居る、あるいは「我々の檻」という意味なのか

言葉探し、語源の言葉遊びは、本当に楽しい。

◎  逸話に残る歴史の断片 


伊勢

「いせ」は妹背 (いもおせ・いもせ) の略であるという

妹背宮

妹背神の宮、陰陽の宮、中心の宮。

イサワ宮、サコクシロ内宮。


ヰモヲセカミ(妹背の神)イセノカミ

アマテル神 (陽陰垂る神) を指す

アマテルは、人としては男性(陽)であるが、エネルギー的には

常世の神々と同様に、両性の統合と見なされていた。
  


ある地域の言い伝えは時として、重要な歴史の断片を

語り継いでいることもある

真実であるか否か・・・それは誰にもわからない。


天児屋命(あまのこやねのみこと)

別名 カスガ守(春日神)、かすが

斎名:わかひこ

ヰチヂ(かすが殿)とあさか姫(かとりの妹)の子

タケミカヅチの娘(ヒメ)を娶る

かすが殿、カシマ、カトリの家に伝わる道奥は

すべて「こやね」が引き継ぐこととなる

(道奥とは福島・会津地方一帯のことか?)

テルヒコと共に「あすか」に赴くが、クシヒコと同様に

宮移しに承服できず、「あすか」を去ったようだ

アマテル亡き後は、アマテル神の内宮で神教人を勤める。


櫛玉火明命(くしたまほのあかりのみこと)

斎名:テルヒコ

『古事記』では天火明命。

『日本書記』では火明命、天照国照彦火明命。

『旧事』では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と称する。

オシホミミから三種、アマテルから十種を得て大和に下る。

初め「いかるが宮」、ついで「あすか宮」に座す


瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

天の御孫、別雷の神、伊豆大神、カモ大神。

斎名:キヨヒト。

オシホミミとタクハタチチ姫の子

クシタマホノアカリの弟、 妻はマウラの娘のアシツ姫。

キヨヒトは伊勢のアマテルの元で育ったようである。

壮大な土木開拓事業で日本列島を大改造したという。

高千穂峰で神上がったという。


これをどう解釈するか

整理できないでいるのだが、天孫降臨神話には

必ずその基になる逸話なり実話が存在した

空想だけでは記紀は編む事はできないと思っている。

歴史の彼方に埋もれてしまった逸話の中に

歴史の輝きが隠れているのかもしれない。

◎  祟る出雲 天つ神と仏 

出雲は祟る

これは日本書紀にも書かれている話だ

崇神天皇の時代、諸国では疫病が蔓延し

人口の半数が死ぬ事態となる

その勢いは翌年も衰えを見せず成す術がなかった

その疫病の原因は三輪山に祭られる大物主だという

大物主は大国主の「和魂(にぎみたま)」であるとされ

さらに「ニギハヤヒ」のことでも有るといわれる

大物主とは、「 大いなる物部の主」ということであり

物部の祖は「ニギハヤヒ」である

出雲の大国主は大物主であり大国玉であり、大物主は

ニギハヤヒである

大国玉は大国主の別名といわれ、最初はアマテラスと

ともに、宮中に祭られていたが、霊威が強いという

理由から、宮中から追い出されたのが「オオクニタマ」

なのである。


そこから考えれば、大神神社も伊勢外宮も出雲大社も祟る

要素を持った神社と言えるのではないか

やはり、本来の神社とは「祟り神」を祀るために造られた

その意味から始まっているように思えてくるのである


自らを「神の子孫」と言い、祭祀王となった天皇だが

なぜか「仏教」という異国の宗教を受け入れ

その信徒となった

天皇家は間違いなく「仏教徒」である

その意味を基準に考えるなら、神道は宗教では無い

そういう事になる


イスラム教徒がキリスト教徒として二つの信仰を

同時に実践することはありえない


なぜ東大寺大仏を建立し、仏の僕(しもべ)になったのか

「神の力に愛想を尽かした」「神の力の限界を知った」

そういう事なのかもしれない

当時の国内は、異常気象・飢饉・伝染病の流行などで

「天皇の徳」を疑問視する声もあっただろう

いわゆる「天人相関説(てんじんそうかんせつ)」である

神に祈っても効果が無いなら、仏の力に縋ろうとした

その表れではないかと思う

もう一つ、はやり病(伝染病)は怨霊の祟りという

考え方が一般的な時代である

祟る神を「押さえ込めない」非力を、仏の力で封じる

最期の手段だったかもしれないのである。


災禍が神の力で治まらないなら、仏の力で治めようとした

天つ神の子孫が、「ただの人」になった瞬間である。

天つ神の末裔であることを捨ててまで縋ったのが「仏」だった

それほどまでに、祟り神 の猛威に頭を痛めていたという

事なんだろう。


以来、「現人神」という言葉で神に祭り上げるまで、天皇は

人であったという事である。


「何事のおわしますかは知らねども

       かたじけなさに涙こぼるる」(西行)

◎  八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま) 再考 



八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

天皇の皇位継承に直接的にかかわる神器であり

八尺瓊勾玉を継ぐ者が天皇となられるのが習わしとされる。

だから、今でも宮中に留め置かれているという

瓊(に)とは、赤い玉のことであり、瑪瑙(めのう)のこと

だともいう

あれ? という話である

たしか・・・持統天皇の即位ではまったく登場しなかった

それが、勾玉を継ぐものが天皇とは如何に???

持統天皇は正式な天皇ではなかった事になるのか?

ある説によれば、当初二種だった神器が一つ追加され

三種になったという

そもそも神宝は10種あったという説もあり

神器とは呪術に使う祭具だったという説も存在する


この勾玉、胎児を象っているとか、月を象っているなど

諸説あるが、ツキヨミ神の象徴ともいう

天の岩戸神話において、アマテラスを誘い出す時に

登場し、天孫降臨の時に鏡・剣とともにニニギに託されて

再登場する

その後、どうなったのだろう?

この三種の神器については、その諸説がどうも

「後出し じゃんけん」のような気がしてならない

大事な「家宝」を親類や友人に預ける人がいるだろうか?

それほど大事なものを、手元に置かない事が理解できない

熱田神宮は皇祖とは違っている、どうして剣が納められて

宮中に戻されないのか?

単純に考えれば、端から皇室の持ち物(所有物)では

無かったのではないだろうか

鏡にしても「霊威」が強いのではなく、正統な持ち主では

なかったから、持ち主を祭ってある社に戻した

そう考えれば、神器の所在の不思議が理解できる

さらに神器を考えて、いつの日か纏めてみたい

◎  三貴子の中のツクヨミ (2) 


太陽は 昼

月は 夜

大雑把な表現だが、そういう事になる

ツクヨミは闇の世界を司る神

そういう言い方もされる

太陽も月も、消滅と再生を繰り返す


世界の多くの地域では、太陽崇拝が常職であった

エジプトの太陽神アメンを中心とした多神崇拝や

アクエンアテン(アメンホテプ4世)が唱えた

太陽神アテンの信仰にも見える

日本ではアマテラスの天の岩戸神話に残され

南米インカ神話のインティに代表される太陽崇拝があった

ただ一つ、中華だけは太陽や月を神格化して崇拝する

という歴史・文化は無いが、太陽と月の誕生神話として

創世神「盤古(ばんこ)」の左眼から「太陽」、右眼から

「月」が生まれたとされる神話が残る

そして・・・日本ではイザナキの左眼から「アマテラス」が

右眼から「ツクヨミ」が生まれたとされる(古事記)

ギリシャ神話では、太陽神「アポロン」と月の女神である

「アルテミス」の兄妹神の説話が残る


ではどうして、日本では太陽神(日の神)だけが大きな信仰を

うけて、月神(月の神)は影が薄くなってしまったのか?


これは記紀編纂の遠い昔の時代は、太陽と月の神話だったものが

後から付け加え書き足された「スサノオ」にツクヨミの神話が全て

置き換えられたからとも言われる。

このことから、スサノオというのは一人の話ではなく

多数の古代の長(おさ)の逸話の集合体とも言えるのである

だから時には、凶暴であり、あるときは弱きを助ける聖者

の姿で登場する


ツクヨミは男か女か?

一般的には「男神」とされる

その根拠は不明である

日本以外では、太陽神は「男神」が常識であり

月の神は「女神」が常識である

アマテラスを「女神」とした為に、ツクヨミを

「女神」とするわけにいかず、その事に触れないように

記紀編者の思惑が透けて見えるようである。


常識と言う観点から考えれば、太陽神は男神であり

アマテル神だった、月神は女神でありツクヨミ神で

あったろう
と考えている。

◎  三貴子の中のツクヨミ (1) 

三貴子(みはしらのうずのみこ)

あるいは さんきし とも言う

アマテラス・スサノオとともに産まれた神

ツクヨミを含め、記紀に記されている


ところが、このツクヨミという神はわりと

世間には知られていない不思議な神である

ツクヨミを祭る神社は少ない、というか

後に勧請したような社が目立つのである

一説によると85社だという


では、ツクヨミとはどんな神なのか?

ツクヨミは 古事記では、月讀命(つくよみのみこと) 

日本書紀では月讀命、月弓尊、月夜見尊、とも記され

太陽神アマテラスに対し、月の神ツクヨミと称される

アマテラスが「鏡」

スサノオが「剣」

ツクヨミが「勾玉」

いわゆる、三種の神器を象徴する神である

なのに・・・記紀の扱いは低いという現実

古事記に書かれているのがほんの一行程度

日本書紀にも本文には一箇所だけである

ところが、一書(あるふみ)には、多くの逸話が

残されている、これも不可解である

同じ「三貴子」の2神の扱いとは雲泥の差が有る

これはどういう事だろうか?


記紀が編纂されたのは「天武朝」以降である

その時代の「勾玉」の扱い・評価が原因かもしれない

持統天皇の即位に、剣と鏡を奉ったという記述が残る

正式な天皇の即位は三種の神器の継承で確定する

というのが、現代の常識であるが・・・

「勾玉」はこの時代には、神器としては重要視されてない

そういう気がする




月を読む・・・・

月の満ち欠けは、万物の生死に関係する

月が欠け「闇」がおとずれても、また満ちる

この周期が、「一月(ひとつき)」であり

平均29,5日と言われている

その代表が女性の「月のもの」といわれ

汐の満ち干き(潮汐力)は「人の誕生」と

密接な関係を持っている

人(男も女も)が産まれて来るには「月」が無くては

成立しない、そういうふうにも考えられる。

かの「安倍清明」も、陰陽道で月を読んだという

月を読むことは森羅万象を読むという事だろうか


太陽が万物の成長に大きく関わるとするなら

月は万物の生死を象徴するとも言われる所以である


◎  日本人の信仰心(初春と神社) 

「私は無神論者だから・・・」

よく聞く言葉である

ところが多くの日本人は「無神論」なんかではない

「無宗教」ということなら多少は理解できる

日本人は無意識の信仰心を少なからず持っている

中には「信仰心」が加熱し、暴走する人もいるようだが


占いを気にする

風水が気にかかる

ジンクスを気にする(縁起をかつぐ)

困ったときに手を合わせる

こういう人は無神論なんかじゃない

長屋の爺はそう思っている

日本人の信仰心とは、見えない何かを「信じる」

ここから出発している

それが心の内にある、信仰心だと考えている




さて、初詣はどこに行きますか?

とりあえず、近くの神社で手を合わせようかな

その神社の神様がわかれば、有り難味が増すかも

しれないですよ


では、代表的な神様のおさらいです


稲荷神社

通称「おいなりさん」

きつね 油揚げ 紅い鳥居で知られる神社

全国に最も多いとされる(約2万社)の社がある

祭神は 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

本来は山城(京都)地方の地方神だった神さま

稲に宿る精霊であり、五穀豊穣を齎す神様である

室町時代以降、商業の神様の性格も持つとされた


八幡社

通称「はちまんさん」

全国14,800社

祭神は 応神天皇

そもそもは「海神」であり、船に多くの大漁旗が

はためく様子から「八幡(やはた)」と呼ぶようになる

平安後期に源氏の信仰が高まり、国家鎮護、家運隆盛

のご利益があるとされた。


天神社(天満宮)

通称「てんじんさん」

全国に10,300社

祭神は 菅原道真

本来は「祟り神」であり、冤罪で憤死した怨霊である

平安時代末に篤く保護されたことにより、地方の「嵐の神」

「雷の神」などが天神のもとに集約されて大きな信仰を

受けるようになった。

後に商工民の信仰を集め、江戸時代には学者達の信仰の

対象になり、「学業の神さま」という信仰に変わった

年始から受験シーズンに至るまで、多くの参拝者が訪れる


神明社

全国に5,400社

多くの神明社の頂点に在るのが「伊勢神宮(内宮)」である

主祭神は 天照大御神

ご利益は、家内安全、商売繁盛、武運長久、学業成就

全ての人々が安心して楽しく暮らせることが、自分の幸福に

繋がるという基本的な考えによる「天照大神信仰」である。


熊野神社

全国3,300社

熊野三社の信仰

(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)

熊野山中に住む狩猟民、木材の切り出しに従事する民が

巨木の精霊を祭ったことが起源といわれる

後に山岳仏教と結びつき、修験者などの修行の場とともに

信仰が広がった、平安時代末の頃からは熊野の神は皇室を支え

、国土安泰をもたらす神として信仰された

ご利益は、延命長寿、無病息災である

◎  謹賀新年  

新年 明けまして おめでとうございます

年に一度の「飲酒」で朝寝坊の元旦でした

わずかばかりの日本酒では、なかなか酔えず

ちょっと呑みすぎてしまいました(笑)

年々歳々 酒量は落ちて行き

普段 お酒を飲まれている方からすれば

かわいい飲酒である


今年は「御節(おせち)」は止めにして

好きなものを好きなだけ

そういう方針に変えてみた

海老 ホタテ イクラ 筋子 カニ 等・・・

年に一度の贅沢である(独身ゆえできる)

三が日だけは、何処にも出かけないので

酒ばかり呑むことになり

 酒 読書 食事 読書 酒 食事 PC 酒 読書

そんな気ままな お正月を過ごしている

一年365日の間の 3日間だけの飲酒

だから 美味しいのかもしれないです


明日は 「箱根駅伝」です

ちびりちびり 呑みながら年に数回のテレビ視聴である

このためにだけテレビが存在し、受信料を払っているようなもの

「箱根駅伝」が無くなれば 我が家では「テレビ」は単なるゴミになる

ブログ更新の「誤字脱字」は酒のせいという事で・・・・。


本年も どうぞよろしく お願いいたします

               《管理人 長屋の爺》


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