不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  太政大臣という官職 


太政大臣・・・大臣経験者で徳行(とっこう)の人を得たとき

に任じる「則闕(そつけつ)の官」のこと、とある。

つまり、道義にかなった行いをした大臣経験者を褒め称え

た名誉職ということである。

笑ってはいけないが・・・徳の高い道義に適った行いをした

則闕とはその人が居なければ困るというような意味である

陰謀をめぐらし、権力の亡者が「徳行の人」なのか?

名誉職といえど、周りの群臣・貴族はたまったものではない

それほど天皇の権威は大きかったのか、又は異を唱えるなり

苦言を呈することも天皇と権力者・藤原の前では不可能だった

という事かもしれない。

しかし、臣下の身分で、太政大臣になったのは、藤原仲麻呂

僧・道鏡の二人しか居ない、良房が三人目ということだが

先の二人は名誉職、具体的に何をする役目と決まっていない

のが実状である。

ところが良房は天皇の政治を補佐する役目である。

名誉職どころか、最高の権限を持った「太政大臣」になった

いや、太政大臣の権威を実体化してしまったのである。

これ以降、太政大臣の肩書きは権力の象徴的な意味を持った

ということになるだろう。


良房が「天下の政を摂行する」(摂政)になったのは

『応天門の変(おうてんもんのへん)』以降のことである。

866年の晩春の夜、平安宮朝堂院の正門である応天門と

左右の楼閣が焼ける騒ぎがあった。

伴善男(とものよしお)が政敵である源信(みなもとのまこと)

を放火犯として追放しようとした(ことになっている)。

ところが、良房の口利きで源信は難を逃れた

その後、伴善男が犯人であるという訴えがあり伴善男等が流罪

になって終結した事件である

三代実録などからも「天災か人災かは知れず」といわれる未解決事件で

あるにもかかわらず伴善男が流罪と言う幕引きに疑問が残るのである。


当然、良房が名門貴族の伴氏(大伴氏)を追放する魂胆が透けて見える

後の源信は宮廷に出仕せず、狩猟に明け暮れて晩年を過ごしたという

藤原にかかわると、自分の身も危ういので政から身を引いたようである。


藤原の陰謀・横暴は一言で言うなら「言いがかり」である

おだやかな「ならず者」の風情である

「火」も「火種」も無いところに、「煙」をモウモウと立ち上げる天才

日本人なら「祟り」が怖ろしくて、そこまでは出来ないだろう

そういう事案でも平気で粛清する「血も涙も無い」悪行の数々だ


日本人の体の中を流れるDNAに祟りに対する畏れというものがある

藤原氏の祟りに対する無反応な所業に不可解さを覚えるのは私だけか・・


余話

味噌 日本の代表的な調味料

本来、みそは末醬と書くべきところ、後世の人が未醬と書きさらに

味醬としたという。

末醬は正倉院文書に、味醬は三代実録にみえる。
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◎  藤原摂関政治の幕開け 


850年 仁明天皇 崩御する

群臣は道康親王に皇位につくよう強く要請した

第55代 文徳天皇(田邑帝)である。

藤原権勢の助力をした天皇である。

文徳天皇には紀名虎(きのなとら)の娘・静子との

間に産まれた惟喬親王(これたかしんのう)がいた

寵愛していて皇太子にとの思いがあった。

ところが藤原良房の娘・明子との間に惟仁親王(これひとしんのう)

が生まれ、あろうことか良房に遠慮して 惟喬親王ではなく

わずか八ヶ月の惟仁親王を皇太子に立てたのである。

857年 天皇は藤原良房を太政大臣に任命し、良房の弟である

良相(よしみ)を右大臣に据えた

これにより藤原権勢はますます盛んになったのである。


惟仁親王が皇太子になった後、他の親王は次々に出家したという

藤原氏のやり方は皆が承知だったようで、覚えの無い冤罪で処断

されることを恐れ、早々と出家して皇位を望んでいない証を見せた

そういう事だろう。


その文徳天皇は突然病気になり崩御した享年32歳であった。


天皇崩御で未だ幼い皇太子惟仁親王が即位した

第56代 清和天皇(せいわてんのう)である

御歳 9歳の幼帝である

当然のことながら、9歳の天皇に政務が勤まるはずも無く

外戚であり太政大臣の良房が摂政として後見することになる。


権力の頂点に立った者はどのようなことでも可能という事であろう

それでもこのとき、左大臣に源信(みなもとのまこと)が大納言に

伴善男(とものよしお)がいて、宮中を牛耳るまでは行っていない。



余話

飯をたくことをカシグといい、炊という字を使う

飯には「強飯(こわいい)」と「糄?(ひめいい)」の二種があり

強飯は白こわめしで、小豆を入れたものが現在の「おこわ」である。

糄?は水を多くして米を煮たもの、現在の「めし」はこれである。

「ひめいい」を干したものを水に漬け軟らかくしたものを「水飯(すいはん)」

といい、熱い湯で漬けて軟らかくしたものを「湯漬け」という。

太りすぎの貴族などが医師から言われ食したという。

平安時代のダイエット食だったようである。

◎  藤原の再起と陰謀 

823年嵯峨天皇は弟の大伴親王に譲位した

第53代 淳和天皇(じゅんなてんのう)である

このとき嵯峨天皇はまだ37歳という若さであった


淳和天皇は質素倹約に努めたといい

この時代は政治も安定した時代だったようである

淳和天皇は桓武天皇の孫・高棟王(たかむねおう)に

「平朝臣」の姓を賜り、臣籍に降下した

これが「桓武平氏」の流れになったのである。


淳和天皇にはたくさんの皇子がいたが、嵯峨天皇の

皇子である正良親王(まさらしんのう)を皇太子にした。

嵯峨天皇が自分の皇子でなく、弟の自分を皇太子に立て

皇位を譲ってくれたことへの恩返しだったのだろう。

藤原氏が暗躍しなければ、皇位継承はこのように

定められたかの如く、粛々と継いで行かれたのである。


833年淳和天皇は皇位を皇太子である正良親王に譲位

第54代 仁明天皇(にんみょうてんのう)である。

仁明天皇は別名 深草帝という。

仁明天皇は即位すると、皇太子に淳和天皇の皇子である

恒貞親王を立てた。

嵯峨天皇が弟(大伴親王)を指名し、弟(淳和天皇)が兄の皇子

(正良親王)を指名、その皇子が弟の皇子(恒貞親王)を指名する。

兄弟間の流れができたかと思っていたが・・・


ここでまたもや藤原の陰謀が発揮される

840年に淳和天皇が、842年に嵯峨上皇が相次いで亡くなる。

その直後、橘逸勢(たちばなのはやなり)と伴健岑(とものこわみね)

が皇太子を奉じて謀反を企てたとして流罪になる。

当然のように恒貞親王は皇太子を廃されてしまった。

この事件は「藤原良房」が他氏を排斥し権勢を拡大しようと

した陰謀で、恒貞親王はもちろん無実であった。

これが「承和の変」と呼ばれるものである。


早い話が、良房の妹・順子の産んだ親王(道康親王)を

皇太子に立てるための謀略だったのである。

このように露骨に他者を排除する手法は藤原流とでも

いえば良いのか・・・・呆れてしまう権力欲である。


藤原千年の根底に有るのは尽きることの無い欲

人間の潜在的に持つ「謙虚」とは無縁な別の生き物の

ような印象を持ってしまう。

現代の「拝金主義」「利己主義」にも重なるように感じる。


このような感想も、「敗者の弁」「ひとでなしの論理」と

言われてしまうかもしれない。

◎  平安の妃選びと貴族 

天皇の后を決める

ほとんどの場合、皇太子・親王の時代に妃選びが行われた

天皇が自ら候補者を選定することは無い

だれがその役目をするのか

平安の時代であれば、公卿の推薦によることが普通だった

現在がどういう仕組みになっているのか詳細は知らぬが

妃に選ばれるかどうかで、利を得る者がいることが多い

その代表が藤原氏である。

お妃選びは実家の隆盛に深く関わっていた。

相手に勝つ為に様々な手段を駆使して争った

もちろん、水面下のお妃選定レースである。


どうしてそういう事になるのか

妃の実家の経済力が大事なのである


当然、経済力があって、相応の身分の公卿が最有力

であり、本人の容姿より実家の力関係が尊重される。


それほど公卿は裕福だったのか?

答えは YES

大臣クラスになれば、今の金額で数億円の年収とか

中級貴族でも数千万円の人も居たほどである。

そりゃ必死になって娘を入内させたがるはず

孫が皇位を継げば、一族の栄華が約束されるのだから

逆に考えると、裕福な貴族の娘しか妃になれない

だとすれば、一握りの貴族たちの中で権力のバトンが

受け継がれただけ・・・そういう事なんだろう。


経済力の無い貴族の娘は入内して親王を産んだとて

皇位継承候補にさえなる事も許されず

地位も財産も有る有力貴族の娘が次の天皇を産んでいった

それが日本の天皇の裏の事情なのかもしれない。


藤原氏と天皇のことが理解できるのが

「源氏物語」である

解説本ではなく翻訳本を読みたいとは思っているが

時間が間に合うかどうか(残った人生の時間)


藤原氏が強大な権力を手に入れたのはただ陰謀を

駆使しただけではない。

この時代の婚姻制度に「種も仕掛け」もあるのだ

この時代結婚は、招婿婚(しょうせいこん)という

結婚相手の女性の実家に入る形式である。

サザエさんの「マスオさん」を連想すればよい(笑)

ということは当時は女性中心の社会、女系社会であった


天皇は実家に入ることは基本的に無く(一部記録には有る)

宮中に「局」を作り実家に見立てたという。

だが、懐妊したら后は実家で出産、育児をする

妻方の祖父母に養育されるわけである。

この実家を「外戚」と呼び、経済的な支援を受けることになる

妃の実家の力関係が親王の将来を左右するとも言える

身分の低い女性の産んだ子(親王)はよほどでない限り

皇位継承の可能性はゼロに等しいので有る。

光源氏のように母方が没落しては後援してもらえない

母方の実家に地位と経済力があるかどうかであり

望まれない親王の誕生ということになる。



余話

限られた高貴な身分の子女にだけ門戸が開かれていたという

天皇の妃選び、その慣習を壊したのが、今上天皇と皇后である

天皇自ら妃になる人を選び、特権階級だけの皇室から身近にある

皇室を目指された。

後を受けるように、秋篠宮殿下が紀子殿下を娶られた。

これが良かったかどうかは後の時代が決めることだが

旧態依然とした「妃選び」の様相だった親王も居る

妃選びのライバルを陰で追い落とす策謀を重ね

横車を押すところなど、平安貴族を彷彿とさせる


ただ一つ異なっているのが、実家が財産家でもなく

高貴な身分でもなかったことであろう。

◎  人生の勝ち組負け組と藤原氏 


人生、勝ち組とか負け組みというらしい

時代が変わっても、世の中の仕組みは不変のようである


平安時代では一握りの勝者とそれ以外のほとんどの敗者で

社会が構成されていた。

藤原氏と言えど権力を手中にし、勝ち組といえるのは

数人の一族だけである。

藤原氏が栄えれば、他の豪族が没落する

藤原氏の中でも政争に敗れれば、没落したのである。

これは藤原氏に限った特徴で、藤原氏が歴史に登場してから

おきたことなのだ

他豪族(他家)との共存を否定し、一人勝ちの理念で

時代を生き抜いてきた、特殊な氏族なのである。

古代ヤマトの豪族にはない特徴で、これを考えても

藤原氏の渡来人始祖説が真実に思えてくるのである。


藤原氏に限っては「和を持って尊しと成す」は論外だ

「権力を持って尊しと成す」さしづめこういう事か・・・。


平安時代は「たたりの時代」である

祟りの時代という事は、祟る人が多かったという事で

裏を返せば、それほどに涙を呑んで亡くなった人が居た

という事なのだ、そしてたたりの原因を作った人が居た

藤原氏の歴史は「陰謀」「横暴」、すなわち「悪行」の

繰り返しでもあった。

平安になると祟りに対する不安は頂点に達し、その対応に苦慮

することとなる。

その実例が「御霊神社」「御霊信仰」である



863年 平安時代最初の御霊会で祀られた神は

藤原種継暗殺事件で嵌められた早良親王(崇道天皇)

桓武天皇の皇子・伊予親王とその母・藤原吉子

貞和の変で冤罪で憤死した 橘逸勢(たちばなはやなり)

であった。

後に、吉備真備なども加えられた・・・。

という事は・・・昔のことは細かく伝えられていない

奈良時代から陰謀の限りを尽くしてきた藤原氏である

遠い過去の罪は意識していないようである。

つまり「祟り」というのは、身に覚えが有るから恐れる

そういう事なのだろう。



◎  真実の行方、歴史の嘘 


**天皇は 病で亡くなった

そう公式文書に書いて有るから真実である

笑ってしまう話だ


公式文書といえど、権力者(勝者)が書き残したものである。

日本の皇統は「アマテラス」の子孫だけが天皇になれる

日本国の「統治原理」というらしい

その統治原理を支え護るのが、藤原氏の務めで

それが「寄生虫」といわれながら君臨してきた理由である。


この原理を脅かしたのは誰か?

織田信長でも徳川家康でもない

称徳天皇なのだ

アマテラスの子孫でもない僧・道鏡に皇位を譲り渡そうと

画策した女帝である。

道鏡が失脚した本当の理由は、称徳天皇が亡くなったからで

天皇(太上天皇)が存命の時の話ではない。

天皇の死は、いささか不自然な気もする

皇統を正常な姿に戻す為に、直接若しくは間接的に誰かが

死に至らせたのではないかという疑惑も考えられる。

「称徳天皇暗殺説」と言っても良い。


その理由は「天皇と道鏡」の密通話である

朝廷からすれば、先代の天皇の行状であるわけで

憎むべき敵ならイザ知らず、秘匿するのが常識だ

現に道鏡は左遷だけで罪には問われていないのだから

天皇一人を貶める記述には不自然さを感じる。

もう一つ、称徳天皇の陵は天武一族の墓所地には無い

一人離れて称徳天皇陵といわれるものが存在する。

その陵は『前方後円墳』である。

歴史に少しでも知識があれば、この不可解さに気づくはず

称徳天皇の崩御は770年のこと・・・・

大化の改新(645年)の後に、「大化の薄葬令」が出され事実上

前方後円墳(天皇陵墓)は廃止されている。

もうお分かりと思う・・・称徳天皇の墓は不明なのである。

「そんな馬鹿な」と怒っても、事実なのである。


そして、これが宮内庁が言うところの天皇陵の実態である。

記紀や史書に陵(みささぎ)の場所が書かれているから

そこが**天皇陵である・・・・根拠なのだ。

祟られなければいけないのは・・・宮内庁の役人かもしれない。

この事実一つから考えても、史書に書かれていることが総て真実とは

限らない、いや何処まで真実なのかさえ疑わしいのである。


平安京を造営し、遷都したのは桓武天皇であるが

事実上、都を平安京に定めた(定着)させたのは嵯峨天皇である

鴨長明(かものながあきら)が『方丈記』の中で

 「嵯峨天皇の時に都が定まった」と記述しているのである。

「薬子の変」が大きなきっかけを作ったということであり

平城の都から決別することになった、縁が切れた理由といえる。

藤原貴族の時代の始まりである。


古代日本では、病や雷で亡くなると、祟りのせいだと考えられていた

異常な死は「けがれている」といわれ、近づくことや触ることも忌諱

されていた。

だが、一般の「ひとでなし」が非業の死を遂げても、祟って出た話は

聞いた事が無い。

祟るのも祟られるのも、ある一定以上の身分の人だったのだろう

祟られるような事をするのも、ある身分の方々だったという事である


平安時代といえば、貴族の時代である

貴族とは、公卿と呼ばれる人と勅許の殿上人の総称である。

では、公卿と言うのは、朝廷に仕える上流貴族の総称で

「公」は、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣のこと

「卿」は、大納言、中納言、参議、及び三位以上のことをいう。

「殿上人」は、四位・五位の官人、六位の蔵人、院・東宮の御所に

上がることを許された者。

殿上人は天皇在位一代限り、新しい天皇の勅許が無ければ御所に

出入りすることは出来なかったという。

大まかに言えば、公卿という人たちが上流階級で、巷に言う

「やんごとなき人々」だったのである。

やんごとなき は裏を返せば、やることが無かった人々

遊んで暮らしていける身分の人だったわけである。

だから、三位は「朝臣」といい、あそんでいたという事

なのかもしれない。

◎  平安京と江戸(東京)の共通点 


わが国で一番新しい「遷都」は京都から東京である

江戸が政治・経済の中心となる都市で都合が良かったから

そういう見方も出来る。

はたして、それだけであろうか・・


京都・平安京と江戸・東京都の共通点

それは『風水』によって守護されているためである

「そんな非科学的な理由か」と言われるかもしれないが

日本の「言霊」「怨霊」「穢れ」を理解すれば容易である


平城京は聖武天皇が国家プロジェクトによって完成させた

いや、国家・国民総動員の事業だった

当時の東大寺大仏殿は国家の威信をかけた「誇り」である

そんな平城京をいとも簡単に棄ててしまう

なぜか・・・・

桓武天皇には大いに不満だったからだろう

大仏造営の主目的、「国家鎮護」「怨霊封じ」だったはず

蓋を開ければ、天武帝の皇統は称徳帝で途絶え、長屋王の

祟りも鎮まらなかったのである

天皇家にも国家にも、ご利益のない大仏・都であった

それに加え「早良親王」の祟りに悩んだ桓武帝

近親者が次々に亡くなり、皇子まで病に伏せる状況

祟りを忌避しなくては成らないと考えたら平城京では

役に立たない、そう考えたのかもしれないのである。

長岡に新しい都を造ってみたが、藤原種継の暗殺や

度重なる洪水・飢饉にあい、祟りから逃れたとは

考えられず、新しい都を造り風水による首都の

怨霊封じが動機ではないだろうか。


平安京になぜ奈良の大寺院を移転させなかったか

天皇家の怨霊封じに役立たないと見切りをつけた

そういう説も有る

宗教(仏教)は衆生を救うためではなく

天皇家を護り、国家の鎮護をするために有る

そういう観点から見れば、南都寺院は役立たずと言う

桓武帝の思いだったのかもしれない。


桓武天皇による親鸞の遣唐使随行は延暦寺(比叡山寺)が

平安京の鬼門に位置する寺だからと言う説が有る


では東京(江戸)はどうなのか、江戸にも鬼門を護る

寺が存在する。

東叡山寛永寺 がそれである。

文字通り「東の比叡山」である。

徳川家康も江戸を開くとき、風水によって護る大切さ

を自覚していたという事である。

◎  男尊女卑を考える 

日本と言う国は「男尊女卑」というイメージが有る

たしかに戦国時代から江戸期には残念ながら

そういう風潮もあったのは事実だ


それは庶民や武家の社会でのこと

朝廷ではどうだったのか?


じつは明治になる前、宮廷での女性の力は想像以上に

大きかったと思える。

とにかく天皇の意見などを「女房奉書」といって女性が

書いていた。

あるいは政治的な問題にも口出しする女性なども居たという

天皇の東京遷都に最期まで難色を示し、抵抗したのも女性たち

そんな女性たちを排除し天皇から遠ざけたのは明治新政府の

元武士たちであった。

明治4年、これまでの女官を全員免職し、あらためて時代の要請に

沿った女性を採用した。

これを策したのは薩摩藩士吉井友実である。

『数百年来の女権、ただ一日に打ち消し愉快極まりなし』

などと、日記に書いているようである。




男尊女卑は朝廷では浸透せず、昔ながらの女性尊重が主流である。

昭和天皇しかり、今上天皇もまたしかりである。

それが高じてわがままし放題の女性皇族が出てくる可能性は

多分に有るということである。


皇室には「嫁姑問題」は無いのか?

下世話な話で恐縮であるが、じつは有ったというのが本当である

昭和天皇妃・良子陛下と貞明皇后の確執などは有名であり

香淳皇后と美智子陛下との事例も有る

時代・世代の差は理屈ではない

皇室も下賤の世界も大差ないという事でしょうか


近世の天皇の皇位継承は庶子によるものがほとんどで

皇后が生んだ嫡子の継承は最近のことといえる

原因は医学の進歩と、「側室制度廃止」の影響である。


現在の皇室典範は戦後GHQの作文と思われているが

皇室の処遇に関しては何らかの影響があったと考えられるが

皇位継承については、明治期の典範が維持されていると

長屋の爺は思っている。

女性天皇を認めず、男系による皇位継承は過去の反省を

土台に考えられたベターなものと思っている。

 (必ずしもベストではないかもしれない)

女帝となれば後継者の誕生は望めないこと(独身であるため)

万が一女帝の婚姻を認めれば、臣下・外戚による宮中での

影響力を懸念する(藤原氏などの外戚問題)


もっと問題なのは、お妃選定問題のほうが大きな爆弾を孕む

可能性が有ると思っている。

次回はそのあたりを書いてみたいと思っている。

◎  民は次期天皇を選べない 


第52代 嵯峨天皇(さがてんのう)

あまり知られていないが、嵯峨天皇は「できる天皇」

だったようである

兄・平城天皇と違い、明晰で詩や書に秀でていたという

とくに書は、橘逸勢(たちばなはやなり)・空海とならび

「三筆」の一人に数えられている。

嵯峨天皇は皇子女に姓を与え臣下にすること

いわゆる「降下」を推進させたのである。

嵯峨天皇は 814年

源信(みなもとのまこと)をはじめ、8人の降下をした

源信は嵯峨源氏の祖といわれる。

宮廷費を削減する為といわれ、朝廷の財政が豊かではなかった

そういう事なんだろうと思う。

この時代、飢饉が続き田畑を棄て、逃亡する農民が増加

税金を納める、良民が減っていた時代である。


平城天皇と嵯峨天皇は同母兄弟である

藤原仲成・薬子に陰で操られ、後世にまで恥辱を残した

兄・平城天皇と、宮廷費の削減まで心がけた弟・嵯峨天皇

兄の凡庸・暗愚と弟の明敏・英邁がじつに対照的である。

 (似たような逸話が後世に有るのかもしれない)


平安を語るとき、藤原氏を無視しては何も書けない

これから続く「藤原千年の栄華」が日本の歴史でも有る

これからも出てくる藤原氏、都度書いて行くのだが

簡単に藤原氏について・・・・


藤原氏 始祖は中臣鎌足、天智天皇から「藤原姓」を

賜り、以後「藤原」を名乗る・・・ことになっているが

どうやらこれも騙り(かたり)のようである。


持統天皇の時代、天皇が造営した「藤原宮」がある

通説のように、鎌足が天智帝から姓を下賜されていたと

するならば、臣下の姓がついた宮を造営するわけが無く

あきらかに藤原性の下賜は後世の出来事である。

藤原仲麻呂あたりが、持統天皇に希い(こいねがい)

宮の名を賜り、中臣から藤原に替える許しを得たのが

記紀によって騙られたというところか・・・。

一事が万事、藤原氏の行動は「欲の衣」を着た亡者の

ようであり、それがこの国が絶えずにきた原因でも有る

藤原氏は不比等の四子が祖である四家が主体である

それぞれ、南家・北家・式家・京家として発展する

南家(なんけ)

不比等の子・武智麻呂が祖、その子豊成・仲麻呂が有名

豊成の子・継縄(つぐただ)は807年伊予親王の謀反

事件に連座して失脚した

仲麻呂は「恵美押勝」の乱により斬殺された

以後、南家から有力な公卿は出ていない。


北家(ほっけ)

不比等の子・房前(ふささき)が祖、その子・永手は

道鏡失脚に尽力し、左大臣にまで昇進した。

北家を代表するのは冬嗣(ふゆつぐ)である。

「薬子の変」で鎮圧に貢献し摂関政治の基礎を作る。

以降、冬嗣の系統が藤原氏全盛の主流となる。


式家(しきけ)

不比等の子・宇合(うまかい)が祖

式家で著名なのは、広嗣(ひろつぐ)、百川(ももかわ)

種継(たねつぐ)、仲成(なかなり)、薬子(くすこ)

桓武帝の妃・旅子、桓武帝皇后・乙牟漏がいる

広嗣は740年、九州で反乱を起こし処刑されている

百川は永手(北家)と協力し道鏡失脚に尽力した人物

種継は長岡京造営の途中、何者かに暗殺された

仲成・薬子は「薬子の変」で命を落としている。

以降、式家は栄華とは縁遠い存在となる。


京家(きょうけ)

不比等の子・麻呂が祖、その子浜成は782年に

「氷川川継の変」に連座し流罪となる

以降、これといった人物は出ていない。


藤原氏といえば摂関家をはじめ、多くの名家を

排出した、北家が藤原本流ということになる。

◎  ふと 万世一系を考えてみる 


いろいろ悩んだが、タブーに触れるのも

素人ゆえの特権かもしれない

な~~んて、都合の良いことを言いながら

少しだけ 「万世一系」について

私観を書いてみたい


学者先生の中にも、万世一系は実証されていない

などと仰る方が居る

個人的に思ったり言ったり、結構な話である


書いて有るから事実

書いてないから嘘

それが真理なら、某新聞紙が書いていることは

総て真実になってしまう(笑)


通説は2600年余の皇統、それが万世一系であるという

ある説では千数百年の男系天皇による万世一系という

観点が違えば、自ずと導かれる結論は異なる

それが血なのか

形式なのか

思念なのか

人それぞれの観点と解釈の仕方があって良いと思う


爺は生来の偏屈である

他人様が初代からピラミッドを思い描けば

爺は現在から「逆ピラミッド」を思い描きたくなる


今上天皇の父母であられる、昭和天皇・香淳皇后にも

各々父母が居られるので二代遡ると四人の先祖が居る

さらにその四人にも父母がいるので八人の先祖が居て

悲しいかな長屋の爺は計算が苦手で・・・

百二十代遡るといったい幾人の先祖が居る計算か?

それを考えると、血の濃さでは語れないような気もする

千年以上前の日本の人口は何人だった?


眼の前を歩いている”おっさん”が藤原某の末裔かも

しれない、あるいは某内親王の末裔かもしれない

そんな可能性も出てくる(仮定の話として)

天智の血だ、天武の血だ、桓武の血筋だと言ってはみても

どのくらいの濃さが、正統と呼べるのか疑問である。


血脈が続いているなどというのは、盲信のような気もする


『ではお前はどういう考えなのか 答えてみろ!』

といわれそうである。


長屋の爺は こう考えている・・・

正統な後継者は祭祀の秘事を継承する者

門外不出・一子相伝なんて言うと、不謹慎かもしれないが

天皇という名だから特別なのではなく

特別な使命・責任を背負う者に与えられた呼び名が

「天皇(すめらみこと)」であり、日本の祭祀王なのである

だから多くの国民に敬われ、慕われ、誇りにされる

祭祀を繋ぎ、その任を全うできる資格が男系皇統である


『宇佐八幡宮の神託事件』において

「天皇には必ず皇統の者を立てよ」という言葉に言い表されている

天皇は神ではない、神と共にある祭祀者の最高位にいる方で

無欲・滅私で祭祀を執り行う運命(さだめ)の選ばれし人

だから神々しいと感じるのである。


皇統が二千年だろうと、千数百年だろうと

天皇自ら『祭祀王』の務めと誇りを失わない限り

日本の皇室は 「万世一系」 なのである。


偏屈で頑固な長屋の爺

万世一系 一つをとっても、考え方・思いは違ってくる

人それぞれの思い・考えがあっても

天皇陛下は一人であり、皇室は一つなのである。

爺ごときの想念など瑣末なことであり、冷や汗を流しながら

万世一系 についての私観・記述であります。

◎  平安時代の幕開けは・・・ 

平安京

文字だけ観れば穏やかで豊かな雅を連想する

平らかでもなければ、安寧でもない時代

豊かに見える都の情景も後世の描いた夢物語

いささか辛らつな書き出しとなってしまった。


事実、歌を詠み、酒宴に舞い踊る平安貴族たち

都の住人の何パーセントがこれに該当するのか

知らないが、選ばれし人々の世界であったことは

想像に難くないのである。

このような境遇に浸れたのは、皇親や大臣さらに三位以上の

「朝臣(あそん)」と呼ばれる一握りのやんごとなき

高級貴族たちだろう。

彼らは時代のステータスとして、下々の者に対しての

優越を鼓舞していたのかもしれない。


平安京は山背国に建てられた、その時から山城と改められ

以後、山城国と呼ばれるようになった。

平安京は三方を山に囲まれた地にあり、文字通り山を背に

作られた新しい都だったわけである。

平安京は国家が『平和都市宣言』した新都だが、平和とは

およそ似つかない都だったのである。


蝦夷平定は藤原仲麻呂の時代から始まっており、唐かぶれ

の中華思想に凝り固まった仲麻呂の発案から起因しているという

805年 死を目前にした桓武天皇は、臣下から進言を受け

「都の造営と軍事を止めれば人々は安心する」

それにより、都の造営は停止された。

これを「徳政相論」と呼ぶ。


東北の蝦夷との争いも停戦され、共存の道を模索して行く事になる


806年 陰謀と祟りの帝 桓武天皇が崩御

同年、皇太子の安殿親王が即位する

第51代 平城天皇である。


波乱の平安の幕はすでにおろされていたのである

この天皇の時代で有名なのは。「薬子の変」である

簡単におさらいすると・・・

この藤原薬子と言う女性、藤原式家・種継の娘である

結婚して五人の子の母となる、長女が安殿親王(平城天皇)

の後宮に入っていたが、あろうことかその平城天皇と情を

通じてしまった。

娘の夫と関係を持ったという事らしい・・・・。

このときは桓武天皇存命であり、逆鱗に触れて宮中を

追放になっている。

ところが桓武帝亡き後、平城天皇は彼女を女官長として

後宮に戻してしまった。

天皇の寵愛を一身に受けた薬子は兄・仲成とともに絶大な

権力をふるうようになる。

平城天皇は即位後3年、実母弟である皇太子・神野親王に

譲位してしまう、第52代 嵯峨天皇の誕生である。

ところが、平城太上天皇は政治に口出しを重ね、嵯峨天皇と

対立をして行くことになる。

その背後に居たのが、薬子と仲成の兄妹で、太上天皇にいろいろ

入れ知恵を重ねたということだ

810年 太上天皇は突然、平城京遷都の詔を出してしまう

天皇は平安京に、太上天皇は平城京に、二つの都と二人の天皇

宮廷の分裂に向かっていく事態になる。

嵯峨天皇は薬子と仲成を追放すると、太上天皇は二人を連れ

東国に向けて宮を脱出する

嵯峨天皇は仲成を殺害し、坂上田村麻呂に鎮圧を命じ

敗れた太上天皇は出家し、薬子は毒を飲んで自殺した。

これが世に言う『薬子の変(くすこのへん)』の顛末である。


自ら毒を飲んで自殺した公式の記録

毒を盛られることは多くあっても、自ら服毒自殺した例は

これが最初と言うことらしい。

それにしても 藤原薬子という女性 傾城の美女 だったのか

五人も子を成して、尚も天皇の寵愛を受けるというのは

並みの美女ではなかったのかなどと・・・・想像する爺である。


平城天皇は平城京に遷都しようとし、分裂の危機を招いたから

後世に「平城天皇」という諡号がつけられたのか

安時代に傾の危機を招いたからなのか

波乱に満ちた 平安時代の始まりである・・・・。

◎  皇大神宮と豊受大神宮を考える 


平安時代に入る前に、伊勢の話になったので

もう少しだけ伊勢に触れてみたい・・・。



伊勢神宮、古来より「神宮」と呼ばれ

皇祖神を祀っている神社の総氏神といわれる

伊勢が解れば、神道が理解できると言うのだが

長屋の爺はその域に到達できていない・・・。


伊勢の特徴は、「内宮」「外宮」の両宮があること

「外宮」を先にお参りしなければいけない事

外宮に祀られている「豊受大神」は女神であるが

本殿は男千木の男神を祀る仕様になっていること

アマテラスの食事を司る神を先に参拝する疑問

なぜなら、主祭神を後回しにして参拝する神社など

聞いたことが無いのである

天照大神の父母、イザナギ・イザナミを皇室では

疎んじていた事実

皇祖であると明言するイザナギ・イザナミはじつは

いわゆる「無品(むほん)」であり、突然「一品」という

最高位が贈られるまで(859年まで)はその辺にいる

路傍の神様と同じ扱いだったこと


皇大神宮(内宮)は698年文武天皇の御代に

建てられていた事実の不思議・・・

公式には「垂仁天皇」の御世、垂仁26年に建った

ことになっているが、垂仁26年が何時のことやら

全く解っていない。

698年というのは、持統天皇が文武天皇に譲位し

太上天皇(上皇)として君臨していた時期である。


皇祖を祀っているというには、いささか扱いが疑問である

皇祖神という天照大神(伊勢神宮)を最初に公式参拝した

のは、なんと明治天皇だった・・・。


持統天皇も伊勢に行幸しながら、参拝した形跡が無いこと

歴代天皇は高野山に何度も訪れていながら、伊勢を訪れた

記録が皆無であること


では、伊勢神宮とはいったい何?

そんな疑問が涌いて来る


天照大神の誕生は、持統天皇の創作であるという説

微妙な事柄である、あくまでも私見の範疇でしかないが

天照大神とは「持統天皇」であり、持統天皇を始祖とする

あるいはモデルとする皇統の想念なのである。

では、外宮を先にお参りする理由はどうか・・・

いくらなんでも、自分が皇祖と公言できるはずも無く

皇室の祖神である「高皇産霊神」若しくはその子

「ニギハヤヒ」を祀っているであろう外宮を後回し

には出来ないという事だろう。

外宮が男神を祀る造りになっている理由が上記の

祭神である可能性を表している。

外宮の創建は「雄略天皇22年」の頃だという

これが事実なら、外宮が先に建ち、後から内宮が

建てられた、そういう事になる。

その新しさを後世に悟られないようにしたのが

式年遷宮ではないか・・・・20年ごとに建て替えれば

古い新しいなど問題にならなくなるのでは・・・

食事の世話ではなく、祖神を祀る「外宮」の傍に

持統天皇をモデルにした「女神」を祀る内宮を建てた

その名前が「あまてらす神」、皇祖を照らす神であるという

『天照大御神』なのではないだろうか・・・。


だから内宮・外宮の成り立ちは置いといても

伊勢神宮は皇祖神を祀る、神社の総氏神なのである。


最初にお参りする『豊受大神宮(外宮)』は皇祖神が

後からお参りする『皇大神宮(内宮)』は持統天皇の

熱い思いが祀られていると思っているのである。

◎  この時代 神宮は天照大神は? 

古代史を独断で書きたい放題にしてきたが

ふと考えた・・・・


古事記・日本書紀から天武朝・持統朝にかけて

あれほど出てきた、天照大神や伊勢神宮

いつのまにか話題にも逸話にも出てこなくなっている

天照大神が皇祖神であるならば、この状況は如何に?

先祖を蔑ろにすることなど考えられない


やはり、伊勢神宮も天照大神も持統天皇の血統を

正当な皇統であるという脚色に使われただけなのか

どうにも理解に苦しむ話である。


天孫降臨も皇統は持統天皇から始まったという

ことを神話にして後世に伝えたという事なのか


まず天照大神の天孫降臨との関わりだが

日本書紀 第一の一書(あるふみ)に天照大神だけが登場する

第二の一書(あるふみ)には高皇産霊神(たかみむすひのかみ)

と天照大神が登場する

古事記には高皇産霊神と天照大神が登場する

日本書紀の本文には高皇産霊神だけ登場

日本書紀 第四の一書 高皇産霊神だけが登場

第六の一書 高皇産霊神だけが登場


これをどう考えるかは非常に難しいが

皇室の氏神は 高皇産霊神 であるという説が有る


皇室にとって、重要な神々として八柱の神が居る

『御巫(みかんなぎ)八神』と呼ばれる神々のこと

* 神魂 (かみむすひ)

* 高御魂 (たかみむすひ)

* 生魂 (いくむすひ)

* 足魂 (たるむすひ)

* 玉留魂 (たまつめむすひ)

* 大宮乃売 (おおみやのめ)

* 大御膳都神 (おおみけつかみ)

* 辞代主 (ことしろぬし)

以上の八柱の神々が皇室にとって非常に重要な神々という

この中に高皇産霊神や事代主が入っているが

天照大神は入っていないのである。


持統天皇の時代・・・・と言っても、古事記や日本書紀

の時代に登場した天照大神はどんな神なのか?


アマテラスは照り輝く神ではなく天上にいる

高皇産霊神を照らす役目の神だという説も有る

だから、あまてる ではなく アマテラスだという

そもそも太陽神は洋の東西にかかわらず

男神というのが一般的である

蔑視ではなく、太陽が男性、月が女性というのが

一般的な解釈である。


持統天皇が女性天皇で皇統の始祖という理念から

天子ではなく、天孫という設定もそうであり

皇祖は女性の神であるという起源の創作に

天照大神に白羽の矢が立てられた可能性が有る


それを裏づけるように、歴代天皇は伊勢神宮に

参拝しなかったという事実があるのだ

祖神を参拝しない理由など何処を探しても

有るわけが無い・・・・。


歴代天皇は宮中祭祀に於いて、天上にいるとされる

高皇産霊神を祀り、天照大神は宮中から遠くにあっても

不都合ではない理由なのかもしれない。


日本の神々をこのように難解・複雑にした張本人は

持統天皇と明治政府である

これは間違いない・・・・。

政(まつりごと)の都合で、祀り事を操作した罪は大きい

だからと言って、伊勢神宮を軽視する必要もないし

皇室は変わらぬ日本の誇りなのである。

◎  平安の都へ 


平城京から長岡京を経て、平安京に移る

平安時代の始まりである


長岡京は10年足らずの都であった

なぜそんなに早く長岡京を見捨てたのか

これも早良親王の祟りが原因と思われる。

長岡京は藤原種継の暗殺でケチが付き、さらに洪水

飢饉などの凶事が続き、天皇の近親の相次ぐ死などが

早良親王の怨霊の仕業と恐れられついには・・・

怨霊に祟られた都になってしまったからと考えられる


だが通説では平安京遷都は風水によって守護され

度重なる遷都の国家財政圧迫、それに関わる多くの

良民の負担を改めるかのように、天皇が代わっても

都は変わらない固定化された新しい発想の都であるという


平安の都に遷都したとき、平城京(奈良)の大寺院の

平安京への移転を認めなかった。

一般的には桓武天皇が政治に介入する寺院を乖離するために

打ち出した方針という事になっている。


わたしは違った見方をしている。

陰謀によって形成された桓武天皇と藤原氏の治世に対し

事有るごとに口出しする大寺院の僧侶と距離を置く為

奈良に封じ止めたこと、それの正当性を『腐敗し政治に介入』

したとして、置き去りにしたという事だろうと思っている。

天皇や王権にとって、学問としての仏教に見切りをつけた

という事だろうと思う。

それに代わって、親鸞や空海が伝えた『密教』とその副産物に

魅力を感じたからでも有る


副産物というのは爺の私見であるが・・・

鉄・水銀・銅・などの鉱物を密教の修験者たちの手によって

朝廷に齎されたからかもしれないのである

修験者はなぜ山に篭るのか、修行は山でなければ出来ないわけ

ではない、山に拘る理由が有るからか・・・

修験者とはそもそも『山師』ではないのか?

空海が四国から紀伊の山々を歩き続けたことは知られている

空海が高野山を修行の場にすることを朝廷から許されたのは

高野の山々から産出する丹(水銀)のお蔭であることは

否定できない気がする。

◎  桓武天皇の人生 


藤原種継暗殺事件、早良親王憤死から3年後のことである

桓武帝の夫人である藤原旅子が亡くなる

さらに翌年、桓武帝の生母・高野新笠(たかののにいがさ)

が亡くなる

さらに翌々年には皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)

が亡くなる

そして皇太子の安殿親王までも病臥してしまった


ついに皇太子の病は早良親王の祟りが原因とされたのである

そうなると妃や皇后、母の死も早良親王の怨霊の仕業だと

いう事になり、弟・早良親王への謝罪をするようになる。

800年 桓武天皇は早良親王に対する謝罪として

『崇道天皇(すどうてんのう)』という追号を贈っている


桓武天皇は 兄、義母、実弟までを死に追いやり

この世を去るそのときまで怨霊に悩まされるのである。

自業自得といえばそれまでであるが、悲しい運命の天皇であった。

皇位という夢の代償は、怨霊に悩まされる人生

あまりにも寂しい一生のような気がするのである。


桓武天皇の行ったことに、蝦夷の平定がある

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、東北地方の平定をした

蝦夷・大墓公阿弖利爲(タモノキミアテルイ)とのかかわりで

ドラマにもなったのでご存知の方も多いと思う。

結果的に阿弖流爲を騙す形になってしまった田村麻呂は

阿弖流爲を供養する為に京都『清水寺』を建てたとされる。


もう一つ、最澄・空海・橘逸勢らを遣唐使に随行させた事だ

最澄の天台宗、空海の真言宗を開くきっかけを桓武天皇は

作ったともいえる。

◎  陰謀に塗れた即位 


781年 第50代 桓武天皇 即位

この天皇を一言で言えば・・・陰謀の帝

私の私観ではあるが、『徳川吉宗』が重なって見える

誰が考えてもまさか跡を継げるはずもなかった者が

ある日そのまさかになっていた・・・・

ただ漠然と感じるだけなのだが


この桓武天皇のまわりでは即位に纏わる幾つかの

陰謀事件が起きている。

事件が起きてしまったのではなく

明らかに桓武帝が引き起こした事件なのである。


最初は 井上内親王・他戸親王母子の呪詛疑惑

論理的に説明の付かない冤罪そのものである。


次に 即位後、井上内親王の姉妹・不破内親王の息子

氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀反が発覚、母子ともに

流罪となっている。



桓武天皇は自ら冤罪であることを証明している。

井上内親王らが死んだ翌年、災害や異変が相次ぎ

さらに翌年、光仁天皇・山部親王(桓武天皇)が

相次いで病に倒れ、これが井上内親王母子の怨霊の仕業

と考えその祟りを恐れたという。

怨霊という事は母子は尋常な死に方ではなかったという事

同じ日に死んだことは非業の死(殺人)だったことになる


語るに落ちるとはこういう事を言うのか・・・

罪びとが罪の意識を持つが故、冤罪によって憤死した

者が怨霊となり、たたりをなすと恐れるのである。

桓武天皇が潔白であれば、何ら恐れることなど無いはず。


そしてついに、井上内親王の墓を改葬し、『御墓』と称し

後に皇后位の復称を図っている。

よほど 怖ろしかったものと思える。


桓武天皇は784年突然、長岡京への遷都を行う

都としての体裁も整っていない長岡への遷都を決行した

未だに謎の遷都である


桓武天皇の即位時、皇太子として同母弟の早良親王(さわらしんのう)

を立太子させた。


785年 造長岡京使・藤原種継が暗殺された

大伴継人ら数十人が捕らえられ斬刑に処せられた

その後 暗殺事件に関与したとして早良親王は廃され

乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されてしまう

早良親王は食を断って無実を訴えたが、淡路に移送される

途中に餓死してしまう。


怨霊 早良親王の誕生である。


この冤罪劇には理由がある

弟の早良親王を皇太子に決めていたが、後に皇后である

藤原良継の娘・乙牟漏(おとむろ)の間に生まれた我が子

安殿親王(あてしんのう)に皇位を継がせたいと願い

弟の早良親王が邪魔になったという、謀略を持って実弟を

死に追いやった桓武天皇の実像は際限なき欲望の塊りにも

思えてしまう。

この廃太子事件でも、『藤原の天皇』が最終目標に思え

藤原一族の皇室への執着振りと寄生虫のような陰湿な

顔が垣間見えるのである。

◎  またしても粛清の皇位継承 


異例の還暦を過ぎた新天皇 光仁天皇であるが

称徳天皇によって淡路に流された淡路廃帝(淳仁天皇)の墓を

改葬し、政争によって流された者を呼び戻し復権させたという。


即位して一年後、穏健派の左大臣・藤原永手が亡くなる。

翌年、今度は井上皇后が天皇を呪詛したという疑惑が浮上する

皇后は廃され、皇太子も廃されている。


それについて続日本紀には詳しくは記されていない・・・

ただ、謀反を自首した裳咋足嶋(もくいのたるしま)が位階を

上げられたと記載されている。

自首して罪一等を減じられるのではなく、褒美をもらうのは不思議な

処置であり、陰謀があったことを史書は匂わせているのである。


さらに翌年、光仁天皇の姉・難波内親王の死に絡み、またしても

内親王を呪詛したとして幽閉されてしまう。

そして・・・2年後、井上内親王・他戸親王 母子は・・・

775年4月27日 同じ日に死去してしまう。


当時もいろいろと憶測が流れたようであるが事実は闇である


他戸親王が皇太子を配された翌年、藤原の影響を強く受ける

山部親王(やまべしんのう)が立太子されている。


山部親王・・・・後の桓武天皇である。

この山部親王当時37歳、母親が百済系氏族の出ということで

端から皇位継承とは縁がなかった人物である。


藤原の血は流れていなくても、百済系である藤原にとって

新羅系で無ければ問題ではないということか

光仁天皇即位の陰で、藤原北家・藤原式家が早くから

山部親王と繋がっていたということになる。

皇位継承権の希薄な山部親王にとって、他戸親王は邪魔者

有りもしない呪詛騒動をでっち上げ、粛清したと考えられる

山部親王は天智帝の末裔、父は光仁天皇であり

母方の出自以外問題は無い、だがこの時代は母方の出自が

大きく物をいう時代であるから、数多居る親王のなかで

最後列に列する親王であったことは間違いない。


皇位とは群臣貴族の思惑で決まるもの

望むと望まぬとに関係なく貴族(大臣)次第だ・・・・

ところが・・・山部親王、自ら望んだと思えるのである。

◎  美味い不味いの基準? 

暑い日が続くと、当然の如く”食欲”が落ちる

わけあって独身を謳歌している長屋の爺である。

酒もタバコも止めて久しくなる

楽しみは食べること・・・と言いたいが

年々歳々食べる量は減って、好きな物を好きなぶんだけ

食べるようにしている。


我が家には油と呼ぶものは『オリーブ油』くらいなものか

砂糖は有るが久しく使ったことが無い

食塩も神棚用に何種類か有るがこれも余り使わない

醤油は4種類ほどと、ポン酢・ゆずポン・しそドレッシング

ねり生姜・ねりわさび・ねり梅

これが我が家の調味料である。


ちゃんと自炊しているのだが肉は食べない

魚と野菜が中心であり、豆腐は毎日食卓に上る


友人がいろいろ言う『**を食べなくてはいけない』

だがそんな事は全く気にしていない

人と言うのは、体が欲すれば自ずと口にするものである

わたしは果物も得意ではない、ところが突然スーパーなどで

果物を大量に買い、数日果物三昧をすることが有る

『体が求めているから』食べたくなった。

わたしはそういう理解の仕方をする。


肉でも野菜でも魚であっても、体が欲するから食べられる

体が欲するから自分の身(血・肉)になる。

友人に60年間肉を食べないで、健康な奴が居る

肉を食べなくても病気にはならない証明である。

さらに野菜嫌いの農家の息子が居る・・・

病気一つしない馬鹿たれである(笑)


美味しいと表現することがある

美味しいとは基準があって言っている言葉ではない

何を屁理屈を言っているのか・・・そう思うでしょう。

美味しいというのは個人の嗜好を表現したもの

平たく言えば、自分の好みであり、口に合った味

そういう事だろうと思う。

ところがこの世の中、その嗜好を他人に押し付ける

そういう人間が多い気がする。

他人様が作った料理、好みの味ではなかったとはいえ

『不味い』というのは如何なものか・・・

本来なら、『私の好みではない』『口に合わない』

そう表現すべきだと思っている。

口に合わなきゃ、自分で作れ!

私の料理哲学である(そんな大層なものか?)


私は他所でご馳走になるとき、ありがたくいただく

その際『美味しい』という表現はしない

『この味付けは好みです』『満足しました』

そういう事にしている。

他人様の料理に、美味い 不味い の評価を下すことに

ものすごく抵抗を感じるからである。

相手の好意・真心を自分の嗜好の物差しで点数付けすること

これは失礼極まりない話である。


飲食店なら、好みの味でなければ、足を向けなければ良いだけ

相応の代価をはらっている関係上、選択はこちら側に有る。

それでも美味い不味いは言わないでおくようにしてる。

どうしても評価を友人に聞かれれば、『また行きたいな』

とか『もう行かないと思う』とか言うようにしている。

それは私の好みであって、基準など何処にも無いからである。


本当に偏屈でいやみな爺だと自分でも思う。


だが元妻の作った料理を残したことも貶したことも無い

感謝して食べていたし、また食べたい希望は有る。


私は小説も映画も自分の好み・嗜好を押し付けられるのが苦手

どのように感じるかは個人の問題で、私ごときが評価するなど

罰が当たる行為である。

ゆえに他者から他人様の好みを押し付けられると反発してしまう

悲しい癖(へき)なのである。


最近のレトルト食品はかなりレベルが上がっている

でも私は自分の味付けを施し、自分好みにしてから食べる

ようにしている。

9割がた調理してくれていると思えば満足である

あとの1割を自分の好みの味付けに変え一手間かけて食する。

専属料理人を雇っていると考えれば贅沢な話である(笑)


今日は豪華にうなぎを予定している

表面はかりっと、中は軟らかく、本日はうなぎ職人に

変身である・・・・。
 

◎  称徳天皇の次の時代・・ 


770年 8月4日 称徳天皇 崩御

史上唯一の女性皇太子 2度の皇位(重祚ちょうそ)

臣下を帝位に就けようとした女帝の時代は終わった。


称徳天皇は皇太子を決めていなかった

道鏡に禅譲することを願い、敢えて決めなかった

そういう事だろう。


崩御の後、藤原氏を中心に貴族たちの後継選びが始まる

ところが、粛清(しゅくせい)を繰り返した為

際立った皇位後継候補が見当たらない

という事になっている。

それすら本当かどうか甚だ疑問である。


しかし藤原氏の願いに適う候補者が居た

天智天皇の孫にあたる『白壁王』である

時に齢62歳の皇親で、后は聖武天皇の娘・井上内親王

(いのえないしんのう)と言い、称徳天皇の異母妹である


では他に候補は居なかったのか?


実はちゃんと候補者が居たのである

ところが朝臣会議のメンバーだった藤原氏が

称徳天皇の遺勅を偽造し先帝の意思として押し通し

吉備真備や石上宅嗣の意見は通らなかった。


藤原の眼鏡に適うのは、凡庸で野心が無く藤原の

意のままになるお飾り人形のような人物なのである。

この『白壁王』という人物、皇位争いから逃れる為

酒におぼれ無能で凡庸な生活に浸りきって命を永らえた

そういう人物なのである。

そんな人物が天皇に相応しいかどうか誰にでも理解できた

だからこそ藤原氏の願いどおりの好人物・皇孫でもあり

再度、藤原の世を築く、うってつけの候補者だった。


白壁王は群臣により、まず皇太子に推挙されその後

第49代 光仁天皇(こうにんてんのう)として即位した

皇后は井上内親王、皇太子はその子 他戸親王(おさべしんのう)

である。

このままいけば、数年後には他戸親王が皇位を継承し

あとを継ぐはずであった。

藤原貴族たちの思惑も、その路線と思われていたのだが

772年 井上皇后が光仁天皇を呪詛した疑いで廃されてしまう

それに連座して、他戸親王も皇太子を廃されてしまった。


だれが考えても摩訶不思議・理不尽な話である。


他戸親王は皇太子である、何も何も一切何もしなくても

皇位継承一位の存在なのである。

父親である天皇を呪詛しなくても皇位は転がり込んでくる

わざわざ危険なことに手を染めることは考えられない

ここでも藤原の陰湿で姑息な謀略が蠢いているのである。


◎  称徳天皇と弓削道鏡の密通説・愛人説  


称徳天皇と弓削道鏡の密通説・愛人説

事実はどうだったか・・・・。

道鏡は700年ころの生まれと言う

道鏡と称徳帝が出会うのは760年ころであり

道鏡は還暦を過ぎ、称徳帝は43歳あたりか

もしこれが真実なら、道鏡の左遷が腑に落ちない

なぜなら、国を傾ける所業の張本人にしては

罰として成立していないからである。

まして僧籍の臣下が帝と通じるなど破廉恥きわまる

極刑以外の選択が無いほどの行為なのである


結果は流罪でも死罪でもない遠地への赴任である。

法王であった人間だから、罪一等を減じたとしても

常識外の措置というべきものだ

一等を減じるどころか不問に処す内容に唖然とする


私見はちょっと違うのである


道鏡は間違いなく、称徳帝に入れ知恵をしていたと思う

その道鏡を陰で操っていたのは、当然藤原氏だろう

恵美押勝の乱以降、藤原一族に対する称徳帝の藤原に対する

信頼は地に落ち、天皇に后を供給することで宮中に居場所を

確保し続けてきた藤原一族として、称徳帝は魅力の無い帝

になってしまったというところか

なにせ女帝であるから、后の供給のしようもないのである。

さらに未婚ゆえ、継承候補の選定問題も絡んでくる

もし万が一、道鏡が天皇に即位すれば、藤原の娘を入内させ

その娘に皇位を継がせればよい、何度も成功しているあの手である


藤原にとって、天智系も天武系もこの時代どちらでも良かった

わたしはそう思っている。

天武系の時代はすでに100年になろうとしているのだ

藤原が権力(王権)を握りさえすれば、あとは瑣末なことである

天皇とは王権にとって、明晰では都合が悪いもの

凡庸で見識が低く、意のままに操縦できることが求められる

極端な言い方をすれば、政治的な意思を持たないことが一番

政(まつりごと)は藤原が、祀り事は天皇が担うこと

それが奈良平城の世の貴族の本音であろう。


そうしてみると、道鏡の下野への左遷が理解できる

藤原の口車に乗せられたとはいえ、皇位を窺う罪を犯し

左遷で済むのは異例である。

どんなときも、結果から考えて『益を得る者』が怪しいのだ

この後の経緯を見る限り、藤原が一番益を得ているからである。


この時代も度重なる粛清で皇位継承候補は少ない・・・。

◎  称徳天皇と弓削道鏡 


孝謙天皇(称徳天皇)を語るとき

忘れていけないのが 道鏡 である

物部の一族、弓削氏の出から弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

とも言われる。


下世話な話では孝謙天皇と道鏡の密通説もあり

日本のラスプーチンと比較されてもいる

何はともあれ、道鏡はある意味 怪僧 と呼べるかもしれない

一介の僧が政治の頂点に立ったのである。

天皇の寵愛を受けたとされる道鏡は天皇の病を癒したとされ

天皇の信頼を受け権力の階段を上ってゆくのである。

恵美押勝の後、太政大臣と同じ意の太政大臣禅師となり

さらに官の最高位である法王になった人物である。

いくら徳があろうと、見識があろうと僧侶である

僧侶が政治の頂点に上り詰めた・・・・

あとは帝位しか残っていないそんな状況で

あの事件が起こってしまう


『 宇佐八幡宮神託事件 』


称徳天皇はあろうことか道鏡を帝位に就けようと

したのが神託事件である。

宇佐八幡の御託宣によると、『道鏡を皇位に就ければ

天下泰平になると八幡神が言っている』


さっそく和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に差し向けた

その答えは、『天皇には必ず皇統の者をたてよ』

わが国では臣が君になったことなど一度も無いと言うのが

宇佐八幡宮の出した答えである。


託宣も権力争い発端であり、誰かの世迷言であろう

それに対する答えも、誰かの思惑が言わせたものだろう。


では道鏡は本当に天皇になりたかったのか?

どうして称徳天皇は道鏡に禅譲しようとしたのか?


いろいろな説が有る

道鏡が色仕掛けで天皇を洗脳したという説



天皇が藤原と天武の血筋に絶望して代々続いてきた

『天皇制』から『皇帝制』に変えようとした。


連綿と続く皇位争いで身内を殺める罪を悔い

徳の高い僧に禅譲することで仏に許しを請おうとした


今となってはどれも有りそうで無さそうで・・・・


この事件の翌年、称徳天皇は崩御し道鏡は失脚した。


道鏡は『造下野国薬師寺別当』として追放された。


皇位を奪おうとした、あるいはそれを画策したとして

その罪の重さから、斬首にも値する罪である。

この処置を見る限り、道鏡が望んで画策したことでは有るまい

とすれば、天皇が暴走したことになる


宇佐八幡事件の前、称徳天皇は異母姉妹の不破内親王と子を

呪詛したとして追放・配流してしまっている。

道鏡へ皇位を禅譲する上で邪魔な存在を排除した可能性がある。


原因は天武の血に絶望し、藤原の血に嫌気が指して

国を安泰にするには仏法による統治が最善と思ったか

それゆえ徳の高い高僧に禅譲しようとした。

そもそも禅譲など神話の類であり、実現したことなど無い

唐かぶれの仲麻呂の教育の副産物の可能性も考えられる。


ここでも万世一系の絶体絶命は回避されたのである。



◎  盆休みと墓参り 

猛暑と格闘しながらも

世間で言うところの『盆休み』に入った


夏は暑く、冬は寒い

四季の国 日本 とはいえ、過ぎるのはちと・・・

禅僧の如く『暑さ』が修行とでも言うのか

心頭滅却すれば火も自ずから涼し と言ったのは

恵林寺の快川和尚だったか?

先の長くない長屋の爺である

やせ我慢せず、エアコンと仲良くすることにした。


お盆といえば、墓参り・・・

お墓といえば古墳(天皇陵)を連想する

ご先祖様の前で両手を合わせる数少ない機会

日本人であることを再認識するのである


お墓には文字が刻んである

最近では『墓誌』が普及し、過去帳を観るまでも無く

ご先祖の名前・享年・命日までわかる。

その昔は、墓は個人として葬られたものが主流

墓石も代々累々、増え続けていったという

いつのころから、先祖墓になったのか・・・・。


私の故郷でも、寺の裏山に一区画の墓の密集地があり

全部一族の墓と聞いたときは驚いたものである。

それが年々都市部に移住し、墓石ごと引っ越してしまう

後には『櫛の歯が欠けた』無残な墓地の完成である。


古墳には現在、**陵と誰にでもわかるように

掲示されている。

だがそもそも、古墳は誰を葬ってあるかは不明なのである

いつの時代の古墳でも、どんな形の古墳でも同じ・・・

明記されずに長い年月を経て、今の**陵という認定

どうにも腑に落ちないのである。


例えばの話で申し訳ないが・・・

誰かに 『この墓はあなたの遠い先祖のものですよ』

そういわれて毎年欠かさずお参りに来て

『実は確かなことではなく、たぶんそうではないか

 という話です。』

そう言われたら、どうでしょう?

まさに、**陵というのはその程度の信憑性しかない

織田信長の墓だと思ってお参りしたら

明智光秀の墓だったという可能性にもなる。


**天皇陵が実際は、史実に記されていない

新たな王の墓である可能性も否定できないのだ

古代の埋葬習慣では、被葬者の名前は何処にも記されない

なぜか?

私には解らないが、古代では名前を呼ばれることは

呼んだ人間の支配を受ける、その者の所有になってしまう

そんな話を聞いた、だから本名では絶対に呼ばなかった

天皇自らは『朕(ちん)』と呼び、相手は『帝(みかど)』

あるいは『お上(おかみ)』、などと呼んだという。


日本のシンボル、民族の最高指導者、祭祀王である

天皇を所有することは許されないことであり

名前を呼ぶことに繋がる、陵(みささぎ)の名付けは

当時は忌避されていたのかもしれない。


旅行に行って、**陵をみても素直に信じない

国民が増えてくるだろう。

そのことが皇室不要論に向かわないことを祈りたい

宮内庁の閉鎖性は皇室そのものを不透明なままにし

開かれない皇室を望んでいるかのようだ

古墳の発掘調査をしたからと言って、天皇家は普遍である

役人の了見の狭さが両陛下の足かせにならねば良いが・・・。


とにかく暑い日本の盆休みが始まったのである。

◎  恵美押勝の乱と淡路廃帝 


『 年月が経つに連れて帝は自分を軽んじ、言うべからざることを

  口にし、してはならないふるまいをした。 このたび私は

  出家して仏弟子となった。これを機会に国の小事は帝が、

  大事の決定は私が行なう。』

762年 淳仁天皇が読み上げた詔である。

帝とは淳仁天皇であり、私とは孝謙太上天皇のことである。


仲麻呂の意を帝が太上天皇に諫言したことに激怒して権限を

取り上げたことを、内外に知らせたのである。


太上天皇と帝、仲麻呂の間に大きな溝ができたことを意味する



絶大な権力を握っていたはずの仲麻呂にも抗えなかったのは

聖武天皇の正当な後継者であり聖武天皇の娘・太上天皇には

反仲麻呂派の貴族の支持があったからだと思っている。

藤原への反感、ねたみが思わぬところで大きな力となったが

仲麻呂を失脚させるまでには至らなかった。


何とか挽回したかった仲麻呂は、764年に自ら志願し

畿内一帯の軍団を統率して訓練する職に就いた。


しかし、兵の数を偽って集めた為、反乱の準備とみなされてしまう。

これが世に言う、『 恵美押勝の乱 』である。

太上天皇の仲麻呂反逆の勅から三日後には乱は静まり

仲麻呂は処刑されてしまう。


わずか三日で収束した陰で活躍したのが、吉備真備(きびのまきび)

唐で兵法をまなんだ真備によって、仲麻呂は呆気なく捕縛・処刑された。



仲麻呂の失脚の要因は、光明皇太后の崩御(760年)にあり

後ろ盾を失くした影響は小さくは無かったということである。


さて、仲麻呂が死にますます孝謙太上天皇の道鏡への傾倒は

深まってゆく。

ついに淳仁天皇を廃し、淡路に流してしまう

さらに称徳天皇として再び天皇位に復帰する(重祚ちょうそ)


淳仁天皇は廃されて、淡路に流されたことから

淡路廃帝(あわじはいてい)と呼ばれ、淳仁天皇として

歴代天皇の列に加えられたのは明治3(1870)年のことである。





◎  『宝字称徳孝謙皇帝』 

孝謙天皇の時代になっても

皇位を巡る争いは後を絶たず

聖武太上天皇崩御の際、皇太子として指名した

道祖王(ふなどおう)を突然廃してしまう

理由は『行いがみだらであるから』というが

真実は歴史の闇の彼方である。


後継の皇太子は舎人親王の子・大炊王(おおいおう)

この人物、藤原仲麻呂の息子の未亡人と結婚し

仲麻呂邸に住み仲麻呂の婿養子のような存在だ

この立太子事件は仲麻呂が画策したことであろう。

その策略に乗せられた孝謙天皇も仲麻呂と同類と

誰しも疑わないのである。


仲麻呂の度重なる強引なやり方に貴族たちの不満が

大きくなって行く。

それが『橘奈良麻呂の謀反』である。

主だった者は拷問死あるいは流罪になるなど

400人もの人間が処罰されたクーデター未遂事件

これもどこまで真実で、どこから嘘か知る術は無い・・・・。


758年 孝謙天皇は大炊王に譲位する

第47代 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)である

太上天皇になった孝謙天皇は唐かぶれの仲麻呂から

『宝字称徳孝謙皇帝』という称号を贈られた。

孝謙太上天皇は仲麻呂に、『恵美押勝(えみのおしかつ)』

という名を与えた。

その意味は、『汎恵の美(広く恵みを施す美徳) これより

       美なるはなし』

      『暴を禁じ勝に強ち、ほこを止め乱を静む』

太政大臣に内定した恵美押勝は出身地の近江・保良宮への

遷都を計画する。

官位も正一位となり、藤原仲麻呂の絶頂期といわれる。


この保良宮で歴史的運命が訪れる

孝謙太上天皇と僧・道鏡の出会いがそれである。

保良宮で急病を癒してくれた道鏡を寵愛したことが

仲麻呂の警戒心を誘い、天皇に諫めさせようとした

その事が太上天皇の怒りを買い、淳仁天皇から実質的な

政権を奪ってしまう。

権力の頂点に立っていた仲麻呂に翳りが見え出したのである。

◎  熱中症に・・・ 

人間は学ばない生き物かもしれない


2年ほど前、熱中症でダウンした経験が有りながら

不注意にも昨日、再度熱中症でダウン

前回より程度は軽く、38度の熱と関節痛

めまい・吐き気・軽度の意識朦朧状態

薬と外部からの解熱処置で小康状態になった


時折降ってくる豪雨に熱中症に対する

油断があったのは事実である

雨が降って曇っているからと言っても

真夏の気温である

汗をかいたまま雨に打たれ体温の調節が

できなくなったという事・・・らしい。

今日から猛暑日が続く予想のこの地方

水分補給だけでは対処できないことを悟り

オシボリを凍らせて明日から持参することとした

地獄の釜の蓋が開く前に仕事のキリをつけたい


待ったなし の夏が今年もやって来た・・・。

◎  鑑真招聘と冷遇 


756年 5月2日

一時代を築いた聖武太上天皇(聖武天皇)崩御


それより遡ること3年

753年

唐より高僧・鑑真が渡日した

翌年1月16日、平城京に入り歓待を受ける

というのが通説である。

この鑑真に関して、歴史は正直に記してはいない

日本の仏教の為、天皇の招聘に答えるため

度重なる苦難を乗り越え、来日した高僧である。

どうして不誠実な対応なのだろう。


鑑真は航海の心労から盲目となって来日した。


長屋の爺はず~~とそう思っていた。

鑑真が視力を失ったのは最晩年のことだという。


さらに、歓待を受けたことになっているが


それはほんの一部からであり

日本の仏教界から冷遇されたといわれている。

『鑑真不要論』まででてしまうほど・・・

その急先鋒が『藤原の寺』・興福寺である。


大僧正の地位にあった鑑真を仲麻呂は不遜にも

『ご高齢で苦労させたくない』

という理由で、大僧正から引き摺り下ろしてしまった

なんと 優しい心使い をする藤原仲麻呂であろうか


ではなぜ? 

朝廷は自ら願って来日した鑑真を邪険にしたのか

これには『長屋王』が関わっているという

鑑真が渡日する前、長屋王存命の折に長屋王から

鑑真に千枚の袈裟に漢詩を刺繍したものを贈った

その長屋王の言葉

『異なる世界に暮らすわれわれだが、仏に帰依している

 よしみで、共に縁を結びましょう』

この言葉に動かされ来日を決意したのである。


一方、仲麻呂にしてみれば、長屋王には触れたくない

いや、触れて欲しくはない事情があった。

長屋王を忌むことが、鑑真を疎ましく思う原因となった。


このことは鑑真の弟子・思託が書き残した『唐大和上東征伝』

に書かれており、淡海三船が翻訳して日本人にもわかるように

書き残している。

その翻訳が正しいかどうかは知る由も無い

原本が散逸し、さらに原本を三分の一に編集している

翻訳が何処まで正確に脚色・改竄無しで伝わっているか

視力の問題一つとっても、現実とは違って見えるのである。


唐招提寺

鑑真が建てた寺として今に至る

ここは元々、新田部親王旧宅であり

塩焼王の事件で没収され、鑑真に与えられたものという

唐招提寺完成を観ず、763年鑑真は亡くなってしまい

唐より従ってきた弟子の如宝が完成させたものである。

◎  女帝 孝謙天皇と皇太后 


第46代 孝謙天皇(こうけんてんのう)

聖武天皇の娘・阿倍内親王である

史上唯一の女性皇太子


『 無理が通れば 道理が引っ込む 』

ものの道理から言えば、安積親王が皇太子であるはず

さらに男子の継承者なら他にも塩焼王などもいた

それほどまでに『藤原の血が流れる天皇』が望みか

さらに藤原の意のままになる無能な人間に限定されるなど

利発で藤原以外の出自、人民に慕われる人間など論外だ


では孝謙天皇はと言うと、養育係は藤原仲麻呂であり

藤原の色に染まっていたことは間違いないだろう。

即位当時、聖武天皇も存命であり形ばかりの太上天皇である

陰では光明皇太后が実権を握ろうと暗躍する

当時の左大臣は橘諸兄、右大臣は藤原豊成である。

藤原南家の長子である豊成は温厚で欲が無い

橘諸兄を蹴落として実権を奪うなど無理だった。


そこで光明皇太后が目をつけたのが、豊成の弟・仲麻呂

野心家で鎌足を連想させる人物である。

仲麻呂は光明皇太后の後ろ盾により、異例の出世をする

その影響は孝謙天皇にも及ぶのである。

光明皇太后は仲麻呂に実験を握らせる為とんでもないことを

思いつくのである。

皇后宮職(こうごうぐうしき)の名を唐風に改め

紫微中台(しびちゅうだい)とし、さらに

坤宮官(こんぐうかん)と名を変えてしまった。


この何が問題なのかと言うと、律令制度では

政務を司る機関は太政官(だじょうかん)である


皇后の内向きの皇后宮職が太政官に匹敵する

政務機関になったということであり

太政官の審議を経ず、紫微中台から直接命令が

下せるようになったという事である。


仲麻呂を最高権力者に仕立てるため皇太后が企んだ

この一事を見ても、光明皇太后の聖者伝説は疑わしいのである

聖者とはほど遠い『生臭い浮世の欲』が匂ってくる。


一つのエピソードがある

聖武天皇の悲願、大仏の開眼式

まだ頭部しか完成していなかったが

聖武天皇の体調が思わしくなかった為

繰り上げて『大仏開眼』を執り行ったようだ

そして・・・その日

光明皇太后と孝謙天皇は仲麻呂の邸である

田村第(たむらだい)に入り、ここを

御座所(ござしょ)とした。

天皇が宮中に住まないのは、藤原流なのだろうか

今ならさしづめ、総理の私邸に天皇と皇太后が住む

そんなところであろうか・・・。

その時代でも、異例であったことは間違いないのである。

聖武天皇は放置されたというべきか・・・・。

聖武天皇ー光明皇后が仲睦まじく

信頼しあっていたなど、絵空事である証拠

藤原以外は人ではない、平家の時代を先取りした

そんな逸話である。

◎  皇位継承者の悲劇と陰謀 

僧玄昉(げんぼう)

聖武天皇の母、藤原宮子の病を治したことで知られる

唐の玄宗皇帝から直々に紫の袈裟を許された秀才

当時の仏教界の頂点・僧正になった人物である。


745年筑紫へ左遷され、翌年6月その地で没した。

左遷の罪状は不明といわれ、藤原弘嗣の祟りと世間では

噂したという。

左遷の前、僧行基が聖武天皇により、大僧正に抜擢された

それまで僧の頂点は僧正であり、新たに大僧正が作られた

のである。

一説によれば、玄昉は今まで無かった大僧正という新たな

僧侶の階級に異を唱えたとも言われ、大仏造営にあからさまに

反対した為、天皇の逆鱗に触れたからとも言われている。


聖武天皇の皇子に安積親王(あさかしんのう)がいた

悲劇の親王といわれ、17歳でこの世を去った。

本来なれば、皇位継承の最有力であるはずの親王

母親の出自が藤原でない事で、短い人生に幕を引かれた

続日本紀には脚気で亡くなったとある。

発病から2日後に息を引き取ったという

藤原仲麻呂あるいは女官だった仲麻呂の妻が犯人という説もある

なぜそう思われたのか、親王は直前まで元気だったという

恭仁京から難波宮へ移動する最中での出来事(発病)

親王は恭仁京へ戻り、2日後に突然亡くなったのであり

それまで元気だったといい、病名が脚気なのである。


皇太子は光明皇后が生んだ阿倍内親王、未婚の女性である

もし何かあれば、安積親王が皇位継承の最有力であることは

間違いないのであり、異例中の異例、前代未聞の女性皇太子

反対する貴族も多かったようである。

反対勢力の望みを絶つ策は、亡き者にすることだったのか

事実か否かは知るすべは無い、若い安積親王の暗殺疑惑は

歴史の闇の中に埋もれてしまった。


この事件の2年ほど前・・・

皇位継承に関する一つの事件があった

塩焼王

天武天皇の孫で、聖武天皇の娘・不破内親王の夫である

祖母は藤原鎌足の娘であり、血統的に皇位継承の筆頭であった

ところが突然4人の女官と共に拘禁され、伊豆に流されてしまう。

聖武天皇は阿倍内親王の後は塩焼王を後釜に据える腹積もりだった

が、大仏造立に反対した為に天皇の怒りを買い伊豆に流罪となった。

大仏が何より優先され、藤原の血が絶対であり

行く手に対抗する皇位継承者がいれば、どんな手を使ってでも

排除する。



国家鎮護を願い臣民に敬われ、神を祀る祭祀王である天皇

それを献身的に支える貴族達。

そんな絵物語は奈良の都には無かったという話である。

◎  祟りと藤原と新羅 


長屋王の祟りで亡くなった藤原四兄弟

本当は天然痘に感染しての病死である

ではその天然痘はどこから来たのか

736年遣新羅使・阿倍継麻呂が新羅から

帰る途中、対馬で天然痘により死去する。

副使も感染していたという。

その後、大宰府で流行した天然痘は北上し

都にまで到達したのである。


小野老(おののおゆ)や多冶比県守(たじひのあがたもり)

さらに都の官人たちに襲い掛かり

ついには藤原四子にまで及んでしまう。

4月17日に次男・房前が、7月13日に四男・麻呂

7月25日には長男・武智麻呂が

そして8月3日に三男・宇合が死に四人全員が消えた。

政権を握ってわずか10年後の出来事である。


考えてみれば、新羅に使いなど出さなければ

藤原兄弟も死ぬことは無かった。



さらにこのときの遣新羅使は追い返されての帰国である

藤原氏にとって、新羅と言う国は鬼門なのかもしれない。

天智天皇と鎌足は『反新羅派』でも有った

始祖・鎌足も百済再興を目指し、新羅に完膚なきまで

打ちのめされた過去がある。

藤原一族と新羅には糸で結ばれた因縁があるのか

その新羅からの贈り物、天然痘によって

第一次藤原政権は消えたのである。


ここまで書いてきて、ふと考えた・・・

神道の最高位・祭祀王である天皇

この時代の天皇に祀りごとの気配がしない

専ら祟りと権力争いに翻弄される姿しか見えない


神々に祈っても、いくら祀っても

たたりは収まらない・・・

神は天皇の願いは聞いてくれなかったようである


藤原四子の死によって、聖武天皇は仏教に望みを託した

純粋な仏教への帰依とは信じがたい

仏教は怨霊封じの手段にしか過ぎないのではないか

名目は『国家鎮護』であっても

怨霊を封じ込め、都に安寧が戻れば『国家安泰』である

国を治める天皇は祭祀によって『国家鎮護』『国家安泰』

を願うのではなく、仏の力を利用し祭祀に代えようとした

神に祈っても政権を担う有力貴族が死んでしまう

ならば仏教に頼ればどうにかならないか

天皇はそう考えたのかもしれない。

事実、国分寺・国分尼寺を広めてからは多少ではあるが

気候も安定し五穀豊穣が訪れたという

それに味を占めて、東大寺大仏へとまい進するのである。


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