不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  天神様と学問の神 


怨霊・祟り神

すぐに思いつくのは「天神さん」菅原道真である

菅原道真といえば、大宰府天満宮であり北野天満宮だ

どうして菅原道真が「天神様」になったのか?

学問の神様として信仰を集める天満宮

天神との関係はどうなっている?

菅原道真は代々学者の家に生まれ、幼少の頃から文才

に秀で、若くして「秀才」に合格し文章博士になった。

「秀才」というのは、今で言う「国家公務員Ⅰ種」である

55歳で右大臣にまで上り詰めるも、藤原時平の嘘の告げ口

によって、大宰府に左遷され失意のうちに没する。


道真が死んだ後、都では天変地異が続き、雷が宮殿に落ちたり

嘘の告げ口をした藤原時平が病死したりして、人びとが道真の

怨霊の祟りだと恐れたことから始まった。


なぜ天神なのか?

昔、雷は怨霊の仕業と考えられ

紫宸殿に落雷し多数の死傷者が出たことから道真は雷神だと

人びとに認識されたからだろう

さらに、北野に祭られていた地主神「火雷天神」と怨霊・菅原道真が

合体したと思われたようで、北野の地に「天満宮」が創祀された。


だが「雷の神」と「学問の神」とは不思議な結びつきである


聞くところによると、平安時代から鎌倉初期にかけて怨霊である

菅原道真を「学問の神様」として信仰したらしい

幼少の頃から秀でた才があったために「学問の神様」と言うのは

理解できるが・・・。


祭られている場所が「天満宮」というのが理解に苦しむ

理由は「雷」で恨みを晴らしたことにより

菅原道真 = 雷 = 天神 

ということなのか?


当時の「天神縁起」によれば、天神様を「慈悲の神」「正直の神」

として信仰する風潮があったという

藤原時平の嘘によって非業の死を遂げたことが

時平 = 嘘つき

道真 = 正直者

そんな思いが「道真信仰」に影響を与えたのかもしれない。


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◎  皇室費とは・・・ 

この内容は政治・社会ブログに書くべきか

このブログに書くべきか迷っていたが

皇室関連ということで此処に載せることにした


皇室費

「宮廷費」「内廷費」「皇族費」の三つの総称

宮廷費

 皇室の公的活動費、皇居などの施設管理・維持費

内廷費

 天皇皇后両陛下、皇太子一家の日常生活費

皇族費

 内廷外皇族の生活費


ちなみに平成22年度の金額は以下の通り

宮廷費 58億6768万円

内定費  3億2400万円

皇族費  2億8340万円


天皇皇后両陛下と皇太子一家の生活費は

分配は知ることが出来ないが、5人で3億余円

宮家である「秋篠宮ご一家」の支給額は

秋篠宮  3050万円

紀子妃  1525万円

眞子内親王 305万円

佳子内親王 305万円

悠仁親王  305万円

 計   5490万円

この中から私的に雇用される人件費・光熱費も

生活費も支払われることになる。


例えばボールペン一本を宮内庁が購入すると

用途により支払う名目が変わるという


それが天皇陛下の公務用であれば宮廷費

愛子内親王の普段使いなら内定費

秋篠宮殿下の研究用ならば皇族費

宮内庁職員の事務用なら宮内庁費という仕分けになる

何処からか・・・あのブランドバッグは何処から出る?

そんな下世話な質問も出そうである(笑)

答えは内定費だと推察する。


質素倹約を心がけている両陛下

その間隙を縫って贅沢していると噂されている

東宮一家、宮家に降格されれば生活できるのか?


当主  3050万円

妃   1525万円

内親王  305万円

 計  4880万円


それでも庶民の実収入の10倍はあり、生活できないはずも無く

贅沢はどっちにしろ控えなくてはいけないという話である。

それでも足りなきゃ、オークションにでも売り払う?

◎  「諸葛亮孔明」の死によって齎されたもの 

日本の古代史のターニングポイントは

「諸葛亮孔明」の死によるものだった



三国志でおなじみの「魏・蜀・呉」の時代

3世紀(234年)に蜀の人・諸葛亮孔明が亡くなり

蜀軍の敗退に伴い、魏が遼東郡・帯方郡・楽浪郡を支配する

燕(えん)を滅ぼし朝鮮半島に勢力を拡げた

その帯方郡を日本の使者が訪れ、日本と魏の国交が始まった

だから日本の「歴史デビュー」は諸葛亮孔明の死から起きた

そういう事なのである。


その魏の正史の中にある、諸外国に対する記述の内の「倭人伝」に

日本のことと思える記述があり、それが「魏志倭人伝」として

私達の知るところとなったのである。


当然漢字など未だ普及してもいない時代

「倭(わ)」という文字も日本が使うはずが無く

相手である「魏」の役人が勝手に書き残したものだと推測できる

それをもって日本の旧国号が「倭」であるという専門家の真意は

理解できない

他所の国が呼んでいるからそういう国号だった

ならば今現在の日本の国号はシナの言う「小日本」でも良い事になる

「倭」と言う文字、けっして自慢できる意味の文字ではない

「遠い」とか「醜い」、「背が低い」という意味なのである。

初めて日本人を見た役人の印象か?

行ったことの無い遠い島国を指してそれを選択したのか?

「お前は誰だ?どこから来た?何と言う国だ?」

想像するにこんな質問があっただろう

日本人が魏の役人の言葉が理解できただろうか?

意味が解らず、ふと「わ」と言う言葉が出たとしても

不思議ではない

なぜなら「わ」とは「我」「吾」として、『自分は・・・・』

そういうつもりで出た音だったかもしれない

「わ」はあくまでも倭だったわけではない

それをもって、日本の国号が「倭」であったとする説には

納得できないのである。

その魏の史書の記述がどの程度、日本の真実に近かったか

偏見や誤述が無かったとはいえない

なぜなら「魏」にとって東方海上に有る小国にどれだけ

比重を置いたか推測するまでもない話

属国の一つくらいの認識だったことは想像できる

日本が「呉」の南に位置する国だと誤解し、呉の背後を押さえる

軍事目的に利用するつもりで、処遇したと思われる。

対等外交でも、何かを吸収する目的でもない「有事の押さえ」

その程度の認識の国に対する記述、推して知るべしなのである。


そこに記載されているものを、自分勝手な都合の良い解釈をし

邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が独り歩きを始めるきっかけとなった

前にも書いたが、魏志倭人伝に書かれているのは、その国の王は

卑弥呼という名で、擁立された女王だとある。

どこにも「邪馬台国」などの記述はない

魏が倭人伝に取り上げる外交相手の国は、彼等の言う「倭国」であり

その国の王は、擁立された女王(卑弥呼)だったというのである。

その記述とは

【 その国はもともと男子を王としていた。その状態が七・八十年

  続いた後、倭国は乱れて、互いに攻撃し合って何年も過ぎた。

  そこで、一人の女性を共立して王とした。名づけて卑弥呼といった

  鬼道を得意としており、それによって人々を自在に操っている。

  年齢はすでに長大であるが、夫はいない。弟がいて政治を補佐し

  ている】


この記述がどうして「邪馬台国の女王・卑弥呼」になるのか疑問である。

倭国大乱の収束を目的に擁立した女性・巫女である

古代の巫女は「シャーマン」とも考えられる。

鬼道とは呪術のようなものだろうか?

日本の歴史教科書が、いかにお粗末だったかの具体例であるわけで

邪馬台国の女王・卑弥呼は、マスゴミに任せておけば良いのである。


もう一つ、「後漢書」倭伝に記述がある

【 恒帝・霊帝の時代、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃し合い、何年

  も王がいない状態が続いた。ここに一人の女性がいた。名前を

  卑弥呼といった。年齢は長じているが結婚せず、妖言によって

  人びとを自在に操っている。そこで彼女を共立して王とする

  ことにした。】


私は「魏志倭人伝」でのみ、3世紀の日本を知る術が無いことに

憂いているが、その倭人伝が真実を伝えているかどうかは

「神のみぞ知る」なのである。

それを「魏」の歴史書だから、真実であるというならば

倭国女王を邪馬台国女王とするのには大反対である。

魏志倭人伝が私に教えてくれたことは

* 卑弥呼は倭国の王であって、邪馬台国の王ではないこと

* 「倭」という国号は日本人が伝えたものでない可能性と

  「倭」と言う文字が勝手に当てられていたこと

この二つ以外に大きな興味が無かったことである。

◎  仏教徒だった日本神道の祭祀王 


神様 神道 と聞けば、「皇室」をイメージする

現代では常識以前の話である。

少なくとも明治以降の天皇は「祭祀王」と呼べるだろう


ところがアマテラスの末裔である天皇家

幕末までは「熱心な仏教徒」だったことを知る人は少ない

京都・泉涌寺 (せんにゅうじ)

天智天皇と光仁天皇から昭和天皇までの天皇皇后の位牌が

納められている。

幕末までは宮廷内に仏壇まであり、明治になり泉涌寺 に遷されている


私のブログが平安中期で一休みした理由

「神様」が出てこない平安時代に違和感を覚えたからであり

天皇と神道と仏教を頭の中で整理しながら

古代の神様をおさらいしようと思ったからである。


なぜアマテラスの後裔が仏教徒になったのか?

明確に教えてくれる人が居ない、というか不勉強だから

答が見つからないのである。

私見は、神様は祈り・感謝する対象であり

仏は縋(すが)り・願うものであると・・・。

歴代天皇はどうして仏に縋ろうとしたのか

伊勢に行幸もせず、高野や熊野に詣でたのは

如何なる理由だったのか

疑問は次々に涌いて来る。


最近の皇室の状況を振り観れば、平安の御代に逆戻り

してしまうのでは、そんな事も考えてしまう。

天皇は衆生のために「祈る」ことが責務である

衆生から崇められるのは、天皇だからではない

衆生の平安と安寧を祈ってくれる祭祀王だからなのである。

平安後期から江戸期までの皇室の権威の失墜は

偏に「仏教に傾倒した祭祀王」だったからではないだろうか

仏教が悪いとかいう話ではない

神様が見ていることを忘れた生き方は祭祀王には適さない

泉涌寺にある位牌が、天智天皇と9代後の光仁天皇という

不思議な始まり方をしていることが、どういう意味なのか

衆生から不評(悪評)の高かった天智天皇と光仁天皇が始まりとは

単なる信仰心ではないような気さえするのである。


どうして天武天皇から称徳天皇までの位牌が安置されていないのか?

日本の古代史の脚本を書いたと考えられる持統天皇もその中に含まれる

泉涌寺では、今でも歴代天皇の祥月命日には法要が営まれ

宮内庁職員が参列しているという。


抜け落ちている天皇の処遇について宮内庁の真意は不明である。

皇室先祖の位牌が抜け落ちている寺での法要に参列する不可解さを

誰も語ろうとはしないのである。

◎  言霊と穢れを考える 


私は何度も「言霊(ことだま)」と「穢れ(けがれ)」という言葉

を使ってきた日本人ならではの思想とか日本人特有の「信仰」とも

言えるし、「体質」とも言えるものである。


言霊とは言葉に魂が宿っているという思想観念だ

「あわてると転ぶよ・・・」

そして、本当に転んだとすれば・・・

「そんなこと言うから本当に転んだじゃないか」


つまりは言葉によって「呪(しゅ)」を懸けられたことの結果と

古の人は考えたのである。

最近では原発の事故の際に、「想定外」と言う言葉が流行した

最悪の事態を想定して、口に出せば本当に起こってしまう

だから、「最悪の想定はしない」という理屈

頭で考えてそういう発想をしているのではない

体質みたいなもの、日本人の体に存在するDNAに刻まれている

「日本的言霊体質」の成せる所業である。


私は昔から「相談」というのは、道を聞くためのものではない

選んだ道の「正当性」を言霊によって再確認したいという願望

が形になったと思っている。

右か左か友人に相談したとする

自分自身は予め「右」にしようと思っていた

友人は「左」を薦めてきたとき、左を選んだときの「デメリット」

を友人に語り、「右」の「メリット」を強調してみたりする。

つまりは、「右」を選んだ自分の選択に賛同して欲しい

賛同した言葉がそのようになる事を期待して相談をした

これが「言霊体質」の顕著な一例であろう。


穢れについては非常に難しい・・・

「罪も禍(わざわい)も過(あやま)ちも穢れであり

  悪霊の仕業である」

これが「穢れ思想」の基本原理だという

宗教的観念では清浄なものと不浄なものがあり、不浄なものに

触れることが穢れに通じるということか・・・。

井沢元彦氏によれば、日本人の「けがれ思想」の代表が

「割箸(わりばし)」

と言うのである。

日本人はほとんどの人が、家に帰れば自分専用の「箸と茶碗」がある

自分専用で他人には使わせないものだろう。


ある日、父が娘に「私が20年間使ってきた箸をお前にやろう」

ところが、娘は即答で「いらない」と言うはずである。

それを娘に強要しようとすれば、娘は「キタナイ」からいやだ!

と答えると思う。

いくら殺菌消毒しようとも、何べんアルコール消毒しようとも

長年人が愛用したものには、その人の「垢(あか)」みたいなものが

しみこんでいると日本人は考える。

だから、「お客様」に不浄な気持ちを抱かせない為に

穢れていない「真新しい割箸」を提供するのである。

聞けば納得の説だが、そんなことを考えて日常を過ごす人などいない

それが「思想」「信仰」「体質」という理由なのかもしれない。

◎  古墳と天皇と古代豪族 


古墳というものがなぜ造られたのか

昔から不思議に思っている


人のいう事を素直に聞き入れない長屋の爺

学者先生の仰ることには疑問ばかりが思い浮かぶ

現在の日本人と皇室の関係を考えても

天皇陵を造営することに反対論は出ない

それならば天皇の権限・権力が大きかった古代

どうして墳丘墓が廃れてしまったのか

土地の問題とかでは納得できない大事である


長屋の爺は古墳時代の「王朝」と現在に至る「皇室」

これは繋がっていない可能性を考えてしまう

少なくとも共立された「王」の墓が古墳の始まりではない

その土地を納めた「権力者」「豪族」「部族酋長」の墓が

古墳の初めだったと思う


死後に巨大な墳丘墓を造営するとは考えにくい

生前に持てる力で自らの意思で作り上げた「モニュメント」

それが墳丘墓であり、古墳であったと思っている


ではそのモニュメントである古墳の被埋葬者が不明という

そのことを説明するものに行き当たらない

長屋の「八っつあん」「熊さん」の墓ではない

「王の墓」に纏わる言い伝えが廃れることが不可解だ

勝者の末裔が「祖先」を蔑ろにするはずは無い

あるとすれば「敗者」に対する軽視だけである

それが「古代王朝」と「現皇室」との関係を疑問に思う

原因となっているのである。


日本の古墳は「比定」されているものばかりである

看板も特定する調査も無い、推量だけの産物である

**天皇陵と言っても、一部の学者と宮内庁が言い張るだけ

根拠も希薄である (素人ゆえ言える言葉であるが)


そこに何らかの「不都合」があるからではないか

万世一系が二千年でも千五百年でもどちらでもかまわない

知ろうとして判らない事と、知ろうとしないで判らない事は

大きく違ってくるのである


人口も少ない古代の日本の地で

莫大な費用と膨大な人力によって、何十年の年月を費やし

完成された「モニュメント」

それが地方豪族や地方酋長の「力」を表現している

そう考えると擁立された王がどれほど「力」があったのか

または「力」など無かったのか興味深いのである

古墳が廃れた背景には、「王」をも凌ぐ「力」の持ち主

地方有力豪族・部族酋長の衰退が関わっているのか?

擁立された「王」ではなく、自らの意思で「王」についた

者が出現して、後押しする支えを持たない「王」の力が落ちて

「モニュメント」を造ることが難しくなったからなのか

物部氏や蘇我氏を最期に絶大な力を持つ後援者が不在の

天皇制と、その不安を薄める為の仏教信仰の導入なのか

妄想は終わることは無い・・・・・。


その境界線が、「推古天皇」であり「聖徳太子」

ご存知の生没年が確かな天皇は推古天皇からであり

スーパーマン「聖徳太子」の伝説が指し示しているである。


古墳時代の終焉が天皇制度の始まりであり

万世一系の起源だと長屋の爺は考えている。

◎  童話に隠された事実と価値 

イナバノシロウサギ

日本人ならだれでもしっている童話である

本当に知っていると言い切れるか?

長屋の爺も正直なところ「断言する自信」はない


子供心にどうして日本の童話に「ワニ」が出てくるのか

疑問に思ったことは無いだろうか

日本人にとって「ワニ」は動物園かワニ園でしか見られない

古代日本ではワニは普通にいたのだろうか?

それも日本海の島に・・・。

日本の童謡も童話も隠された意味がある


イナバノシロウサギの話は「古事記」に記され

その内容は概ね我々が聴いてきたあらすじである

しかし、その最後にこう書かれている


「此れ稲羽の素菟(しろうさぎ)なり。

     今者(いま)に菟神と謂ふ」

白兎はたんなるウサギではなく神さまだった

神様であるウサギを酷い目にあわせた「ワニ」とは


この話、赤い目のウサギと大きな口のワニの物語り

とは、少しばかり趣が違ってきたようである。

ウサギとは「宇佐の妓」と考えてきたが、神様となると

話は違ってくる。

宇佐の神・・・ウサギ神 とするなら

宇佐の神というと、八幡神ということか?

どうも納得できない話



日本書紀の第三の一書(あるふみ)に

「日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三(みはしら)

 の女神(ひめかみ)を似(も)ては、葦原中国(あしはらなかつくに)

 の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。

 今、海の北の道の中に在(ま)す。号(なづ)けて

 道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。」


三人の女神が宇佐嶋に居るというのである

海の北の道というのだから、半島と九州の間ということか

道主貴ということは「水先案内」ということだろう。

そこで思い出すのが「宗像三女神」といわれる女神達だ

『古事記』では、化生した順に以下の三神としている

多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)

市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)

多岐都比売命(たぎつひめ)

不勉強で「ウサギの神」「宗像三女神」「宇佐神宮」とのかかわり

がいまいち理解できない。

もう一度勉強してみたいと思っている。

ただ浅学な爺の目には、この物語り(童話・神話)は動物の話ではなく

遥か昔の民族の歴史のようにも感じる

言い伝えにしろ、遺されてきた理由は「とても大事な過去」だったから

そう思えてならないのだ

一人の人間の過去なら歴史の狭間に埋没していただろうと思う

民族の歴史・部族の歴史と考えれば、遺された価値も想像できる



爺にとって手に余る「宿題」が増えたようである。

◎  日本の「廃太子」の歴史 

下世話な話であるが、最近「廃太子」の話題が注目されている

廃太子とは皇太子(東宮)が何らかの理由で廃されること

即位する前に死んだ場合には「廃太子」とは言わない


通説では過去に廃太子になった東宮は10人である

その理由も様々であり、廃太子の条件は決まっていない

だがいつの時代も、権力者にとって不都合な東宮は

敬遠され疎まれる運命にあるようだ


都合よく若死にしてくれるとは限らない

密室での不埒な所業は歴史には遺されない

これが事実である。


廃太子の理由が酷いものであれ、残ったもの(勝者)の

言い分だけが歴史事実として伝えられる。



日本で最初に廃太子に遭った東宮は「道祖王(ふなどおう)」

757年 孝謙天皇の皇太子である

祖父は天武天皇という血統の良さが光る

孝謙天皇は日本でただ一人の「女性皇太子」であり

即位しても未婚ゆえ継嗣がいないことから

聖武天皇の遺詔で道祖王が皇太子となった

だが聖武天皇の喪中に素行不良を理由に廃されている。

孝謙天皇と藤原仲麻呂の陰謀によって

廃太子になったという説が有力である。

仲麻呂が推す「大炊王(おおいおう)」を皇太子にする為

有りもしない罪で廃太子に追い込んだようである。



772年 「他戸親王(おさべしんのう)」

桓武天皇を皇位につけるための冤罪で廃太子になっている。


785年 「早良親王(さわらしんのう)」

祟り(たたり)といえば早良親王と言うくらいの皇太子

桓武天皇の同母弟であり、その資質を妬まれて冤罪を受ける

明晰な者は権力者から見れば「不都合な者」とされ

有りもしない「言いがかり」で命を落とす代表例である。


810年 「高岳親王(たかおかしんのう)」

嵯峨天皇の皇太子、平城天皇の皇子

「薬子の変」により廃太子となる

本人より父・平城天皇の不行状のとばっちりとも考えられる

後に出家し「真如法親王」と称し

空海の十大弟子の一人となり「阿闍梨」号を受け

入唐しさらに天竺を目指すが途中で倒れてしまう。


842年 「恒貞親王(つねさだしんのう)」

権力争いに嫌気を感じていたが、不本意ながら

立太子を受ける。

後に「承和の変」で廃太子され出家する。

「恒寂法親王」と称し、「大覚寺」を開いた。


そのほかには

1017年 「敦明親王(あつあきらしんのう)」

藤原道長の嫌がらせで自ら廃太子を願い出た親王。


1333年 「康仁親王(やすひとしんのう)」

父・光厳天皇の廃位に伴って廃太子となる。


1336年 「成良親王(なりながしんのう)」

南北朝分離の犠牲となって廃太子となった。


1351年 「直仁親王(なおひとしんのう)」

南北朝の確執により廃太子された。


1392年 「惟成親王(これなりしんのう」

室町幕府が南北朝の講和条件を守らなかったことで

南北朝の講和の犠牲となった皇太子である。


これを見ても「廃太子」された親王は

問題があったわけではない

むしろ英邁であり、明敏な親王と思われる。

権力欲・私欲の亡者には、愚鈍な皇太子が好みである

自分の意のままに動かない「清き親王」は不満が募る

愚鈍な皇太子が皇位を継げば、愚鈍な天皇が出来上がる

その天皇を都合よく利用するのは「王権」に巣食う

亡者達の十八番である。


さしずめ「今上天皇」の御代は亡者達にとって

「居心地の良い」環境とはいえないかもしれない。

「廃太子なさいませ」

これは亡者たちにとって、お払いの呪文に聞こえるか?

無私の親王が出てくることが民にとって一条の光となる

「無私の東宮」からしか「無私の天皇」は生まれない

国家安寧・国家鎮護は衆生の願いであり

「日本国天皇」の願いでもあるのだから。

◎  長屋の爺の「邪馬台国と卑弥呼」の見方とは 


卑弥呼(ひみこ)

この名前に日本人は夢を膨らます

何も解らないから自分勝手な推測で見たことも無い

女性のイメージを大きくする

これが楽しいともいえるのだが・・・。


卑弥呼とはいったい何者?

たぶん ほとんどの人は「邪馬台国の女王」

きっとそう言うだろうと思う。

本当にそうだろうか?


倭の女王の名前が魏志倭人伝に「卑弥呼」と書かれている

だが邪馬台国は「女王が治める国」とはあるが、その女王が

卑弥呼とは書いていない

調べて気付く、思い込みの盲点である


邪馬台国・伊都国・奴国・投馬国・末廬国などの集合体が「倭国」だ

倭国の女王が卑弥呼であって、上記の国を治めていたという話

邪馬台国の女王であり倭国の女王だったとは何処にも書いていない

卑弥呼を擁立(共立)したのは多くの国々であり、その集合体が倭国

言い換えれば「連邦」とか「合衆国」のようなものではないか

それ以上に「魏志倭人伝」に書かれていることが全て正しい

そういう観点から話が進んでいることに疑問が残る


意図的に「嘘」を書き残したといっているのではない

「魏」という国が唯一認めた、日本の国家という事実は疑わない

倭国は70~80年もの間争いが絶えず、乱れていた国が一人の女王を

擁立したら治まった、その女王の名が「卑弥呼(ひみこ)」という

その倭国が治めていた小国のなかに「邪馬台国」という国があった

その国は女王が治めていた国の一つだった

これが魏志倭人伝の記述の事実である。


邪馬台国は女王が治める国の一つで統治していたのは「倭国」

邪馬台国の女王と倭国の女王が同一とは記されていない

擁立された女王・卑弥呼とは

もしかしたら、「奴国」の出身の女王だったかもしれないし

「末廬国」の出身かもしれないのである

邪馬台国論争の中核は「邪馬台国の女王・卑弥呼」が基点であろう

卑弥呼(ひみこ)が「末廬国」から出た女王だったらここまで

盛り上がりを見せただろうか?


倭国が「ヤマト」の前身だったかは疑問である

「日本書紀」にも「古事記」にも卑弥呼については何も記されてない

かすかな言い伝えすら残されていない

紀元前の「王」については、それなりの記述を遺しているのにである

3世紀前後については「固く口を閉ざす」ように思える

不都合な問題が無ければ、そういう話もあったくらいは遺しても

不思議は無いのだ


3世紀に実在されたといわれている「崇神天皇」が記録に残っているのに

なぜ卑弥呼やトヨや弟のことが伝えられなかったのか?

ヤマト王朝にとって書き残せない不都合が存在した

遺せば記紀を編纂した当時の王朝にダメージが残る内容があり

消し去りたい「忌まわしい過去」であった可能性も考えられる。



邪馬台国が何処にあったにせよ、倭国の一部であり全部ではないはず

邪馬台国論争に強い興味を覚えない「長屋の爺の論理」とは

こういうことから始まっているのである。

◎  私にとっての神について 

古代日本は多神教(アニミズム)だと考えて間違いないと思う

諸外国は一神教の国が多い

私は不見識であり浅学なので、宗教に関して造詣が無い

キリスト教もイスラム教もユダヤ教も仏教すら理解していない

キリストは何処にいるのか?

そんなことを思ってみる・・・。

キリストは教会にいるのだろうか?

個人の家に来ることはあるのだろうか?

どんなときにキリストは衆生に見(まみ)えるのか?


日本の八百万の神様は、何処にでもいる!

庭の草花にも、山にも川にも海にも、神棚にも

そして神社や祠にも居るのである。

花や樹木に宿る「精霊」も神様なのだと思う

その八百万の神を総じて「神」だと考えている。

キリストとは一人の「呼称」ではなく

衆生の周りに居る全ての神の総称であれば

多神教の神も一神教の神も同じ「神」ではないか

なんておかしな事を思ってしまう。


日本人を形作る「芯(しん)」のようなもの

それが何処にでも居る、身の回りの神様に対する

意識、私はそう信じているのだが

これは「宗教心」とは少し異なったもの

上手く説明できないが、倫理観とか道徳観なのか

「お天道様が見ている」

見ているお天道様こそ、「神」なのではないか

私が教わってきたことの中に、「何時も誰かが必ず見ている」

そういう言葉が頭から離れない・・・。

だから、日本人は勤勉なのではないか?

人に見られていなくても、神様が必ず見ている

深夜の残業・・・だれが見ているわけでもないのに

黙々と仕事をこなす姿に「眼」を意識した匂いを感じる

自分の為とは言いながら、深夜まで受験勉強する姿

それが神を「無意識の意識」で感じている結果のような気がする


日本人のことを優柔不断に思う人も居る

私は日本人の持つ「受け止める体質」のせいだと考えている

受け止めて自分なりに受け入れる

西洋の人から見れば、「玉虫色」であり、「優柔不断」に

見えるのかもしれない。


日本という国にどれだけ異文化が入り込んでも

この受け止める体質は不変だと思っている

宗教とは本来「縋る(すがる)」ものではなく

感謝し許しを請うために有るような気がしている

ましてや死ぬときの為でもないような・・・・。

生きるために許しを請い

生きていることに感謝し

ひたすら「祈る」

それが長屋の爺の「神様」であり、「宗教」なのである。

◎  日本の神話とユダヤの神話 


私は「日ユ同祖論」を全て信じているわけではない

そう、以前書いたと思う

「こじつけ」に近いものも確かにあるようだ

だが、これはと思うものも確かにある


興味深いものを、いくつか取り上げてみたい


神話に出てくる「高天原(たかまがはら)」

天上にあって神々がいる場所のことである

神話を伝えた人、若しくは神話を書き残した人が

何の「根拠・論拠」で天上の地を「高天原」としたか

口からでまかせなど考えられないと思っている

これにはユダヤ人の祖、アブラハムが関わっているという

ユダヤの祖・アブラハムの故郷はタガーマ州のハランという町

タガーマのハランであり「タガマハラン」

ユダヤの祖が生まれた場所が「たがまはらん」

漢字はあとからあてはめたもの、「たがまはら」であり

「たかまがはら」の根拠であろう、というのは説得力がある。


神様に参拝する前に「手を洗い清める」のは日本とユダヤだけ

穢れたものを塩で清めるのは日本とユダヤだけ

神に捧げるものに「塩」を添えて捧げるのは日本とユダヤだけ

日本神道では刻んだ像は拝まない

古代アニミズムの時代から、神は形の無いもの

形では表現できないものという認識があった

ユダヤの教えにも「刻んだ像を作って神としてはならない」

そういう教え(十戒の第三)があるという


さらに記紀神話とユダヤの神話は多くの共通点がある

たまたまとか偶然とかで切り捨ててしまえるものではない


天孫降臨も神話もそういう事実があったか

若しくはそういう逸話が何処からか伝わってきたか

そのどちらかという事になる

と・・・・長屋の爺は確信しているのである。


私はものを考え、イメージするには少なくても最低限の

知識と経験が必要だと考えている

それを「自己の外の空間の見聞」と言っても良い

例えば、物語を書くとき(空想するとき)土台となるものが

必ず必要である。

物心付いたときから無人島で生きるものには「他人」の存在など

理解できない、よってその人間が書く物語には「人間」は登場せず

空想することさえ不可能なのである。

ものを見て、ものを聞き、見聞としての最低限の知識・経験が必要


人と言うモノ、「見て、聞いて、話して、食して、触れて」

何かを感じるものなのではないだろうか

言い伝えであろうと、古文書であろうと

認識できないことは「遺せない」ものだと考えている。


言葉ひとつにしろ、物の名前にしても人に伝え、伝えられ

それを土台に色々なものが「生まれる」と言っても良い


鯨を見たことも、鯨の存在、その呼び名を知らない人には

だれにも伝えられないのである。

「昔から言われているからそういうものだ」

昔から歌われているから、なんとなく歌い継いでいる

口からでまかせの意味の無い唄(言葉)は残ることは無い


世の万事は全て理由が有るのだと、長屋の爺は思っている。

◎  北イスラエルと諏訪大社 

諏訪大社の「御柱」は引きずられ、落とされ水に潜らされ

そして拝殿の四方に立てられ「雨ざらし」にされる。

伊勢や出雲でも「心御柱(しんのみはしら)」というものがあるが

そちらは丁寧に扱われ、古代の「神籬(ひもろぎ)」の名残ともいう

以前、「北イスラエル」に入り込んだ「アシラ信仰」について触れた

古代アッシリアの女神信仰であり、その象徴としての「聖木」が神殿の

四方に立てられる。

諏訪の御柱と非常に似ているのである。

遥か山から「レバノン杉」を切り出して、川を下り運び込む

石造りの神殿にどうして「木材」が必要だったのか謎である。

このレバノン杉は「ツタンカーメンの棺」にも使われている木材で

古代の中近東には普通に存在した樹木だったようだ。

この「北イスラエル」は滅亡している。

その国を構成していたのが「失われた十部族」といわれる民

そして滅ぼしたのが「アッシリア」という国なのである。

この四方に立てられた「聖木」あるいは「神木」と思えるもの

祭神を警護しているのでも、祭神を祀っているのでもなく

祭神を「監視」しているかのようにも思えるのである。

「結界」と言うほどでなくても、異教の「聖木」が見張っている

それが何のためかは解らないが・・・・。


日本の言葉に「禁足地」というものがある

一般には「立ち入ってはいけない場所」という認識がある

ところが本当は「そこから出てはいけない場所」と言う意味である。

似ているようだが、まるで反対の意味を持つ。

立ち入ってはいけないのは、「第三者」であり

出てはいけないのは「内にいる者」なのだ。

禁足地とはそこに座すモノはけっして出てはいけない場所

閉じ込めている場所のことなのである。


「御柱」が祀られているのか、そこに晒されているのか

何かの役目でそこに座しているのか想像するしかないのである。

思い込みは物の形を変えてしまう

山から切り出してくる「柱」だから、全てが神のためとは限らない

「神」と「鬼」は「表」と「裏」なのだ

日本の神は「喜び」を与えてくれる反面、「苦難」も与える

だから日本人は「神」に対し畏怖の念を抱き続けてきたのである。

荒れる神は時として、鬼と呼ばれる

鬼を御するには鬼の力で抑え込む、異教の神を御するには異教の神に

頼ることになるのではないか・・・・。

「御柱」が異教の聖木だったとしたら、そこに祀られているのは

八百万の神以外の異教の神であるのかもしれない

そんなことをふと思っている 長屋の爺である。

◎  御頭祭の御神とタナフのイサク 

諏訪大社がある諏訪には「守屋山」という山がある

通説では「守屋山」は諏訪大社の「ご神体山」であるという

その守屋山に神社がある「守屋神社(もりやじんじゃ)」だ

山頂に奥宮、麓に里宮があり、祭神は「物部守屋連」

言い伝えでは、武御名方命が来る以前から「洩矢の神」が存在した

そういうことらしい

だがなぜ諏訪の地に「物部守屋」なのか?

仏教推進派の「蘇我氏」と壮絶な争いをした

「神道」擁護派の「物部氏」である。

飛鳥を遠く離れた諏訪の地にどうして「物部守屋」が祀られている?

現在の皇室祭祀の原型は「物部神道」という話も聞く

守屋神社と物部氏は改めて考えてみたい・・・。



御頭祭

奇祭といわれる諏訪大社の祭りである

以前にも書いたが、この祭は神様に生贄を捧げる祭りでもある

「穢れ」「不浄」とはほど遠い「血」に塗れた印象がある

江戸時代に実際に見た人のスケッチから再現されたものを掲げると

* 75頭の鹿の頭

* 白兎の串刺し

* 鹿の焼き皮

* アラメの串刺し

* 生鹿(なましか)

* 生兎

* 切兎

* 鹿の五臓

* 鹿の脳和え

とても神様への供物とは思えない代物ばかりである

ただし、今の我々が想像する祭や神事に供えられる「獣の肉」が

異様に感じるのも、思い込みなのである。

その昔、牛肉などは祭祀には欠かせないものだったという説も有る

それが普通でなくなった時代は「聖武天皇」の頃という

つまりは「仏教」が入り浸透した頃なのである。

穢れの思想はこの頃から顕著になったのか?

聖武天皇は東大寺大仏建立に際し、牛馬の殺生を禁じたという

たんに荷役のためだと思っていたが、あるいは宗教的な側面も

あったのかもしれない。

それまでは「神」に供えるものに「血肉」は当然だったのだろう

しかし、この御頭祭の供物に関しては「異常」としか思えない

神に感謝し「供える」儀式なら、2~3頭の鹿で十分である。

縄文の民なら「必要以上の殺生」は行わないのが基本

供えるというより、怖ろしいものに対し「貢物」を差し出すようだ

摩訶不思議な祭事と言うべきだろう。

この祭りのクライマックスで「御神(おこう)」という者が登場する

8歳くらいの子供が紅い衣装を纏い、御贄柱(おにえばしら)に簀巻きにされ

供えられるという。

最終的には「助け」られるのだが、なぜ子供がそういう仕打ちを受けるのか

甚だ疑問である。

神なのか、神になるのかはわからないが不思議ではある。


この場面がユダヤの「タナフ」に書かれるイサクの逸話に似ているという

その逸話とは・・・・

神はある時、アブラハムに「息子イサクを連れてモリヤの地に行き、私が

 示す山で彼を燔祭として捧げなさい」

アブラハムがイサクの命を断とうとしたとき、主の使いがそれを止めて

事なきを得た、眼を開けたアブラハムの前に、角を藪に引っ掛けた「羊」が

いた。

そしてアブラハムはその牡羊をイサクの身代わりに生贄として捧げた。


御頭祭の「鹿」は日本には未だ「羊」がいなかったので代わりにしたといい

愛する子供を神に捧げ、そして赦される。

その子供の変わりに「鹿」を捧げる。

とても興味深い共通点のある逸話だと思う。


ユダヤ人が日本に暮らしたとして何ら不思議でもない

ただ、日本人の祖先がユダヤ人というのは飛躍しすぎ

ユダヤ人若しくは、ユダヤの言葉・習慣・宗教が日本に伝えられ

その一部が現在に伝わっていることは十分に考えられる。

海が隔てているとはいっても、来ることも去ることも

可能なのだから、ユダヤ人渡来説は信じる価値はあるように思う


もう少し、ユダヤと日本について考えてみたいと思っている。

◎  ソロモンの秘宝と日本の神社 

徳島県に昔、東祖谷山村と言うところがあった

そこは「平家落ち武者伝説」があることで知られていた。

剣山の麓、安徳天皇を祀る神社がある

その名は「栗枝渡 八幡神社」

くりすど くりしど と読むそうである。

元は「栗須渡神社」と呼ばれていたとも言う

くりすど・・・クリス堂・・・クリスト・・・キリスト

音的にはかなり面白い想像ができる。

安徳天皇は壇ノ浦で入水したが、落ち延びてこの地で

7歳まで生きていたという

病で崩御し、火葬されてここに埋葬され、後に社を建て

栗須渡神社の祭神となったという。

この地が脚光を浴びたのが、「失われたアーク」のかかわり

「ソロモンの秘宝」が剣山のどこかに埋められている

そんな話だったように思う。

注目すべきは7月7日に行われる祭

神輿が剣山の山頂を目指して運ばれる不思議な祭である

剣山は1995Mの高さの山、そこを何のために神輿は登るのか

奇しくも7月7日といえば、祇園祭の山鉾巡礼と神輿の河渡りの日だ

そして「七夕まつり」の日でもある。


私は「日ユ同祖論」について全面支持はしていない

が、あながち「こじつけ」ではない物も多く潜んでいると

思っている。

何度も書いているが、古代日本人(縄文人)は多神教民族

アニミズムを根幹とし、受け止めることにはやぶさかでない。

ただそのまま受け入れるのではなく、咀嚼して吸収する体質で

その「形」「音」を何らかの姿で取り込んだ可能性は大いにある。


「ヤー」とはヘブライ語で「神」のこと

「サカ」とは「小屋」のようなものの意味だという。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)三種の神器のひとつである

八尺は単位としては論外の大きさである

「やさか」とは大きさで無いなら、どんな意味を持つのか?

「ヤーサカ」にある勾玉・・・そういう解釈もできる

神の小屋に納められた勾玉が「八尺瓊勾玉」であっても良いはず

神の小屋が「神殿」なのか「宝物殿」なのかは知る由も無いが

そういう意味の言い伝えが、三種の神器の選定に加味された

そう考えれば、ユダヤの言葉が日本に浸透した名残ともいえるだろう。

勾玉とは「胎児」をイメージさせ、子孫繁栄のシンボルと考えられる

鏡は「太陽」を表し、五穀豊穣に無くてはならないもの

剣は武力を表し、民族を守る「力の」象徴である

そして三つに共通する「生死」との関わり

「出産」「天変地異」「争い」はともに人の生死を左右する

それを「神」に願い、敬い、感謝するシンボルと定めた。


それが日本の「三種の神器」といわれるもので

それがどんな形であれ、どんな状態であれ

天皇が持っているから「神器」であり、天皇以外が持っても

単なる「鏡・剣・勾玉」でしかない。

三種の神器が尊いのではなく、天皇が護持するから尊いのである

◎  諏訪大社とアシラ信仰 

諏訪大社

伊勢神宮、出雲大社と並び、長屋の爺の「三大不可解」である

上社には前宮と本宮の二つの社があり

下社には春宮と秋宮の二つがある

伊勢の外宮・内宮の二つどころではない、四つの社があるのだ

諏訪の祭神は「武御名方命(たけみなかたのみこと)」と妻の

「八坂刀売命(やさかのとめのみこと)」であるという。

神徳は「五穀豊穣」「交通安全」「開運長寿」である

「南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)」と呼ばれていたものを

昭和23年に現在の「諏訪大社」と呼ぶようになったという

いつ創建されたかは不明である。

上社の本宮には本殿は無く、神体山を祀っているという

上社の前宮の本殿は御祭神が最初に居を構えた所だといい

故に戦国時代の武将等が「軍神」として熱心に崇めたといわれる。

ただ、「出雲の国譲り」を思い出せば、少々不思議な話であり

負けた神様を「軍神」として崇拝するのは解せない話といえる。



七年ごとに行われる、奇祭「御柱祭」は有名である

桓武天皇の時代(平安時代)から始まったとされる祭だ

伊勢の「式年遷宮」の木材は丁寧に運ばれるが

この諏訪の御柱祭では柱が引きずられて運ばれ

さらに坂を落とされ水を潜ることまでされる。

大切に敬うというより、強制連行されるように感じる。

そうやって運ばれた「御柱」は社の周りに立てられる。

この拝殿の周りに柱を立てる行為は、北イスラエルの信仰だった

「アシラ信仰」のそれと非常に似かよっているという。

異教であるアッシリアの信仰は女神アシラを崇拝する

そのシンボルが「聖木」だったということらしい。

(折を見て「ユダヤ」と日本の神との接点も取り上げてみたい)

◎  日本の神様は人によって作られた 

日本の神様はその多くを「古事記」「日本書紀」に

記載されていることを中心に知ることが出来る

見方を変えれば、それしか無いと言うべきである。

私は「古事記」「日本書紀」「出雲風土記」という三冊

が同時代・同時期に編まれたのに、書かれている内容の

違いに興味がある。

特に「古事記」の出雲神話と、「風土記」の出雲神話の

相違に注目している


若い世代の方はご存知かもしれない

学校の授業で習う「古代史」「歴史」に「人」がほとんど出てこない

唯一出てくるのが「卑弥呼(ひみこ)」くらいなものか?

その後「聖徳太子」が出てくるまで、古墳がどうとか、部民やら屯倉とか

べつに日本人が知らなければならない事柄でもない

その卑弥呼でさえ「記紀」には何も書かれていないし

さらに聖徳太子も実在かどうか疑問とされる


人の匂いのしない歴史が、日本の古代史でもある。

古の数多くの口伝もあっただろうが、正史編纂に携わった者達の

思惑によって消され、改竄され人ではない「神」という虚像に

変えてしまった。

そして終戦後、神話やそれに類する人物の存在そのものを

排除・切り捨ててしまったものだから、味気ない人の出てこない

歴史教科書が完成したのである。


神話とおとぎ話の古代史

それを形作っているのが、「紀記」と言われるものである。

空から降りてくる神様の話が日本の歴史だといえば

「頭は大丈夫?」といわれそうである。

日本の正史「日本書紀」歴史書「古事記」とはそういうもの

そこに書かれているから「真実」などと言えば

「夢見る乙女」にさえ、馬鹿にされたのである。

だが真実かどうかは別にして、それが日本の最古の文献である

なぜその記述になったか、その裏側を探るのも学問であり

切り捨ててよいはずも無いが、戦後教育の特徴でも有る

いわゆる「皇室」批判、不要論の根底にある自虐史観の

影響を色濃く受けているのだと思う。


違った見方をすれば、古事記の「神代の巻」とは聖書のようなものか?

日本の古代史の「バイブル」的な価値があるのかも知れない。

日本の歴史は「推古天皇」の時代くらいから

推古天皇以前は日本に「歴史」が存在しなかったわけではない

あくまでもほぼ理解できる範疇の歴史事実という意味だ

そして人が神に変わった時代

私はそう考えている



古代中国では政権が腐敗すると、新しい政権がそれを滅ぼし

自分達の正当性と前政権の悪行を書き残す

これが「正史」といわれるものだ

つまり、「勝者の論理」を書き記したものが「正史」なのだ


では日本の正史が編まれた時代背景はどうだったのか?

天智朝と天武朝の鬩ぎ合い(せめぎあい)があった時代である。

天武天皇の勅によって編纂が始まったといわれている。

あくまでも正史が言っているだけで真実は誰にもわからない

書いて有るから「真実」というのは本質を見失う原因となる

「日本書紀」も「古事記」も「出雲風土記」も朝廷による

国家事業のひとつであり、監視・検閲が行われたはず

それなのに、神話の記述に相違があることが不可解である


神様を再度考える前に、自分自身確認しておこうと思い

輪郭をなぞってみることに


「古事記」とは8世紀に書かれた「歴史書」である

ところが、この古事記なる書物、江戸時代までは

ほとんど知られずに埋もれた文書であった。

これを世に広めたのが「本居宣長」である

【愛知県にある真福寺(大須観音)で発見された】

そしてこの古事記を最大限に利用したのが

明治新政府なのである。

天皇を担ぐ正当性に利用する為、大いに顕彰に努めたのは事実

その内容は少し歴史を齧れば「沢山の矛盾」にぶち当たる代物

日本書紀と8年の差しかない編纂時期

書記が中国的思想で書かれているのに対し

古事記は日本的思想によって書かれている

だからと言って「古事記」は信用できないなどと言う気はない

天武天皇の勅によって編まれたというのは微妙ではあるが


たとえ話である

ここに一つの凧(たこ)があるとする

それは竹籤で組まれ、白い紙が貼って有るだけのもの

ある時、その白い紙に「絵」を描いて見た

又あるとき、糸を結んでみた

あるとき、紙で「足」を継ぎ足してみた

ある時、紙の絵に文字を書き足した・・・。

私が想像する「古事記」あるいは「古文書」などの写本とは

そんなものではないかと考えている。

たしかに千年以上前の文字が変わらずに伝わる

貴重で意義深いものなのだが

いつの時代も「こうであれば」「こうだっただろう」

そんな考えを持つ人間は居る

その時代、その場所に行かない限り「真実」など

誰にも判りはしないと爺は思っている。


時間を隔てた想像と推理、答えが無いから

人は歴史に ロマン を感じるのだと考えている。

◎  縄文人から教わる 

歴史に興味がある方はご存知だと思う

古(いにしえ)の女性の本名が伝えられていない事

別に「男尊女卑」だったからではない

正確に言えば、男女に限らず本名を呼ぶことは

無かったからだという。

「名前」を呼ばれれば、呼んだ人間の所有になる

そういう思想が古来からある

今私たちが眼にしている女性の名前は没後に書き残されたもの

だから、定子といってもその時代「定子」とは誰も呼ばなかった

ではなぜ残っているかといえば、皇室に関係しているから

正式に遺されているだけである。

「小野小町」も「紫式部」も「清少納言」も本名ではない

通称(候名さぶらいな)の類なのである。

よくものの本に、「藤原**の女」とか「源**の娘」とか

書かれているのは、名前が無かったのではなく遺されなかった

男子の名前が多いように感じるのは、冠位・役職がある人が主であり

一般の下級役人や「ひとでなし」は記録すらされていない。

記録するというのは、後の世に必要だと感じたから

忘れてはいけないと思ったからであり、何でも書き残したわけではない


言葉や物の名に拘らなければ、見えてこないものもある

反面、言葉に拘りすぎると本質を見失い踏み外すことにもなる

どの角度から捉えるか、どういう視点で判断するかが大事だろう

と老化する脳が私に言うのである。


一番避けたいのは・・・・思い込みである

人が言ったことを物差しにしては測り違いが起こる事もある


縄文人

そして縄文時代・・・

弥生人や弥生時代から想像すると、野蛮で文化程度の低い

そんなイメージを抱いてしまう。

縄文人は確かに「狩猟」が生活の基本だったことは理解できる

だが、縄文人は「外の世界」に足を向けた貿易人でもあった

現在の商人のルーツは「縄文人」だったと言っても過言ではない

山や川・海での狩猟生活に加え、畑作など農業の初期段階も見られ

物々交換という商業行為も確認されている。

縄文土器というのは誰でも知っている。

その土器の最も古いのが1万6500年前という

メソポタミア文明ですら未だ形が無い時代なのである。

漆器に至っては、世界最古といわれる9千年前のものが

函館で見つかっている。

日本の文化は海の向こうから輸入されたものだけではない

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お互いに望む「品々」の交換という行為に

付随して情報の交換もされただろう。

遠くの地の様々な事柄が、物とともに伝えられ

緩やかではあるが、縄文文化は花開いていったのだと考えている。

その根底に有るのが「精霊」の存在

アニミズムとは全てのモノに魂が宿るという考え

ゆえにどんなモノでも受け止める

受け入れるのではない、受け止めるのだと私は思っている。

そのモノを時間をかけて吸収する、これが「縄文の理念」だと

考えている。

そのモノが音や形を変えることはあるだろうが

縄文人の中にゆっくりと溶け込んでいった

その結果として古代日本が形作られた。

周りに有る全てのモノを敬い、感謝し・・・

そして畏れたのが日本の宗教観の奥底に有る

観念だと信じているのである。



◎  人はどうして言葉を残すのか? 

人はどうして言葉を残すのか?

人それぞれ・・・と言ってしまうと

後が続かなくなってしまう


私は10年前にネット界から引退した過去が有る

当時はブログなど無く、HPのコメント欄や掲示板などで

多くの友人と毎日会話し、時折「オフ会」などで親交を深めた

私の身の回りで同時期にいろんな事があり

突然、ネットから身を引いた


一年半前、ブログを始めて現在に至っている。

私の日常は「平凡」そのものだ

さして書き残すほどの類ではない


再三書いてきたが、長屋の爺は学歴・教養がない

ほとんど「独学」といっても良い

そんな無学な爺が「一念発起」して書き残そうとしているのが

この「不必要な善意」というブログである。


日本人として生まれて、日本人として死んでゆくだろう

そんな爺が日本人であることを再確認する為の言葉

少々格好つけ過ぎの感じだが、自分の言葉を書き残す

そんなブログ、爺には書けそうも無い

誰かに、何かを感じてもらえばそれでいい・・・

読まれた方が、独善、浅慮、偏見と受け取られても

いっこうにかまわないという思いで書き始めた


「人生、死んだ時が寿命」

病気や事故では人は死なない

笑われそうな「自論」だが、疑いも無く信じて生きている。

とにかく偏屈

砂糖が甘いのは、人から聞いたからではない

自ら「舐めた」経験で知っている。

痛い思いをしたから、痛みに敏感であり

悲しい思いを沢山したから、他人事で泣き虫になる。


長屋の爺は楽しい話のブログは書かない

それは10年前に置いてきた・・・・。

そんなブログ「不必要な善意」をこれからも更新して行きたい

そう思っている。

◎  現代の物差しでは古代史は測れない 


八幡

これは やはた やわた はちまん と読む

私は「やはた」と読むことにしている

やわた やあた やはた 

地域、人、年齢などの関係で聞く側がそう解釈した

そういうようにも考えられる。

言葉は音である

そして言葉は時代と場所により変化するものなのだ

やたのかがみ(やあたのかがみ)

三種の神器の一つである

やあたの鏡・・・・やはたのかがみ

「かが」は「かか」とも言う 蛇の古語である

かが(蛇)み(身)・・蛇の体ということ

鏡餅も蛇がとぐろを巻いた形を現しているという

鏡のようにつるりとした餅など後出しじゃんけんである。

八岐大蛇(やまたのおろち)

スサノオが退治した八頭八尾の大蛇のこと

八幡の大蛇(やはたのおろち)

その尻尾から出てきたのが「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」

別名「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」である。

八幡の鏡と八幡の大蛇から出てきた剣

三種の神器のうちの二つという事になる。

古代日本語では「は」行の音は H ではなく F で発音された

さらにその前は P で発音されたという。

やはた が やふぁた やぱた と言われていたのかもしれない


現代の「ものさし」で考えると迷路に入り込み

書いてあること、伝えられていることが総て正解に思えてしまう

歴史に「正解」も「真実」も存在しない

あくまでも想像と推測の世界であるが

自分の想像する世界があっても良いと思っている。


先入観や既成概念を投げ捨てることでしか

古代は見えてこない。

専門家の先生も「そうだっただろう」「こうだったかも」

という出発点から

なぜか「そうだったはず」「そうだった」に行き着く

結局は想像と推測の上でしか古代史は語れないと思う。


北海道・東北北部に残る地名は元々蝦夷の言葉の名残である

その多くは促音と拗音の世界である。

拗音とは「きゃ」「しゅ」「ちょ」など二文字で表す音

促音とは小さな「つ」を伴う音、「さっ」「はっ」などである。

ところが地名や言葉を「漢字」表記にする際に直音に変えられた

そういう例が数多有るのだ

音(言葉)は時代によって変えられる、変化するという証明である。


日本という国の名前(国号)を使ったのは持統天皇である

それ以前は「倭」という事になっている。

これは漢字が導入された後の言葉文字である

「わ」とは本当に国号だったのだろうか?

和 輪 環 羽 我 吾 琶 と「わ」の表記も多彩である

これは中国大陸の人間が聞き取って「漢字」に当てはめただけの

「音」なのである。

井沢元彦氏の面白い話が載っていたので紹介したい

昔、初めてヨーロッパ人がオーストラリア大陸を訪れたとき

ウサギのようなしかのような大きな動物を見て

「あれは何と言う動物か?」と尋ねたら

原住民は「カンガルー」と答えたという

以後、世界中でその動物を「カンガルー」と呼ぶようになる

ところが、「カンガルー」とは原住民の言葉で・・・

『私は知らない』

そういう意味なのだそうだ


問うた・・・・答えた

普通に考えると「問われたから答えた」

その答えは適切で有るはず・・・・と考えがちだが

現代と違い、異国人が意思疎通ができていたなど夢物語だ

お互いに自分の都合で意思表示をした

それが名前は? に対し 知らない! と返しただけなのである。

中国人が「お前の国は何と言う国だ?」と尋ねて

質問の意味を理解して「わ」と答えたかどうか疑問である。


その後、大陸から漢字が入り、書物が入ることにより

その当時の日本の国号が「倭」という事を知って

文字として書き残した可能性も否定できないのである。

日本全体の名前など、「日本」と決めるまでは空ろなものだった

長屋の爺はそういうのも「あり」だと思っているのである。

◎  半年を振り返って思うこと 

このブログを始めてから半年が過ぎた

最初はGooブログが政治・社会批判だけだった事で

政治色を排して日本を知り、考える為に「神さま」から

学びなおそうと無謀なことを考えたのがきっかけである

最近の自分のブログを読み返し、神様がちっとも出てこない

そんな現実に自身驚いている

というか、神様の話もサラッと流した感じで私も不満であり

もう少し自分色を出して「おさらい」をしてみたくなった。

という事で・・・・これからはあっち行ったり

こっちに飛んだりして更新をして行こうと思っている。

秋の行事が地域・町内で目白押しであり

来年春まで「町内会」に時間をとられそうで厳しい環境である。

更新はどうした?

と言われない程度には、何とか更新を欠かさないよう

努力する気持ちだけはある(笑)

平安時代後期はしばらく「延期」ということで

八百万の神様と日本をもう一度訪ねてみたいと思っています。

◎  一条天皇と皇后・定子の辞世の句 


露の身の 草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることをこそ思へ

                           (御堂関白記より)

露の身の 風の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき

                            (権記より)

一条天皇の最期の歌・・・・辞世の歌と言われている。

五つの資料・作品によって伝えられているのだが

それぞれ語句が少しずつ違っているという

共通するのは、上の赤字で記載されている句である。

なぜかというと、意識はあったが文字など書けない状態

虫の息のような一条天皇が彰子を枕元にに呼び

最期の力をふるって詠んだ歌なのである

途切れ途切れで詠んだ小さな声をようやく聞き取ったのが

赤字の部分であったのかもしれない




皇后・定子は御帳台のとばりの紐に「遺書」を結び付けていた

ことが解っている。

葬儀のことなどを記し、一条天皇に三種の歌を残している。


*よもすがら契りしことをわすれずは 恋ひん涙の色ぞゆかしき



*知る人もなき別れ路に今はとて 心細くも急ぎたつかな



*煙とも雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ

【私の身は、煙となって空に上がることも、そこで雲になること

  もありません。でも、どうぞ草の葉におりた露を、私と思って

   みてください。】


当時は貴族の埋葬は「火葬」が一般的といわれた

しかしこの歌を観た定子の兄・伊周は定子を「土葬」にしたという

伊周は定子が「火葬」を望んでいないと感じたのか

あるいは定子が「露の身」に生まれ変わることを望んだか

煙でも雲でもなく、草の上に降り立つ「露」になりたい

そんな願いを兄・伊周は叶えてやったのかもしれない。



死を覚悟した人の歌では、「露の身」とは自分のことを言うらしい

だが一条天皇は「君を置き」という表現をしていて

あきらかに愛する女性を思って詠んだ歌なのである

それが彰子ではなく、定子のことだろうと「権記」の作者である

藤原行成は書いている。

◎  天皇の諱(いみな)と一条天皇 


天皇には「諱(いみな)」というのがある

昭和天皇の諱は「裕仁」であり

今上天皇の諱は「明仁」という

東宮の諱は「徳仁」、秋篠宮の諱は「文仁」

秋篠宮の皇子は「悠仁」である。

この「仁」という文字が諱に使われたのは

第56代 清和天皇が最初か・・・。

諱は「惟仁」といわれる

その後、第60代 醍醐天皇の諱に「敦仁」が見える。

そして、第66代天皇 一条天皇の諱が「懐仁」である



諱というものは普段から耳にすることはなかったはずであり

ヒトデナシの「太郎」「和夫」にあたる名前であるが

「おかみ」とか「みかど」などと呼ばれ、諱を呼ぶことなど

無かったのだろうと思っている。

なぜそんな話をするのかと言うと・・・

その後、第70代 後冷泉天皇から「仁」の諱を使う天皇が多くなる

後冷泉天皇から数えて46人の天皇が諱に「仁」の文字を使う

南北朝の天皇を加えると、51人の天皇の諱に使われ

先の清和・醍醐・一条帝を加えると54人の天皇につけられた諱の文字

という事になる。

親王を加えると更に増えることになるが・・・・。


なぜ「仁」の文字が使われるようになったのか?

やはり一条天皇は「聖主」というように捉えられていたから

理想とする天皇になれるようにと言う願いをこめて

「*仁」という諱を親がつけたのだと思っている。


一条天皇の時代、綺羅星の如く数多の知識人たちが

湧いて出たわけでなく、一条天皇の思いが彼等を後世にまで残る

傑物に仕立てたのだと思いたい。

たまたま一条帝の時代に多かったのでもなく

一条帝に吸い寄せられるように彼等が平安の地に集まった

それでなければ、平安文化を凝縮したようなきらびやかで

千年も伝わる文学が数多創作されるはずも無い

一条帝が「聖君」であったから平安の文化が花開いた

長屋の爺はそう信じたいのである・・・・。

◎  一条天皇と八咫鏡 

三種の神器のひとつである「八咫鏡」

これを実際に見た話は聞かない

いや見ることはできないと言うべきだろうか。


平安京も江戸と同じで火災が多かった都である

960年、976年、980年、982年の内裏火災

その火災にも無傷だった八咫鏡であったが

1005年一条天皇の時代、皆既月食が終わった直後

内裏に火災が起きて、一条天皇と中宮・彰子は二人だけで

避難し難を逃れたが、八咫鏡は消損して灰だけが残った。

一条天皇の苦悩を見て、藤原道長は八咫鏡を改鋳しようと

したが、多くの公卿の反対にあい断念しそのまま保存され

安徳天皇と共に「壇ノ浦」に沈んだものを源義経が回収し

それが現在、宮中賢所にある「八咫鏡」だといわれている。


ところが異説も有るのだが、960年では無傷だったが

976年には黒く輝きを失い、980年には半減して

982年には消失したと伝えられている(愚管抄巻二)


八咫鏡は二つ存在し、一つは伊勢神宮に奉置されているもの

もう一つが「形代」と呼ばれる宮中にある八咫鏡である。

伊勢神宮の八咫鏡は明治天皇が天覧した後、内宮の奥深くに

奉置されているという。

だから、三笠宮が八咫鏡をご覧になってヘブライ語が

書かれていたなど、真っ赤なウソといえるだろう。


そもそも八咫鏡と言われる物が、「石鏡」だったのか

「金属鏡」だったか不明だともいうが

三種の神器には多くの疑問があり、一度整理して

改めて記述したいと考えている。


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