不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  聖武天皇の時代の終焉 


聖武天皇の度重なる遷都

これにはいくつかの説がある


先帝である元正太上天皇と橘諸兄

后である光明皇后と藤原仲麻呂

その間に板ばさみになっていたともいわれ


さらに藤原弘嗣の乱が起き、橘諸兄らの言葉に従い

放浪と遷都を続けたともいう

これを見る限り 政権争いと言うより

『女の戦い』の雰囲気が漂う

叔母と嫁の間で苦悩する聖武天皇


さらに光明皇后と橘諸兄は兄妹である

正確に言えば、異父兄妹なのだ

母は県犬飼三千代

諸兄は母を盗まれた恨みを背負っている

その相手こそ藤原不比等なのである。


藤原の専横に危惧する元正太上天皇は

反藤原であり不比等を憎む橘諸兄を重用し

陰で聖武天皇を動かそうとした気配がする

言い換えれば、皇親派 対 藤原一族


聖武天皇はその現実から逃避する意味もあり

大仏建立にますます没頭する

その場所は紫香楽宮(甲賀宮)といい

その地では大仏造営も始まっていたのである。



大仏は奈良東大寺ではなかったか?



じつはそれより前に甲賀宮で行基らによる

大仏製作が進んでいたのである。



ではなぜ大仏は奈良に作られたというのか



甲賀宮では大仏造営反対派による

相次ぐ放火で、聖武天皇は紫香楽の地を

断念することになった。

そして平城京への還都(かんと)となるのだが

大極殿は恭仁京に移築されていたので

新たな大極殿が旧大極殿の東側に造られた


左大臣にまで上り詰めた橘諸兄だったが

平城京還都ののちは発言力も弱まったという。


そんな中、光明皇后の甥である藤原仲麻呂が

光明皇后を後ろ盾にし徐々に権力を伺うようになる

元正太上天皇が亡くなると橘諸兄も表舞台から消え

聖武天皇も皇位を娘の阿倍内親王に譲り

ひたすら大仏造営に没頭してしまう。

現実逃避と言われても仕方ない状況なのである


阿倍内親王は即位し第46代 孝謙天皇という

孝謙天皇の後見は光明皇后である

藤原氏重用は加速する結果なのだが

疑問に感じていることがある

聖武天皇と光明皇后は仲睦まじかったとされる

はたしてそうだろうか?


天武天皇と持統天皇(皇后)

聖武天皇と光明皇后

史書が仲が良かったというのは

反面そうではなかったという証かもしれない



聖武天皇の描いた紫香楽宮での大仏造営を

ぶち壊しにしたのは、誰でもない皇后と仲麻呂である


世間で『夫婦円満』『おしどり夫婦』などと

言われている家庭の内情は、誰もが想像するとおり


一つ一つの史実を考えれば

光明皇后は聖武天皇のタメに生きては居なかった

藤原のために最大限の力を使った女人

たたりを畏れ、血の呪縛から抜け出るのではなく

敢然と運命に反抗した女性だったのか

彼女もある意味、複雑な血縁に翻弄された

一人の女性だったのかもしれない


私にはそれ以外に思いつかないのである。

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◎  東大寺と藤三娘 


奈良 東大寺

この寺は729年に建てられた金鐘寺が始まりという

聖武天皇・光明皇后の一子、基皇子の菩提を弔う為

光明皇后の発願で建てられたのが金鐘寺だ。

いわば東大寺の建立の大恩人は光明皇后である。

大仏造営に際し、候補地の選定に光明皇后の存在がある

長屋王の怨霊封じを基皇子の菩提寺で行う

一石二鳥とも思えるのだ



光明皇后は紛れもなく藤原不比等の娘である

皇后になってからも、自ら『藤三娘(とうさんじょう)』

そう署名し続けているのである。

藤原不比等の三女という意味であり

藤原の女を自負していたのである。


光明皇后の聖女伝説は本当なのか?

東大寺にすれば、光明皇后は大檀那である

賞賛する話の一つや二つ、いや五個や十個

書き残すこともありえる話なのである。


なぜなら慈悲深いとされる光明皇后

長屋王の供養をした痕跡が無い

自分の立皇后が原因で理不尽にも命を落とした

長屋王と幼い子供たち、そしてその妻

幼い子供に罪は無い、ならば慈悲深いといわれる

光明皇后なら、供養の為小さな寺の一つも建てて

いそうであるがその事実は無い。

長屋王の祟りは恐れていたが、仏教に傾倒していた

慈悲深さの欠片も見えないのである。


光明皇后の何がいけないというわけではないが

先例を考えるとき

皇后は天皇に何かあったとき、代わって即位する

立場に居るという事実である。

皇親の出ではない臣下の娘が天皇になる危機とも

言って良い状況だったことは事実なのである。

今だから 万世一系 などといえるのだが

あのとき、光明皇后が即位していたら

日本の未来は大きく変わっていたかもしれない


皇統の歴史は血の歴史である

こんなこと言うと不謹慎といわれそうである

しかし、事実 血塗られている思う

権力争いが命を懸けた身内の争いであったのは

歴史が伝えている。

天皇がと言うよりも、その傍近くで天皇に影響を与える

貴族の権力闘争が皇親全体に及んでいたという事実

天皇も裏を返せば、犠牲者なのかもしれない。

◎  更新のトラブルに萎えた 


今日も『花はそっと咲き』の更新をしたが

案の定 4分の1程度で更新されていた

PCで書いたときは問題なかったのだが

投稿ボタンを押して、記事を観ると

途中の書きかけ状態である


再度半分程度に短縮して更新した

PC上ではきちんと書きあがっている

投稿する際の回線なのか

消えるとものすごい消失感が漂う

萎えるというのはこういう事なのか


ペースを落として

ぼちぼちと参ります。


◎  大仏と長屋王 


異母兄弟の間で権力争いが繰り返されたのは

母系社会ゆえの現象かもしれない

子にとって、異母兄弟より母親が最優先され

母親もわが子のためなら、夜叉羅刹(やしゃらせつ)にも

なれるのである。



聖武天皇は37年間母親を知らずに育った

母系社会とは無縁の生い立ちである

それがあるとき、母親が現れたのである

母親の言葉一つ一つが聖武天皇を目覚めさせた

自分は天武天皇の血を継ぎ、母は藤原の血筋ではないこと

藤原こそ正義として育った聖武天皇はどう思ったのか

37年間 不比等によって幽閉され

親子が顔を見ることすら許されなかった現実

天武の血筋への回帰の念が生まれたとしても

なんら不思議ではない


長屋王の祟りは光明皇后を恐怖に落とした

自分の立皇后のために邪魔になった長屋王

4人の兄たちが長屋王を亡き者にした

そして8年後、長屋王の祟りと考えられる

兄たちの死、次は自分の番である

心境は推して知るべし

光明皇后が宗教の力に縋ったことは推測できる

その手段が『大仏造営』だったわけだが

長屋王を封じ込める為、そんな意図は知られてはならない

なぜなら長屋王は自分が皇后になる為に犠牲になった

冤罪で命を落とした原因は自分にある

そう世間に公表するようなものなのだ

ではどういう名目だったのか

 国家鎮護 である

東大寺大仏は 国家鎮護 という名目の

怨霊長屋王封じ以外考えられないのである。

◎  DNAに刻まれた母性 

女性が実家を大事にする

実家に拘り続けることは当たり前である

これは思考というよりDNAに刻まれた理念

何の話かと言われそうである。


結婚は古代、通い婚が一般的であった

妻問婚といわれるもので

男性が女性の元に通うことである。

当然女性は実家に住み続けるわけで

他には男性が女性の実家に住み着く

あるいは家を出て二人で暮らすなど

あったようだが、基本は妻問婚である。


今の若い女性の悩み、嫁姑の確執は無縁といえる

何でこんなことを書いているかと言うと

女性と子供 結婚と実家 男親と女親

それを考えるとき、当時の女性の状況を知っておく

必要があるからなのだ


古くは縄文・弥生の時代から

家を守るのは女性の役目

家という形は女性を頂点に子供たちが居る

そういう構図であり、母系社会といえるのである。


万葉・平安に至るまで、婚姻の形が通い婚であり

依然として母系社会であったと考えられる

母は子を中心にし、子も母親を中心に考える構図

その顕著な例が夫の子であっても、他所の女性との

間に生まれた子は、他人と同じ感覚で見てしまうのである。

女性の血脈が優先されるのも、母系社会ならではなのかもしれない



* ネット回線の不具合なのかPCのせいなのか

ここのところ更新がままならない

本人は書き上げているのに、アップされないことが

頻繁にあるため 気づいた時点で書き直しているのですが

お見苦しいことが多くて申し訳なく思っています。

◎  光明皇后と祟り 


光明皇后

名は安宿媛(あすかべひめ)。

光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう

聖武天皇の后である

藤原不比等の娘、聖武天皇の母、宮子の異母妹でもある

光明皇后というのは通称であり、正式には天平応真仁正皇太后という

兄弟には藤原四兄弟がいる。


長屋王の祟りと言われた藤原四兄弟の死を光明子は

どう受け止めていたのだろうか

自分自身も藤原の娘であり、祟りが藤原に対しての

モノだとしたら、当然自分にも何かが起こる

つまりは死ぬことになると考えても不思議ではない。

朝廷の台所事情など斟酌しない国分寺・国分尼寺の

建立も贖罪の意識から光明子が願ったともいう。

それでもなお聖武天皇の家系は祟られているという意識

光明子の藤原一族に祟りが降りかかっているという意識

その二つが引き金になって、東大寺大仏が造立されたのか

その後の二人の行動が『反藤原』にシフトして見えるのも

納得できる気がする。


祟り

たたりを今一度おさらいしておきたい

祟りというのは古代中国の信仰の一つである

『怨霊信仰』といい

『子供の祭祀を受けられない霊』がたたる

そういう信仰が本来の形である。

日本にもその信仰が伝えられ、一族がみな死んだ人

は子孫から祭祀を受けられないので祟ると考えられた。

大物主が祟ったとき、その子孫オオタタネコに祀らせて

収束を図った例が代表である。

子孫が居てきちんと祀ればたたりは起きない

それが怨霊信仰と言うモノである。


ではなぜ いつの頃から・・・

無実の罪で亡くなった政治家が祟るようになったのか

それは 長屋王の事件以降からなのである。

それまで多くの政治家や皇親が冤罪や謀略で死んだが

祟ったという話は聞こえてこないのである。


無実の罪で死んだ長屋王

その犯人である藤原四兄弟

その兄弟が次々と天然痘により命を落とす

人々は何を思ったか・・・・

あれは 天罰 

無実の長屋王を殺したことにより天罰が下った

天罰を与えるのは誰でもない、怨霊なのである。

井沢元彦氏の説によると

天罰とは、西洋で言う『神罰』なのだそうだ

旧約聖書では最高神エホバが人間に神罰を下す

ことが数多く記載されているという。

最高神が下す 神罰 が、日本や中国では 天罰

ということになる。

その最高神なるものはアマテラスでもなく天皇でもない

怨霊しかいないという。

たしかにアマテラスが天罰を与えた話は聞かない

天皇が天罰を下した話も聞いた事が無い。

古代日本では 最高神 は祟る怨霊だったことになる。








◎  遷都を繰り返す聖武天皇 

遷都(せんと)

首都を移転することである

なぜ遷都を行うのか?

膨大な費用と労力を使って・・・。

古代では、これは 死 = けがれ

に由来するという。

仏教が浸透するまでの時代は忌む事から

逃げる・避けることに重きを置いていたのである。


国の財力を使って遷都を繰り返すことを

改め、都そのものを穢れから守るように

作る

それが実現したのが 平安京 であると思う。



飛鳥宮 平城京 長岡京 そして平安京と続く。

上記はほんの一例に過ぎず

舒明天皇の百済宮

孝徳天皇の難波長柄豊崎宮

斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮

天智天皇の大津宮

天武天皇の飛鳥浄御原宮

持統天皇の藤原京と頻繁に遷都が行われた。


聖武天皇だけでも 恭仁京、難波京、紫香楽宮、

平城京と5年間に4度も遷都が行われた。

最後の平城京は遷都ではなく還都(かんと)である

旧都を再び都に定めることを還都(かんと)と呼ぶ。


この4度の遷都は天皇の奇行といわれ

この時九州で藤原広嗣の乱が起きていた時期であり

不可解な放浪をした真意が不明である。


とにかく心が強いのか弱いのか

熟慮の末なのか思いつきなのか

眼の前の困難から逃げていたのか

はたまた考え有っての行動なのか

どっちにでも解釈できる聖武天皇である。

◎  皇位継承の絶対条件とは 


生家がどこであろうと

実家の身分がどうでも

男と女が一緒になるのに別に問題などない

これは現代の話である


古代は当人より家が大事

実家がどこの氏族の流れかによって

大きく事情が変わってしまうのである。


長屋王は天武天皇の孫である

ということは 蘇我氏の流れを受け継いでいることになる。

長屋王の妃は 吉備内親王 で、やはり蘇我系の出自である。

長屋王が単に皇位継承の障害という視点だけでなく

ようやく、蘇我系の天武朝から皇位を奪った藤原氏

ここで長屋王に即位でもされたら、曽我系の復古になる

長屋王からその子に繋がれば、藤原にとって致命的

そういう事情も加えられ、長屋王の抹殺が実行されたのである。


聖武天皇には1歳を待たずに亡くなった基皇子のほかに

県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に

生まれた安積親王がいたが、基皇子が生まれてすぐに皇太子に

なったのとは反対に、生涯皇太子になることはなかった。

それには理由がある

持統天皇と藤原不比等の二人は天武朝から持統天皇の時代に

切り替わるとき、持統天皇の生んだ皇統男子の流れが

代々行為を継承することを暗黙の了解にした。

さらに不比等はその天皇の后に藤原の女を送り込み

産んだ子に皇位を継がせ、外祖父として朝廷の権力を

藤原氏が独占しようとしていたのである。

当然、藤原の女ではない県犬養広刀自である

生んだ子供が持統天皇の流れで直系男子であっても

藤原氏の血は流れてないのである。

持統天皇の流れだけでは半分しか条件を満たしていない

安積親王も17歳で急死してしまう。

持統天皇ー草壁皇子ー文武天皇ー聖武天皇

この持統天皇の家系は男子が一人しか産まれていない。

それゆえ、苦肉の策で女帝が間を生めることになってしまった

安積親王が居るにも関わらず、阿倍内親王が女性でありながら

皇太子に立てられたのである。


やがてこれは祟りのせいであると考えた人物が現れる

聖武天皇 

『自分の家系は祟られている』

大津皇子 高市皇子 長屋王 安積親王

暗殺の可能性を言えばこの人物たちの祟りだろう

それまでの天皇家なら、手厚く祀り最上級の

待遇で謝罪の意を表すだろう。

だが聖武天皇は人が変わったように仏教に傾倒し

天皇として初めて北面した

神道の最高位、祭祀王は北を背にし南を向くのが通常

それを南から北に向かって仏像に礼拝することの異常

たたりから逃れる為ひたすら祀ることではなく

仏に縋った新しい祭祀王の姿である。



近世でも、娘を皇室に送り込み

あわよくば外祖父としてこの世を謳歌しようと

たくらんだ人物も居た。

残念ながら内親王しか生まれず

目論見は潰えたように見える。

お天道様は必ず見ておられ、天罰を多少なりとも

与えられるようである。

◎  祟る天武の孫 


長屋王

天武天皇の孫であり

天武の皇子、高市皇子の子である

正義感の強い文武両道に秀でた人物という

さらに周りの人気もあり、左大臣にまで上り詰めた

歴史は彼を悲劇のヒーローにしたのである。


長屋王は運命の悪戯か、偶発的な巡り会わせか

皇位継承の最有力に躍り出てしまった

藤原の天皇、聖武天皇が誕生し不比等も安堵した

そういう時代である。


長屋王は藤原の専横、皇親を軽んじることへの

緩衝材として活用された結果

廟堂のナンバー2にまでなっていた。


運命の悪戯は突然やって来た・・・。

藤原不比等の急逝により、一躍廟堂のトップに

押し上げられたのである。


藤原にとってさらに厄介な出来事が起こる

聖武天皇と光明子の間に生まれた 基皇子が

一歳の誕生日を迎える前に夭折してしまい

好むと好まざるに関わらず

長屋王は皇位継承候補の最有力に躍り出てしまう。

持統天皇から着々と図ってきた聖武天皇の御世

このままでは、天武の孫に皇位を譲り渡さなければ

いけない状況になる可能性が高くなった。

藤原の権勢をつなげたい思惑も風前の灯である。

長屋王が万が一即位すれば、インチキな解釈ができる

イカサマ律令で天皇権威を我が物にしてきた藤原氏

それまで築き上げた藤原の繁栄は崩れ去ることになる。


藤原の苦悩は限界を超えたようである。

729年 長屋王は左道を学んだとして訴えられ

一族とともに自殺する。

これは後に 冤罪 と解るのだが、藤原の・・・・。


この冤罪事件・・・

後に長屋王の祟りとして、世間を驚かせるのである。


長屋王の祟り

藤原不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂が

4ヶ月のうちに、4人全員が天然痘にかかり死んだ

長屋王の死から8年後のことである。


祟りとは、身に覚えのある加害者の心理から発する

心の奥底にある罪悪感が原因

あるいはその事実を公言できない者たちが

そうであるはずと口に出すことから広まる。


いわれ無き罪によって死に追いやられた者の

未練・悔しさ・怒りが引き起こすと考えられ

祀ることのそもそもの起源は、祟りから逃れるため

丁寧に祀ることで祟りから身を守るのである。

恨みが深ければ深いほど

残虐であればあるほど

ことさら丁寧に祀らなければいけないのである。



◎  世界遺産登録と史料 

最近の話題は富士山の世界遺産登録

なぜ?

世界遺産に登録するのか

へそ曲がりで申し訳ないですが

自慢だから?

登録しないと消えてしまう?


この話は後世に書き残す事に似ているのである

そのモノが変わらず存在し続けるならば

特別書き記すことは必要ない

日常の当然の事象は敢えて書き残す必要など

まったくないのである。


富士山と言う山が、年々歳々変貌して行き

その変化を止める手立てとしてその時間帯を

切り取る、その形が遺産登録なのではないか

神聖な山と口では言いながら・・・

ハイヒールにスカート履き、落書きにゴミ捨て

麗しき霊峰富士の御山が汚されている。


日本人なら多少は感じているはずである。


変わり果てていく姿を見ていられない

何とか大勢の人間に現実を見て欲しい

その遺産の良さを知ってほしい

だから記録する。

富士山に登り、眼に焼きつけ、カメラで記録する

各個人の富士山記が完成である。

注目されることは管理保全されるという事である

富士山は日本人の中に記録され残されたのである。


政(まつりごと)

なぜ 政治が まつりごと なのか?

古代 ムラを国を治めることは

神を祭ることであり、祟り神を祀ることでもあった

国を治める首長が祭祀王であり

祀ることが治めることでもあった

祀ることにより治めるから まつりこと(政)

たぶん そういうことではないかと思っている。

日本神道は宗教ではなく

日本の統治手法、基本的観念であると思う。

そのまつりごとの中心に居られるのが今上天皇なのであり

まつりごとの中心は総理大臣ではないのである!


日記をつける人も多く居ることだろう

朝起きて毎日繰り返される動作など

書き残す人は居ないと思う。

書き残すのは自分に対する記録なのか?

もし、自分に対する記録ならば

その記された内容は非日常なことで無ければ

意味を持たない。

何時に起きた(いつもと同じ)

髭をそった(毎日のこと)

朝食を食べた(いつものパンと珈琲)

これでは書き残す意味が無い・・・・・。

友人への不満、会社の上司の悪口

日々繰り返される生活の中で起こる非日常な事


非日常のなかでも心理的に書き残す欲求が必要だ

書き留めるということはものすごい労力を伴う

エネルギーを使いその時の自分を切り取って残す

それが書き残すという行動と心理である。


事実であれ主観であろうが、書き残すには理由がある

書き残さなかったものにも理由が当然ある

書き記す必要が無かったか

書き残すことが不都合だったかである。

信頼できる記述であるかどうかは別にしても

書き残されたのは理由があるという事から

眼を背けては見えなくなってくる

正史以外の記述にも相応の理由と真実が

隠れているかもしれない・・・・・。

◎  女性は謎が良く似合う 

人生も歴史も女性が際立てば

絵にもなり 物語にもなる


女性は謎を漂わせているのが好ましい

下を向いて涙する女性は強かであるが

なぜか興味を覚えるのである



藤原宮子

聖武天皇の実母である

日本書紀によれば、藤原不比等の娘となっているが

和歌山県道成寺の伝承によれば、宮子は海人の娘で

不比等の養女となり文武天皇のもとに入内したという

出自が低い身分の国母ということになる

宮子は聖武天皇を産んだ後、37年間も引き篭もっていた

それが一度、僧玄昉に遭って病が癒えたという

さらに、『興福寺流記』には宮子と玄昉の密会説が残されている

興福寺といえば藤原の寺である

藤原氏の寺が藤原不比等の娘のスキャンダルを後世に

書き残すだろうか?

書き残した理由は・・・・

不比等の娘ではなく、海人(賀茂氏)の娘だったから

そして天智朝(藤原王権)にとって好ましくない人物

だった可能性も考えられる。


私は最近持統天皇が天武帝の後を継いだのでもなく

天智帝の流れに戻したのでもなく

持統天皇からの新たな流れ(皇統)を意図していた

そんな気がするのである。

その流れの中に、図らずも投げ込まれたのが

賀茂氏の娘 宮子ではなかったのか

藤原ではないどちらかと言えば、反藤原の色濃い賀茂氏

聖武天皇に事実を伝えられる危惧を除く為

37年間にも及ぶ不比等邸での幽閉であった

でなければ、37年間母子が顔を見ることが出来ない

納得できる理由が見つけられない

聖武天皇と宮子の母子再会は不比等が没してからの事

母子の再会を契機に藤原の天皇が反藤原の天皇に変わろうと

するそんな出来事が起きて行くのである。


持統天皇を考えるとき、私はなぜか 

源頼朝の妻 北条政子 を思い浮かべる


いつか機会があればこれも考えてみたいと思う。


◎  聖という名の天皇 

聖 とは・・・・

井沢元彦氏によれば

【 聖というのは、本来怨霊となるべき人が善なる

  神に転化した状態を表現した文字 】

というのである。


聖武天皇 これは漢風諡号である。

どうして 聖 武 なのか・・・・。

この聖武天皇というお方は、藤原の天皇といわれ

線の細い『ひ弱で控えめな優しい天皇』

そんなイメージを抱いてしまう。

最も縁の無い 武 を冠する天皇

そして、善なる神に転化した 聖 とは・・・・。


大仏建立の詔で

富と権力は私が握っていると宣言したが

あの言葉はいったい誰に向けて発した言葉だったのか

詔の後半の言葉が不可解なのである

『天皇のもとに集まった富で大仏を形にすることは

 成しやすいだろうが、本当に意図することを成就

 することは難しい』と言っているのだ。

さらに、民に自らすすんで造仏に手を貸して欲しいと言い

役人にみだりに百姓に重税をかけ造仏を強要しないように

聖武天皇は宣している。


本当に意図することとは、王権貴族の利権に染まらない

民衆の手による知識寺(大仏)の造立だったのか

それまでの仏教・仏寺は貴族や国家の一部の人間の

ために存在するものであり、庶民とりわけ流浪者

には縁の無いものだったのだろう。

行基が天皇に少なからず影響を与えたことは想像できる


では東大寺とは権力者に対する『民衆の寺』なのか

東大寺とは反権力の象徴として民衆の力を集めて

形を成した虐げられた者(鬼)の寺ということか

その先頭に立ったのが聖武天皇であり、朝廷に抗って

布教してきた反骨の僧行基だったわけである。


藤原の傀儡といわれた聖武天皇

藤原の力でもなく 天武の血筋でもなく

鬼たちの力で皇位を全うしたいと願ったのか?

藤原に支えられた人生を悔い改めて

反権力のシンボルとなり得る東大寺と大仏建立


政争に巻き込まれ怨霊となるかもしれない我が身を

知識寺建立によって、善なる神に転化しようとした

聖なる天皇 それが聖武天皇なのかもしれない


武とは敵を蹴散らす武勇ではなく

王権に自ら挑み反発した姿勢

それを最も不似合いな天皇の心意気に対し

武と言う文字を添えたのかと爺は思っています。

◎  聖武天皇と僧行基 

奈良東大寺 大仏

正式には 盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)

発願は聖武天皇

河内に行幸したとき、知識寺の盧舎那仏を礼拝し

自らこのような盧舎那仏を造って見たいと思い

天下に号令をかけたのである。


使用された銅は500トン (一説に380t)

金 60キロ (一説に437キロとも)

金渡金に使われた水銀 2.5トンという

国家プロジェクトにしても壮大である。


この大仏建造には 鬼 が関わっている。


僧 行基

過酷な重税・労働などから逃れ放浪する民に

強い影響を与え、その多くが私度僧になったという。

この私度僧のことを『優婆塞(うばそく)』という

僧行基は聖武天皇に信頼され745年に大僧正に

任ぜられ大仏建立の資金集めに奔走した人物である。


彼は自分から寄進を乞うことは無かったという

その土地の民の悩みを解決してやった

ただ それだけである。

どういうことか?

川に架かる橋が傷んでいれば、架け直してやる

雨が降らずに難儀していれば、ため池を掘ってやる

道中不便で旅が出来ないといえば、宿を建ててやる

人々は感謝し行基をあがめたという

そして・・・自らの意思で寄付をしたのである。

自分の欲しいものがあれば、まず相手の望むものを与える

結果として自分の欲するものが相手から与えられたのである

これは行基が意図して行っていた常套手段だったようだ


聖武天皇が目指していた大仏建立とは

重い税を課し朝廷の財力で行うのでなく

朝廷に抗うまつろわぬ者や優婆塞の力で

国家プロジェクトを完遂させることであった

その牽引者が行基だったわけである。


その行基も大仏完成を観ず、開眼の2年前に他界

その身は火葬にふされたという。


知識

知識とは、善知識の略

人々に教えを説き仏道に導く人のこと

もう一つ、寺を建て、これを維持するために財や

労力を寄進し、功徳を受けようとする人々のこと

知識寺とは庶民が自らの意思で建て維持する寺であり

聖武天皇の企みは官の力ではなく、庶民の力によって

自主的に盧舎那仏を建立することにあったようである。

◎  天平と言う時代の天皇 


ぐだぐだとテキトーに端折りながらも

時代は奈良、天平時代に突入です。


天平と聞くと・・・

咲く花のにおうが如く今盛りなり

天平の甍を想像してしまう

奈良の都の人口は20万人といわれ

大和の国は600万の人口だったそうな・・・・

建物はみな瓦で葺かれ、柱という柱は丹で紅く塗られ

天平文化は此処に極まれりと思ってしまう。


しかし、残念ながら期待を裏切ってしまうというか

夢を壊すというか・・・・申し訳ないです。


天平(奈良)という時代は、国力は疲弊し

朝廷内では暗殺・謀反・誣告・呪詛など

ありとあらゆる陰謀が渦巻く修羅場と化していた。

新たに律令制度という体制が確立したが

庶民は重税や過酷な労働に耐えかね

土地を離れ流浪する者が後を絶たなかったという。

後に『まつろわぬモノ』と呼ばれる放浪の民である


天平とは暗黒・地獄の時代と思ってよい

権力闘争に明け暮れる朝廷内部

その陰で藤原の天皇 聖武天皇と東大寺建立

いつものように、端折りながら考えてみたいと思う。


聖武天皇は突然、大仏発願の詔を発した


 夫れ、天下の富を有つは朕なり。

 天下の勢を有つは朕なり。

 この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ。


天下の富と権力は自分に有る。

だからこそ大仏を建立する、と言うのだ・・・。


藤原の天皇と呼ばれ、不比等の孫であり

ひ弱なお飾り天皇の印象が強い聖武天皇

この豹変は何を意味するのか?

大仏建立でなければ、何と傲岸不遜な天皇だ

そう言われてもおかしくない詔である。

権威の象徴として祭り上げられていた大王(天皇)

藤原の血を引く 藤原のための天皇

鬼の帝 聖武天皇である。


第45代 聖武天皇

父は文武天皇 母は藤原宮子(不比等の娘)

皇后は藤原安宿媛(不比等の娘 光明子)である。

◎  皇位継承の裏技連発 

持統天皇の時代、ちょと変わった風習

死者を悼(いた)んで泣き叫ぶ儀式

そういう葬儀の儀式が有ったらしい

たぶん大陸から仏教と共に伝わり

形式が採用されたのかもしれない

たしか中国大陸には『泣き女』とか『泣き屋』

とかいうのがあったように記憶している。

心から死を悼んで泣いてくれる人臣がいなかったからか?

持統天皇は自身の葬儀ではこの儀式をしないよう

遺言している。

心にも無い哀悼の意は『御免被る』と言うつもりか

皇統の”中興の祖”とも言うべき女帝 持統天皇

にとって、あの世とやらに旅立つときに悲しくも無いのに

泣いたふりは気に沿わなかったらしい。

さらに持統天皇は火葬を望み、火葬された初の天皇という。


文武天皇

ここから皇位継承の珍現象が起こる

文武天皇は25歳の若さで崩御した

息子は未だ7歳、即位するには無理があった。

考え抜いた苦肉の策、なんと天皇の母親が即位した

天皇の后でもなく、先帝の母親が即位するなど

前代未聞のできごとである。

他に皇子がいなかったわけでは無い

あくまでも、持統天皇の血筋を繋ぐ

そのためには先例も道義も常識も関係ない

継体から続く皇統を確実に繋げる

継体持統の持統天皇の真骨頂と言うべきだろう。

即位した女帝は第43代 元明天皇という

天智天皇の娘であるから、即位に大きな問題は無い

という判断からの皇位継承だろう。

だがこの元明天皇、途中で皇位を放り出してしまう

言葉は間違っているかもしれないが・・・。

幼い皇子への繋ぎの役目から言えば

皇位継承まで留まることが責務だろう

今度は先帝 文武天皇の姉で内親王の氷高に譲位

第44代 元正天皇である

天皇の皇女でもなく、天皇の后でもない

先帝の娘、先々帝の姉という立場での即位は

かなり逸脱した譲位の形式といえる。


無理が通れば 道理が引っ込む の見本か?

もし・・・である。

繋ごうとしている皇子の出自が普通の貴族なら

こうまでして横紙破りをしたかという疑問が出る。

皇子の名は『首皇子』という

後の 聖武天皇 である。

父は 文武天皇 母は 藤原宮子

藤原不比等の娘である。

持統天皇以下歴代天皇が拘ったものの先に

藤原の天皇家への介入の野心が見て取れるのだ

持統天皇にすればかわいい孫であり

そして不比等にとっても大事な孫なのである

続日本紀には文武天皇からのどたばた劇は記されていない

文武天皇をはじめ各天皇は褒めまくりなのである。

史書が褒めたり讃えたりするのは信用出来ないのは常識

いよいよ 鬼の帝 聖武天皇の時代である・・・・。


明治時代 犬のことを カメ と呼んでいたそうである

それも 洋犬 に限ってのことだ

日本の犬は所有というより、同居するものであり

飼うという概念が薄かった

そんなときに外国人が洋犬を使用人のように命令し

犬も従順に従うのを見て、驚いたそうである。

洋犬は賢いという評判と共に、カメという表現が一般化した

なぜか?

外国人が発する、come in または come here という言葉

を カメ と認識した結果らしい。

◎  続日本記 

日本書紀が神代から持統天皇までを記し

わが国最初の国史と言われている。


持統天皇が文武天皇にバトンを渡したところで

次の国史に移ってゆく


文武天皇から桓武天皇までを記したのが『続日本紀』

いよいよ奈良時代へと移ってゆくこの時代から

どこかで聞いたような話が数多く出てくる

謎とロマンの神代から、現実の世界へ様変わりする


この時代の最大の出来事は、藤原不比等の台頭であろう

父親 中臣鎌足と同じく謎だらけの人物である

31歳で表舞台に登場するまでの履歴が不明なこと

母親も通説はあるが定かなものではない

彼が持統天皇の信頼を得たのは親の七光りと

天武天皇以来、強くなりすぎた皇親勢力に対抗するため

適任だったからであるという。

和を持って尊しとなす 時代の終わりである

一貴族の手に膨大な権力が握られ有力豪族の没落

という不幸な歴史の時代でもある。

持統天皇が即位したことによる『歴史の功罪』

実は違った日本国になっていた可能性もある。


しばらくは天皇家と藤原一族のかかわりを

考えて行きたいと思う。




◎  伊勢白粉と輸入白粉 

伊勢白粉(いせおしろい)というものがあった

高級な国産白粉で、原料は水銀(丹)である。

この白粉、伊勢の丹生で算出した辰砂を

下流の射和で加工し水銀にしたり白粉にした


この伊勢白粉にはやがて強力なライバルが

出現したのだ

それが中国や欧州から輸入された白粉である

とにかく肌の乗りが良い上、安価であった。

なぜ安価だったのか・・・・

中国製の白粉は鉛を原材料に使っていた。

高価な辰砂(水銀)と比較しても値段の差

これは庶民には魅力的だった。

ところが、一つ大きな問題が中国白粉にあった

鉛の毒害である。

鉛を使った白粉は鉛毒の危険も付いてくる

だが、いつの時代も『値段と効率』に弱いのが

世間の婦女子という事のようだ・・・。



現代でも中国製の商品の毒害が指摘されても

値段の安さから購入を続ける日本人がほとんど

値段の安さは命より大事だという事である。

◎  大相撲と四股 

暑さの中での大相撲名古屋場所

敵は相手力士ではなく 名古屋の暑さだろう

熱田さんの地元、さすがに熱いと想像する。

さて、相撲といえば 『四股(しこ)』である。

何で『四股』なのか?

四股を踏む というけれど 

四股をするとは言わない・・・・。


何を踏むのだろうという疑問


答えは  なのだと思っている。


鬼は モノ とか、シコと呼ばれていた。


もののけのモノであり、醜(しこ)とは強いという意味で

醜男とは強い男と捉えられて来た。

強いモノ=鬼 と考えられてきたのである

だから、シコを踏む とは、鬼を踏みつける

それほど強い 力士 という事になるのだ。

あくまでも 長屋の爺の私見です・・・・。


持統天皇の漢風諡号は熟語『継体持統』から

淡海三船が名付けたとされる

継体とは皇位を正当に継ぐという意味

持統とはその皇統を持続させたというのだろう。

継体天皇は『反新羅』の天皇である。

天智天皇もその流れから反新羅派と知られ

天武天皇は親新羅として顕著であり

持統天皇はいったい誰の系譜を持続させたのか

天武の后で、天智の娘

単に後世の人間の思い込みでつけられたのかもしれない。


第42代 文武天皇

大宝律令の選定で知られる天皇である

また『役小角(えんのおづぬ』を流罪にしたと言われる

役小角は役行者とも言い、修験者の祖として知られる。

祖母持統天皇から譲位されたが、25歳の若さで亡くなった。

皇子の首皇子はまだ7歳という年齢で皇位を継ぐことが出来ず

異例とも言える、文武天皇の母親が即位した

第43代 元明天皇である


天皇の后でもない女性が天皇に即位したという

これも歴史上初めてと思われ、異例尽くめの時代だ

彼女もまた孫の成長を待つ繋ぎの天皇である

◎  天孫の陰の功労者 

葛野王(かどののおおきみ)

天智天皇の孫、大友皇子の長子である

この人物、持統天皇から文武天皇への譲位に深く関わる


持統天皇の継嗣(皇太子)を決めるとき

弓削皇子らに対して以下のように主張したという


『日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は

争いのもとだ』として天皇位の直系相続を主張した。

ところが古来から兄弟間での皇位の継承は一般的であり

直系相続が一般的とは到底考えられないのである。


葛野王という人物、壬申の乱で天武天皇に敗れた

大友皇子の子ということで、朝廷内でも当初は評判が悪かった

ようである。

裏を返せば、天智天皇とその子大友皇子は群臣からも庶民から

も人気のない人物だったという事になる。


そのような人物が陽のあたる場所に出られたのも

天武天皇が亡くなり、天智天皇の娘が天皇になった結果

持統天皇や藤原不比等の引きで出世したと思われる。

葛野王の孫に淡海 三船(おうみ の みふね)が居る

神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)

の漢風諡号を一括撰進した人物である。



本来即位していない皇太子の子は皇子ではなく王(おおきみ)

を名乗るのが常識である。

葛野王が後押しをした結果と持統天皇の横車によって、慣例に

無い天皇の子以外が皇子を名乗る異例の結果となったのである。


皇室と聞くと総て『前例に従い』と思いがちだが

この時代は何でも異例なことばかりの時代

だから持統天皇から皇室祭祀が始まったような気がするのか

持統天皇の慣例にない形の孫への譲位

これが天孫降臨の土台になっていると思って間違いないようだ

数多居る皇子ではなく、孫に皇位を継がせる正当性の根拠作り

それが天孫降臨の神話なのである。


天皇(てんのう)という呼称は天武天皇の時代からという

それまでは大王(おおきみ)と呼んでいたようだ

では以後、今まで天皇という称号を使い続けたかといえば

答えは NO である。

平安中期からは、天皇には院号が付されるようになり

(たとえば 後堀河院など)

『天子(てんし)』、『主上(しゅじょう)』などと呼ばれ

天皇(てんのう)という呼び名は近世になって

江戸後期の光格天皇の死後、意図的に使われるようになった。

◎  持統天皇と日本 


 持統天皇は姉(大田皇女)の息子大津皇子

を処刑した。

皇位継承順位2位である甥の命を奪ったのである。

当然継承順位一位の草壁皇子は持統天皇が産んだ子だ

ライバルを排除したというには悲しい結果である。

ところが、国史によれば即位したのは草壁皇子ではない

持統天皇が后の立場から皇位についたのである。


推古天皇のときもどうにも解せなかったのだが

皇位継承候補の皇子が数多居たにもかかわらず

まして皇太子の草壁皇子が即位しなかった理由とは

書記は巧妙に史実を隠蔽している気配がする


大津皇子が処刑されたとき、妃の山辺皇女は髪を振り乱し

裸足でかけていって、殉死したという。

山辺皇女は天智天皇の皇女で大津皇子の母親の妹である。

持統天皇は姉の子と異母妹を同時に抹殺したことになる。

天智天皇の孫と天智天皇の実の娘を亡き者にしてまで

何を得 何を守りたかったのか 不可解の一言


持統天皇は689年、国号を『 倭 』から 『 日本 』

に変えたといわれている


翌690年、正式に即位?したとされ

新しい宮殿を作り、694年に遷都した

その新しい都の名は・・・藤原宮 という。

持統天皇は690年、伊勢神宮の式年遷宮を行ったとされ

692年、外宮の式年遷宮も行ったという。


この持統天皇が日本の神様を複雑怪奇にした張本人

そう確信している。


本来 男神であるはずの太陽神を女神に替えて

それまで見向きもしなかった伊勢の社に権威付けし

自分の境遇を神話になぞらえ、大和の神々を蔑ろにし

虚実をない交ぜにした日本書紀と言う史書を持って

持統天皇の帝紀は完成を見たのである。

日本書紀は専門家は天武帝の国史、あるいは天智帝の

ための国史であると言うが・・・

私には”持統天皇の思惑で編まれた国史という思いがある

天武の為でも在り天智の思いでもあり、どちらとも解釈できる

日本書紀とは、一人の女性、一人の母親の情念が書かせたもの

そう思えてならないのである・・・・。


持統天皇から始まったと言われるものが数多くある

大嘗祭、伊勢神宮、国号『日本』、都城『藤原宮』、など

さらに、譲位した後も実権を握り、『太上天皇(上皇)』

という新たな制度も持統天皇が最初である。


万葉集で有名な

「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」

という歌を詠み、歌人としても才を見せた。


お飾りではない実権を握っていた女帝

持統天皇

壬申の乱も裏で動いていた可能性も囁かれている

少なくとも、天武天皇と行動を共にしたなど

史書だけの後出しじゃんけんと言えるだろう。

彼女が天武天皇の名声と力を欲したとしたら


その意識が万葉集の歌に表れているような気がする

天女の羽衣を手に入れた喜び

神聖なカミノヤマ(天の香具山)に衣など干せる人間は

この世には居ない
・・・それほどの権勢を手に入れた

これからの人生は自分のタメに存在する

念願かなった喜びだったのであろう。





◎  私は思う 

 昨日はなぜか ネット回線がうまく繋がらず

HPにすら、アクセス過多で表示できないといわれ

やっと繋がっても、途中で切断と最悪の日曜日だった

七夕のせい? 日曜のせい? 日ごろの行いのせい?

全部当てはまっていると思ってしまう長屋の爺です。


とある方のブログを読んで、昔を思い出したので

戯言をつぶやいてみます・・・・・


私は過去に何度か頭を割ったことがある

そう、頭を切ったのではなく 頭を割ったのである

仕事中での出来事で、工期が迫り”待ったなし”の状況下

頭の怪我は 想像以上の出血を伴います

ポタポタではなく、ドバーと出ました

そんな事にはお構いなく、タオルとゴムバンドで止血処置

残業までした長屋の爺です。

医者に言わせると、頭の傷は出血したほうが良いそうだ

治りや後遺症を考えても、出血したほうが良いと言い

周りは心配して大騒ぎするが、当人は割りと平気である


友人がバイクで事故に遭い、やはり出血があったが

先天的な馬鹿以外、さして後遺症も無くすぐに復帰した。


交通事故 

私は大型トラック(12トン車)と衝突する事故の経験がある

私の車は大破し原型を留めていなかったが 幸いにも

私自身は無傷であった。

閻魔様からも断られた、シニゾコナイ である。

私は被害者ではない、加害者である。

過労からの居眠り運転、さらに赤信号で交差点に侵入した

そのときのトラック運転手が優しかった

体の心配をしてくれ、電話で何度もお見舞いを言われた

本来なら加害者の私に文句の一つも言いたかったはずである

彼に 日本人の、サムライの優しさを感じた

この優しさは モノノフの矜持かもしれない

日本人特有の思いやりと言うのかも・・・・・


だが、この優しさ・思いやりが最近のシナ・朝鮮の暴挙

の要因かもしれないのである。

優しいが故に、相手に付け込まれ

我慢することが最善の方策と信じてしまう

日本人同士なら・・・気持ちを通わせる となるが

異国人はどうなのか?

性善説で生きてきた日本人、その意識が邪魔をする

同病相哀れむ で済む話だと良いのであるが

過剰な優しさは、相手に思い違い・勘違いをさせてしまう

自己の非を相手の誠意によって 意識を薄めてしまうのだ

原点に立ち戻れば、己の非が招いた事象であるのだが

優しさは相手の非(罪)の意識の表現と勘違いする

私も悪いが相手も悪いかも・・・と思い違いをしてしまう。


世の中 原因 があって、結果が生じる

原因は限りなく100% であり

結果は常に 未知数なのである。

非は100%であり、それが軽症であれば幸運な結果で

最悪命を失ったなら不幸という結果なのである。

だが、結果の如何によらず、100%の非が起因である


私は交通事故で幸運な結果を体験したが

事故の非は100%私にある、今でもそう考えている。

◎  自ら即位した天皇 

皇位の即位には群臣たちの強い後押しが必要だった

そんな祭祀王の継承ルールに終わりが訪れる

第41代 持統天皇 である。

父は 天智天皇 母は 蘇我遠智娘

天武天皇の后である。

慣例を破り自らの意思で即位した女帝で

後継(次期天皇)も持統天皇が自ら指名したという

私はこのような事はありえないと思っている


この当時、絶大な権力を持たない”藤原”である

その他の群臣貴族を押さえつけるほどには至っていない

そう考えている。

その答が、後世語り継がれる『天皇の宮』は藤原不比等の

私邸に在りという事だと思う。

このとき持統天皇と藤原不比等は天智帝と鎌足のように

浮き上がった存在だった可能性もある。

称制(即位せず政務を取り仕切る)を行ったのは

中大兄皇子(天智天皇)と鵜野讃良(うののさらら)

すなわち持統天皇の親子だけなのである。

見方を変えれば、即位しなかったのではなく

即位できない状況に陥っていた可能性が高いと

思えるのである。

史書に称制を行ったと書いてあっても

素直に信じることはできない

我が子に後を継がせたい母親の願いに

冷遇され続けた鎌足の子、不比等が裏で動いた

時を経て鵜野讃良と不比等の工作が実を結び

息子に譲位することに成功し、まだ若い天皇を

補佐する名目で”藤原”の権力の種がまかれた

これが形式的とは言え『太上天皇(上皇)』という

新しい朝廷のシステムであり

わが国最初の上皇が 持統太上天皇 なのである。

持統天皇は歴史上初めて 火葬 された天皇で

火葬後 天武天皇の陵に埋葬された事になっている。

◎  話し合い文化の日本 

古代より日本は 話し合い によって進んできた

何を言っているのか?

『和を以って貴しとし、忤ふること無きを宗とせよ』

十七か条の憲法の第一条である

この憲法 特別斬新なことを言っているわけではない

ヤマトに集権国家が誕生したときから

この国は 話し合い によって政(まつりごと)が

決められてきたのである。

表向き 武力でなく、合議によって決められ

決めた事には従わなければならない

『憲法』の基本的な考えである。

合議という名で、それを決めるのは、限られた人々で

憲法の影響を受ける 庶民ではない

明治憲法も・・・

『広く会議を興し、万機公論に決すべし』

つまり、何事も話し合いで決めなさい

そういっているのである。

古代から近世まで、日本国は話し合いで決めてきたのだ

その話し合い(合議)が良いか悪いかは別にして

話し合った結果が正しいかどうかは甚だ疑問である。


ヤマト建国より象徴・祭祀王であった大王

絶対君主でもないし、強権発動する立場でもなかった

多くの豪族首長に担ぎ上げられたシンボル的存在

その大王が意思を持って、自ら決めようとしたとき

ヤマト(日本)が大きく動いたのではないか・・・・。

それが6世紀半ばから8世紀にかけての朝廷だろう

合議によって纏まってきたヤマト朝廷において

利己を押し通す大王が出現した

天智天皇と天武天皇の二人である

天智天皇は無謀とも思える 百済救援 百済復興 のため

ヤマト朝廷を危難に導いたのである

天智天皇が不審な死を迎えたというならば

新羅存続のために、天武天皇は天智天皇を抹殺した事になる

これは合議とは無縁の私利であり、利己の果ての決断といえる


決められない政治 いつの時代にも有ったという事である。

ただし、この時代の 決められない は群臣貴族の力が落ち

群臣が大王の暴走を止められなかった結果であり

昨今の 決められない は獅子身中の虫が多すぎて

合議に至らない結果という違いがある。


天智天皇暗殺説を疑う材料はいくつかあるが

天智天皇の后(倭姫王)が詠んだ歌が不可解なのだ

天智天皇が病に臥せっているときに呼んだ歌・・・

 青旗の 木幡の上を 通うふとは

 目には見れども ただに会はにかも


【山科の木幡の山の上を御魂が行き来しているとは

 目には見えるけれども、これを天皇のお体に呼び戻して

 じかには会えないことだ】

なぜ 都の宮殿で臥せっているはずの天皇が

山科の地で、魂が彷徨っているなどと詠んだのか

その地で行方知れずになったという証言とも考えられる


以前 殯(もがり)が記されていないのは

崇峻天皇と天智天皇だけであると書いたが


年齢が定かではない(記されていない)天皇は

崇峻天皇と天武天皇だけである


これが歴史のプロが言う、国史としての信頼性に欠ける

大きな要因だと思っている。

自分の家の過去帳に先祖の生年月日が書かれていないで

それを放置する子孫など居るわけがない

常識から考えて、そういう話なのである。


今で言えば、TV・新聞・ラジオの報道は眉唾もの

それと同じくらい信用度が希薄な史書といえる

◎  新羅か百済か さらに唐まで・・ 

7世紀~8世紀の歴史は、神道と仏教の選択が絡む

大陸から仏教が入り、朝廷で取り入れるか否かの選択

蘇我氏の仏教擁護、物部氏の神道擁護は顕著である

8世紀になると、それに加えて半島情勢も絡み

親百済派 対 親新羅派 の構図も見ることが出来る。


ところで、日本の歴史を調べていくと

『半島から渡来・・・』という文言を良く見かける

個人的な感想として、どうも腑に落ちないのである。

半島を経由してなのか、半島から渡ってきたものなのか

同じ様で微妙に違うと思っている。

唐の文化や様々な事柄が 半島を経由して 日本に伝わった

あるいは唐の文化などが半島に定着してさらに日本に渡来した

これは似て非なる物なのである。

近代、日韓併合を振り見れば、その答えは明白であろう

たとえどのような争いに身を投じたとしても

国家や民族の伝統・風習・文化・科学・教養・遺産などが

短期間で灰燼に帰するとは到底思えないのである

文化や風習、有形無形を問わず、必ず伝わっていると

日本をみて感じている。

私は半島から渡来とは、半島を経由してが正しく

半島から取り込んだものに異国の香りがしないのである

どうして日本人のルーツを半島に求めるのか

しまいには天皇家は朝鮮人がルーツとまで言う始末である


ある文章に出会った

古代の半島南部に住み、日本列島の住民から韓人(カラビト)と

呼ばれていた人々は、倭人系民族だった。

彼らは、当然倭語(日本語)を話したし、現在の半島人とは人種・民族が

異なっていた。

カラ半島南部においてワイ語(現在の朝鮮語の基になった言語)が公用語になったのは、

8世紀以降であり、7世紀までは、半島南部の公用語は倭語(日本語)だったのである。

古代日本人が交流していた相手は、あくまでも半島南部の倭人であって、

ワイ族(今の朝鮮人の先祖)ではない。

古代における日本列島住民と半島南部住民の交流には、朝鮮人(ワイ族)は

無関係なのである。


その答えは

現在の朝鮮人は、半島東北部の太白山脈の東側に住んでいたワイ族の子孫である。

高句麗人(フヨ族)ではないし、韓人(カラビト)でもない。

今、国際社会で「コリアン」と呼ばれている民族は、実は朝鮮人ですらない。

もともと朝鮮人というのは、紀元前1世紀の時代に半島北部に住んでいた漢人のことである。

つまりチャイニーズのことだ。

衛氏朝鮮国の住民である漢人が「朝鮮人」と呼ばれていたのだ。

現在の『コリアン』と呼ばれている半島人(ワイ族)とは、異種なのである。



これで長屋の爺は納得できたのである。

半島との交易は倭人どうしの交流であり、半島南部から渡来しても

ある意味 国内移動に近かった(エゾと内地の関係)とも思えるのだ

天皇家のルーツは、間違いなく 日本 であると得心がいった。


天武天皇は親新羅派であり、天智天皇は親百済派である

天智天皇は百済再興を画し、白村江の戦いで惨敗したのち

唐の侵略に怯える毎日だったという

天智天皇が病死したといわれる頃・・・

唐の軍団二千人が使節として来日した

唐使は郭務悰(かくむそう)という

新羅・高句麗の反抗に遭い、唐は倭国との軍事同盟を

望んでいたようである。

もし、天智朝が唐と同盟を結べば、新羅の命運は尽きる

親新羅派の天武天皇は同盟阻止をたくらんだ

その結果が 天智天皇の不可解な失踪事件ではないだろうか

容疑者は一番利益を得るものと相場は決まっている。

新羅の滅亡を守るため、新羅擁護派は行動を起こしたのだ


筑紫大宰(つくしのおおみこともち)である栗隈王(くるくまのおおきみ)

大宰府の長官で九州軍団最高司令官のような人物である

天智天皇の行方が判らなくなった土地は宇治であるが

栗隈という名は宇治の地名でこの地と深い関わりがあるという

天武天皇が即位できた最大の功労者が 栗隈王 だというのである

ところが歴史にはほとんど登場しない人物で

壬申の乱のとき、近江朝廷からの出兵要請を蹴ったとされる

時を経て栗隈王が亡くなると、正四位上から従二位に追贈された

何もしなかったとされる栗隈王に対し 三階級特進の異例な処遇

何かあったと考えるのは当然といえる。

従二位と一口に言うが、左大臣・右大臣にもなれる資格である。

とにかくこの時代は面白い・・・まだまだ続く気配である。




◎  天武朝の揺らぎと天智朝への回帰 

前回 仏式でも神式でも供養されてこなかった

天武天皇とその一族(血統)だが

天武天皇が崩御した後、なぜか后である鸕野讚良が

称制(しょうせい)を行った。

称制とは君主が死亡した後、次代の君主となる者や先の君主

の后が、即位せずに政務を執ることであり

事実は即位の儀式を経ず、事実上の即位と考えられる。

即位は群臣の推挙・後押しが無ければならなかった時代

書き残されなかった”歴史の裏事情”があったと思われる。

天武天皇には皇子もいたが、即位した事実は無い。

皇太子は鸕野讚良(持統天皇)の息子 草壁皇子で

さらに 大津皇子 という息子がいたが

謀反の疑いで鸕野讚良(持統天皇)に処刑されている。

なんとしても時を稼ぎ、草壁皇子に皇位を引き継がせたかった

母親としての親心だったようである。

とにかく古代では、身内の意識が現代とは違っている

皇統だけなのか定かではないが・・・・

大津皇子は鸕野讚良の姉(大田皇女)の産んだ天武帝の子

鸕野讚良からすれば甥であり、血の繋がった身内なのである。

息子かわいさから、血の繋がった甥まで抹殺する

現代の物差しでは計り知れないのである


天武天皇崩御から3年後、皇太子だった草壁皇子が亡くなり

鸕野讚良は翌年、即位して持統天皇となる。

草壁皇子の享年は28歳、天武天皇崩御の時、25歳だった

即位して不都合な年齢ではない、不思議である。

史書は黙して語らずである。


史書では天武天皇と持統天皇は仲睦まじく后は常に天皇の

傍らで政務を助けたと記されている。

それもどうやら信憑性に欠ける話だという

なぜかと言うと、答えは『万葉集』の歌に見えるという。

持統天皇は天武天皇に対し、三首の歌を残している

にもかかわらず、天武天皇の持統天皇に対する歌が一首も無い

と言う事実、他の女人に酒脱で機知に富んだ歌を幾つも残している

事実があまりにも不自然なのである。

一般的に 『日本書紀』 は天智寄り

『古事記』は 天武寄りの記述が多いといわれる。

さらに、後世に日本書紀は書き足された可能性も指摘されている


推古天皇といい、持統天皇も皇子が数多いるなかでの即位

不自然・不可解でならないのである。

本当に即位したのか、後に即位したことにした可能性もある

なぜかと言えば、『扶桑略記』には 持統天皇の宮 は・・・

藤原不比等 の私邸 にあったと記されている。

正式に天武天皇の意思を継いだと言うのなら

群臣も不可解なのである。

天武天皇は天智天皇の皇子、大友皇子を殺して皇位についた

その原動力の群臣たちが、天智天皇の娘に皇位を委ねるか

むしろ数多居る皇子の誰かに、天武帝の血脈を繋ぐことを

選択するはずなのである。

その鍵を握るのが、天武朝で冷や飯を食わされていた

藤原不比等という人物の台頭ではないだろうか

◎  殯(もがり) 

殯(もがり)という風習があった

古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでの長い期間、

棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、遺体の腐敗・白骨化などの

物理的変化により、死者の最終的な「死」を確認することである。

殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(もがりのみや)という。


さて歴代天皇の中で殯の期間が定かでない天皇がいる

第32代 巣峻天皇 と 第38代 天智天皇の二人だ

殯の期間は長いのが普通であり、短いという事は異常な死を意味する

さらに公式に殯の年月が書き残されていないのは尋常ではない

巣峻天皇はといえば、蘇我馬子の忠臣である”東漢直駒”の手で

殺された天皇である。

臣下に殺された、即ち『異常な死に方』をされた天皇という事なのだ

穢れが移らないうちに、すばやく埋葬するのが基本である

殯の期間が短いのは理解できるが、記載されないのは異常である

天智天皇は史書によれば、病死である

通常の病死(病死に異常も通常もないかも)であるなら

大化の改新の功績者である

殯の期間も長くなくてはおかしい話

それが、史書に一切記されていない、歴史ミステリーであろう。

さらに、天智天皇の陵(みささぎ)も記されていないのである

尋常ならざる最期(死)と考えるのは当然と思うのだが・・・


もう一つ、天皇家は明治まで仏教徒であったが、菩提寺の

真言宗 京都泉涌寺 (せんにゅうじ)には天武天皇の血筋だけ

祀られていない、詳しくは以前に書いたとおりである。

さらに、天武天皇以降 称徳天皇まで、神式の祭祀から除外

されていたという。

仏式でも供養されず、神式でも祀られなかった天武天皇と一族

万世一系の捉え方が大きく揺れるのである。


天智天皇と天武天皇の関係は 兄弟? 他人?

正確に言えるのは、天智天皇の娘4人が天武天皇の后になっている事実

同母弟ならば少々異常な人数であり、まるで人質の気配さえする

天智天皇の異なる死亡説

しばらく天智&天武を考えてみたい・・・・。


年号

明治、大正、昭和という年号は、いつから?

古くは年号と言うモノは無く、大化の改新のころから

正式に使われたようである。

年号の始まりは 大化 であり、以後数々の年号が誕生した

同じころ、大君・大王の呼称も、『天皇(すめらみこと)』

と使われるようになったという。

◎  天智天皇暗殺説 

歳はとりたくないものであります

昨日 久々にハードな仕事で、帰宅後このブログの更新

をしている最中に、不覚にも転寝をしてしまい

夜中に目覚めるという体たらく・・・・・。

更新も出来ず、エアコンつけっぱなしで喉が痛いなど

良いところなしの6月晦日であった。


さて天智天皇だが、日本書紀によれば

病が重くなった天智天皇は、寝所に大海人皇子を呼び

後事を託そうとしたが皇子は固辞し、出家して吉野の

地に隠棲したという。

その約二ヵ月後、天智天皇が近江宮で病死する。

これが史書の言う天智天皇の最期である


それから400年後、平安末期に書かれた書

『扶桑略記』に日本書紀とは異なる話が載っている。


十二月三日に天皇が亡くなり、五日に大友皇太子

即位した。二十五歳である。

一説に言う『天皇は山科の郷に遠乗りに出かけたまま、

帰ってこなかった。山林の中に深く入ってしまい、

何処で死んだかわからない。仕方が無いので、その沓(くつ)

の落ちていたところを陵(みささぎ・墓)としたその地は

現在の山城国宇治郡山科郷北山である。



天皇が行方不明になって、仕方が無いも驚くが・・・

二日後に即位というのも驚かされる。

即位を急ぐ 事情 があったということか


そもそも、400年後になぜ 正史と違う説が書かれたのか


400年後の時代が、天智天皇の事故死・不審死を暴露しても

許されるようになったからなのか

『日本書紀』と『扶桑略記』

天智天皇の時代のすぐ後に書かれた正史

400年後に僧(皇円)が書いた本

歴史学会は当然、このような説は無視しているという


天皇の子孫が編纂に関わった、勝者の言い分である正史

不都合なことは、知らない・わからない、そして捏造作文

一介の僧には、利害があるとは考えにくい

むしろ、人々の口に何百年と伝えられてきた歴史

それがある日、とつぜん陽の目を見たと言うべきか

人の口に 戸は立てられない・・・・・。

私は天智天皇暗殺説のほうが有力だと思っている。


正史『日本書紀』に天智天皇の陵の所在が記されてない

これをどう考えるかである

ほんの少し前の史実すら正確に書いていない正史である

天武天皇の生年月日すら書かれていない事実はなぜなのか

正史だから信用できる、たかが仏教僧の書いた書物など・・・

これは個人の考えにもよるだろうが

国家が主導して書いたものは 正しい という論理

最近の学校教科書を見れば、疑いたくなる日本人は多い

(嘘や曲解を平気で載せる 国家もあるという実例だ)

大本営発表や朝*新聞の例も忘れてはいけないだろう。


扶桑略記の著者は天台宗 阿闍梨(あじゃり)皇円

あの浄土宗開祖 法然 の師であった人物である

偉い坊さんだから、嘘はつかないなどと言うのではない

大友皇子の息子 与多王 が創建したのが 三井寺(園城寺)

であり、天台宗の延暦寺とは別のもう一つの総本山である。

もしかすると、天智一族の『他人には言えない』秘密も

知り得る立場だった可能性もあるのだ

何者かに暗殺されて、亡骸すら消えてしまったなど

他人には自慢できる話でもないのは理解できるのである。



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