不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  輝く女性達を閉じ込めてはいけない 

私は「源氏物語」をどうこう言うほど読み込んでもいない

千年前にこのような内容の「長編小説」が書かれた事に

正直驚いている。

知識と言う「引き出し」を数多く、持っていないと物語など

書けないだろうし、内容が粗末になって評価もされないだろう

途方も無い空想力があるか、それ相応の経験が有るか

紫式部と言う女性はその両方を兼ね備えていたようにも感じる

幼くして母親を亡くし、父親に育てられ、「男の子だったら」と

父に言わしめたあふれる才能・教養

29歳と言う当時としては晩婚でもあり、歳の離れた夫とは恋愛という

ものは成立しなかったのか

夫が死んで翌年に物語りは書き始められている

「夢見る女性」の素質は十分であり、その夢が文字になり物語りへと

変化していったのが「源氏物語」なのかもしれない


紫式部と清少納言は何かにつけ比較される

大きな理由は、当時「男専用の学問」であった漢詩・漢文の

素養を二人ともに備えていたからである

宮中に出仕する女性は高い教養を持つ「エリート女性」である

ところが「漢学」を身に着けた女性は稀であり

紫式部と清少納言は最初から他の女性たちとはレベルが違った

家柄も良く「選びぬかれた女性」が後宮サロンを形成していた

そんな中、高い教養に漢学の素養まで持って乗り込めば

女性達から反感を買うのはあきらかっだったのである。


紫式部も清少納言も「いじめ」と「引き篭もり」の共通点がある

中宮の教育係、漢学の素養があり、いじめを受けていて

引き篭もりをし、中宮に信頼され、後世に傑作を残したのである


この時代から少し後には、女性の教養が霞んでしまう

武士という「男性社会」と「嫁入り婚」の制度が女性達を

「家」という檻の中に閉じ込めてしまったからかもしれない

女性とは本来「前向き」な生き物という話を聞いた

「忘れる動物」は女性なのだそうだ

だから「出産」という難事の苦痛をも忘れ

第二子・三子と産むことができるという

一方、男は過去に縋り、後ろを振り返る生き物

**会社の部長だった、重役だったと過去を引きずり

老後の社会に溶け込めない男性が多いという

ひたすら前を見続ける女性

振り返ることで足を止める男性

世間が言う以上に、女性は強く逞しいのである。




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◎  運命の婿選びと父の思い 

藤原道長という人物、評価の分かれるところがある

単なる「幸運」に恵まれただけではないという説も有る

私は「運」も才能のひとつだと思っている。

なぜなら、「たら・れば」を言い出せばキリがない話



「運」が良い、「運」が悪いというのは結果論

運という解釈も結果の「おまけ」なのである。

偶々(たまたま)とか、偶然と言う言葉すら

基準の曖昧(あいまい)な解釈だと思っている。

事の結果は、須らく(すべからく)「必然」なのである。


さて、貴族達は道長を婿にと望むものが多数居たという

まだ官位も低い時代、兄達も健在のときである。

そんな誘いを断って道長が妻と望む基準があった

それは「天皇家の血を引く女性」

そして彼が望んだ相手は、左大臣・源雅信の娘・倫子だった

雅信(まさざね)は宇多天皇を祖父に持ち、臣下に下って皇族

ではないが血統としては申し分が無かった

逆に雅信からすれば、「成り上がりの兼家の末子」である道長

そんな青二才に大事な娘はやるわけにいかない、天皇の后に

というのが本音であった。

ところが、雅信の正妻・穆子(ぼくし)は、十六歳も年下の

一条天皇に嫁ぐことの無理を悟り、道長の将来性にかけた

ときに倫子24歳、道長22歳であった。

これには道長の父・兼家も、倫子の父・雅信も驚いたという。

当時の結婚は女性の母親の意見が何より強い時代であり

さらに穆子の産んだ男子は悉く出家してしまい

倫子への期待は弥が上にも高くなっていたのである。


穆子が道長を婿として選んだことを「たまたま」と考えるか

「先見の明」と考えるかは各々の自由である。

結果として穆子の期待以上に、道長は栄華の道を究めたといえる


双方の父親が「驚いた」背景には、道長の母が受領階級の出自であり

磨けば光る原石とも言えず、申し分のない婿とはほど遠かった

運命は偶然ではなく、あくまでも「必然」と爺は感じているのである。

◎  定子の子・敦康親王 

后の宮・定子と一条天皇の第一皇子敦康親王(あつやす しんのう)

は2歳で母親・定子を亡くす

その後定子の妹・御匣殿に養育されるが、御匣殿もほどなく亡くなる

その後、敦康親王を養育したのが中宮・彰子である

彰子は定子の子である敦康親王を愛情を持って育てたという

藤原道長は彰子に未だ子供が産まれていないことを考え

「保険」として敦康親王を支えていたようである。

ところが1008年、彰子は第二皇子・敦成親王を産む

道長の敦康親王に対する態度も変わってゆくことになる

本来ならば、皇后の産んだ第一皇子が皇太子となり

皇位を継承するのが当然のはずだが

【 天武朝以降で后の長子が立太子出来なかったのは

  敦康親王だけである】

外祖父の藤原道隆はすでに他界し

母親の定子もこの世に無く

伯父の伊周も亡くなっている状況だ

後見する力が望めない弱い政治基盤では立太子は望めない

一条天皇の願いは公卿達には届かず、敦成親王が立太子される


このとき敦成親王の立太子に一番反対したのが

敦成親王の生母である中宮・彰子だったのである。

自分が産んだ子が立太子されれば、ふつうは喜ぶはず

父・道長を憎んだとも言われるほど定子の子・敦康親王

をわが子以上に可愛がっていたということなのである。


◎  平安の雅の実体 


源氏物語が書かれた時代

宮中は「無防備」に近い状態だった

検非違使はあっても形骸化し有名無実の状態

1008年の大晦日に中宮・彰子の御在所に

強盗(引剥)が押し入ったという

さしづめ、現在の皇居に強盗が押し入ったという事になる

粗暴な振る舞いや粗野な人間を忌み嫌う風潮が

雅な世界観であり、不浄な者が視界に入ることも嫌った

その対象が「人でなし」であり、穢れに通じることでもある

「人でなし」は虫けらのように殺めても意に介せず

相応の人間の死には「祟り」の恐怖を覚える

生まれ持って「ひとでなし」にたいする感情は皆無であり

言葉の上での区別ではなく、生活空間に「ひとでなし」は存在せず

風流を愛でる「虫の声」にも及ばない生き物・・・

それが「ひとでなし」の真実の姿である。

額に汗することへの嫌悪が常態化し

搾取することで贅をむさぼりながら、築き上げたのが「雅な世界」なのだ


どこか現在の「非武装中立」に通じるところが有るような・・・

「霞ヶ関の官僚」と「平安公卿」が重なって見えるのは

自分が「選ばれし者」という、大きなかん違いと自惚れの仕業か

出世双六のために、人命軽視されたのでは、たまったものではない

現代の「ヒトデナシ」はそう思うのだが・・・・・・。


源氏物語は紫式部が夫を亡くして一年後に書き始めたとされる

現実の世界から逃避した空想の世界に

紫式部は己の居場所を求めたように思える

その物語の中に「一条天皇」と「中宮・定子」を映しこんだ

あるいは二人のかかわりに思うことがあってモデルとしたか

素人の爺には知ることは出来ないが

「恋愛小説」でもあり、「時代小説」でもあり

大人の好む「読み物」であったことは間違いないだろう。



◎  紫式部の出仕と引き篭もり 

絶大な権力を持った藤原道長であるが

ただ一人、頭が上がらなかったのが妻・倫子だったらしい

王族・左大臣源雅信の娘であり血筋から言えば最高である

さらに土御門邸などの莫大な財産も倫子を娶ることにより

自動的に道長のものになった経緯が有る

土地付き、家付き、財産付きのお嬢様なのだ

道長の幸運のきっかけは「倫子」を妻にしたこと

倫子が彰子を産み、一条帝の中宮となり、敦成親王が産まれ

外祖父として栄耀栄華の頂点に立てたのも倫子に起因する

本人の倫子も自負していたことだろう

それゆえ道長の軽率な言葉に、時として倫子は不機嫌を

あからさまに表現・主張し、道長が機嫌を取る場面もあったらしい

たんなる夫婦というより、望月を成した戦友・同志と言っても良い

この当時は「玉の輿」は男性に適用される言葉だったかもしれない。


さて「源氏物語」は紫式部が「彰子」のもとに出仕する三年ほど前に

書き始められていた。

紙が高価な時代、次から次へと書き続けることなど至難である

出仕開始後すぐに式部は半年間「自宅に引き篭もり」をする。

理由は「源氏物語」を執筆するような高慢なインテリであり

近づきがたい、気難しい、他人に厳しいなどというイメージで

彰子後宮の女房たちから見られた事だという。

出仕後、誰にも声すらかけてもらえなかった紫式部だった

式部は他の女房達とは違い、実家が「受領」(地方役人)で

雅な世界など知る由も無い

勇気を奮ってほんの少しだけ言葉を交わした女房に手紙を書いた

「親しくして欲しい」と願ったが、肩透かしの返事に絶望し

引き篭もりするようになってしまった。

端午の節句の頃、一人の女房の訪問から再出仕するようになる

とにかく家柄の良いお嬢様たちが相手である。

紫式部は権力風を吹かす女房には近づかず

「ぼけ」演技で無能を装って無難にやり過ごした。

「能ある鷹は爪を隠す」と言えようか・・・。

これが女房達に効き目があったから面白い

気難しいとばかり思っていたのが、意外とおっとりしていて

別人かと・・・・と女房達は感じた。

やがて女房達だけでなく彰子にも認められるようになるのである。

◎  自分を中心にまわる世の中 

この世をば我が世とぞ思ふ望月の

   欠けたることもなしと思へば


私は和歌にほとんど知識が無い朴念仁だ

この歌がどのような「作品」なのか推測すらできない

藤原実資は「こんな自慢げなへたくそな歌に付き合えるか」

と心の中で思ったとか・・・

そもそもこの歌、今では誰でも知っているが

道長自身の日記・記述には遺されていない

藤原実資が書いた「小右記(しょうゆうき)」の中に

記載されていたことで広く知られるようになったという


宴会がたけなわになった頃、道長は実資に問いかけた

「これから歌を詠もうと思う、返歌してくれますかな」

「やや自慢げな歌ではあるが、即興なので・・・・」

と前置きして詠んだのが、この世をば・・・である。

実資は、「あまりにも優美な歌なので私にはとても

 返歌などできません、そのかわり皆でこの歌を

 吟詠しましょう」と答えたという。

天皇に譲位を迫るほどの権力者である藤原道長

「へたくそ」ともいえず、気の利いた返歌などしようものなら

どんな嫌がらせが降りかかるか・・・。

さすが学識者の実資、見事な対応といえる 


実資は唐の詩人「元稹(げんしん)」が作った詩に感嘆した

「白楽天」が応えられず元稹の詩を吟詠した故事にならった

と言われているが、その場に居た誰も知らなかったようである。

実資と言う人物、血統は文句なしのサラブレッドであり

有職故実に秀でた学識者であるが、和歌の才はからっきしだった

道長が実資を指名したのも頷ける逸話である。



* 平安時代では虫の呼び名も現在とは違っていた

 「松虫」と「鈴虫」は現在の逆であった。

 「キリギリス」は現在の「コオロギ」

 「キリギリス」のの当時の呼び名は「機織り」

◎  平安の結婚事情 

平安の時代、帝(天皇)が一人の女性だけを愛することは

許されない時代だったという

大きな理由がいくつかある

まず女性達は上流貴族の娘である

その女性の背後には貴族の経済力が控えている

天皇の権威を形作っているものは「皇統の血」だけではない

諸々に関わる「財力」の裏づけが不可欠であるのだ

貴族達を上手にあしらって、味方につけることが要求された

反発を受ければ「退位」すら強要される時代

有力公卿を「身内」にするかどうかは大事なこと

さらに「跡継ぎ」の問題である

一人の女性に偏ると、親王の誕生という大きな課題が出る

皇統の安定は至上命題であり、後継子の誕生はより確実な

方策を採らざる得ない

それが「後宮制度」であり、複数の女御の存在理由である

これは倫理観・男女の貞節の枠を超えたことなのだ

人もいろいろである・・・・

同時に沢山の女性と情を通じたい男性も居れば

ただひたすらに一人の女性を愛したい男性も居る

66代 一条天皇という人は、後者に含まれる男性だった

一条帝が天皇でなかったら

定子の父が存命で実家が隆盛だったら

藤原の権力が大きくなかったら

「たら」「れば」を言っても詮無い話であるが・・・

一条天皇は定子だけを愛した天皇であった

実家が没落しても、絶望して出家してもである。

道長の娘・彰子が中宮になっても関心を示さなかった

その時の藤原道長の危機感は尋常でなかったかもしれない


我々は「結果」を知っている

もし、中宮・彰子が親王を産まなかったら

もし彰子が懐妊する前に道長が亡くなっていたら

一条天皇の時代はちょっぴり変わっていたかも・・・


この時代は聞いたことの有る名前がたくさん出てくる

藤原公任(四条大納言)

 滝の音はたえて 久しくなりぬれど名こそながれてなほきこえけれ

 百人一首でも知られる歌人・公卿

清少納言

 枕草子の作者、随筆作家・歌人

 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

 百人一首に残る清少納言の歌

紫式部

 源氏物語の作者と考えられている作家・歌人

 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
 百人一首に残る紫式部の歌

和泉式部

 和泉式部日記の作者・歌人

 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
 百人一首に残る歌

このように多彩な人物が同時期に

栄華盛衰を経験した時代でもあったのである  

   (つづく)

◎  「台風一過」のあとに・・・ 


江戸時代なら「野分一過(のわきいっか)」というところか

台風の直撃も久しぶりだし、大雨も何年ぶりか・・・。


台風上陸と聞き「今日は休み」と思った矢先

元請から「予定通り」の連絡

暴風雨の最中に仕事することに

数十秒で下着まで「ずぶぬれ」になる最高の天気(笑)

おかげで体調を崩し、休みたいけど休めない状態である

明日一日無事努めれば休みが取れる

来週は時期はずれの夏休みが待っている

更新は明日以降という事で・・・・・

早めに床に着きたいと思います

おやすみなさい

◎  彰子後宮と紫式部 


紫式部

これもまた通称である

宮仕えの名は「藤式部(とうしきぶ)」だったと言う

歌人の血統を受け継ぎ、父は歌人で漢学で身を立てようとした

ほどの人だった

その影響で女性ながら「漢詩・漢文」に明るかったと言う

その才能もあって、中宮・彰子の女御兼家庭教師として

後宮に出仕したと言われる

「源氏物語」の作者と言われているが、「源氏物語」に

署名など無かったようである

「紫式部日記」の記述から、物語は式部の作ということに

なっている

おそらく紫式部の書いたものに間違いないとは思うが

原本が存在しないのであくまでも「通説」という。

ここでも、「資料至上主義」の顔を覗かせる。


「枕草子」が随筆集なのに対し、「源氏物語」は架空の

もの語りであり、現存写本54帖であるが、60帖だったと

いう説もある。

そもそも、この「源氏物語」は中宮・彰子のために書かれた

娯楽目的だったようである。

それを読んだ彰子等の感想や意見・希望などによって、紫式部

がストーリーを構成して書きつなげていったらしい

それを一条天皇も読んでいたらしく、「この作者は日本書紀を

読み込んでいるようだ」と洩らし、紫式部の漢文の素養を褒めたと

言われている。

この「源氏物語」を藤原道長も偶然眼にして、道長も熱心な愛読者

になったようである。

「紫式部日記」には道長との話が書かれており、道長の妾だったと

いう話も有りうるという事だ・・・。

少なくとも紙を大量に供給してくれる人間など限られるわけで

「道長パトロン説」は間違いないような気がする。


皇后宮・定子の後宮サロンが「陽」ならば

中宮・彰子の後宮サロンは「陰」といえる

紫式部日記を見る限り、おとなしく控えめで明るさに欠ける

彰子後宮だったようだ

定子後宮は辛いことや嫌なことが多かっただけに、明るく振舞おう

という気持ちが強く、自然と明るい雰囲気つくりに努めたようである。


紫式部が書いたとされる「源氏物語」は読み物であり

「紫式部日記」は彰子後宮を書いた随筆集といっても良い

あきらかに「枕草子」を意識したもので、今の時代の考える

日記とは趣の違う作品で「生活日記」の枠から飛び出している

清少納言という越えなければならない先達を意識していることは

所々に見えるのである。

◎  摂政・関白・母后・天皇 


平安の時代 天皇が譲位して上皇となると

内裏から出て宮城外の緒院に住み戻ることはない

ところが天皇の生母・皇太后はそのまま内裏に留まり

天皇の傍で「政」にも関わっていく

これを「母后」(ぼこう、ははきさき)という。

天皇が幼ければ後見として、成人すれば相談役として

摂政・関白とともに「政(まつりごと)」に深く関わった

その背景にあるのは、「母后」が摂関の娘という関係による

内裏の実権を特定の人間(藤原氏)が牛耳ることを目的とした

結果、築かれた形式なのである。


天皇にならなかった藤原摂関家

日本以外なら確実に藤原氏が天皇家に代わり新しい王家を樹立

していただろう。

それほど天皇の存在は形骸化し、藤原一族の力が大きかった時代だ

なぜそうしなかったのか?

天皇家に寄生する一族のままだったのか 諸説有るが・・・

このことが「天皇家」が現在に至るまで存続しえた理由かもしれない

藤原氏が目指したものは、あくまでも「国政の実権」であり

「皇位」そのものではなかったことになる

藤原の天皇が続く限り、藤原の権勢はゆるがない

神輿に担がれるより、神輿を操る立場を選んだか・・・

以前にも書いたが藤原道長という人物

「棚から牡丹餅」で頂点に立った「運の良い人」なんかじゃない

道長は「実に不遜で傲慢でいやみな男」だったといわれる

天皇のおじいちゃんという立場は、摂政・関白という名の

皇族と同様の扱い「準皇族」という意識から生まれたものか

何時の世も「大きな間違いとかん違い」は起きるのである。


権力を独り占めすると、周りの人間が「小言」「注意」を

しなくなる

と言うより、出来なくなるのだろう

それがエスカレートすれば、晩年の織田信長であり

晩年の豊臣秀吉、徳川綱吉だったりするわけで

独国のヒトラーもオウムの麻原も北の金正雲もまたしかり・・・

だれかが何かを言ってくれる間は修正する可能性はあるが

一たび口を閉ざせば、「人命軽視」という最悪のシナリオに

突き進むことになる。

邪魔だから排除する、逆らうと排除する・・・

気づけば回りは「イエスマン」しか残ってない

不満があっても生きるため、権力者を遠巻きに観ているだけ

平安の宮中とはそういう所だったのだろう。

◎  平安文化の開花 「枕草子」 


中宮・定子といえば、清少納言と誰しも答えると思う

清少納言は定子に仕えた「女御」の一人である。

今でも「紫式部」と「清少納言」の比較などが話題になる

実際は清少納言が宮中を離れた後、紫式部が出仕しているから

面識はないと思える。


清少納言とは実名ではない、実名は不明なのである

千年も前に「枕草子」という作品を残した女流作家でもある

清少納言の実名が残されなかったこと

この時代の女性の立場(宮中での)の格差が激しかった事の

表れだろうか・・・。

清少納言の「清」は父方の「清原」からとったものとも言う

清少納言は定子によってつけられた呼び名という説も有る


清少納言の父は「清原元輔」、三十六歌仙にも選ばれる歌人で

従五位上 肥後守として任地で没した地方官僚でもあった

出仕したとき「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって

許されたという逸話がある。

「枕草子」はどうしてこの題名なのか・・・・

枕草子によれば、伊周が天皇と定子に「紙」を献上したと言う

今と違い「紙」は高価で貴重なもの、値段も尋常ではなかった

そんな高価な貰い物をして定子は清少納言に相談する

 「帝は『史記』という漢詩を写している」と告げ

自分は何を書けばよいか尋ねたときに清少納言は

 「なら『枕』でございましょう」と答えたと言う

定子は「ではお前が受け取りなさい」と言って貰ったのが

枕草子の執筆のきっかけであった

命名の由来は諸説あるが、清少納言に聞かないとわからない

ただ、枕詞(まくらことば)のなかの

 『しきたへの』からとった「しゃれ」という説も有る


清少納言は「いじめ」にあっていたという話が有る

定子後宮の仲間から・・・・

定子が宮中を出て、「小二条殿」に住んでいたときには

出仕せず「引き篭もり」だったという

いじめの原因は、清少納言が「道長」のファンだったこと

道長の周りの貴族たちとも親交があったこと

定子後宮の女御たちから見れば、定子にとって「敵」である

藤原道長サイドの人間と親交が有る清少納言は浮き上がっていた

彼女にとって「定子後宮」という宮廷サロンを楽しんでいただけ

清少納言には政治すら眼中には無かったのだろう


清少納言は定子が亡くなった後、宮廷勤めを辞めて夫の赴任地の

攝津で暮らしたと言う(夫は摂津守藤原棟世)



春は、あけぼの。 ようよう白く・・・・

春といえば「桜」「梅」「新緑」という発想の爺には

およそ理解できない清少納言の表現力と偉才であることの

証明が『枕草子』という作品なのかもしれない。


◎  母の思い 父の思い 祖母の思い 


形式とはいえ「出家」した定子

不幸は続いていく

母親・貴子が亡くなったのである。

身を隠していた兄・伊周が上京し定子のもとに

隠れていたところを密告され眼の前で捕縛される。

一条天皇の子を身ごもっていた定子は予定日を過ぎても

出産せず、二ヶ月遅れで出産したという。

脩子と名付けられた


天皇待望の子供を、出家した母が産んだ・・・・

一条天皇は勅をだし、絹や綿を贈っている

正式なわが子として養う姿勢を世に示した事でもある。

だが、直接会うことは叶わなかった。

道長をはじめ公卿に遠慮したのかもしれない


そんな中、一条天皇の母・詮子が生後50日目の脩子

を自らのもとに呼んだのである。

詮子は自らの手で脩子の口に餅を含ませてやった

長寿を願う儀式だという

たとえ、尼の嫁から産まれたとしても、脩子は

詮子にとって「初孫」にかわりはないのである。

息子・一条天皇の子が憎かろうはずも無い

それが母親の情であり、祖母の情であったろうか。

しかし、「脩子に会いたい」と漏らす一条天皇を見ても

詮子にもどうすることも出来なかったようである


詮子はこの頃「長患い」に苦しんでいた時期で

これが大きなきっかけになってくる。

天皇は回復を祈って「恩赦」を出すことにした

その中に定子の兄・伊周、弟・隆家の赦免が議論された

結果は恩赦の対象になり、実家は「罪人の家」ではなくなった


当然、自らの意思で勝手に「出家」してしまった嫁・定子

その尼の嫁が産んだ「孫」を認めないとでも考えていたか

詮子の脩子にたいする扱いを観て、一条天皇はある決断をする

詮子や道長、公卿などに気遣いながらも

定子との復縁という荒業を一人で決断したのである。


別離から一年後、脩子の付き添いとして参内した定子

親子の対面はどうだったのか・・


一条天皇はかねてからの計画を実行に移す

天皇自身は母・詮子の見舞いに出かけ

その間に定子を「職御曹司」に移し、そのまま住まわせて

しまったのである。

出家した中宮との復縁を公卿達から問題視されることを覚悟の

天皇の定子に対する「愛情」の表現だったのであろう。



◎  落ちる月一条天皇皇后・藤原定子 


定子が出家したことには理由が有る

父が亡くなるとそれまで「ちやほや」していた回りの

人間が手のひらを返すようになったこと。

住んでいた「二条北宮」を検非違使の下級役人が

隆家を探すときに破壊したこと。

眼の前で弟が捕縛され連行されたこと。

そして・・・絶望した定子は衝動的に「髪を切った」

平安時代でなければ、定子は自殺しただろう。

それほど精神的に追い込まれていた

さらに彼女は身籠っていたのだからなおのことだ

平安時代には自殺と言う文化は無い

「出家」とは、「心の自殺」なのである。

わずらわしい「権力」「陰謀」「妬み」などから

自己を抹殺してしまうことが「出家」という形だと

考えている。


関白・藤原道隆の娘で、一条天皇の后になり

親王まで産んだ女性にしては、波乱万丈の人生だ

彼女が何かしたわけではない

時代と住む世界が特殊だっただけ・・・

藤原の娘でありながら、藤原によって奈落に落とされた

皇后宮・藤原定子

「禍福は糾える縄の如し」というには

あまりに不憫な短い一生である・・・・。

◎  満ちる月と一条天皇 


986年 円融天皇の出家により、懐仁(やすひと)親王が

即位する 第66代 一条天皇である。

御歳 8歳 の幼帝である。

はじめは外祖父の藤原兼家が摂政となったが

兼家の死後、その子道隆・道兼が摂政・関白となる。

その後道隆・道兼が病没し、道長が実権を握って行く。

藤原道長は

『この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたる

    ことも無しと思へば』

の和歌で有名である。

道長という人物、予想外の人生を送ったといえる。

能力とか人柄とかを言う前に、そもそも道長は

出世するはずではなかった

藤原兼家の五男に生まれ、およそ出世とは縁の無い

立場であった。

父・兼家も右大臣藤原師輔の三男であり、長兄・伊尹や

次兄・兼通がいて嫡流ではなかった

ところが兼家の娘・詮子が一条天皇を産んだことから

一躍権力の座に就いた

それでも五男の道長に順番など巡って来るはずもなかった

ところが兄達の病死により、道長が右大臣にまで上ることが

できたのである。

一条天皇が産まれたこと

兄達が病死したこと

一条天皇の母・詮子が道長の姉であったこと

その詮子に可愛がられていたこと

道長の栄華は偶然から起きた歴史ドラマのようなのである。


もう一つ忘れてならないのは、中宮・定子と中宮・彰子

そして紫式部と清少納言の宮廷文学をからめた人間模様

そして平安文化の円熟期に向かっていくのである。


中宮・定子(ていし)

父は兼家の長子・道隆、彰子とは従姉妹の関係になる。

15歳で一条天皇の中宮として入内する

天皇の寵愛を一身に受けるが、彰子が入内し中宮になると

皇后宮という名称に変わる。

本来、皇后も中宮も同じ意味を持ち、同時期に一人の天皇

に二人の后が並立する異常事態になった。

道長が権力を後々まで維持する為に、無理やり彰子を

中宮に押し込んだ故の不可解な二人皇后である。

定子の父・道隆が病没すると、定子の後ろ盾が弱くなり

追い討ちをかけるように、兄・伊周(これちか)と弟・隆家が

花山法皇に矢を射掛ける事件が起きる。

女性を巡るかん違いから、威嚇のつもりの矢が法皇の袖を

貫いたというもの

道長と伊周は会議の席上で激しい口論をしたり

隆家の家来と道長の家来が乱闘騒ぎを起こす関係であった

このときとばかり、道長は二人を流罪にしてしまう。

完全に後ろ盾(実家の援助)をなくした定子は996年

突然出家してしまう。

だが天皇の定子に対する思いは変わらず、翌年兄達が赦されると

天皇は再び定子を入内させる。


翌年、定子は敦康親王を産むが、親王は第一皇子でありながら

皇位どころか皇太子にすらなれなかったのである。

皇后が産んだ第一皇子が皇太子になれなかったのは異例で

母方の後ろ盾がいかに重要かを物語っている話である。

ちなみに親王は20歳で病により没したという。

皇后・定子は1000年 三人目の子・媄子内親王を産んだ直後崩御した。


定子が崩御に臨んで書き遺した歌・・・・

「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」



            つづく

◎  平安絵巻への序章の時代 

952年 朱雀天皇は同母弟の成明(なりあきら)親王に譲位した

第62代 村上天皇(天暦帝)である。

村上天皇は後宮に九人の女御・更衣を入れ、そのほかにも多くの女性と

の艶聞が残る。

親王・内親王は19人と多く、先帝・朱雀天皇は内親王だけで

後継に恵まれなかったのとは対照的である。

この時代朝廷の歳入も少なく、宮中の窮乏が伝えられている。


967年 村上天皇 崩御

皇太子・憲平親王が即位する

第63代 冷泉(れいぜい)天皇である。


この時代の皇太子選びには、約束となっている藤原の後ろ盾

がない親王は悉く藤原の妨害にあい、涙を呑んでいる。

すんなり、立太子されたならば母が藤原か、后が藤原の娘か

どちらかしかあり得ないそんな時代である。


そして、冷泉天皇の母も女御も「藤原」の娘であり

その女御というのが藤原道長の妹・超子(ちょうし)である。

この冷泉帝は容姿は美しいが奇行が目立つ人だったらしく

何度も廃太子の話が出たが、後継候補が「源氏」の娘が后だった

そのために権力を源氏に奪われたくない藤原が話を潰してしまった。

いつの時代も対立候補を潰すのは十八番の藤原である。

冷泉天皇は二年後に譲位する

969年に弟である皇太子・守平(もりひら)親王が即位した

第64代 円融(えんゆう)天皇である

この天皇は藤原のわがままに悩み続けた天皇であった

藤原兼家の娘との間に懐仁親王(やすひと)が産まれたが

藤原頼忠(よりただ)の娘・遵子(じゅんし)を后にした。

そもそも天皇は兼家を嫌っていて、その思いも働いたのか

ところがそれに激怒した兼家は参内しなくなり、娘も親王も

自宅に呼び寄せ、天皇に合わせなくなってしまった。

まるで、「駄々っ子」のような話ではあるが、事実である。

困り果てた天皇は譲位をすることになる。


984年 冷泉天皇の第一皇子である師貞(もろさだ)親王

が即位した

第65代 花山(かざん)天皇である。

この天皇、立太子したのが生後10ヶ月、外祖父が摂政だった

藤原伊尹(これただ)と言う理由でのもの

即位するときには伊尹はすでに亡くなり、後ろ盾の居ない天皇

という微妙な立場にいたことになる

察しが良い方は「ネタばれ」状態かもしれないが・・・・


藤原兼家にとって、孫である懐仁親王の即位を望むばかり

花山天皇は邪魔でしかなかったのかもしれない

ある日突然花山天皇は出家してしまう

父・冷泉天皇同様、奇行が目立つ天皇だったとも言うが

出家の裏に兼家の策謀があったことは疑いの余地は無い

花山天皇は「色好み」の天皇でも有名である

即位の日に、帳を上げ下げする女官をいきなり引き入れて

交わったことなども伝えられている。


そして・・・・・

いよいよ、懐仁親王の登場である

第66代 一条天皇である

これからの時代は、源氏物語・枕草子をはじめ

宮廷文学と大きくかかわる平安貴族と女性達の絵巻物

それに絡みつく権力者たちの長い長い時代に踏み込んで

参りたいと思っております。

◎  承平の将門と首塚 

930年 九月 醍醐天皇は病の為譲位した

皇太子・寛明(ゆたあきら)親王 御歳8歳

第61代 朱雀天皇(すざくてんのう)である。


未だ「道真の祟り」の最中であった為

外出もせず、母の腕の中で暮らしていたといい

「温室育ち」の見本ともいえる幼き天子だった

性格は温順であり、政務は時平が執り行ったという。

この時代の出来事といえば、「承平の乱」であろう。


935年東北で「平将門(たいらのまさかど)」が起こした

騒乱・平将門の乱と言われるものである。

この事件もそれぞれの立場によって、「将門」の評価は違う

粗暴であったとか、親類によってイジメにあっていたとか

理と義に篤い人物だったとか、評価は様々である。

現在伝えられている史実と言うモノも、結局は「勝者の言い分」

が主になっていると思えば間違いなさそうである。


ではなぜ私達が「将門」の名前を記憶しているのか

我々の年代なら、戦後の「平将門の祟り」の話を一度は

聞いたことが有るからだろう。

伝説によると、藤原秀郷(俵藤太たわらのとうた)に射殺され

俵藤太はその首を京に持ち帰り、「さらし首」にしたという

その首を縁者が持ち去り、今の東京大手町のあたりまで来て

埋めたという。(その地が現在の「将門塚」である)

その塚の隣にあった荒れ果てた社を、1307年に建て直したのが

最初の「神田明神」である。

江戸時代になり城の近くに神社があっては家臣の屋敷が建てられない

と言う理由で、現在の地に「神田明神」が移転させられた

ところが、「首塚」だけはそのままにされ、屋敷の中に存続していた

時は移り、明治時代には大蔵省の敷地の中に「首塚」があり池・古井戸

手水鉢なども残っていたという。

大正12年、関東大震災によって、大蔵省の建物は焼失

首塚も壊れてしまった。

復興に際し塚の調査が行われ、地中から「石棺」が出てきた

中は盗掘された跡らしく何も残ってはいなかったらしい

塚は埋めて平らにならし庁舎を建ててしまった。

ここから「祟り」が始まるのである・・・・

大蔵大臣が病で亡くなり、管財局課長以下十数人が亡くなる。

さらに政務次官ほか多数の人間が庁舎の廊下などで転び怪我をする


「これは塚を破壊した 祟りである」


噂が広まり、仮庁舎を撤去して、新しく「首塚」を立て直したという

そして戦後、昭和20年進駐軍はこのあたりを駐車場にしようと

ブルドーザーで地面をならそうとしたとき墓のようなものの前で

運転手が転落し死亡する事故が起きた。

そのために塚は現在もその場所に保存されている。

それ以降、この塚に纏わるエピソードも多くなり

近辺のビジネスマンの畏敬の対象になったという。

フィリピンで誘拐された「若王子さん」もここに祈っていたという。


神田明神とは「平将門」のことであり、関東で最も古い「怨霊神」で

あることは否定できないのである。

庶民から篤い信仰をうけているのは紛れも無く「怨霊神」であり

太宰府天満宮や神田明神は祟り神を祀っているのである。

◎  菅原道真の祟り 

菅原道真

誰もが知っている「学問の神様」

「太宰府天満宮」天神さんでおなじみだ

彼を抜擢したのが宇多天皇である

このとき宇多天皇25歳、道真47歳であったという


先帝の光孝天皇まで、崩御後の称号は生前の聖徳をたたえる

諡号を贈る習わしであったが

宇多天皇はこれを廃し、御在所などの追号が贈られるようになる

ちなみに宇多天皇の「宇多」は譲位後の御在所にちなんでいる。

897年 宇多天皇は譲位し上皇となる

皇位を継いだのは皇太子・敦仁親王(あつぎみしんのう)である

第60代 醍醐天皇(延喜帝)御歳13歳

未だ若い天皇のため、上皇は左大臣に藤原時平を

右大臣に菅原道真を任命して補佐させた。


上皇は出家し、法皇となる

法皇とは上皇が出家した場合の称号で「寛平法皇」と呼ばれた


道真が大宰府に左遷された(流された)ことは知られている

その内容はこういう事であった・・・・

そもそも道真の家は学者の家柄であり、文章博士を代々務め

華々しい家系であった。

宇多天皇に認められるまでは、周囲の妬みをかい、四年の間

「讃岐守」という地方官に左遷されていた

宇多天皇に絶大な信頼をうけ、ついに醍醐天皇の治世で「右大臣」

にまで出世する、さらに妬む者は多かったという。

その筆頭が藤原基経の子・左大臣藤原時平である。

藤原外しの「親政」によって台頭した、菅原道真が疎ましく

藤原氏の「伝家の宝刀」を使うことになる。


901年 道真が醍醐天皇を廃して、天皇の弟・斉世(ときよ)親王

を立てようとしたとして太宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷される

四人の子供達も流罪となり、二年後道真は失意のうちに亡くなった。

これは時平の中傷によるものなのだが、道真の娘が斉世親王に嫁いで

いたことを利用したようである。


そして祟る「道真」が本領を発揮することになる

身に覚えの無い罪で非業の死を遂げた人は「怨霊」となり

天変地異・病気など災いを起こすという


道真の祟りについて

道真死去の後、都では天変地異が起こる

旱魃・飢饉が続く

道真の後釜に座った右大臣・源光が狩りの最中に「底なし沼」に

嵌まり沈んでしまい死体さえ見つからなかった。

内裏で評議中に落雷があり、大納言藤原清貫(きよつら)を直撃する

その後、毎日のように雷鳴が響き渡り 多くの人が恐怖に慄いたという

時平は毎晩、道真の亡霊に悩まされ、病の床で震えていたという

ついに時平が死に、人々は道真のたたりを確信したという。

ところが「道真の祟り」は止まらなかった

天皇后である時平の妹・藤原穏子が死に、その子である皇太子

保明親王も21歳の若さで亡くなる。

その後に皇太子になった時平の娘・仁善子の子慶頼王までも

亡くなってしまう御歳5歳


保明親王の死後、醍醐天皇は道真の右大臣復帰と正二位の追贈

と左遷の証書の破棄をした。

時平の子孫は次男を除いてみんな若死にしたといわれている。



◎  「日本」の初代天皇は誰ですか? 


「日本」の初代天皇はだれか?

神武天皇というのが一般論であり

15代 応神天皇だという通説もある


はじめに断わっておきたいのだが・・・

以前から長屋の爺の自説が有る

とんでもない仮説であり、素人ゆえご容赦願いたい



「日本」の初代天皇は『持統天皇』である



とうとう爺は頭がおかしくなった?

多少はその傾向については否定できないが(笑)





神武天皇は「ヤマト」の初代天皇である(かもしれない)

応神天皇は「倭」の初代天皇である(かもしれない)

持統天皇は「日本」の初代天皇である(断言)


理由は簡単である

天武朝まではこの国の呼び名は「倭」であった

「倭国」の天皇は天武天皇が最後である

西暦689年

 持統天皇はそれまでの国号「倭」を「日本」という国号に改め

翌690年 天皇に即位した。


それゆえ初代天皇は持統天皇であることになってしまう。

あくまでも爺の個人的考えであるから悪しからず・・・。

古代史を考える中で、どうも腑に落ちない事が

「持統天皇初代説」を基準に考えれば、納得できることがあるのだ


古代、何処にでも居たという「アマテラス」

突如、伊勢の地に神殿が建てられ、嘗て無い形式の「両宮」が誕生

なぜか外宮を先に参拝する慣習があり

外宮が男神を祀る形式であるのに、女神を祀っているという

皇祖神が「天照大神」ならば、なぜ歴代天皇は参拝しなかったのか

それほどに皇家にとって大切な祖神ならば、都に置かないのはなぜか

どうして伊勢の地だったのか

神様が望んだからでは理由にならない


まだまだ有るが、これらの事柄が「持統天皇」が初代日本の天皇だと

するならば、それなりの答が導き出せるのである。


このブログを見てくださっている方は「納得」して下さるだろうか


古代、何処にでも居た「アマテラス」とは、太陽神に仕える巫女であり

全国各地には各部族の「太陽神」が居て、巫女もたくさん居たはずだ


何処にでも太陽神の世話をする「神を照らす」役目の巫女が居た・・・

たぶん伊勢の地にはこの地の太陽神が祭られていたのかもしれない

ちいさな祠でしかなかった可能性も有る

この神を退かして、アマテラスを祀ることには抵抗があったのかもしれない


アマテラスが神という名の「持統天皇」の写し身だとしたら・・・


天照大神が皇祖神であるというのは、当時では誰も知らない事実だった

それを持統天皇が皇祖であることの歴史を作るために日本書紀・古事記

という史書という名の「神話物語」を残したと考えている。

正確に言えば、史書の中に持統天皇の「意思」を紛れ込ませて繕ったもの

だから、「天子降臨」ではなく「天孫降臨」なのであり

皇祖・高皇産霊神の逸話に「アマテラス」を登場させたのではないか

「天孫降臨」でなければ、「持統起源説」の事実と異なってしまうから

孫である文武天皇に皇位を渡した事実が「天孫降臨」と同化し

持統天皇が日本の祖神である裏づけが、皇祖・女神説であると思う。

古今東西を見渡しても、太陽神が女神の例は聞いたことが無い

古代の伊勢の地は「鉱物」の産地として特筆すべき地であった

そこをむやみに立ち入らせないようにしたのが神宮なのだ

鉄・水銀などの貴重な鉱物を朝廷が独占するには理由が必要だった

とうぜん地元の豪族や庶民は遠ざけられただろう

それが「河童」「きつね」「鬼」「蜘蛛」と呼ばれた人たちだった


どうして歴代天皇は伊勢に参拝しなかったのか


伊勢に皇祖神が祀られていることなど知らなかったから

かなり飛躍した話に聞こえるが、古事記にしろ世間に出て

注目されたのは相当時代を経てからという

若しくは「天照大神」 = 「持統天皇」という認識があり

皇祖神としての威厳を認めなかったからなのか

伊勢に行かれた方はご存知だろう

五十鈴川を渡って、降りてゆく形になる

祟り神を祀る形式になっているのだ・・・・。

その神とはいったい誰?


都に皇祖神をなぜ置かなかったのか

皇祖神は明らかに別に居た可能性が考えられる

若しくは、はっきりとは伝えられていなかった

初期の「ヤマト」での王位は世襲ではなかったと思っている

日本書紀や古事記に書いてあっても、それが事実とは限らない

ゆるやかな豪族達の合議によって祭り上げられた古代王

世襲であった可能性は低い

「強大な力」をもった「王」が出てくるまでは世襲は無かった

半島の「金一族」を見れば答えは出ているのである。


神を祀る

神に祈る

神を感じる

神に感謝する


それがどんなものであれ、それが誰であろうと

神の前にぬかずく人がいる

神とは見えないもの

神とは観るべきものではなく

神は「感じる」もの

神は「温かく寄り添って」くれるものであり

神とは「全てに対し厳しい」ものである


我が家の「神棚」に居る「天照大神」と

他家の神棚に居る「天照大神」が違っていても

何ら不思議でも何でもないのである・・・。

◎  三顧の礼と阿衡(あこう) 

宇多天皇と摂政・藤原基経の関係は当初

円満に行くように思えた

即位後まもなく天皇は、摂政・太政大臣である基経に

関白任命の発令を行った。

慣例によって天皇は「三顧の礼」をもって就任を求め

相手は「三譲の礼」を尽くすことになっていた。

つまり才能のある人物を得るために、地位の高い人物が

何回も訪問し礼を 尽くして迎え入れることを「三顧の礼」

という。

三譲の礼とは、勧められても三度は辞退し、三度は譲る心がけ

をいう三辞三譲から引用したものか?

三顧の礼というのは三国志の「劉備」が「諸葛亮孔明」を軍師として

招くために三度も「諸葛亮」邸を訪れた故事によるもの


天皇の一度目の就任要請に対し即座に辞退した基経だったが

二度目の要請の文章の解釈の問題で話がこじれてしまった。

『宜しく阿衡(あこう)の任を以て卿が任と為すべし』

この「阿衡」という言葉の解釈に「臍を曲げて」しまった

阿衡という地位は司るべき職掌が無い、いわば名誉職だという

解釈をし、出仕を拒む事態となってしまった。

朝廷の有識者は口を揃えて「阿衡に職掌なし」と回答したから大変だ

八ヵ月後ついに天皇は詔を出し、撤回するのだが基経は応じず

長期化してしまった。

早い話、これは言葉の揚げ足をとった基経の策略である。

そもそも新しい官職の「関白」に絶大な権限を持たせる為に

あえて天皇と反目し、権限を確かなものとして認めさせた

留まることを知らない「藤原の権力欲」である。


そんなことがあって、基経が亡くなった後は摂政、関白を置かず

親政を推し進めたという


余話

羅城門(らじょうもん)

羅生門と混同している人が多い(実は私も・・・)

羅生門と書くのは間違いである。


羅城門は平安京の南端にあった総門のこと

平安京の南端といえば聞こえは良いが

早い話「野原」に ”にょっきり” 一つだけ建っている

大きな建造物のことである。

原野に建つ大きな門だったので三度も大風で倒れたという

時とともに荒れ果て、門の上は死体の捨て場所、盗賊の住処

などになっていったという。


ちなみに「羅生門(らしょうもん)」は今昔物語にヒントを得て

芥川龍之介が書いた小説のタイトル「羅生門」のこと

本来の羅城門ではなく羅生門としたところが混同の原因である。

◎  短い帝時代と長い廃帝生活 

さて9歳で即位した幼帝・陽成天皇は元服後には

摂政・基経のいう事も聞かず、ついに基経は辞表を出し

政治の場に出仕しなくなってしまう。

そんなころ陽成天皇は宮中において乳母子を手討ちに

してしまう事件が起こる。

基経は天皇の廃位を決断し実行に移してしまう。

時に天皇17歳であった。

皮肉なもので、陽成天皇(陽成廃帝)は82歳の長寿という。


17歳で廃された陽成帝には皇太子も存在しなかった

基経が白羽の矢を立てたのが、仁明天皇の皇子・時康親王

第58代 光孝天皇(小松帝)である。

御歳55歳の高齢での即位は45歳の桓武天皇を抜き

平安の最高齢で即位した天皇という。

この時康親王は皇太子を経験していない数少ない天皇である。


陽成天皇の母親は「藤原高子」、基経の妹であるが評判が悪い

伊勢物語の在原業平との密通説も書かれるほど素行が悪かった。

「伊勢物語」の記述はフィクションだろうが、それほどに奔放な

女性だったようである。

基経没後、東光寺座主・善祐との密通が露見し、皇太后を廃された。

そのときの年齢55歳という・・・。


基経の信頼篤い光孝天皇だったが、即位から4年後に崩御する

その後継は、降下していた第7皇子・源定省(みなもとのさだみ)

である。

光孝天皇の崩御の時点で親王にもどり、同じ日に立太子し

同じ日に践祚(せんそ)して第59代 宇多天皇(寛平帝)となる。

この即位の陰でも、藤原の意向が大きく影響しているという

後宮を牛耳っていた尚侍(ないしのかみ)基経の妹・淑子の働きである


即位の直後宇多天皇は詔を出し、つぎのように言ったという

「その万機巨細(こさい)、百官己に惣(す)べること、皆太政大臣

 に関り(あずかり)白(もう)して・・・(略)」

これが「関白」の語源とされる。

光孝天皇の時代にはすでに実態としてあったというが言葉として

はこれが初出だという



余話

平安の女性達もお寺に参籠(さんろう)したようである

いわゆる「おこもり」して仏に祈願したということだが

それには面倒ないくつかの準備が必要だったという

* 寺に予約を入れる

* 局を用意する(局とは、仏前に屏風などで区切りをし
  香や手水を用意して礼拝・誦経する場所)

* 願い事を書いた「願文」を用意する

平安貴族にとって、信仰の対象となりえるのは

美しい仏像、光り輝く仏像で無ければならなかった。

醜いものであってはならなかったのだ

究極の美意識と深い信仰は同体だったのである。

◎  やっと平安まで来た爺です 

私は専門家でも学者でもない とうぜんである

このブログを書き始めたときは30数冊程度の書籍文献だった

気づけば私の前には80冊をゆうに越える書籍が並ぶ

毎月5冊~10冊のペースで増え続けている

古代から奈良くらいまでなら文献も「大同小異」の趣で

有る程度のものを押さえておけば何とかなった

ところが「平安時代」は残された記述も多く

適当なところで我慢するわけには行かなくなっている。


本を読むことに没頭すれば、ブログが追いつかない

なんともお恥ずかしい話なのである。

古代史が好きといっても、気に入った出来事・人物に

だけ興味を持って調べて満足していたのが本当のところ


そもそも、古代の神様に大きな関心があり

無謀にもこのブログを始めたのだが

奈良・平安時代に関しては特別な知識も無く

普通の人が学校で学んだことすら知らない爺であり

歳を経てから独学で詰め込んだ我流だ

戦国時代までの期間は空白に近いのが実情である


平安の生活やあれこれを間に挟み、天皇家とその周りの

出来事(歴史)を綴っていこうと決意を新たにしている


素人ゆえ間違い等、かなり多いと思うのだが

幸いにも心優しい訪問者から「お叱り」が無いことに

ホッとしている長屋の爺であります。


前回からさらに参考文献が増えて、著者の方に多大な

迷惑をおかけしていることと思いつつ、感謝の言葉も無い

のであります。


【 参考文献 (2)】


神武東征の謎             関 裕二

天皇を知りたい            三橋 健

古代天皇の誕生            吉村武彦

天皇陵の誕生             外池 昇

日本の女帝の物語           橋本 治

伊勢物語               坂口由美子

古代天皇と前方後円墳の謎       馬場範明
諏訪大社と善光寺の謎

神社・仏閣に隠された古代史の謎    関 裕二

出雲国風土記             荻原千鶴

日本史の迷宮いまだ解けざるミステリー 三浦 竜

古事記の禁忌 天皇の正体       関 裕二

藤原氏の正体             関 裕二

藤原氏千年              朧谷 寿

藤原道長の権力と欲望         倉本一宏

平安期の生活と文学          池田亀鑑

アイヌ語の地名を歩く         小田秀三

枕草子                角川書店

紫式部日記              川村裕子

和泉式部日記             角川書店

平家物語               角川書店

源氏物語               角川書店

全訳古語辞典             三省堂

地名の由来を知る事典         武光 誠


* 以上 敬称略にて記載させていただきました。

 本当にありがとうございました 

 そして深く感謝いたしております。

◎  前期藤原摂関政治の始まり 


平安というと「雅(みやび)」という印象がある

どうしてそう思うのか・・・

これはある天皇と女性たちの影響ではないか


その天皇とは第66代「一条天皇」のこと

女性たちとは、皇后定子・中宮彰子・清少納言・紫式部


間接的では有るが藤原道長もかかわっている

平安文化の主役たちは、千年の時を超えて今尚輝いている

そう言っても過言ではないと思うのである。


俗に「摂政」「関白」と呼ぶが、違いがはっきりしている

天皇が幼少の時は「摂政」と呼び、成人してからは

「関白」と呼ぶ、だが天皇を補佐することに変わりは無い。

藤原氏の場合をみても、摂政 → 関白 → 太政大臣

こういう流れになっている。

しかし藤原摂関政治において、必ずしもこれが厳密に行われ

なかった。

天皇が成人していても、摂政に任じられたり不明確になっていた


清和天皇の御世、872年権力の頂点に居た良房が亡くなる

良房の養子・基経が二ヵ月後、摂政に任命されたのである。

876年 清和天皇は皇太子・貞明親王に譲位した。

第57代 陽成天皇(ようぜいてんのう)である。

陽成天皇も幼くして皇位を受け継いだ「幼帝」で

御歳9歳であった。

当然の如く母親(藤原高子)の兄・基経が摂政として補佐し

4年後、基経は「関白」となり、翌月「太政大臣」になる。


陽成天皇は気性が荒く、奇行・乱行が多かったという。

基経以下群臣を悩ますことが多く再三「譲位」を迫られた

884年、ついに基経は天皇を廃し二条院に遷した。

二条院に遷す際に、基経は「花見の行幸」と偽り連れ出したという。


余話

平安のいい女とは・・・・

美女と言う基準には、女性のスタイルはあまり重要ではなかった

もちろん「顔」の姿かたち(造作)だったようである。

美人の標準とは

* 小柄である

* 色は白いこと

* 鼻は小さいほうが良い

* 顔の形は ふくよか 「しもぶくれ」がよい

* 痩せた女性より、少々太った女性が好まれた

* 目はパッチリより細く糸を引いたくらいがよい

* 口は小さいのがよい

* 手は白く、細かに、少しふとっているのがよい


さしづめ現代のダイエットに夢中の女性は

平安時代ならば、美女の範疇には入らないであろう

個人的な意見を言わせてもらえば、女性は少々「ふくよか」

が世の男性には好感が持たれるということかと・・・

ダイエットをしている女性の多くは、その必要が無いくらい

素敵だと私は感じているのである。

私の周りでも、痩せすぎた女性は評判がよろしくない

ぽっちゃりは女性の最大の魅力であると思って欲しい。




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