不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  三関と尾張氏の関係 


三種の神器はいつ定まったか?

意外と知られていないというか、知らされていない

この「三種の神器」と言う言葉、初見はなんと・・・

「平家物語」なのである

「古事記」にも「日本書紀」にも書かれていない

この「三種の神器」が注目されたのは南北朝の時代

天皇の正統性を決める道具として使われたのである


神代の昔からと信じてきた事柄、意外と隠されてきた

事実がここにも存在したということだ




伊勢神宮が現在の神宮の形になったのは「持統朝」

からと考えている

小さな祠か、小さな社だったろうか

それより少し前 出雲大社が建てられたのか?

熱田神宮はいつ建ったのか?

これも知らされなかった事実が潜んでいそうだ


古代ヤマトに「三関(さんかん)というものがあった

673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を

守る為に、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所が設置された


不破関は「関が原の合戦」の地より南に一キロほど

の処に会った関所(現在の、岐阜県不破郡関ケ原町松尾)


鈴鹿関は古代東海道の要所とされる場所にあった関所

(現在の、三重県亀山市関町)


愛発関(あらちのせき)は近江国と越前国の国境に置かれた

関所 (現在の、福井県敦賀市南部)



ヤマト(近畿地方)から見て東の方角に位置する地

それは「東国」のことであり、「関より東」ということで

関の東の地方を「関東(かんとう)」と呼ぶようになる


なぜ関所が必要だったのか?


それは東の地方が「ヤマト」ではなかったから

あるいは「ヤマト王権」にとって「脅威の部族」が

住み暮らす土地だったからかもしれない

ヤマトタケルの東国征伐の神話は、裏を返せばその

東国がヤマトにとって好ましからざる住人の地という

認識が書かせたものかもしれない


そんな不安定な地に「皇祖神」を祀るということ

その意味するところが理解できない


伊勢の地が関の内なのか外なのか?

それによっても推測が変わる

もし、当時の都の人びとにとって、伊勢が外という

認識があれば、神宮は遠ざけられたのであり

内という認識ならば、「盾」というか災いを封じる

目的という見方もできる

私はこの三つの関所は東の豪族への防御だったと思っている

その豪族とは・・・

「尾張氏」とその一族だろうと思う

なぜか大豪族である「尾張氏」の歴史的記述が全くと言って

よいほど無いのである

ヤマト王権にとって不都合な存在?

いや、持統天皇(天智系)にとって極めて不都合な存在

だった可能性が考えられる

天武朝の誕生に貢献した豪族を歴史から消す必要とは

いったいなんだろう?

天武天皇誕生に寄与した「尾張氏」が居る地との

要所(道)を固める意図はなんだろう

天武天皇が頼ったように、他の打倒王権を画策するもの

を東国に行かせないための関所

そう考えれば理解できる


たぶん「草薙の剣」が大きく関わっていると思う

機会を見て探って行きたい
スポンサーサイト

◎  泣くという事 涙を流すこと 

涙を流す

人は「悲しいとき」「感動したとき」

涙を流すものらしい

人は生まれてすぐに泣く

その時、涙は出ているのだろうか?

私は「泣く」という行為は生きようとする

意思宣言のように感じている

生まれてすぐの赤子が泣くのはこの世に出てきて

「これから必死に生きてやる」

そんな 声なき声 で叫んでいる

暴論かもしれない

人は絶望の淵に立つと、涙も出ないそうである

泣くというのは、「生」への意欲をなくした者には

不必要な存在なのかもしれない

最愛の人を亡くした直後は「涙」が出ないことがある

涙を流すのは「立ち直ろう」とする意識の産物だろう


歳をとると「涙もろくなる」

これも限りある「生」に対して、もっと長く行きたい

「生きてやる」という宣言かもしれない

流した涙、泣いた回数が多いという事は

生きる強さを失わなかった証かもしれない


葬祭が続きふと、そんなことを思っている

残り時間の少ない 長屋の爺 の戯言である。

◎  左利きの再考 

天皇は南面して座り、臣下に面会する

このとき天皇の「左側」は「東の方角」になる

「日の出る方角」で、東(ひがし)という

「日出り」なのである。

東と言えば「蝦夷」、いわゆる「東夷」のことだ

「ひだり」を差別し、嘲る言葉に使うのは

こういう意味があったからではないだろうか

「ヒトデナシ」「鬼」「雲(蜘蛛)」「河童」

そういう中の一つ「日出り(ひだり)」である



「左(さ)」と「左(ひだり)」は別物である

そんな気がしてきた。



「ひだる」という古語がある

意味は「空腹」「ひもじい」という

「日出る」とは、ひもじく貧しいことの意か?

社会の底辺にいる人間に対する蔑称かもしれない


日本には現代では同じ言葉で、同じ撥音でありながら

別の意味をもつ言葉が多く存在する

漢字によって区別しているが、外国人にはその区別は

難解だと思う。

箸 端 橋 嘴 梯 

どれも読みは「はし」である

微妙なイントネーションはあっても使い分けは難しい

それを踏まえて考えれば、「ひだり」という言葉も

何種類かあったとしても不思議ではないのである


余談だが

スサノオが八岐大蛇を退治した神話で

出雲の国の肥の川の上流に降り立ったとき

箸(はし)が流れてきた、それを見て川上に

人が住んでいること知り、足無椎(あしなずち)

手無椎(てなずち)の老夫婦と娘(櫛名田比売)

に会ったという記述が古事記にある


これも騙りである

箸というものは5~7世紀に仏教と共に伝えられたもの

「魏志倭人伝」でも「食飲用籩豆手食」と書かれていて

手で食べていたことが知られている。

だから神話の時代や「箸墓古墳」の時代には

日本に「箸」と呼べるものが有ったとは考えられない

この話が何らかの事実を元に書かれたのであれば

5世紀以降の時代の話という事である。


食べることと「ひだり」に何か関係が有るのか?


手水舎(ちょうずや)で手や口を漱ぎ清めるとき

まず、右手で柄杓を持ち、左手を清める

次に左手で柄杓を持ち右手を清める

次に右手で柄杓を持ち左手(手のひら)に水を溜め

それで口を漱ぐ・・・。

左手が「主」になって「お清め」がされている。


左が軽視されているのでもない

やはり「左」ではなく「ひだり」が蔑視されているようだ

新しい説が見つかるまでの宿題である。

◎  差別の彼方に見えるもの 

朝早く 町内でまたもや「不幸」の報せ

とにかく今年は多い(爺も忙しい)

こうして「世代交代」が進んでいくのだろう。


「ぎっちょ」

今は「差別語」だそうだ

どうして差別なのか不思議である

「サウスポー」はOKで、「ぎっちょ」はNG

可笑しな話である

左利きを差別する意味がわからん・・・・。

左ぎっちょの言葉の由来は平安の舞楽からきている

そういう説も有る


「左義長(さぎちょう)」

地方によっては「どんどやき」などとも言う

なぜ? 左義長 などと呼ぶのか

正月の宮中行事で天皇が書き初めを三本立て

毬杖(ぎっちょう)に結んで、これを燃やした儀式

「三毬杖」からきているという

「左義長」は当て字らしい


長屋の爺から言わせてもらえば、どれも「当て字」だ


そもそも何で「ひだり」「みぎ」がある?

その決まりは何時ごろからなのか?

そこを無視して「左きき」の差別も無いものである


「左」という漢字を当てはめたのはいつの頃だろう

とうぜん「さ」という読みで日本に伝わったはずである

この「さ」を誰が「ひ・だ・り」と読ませたのか不明である

左は「日出り(ひだり)」から変化したという説が有る

東も「日がし」からきているのか?


「さ・ぎちょう」「さ・ぎっちょ」があるなら

「う・ぎちょう」「う・ぎっちょ」あるいは

「み・ぎちょう」「み・ぎっちょ」もあったかも

だから右、「みぎ」なのではないか?


「さ」は古代では「神」のことである

「さ・ぎっちょ」「う・ぎっちょ」というのは

縄文の言葉のような気がするが行き止まりである。

◎  太陽神と神宮と持統天皇 

伊勢神宮は内宮・外宮の二つの社の総称である

どうして二つ有るのか?

隣り合わせに、あるいは近所に別の神社があっても

良いではないか

などと思うのは爺だけか・・・。

伊勢には外宮からお参りする「外宮先拝」という

仕来りのようなものが存在する。

一般人が神社を訪れたときは、その神社の主である

「主祭神」から拝礼するのが常識である。

主祭神より先に拝むとすれば、地主神だけである

伊勢の地主神は興玉神(おきたまのかみ)という

外宮の別宮・土宮(つちみや)に祭られている

はっきり言って皇室の待遇は良くない

皇室の勅使は正宮と多賀宮のみに参行し土宮には

参行しないことで明白である。

この土宮などの別宮は外宮に向かうと背後に在る

背中のほうに土宮が立っているという状態なのだ

「外宮先拝」どころか外宮の前に土宮に参ることになる

天照大神より先に拝礼しなければいけない祭神とは

天照大神より後にこの地に鎮座した「豊受大神」の

ほうが高貴だと言うのか?

アマテラスの「食事係」をさきに拝む不思議・・・。


さて、長屋の爺はこの難問を推理してみた


外宮には「ひるこ」が祀られ、内宮に「ひるめ」が

祀られている

「ヒルコ」とは日の御子である「あまてる」であり

「ヒルメ」とは日の巫女である「アマテラス」である

本来、太陽神である「アマテル(天照)」は男神で

この地方で崇拝されていた太陽神だった

その太陽神の実像を隠し、太陽神に仕える巫女の

総称である「アマテラス」を太陽神に置き換え

あたかも皇室の祖が「女神」であるという神話を

創作したのである。

「天照皇大神」とは あまてるすめおほかみ

そう読むべきであり、日本の潜在的な太陽神であり

ヤマト民族の道徳精神の要なのである。

その神を「外宮」の豊受大神にすり替え、内宮に

持統天皇を投射した「皇祖」女神・アマテラスを祀った

しかし、自らの行いに「疚しさ」を覚え、外宮を先拝する

暗黙の決め事をしたのかも知れない

あくまでも神宮の主祭神は「あまてるおおみかみ」であって

アマテラスではない証拠ともいえる。

「あまてるすめおほかみ」とは誰なのか?

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命 

丹後国一ノ宮・「籠神社」の石碑に刻まれた文字

天照坐豊受皇太神宮・・・

 アマテル トヨウケノスメオホンカミノミヤニイマス

つまり、外宮に「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が

祀られていると刻まれているのである。

神武天皇より先にヤマト一円を治めていたとされ

神武天皇の最後の戦いの相手である「長脛彦」を

殺し、恭順を誓い忠誠を誓ったということに

なっている・・。

おそらくこれも「騙り」だろう。

浪速・近畿地方で崇拝されていた太陽神を

闇に葬るために皇祖神(太陽神の末裔)に

屈服し恭順した神という構図が透けて見える。

丁寧に祀らなければいけない神というのでもない

自分が皇統の始祖とでも言いたかったのか

女神始祖説の「帳尻あわせ」が両宮という形に落ち着いた


持統天皇の人生を知れば知るほど

天孫降臨も天岩戸神話もアマテラス信仰も

持統天皇を映し出す結果になってゆく


天照大神が皇祖神でないと思う理由は

皇室の最も重要な神「御巫(みかんなぎ)八神」

に入っていないこと

日本全国に「天照」「阿麻氐留」という名で

祀られている神社が昔から数多く存在している。

全国どこにでもあったので、天皇が参拝しない事に

特に違和感・異論は出てこなかった。

皇室の祖神といわれるようになったのは

明治になってからという説。

式年遷宮の資金集めに活躍した「御師」

御師は外宮に祀られている豊受大御神を広める

ため、農民に伊勢神宮へ参詣してもらうように

暦を配るなど各地へ布教するようになった。


その式年遷宮も「20年」の根拠が後付け・こじつけ

の話に聞こえ、40回~41回の123年間の空白にも

本殿は倒壊などしていない

あの出雲大社でも60年以上平気なのである

奈良時代の仏閣は千年も建ち続けているものもあり

日本の技術力を無視した言い訳でしかない

これは、伊勢神宮の創建時代を後世に隠すためであり

持統朝から行われたと言うのが後世に伝わらないとでも

考えていたのだろうか?

日本の神様を複雑怪奇にした張本人は・・・

持統天皇であり、明治政府である。

◎  太陽神と「アマテラス」 


天照大神は「日本の太陽神」であるといい

その「アマテラス」という神は女神だと言う

私の知る限りでは女性の「太陽神」は聞いた事が無い


日本書紀はどうして太陽神である「天照大神」が

女神だと書いたのか?

「アマテラスオオミカミ」という名が女性という

根拠は何だろうか?


神話によく出てくる「ひこ」「ひめ」という名称

これも「音」があり、後付けの「漢字」が嵌められた

比古、毘古、日子、彦などと書かれる男性の美称

は「日・子」という観念から呼ばれた尊称だともいう

太陽神の子、「日継ぎの御子」「陽継ぎの神子」とも

考えられる。

「ひめ」は、「日・女」であり、「日に仕える女性」

巫女のことか?

大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)

大日女尊(おおひるめのみこと)

大日霊(おおひるめ)

大日女(おおひめ)

これはアマテラスの別称である


「おお」というのは「おほ」であり尊称だという

「ひるめ」は「日の女神」を指す言葉で

「むち」とは「高貴な者」という意味らしい


さて・・・「ひこ」に対し「ひめ」がある

「おとこ」に対し、「おとめ」がある

「いらつこ」に対し、「いらつめ」がある。

何が言いたいか・・・

「ひるめ」があるなら、当然「ひるこ」もあるはず

いざなぎ・いざなみの最初に産んだという子「ひるこ」

を連想する。

手足の無い「蛭のような子」という説が通説

これも騙りのような気がする

「ひるめ」が日の女神というなら、「ひるこ」は

日の神であり「太陽神」であってもよいのである

川に流したのは「蛭子」だったからではなく

太陽神(男神)だったから、持統天皇にとって

太陽神は「女神」でなくては都合がわるかった。

歴史という舞台から、日本の「男性太陽神」を排除した

そして自身を映す「女性太陽神」を権威付ける必要が

生じ、国産みの神話に「ひるこ」を登場させ、天岩戸神話

を作り天孫降臨の「モノ騙り(物語)」を伝えた

これが長屋の爺の考える「アマテラス」である。


「古事記」「日本書紀」は口伝(くでん)を書き残したもの

そういう先入観で考えると「突飛」な発想である

しかし、この書き物を書かせた時代の権力者は

おそらく持統天皇とその血縁者だと思っている

異論があっても「触らぬ神に祟りなし」

じつは「お上(天皇)に逆らう」ことの愚を揶揄した

「触らぬ お上 に祟りなし」だった可能性も

考えているのである。


ではどうして、伊勢神宮は「両宮」と呼ばれる社が

存在するのか?

次回は今回の話をそれに繋げて行きたいと思っている。

◎  爺の手習い 


年頃なのか?

そういう年代なのか

私の周りで「不幸」が多くなった

不幸と言っても「葬儀」のことである

友人知人や近所の方が「高齢」ということに

行き着いてしまう。

そこで問題なのが、記帳という習慣だ

とにかく粗末な文字しか書けない爺

最近は「キーボード」に頼りっきり

ミミズの親類のような記号になっている

「人並み」な文字が書きたい!

筆ペンの練習帳を購入し、「爺の手習い」を始めた

多少ましな文字が書けるようになったら

「写経」に挑戦してみるつもりである


ふと思う・・・

亡き父親の遺言

お前は人前で「絵を描くな、歌を歌うな、文字を書くな」

私の潜在的資質を把握していた偉大な父親であった(笑)


年寄りは無謀なことをする

年寄りは現実の自分が理解できない

年寄りはプライドは捨てられないが

命など平気で捨てられる

縋るものがプライドだけにならないように

日々自分を磨き

楽しもうと思っている。



テレビ・新聞に拘束されない生活は

時間と言うモノが有益に使えるのである。

テレビを切り捨てても、仙人にはならない

むしろ高いところから物事を観れそうである。

◎  神事「新嘗祭」を考える 


今日は「新嘗祭」である

どういう「こじつけ」か「勤労感謝の日」という

瑞穂の国・日本は「コメの国」である

その年に採れた稲穂(新米)を神に捧げる古儀であり

この国の成り立ちにも関係する神事なのである

天孫降臨の際に「天照大神」が命じた言葉

この国は「わが子孫が王たるべき地(くに)」

「わが高天原にある斎庭(ゆにわ)の稲穂を

  わが子に捧げなさい」

皇室こそ稲作の源であると言っているのである。


コメ作りをする天皇を知っていますか?

昭和天皇が始めて、今上天皇も受け継がれている

世界に数多ある君主国で、「稲作」をする君主は

日本の天皇だけである。

天皇の大事な仕事は「大臣の任命」でもなく

「園遊会」でもない、もっと大切なものがある

それは「田植え」だ、と言った人も居るそうだ


土に触ることもせず、額に汗する事もしない

そんな人間が「天皇不要論」を言うなど

恥ずべきことかもしれない。

春には泥田に入り、手ずから苗を植え

秋には自ら鎌を持ち「稲刈り」をなさる


新嘗祭ではコメと粟の御飯(おんいい)と粥が

神に捧げられる

これを見ると「コメの祭り」というより

「コメと粟の祭り」が本当のようである。


ある説によると、このコメと粟を捧げるのは

「稲作文化」と「畑作文化」の統合ではないか

日本の纏まりとは、じつは「稲作民」と「畑作民」

の統合の結果であり、この祭事の目的は

「稲作民」と「畑作民」の統合の象徴だともいう。

どうも「稲作」が伝わると、全ての地域・地方が

稲作だけに変わった印象を持つが、じつは緩やかな

共存があったことを失念してしまう。

日本のコメつくりを第一に考えない政治は

祖先の願いとはほど遠い政(まつりごと)と言える

政治とは、まつること であり

宮中祭祀を軽視しては成り立たない

コメを軽視し、まつりごと(祭祀)を軽んじては

お天道様も嘆いているのではないだろうか・・・。

◎  音と言葉の辿った歴史 


阿倍氏 古代豪族である

継体天皇の時代に勃興したという

阿倍の名の由来が興味深いのである

阿倍は「饗(あへ)」が由来ではないかと

いう説がある。

阿倍氏は食物の供献に携わっていたという。

しかも「肉食系」だった。

獣肉の管理する人々(部民)をまとめ上げていた

縄文の流れを汲んでいたらしいと言う

東北を支配した最大の豪族といえば

「安倍氏」である。

奥州藤原氏

あの奥州平泉の藤原三代で有名であるが

あの藤原氏も奥州の豪族「安倍氏」の娘を

娶り、東北に根を張って大きくなったのである。

この東北の「安倍氏」とヤマトの「阿倍氏」は

どうやら繋がりがあるようなのだ

歴史で習ったような東北の蝦夷たちが朝廷に

敵対する野蛮な人びとだった・・・

なんてことは考えられないのである。

良い関係が築けていたからこそ、ヤマトから

東北に入植して根を下ろす人が居たのであり

日本書紀の記述で先入観を持った為に東北に

対する「野蛮」のイメージが固定化されてしまった

あくまでも正史「日本書紀」は勝者の言い分であり

一方向からの解釈で残された遺物である。


古代の日本、言葉は様々に存在した

ところが統一された「文字」を持たなかった

「かな」で書き表すことも本来適切では無いと

思うのだが、「漢字」で表現するよりも

いくぶんか基本に近いと思っている。

長屋の爺はいつも「ひらがな」に置き換えて

言葉を考えてみることにしている。

意外と「子供じみた発想」が思い浮ぶものなのだ


長屋の爺の持論であるが・・・

例えば夜が明ける・・・朝が来る

なぜ 朝 というのだろう?

これをひらがな・カタカナで書くと見えてくるのだ

あ・さ

「あ」とは自分のこと

「さ」とは神のことである

東の空に「日」が昇る、「日」は太陽神である

自分が信じる太陽神が出てきた情景である

その「日」をみて感じたものは「私の神」

そして 「あ・さ」 と言い表した。

なんてことも考えてみたことが有る。


神(かみ)という言葉・観念もじつは

東北の蝦夷が使う「精霊」を意味する

「カムイ」という言葉を、ヤマトに伝わり

「かみ」という言葉で表現されたのではないか

KAMUIをどう発音するか知らないが

後ろの「U」と「I」が母音であるのでヤマト人

には「かみ」と聞こえた可能性もありそうだ


母(はは)とは子を持つ女性・女親のこと

その母が子に与えるのが乳(ちち)である。

ところが男親を指して父(ちち)という

なんとも可笑しな話ではないか・・・


青森・佐渡・三重県志摩地方には

母のことを「ちち」と呼ぶ方言があるという

古代では母系継承が基本であり、その母系制から

父系制に移行する際に、女親の呼び名「ちち」が

男親の呼び名になったという説もある


現代人は漢字を見て、そのものの本質を思い浮かべる

その観念は漢字というものが浸透した後の諸物に

当てはまるのであって、古代の言葉(音)には無関係

なのである。

言葉は共通という観念こそ、近代的な発想ということで

音は変化するが言葉の本質は変わらないのである。

◎  祟る英雄ヤマトタケルと尾張氏の関係 


東国最大の豪族・尾張氏

日本書紀も多くを語っていない

古事記によれば、尾張氏の祖は「ミヤズヒメ」という

「ヤマトタケル」の妻だった女性が「尾張氏の祖」?

通常ならヤマトタケルとミヤズヒメが夫婦であるなら

尾張氏の祖は「ヤマトタケル」である・・と言うだろう。

どうして女性である「ミヤズヒメ」が祖と言ったのか

日本書紀はどうして、そのあたりのことを伝えなかったのか


続日本紀には

「倭建命の墓(つか)震(しん)す、使(つかひ)を

 遣(つかわ)して祭らしむ」

ヤマトタケルは祟っていたというのである

それを知った持統天皇は慌てて東国に行幸している

この年の暮れに「持統太上天皇」は亡くなっている。

老骨に鞭打って出かけるほど、ヤマトタケルの祟りは

怖ろしいものだったようである。


長屋の爺は、ヤマトタケルと尾張氏の祖は深い繋がりがあって

ヤマトとしては公にしたくない事情が存在した

それで、熱田神宮を建て封じ込めた(祀った)のではないか

そう考えている。

少なくとも、持統天皇の時代は「神社」とは祟りを恐れて

非常に丁寧に祀った、あるいは封じ込めた場所

そういう認識を持っている。

この熱田神宮は明治になるまでは「熱田神社」と言い

尾張国三宮であった事実

本来は「尾張造」という特殊な建築様式だったが

明治になって伊勢と同じ様に「神明造」に変わっている。

もう一つ・・・

伊勢神宮の参拝が「明治天皇」が最初だったことは

以前にも書いた、この熱田神宮に最初の参拝をした

天皇も「明治天皇」なのである。

天皇家にとって忌むべき社だった可能性もあるように

感じるのは考えすぎだろうか・・・。

「ヤマトタケル」の話は神話として伝えられた

そのせいか実在の人物とは認知されていない

ところが「墓が揺れた」後の持統天皇の行動や

その後の「大赦」などをみれば、虚構の人物とは

考えていなかったように感じる

持統天皇の「東国行幸」も東海地方であって

三河・尾張・美濃・伊勢・伊賀とまるで

ヤマトタケルの旅程をなぞっているようである。

ヤマトタケルとはいったい何者だったのか?


九州に向かうことになった経緯に見える「粗暴」

九州での西国平定での「卑怯」な振る舞い

東国平定での「善人ぶり」が到底同じ人物とは

考えにくい話になっている。

モデルになる人物が複数居たにしては持統天皇の

畏れかたが尋常ではないことが気にかかる

祟りを恐れる深い事情があったという事だろう。

◎  学ぶという事 習うという事 教えるという事 

私は他の方が書かれているブログに長文のコメント

を残す事ができない

言いたいことがあるなら

主張したい自論があるなら

自分のブログに書くのが正常だ

そんな偏屈な性分である長屋の爺

ある方のブログを観て、少し考えてみた

偏見と浅学の爺の戯言である。


自虐史観の元凶である教育現場

その仕事に携わる方を「教育者」「教師」

「センセイ」と、この国では呼ぶ

教育とは「教え」「育む」から教育なのではないか

いまの現場を見ると、「寺子屋の主」程度のものか


悲しいかな私は学歴と言うモノが無い

義務教育は何とか通過した

その程度の爺である

その爺が観ても、今の教育現場は「寺子屋」である

教えるのではなく、「習う」場所が「ガッコウ」である

大津イジメ問題を考えるまでも無く

「育む」とは、ほど遠い存在の人間の集まりなのだ

教え諭し、育み将来に導く

だから本来は「教員」ではなく「教諭」と呼ぶのでは?

員数としての人間なら、どんな人間でも良いわけがない

そんなことを最近になって思っている。



「でもしか先生」という言葉が流行した時代があった

大学は出てみたけれど・・・・

教師にでもなるか・・・

教師にしかなれない・・・

高度成長期の副産物であり

いわゆる熱意の無い教師に対する蔑称の類である


現在の教育現場に居る方は、「熱意」は有ると思っている

ただし・・・・

その根底に流れるのは「自虐史観」によって養われた

愛国心=悪

歴史否定=国際化

そんなふうに思えてならないのは偏見か?


海外では通用しない全く無意味な「英語授業」

それなら意外と役立つ「ハングル授業」

ちょっと穿った考え方ではあるが

在日の入り込みやすい「土壌」が現場には在った



アジアの国々が首をかしげる「歴史授業」

その不備を突いたのが、慰安婦捏造問題だろう

自分の国を貶める教育など「日本」以外には

存在しない


「日本は敵だ」という国に行く

「日本製品不買」を実行する国の商品を買う

「親日罪」が有る国のタレントに群がる

個人の自由とは異質の問題である


「がっこう」と言う場所が「習う」場所であり

「教え諭す」場所でないことの成果である


私達年代の人間は少なからず「鉄拳制裁」を受けた

殴られた痛みは次の日には忘れる

ところが、殴られた後の言葉・・・

どうして自分が殴られたのか

どうして教師が殴ったのか

言葉のフォローによって、諭されたのである。

人は経験によって「学ぶ」生き物である

計算も暗記も経験値の多さが物をいう

砂糖が甘いのも、塩が辛いのも「舐めた」経験が

一生役に立つ

叩かれたことの無い人間に、叩かれた痛みは生涯

知ることは出来ない

それゆえに、平気で他人を殴ることが出来る

イジメの発端は「無痛の感覚」から始まる

他人を思いやれない

他人の気持ち・痛みに気付けない


叩かれた痛みは半世紀を経て思い出せなくなった

しかし、その時の教師の言葉は今でも鮮明に

記憶している。


感謝しても足りない、貴重な人生経験である

これが教諭(教師)の主命だと思っている。


この大事な役目を「体罰」などといって

封じ込めたことにより、熱血教師は居場所をなくし

無気力なサリーマン教員が目立つことになった。


私は教師ばかりが悪いとは思っていない

大学を卒業して、教員試検に通り、意気高揚で赴任する

待ち受けているのは、教育委員会という怪物・・・

何をしてはいけないか

何をしなければならないかではない

次々に下される、禁止事項の数々・・・

隠蔽と虚偽報告の毎日

それに加えて、「クレーマー」と呼ばれる父兄達

私は「モンスター・ペアレント」という言葉が嫌いである

「クレーマー」若しくは、「キチ外保護者」で十分だ

学校行事に出席するのに、「日当」を請求するのは

キチ外としか呼べないだろう。

新人教師が「鬱(うつ)」になるのは時間の問題

その「クレーマー」のほとんどが、在日・部落の人間である。

理屈など通るわけがない・・・・


そのようなクレーマーたちが、韓国旅行・ハングル授業や

民族授業をごり押しする

教育委員会の「事なかれ主義」とあいまって

イジメ放置や生徒の口封じを組織全体で実行する事情である。


なぜ彼等は独自の「教育組織」「教育現場」を創らないのか

それは「日本人に対する憧れ」が原因である

日本の学校を出たという「自負」が欲しい

その上で、朝鮮の授業を行い、日本人に強いる

お国自慢の半島旅行、誇れるものが少ないゆえの

チョゴリの宣伝・着用に表れている


日本人にハングルを習わせる「優越感」

「ウリナラマンセー」を誇示する狙いであろう



大腸菌で汚染された半島に行かないで

日本の各地を訪れるべきである

長屋の爺も未だに、日本の10県に足を踏み入れた事が

無い

そして、正しい日本語を未だ習得できないでいる


若い人には時間があり、可能性がある

多くの日本の土地を訪れ、多くの美しい日本の言葉を

学んで欲しいと願っている。

◎  古代日本の測量技術と神社 

105km

今の測量技術からすれば、たいした話ではない

ところが1300年前にその技術が日本に存在した

信じる信じないは個人の問題だ


日本の古代は「四方の意識」ではなく、東西の意識

日が昇る「東」と日が沈む「西」を基本とする意識

だったのではないか

全方向の認識はあっても、東西の意識が中心となる

考え方が主だったと思っている。

だから・・・・

「日出ずる処の天子 日没する処の天子に・・」

という発想が言葉としてでてくるのではないか

ということは・・

距離だけではなく方角の測定技術も確立されて

いたかもしれない


伊勢神宮をはじめとする神社の秘密には

「持統天皇」を抜きに考えることは出来ない

神社に神を祀ることは、何かを封じること

見えないバリアー(境界)によって

隠すことに通じるのではないか

長屋の爺はそう考えている。


持統天皇は「吉野」に31回、行幸している

吉野の地に「離宮」が在ったためという

その吉野宮と伊勢神宮(内宮)の距離が

76.41kmであり

伊勢神宮から熱田神宮までの距離が

76.43kmなのである。

持統天皇がどうして伊勢に神宮を建て

「アマテラス」という神を祀ったのか

非常に興味深い話に思えるのである。


熱田神宮を守護してきた「尾張氏」という豪族

この尾張と言う名前・・・・

おわりとは到底読めないのである

おはり が おわり になった・・・?

これも若しかすると「騙り(かたり)」かもしれない

おわり とは、「尾・割り」という説も有る

八岐大蛇の尾から出てきた「草薙の剣」

「アマノハハキリノ剣」に刃こぼれさせた鉄剣で

不審に思い切り割った尾から出てきたという

この剣を祀っていた熱田神宮の古代豪族「尾張氏」は

海人といわれ、ヤマト以東の最大豪族である。

ところがこの尾張氏、歴史から消されたふしがある。

尾張氏に限らず、古代の大豪族は悉く歴史に消えている

それが、長屋の爺が考える「神社は封じる為に建てられた」

根拠の一つになっているのである。

出雲大社も伊勢神宮も熱田神宮も葛城一言主神社も

伊弉諾神宮も諏訪大社も同様にヤマトによって封じられ

祀られた者達の住処かもしれないのである。

◎  そこに神社がある理由とは・・ 


前回 「どうして神社に神を祀ったか」

という、どうしようもない疑問に触れた

今回は・・・・

どうしてその場所に神社が建てられたのか?

そういう疑問である。

世の中のものには全てに「理由」がある

それならば、そこに神社があるのにも

理由が有るはずではないか

ずいぶん前に、京都ー熱田神宮 京都ー伊勢神宮

そのどちらの距離も105キロメートルだと書いた

熱田神宮も伊勢神宮も偶然その場所に建っていた?

そんな偶然あるわけがない

世の中は「必然」によって成り立っている

爺の揺るがない理念である。


兵庫県淡路島に「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」

という神社がある

名前から判るように、「イザナギ」を祀っている

伊弉諾の終焉の地といわれ、幽宮(かくりのみや)である

この神社の本殿は禁足地であった御陵の上に建てられた

イザナギは禁足地に封じられていたのである。

その伊弉諾神宮の建つ場所が実に面白い・・・・。

北緯34度27分36秒

東経134度51分08秒

何が面白いのか??

実はあの熱田神宮と同じ緯度に建っているのである

熱田神宮の緯度は

北緯35度07分38.59秒

東経136度54分31.22秒


同じと言っても、古代の事である

実際は3キロ程度の誤差なのだが

これを偶然と言って良いものか・・・・。

さらにこの伊弉諾神宮は京都から・・・

105キロの場所に建っている


熱田神宮~京都~伊弉諾神宮 は等間隔にある


その二つの神宮を結ぶ線上にある神社

京都・貴船神社

北緯35度07分18,2秒

東経135度45分46,2秒

熱田神宮ー貴船神社ー伊弉諾神宮は少し太いペンで

結べば一直線上に存在する

ということは・・・

貴船神社を中心に円を書くと

熱田神宮 伊勢神宮 伊弉諾神宮 はその線上に

存在していることになる

半径105kmの円周上に「偶然」は成立しない

長屋の爺はそう思っている。


なぜ「伊勢」の地だったのか?

この疑問の鍵は105kmの距離なのか

伊勢の地に「天照大神」が鎮座したのには必ず

理由が有るはずだ

偶然 天照大神がこの場所に鎮座したいと願った

そんなことを信じる者など居ないだろう

持統天皇がこの地に決めた理由があったと思っている

もう少し考えてみたい・・・・。

◎  神社に神様が祭られている理由 


どうして古代日本人は「神社」に神様を祭ったのか

祀らないとどうなるのか?

稚拙な疑問で申し訳ない・・・・。


アニミズムの時代

神社と言うモノは存在しなかった気がする

山に川に海に星に頭(こうべ)を垂れ

穏やかなることを願い、その日に感謝する


神社に「神様」が祭られたのはいつの時代なのか

どうして神様を社に閉じ込めて祀ったのか

私には多くの神社の神様は封じる為に祭られた

そんな気がするのである。


どんな無心論者でも、死んだ人間を観て

心が動かない人は居ないだろう

人間の体に「霊」が存在しないというなら

死んだ人間とは単なる「水・タンパク・脂」で

形作られた「もの」ということになる。

道端で「死人」を見ても、驚きも恐れも感じないはずである。

墓地に夜一人で居ても、霊の存在を認めなければ

さして不気味でも怖くも無いということになる。

墓地に有るのは単に「石」とその下に有る「カルシウム」

そういう考えをする人が、はたして居るだろうか?

日本人は無意識のうちに「霊」の存在を意識している

長屋の爺はそう考えている。


まだ仏教(葬式仏教)が根付いていない頃

「死」にたいする考えも今とは違っていただろう

死んだ人間の霊も、自然界に有る様々な霊も

同じ様な認識で捉えていたら・・・。


穏やかであることを願い、近くに在って助力を願い

霊が荒ぶることがないように願う

それが祖霊崇拝の原型かもしれない

生前の力が、大きければ大きいほど

霊の力も大きいと考え、丁寧に祀る

その形態が「神社」へと姿を変えた。


その途中に存在したのが「墳丘墓」だった

単なる肉体を葬る場所ではなく

霊の鎮魂を行った場所

それゆえ、墓誌も存在しないし、個人を特定する

必要が無かった。

当然ながら「古墳」が全てそうだったとは思わない

原始の墳丘墓とはそんなものだった可能性を

爺は考えている。


物には全て 理由 がある。

神社に神を祀るには、相応の理由があった

荒ぶる神=鬼

神とは鬼のことでもある

荒ぶる神は丁寧に祀らなければならない

鬼は神様より上なのである

鬼神と言う言葉はあっても、神鬼とは言わない

常に鬼のほうが上位に位置するのである。

古(いにしえ)の神社に祭られた神様は

丁寧に祀る理由があった

安らかに穏やかに、じっとしていて欲しい

そういう願いもあって、「閉じ込めた」

神社の神様とは「無念を残した権力者」

神話に出てきて、神社に祭られている神様

その多くは「ヤマト」の建国の陰に消えていった

「古の権力者」であり、その神々を讃え祀ったのが

古の神社ではなかっただろうか


非常識で突飛な自論であることは認めるが

それ以外に思いつかない長屋の爺である。

◎  資料としての「日本書紀」について 


伊勢が解れば 神様がわかる

未だ伊勢に苦しんでいる 長屋の爺です

文献を次々に手にとって、さらに苦しむ

能力以前の問題かもしれない


伊勢についての文献資料の最古は

日本書紀と古事記である

これは誰もが納得する事実だ


その最古の資料である「日本書紀」

書かれている文字(漢文)が二種類だという

一つは中国風の正格漢文でかかれたもの

もう一つは正格漢文とはほど遠い日本風の漢文だ


巻1(神代上)~巻13(允恭・安康)は

日本風漢文でかかれていて


巻14(雄略)~巻21(用明・崇峻)は

中国風正格漢文で書かれている。


どういう事かと言うと、当初は正格漢文で書かれていて

後に日本風の漢文で書き足した

若しくは正格漢文で書かれたものをを削除し、新たに

日本風漢文で書き直した

そういうことだろうと思われる。

そして、隋に国書を出したとされる推古天皇の

時代の記述

巻22(推古)~巻23(舒明)は日本風漢文で

書かれているのだ

その中でも推古天皇三十年紀が一年分まるまる

抜けているのである

よほど不都合な事実が書かれていた

そう思われても仕方ない状況である

もう一つ、不思議なのは巻28(天武上)~巻29

(天武下)が日本風漢文で書かれていることである。

古事記・日本書紀は天武天皇の勅で編纂が始まった

その天武天皇の部分がどうして日本風漢文で書かれたか

本来ならば巻1(神代上)~巻30(持統)まで

一貫して「正格漢文」で書かれていなければならない

どうしてそういう事になったかは知ることは出来ないが

素人の長屋の爺が不可解と思える天皇の時代が日本風で

書き残されている事実は本当に興味深いのである。


書き残すにも「理由」がなければならない

書き直すにも「理由」があったはず

書いた時代の人間にとって、不都合なものは残さない

都合の良い記述に書き換えるくらいは常識と考えたい

巻1~巻13までは、皇統の長さと一つの血統が

連綿と続いていることを演出する目的で書き直されたか

書き足されたと考えても良いだろう。

巻22~巻23については、前にも書いたが

なぜ女帝・推古天皇だったのか?

隋の使者に会った天皇とは誰だったのか?

そして厩戸皇子はなぜ即位できなかったのか?

その答えは書き直される前の「正格漢文」で書かれた

「本当の巻22」に記されていたように爺は考えている。

どうして600年の遣隋使の記述が残っていないのか

後宮600人を侍らせる天皇とはいったい誰なのか

その天皇の君(后)とは誰だったのか


天武天皇は本当に天智天皇の弟だったのか

なぜ天智天皇は百済に拘ったのか

天武天皇はなぜ新羅に好意的だったのか

ひとつひとつ詰めて行きたいと思っている


長屋の爺の興味は果てが無いようである・・・・。

◎  天皇の祈り 4 

日本人は「祈る天皇」の姿をイメージできない

国民に対し、にこやかに手を振る姿しか思い描けない

それは人が見てないところで、静かに祈るから

人の目に触れないけれど、確かに民の安寧を願っている

天皇家に生まれ、天皇になるべき人は

祈ることが宿命である

その祈りを止めようとする者達がいる

天皇の側近であり、宮内庁と言う組織である


なぜ天皇が、「国中平らかに安らけく」と祈ることを

止めようとするのか不可解である

天皇が他国の民の安寧を毎日祈るなら問題かもしれない

日本国の民の健康・幸せ願うことがいけない理由とは


母親がわが子の無事・幸せを「青空」に向かって

祈ることが宗教なのか?

これを宗教と言うなら、神道といわれるものも

宗教なのかもしれない

母親が祈ることで宗教と呼ばれるなら

世界中の母親の数だけ、宗教が存在することになる。


昭和天皇も身を命を削っても祭祀に臨みたい

そう思っていたのではないだろうか

祭祀王の家に生まれたからには、それが宿命であり

本分かもしれない


「宮中祭祀」が宗教行為だと言う人がいる

ならば、天皇が仏教寺院に勅使を差遣することは

どう解釈するのか?

教会の教皇の追悼ミサに皇太子を名代として参加させる

このことはどう説明するのか?


天皇は国民を思い祈る

ところが国民はそのことに気付こうともしない

現在、天皇・皇后両陛下、秋篠宮御一家は宮内庁の

「人質」になっているようなもの

祈る天皇から祈りを取り上げ

祈ることをしない新しい天皇を待ち望む

それが高齢の天皇陛下の公務を皇太子が代行しない

理由であり、宮内庁の思惑が成せることだと

長屋の爺は考えている。


【宮内庁問題は些か「歴史」とは微妙に異なるもので

 あらためて「花はそっと咲き静かに散れ」のほうで

 書きたいと考えています。】

◎  天皇の祈り 3 


日本神道が宗教とはちょっと違う

そんな話をした

もう少し具体的に書いてみる


神社に行くと本殿があり主祭神が祭ってある

もし、神道が宗教であるなら可笑しな事に気付くはず

祀られている神様が一人ではない

長屋の爺が今年の春に訪れた神社を例にいうと

主祭神 若宮八幡社 仁徳天皇

 祭神 正八幡社  応神天皇

 〃  神明社   両皇大神宮

 〃  天神社   菅原道真公

 〃  三島社   溝昨比売命

 〃  白山社   菊理比売命

 〃  秋葉社   火産霊命

 〃  津島社   素盞嗚命

 〃  社口社   猿田彦

 〃  稲荷社   蒼稲魂命

 〃  山神社   大山祇命

 〃  琴平社   崇徳天皇


どうでしょう・・・

神話の世界の神様から、実在の天皇、貴族さらに

怨霊まで幅広くお祭りしている。

例えは悪いかもしれないが、同じ建物の中に

「ヤハウェ」と「アッラー」と「キリスト」と

「お釈迦様」が祀られているようなもの

そんなふうに感じませんか?

世界の大きな宗教は信仰する神が唯一の神だと

思っている気がする


生まれてきて、死に至るまで信じる神の下で

生きることが信徒だと思う

その観念から言えば、禅宗の信者は神道の信徒には

ならないという事になる

キリスト教徒でありながら、浄土真宗の信徒だなんて

想像できないではないか・・・。



日本神道なる言葉・名称に先入観が芽生え

神道 = 宗教

そんな意識で考えているようだ


「日本神道」とはさまざまな神を拝んでいるようだが

本当は「眼に見えないモノ」を拝んでいるだけ

その便宜上の呼称が「神様」という

日本人の原点、日本人の歴史に頭を垂れている

礼拝する「**神」の向こうに、見えない何かがいる

それはモノかもしれないが、古代縄文の民が口にした

「神」は「カムイ」と呼ばれたのである。

カムイ・・・神居(かむい)とは偶然なのだろうか?


カムイは一人の呼称ではない

「自然界に在る全ての存在に宿る命のこと」

宗教の対象になる「唯一無二」の聖なる存在ではない

「ヤハウェ」「アッラー」「キリスト」と

日本の八百万の神々とは異質なものである

古代神道が本殿を持たず、山を拝んだというのは

自然に対して頭を垂れたのである


その自然にある万物に感謝の祈りと願いを伝える

その役目を、代々「天皇」が万民に成り代わり

毎日祈り続けてきたのが「皇室」の宮中祭祀

長屋の爺は・・・そう考えている。

◎  天皇の祈り 2 

天皇が即位して最初の祭りは「大嘗祭」である

これは一世一代のイベントであり、このなかで

執り行われる「大嘗宮の儀」は秘儀となっている。


一般の神社で使われる「祝詞(のりと)」に相当する

のが、「申詞(もうしことば)」と言われるもので、

天皇直伝だという。

「一子相伝」が本当にあったわけである


後鳥羽上皇が順徳天皇に教えたとされる申詞が遺されている


『伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、

 諸神明にもうさく。朕(ちん)、皇神の広き護りによりて

 国中平(たい)らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を

 覆寿(おお)いて、諸民を救済(すく)わん。

 よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくの

 ごとし』


天皇の現実の姿がここに言い表されている

一般庶民は、まず自分のこと家族のことを祈るのが常識

ところが天皇は国民を「赤子(せきし)」と考え、滅私の

立場から「国中平らかに安らけく」と祈るのである。


国民の見ていないところ、知らないところで

天皇は国民の無事を祈っているという事なのだろう


日本神道は宗教ではないと長屋の爺は常々考えている

宗教だとすれば、私は二つの異なる宗教の信者・信徒という

ことになってしまう。

わたしは「曹洞宗(そうとうしゅう)」、禅宗の信徒である

であるが・・家には神棚があり、天照大神や氏神様や地主神の

お札を祀っている。

私は宗教には疎いので、他宗は理解できていないが

日蓮宗の熱心な信徒が永平寺にお参りに行くだろうか?

浄土真宗の熱心な信徒が「日曜礼拝」に赴くだろうか?

信じる宗教とは「唯一つ」であると思っている。

否定するという意味ではけっして無い・・・。


日本神道が「神」という言葉・文字を使うからと言って

宗教と断じるのは如何なものか

私の中では、「日本神道」は日本人の精神的支柱であり

「思想」にちかいものだと考えている。

わたしが口癖のように言う「お天道様が観ている」

これが全てを言い表していると思う

日本神道の「柱」は、**神や**大神ではなく

天上に有る豊かさを与えてくれる「日」であり

過酷な試練を与える「自然」なのである


その「お天道様」に感謝し、安寧を祈ってくれているのが

祭祀王である天皇なんだと思えば、敬って慕って感謝して

当たり前なのではないだろうか?


その宮中祭祀が今「危機」に瀕している

その元凶が「宮内庁」であり、宮内庁の役人なのである。

それについては次回にでも・・・・。

◎  参考文献 3 


最近の長屋の爺は私事で心を亡くし

生業で体力を無くし

読書で時間を無くしている


参考文献 【3】

 逆説の日本史(中世鳴動編)   井沢元彦

 天皇たちの和歌           谷 知子

 源氏物語の世界           山本淳子

 一条天皇                倉本一宏

 天皇陛下の全仕事          山本雅人

 平家の群像               高橋昌明

 王朝貴族物語              山口 博

 摂関政治                 古瀬奈津子

 歴代天皇総覧              笠原英彦

 後醍醐天皇                森 茂暁

 「日本の神様」がわかる本       戸部民夫

 伊勢神宮の暗号             関 裕二

 ヤマト王権と十大豪族の正体     関 裕二

 出雲と大和                村井康彦

 天皇の祈りはなぜ簡略化されたか  斎藤吉久

 皇室を知りたい              三橋 健


読むだけで自分のものに出来ないものも多々あり

読み込むにはしばらくの時間が必要と実感するも

参考にさせていただいた文献の著者の方々には

深く感謝をしており

この場を借りて御礼申し上げます。


さらに読んでみたい書籍・文献はあるものの

残った人生の時間との競走であり、時間と気力の

赦す限り続けて行きたいと思っている次第です。

◎  天皇の祈り 1 


私は宮中祭祀という言葉を常々使っている

しかし、この祭祀なるものを見たことがない

「私は観たことがあるよ」

そう言う人にも会った事がない



古の日本に気がつくと、神様が出てこない

そんな時代も有った、いろいろな出来事が書き残され

伝えられる時代になったのだが

神様に代わって仏様が出てくるようになり

神代の国「日本」の存亡の危機である

個々の神様を考える前に、神様と天皇をもう一度

考えてみたいと思う。


日本と言う国を治めてきたのは「天皇」である

それも武力や政治権力などではなく

祈ることによって統治してきたのである

これを神を祀る神事の霊力というらしい

天皇のことを「祭祀王」と呼ぶ所以(ゆえん)である


皇室における様々な仕来たりはあまり知らされていない

この「仕来たり」、明治以前まで日常化していたもの

あるいは定められていたもの

明治以降、日常化されたものやさだめられたもの

どちらも有るという。

神代の昔から・・・と言っても、知らないことばかり


ところが昔の天皇で、皇統存続の危機を感じ

宮中の仕来たりを書き残した方がいる

第84代 順徳天皇である

 ももしきや古き軒端のしのぶにも

      なほ余りある昔なりけり


百人一首の歌で知られる天皇でご存知の方も多いと思う

全て漢文で書かれた解説書、「禁秘抄(きんぴしょう)」

この中で、「何よりも神事を最優先させなければならない」

 「皇祖神に対して不敬があってはならないこと」
が、書かれているという。

全てのことで「神事」が最優先であるという

これは天皇の国事行為のことであり

日常の「天皇の仕事」と捉えて良いと思う。


第59代 宇多天皇から、第121代 孝明天皇まで

長きに亘って続いたことがある

「毎朝身を清め天皇自ら祈る」

「恒例毎日の次第」というものである

明治以降は、侍従が天皇の代わりに身を清め

代拝(だいはい)することになっている。


これだけを観ても、明治政府と戦後の政府が皇室を

軽んじていることが明白である。

不敬とは、祭祀王である天皇を「現人神」などと呼び

権力の神輿に担ぎ上げた明治以降の政府の人間達であり

政教分離と言う愚かな思想で日本神道を新興宗教と

同じ括りで論じた罪である。

 【つづく】

◎  歴史の中の不自然な皇位継承 


遣隋使 小野妹子(おののいもこ)

飛鳥時代に活躍した男性である

聖徳太子に見出され、隋への使者として渡海する

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す

 恙なきや、云々・・・・。」

は広く知られているところである。

隋の皇帝・煬帝(ようだい)はこの書を読んで怒った

なぜか?

天子という言葉に不快感を抱いたのが真相らしい

あくまでも「天子」を名乗るのは中国皇帝であり

皇帝以外の人間が天子を名乗ることを容認できなかった

皇帝のプライドを傷つけたということか・・・。


小野妹子が隋に国書を届けたのは 607年のことで

その翌年、小野妹子は煬帝の返書を持って帰国する

その使節団に隋の裴世清(はいせいせい)が使者として

随行してきた。

日本書紀の記述によれば、煬帝から渡された国書を

小野妹子が紛失したという

ところが裴世清 も煬帝から国書を託されていたのである

同じ船に乗る二人に、倭国王に渡す国書を二通認める?

謎である・・・。


随書・倭国伝によると、小野妹子の遣隋使の七年前・600年

に倭国から隋に使者が送られたという

日本書紀には一切記述が無い

大陸に使節を送るという事は、大事な国事であり

その記述が全く無いのは些か不可解なことといえる


その600年の随書に倭国王について書かれたものがある

姓は阿毎(あめ)

字(あざな)は多利思比弧(たりしひこ)

阿輩雞弥(あへけみ)と号す。

王の妻は「雞弥(けみ)」と号した

後宮に女六、七百人とある。

「あへきみ」とは「おうきみ」のことではないかと言い

妻の「けみ」も「きみ(君)」のことだろうという。

それよりも西暦600年の日本の天皇は「推古天皇」だ

女帝・推古天皇に妻がいるとは摩訶不思議な話である。

隋の裴世清も607年に天皇に拝謁し国書を渡している

もし当時の天皇が女帝なら隋に帰国して報告しているはず

隋の裴世清と会った天皇とはいったい誰だったのか?

隋の国史が倭国伝の中で女帝を男帝と記述するなど考えられない

考えられることは・・

* 日本書紀に書かれている推古天皇は嘘である

* 隋の裴世清と面会したのは天皇ではなかった

* 隋の裴世清は天皇とは会っていなかった


日本書紀が偽りを書いたとしたなら、本当の天皇は

「厩戸皇子(聖徳太子)」だった可能性もある。

あるいは「蘇我馬子」が実質的な王として面会した。

隋の裴世清は結局「天皇」と会えず、役目を果たせなかった

ことを隠すために、多くを語らなかった。


ここからは長屋の爺の私見である

私は、用明天皇~崇峻天皇~厩戸皇子が当然の流れで

女帝・推古天皇が即位したことに違和感を持っている

敏達天皇の后がどうして即位したのか

いや、どうして即位しなければならなかったのかを考える

年齢的にも血統的にも用明天皇の皇子である厩戸皇子が

皇位を継ぐべきで、崇峻天皇が亡くなった時点で

厩戸皇子も亡くなっていた可能性も考えられる。

さらに敏達天皇の皇子、「押坂彦人大兄皇子」も候補であった

そんな有力な皇位継承候補が居たにもかかわらず

女帝が即位したことに訝しさを感じているのである。

ただ亡くなっていたのであれば、騙る必要性は無い

真実の死因を後世に伝えることが出来なかった

その結果としての、推古天皇即位であり、厩戸皇子の

異常とも思える「礼賛」「聖人化」「大偉業」に

繋がって行く背景になっているのかもしれない。

皇子を褒めれば褒めるほど、桁外れの優秀さを口にすれば

するほど、即位できなかったことの異常さを表している

そして厩戸皇子の血筋を断つことでしか、推古天皇即位の

不可解さを隠し通すことはできなかったのであろう

その不可解さを「山背大兄王」一族の滅亡という騙り話に

よって収束を図っているようにも思える

「祟る聖徳太子」の起因はこの不可解な皇位継承によるものだと

長屋の爺は考えている。

◎  虐げられた者たちの呼び名 

聞いたことが有る言葉だが・・・

「河原乞食(かわらこじき)」

辞書を開けば こう書いてある

江戸時代、京都の四条河原で興行したことから

歌舞伎役者を卑しめていう語。


役者・俳優などの芸能人を卑しめていう語、とある。

これで納得する人も居るようだが、長屋の爺は腑に落ちない

どうも「後出しじゃんけん」の匂いがする


なぜ?歌舞伎役者を卑しめなければならなかったのか

その説明になっていない

歌舞音曲に携わる人間は多いはず、なぜ歌舞伎役者だけなのか

これにも「被差別民」が関係しているのだろうか

河原とは・・・・

河(かわ) 童(わら)のことではないか?

河童とは「河童(かっぱ)」「蛙(かわず)」のことでもある

朝廷にまつろわぬ者の別称(蔑称)であり

「ひとでなし」を構成する虐げられた民の成れの果てでもある


「白拍子」という人たちがいた

有名な白拍子といえば、「静御前(しずかごぜん)」

源義経の妻だった女性である。


平家物語に出てくる、祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)という

白拍子(しらびょうし)の 姉妹の物語りも有名だ

そこに出てくるもう一人の白拍子が「仏御前」である


この白拍子とは平安期から室町・鎌倉期にかけて

流行した歌舞の舞手のことである

さらにこの白拍子は皇族・貴族社会での「高級娼婦」だった

それゆえ「遊女」の代名詞のようになったという。

この白拍子も遡れば、「来つ寝」(狐)であり

虐げられた遊女の末裔とも思えるのである。


全てのことには理由(わけ)がある

ワケの無いものなど、この世にありはしない


白拍子は「水干」「烏帽子」「袴」という装束

いわゆる「男装」といっても良いのである

男装する舞手が遊女である


相手をするのは「遊女・娼婦」ではない

水干・袴を身に着けた「男」だという理屈

長屋の爺には、貴族達の言い訳に聞こえる

五位未満の人間は人に非ず

ゆえに人でないものは見えない道理

この論理を当てはめれば

白拍子は歌舞の男性舞手という理屈になるのだろう


「人を人とも思わぬ所業」

これは平安期の貴族達に、庶民が虐げられたさまを

後世に伝えた言葉かもしれない。


現在、蔑称といわれるものに、権力者の言い分がかなり

反映されて定着したものも少なくないと思っている。

◎  三種の神器と由緒を考える2 

三種の神器が二つだった・・・

これを意識したのは、690年持統天皇の即位における

儀式の記述を観てからのことなのだ

「物部麻呂が大楯を立て、神祇伯(かむつかさのかみ)

 である中臣大嶋が天神の寿詞を読み上げた。

 忌部色夫知が 神璽の剣と鏡を奉った。」

天皇即位に際し、「勾玉」は登場していないのである

書いていないから「無かった」とまでは言わないが

これを信じるなら、この時代までは二つだった

可能性は否定できない。

継承されるべき「宝」であったかもしれないが

即位儀礼に際して定まっていなかったことも考えられる


草薙の剣のおさらい

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも言う

八岐大蛇の尻尾から出てきた剣で熱田神宮に祀られている

その大蛇を退治したときに使われた剣の名は・・・

十束剣(とつかのつるぎ)といわれる剣で

「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など文字はいろいろである

別名「「天羽々斬(あめのははきり)の剣」

「はは」とは古語で「蛇・大蛇」のことである

文字通り、大蛇を斬った剣のことであり、石上神宮に祀られている

扱いから観て、単なる剣であり、草薙の剣のような重要性は感じない

・・・・と、このことが妙に引っかかっているのである。

例えはよくないが・・・

王貞治氏の世界記録を樹立した「本塁打バット」より

その記念に造られた「18金バット」のほうが評価される

それくらいの違いを感じている長屋の爺である。


なぜ熱田社に祀られているのか?

神話の話ではなく、現実問題としてであるが・・・

ヤマトタケルが東征に際し、伊勢の斎宮・倭姫命から

渡されたといわれている

ということは、当初は「伊勢神宮」にあったという事になるが

伊勢が神宮の形を成したのは持統天皇の時代、譲ってもおそらく

天武天皇の御代である

そして、熱田に祀られたのは「天武天皇」の御代である

斎宮の身分である倭姫命の一存で、祀られている「神剣」を

与えるというのも、「神器」とは考えにくい扱いなのである。

論理的に破綻している話だが、元になるべき史実があったのだろう

その主祭神は「熱田大神」という古事記にも

登場しない不思議な神様である。

一説によると、熱田大神は御神体である草薙の剣だという

または草薙の剣を御神体とする天照大神だという説もある


主祭神  熱田大神(あつたのおおみかみ)

相殿神  天照大御神・素盞鳴尊(すさのおのみこと)

     日本武尊(やまとたけるのみこと)

     宮簀媛命(みやずひめのみこと)

     建稲種命(たけいなだねのみこと)

天照大神と同一神と言いながら、相殿神に天照大神の名があり

本当に「わからない日本の神様」を代表しているようである


この熱田大神は古代豪族・尾張氏の信仰する「太陽神」である

そういう説もある

伊勢の地に「天照大御神」が祀られる前から、この地方に

根付いていた土着の太陽神が「熱田大神」と言われる神様だと

考えられる。

その尾張氏の「神宝」が草薙の剣で、宮廷に移されていたものを

天武天皇の時代に、元に戻された事を「病気の原因」という理由に

され、尾張氏の神社に帰されたのが真実かもしれないと

長屋の爺は考えている。

◎  三種の神器と由緒を考える1 

三種の神器

これほど諸説有るものはなかなか見つからない

まぁ古代史といわれるものは、往往にして不確かなもの

だが、日本の元首・象徴である天皇に纏わること

不確かなままでよいのか素人の爺は心配である。


古来より「人は出自を飾りたがる」

聞いたことが有るだろうか?

簡単に言えば、「成り上がり者」は自分の過去を大層に言う

他人に自慢することが好きな人間の浅知恵とでも言おうか


「血」をもって、人品の高低・他人との違いを誇示する

どう言い繕っても、所詮は狩猟民族か農耕民族の末裔である


それと根っこは同じなのか、神社や寺院では「由緒」という

社寺の血統のようなものが存在する

創建当初は正直な由緒書きだったと想像できるが

時と時代を経て、誇張と不正確な伝承が幅を利かせ

本来の「由緒」が不確かになってしまう

そんなことも多いのではないかと、長屋の爺は考えている。


こじつけるという言葉

長屋の爺は、「誇示つける」「古事つける」だと思っている。

風が吹けば桶屋が儲かる ではないが・・・・

「剣」があれば、これはあの「**の剣」ではないか?

きっとこの近くを通ったはず・・だから此処に立ち寄った

そのとき「ひょっとして剣を納めた」のではないか?

歴史は物言わぬゆえ、時代の生き証人など存在しない

だからと言って、日本全国の社寺の「由緒」が捏造だと

言うつもりも無い。

ただ、「この世の中、全てに理由がある」と思っている。


三種の神器の話に戻る

ある説によれば、当初は「鏡」と「剣」の二つだったという

それがどんな名前だったかは、諸説あり爺には「鏡と剣」である

その後「勾玉」が加えられ、三種となったという。


私が神器の名前を重要視しないのにはある理由のせいだ


天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

別名・草薙の剣ともいう、現在の三種の神器の一つである

愛知県の「熱田神宮」に納められている

この「剣」の出自は、誰でも知っている「ヤマタノオロチ」の

尻尾から出てきた「神剣」である

だがこれは「蛇の尻尾」から出てきただけの「剣」であり

八岐大蛇を退治した「剣」では無い

妖怪・化け物・魑魅魍魎を退治した「剣」なら理解も

できるのだが、出てきた「剣」が神器になって、化け物退治の

霊験あらたかな本来の「剣」がぞんざいな扱いになっている

それにはそれなりの「理由」があるはずなのではないか

この「草薙の剣」は宮廷内に置かれていたが、天武天皇の

病気に際しての占いにより、この剣が災いしているといい

尾張の熱田社に送られたという事になっている。

天皇の神器・神宝が天皇に災いをもたらすなど奇怪な話であり

魑魅魍魎の体内から出てきた「剣」の訝しさを感じるのである。


これは私見である・・・・

もし、ヤマトの国が造られたとき、乱立する小国(部族)が

集まり、共立する王(おおきみ)を選ぶ形式が存在し

その勢力の象徴のようなものが「宝」として「王」の下に

集められ、就任の儀式に供えられたのではないか?

だから当初は10個あったかもしれないし、9個だったかも

しれない、それが勢力の衰退と共に数が減り、数個の「宝」の

継承になった可能性も考えられる

物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝も

本を糺せば、「わ国」を形成する邪馬台国や伊都国・奴国・

投馬国・末廬国などの国の宝が10個あった説明となり

その国々が十カ国で連合していたとも考えられる理由である。


一般に「三種の神器」と言われているが


神璽(しんじ)という言葉がある

天子の印 御璽(ぎょじ)といわれるもので

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことだともいう

さらに

剣璽(けんじ)という言葉がある

天子の象徴としての剣と印章のことである

草薙剣と八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)

のことであるという

そしてこの二つの言葉は「三種の神器」の総称だともいう

はて?

「鏡」の無い二つの神宝を指して「三種」とはこれ如何に?

専門家の言うところの通説には首が折れるくらい

首を傾げたくなる・・・・。

考察・推察する大前提に「三種の神器」ありきの論法である

「剣と勾玉」をさして剣璽(けんじ)というならば

それは「三種の神器」に他ならないということなのか?



なぜ三種の神器の「剣」が熱田神宮にあるのか?

なぜ三種の神器の「鏡」が伊勢神宮にあるのか?

なぜ三種の神器の「勾玉」が皇居にあるのか?

後出しじゃんけんのような話には興味が無い

熱田神宮の祭神「熱田大神」と「剣」の関係

伊勢神宮の祭神????と「鏡」の関係

そして「天皇家」と勾玉の関係

それについて次回、整理してみたいと思っている。

◎  和泉なる信太の森・・・・ 


日本の信仰で時々よくわからない神様がいる

ところが案外解っているようで、じつはよく解っていない

そんな神様もいるのではないか

疑わず信じる

とても素直な好(よ)き日本人といえる・・・・のか??


例えば「お稲荷さん」

稲が生ることから、五穀豊穣の神様といわれる

それがどうして商業や工業にご利益があるというのか

疑問に思ったことはないだろうか

どうして「お稲荷さん」には狛犬ではなく「狐」なのか?

疑問に感じたことはないだろうか


「稲荷信仰」は奈良時代からと言われている

古事記に出てくる「ウカノミタマ神」

スサノオ尊とオオイチヒメ命の間に生まれた子供である

どんな神様だったかは記されていない。

日本書紀にはイザナギとイザナミが飢えを感じて生んだとある

両親すら異説がある神様であるが・・・・

この神様が「稲荷神」であり、ふだんは「お稲荷さん」と呼ばれ

庶民から親しまれているのである。

これで「あぁ そうなんですか」と納得してはいけない

五穀豊穣やら穀物・食物の神様がどうして「商い」にご利益が

有るという事になってしまったのか?

江戸時代なら「士農工商」という線引きもあったくらい

畑違い、異業種の区別も出来る「農」と「工」と「商」である

昔の塗り薬のように「何にでもよく効く」**ナイン軟膏という

わけでもあるまい

もう一つ、狐が何で関係有るのか?

どうして狐に「油揚げ」が結びつくのか?

専門家の説明は、どうにも腑に落ちない言い訳・こじつけの類だ

長屋の爺を唸らせる「明快な説」が聞こえてこない

標準的な説は

「穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、

 そこから結び付いた」

野鼠を食べてくれるなら「鳶(とんび)」でも「猫」でも良いではないか

狐と言うのは無理がある


梅原猛氏の説は

「伏見の地には秦氏が入ってくる以前に狩猟の民が山の神を信仰しており、

 その象徴が当初狼であったのが、いつか狐に変化して後からやってきた

 農耕の民たちの神と習合した」

狼が狐に代わったといわれても、どうして代わったのかの説明が無い

狼から代わるなら同族の「犬」でも良かったのではないのか?


更なる説には

「 稲荷の神と同体と考えられる御饌津(みけつ)神が誤って三狐神と書かれ、

 そこから狐が登場した」

これこそ苦し紛れの珍説、誤って書かれたものはどう言うモノ?

「講釈師 見てきたような**を言う」の典型?


余談ではあるが・・・

狐 は 古代では「来つ寝」とも書かれ

「浮かれ女」つまり「遊女」を指していたとも言う

あの「安倍清明」の母親が「狐」だったことは有名である

どうして陰陽師・安倍清明の母親が狐だったのか?

おとぎ話ではない平安の時代に生きた実在の人間の話である

母親は「信太の狐」葛の葉といわれている

いくらなんでも安倍晴明の生みの親が「狐」であるはずがない

「来つ寝」といわれるヒトデナシの娘であった可能性が高い

5歳のときに母親が信太の狐と知られ信太の森に帰ってしまう

その時母である葛の葉が詠んだ歌

  恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

清明が信太の森に母を訪ね、神通力を授けられ陰陽師として出世し

後世に伝えられる。

このとき授けられた「神通力」こそ、「ヒトデナシ」を手足の

ように使う権限、ネットワークだったのだろうと推測できる。


稲荷には面白い異説が有る

稲荷は「鋳成り」ともいわれ、鋳とは鋳物(いもの)のことであり

製鉄に関する言葉と思えるのだが

本来 稲荷信仰は稲荷山を御神体として崇拝していたと思われ

その山裾で「砂鉄」が採れ、製鉄が盛んだったとすれば

「鋳成り信仰」があっても不思議ではない

その地を王権が略奪・摂取し、追放された人々が「ヒトデナシ」と言われ

その中で遊女になって、生活をしていた女性達がいても不思議ではなく

葛の葉が遊女であったかどうかは知る由もないが

「ヒトデナシ」の頭目の娘であった可能性は高い

その地位と権限を「童子丸」のちの安倍清明が引き継いだことは

想像できるのである。


信太の森の「信太森葛葉稲荷神社」

祭神は「宇迦之御魂神」と「大己貴神 (おおなむちのかみ)」

共に「蛇」であり「蛇神」のことである

へびが出る処・・・巳が出る

出ず巳(いずみ)・・・和泉というわけである

 和泉なる信太の森 

とはへびが出る処の信太の森と言っているのである


ヒトデナシとは「やんごとなき人びと」から見えない者たちの事

彼等のいう「下賤の民」を総じて「ヒトデナシ」と呼ぶ

人とは思えない者は彼等にとって、眼にしては「けがれ」るモノで

見えない事にしてしまったのである。

鬼 蜘蛛 狐 蛇 河童などは、朝廷によって虐げられた者の蔑称である

だからとりわけ丁寧に祀らなければならない理由となる

丁寧に祀らなければ「災い」が降りかかる

蜘蛛(雲)は出雲として丁寧に祀り

蛇は三輪山にて祀り、狐は稲荷において祀る

長屋の爺はそう思っている。



back to TOP