不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

◎  スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

◎  水のありがたみと名水 

日本の国土は水に恵まれている

よく耳にする 名水百選 

美味しい水が湧き出るところなのか

だが、日本は飲み水が安全で美味しいといわれる

なぜ? 名水なのか・・・・


これには理由があるらしい

今でこそ水道が完備され、蛇口をひねれば水が出る

私の幼いころは家に水道など無かった

地域の共同水道へ水を汲みに行っていたのである

家には『水瓶』があり、天秤棒で水を運んで甕を

満杯にするのが、子供たちの役目だった

無論、水は無料ではあったが、年中その役目は

子供が担っていたのである。


名水の話でした・・・・

昔々湧き出る水が何処でも美味しく澄んだ水

そういう事では無かったらしい

赤い水・・・鉄分が多くさび色の水など飲料に適さず

水は豊富に出るが、飲めない水も多かったという

それ故 澄んだ美味しい水を人々は大切にし

何処そこの水は美味い、清らかだと絶賛した

なぜ 赤い水が出る

赤い水の出る場所は、本来は砂鉄の取れる場所

鉄生産に従事する昔の人は赤い水の出る場所に住み暮らした

その人々は飲める水・美味しい水を大切にした

それが名水と呼ばれるものかもしれないのである


今はカルキ臭の水道水に対する不満からか

はたまた健康ブームの影響か・・・

昔ながらの飲める水に注目し、名水などと流行した

ミネラル豊富な水は、先人たちの遺産である


水は無料(ただ)だった昔々・・・・

無料で飲み続けるために、自然に感謝し

水を与えてくれる山々・森の木々を大切にした

どんなものにも感謝する心

それが神を崇拝する根源であると思う。

水道局の仕事を自然の山や木々がこなしてくれる

自然の恵みに 感謝 したいものです。
スポンサーサイト

◎  山背大兄王と聖徳太子 

中臣鎌足

藤原氏の祖と言われるが

この人物 謎だらけである

日本書紀は藤原不比等の影響が色濃く出ている

にもかかわらず、父親である鎌足の父母すら記されてない

ある日突然、歴史の表に現れて勧善懲悪のヒーローになる

彼は何者なのか・・・だれも知らないのである。

元々は祭祀を司る中臣氏と言うのだが

以前書いた欽明天皇の時代に”中臣鎌子”という

人物が群臣の中に居るのだが、どの文献にも

『二人は別人である』と言うだけなのである

そんなことは子供でもわかる話だ

100年も同じで居るわけも無く、別人であることは

異論は無いが、なぜ同姓同名なのか答が無いのである

むかし欽明帝の傍近くで仕えた 中臣鎌子 という名を

拝借したが、不都合があったので 中臣鎌足 に変えた。

実はおおっぴらに名乗るわけには行かない理由があった。

それで中臣性を拝借した、爺はそう考えております。


中臣鎌足が蘇我入鹿を殺した理由・・・

入鹿が山背大兄王とその一族を滅ぼしたからという

尤もな理由だが、その山背大兄王の滅亡に至る話が

不可解なのである

史書にある山背大兄王の話


 山背大兄王は蘇我入鹿が差し向けた軍勢を煙に巻くため

 斑鳩宮に馬の骨を置いて、生駒山に逃れた。

 焼け跡の骨を観た入鹿軍は『山背大兄王は亡くなられた』

 と、信じ込み帰って行ったという。

 さらに挙兵を促された山背大兄王は、『勝つのはわかって

 いるが、私一人のために、他の人々に迷惑をかける事は

 できない』といい、斑鳩に戻り一族諸とも滅亡の道を選んだ。



というのが筋である・・・おかしい、何かおかしい

当然 この当時は離れて暮らしていただろう子供たち

その総てを集めてどうして自ら死を選んだのか?

むろん蘇我の兵に囲まれていたわけでもないのだ

この事件によって、聖徳太子の血脈は途絶えたという。

出来すぎである・・・・不可解極まりない話である。

本当に山背大兄王という人物はこの世に存在していたのか

仮説であるが、もし山背大兄王が架空の人物だったとしたら

聖徳太子も架空といえるのである

架空のスーパーマンを作ったその当時の王権が

架空の聖徳太子の末裔が存在しないことの言い訳

それが聖徳太子の血脈の滅亡、山背大兄王と一族の死は

『残念ながら 太子の一族は滅んで今は居ません』

私にはそう聞こえてくるのである

そうであるならば、推古天皇が后でありながら

スーパースターで血統にも申し分ない聖徳太子に

皇位を継がせなかった理由にもなる・・・・。

(架空の人物に皇位が継げるはずもないのである)

聖徳太子が皇太子のまま歴史の奥に消えたのには

こういう理由があったのかもしれない。


そうなると山背大兄王を攻め滅ぼした蘇我入鹿

実在しない人間を死なせることもおかしな話

中臣鎌足と中大兄皇子の単なる政敵の抹殺と言う話になり

蘇我=悪 の公式は崩れるのである

乙巳の変もクーデターの様相になり、大臣から権力を

奪う目的の暴挙だった

さらに、この二人”百済救援”を画策していて

蘇我入鹿の反対に遭い、百済救済のための乙巳の変を起こした

そう考えても間違いではないと思う

事実 反対を押し切って、百済へと向かったのである


古代 医療行為に携わる者は 忌み嫌われたという

傷や病気は 穢れ(けがれ)であり

穢れに関わる者は 遠ざけられたのである

今の時代 名医だ命の恩人だと尊敬されているが

本を糺せば、私たちと同じ ヒトデナシ だったのである。

これは穢れた世界とそうではない世界の 区別 だったと思う

◎  天智天皇  

第38代 天智天皇

この天皇のことを書き出すと収拾がつかなくなる

そんな勢いの天皇である。

まず皇位継承であるが、凡その形が出来ていたと思える。

帝崩御 → 群臣の推挙 → 新帝即位 → 新帝による群臣任命

天皇は群臣の推挙で即位することができ

新帝が即位した時点で、群臣の身分は白紙になったという

その群臣を任命するのは、新帝の権限であった。

天皇の意思とは無関係に、傍に仕える群臣の思惑で決まった

その論理から言えば、天智天皇の即位が実現しなかった背景に

絶対的な力を持った群臣や氏族が不在だったといえる。

私見ながら、強大な力と能力を持った大臣の蘇我親子を

言いがかりのような理由で滅ぼした天智帝である

どういう処遇をされるか判ったものではない

群臣は可能な限りのリスク回避を選択したのかもしれない


天智天皇というと、すごいことを沢山やった天皇

そんなイメージがある、本当にそうなのか

大化の改新という言葉に振り回されて

現実に何も教わってこなかった気がするのである、

彼が天皇即位したのが668年でありすでに43歳

実験を握ってから5年後のことである

その5年間は、唐と新羅の連合軍の襲来に怯え

山城を各地に築くことに没頭した歳月だったという

天智天皇が『白村江』の戦いに敗れて飛鳥に戻った

そういう記述は見えない、戻れない為に唐突に近江

へ都が遷された、それでも民衆の非難は無くならなかった

度重なる出火(不審火)による消失が続いたという。

即位した翌年、中臣鎌足が亡くなり

その3年後、天智天皇も亡くなっているのである。

冷静に考えてみると、天智天皇はいったい何を

なそうとしていたのだろう

無謀・無駄と思える百済救援、そのために母親である

斉明天皇を遠い九州まで連れまわし、あげくに死なせてしまう

誰もが疑わない白村江の敗戦、その後は唐の影に怯え土木工事

に没頭し、都に戻れず苦肉の”近江遷都”である

いろいろやったようで、何もしなかった・・・。

いや、誰かに操られるように動いていた気さえする

何処の誰かわからぬ 中臣鎌子という人間に・・・・。

◎  斉明天皇 菩提寺 

第37代 斎明天皇 

孝徳天皇が失意のうちに亡くなった後

中大兄皇子は皇位を継がず、皇極上皇が再び皇位についた

いわゆる『重祚(ちょうそ)』である。

歴史上二度、それも女性天皇だけである。


なぜ中大兄皇子は皇位を受けなかったのか?


長屋の爺は、受けなかったのではなく、推されなかった

蘇我親子の問題、古人大兄皇子の件、蘇我倉山田石川麿の件

そして 孝徳天皇の置き去り問題・・・。

群臣はこれを見過ごすことは出来ても、皇位につける事だけは

反対したのかもしれない、そう考えている。


この皇極上皇(斉明天皇)は蘇我入鹿暗殺現場である

飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で即位した。

この宮殿はその冬に燃えてしまったのである。

これが祟る蘇我の最初の出来事かもしれない


群臣・民衆の反対を無視して中大兄皇子と共に百済救援に向かい

筑紫朝倉宮で崩御したという。


以前に天皇家が仏教徒であったと書いた

菩提寺とされる泉涌寺である、菩提寺となったのは

江戸期であり、1224年に後堀河天皇が『天皇家の祈願寺』

と定めたのが起源とされる。

天智天皇から昭和天皇までのご位牌が安置されている。

ところが、奇妙な事実がある

天智天皇からと書いたが、正しくは天智天皇と光仁天皇

から後の昭和天皇までの御位牌が安置されているのである。

天智天皇は第38代の天皇であり

光仁天皇は第49代の天皇である

弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳

これらの天皇のご位牌は無いというのである。

これはどう言う事なのだろう

反天智帝と思われる天皇は除外されている

というより 天武天皇 縁の天皇の差別(区別)なのか

弘文天皇 は正史には載っていない天皇で明治政府によって

天皇に加えられたので除外しても良いと思うが

持統天皇を除く天武天皇から称徳天皇まで、天武の血脈なのである


これは明らかに、泉涌寺が皇家の菩提寺と言うより

天智朝の菩提寺といえるのではないか

まるで、皇統が天智天皇から始まったような趣である。

出来が悪く、素行の悪い皇子が群臣から認められなかった

その意趣返しに天智の菩提寺を作ったようにも思えてくる。


想像するに、天武天皇と天智天皇は本当の兄弟ではなく

全く別の血統であるかのようである。

天皇家の祈願寺とは・・・何を祈願したのか

後世に語り継がれた秘事でもあるのだろうか

古代史の中で特に興味深い時代がこの時代なのである。

◎  孝徳天皇と大化の改新 


第36代 孝徳天皇  (596~654年)

乙巳の変の後、皇極天皇は息子の中大兄皇子に譲位

しようとしたが、皇子が受けずに皇極帝の弟である

軽皇子(かるのみこ)を推挙した。

その軽皇子が36代 孝徳天皇である。

前回に書いたが、中大兄皇子が若いという理由で

皇位に就けなかったのなら、わずか3年後に皇位に

つけようと言う皇極帝の真意が測りかねるのである。

眼の前でで蘇我入鹿が殺害され、蘇我本宗家の滅亡に

間接的に関与したことの動揺がそうさせたのか・・・。

しかし、なぜ中大兄皇子は皇位を受けなかったのか?

母親である皇極帝の推挙とはいえ、群臣がそれを是としなかった

民意が許さなかったと考えれば納得である。

この時代、皇位につくとき必ずと言っていいほど

群臣の推挙、後押しが必要だったのである。

天皇は絶対君主ではなく、天子であり祭祀王であり

側近たちの理解・協力が不可欠だったのである。

孝徳天皇は『大化の改新』の時代の天皇で

都を難波に移し、冠位の制定、郡制の実施など

多くの業績を残した天皇とされている。


さて、この大化の改新という改革であるが

実際は政権内で改革に直接関わったのが、あの

中大兄皇子と中臣鎌足の二人である。

この改革は入鹿惨殺の後、数ヵ月後に出されたもので

周囲の反感を買い、理解されなかったともいう



想像するに、この改革の骨子は『蘇我親子』の立案

だった可能性もある。

『手柄の横取り』と権力者 蘇我蝦夷・入鹿親子の排除

その一挙両得を図ったのが、乙巳の変だったとも思える。

だから群臣は皇子の皇位継承を認めない空気になり

とりあえず権力を得ることで我慢をした

皇位を継承した軽皇子の推挙は皇子ではなく群臣の後押しで

実現したものであり、日本書記はそれをあたかも中大兄皇子の

推挙で実現したかのように騙っているのであろう。

この中大兄皇子と中臣鎌足の二人、とにかく不審なのである

大化の詔が出る前の年、兄弟である古人大兄皇子の反乱計画

をでっち上げ、その一族を滅ぼしている。

さらに4年後には、乙巳の変の協力者である蘇我倉山田石川麿を

冤罪で一族を死に追いやっているのである。

このやり方は後の藤原の独裁の常套手段になっていくのであるが

中臣鎌足といい、この中大兄皇子という人間、とにかく悪い・・・

その一言に尽きるのである。


孝徳天皇と仲たがいが起き、皇子は皇極上皇、皇子の后や

大海人皇子などを引き連れて、難波から大和に帰ってしまう

とうぜん難波の都に孝徳天皇は置き去りである。

失意の天皇は病気になり孤独のうちに亡くなったのである。

日本書紀に残された史実と趣きの違う姿が見えてくる。

大化の改新の立役者、後の天智天皇とはこういう過去を

持っていたのである

よほど群臣を飼い慣らすか、敵を排除して味方を増やす

それしか皇子が天皇位を継承することは叶わなかった

長屋の爺はそう考えております。

◎  釣りしのぶ 

先日 仕事帰りに 釣りしのぶ を買った

とても涼しげで、日本人に生まれてよかった

素直にそう思った長屋の爺であります


約一月ほど前でしょうか

仕事先のお宅で メダカ を戴いた

ご主人がリタイヤした後の趣味でメダカの養殖を

されていて、お話を拝聴するうちどういうわけか

メダカをもらう話になってしまった(笑)

シロメダカ という種類で、無骨な爺には価値が

わからない状態で・・・

家に帰ってみると 30匹ほど入っていたが

容器など何も無いので、新品のポリバケツに入れた

水草も一書に戴いたのでとりあえず格好はついた。


そのご主人の庭には、シロ・クロ・アオ・アカなど

正式名称は知らないが、いろいろなメダカが飼われていた


シロメダカはペットショップなどで、一匹150円の値が

アオメダカには250円の値がついていたのには驚いた


何より愛好家の多いこと、犬猫コーナーの人の10倍は

熱帯魚コーナーにひしめいていて、店員さんに質問するのも

大変で今はメダカのブームなのか? そんな事を思ってしまった


長屋の爺は 凝り性 である

中途半端が出来ない

一月を経過して、水槽が5つになり

なぜか水草から稚魚が生まれ、アオメダカが出没し

シロメダカの稚魚も生まれ、水槽が増え続けたというわけ


今日は休み、釣りしのぶの風鈴の音を聞きながら

メダカの泳ぐ姿を見ていると、なにやらホッとする


昔の人は、科学の力で季節を知ることなく

自分の五感で季節の移ろいを感じていたのだろう

変えてはいけない、日本の文化というものがある。


植物も魚も、人間も『生かされている』

そんな事を思ってしまう 今日この頃である。


水かけて 夜にしたりけり つりしのぶ

          (小林 一茶)

◎  皇極天皇 継嗣候補 


どうして天皇家は今に至るまで続いてきたのか

神道という心の支えが民衆の中に根付き瑞穂の国の

祭祀王を尊び敬い、ヤマトの王家を支えてきたからか


天皇家ではいかなる宗教も否定せず、かと言って

取り込まれもせずに祭祀王として生き抜いて来た。


天皇は神道の最高神官であるが、明治までは仏教徒

でもあったのだ

仏教と言うのは何でも取り込んでしまうモンスターだ

閻魔・四天王・阿修羅などはヒンドゥー教の神を

仏教が取り込んだものである。

ところが、日本神道は仏教に取り込まれなかった

その最大の理由が天皇の存在だったのではないか

長屋の爺は、そう考えております。

天皇の存在そのものが、神道の真髄であり

天皇の介在しない神道は 『日本神道』ではない 


国家神道という言葉に不快感を覚えるのだが

なぜなら この言葉は戦後GHQが作った言葉である

国家などというそんな言葉を使わなくても

日本人のDNAには先祖の遺伝子記憶が刻まれていて

天皇=神道=神々

それゆえ、天皇皇后両陛下を敬うのである。



第35代 皇極天皇   594年~661年

舒明天皇崩御のとき、皇太子(中大兄皇子)は16歳

若いという判断からか、舒明帝の后である彼女が即位した

若いという理由だけならこの話は不可解である

成人した皇位継承候補は居たのである

山背大兄王である、聖徳太子の皇子といわれる候補がいた

にもかかわらず、数多居る皇子を差し置いて

前例の無い皇后による天皇即位・・・・。


ヤマトの女性天皇は すべて不可解なのである。

なぜ不可解なのか?

いわゆる男系の男子を継嗣とする

その視点から観る事が現在の常識であるからなのだ

今の基準で観れば当然、不可解の一語に尽きる

その基準を大きく広げて解釈すれば

男系男子に継がせる為、中継ぎは直系男子に縛られない

そういう解釈もあったのかもしれない。


だが、この場合実に不可解なのである。

継嗣候補は中大兄皇子だけではなかったからで

時を稼ぐ必要は認められないのである。


史書にあるように本当に、中大兄皇子、大海人皇子・古人大兄皇子

は皇極帝の皇子だったのだろうか?

そして、山背大兄王は本当に聖徳太子の皇子だったのか?

皇極帝の即位とはそのような疑問を感じさせるのである。


史書に描かれる女性天皇はいずれも賞賛されている

女性に甘い編纂者だったのだろうか・・・・。

史書が編まれた時代の背景がそれを顕著に物語っている

そのうち出てくる女性天皇は、個性の強い方々ばかりである。


記録するという行為

まず記録する価値(意味)があると信じなければいけない 

そしてもう一つ、このままでは忘れ去られてしまうという

不安がなければならない。

その不安があるからこそ『書き留めておこう』ということ

になるのだ。

ところが、その時点でだれもが『当たり前のこと』として知っている

ことについては、『忘れ去られるという不安』を誰一人として抱かない

だから結果として『記録されない』ということになる。

       井沢元彦氏 逆説の日本史より


歴史の中の当たり前、記録する必要が無いから

残されなかった・・・・。

史書に残されなかった誰もが知っていた事実(史実)

疑いを口に出さなければ、埋もれたままになり

矛盾や疑問を積み上げるのが歴史を考えることになる

爺はそう思っている。

◎  不可解な推古天皇の行動 

第34代 舒明天皇

推古天皇は崩御する前に後継を決めなかったという

推古帝の皇太子は厩戸の皇子(聖徳太子)である

622年に皇子が亡くなり、推古帝が亡くなるまでの

6年間は皇太子不在と言う事になってしまう。

これも不可解な話である。

推古帝の後継候補は二人、敏達天皇の孫の田村皇子

用明天皇の孫の山背大兄王である。

山背大兄王は聖徳太子の子であり、蘇我の血を

受け継ぐ皇子ということになる。

結果として、群臣と蘇我蝦夷は田村皇子を推し

舒明天皇として即位した。

このときから山背大兄王と蘇我蝦夷の間に溝ができ

そしてついに、643年 蝦夷・入鹿親子は山背大兄王を

死に追いやり、上宮王家を滅ぼしたという。

その蝦夷・入鹿も645年に天智天皇と中臣鎌足に

よって滅ぼされてしまったのである。

これが昔の言い方で言う 大化の改新

今は 乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)という。

史書には蘇我本宗家の専横・傍若無人が原因とされているが

これも藤原の都合とも考えられる。

天智天皇と中臣鎌足、非常に評判が良くない

さらに、舒明天皇の後継(皇太子)だったのに即位していない

あろうことか天智帝の母であり舒明帝の后の『宝皇女』が即位

し第35代 皇極天皇となった。

これも極めて異例な話であり、皇子が3人も居るのになぜと思える

腑に落ちない皇位継承なのである。

意に沿わない後継に継がせるなら、いっそ私が後を継ぐほうが

というように思えるのは私だけだろうか。

蘇我本宗家を滅亡に追い込んだことが群臣や庶民に受け入れ

られなかった可能性が大きいのである

次期を待つしか方法が無かったという気さえするが

乙巳の変の後、23年の月日を経て即位した事になっている



貴族とか宮廷貴族という記述を見かけるが

貴族とは通常は、冠位5位以上を貴族と称し

冠位3位以上を 公卿 と称した。

この3位を朝臣(あそみ、あそん)といい

いわゆる遊んで暮らす人を指しているという

5位以上を 『人(ひと)』と言い人間扱いし

6位以下の人は庶民であり、貴族に反抗的な者

その者たちを 人でなし と呼んだのである。

貴族たち王権に反抗し、追い散らされた者たちは

蜘蛛、蛙、鬼、河童、狐などと蔑まれたのである。

◎  蘇我と厩戸の皇子 


第33代 推古天皇

継体天皇の血筋を受け継ぐ女性天皇である

この女帝の即位に『聖徳太子』架空説が鮮明になる

なぜなら、厩戸の皇子(聖徳太子)は推古帝の甥

弟の用明帝と異母妹(姉)との間に生まれた子である

伝わるような聖徳太子の能力があり明晰であったならば

日本初の女性天皇になる必要があるだろうか?

皇太子に推古帝自ら立てたほどの人物だった

群臣みな慕っていたならば、当然万民の総意で推挙したはず

それを封じ込める力が推古帝の周りに有ったと言うことになる。


厩戸の皇子は王権にとって、煙たい存在だった可能性もある

厩戸の皇子は蘇我馬子からすれば、娘の婿にあたるのだが

用明天皇の皇子であり、継体帝の血筋である

豪族蘇我氏といえど、排除する事は簡単ではない

厩戸の皇子が亡くなったあと、蘇我馬子が推古帝を支えたという

蘇我の血筋でもある厩戸の皇子だが、政(まつりごと)を独占し

あるいは権力を揺るぎ無いものにしたい蘇我にとって

好ましからざる ”身内” だったのかもしれない。


結果的に蘇我が推した舒明天皇の流れが 『反蘇我』へと続く

その頂点が天智天皇と藤原鎌足の蘇我本宗家つぶしに向かった

厩戸の皇子を即位させ、山背大兄王に引き継いだならば

蘇我の天皇家、蘇我の王権が実現したかもしれないのである。


この文を書くにあたって、おかしな記述を発見した

第29代 欽明天皇の時代 6世紀半ばのこと

日本書紀に669年に56歳で亡くなったとされる

中臣鎌子(鎌足)の記述が載っているのである。

欽明天皇に物部尾越とともに反対意見を述べている

相応の年齢と地位にあったと思われる。


乙巳の変(645年)に登場する中臣鎌子とは?

時代があまりにも違いすぎるのである。

他所から来て、成りすましたと言う事なのか

藤原の血筋が不可解なのである。



古代史のキーワードは ”藤原”であり

古代史は藤原によって作られ、葬られているのである。

◎  皇位継承とすめらみこと 

日本の統治者を天皇と言う

天皇(てんのう)は、古くは天皇(すめらみこと)とも呼ばれた

天皇は正式名称である

それ以前は何と呼ばれていたのか不確かであるが

呼称として、王、大王などが使われていた


応神天皇は 王

継体天皇は 大公王

垂仁天皇は 大王

と言った具合である。


だがあくまでも、一般的に古代は 王・大王 を名乗っていた

そう考えるのが自然である。


天皇(すめらみこと)を使い始めたのは天武帝のころで

それまでは大王・大君を使っていたようである。


第32代 崇峻天皇(すしゅんてんのう)

皇室史上初めて、臣下の手によって暗殺された

天皇で、生没年も正しく残されていない。

蘇我馬子と物部守屋の権力争いに

皇位継承問題が絡み、穴穂部皇子と崇峻天皇が競い

蘇我氏が物部氏に勝ち、その結果蘇我馬子が推す

崇峻天皇が即位したが後に蘇我馬子と対立し

馬子の腹心である東漢駒の手で殺された。

その東漢駒も馬子によって殺されているのである。

この問題の発端は・・・・。

穴穂部皇子が皇位を狙い、敏達天皇の后であった

推古天皇に言い寄ったといわれ、それを妨げた

敏達天皇の寵臣三輪君逆(みわのきみさかう)は

物部守屋に殺されている。


穴穂部皇子と崇峻天皇は実の兄弟であり

妹が厩戸の皇子の実母、異母兄姉に敏達天皇と

用明天皇と推古天皇がいる。

推古天皇は異母兄である敏達天皇の后で

息子の竹田皇子への皇位継承の中継ぎとして

即位した史上初めての『女帝』である。

しかし、竹田皇子は間も無く亡くなり皇位は

敏達天皇の孫の、舒明天皇に継がれたという。


このころは皇嗣世襲も定まっていないのか

権力に群がる者の思惑で、兄弟が争い血を流した

悲しい話ではあるが、皇統はその悲劇の結果

今尚繋がっている、そう解釈するしかないのである。


この時代、天皇の即位は群臣の要請によって成立

することが多く、力を持った豪族の後ろ盾が即位の

決め手になっていたと考えられる。


古代 『港』は『津』といった

当時は『みなと』とは、河口(水の出口)を指した

舟をとめるので、津を『泊(とまり)』とも呼んだ

ちなみに、『とまり』とは、アイヌ語でも港のことである。

◎  天皇陵 厩戸の皇子 

大和朝廷の起源もヤマトの国成立の時期も特定されていない

考古学の汗の結晶でおおよその見当はついてきたようであるが


古墳

諸説あるが、これは有力豪族の墓、王族の墓

そして皇祖(歴代天皇)の墓と考えられる

ところが、近世の天皇陵以外は実際のところ

専門家・有識者が判断しているに過ぎないのである

なぜならこの墳墓、墓誌というものが存在していない


彼岸にお墓参りに行くと、周りの墓に墓誌が建てられ

戒名と没年・享年などが刻まれているのを見かける

その墓に誰が葬られているか後世に伝えるものである。

天皇陵と称されている墳墓・古墳に墓誌は無い

どうやって決め付けているのかといえば

記紀をはじめ、古の史書の記述から場所を特定し

妥当そうなものに陵(みささぎ)の烙印を押しただけ

あくまでも、史書が正しい記述をしているという

大前提のもとにすすめられているのであり

明確な根拠は薄いと言わざる得ないのである。


私はこの問題の一番障害になっているもの

それが『宮内庁』であると考えている

天皇陵は 『 聖域 』 であり

許可無く立ち入ることさえ禁じられている。


われわれは天皇陵を冒涜しようと思ってなどいない

祭祀王であり、国民の心のよりどころ、精神的支柱である

天皇家の祖霊の墳墓を特定し、丁寧に祀ることこそ

大事なことと思っている

宮内庁は明治新政府の政治的な思惑を踏襲すること

それが陛下の御心に沿うと考えているのだろうか

長屋の爺風情が何を言っても、何ら変わるわけも無いのだが・・・。


聖徳太子

これだけは避けて進めようと思っていたが

無理なようなので、ぼちぼちと考えて行きたい・・・。

なぜ 避けたかったのか?

う~~~ん

今尚、太子信仰が根強い地域もある

爺の推論はあまり良いものでは無いからである

聖徳太子といえば、もちろん一万円札(旧)

・・・・・ではない

厩戸の皇子(うまやどのみこ)他多数の名前をお持ちの

古代のスーパースターである

『日本書紀』の記述における”太子礼賛”は陳腐と言うべき

ここまで褒める理由が見当たらない

出生はキリスト生誕のパクリ

生まれて間も無く、言葉をしゃべった 『史記』からの引用

釈迦の生誕の『天上天下 唯我独尊』の姿を彷彿とさせる

神童であったと書記は記すが、十人の訴えを聞き漏らさなかった

とは超能力者と呼んだほうが良い話

聖徳太子は621年の春に薨去されたというその記述が

凄いの一言に尽きる(622年薨去説もある)


『 王族・群臣・天下の民は嘆き悲しみ、老いた者は愛しい

 子を失ったようで、幼子は父や母を亡くしたかのように泣き

 農夫は鋤(すき)を止め、稲つく女は手を休め、泣く声は

 巷にあふれた 』 と言い


人々は口をそろえ

『 太陽も月も輝きを失い、天と地が崩れ去ってしまったかのようだ。

  これからあとは、いったい誰を頼みにすればよいのだろう 』

と語り合ったという。


100人を超える天皇が居て、大きな評価をされる天皇も居る

さらに開闢以来、国のために粉骨砕身した偉人でさえ

ここまで賞賛された人物は居ないのである。


日本書紀もここまで書いてしまうと、弁護の仕様が無い

藤原の思惑が透けて見えてしまうのである。


私見ではあるが、聖徳太子はある意味で 天照大神のようで

複数のモノの集合体、その虚像が光り輝く人物になった姿

しかし厩戸の皇子は実在したと思える

だが、厩戸の皇子が聖徳太子ではない

厩戸の皇子が没して100年後に日本書紀が書かれた事実

その間になにが起こったのか、なにが変わったのか?

蘇我から藤原へ 政権(権力)が移り

蘇我の血を引く 推古天皇 が亡くなり

蘇我入鹿が 山背大兄王(聖徳太子の皇子)を死に追いやり

蘇我の血を引く 厩戸の皇子一族が絶えた

その蘇我入鹿を中大兄皇子と中臣鎌足が斬り殺す


藤原(中臣)にとって蘇我は 悪 であり

その蘇我が犯した罪が太子の血を絶やしたこと

聖徳太子が立派で尊敬され万民から慕われていたという

聖徳太子礼賛は 蘇我の悪 がとんでもない悪事である

証明のようなもの

逆に蘇我を誅した藤原の功の演出が正当化され

太子の株が上がれば、蘇我の株が下がる

曽我が悪者であるならば、藤原は功労者・忠義の臣で在り続け

王権を掌握することの正当を主張しているのである。

◎  国譲り神話 異説(伊勢津) 

神話といえば出雲である

神話の国譲りといえば、これも出雲を思い出す

この国譲りと同じ様な話が伊勢にもある

これは以前に書いた話である

もう少し詳しく書こうと思う


イセツヒコに関する記述が二つ・・・

『伊勢国風土記』逸文に載っている


一つは以前に書いた神武東征に関わる話で

伊勢津彦と天日別命の国譲り神話である。

結局、伊勢津彦は 太陽のように照り輝き 

 海のかなたに消えていった 

神武天皇は天日別命の活躍をいたく喜び

この地の地名を『国つ神』の名をとって

『いせ(伊勢)』と名付けるようにと命じた。


もう一つは、出雲の神の子出雲建子命(いずもたけこのみこと)

が石を使って城を築き、ここに鎮座した。

その後ほかの神が来て奪おうとしたが果たせず帰っていった。

それでこの地を『伊勢』と呼ぶようになったという。


また、風土記 逸文の補注によれば

このとき 伊勢津彦を信濃国に住まわせた  のだという。

この二つの話、聞けば聞くほど出雲神話に良く似ている

太陽のように照り輝いたのは  大物主神  であり

天つ神に追われ、海に消えていったのは  事代主神  であり

国譲りに最後まで抵抗した  建御名方神  が諏訪に逃れたように

伊勢津彦も信濃に追放されたというのである。


ではなぜ伊勢津彦が出雲と関わるのか

逸文には 伊勢津彦が出雲出身 だったからだと記されている。


伊勢と出雲にあまりにも似かよった逸話が残され

点であったものが、一本の線に繋がる予感

大物主が太陽のように光り輝き

伊勢津彦も太陽のように輝いていた

事代主は海に消え、伊勢津彦も海の彼方に消えた

建御名方神は信濃国(諏訪)に流れ着き

伊勢津彦は信濃国に流された。

伊勢津彦は大物主のようで、事代主のようでもあり

建御名方神のようでもあるのだ。


まさに『出雲の国譲り』が伊勢の地で起こっていたように

錯覚してしまうのは私だけだろうか・・・・。

国譲りは出雲で起きたことなのか

または伊勢の地で起きたことなのか

今となっては誰にも知ることは叶わないのである。

◎  人名・地名の難しさ 

三輪にある大神神社

祭神大物主を祀った大田田根子(おおたたねこ)

私はこの人名の読み方を、おおた たねこ

そう読んできた、疑いもせずにである

ところが、ある書によればこの読みは

おおたた ねこ 

大田田を治める呪力をもった首長のことだそうだ

大田田とは渡来人が紀伊国の大田村に住み

その後各地に移り住みその開拓した土地を大田と呼んだ

その大田は当初、おおたたと言っていたらしいのである。


この国は遥か昔、文字を持たない時代

物や場所にも、きちんと名称があった

文字が伝わりその音に当てはめた物を現在眼にしている

地名はその地がどんな土地なのかを音で伝えた

音と言うと少し違って解釈されそうであるが

文字ではない音・言葉の世界の表現である

近世になって、町名地番の変更、市町村合併により

古から伝わる先人の英知が失われてきた

その場所が昔どのようなところだったのか

知る手がかりすら失われていくのである。


『もり』のつく地名には、神の住む森や

神社を表すものがあるという

社殿の裏山や裏の森が、『鎮守の森』と呼ばれ

社殿で山や杜に来る 神 を拝むと考えられた

森は他にも、杜 守 茂理 母里 毛理 毛利

など様々な表記の地名がある。


日本人が日本の古代史に壁を感じるのが

この読み方の多さと、読めない漢字が原因である

立派な高等教育を受けた人でもそうなのだから

長屋の爺にはこの壁が、高層ビルのごとく感じるのである


正直なところ、こういう拉致もない話を書いているときが

その壁に阻まれているときなのである。

苦し紛れの『時間稼ぎ』だと思って欲しい。


余話

北海道の地名に 別(べつ)と内(ない)がとても多く付いている

ともに『川』を指すアイヌ語である ペツ(petu)

ナイ(nai)に当て字をしたものだ

ペツは比較的大きな川、ナイは小さな川を指すという

芦別の由来は、深く険しい川 アシュ・ペツ から

江別の由来は、胆汁のような色の川 エ・ペツから

登別の由来は、濃厚な川という意味の ヌプル・ペツから

札幌も本来はペツが付いていたそうで

渇いた大きな川 サッ・ポロ・ペツ がペツが省かれ

さっぽろ になったという。

ちなみに メロンで有名な 夕張

『鉱泉』をあらわす ユーパ が元になっている

夕張川で鉱泉が湧いたことにちなんで付けられたようである。

◎  卵が先か 鶏が先か・・・・  

卵が先か 鶏が先か・・・・

元伊勢といわれる神社がある

では伊勢の地名は漂流していたのか?

地名は土壌(地面)につけられた呼び名である

地面は流離わないのである

では元伊勢とは『伊勢と言う神社』が流離ったと言う事になる

たまたま落ち着いた場所が偶然に伊勢という地名だった

伊勢の地に落ち着いた伊勢という名の神社・・・・。

元と付けるなら、元神宮とか元内宮というのが妥当だろう

世の中には、元祖とか本家とかいう習慣もあるのだが

それでも本家伊勢神宮とか、元祖伊勢神宮とは言わないだろう

伊勢とは何なのだろう?


元出雲と呼ばれる神社もある

出雲大神宮と呼ばれ、京都亀岡市にあり

旧称は出雲神社。

別称として「元出雲」・「千年宮」とも。

また古くは「大八洲国国祖神社」と称されたともいう

御神体は御影山である

こちらは、卵が先か鶏が先かの状態である

出雲大社は明治までは、「杵築大社」を名乗っていて

こちらの大国主命を勧請して出雲大社が作られたと主張


出雲では出雲国の出雲大社から勧請したのが出雲神社であると言う

以前にも書いたが、奈良県桜井市にも出雲はある

元祖・本家はどこなのか

ここで注意しなければいけないことがある

*出雲という土地

*出雲族(出雲の民)

*出雲大社(出雲神社)

これは切り離して考えなければ迷路に迷い込んでしまう可能性がある

出雲という土地(地名)は奈良桜井と島根出雲と京都亀岡に存在する

出雲の民は複数の地域に散らばっていた可能性がある

出雲大社と出雲大神宮との関係


野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の相撲で

以前にも書いたが、出雲は桜井にあったと推測する

垂仁天皇の時代に天皇の招請にその日のうちに応じることが

できたのは桜井だろう(亀岡でも可能性だけはある)

島根からその日のうちに馳せ参じることはジェット機でも

使わないと当時では不可能である。

垂仁帝の時代、桜井以外の出雲はどうだったのか

と言ってみても、垂仁帝がいつ生まれいつ死んだのか不明であり

この話の信憑性は低いとも言える。

まさに『雲』を掴むような話である。

◎  祟る出雲 

祟る出雲神は8世紀には現実に朝廷が記録している

出雲神は祟ることは間違いない


そもそも、日本の神のほとんどが”祟り神”である

『たたる』から神として祀られるのであり

祟らない者は神にはなれないのである。


しかし、その祟る神を粉飾して穏やかな神にした

下手人(張本人)が藤原氏であり、権力の亡者といわれる

その時代ごとの権力を持った権力者たち

その中には当然、明治新政府も含まれるのである。


崇神天皇の御世、国中に疫病が蔓延し

多くの民の命が失われたとき

神託により、大物主を祭れば国安らかになるといわれ

オオタタネコに祀らせたところ疫病が治まり平安が訪れた

この”オオタタネコ”なる人物は大物主の末裔であり

鬼を鬼の末裔に祀らせる 典型的な手法の代表である

大物主神と大国主神は同一とされている

祟る神の代表で日本中の人間の命を、根こそぎ奪う勢いの

強烈な祟り神 大物主神 は祟る出雲神ということなのである


日本書紀によれば、神武東征の直前に出雲から 大物主が

次に物部氏の祖(ニギハヤヒ)がやって来て、最後の最後

に九州の王がやって来たという。


物部氏は吉備からやって来たという説がある

この物部氏、素性がはっきりしていない

物部氏について日本書紀は口を閉ざし

天のイワフネに乗って来たなどと神話にしてしまっている

ヤマト建国の功労者である出雲と吉備・・・

私は出雲と吉備ではなく、出雲連合と吉備連合の確執が

九州の王(皇祖)のヤマト建国の要因だった気がするのである

少ない手勢で長脛彦に打ち負かされ、風前の灯の神武が

ヤマト入りできた理由は、吉備の手助けが不可欠と思っている

それらを総合的に考えて、出雲の凋落と祟る出雲の理由が

見えてきそうである。 

◎  出雲と皇祖 


なぜ天皇家が出雲神を祀るのか

古代においてヤマト朝廷が起こる前

この国には出雲が君臨していたのではないか

その統治する地域の範囲は小さくとも

小国乱立するまとまりのない列島において

相当な力と影響力を持った大王だった可能性もある


ヤマト朝廷の起源は曖昧である

国史といわれるものがその起源も成り立ちも

闇の彼方に葬ってしまったことが原因でもある。

人は得てして『出自を飾る』魅力に負けてしまう。

現在の我々は、どう考えても”ヒトデナシ”の末裔である

違うという方は、綿々と”やんごとなき”血筋を繋いで

現在に至っていることなのである。


もう一つ忘れてならないのは、天皇もヒトデナシの可能性がある。

祟る天皇は 鬼 でもある

鬼とは”ヒトデナシ”のことを言うのであるから

祟る天皇の末裔は 鬼の末裔 すなわち”ヒトデナシ”なのだ

なぜ我々下賤の者が”天皇陛下”に親しみを覚えるのか?

不謹慎な言い様ではあるが、同じ鬼の仲間だから

そう長屋の爺は 思っているのですが・・・・。


さて、出雲が大きな力を発揮し、国を大雑把ながら

纏めた頃は複数の古代豪族が、形式的な合議で統治したと思う

国家の陣営に皇祖が入り込んだのはその後の事だと推測する

皇祖がヤマト朝廷をヤマト国に変えたときその裏で

出雲は没落していった・・・いや抹殺されていったのである。

出雲神を祀る理由(わけ)がここにあるのだろう


仏教など未だ伝わっていなかった時代

先祖を祭ることより、手にかけた御霊を祀ることを選び

毎日のように無念と怒りを鎮めることに腐心した

これが宮中祭祀の発端ではなかろうか・・・。


織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りし儘に食うは徳川

そんな戯れ歌があったが・・・

天皇家は徳川家と似かよったと言えば語弊があるか・・・

出雲が織田なのか羽柴なのかは不明だが

最後に残ったのは、間違いなく天皇家なのである。


出雲は出雲からヤマトに来て出雲に帰っていったと想像できる

そもそも出雲などという文字が、彼らの境遇を示している

雲が出る 蜘蛛とはヒトデナシ、朝廷にまつろわぬ者の呼び名である

『いずも』という名は有ったのだろうが、この文字を当てた8世紀の

王権にいささか不信感を持ってしまうのである。

なぜ 雲 なのか?

蜘蛛と同じであるならば、朱を知るモノたち のことであり

丹や砂鉄を持つ地方豪族だったからで、王権はその丹・鉄を搾取

するためにあらゆる謀略を使い朝廷がそれに取って代わった

その結果、出雲の王たちを 神 に祭り上げ

神話の世界に封印してしまったのではないだろうか




◎  祭祀王 


天皇とは何なのか?

絶対的君主なのか、祭祀を司る祭祀王なのか

8世紀の朝廷を見ると、祭祀王と断言できないのである


なぜなら、あまりにも人間臭く 

世俗のヒトデナシも真っ青になる話しばかり

腹を痛めたわが子に皇位を継がせようと

ライバルを謀殺したりもするし

孫のためなら恥も外聞もない暴挙に走る

このことが、祟られることに

『 身に覚えのある ヤンゴトナキ人たち 』

なのであって、国土・衆生の安寧を祈る姿が

見えないからである。

祈る祭祀は今上天皇のように

国の民の平安・安寧を一途に祈る姿を思い浮かべるが

8世紀前後の宮廷にはその姿は見えてこないのである。

では何が見えるのか・・・・

私には祟りから逃れようと必死に贖罪の祈りをする姿

傍に居る権力の亡者たちに操られ翻弄される天皇たち



是も非も悪も良も身をおく場所により自ずと違ってくるが

謂われなき理由によって命を絶たれた”思い”

心残りが罪の意識を増幅させる

これが 祟り であり 畏れ であるのだろう


古代の天皇祭祀は祟りに謝罪し、穢れを払い

畏れを消し去ろうとしたことから始まったのか

史書が『和をもって・・・・』といえども

その逆の歴史が存在したと思えるのである。


本来、太陽に豊穣を願い祈った祭祀であるが

その祭祀権をめぐる 和 とはほど遠い手段で

受け継がれたのかもしれない。


万世一系とは、それらの総てをひっくるめて

ただ一途に祈る ひたすら祈ることを宿命とし

繋がってきた家、天皇家の血脈をある観点から

観て言い表した言葉だと思っております。



◎  古事記とは? 

古事記について

古事記は偽書ではないかという説がある

昔から本物偽者論議があるという

素人の爺には当然のこと、判るはずもない

日本書紀 古事記 共に天武天皇の発案とされている


関裕二氏によれば

古事記は江戸時代までは埋もれた文書だったという

本居宣長が再評価して注目を浴びたらしい

日本書紀は漢意(からごころ) 中国的発想に満ち

古事記は大和心 日本的発送に貫かれているという

日本書紀は基本的に『親百済』『反新羅』

古事記は『親新羅』『反百済』だと言うのである


なぜ天武天皇は同じ時期に

二つの歴史書を残そうとしたのかだが・・・


長屋の爺は、古事記は天武天皇の発案ではないと思っている

それ以前、どの天皇の御世かは判らないが

古事(ふるごと)を書き記したものが作られ

後世の誰かが意図的に、天武天皇の発案であるかのごとき

序文を書き足したのではないか

だから、『日本書紀』も『続日本紀』も古事記のことには

触れていないのである。


古事記は稗史(はいし)のような存在だったのかもしれない

親新羅派と言えば真っ先に”天武天皇”を思い浮かべる

天智天皇が親百済だったことは、『白村江の戦い』で明白だ

日本書紀が天武朝の正統性を唱えたのでない事は事実であり

天智帝の子持統天皇と天智帝の正統性を書き残した疑いが強い

天智天皇の親百済の『日本書紀』

天武天皇の親新羅の『古事記』という図が見えてくるのである。

親新羅派をたどっていくと、『秦氏』に行き着く

渡来系豪族の秦氏、ますます複雑になっていきそうである。


古代ヤマトには皇祖神を祀る大きな神社は皆無だったと言う

そのほとんどが出雲神を祀る神社だった

2月11日・・・紀元節である

今では『建国記念日』と称し休日になっていて

この日は神武天皇の『即位日』とされている

いわば天皇家の誕生日とでも言うべき日である

古事記には「畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にましまして、

天(あめ)の下治(したし)らしめしき」とだけ記されている。

日本書紀には橿原に皇居を作り、そこで即位したとある。


この神宮は明治の創建であり、初代天皇を祀る神社がそれまで

無かった(あるいは不明)事の意味はどう考えればよいのか

皇祖を放っておいて、宮中祭祀で出雲神を祭る

不思議と言えば、これほど不思議な話は無いのである。


◎  大和の統治と古代豪族 

ヤマト朝廷と聞けば、我々は日本地図を思い浮かべ

北から南まで統一された日本国をイメージする

ところが、8世紀『日本書紀』が編纂された頃

朝廷の統治していた面積は日本の半分か三分の二

その程度だったというのである。

中国の歴史書にも日本は百余国あったと記されている。

ならば大和朝廷に属さない、王国があって

独自の王が君臨していたかもしれないのである

もしかすると、古代豪族と言われる氏族は

倭建国以前の日本の小国の王であり

物部や蘇我、大伴がヤマト建国前の

大和の王であった可能性も考えられる


だから、国譲り という神話に置き換え

穏便に和を持って平定した正統な統治者を脚色した

その古代豪族が崇拝していたのが、大物主神であり

饒速日命であったのかもしれないのである。



『飛鳥』 あすか と読む

どうして あすか なんだろう

これも難読文字の一つである

素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祀る須賀神社

出雲大社にも素戔鳴尊は祀られていて

その名前は 素鵞社(そがのやしろ)

字を変えれば 蘇我の社(そがのやしろ)なのである

須賀=蘇我 と言うことも出来る

あ すが 吾素鵞 吾須賀 あすか 明日香 飛鳥

出雲は蘇我と深い繋がりがあるのかもしれない

◎  記紀の中の藤原と蘇我 


日本人に生まれながら、日本語が読めないことの悔しさ

どうしてこんなに”難読文字”が多いのか

出雲 黄泉 宍道湖 誓約 常陸 愛宕  

これを最初から読める人など居ないだろう

個々の文字が読めたとしても難読文字は手ごわいのだ


私が天皇家の周りで起きていただろう歴史に触れるとき

王権という言葉を使っている

けっして皇室を疎んじているわけではない

むしろ皇室の陰で権力を欲しいままに蠢くものたち

それらを含めて皇室に入り込む亡者を総称して王権と呼んでいる

弁解めいているが、王権=皇室 ではけっして無いのである。

以前にも書いたが、絶対的な強権を発揮した天皇の姿が見えてこない

崇め奉られていたその陰で、好きなように権力抗争をしていた者達

ヤンゴトナキ者達を王権振りかざす者と言う意味で王権と書いている。


藤原の祖は中臣鎌足である

古事記は中臣鎌足の父母について何も記していない。

同様に”蘇我氏”の祖も何も記されていない。

日本史を学ぶとき必ず出てくる古代豪族の『大看板』

なぜ、古事記は藤原の祖、蘇我の祖を記さなかったのか。

古代豪族には渡来系だったとか、半島からの移民説とか

怪しげな説も多いのは事実である。


藤原の祖がハッキリしていて記さない理由とは

正直に書くと問題がある”出自”だったからか

鎌足の息子である不比等が存命中ならいとも簡単に

幾代前に遡って記すことは造作無いことだろう

相当不都合な問題が有ったと言う事になる

藤原の権勢が揺らぎ、崩れるほどの事実とは・・・・


蘇我については逆に感じる

蘇我=悪

この理論から言えば、渡来人説・移民説・卑しい出自を

滔々と書き記せば、蘇我の歴史評価は地に落ちるはず

書かなかったのか、書けなかったのか

正直に蘇我の出自を書いてしまえば、曽我の評価が上がる

それほど由緒正しい”蘇我の出自”と言う事になる

この時代、藤原氏は相当な権力を保持していただろう

その藤原氏でも、蘇我に対し嘘が書けなかった理由

『祟る蘇我一族』の影響なのか・・・


日本書紀は藤原の正統性を得る目的で編まれた

藤原の正史でもあった

一見すると、皇統の正統性に思ってしまうが

皇統よりも『 藤原の血の洗浄 』が目的だと

長屋の爺は思っている。

人は富と権力を得ると、誉(ほまれ)を欲する

 『 出自を飾る 』行動に力を注ぐのである


蘇我氏は聖徳太子の末裔一族を滅ぼした悪人

そう教えられてきた

はたしてそうなのか?

日本書紀などでは『聖徳太子』礼賛の記述が半端ではない

そこまで聖徳太子を聖者にする必要があったのか

関裕二氏の説にある

聖徳太子と言う存在が聖者であればあるほど

その一族を滅ぼした『蘇我』の悪が大きくなるという


裏を返せば、日本書紀に書かれている聖徳太子という人物は

蘇我入鹿を『稀代の大悪人』に仕立てる為に礼賛され

実在そのものも怪しくなってくるのである。



◎  天武帝と持統帝 

日本の正史である日本書紀には多くの疑問がある。

壬申の乱の勝者である”天武朝”を正当化するための史書

それまでの皇統と歴史の虚実を明確にすると公言して編纂

天武朝の為の 天武朝による 国史編纂


ところが、その中身といえば?がいくつもついてしまう内容

このどこが天武朝の正当化と礼賛なのだろうかという代物だ

たとえば、当事者の天武帝の生年月日すら記されていない

天智帝の皇子について、諸説あるなどと異論を残している

数百年前のことならば理解も出来る

天武帝崩御の後わずか2~30年で『わからない』

『~かもしれない』 それは無いだろう・・・・。


犯罪のセオリーから言えば、一番利を得る者

そのことにより、一番得をする人間が犯人なのである。


国史を改竄・捏造して得をするものはだれか?

時の権力者あるいは次期天皇と言うことになる

時の権力者は 藤原不比等(鎌足の子)であり

持統天皇(天武の后、天智天皇の娘)なのである。

この関係は、乙巳の変の天智と鎌足の関係と同じだ

天智天皇一族による”無欠クーデター”と言うことだろう。

壬申の乱で天武帝によって死に追いやられた大友皇子の無念

姉である持統天皇が晴らしたのか


持統天皇はあまり知られていないが

天武帝の皇子である大津皇子を謀反と称し亡き者にした

自分の産んだ草壁皇子を皇太子にするための冤罪かもしれない

689年 国号を『 倭 』 から 『 日本 』に改めた

のも持統天皇である。

694年、新しい宮殿を作り、そこを『藤原の宮』と呼び

都を『藤原京』と称した。

なぜ藤原京なのか・・・それについて書かれている文献はあるのか?

伊勢神宮の式年遷宮を制度化したのも持統帝

『大嘗祭(だいじょうさい)』を制度化したのも持統帝

天皇として初めて伊勢の地を訪れたのも持統帝なのである。

歴代の天皇でも何をしたのかしなかったのか定かでない

天皇も数多いらっしゃる中で、特筆すべき女帝なのである。

この持統天皇によって、陽のあたる場所に出ることが出来たのが

藤原不比等であり、その千載一遇の好機をみごとに花開かせた

不比等の一大事業が藤原の正史、持統朝(天智朝)の正史だった

幾重にも上書きさせて”神話”を捏造し、持統帝をアマテラスの

身に投影させ、輝く女性(女神)を創造したのかもしれない

この藤原の権力欲・権力願望が多くの豪族の衰退に関わってくるのである。

◎  神社を考える 


神社関連の書籍、文献を読むとある事実に行き着く

実しやかな嘘、言い換えれば稚拙な『騙り(かたり)』

の多いことに気付かされるのである。


不都合な真実は幾重にも覆い隠し

善良な鬼の末裔たちに伝えないのである。


古代日本の神様を祀る風習は 敬う より 畏れる

そこから始まっていると思う


穏やかな精霊だけならば、祭りだけで済むかもしれない

ところが、荒れ狂う神霊は丁寧に祀り、生贄を供え

怒りを静めることに苦心するのである

その見えない神霊こそ、山ノ神、水の神、雷の神などだった

それぞれの部族にその神々が祀られ

部族による”神名”がつけられていたかもしれない。

部族間の交流、交易などで個別の呼び方をしていた

神々の認知があったかもしれない。

それが口伝となり、同一神という観念が生まれたのかもしれない


畏怖の念

時を経て荒れる神に対する畏れから

罪を犯した『やましさ・後ろめたさ』が罪悪感となり

見えない神々からの糾弾を恐れるように・・・

その意識が『 たたり 』というものを考えることになった

祟りを避けるため、謝罪の意識から丁寧に祀る

そのような慣習が出来たのではないかと思う。


ヤマトの三輪にある 大神神社

祭神は大物主神・大己貴神・少彦名神

御神体は三輪山だという

現在でも社殿は無いと記されている

神社の拝殿から三輪山を拝む格好だと言うのだが

これも騙りかもしれない

この拝む正面に三輪山は無いと言うのである

体を左に向き直らなければ三輪山は拝めないのである

では参拝者は何を、何処を拝めというのだろうか

直接拝めないのはここだけではない

あの伊勢神宮も遠くからしか拝めないのである

前方の見えない何かを拝む形になっている

もう一つ、出雲大社も正面から拝めない形だ

主祭神の横顔を拝むという不思議な形である。

どうしてここまで、普通に参拝させないのだろうか

さらに、神社サイドはなぜその事実を伏せているのか

とても奇妙な神社の実態である。


神社はどんなときにお参りするか

爺は考えてみた・・・・

考えすぎかもしれないが、『 生 』を感じるのである

良縁結縁・病気平癒・商売繁盛・家内安全・無病息災

生きるために 見えない神 に祈る、拝む、念じる・・・

前を向いているときに、神社に思いが向かうのである。

いつの時代からか、ヒトデナシの末裔たちは

畏怖の念より、一縷の望みを神に託すようになったのか

それは祟られる”身に覚えのある者”ではないからか

前を向いて生きるために、ひたすら神に願う・・・

これが今の『日本の神社』だと思っている。


後ろ向き、つまり生では無い 『 死 』 を意識するとき

ヒトデナシの末裔たちは、寺に縋る(すがる)ようになる

不確かではあるが、あの世の往生を希う(こいねがう)のだ

仏に穏やかな人生の終焉を願い、 見える仏  に手を合わせる

縁があった宗旨宗派の門を潜り、仏と縁を結ぶのである。

教義も経も知らなくても、仏は暖かく受け入れてくれる

それが今の『日本の仏教』なのである。


今の神社の在り様と古の神社とでは信仰の意すら

違っていたのではないだろうか

祈ることは同じでも、願うことは似ていても

畏怖の念を感じているか否か

私は、そのことが大きく違っているように

思ってしまうのである。

◎  物部と出雲と出雲大社 


邪馬台国は九州にあった畿内にあったという論争がある

長屋の爺はどちらでもかまわないのだが・・・

出雲はあったのか、そして山陰なのか奈良なのか京都なのか

こちらはとても興味がある話なのである。


今では山陰に”出雲”があったのは常識である。

考古学からみても歴然とした史実である

奈良桜井市にある出雲、三輪山と初瀬の間にある地域

巻向山(567M)の南にあるところ

もう一つ、初瀬と朝倉の間(南側)にも出雲の地名が見える

出雲が山陰から三輪の地に移ったのか

三輪にあった出雲が山陰に流れていったのか

どちらの地にも間違いなく『出雲』はあったのである。

物部を考えるとき、出雲を無視できない

出雲を考えるとき、吉備を無視できない

出雲の地名と、出雲の民、出雲大社、出雲国造は

分けて考えるべきという説も確かにある。

さまざまな事柄が複雑に絡み合う中で時として

それらが思考を遮ってしまうこともある

素人ならではの”なぜ”の出番である。


今わかるのは島根県に出雲大社があるという事実


なぜ出雲大社は桜井ではなく、島根県に建っているのか

そこに祀られている祭神を深く知ることが

糸口のような気がするのである。


出雲と言う地名と出雲の民

これは同一次元で考えても良いと思う

出雲に生まれ住んだから”出雲の民”であるはず

そう考えるのが自然である。

出雲大社・・・これが曲者なのだ

アマテラスが伊勢に鎮座したというが

小さな祠が起源とみるのが妥当だろう

しかし”出雲大社”は記紀を信じるなら

最初から天神の宮殿と同じ規模の社殿を作らせたという

それほどに”皇祖”にとって、畏れ奉った神(鬼)だったことになる

8世紀の王権はそれ以前の歴史の改竄をしなければ

ならない理由があった

しかし、完全に抹消仕切れていない事柄もある

推測するに、その最大の理由は・・・

『畏れ(おそれ)』 『祟り(たたり)』 が原因だろうと思う。

古代日本の神様は祟る神が基本であり

祟るから丁寧に祀るのである

人々を幸せに導いてくれる西洋の神とは一味違う

恵みを与えてくれるが脅威ももたらす鬼の面も併せ持つ

大事に丁重に祀るということは、裏を返せば

それほど怖ろしい祟り神ということなのである。


 大国主神は、わが国最強の祟り神 


皇祖にとって益する神ならば、近くにおいて

日夜お参りするだろう。

遠くに追いやり、縁者に祭らせ、監視させる

ヤマト王権の”常套手段”である

『鬼は 鬼の手によって 御する』

祟り神は その子孫の手で 祀らせるに限る

『豆まき』と同じ理屈なのである。

◎  多くの参考文献著者に御礼申し上げます 

長屋の爺は沢山の専門家の方による書籍のおかげで

古代史などを言いたい放題、書きたい放題をまい進している。

礼儀として参考文献・引用ブログなどを都度記すのが当然である

それをしなかったことを反省しつつ、今までに参考にさせて

いただいた文献をまとめて書いてみたい。


日本の『神話』と『古代史』がよくわかる本(日本博学倶楽部)

歴代天皇事典 (高森明勅)

知っておきたい日本の神さま (武光誠)

日本人はなぜ日本のことを知らないのか (竹田恒泰)

神さまと神社 (井上宏生)

犬の伊勢参り (仁科邦男)

皇位継承 (高橋紘 所功)

卑弥呼誕生 (遠山美都男)

古事記と日本の神々 (吉田敦彦)

本当は怖ろしい万葉集 (小林恵子)

続日本紀と日本後紀 (中村修也)

新版 遠野物語 (柳田国男)

歴史の中の日本 (司馬遼太郎)

古事記 (梅原猛)

日本の深層 (梅原猛)

神々の流竄 (梅原猛)

日本の神様と神社 (恵美嘉樹)

逆説の日本史 古代黎明編 (井沢元彦)

逆説の日本史 古代怨霊編 (井沢元彦)

逆説の日本史 古代言霊編 (井沢元彦)

古代豪族のルーツと末裔たち (歴史読本編集部)

ヤマトタケルの正体 (関裕二)

おとぎ話に隠された古代史の謎 (関裕二)

鬼の帝 聖武天皇の謎 (関裕二)

聖徳太子の秘密 (関裕二)

出雲抹殺の謎 (関裕二)

消された王権物部氏の謎 (関裕二)

日本書紀が隠し通した天皇の正体 (関裕二)

聖徳太子は蘇我入鹿である (関裕二)

この七つの真実はなぜ塗り替えられたのか (関裕二)

なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか (関裕二)

古代史残された謎 (関裕二)

古代日本、ユダヤ人渡来伝説 (坂東誠)

なぜ万葉集は古代史の真相を封印したのか (関裕二)

古代史の秘密を握る人たち (関裕二)

天皇家と宗教の秘密 (歴史謎学クラブ)

お坊さんが困る仏教の話 (村井幸三)

日本の神社 (洋泉社MOOK)

縄文の世界 (小林達雄)

一個人【天皇と皇室】 (KKベストセラーズ)

歴史人【天皇の謎と秘史】(KKベストセラーズ)

歴史人【卑弥呼と邪馬台国の謎】(KKベストセラーズ)

CARTA【古事記】 (Gakken)

逆説の日本史 ニッポン風土記西日本編 (井沢元彦)

逆説の日本史 ニッポン風土記東日本編 (井沢元彦)

QED 百人一首の呪 (高田崇史)

QED 六歌仙の暗号 (高田崇史)

QED 竹取伝説 (高田崇史)

QED 鬼の城伝説 (高田崇史)

QED ~ventus~熊野の残照 (高田崇史)

QED 神器封殺 (高田崇史)

QED 河童伝説 (高田崇史)

QED 諏訪の神霊 (高田崇史)

QED 出雲神伝説 (高田崇史)

QED 伊勢の曙光 (高田崇史)

等々・・・(著者敬称 省略させていただきました)

このほかにも沢山の方のブログからヒントなど引用させて

頂きました。

その方々にもあらためて 御礼を申し上げます。

◎  ニギハヤヒは大物主神だ 

物部の祖は ニギハヤヒ だとされている

神武東征より前にヤマトに君臨した神さまである

土着の長脛彦の妹を娶り、ヤマトに根付いたと思われる

では、ニギハヤヒ はどこから来たのか

まさか本当に天から降りてきたわけではない


ニギハヤヒ は山陰から来たという説がある

それも吉備あるいは出雲からという

各地に残る神社の伝承から推察すると

ニギハヤヒは大物主神と同一と思われ

天照の文字が入った諡号から、本来の日本の太陽神

8世紀に女神と入れ替わり闇に葬られた格好である


大物主は 物 が示すように、鬼でもあった

モノは鬼の事でもある、大物主は『鬼の中の鬼』なのだ

物部は太陽神を祖とし、出雲からヤマトの地に来た

鬼の末裔であり、太陽神の末裔でもあるわけだ

崇神天皇の時代、大物主神が祟って出た話がある

大物主神は人々を恐怖のどん底に落とす

   『 最強の祟り神 』 

だから最も恐れ、もっとも敬った神だったのではないか。


神武東征の際にニギハヤヒは長脛彦を殺し王権を禅譲した

・・・ことになっているが、これは騙りではないのか

今尚宮中祭祀において、物部の祭祀を執り行っているという

皇家が祭祀の中で、物部の呪文を唱えることの意味は?


素人の長屋の爺のたわごとであるが・・・

皇家に物部が取り込まれているのではなく

物部の神道に皇家が入り込んだ結果なのではないか

観点を変えて見れば、時の王権”もののべ”に

九州から来た皇祖が何らかの形で入り込んで

王権を手中にした(例えば 婿養子)


その根拠といえるのが、初代神武天皇の皇后が

出雲神 事代主神の娘とされている事

さらに2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)の皇后も

事代主神の娘とされている事

なぜヤマト建国の初代天皇の皇后が出雲出身なのか

どう考えても、サザエさんのマスオさんに思えるのである


外見は大和王権であり、中身は物部王権

そう考えれば皇家の祭祀が物部(出雲)の祭祀を踏襲していて

不思議でもなんでもないのである。





◎  モノ と物部 

前回も書いたが、血のつながりと言う曖昧な根拠

誰もが血のつながりを考えるとき

ある特定のご先祖様を思い浮かべる

例えれば”ピラミッド”の形である。

それはある一つの角度から観た偏った見方で

自分と言う人間から見れば、親は2人、祖父母は4人

3代前は8人、4代前は16人の先祖にたどり着く

10代遡ればなんと・・・1024人のご先祖が居ることになる

ひょっとして、ネットでしか知らない相手が

どこかでご先祖が同じと言うことも有り得る話なのだ


日本人が日本人である理由

それは、古代から続いているかもしれない DNA

血の中に収められた『 歴史の記憶 』

勉強しても努力しても備わらないもの

日本人の血の記憶

これが、日本人が日本人として生きて行ける支えだと

長屋の爺は 常々思っているのである。


日本の古代史を壊したのは

大化の改新と明治維新である

一つまみの権力亡者によって、歪められ捨てられた歴史

素人が無謀な考察が出来るのも、そのおかげかもしれない・・・


物部氏

古代、鬼のことは『モノ』『シコ』と呼ばれていたという

大物主神とは鬼でもあったわけだ

物部とは鬼部であり、鬼辺でもあったかもしれない

物を古語辞典で引いてみた、8項目あったが・・・

爺の頭では理解できなかった

関裕二氏の言葉を借りると

『モノは物質であると同時に、霊的な作用も含めたこの世

 に起こりうるすべての現象を指していた』

ようするに、多神教の世界ではモノとは神そのもの

モノ = 神 であり、神 = 鬼(モノ)だったという

人を守る神(モノ)から、自然の驚異である鬼(モノ)に

比重が移り、本来の神から鬼の要素が濃くなった

物語(ものがたり)とは、鬼(モノ)のことを語り伝える

と言うことになる



では、もののべ とはどんな氏族だったのか?

鬼部(もののべ)は本来なら、神部(もののべ)と言う事になる

物部氏の祖は、ニギハヤヒといわれ『日本の国(やまとのくに)』

の命名者ともいわれている”天つ神”である

一説によれば、九州から東征してきた皇祖よりも先に

大和の地に君臨した王族(王家)だった可能性もあるという

このニギハヤヒの王権禅譲が”出雲の国譲り”の舞台といわれる

王権禅譲=出雲国譲り であるならば

ニギハヤヒ = オオクニヌシ と言うことになる。



物部氏といえば『石上神宮』である

日本書紀にも神宮と記されているのは、伊勢と石上だけ

それほどに王権が重要視した神社と言えるのだ

前にも書いたが、この石上神宮、元は社殿が無く

禁足地を拝殿としていたのである。

『そこから出るな』と封じ込めなければいけなかった

祭神とは 剣 である

布都御魂神(ふつのみたまのかみ)という

東征の途中、熊野で神の毒気によって衰弱した神武天皇を

回復させた剣のことである。

その剣が皇祖神を祀る”伊勢”ではなく、ここ石上にある

というのだから不可解な話といえる

平国剣(ことむけの つるぎ)といわれる剣がどうして

武神で名高い鹿島・香取ではなく 石上にあるのか 

非常に興味深い話なのである。

本当に主祭神は剣なのだろうか?

主祭神であるならば、禁足地の意味するところがわからない


次回も物部を考えてみたい

◎  古代豪族とは 


古代豪族

歴史に興味のある方なら、豪族の名前のいくつかが

頭に浮かぶのではないか

『 蘇我氏 』 『 物部氏 』 『 出雲氏 』

『 秦氏 』 『 紀氏 』 『 尾張氏 』・・・・

古代豪族の衰退と『藤原』の台頭に大きな関わりが

あるのかもしれない。


古代豪族と一口で言っても、さまざまな特色があり

中央豪族 地方豪族 渡来系豪族 などに大別されている。


豪族の簡単な見分け方など無いのだが

地方の土地を氏(うじ)にしている豪族は

古くから王家に対し、自立した驚異的な存在とされ

葛城氏(かつらぎ)、蘇我氏(そが)、平群氏(へぐり)、

紀氏(き)などが有名である。


職掌から氏を名乗るものは朝廷の様々な役職についていた

集団とされ 大伴、物部、中臣、忌部などである


地方豪族の中で国造・県主など支配地を氏とした例も多い

出雲(いずも)、越(こし)、吉備(きび)、毛野(けぬ)

筑紫(つくし)などが有名である。


私は氏素性や家系などに大きな意義は感じない


数字の上だけで言うなら、10代前の先祖の血が

自分に引き継がれている%は・・・・

0.09763% でしかない無いのである。

私は血脈という名の『こころ』を受け継いでいると

思うことにしている。

先祖が何処から来たのか知ることは叶わないが

子孫として日本人の心だけは繋いで

後の者に引き継げればそれで十分である。


話を戻そう・・・・

天武朝の時代、八色の姓(やくさのかばね)という

中央官庁の登用に関わる仕組みを整えた


真人(まひと),朝臣(あそん∥あそみ),宿禰(すくね),

忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),

稲置(いなぎ)の8種類である。

実際に姓を賜ったのは上位4性だけであり

その4性が高級官僚に選出される条件に成っていた。

第1の真人は,主として継体天皇以降の天皇の近親に限られ

真人十三氏、朝臣五十二氏、宿禰五十氏、忌寸十一氏とされる。


大化の改新以後緩やかな合議制の体制が崩れていき

中央集権という形に移行していく

その緩やかな合議を壊したのが『中臣鎌足』であって

『藤原不比等』である。

その陰に、天智天皇(中大兄皇子)と持統天皇の姿が見えるのだ

天智の血を守るため

いや、万世一系を維持する為に苦労していた天皇家

そこに巧妙に近づいたのが『ふじわら)という氏族だったのである。


余話

三位の位に朝臣(あそん)がある。

一般的に三位以上の性の下、または四位の人の名の下に付く

この朝臣は平安時代、文字通り『遊ん』でいたのである

遊んで暮らしていける人のことでもあった

『遊び』は『みやび』とも言われ

『 雅 』の語源とされている。

高貴な人は齷齪(あくせく)してはいけない

遊んでいなければいけなかったようである。

◎  神道は宗教か? 

日本の神道は宗教か否か・・・

『宗教でもあり、宗教ではない』

私はそう思っている

古来日本の神とはどういうものか

そこから考えるべきであって

いきなりの宗教論は性急と思えるのである。


古代日本において、神とは

何処にでも居て、誰にも見えないもの

神の姿は人間には見えなくて当たり前の存在

人間の身の回りに常に存在し厳しく優しく

接してくれる。

神が見えるというのは観たいと思う心

じぶんの頭の中にあるイメージが元になる

それは妄想・盲信の範疇に入るだろう。


日本人は『無心論者』と公言する人が多い。

身内に不幸が無い限り、仏教徒の家系すら

忘れていることがほとんどだと思う。


私の実家は 曹洞宗 の檀家であり

その縁で私も曹洞宗の信徒でもある。

この歳になるまで、身内以外にその事実を

話すことなど無かったように思う


仕事柄、神社・寺院の仕事も年に数度依頼が来る

その神社がだれを祭っているかなど気にもせず

仕事始めと仕事終いに、手を合わせ拝礼をする

その寺が何宗・何派であろうと

ご本尊に手を合わせ瞑目することを欠かさない。


どこかに旅行に行けば、日本人ならばきっと・・・

神社に足を踏み入れれば、手を合わせ拝礼するはず

自分が何宗なんて関係ないのである


 《 あるカルト教だけは、そのような場所には立ち入らないと

  ある人から聞いた、たとえ修学旅行であってもだ 》


それを考えれば、宗旨宗派に関係なくお参りする神社

宗教であって宗教でない、そう思っても不思議ではない


大きなイチョウの木に手を合わせるのが宗教なら 

宗教と思えばよい

裏山の頂に手を合わせることが宗教と言うなら

それも宗教と呼べばよい

日本の神さまとは、本来お姿が見えず

道端の草にさえ宿っているものだから・・・・



『隠れ身(かくれみ)』が変じて 『かみ(神)』

になったという説もある。

見えないから尊び、見えないから恐れた

神は恵みを与えるとき 神 と呼ばれ

災いを与えるときには 鬼 と呼ばれるのである。



人間の欲と都合で、神にされたり、鬼にされては

敵わない話であるが

本来日本の神さまとは、そう言うものなのかと

思っております。


余話

52代 嵯峨天皇は 小野篁(おののたかむら)に対し

難題を突きつけたという


子子子子子子子子子子子子

これが問題の文字である。

これをどう読むのかという天皇からの宿題


小野篁はこう呼んだといわれている・・・・


  『 猫の子の子猫、獅子の子の子獅子 』 


小野篁は、あの 小野小町 の祖父であるとも言われている。

◎  乙巳の変と藤原氏 

 この世をば 我が世とぞ思ふ望月の

   欠けたることも なしと思へば
 



藤原道長の歌である

「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」

そのような意味だったと思う。


持統天皇の後(のち)の世は、まさしく藤原の世

そう言っても過言ではないと思う。

この時代以降は日本の歴史というより

藤原の歴史と言うほうが的を射ているだろう


では藤原とはどんな氏族なのか

始まりは 『中臣 鎌子』 別名 『中臣 鎌足』である

中臣鎌足は669年10月16日に亡くなっている。

亡くなる前日に、大職冠と大臣の位が授けられ

性を 藤原 と改めたとある。

鎌足といえば、乙巳の変(いっしのへん)を思い浮かべる

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺し蘇我本宗家を滅ぼした

大化の改新という呼び名で教わった方も居られるかも知れない

これは簡単に言うと、飛鳥の豪族による集団支配から

天皇家による政治に変える『クーデター』と言う言も出来る。

中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足はヒーローと思われてきた


ところが、どうやらそれも怪しい話になっていくのである

大化の改新のヒーローである中大兄皇子は民衆の人気がなかった

乙巳の変の後、民衆は次の天皇は『軽皇子(かるのみこ)』を

望んでいたという。

さらに中大兄皇子の周辺では、不審火が数多くあり

歴代天皇の中で一番 火事に縁のある天皇という

この天智天皇(中大兄皇子)の晩年も怪しさいっぱい

何処で死んだのか、遺体も発見されていない

事実なら歴史上の大問題である・・・が

そんな事は学校でも教えてはくれない


藤原鎌足に話を戻す

彼は晩年『祟り』を受けていたと思えるのである

日本書紀にも館に落雷があったと記されている

古来、落雷は祟りの象徴だった

恨まれるような重大な罪を犯していたのだろうか

彼は突然、歴史の表に現れた謎の多い人である

だが我々が記憶している彼の行いは乙巳の変だけである


蘇我入鹿の祟りと言うならば

入鹿は無実の罪と言う言になるではないか

冤罪によって邪魔者(蘇我氏)を滅亡させた

その祟りということになる。

藤原と蘇我 しばらくこれを考えてみたい


亡くなる前日に賜った 藤原性

なぜ? 藤原だったのか

だれが?

どんな理由で藤原に決めたのか


ここ数日考えてみた・・・

素人ゆえさしたる考えも浮かばず

苦し紛れの 爺論である・・・


藤原は 当て字 だと思う

本意は ふしわら ではないか?









われ等一族 死に絶えることなし

日の本に根を張り、一族綿々と繋ぎ 栄華を目指す

それが ふじわら の由来のような気がするのである。

◎  天皇という名の操り人形  


記紀や神話を天皇家の目線で観てしまうと

見えなくなるものがある

歴史に関する本を見ていると不可解な問題に突き当たる

それが何であるかはわからない


ただ、素人の意見を言わせてもらうと

絶対的な権力者としての天皇の姿が見えないのである

天皇という名の操り人形

それも パペットではなくマリオネットのような・・・・

それを操作するのが権力の亡者”フジワラ”ではなかったか

記紀も神話も天皇の正統を主張すると言うより

『藤原の王』の正当性

藤原一族の正統性

それを印象付けるために書き残された歴史書が

『日本書紀』 『古事記』 だったのではなかろうか

皇統の正統 = 藤原の正統

長屋の爺はそう思えて仕方が無いのである。


天武天皇と天智天皇の関係がどうもわかりづらい

兄弟と言われているが、はたしてそうなのか?

国史の編纂を命じた天皇の生年すら明らかにしていない

686年に没したとされる天武天皇

712年に古事記が完成している

その8年後に日本書紀が完成した


少し前の事実すら書かなかった理由

それこそが、藤原に都合の悪い史実があって

隠蔽・抹消せねばならない大きな理由と思えるのである。


持統天皇以前の天皇系譜を改竄し

あたかも持統帝が天皇家の起源とでもいわんばかり

そんな印象を受けるのである



これからは神さま・神社を間に挟みながら

藤原と天皇、有力豪族たちを考えてみたいと思う。



漁火(いさりび)

どうしてこう呼ぶのか・・・・不思議である。

難読漢字は意外な理由があるという

昔、漁のことを『すなどり』と言ったという

漁をする舟は小さく、立って歩くことができなかったらしい

そこで膝を突いたまま進んだ、それを『いざる』と言い

いざり と すなどり は同じ意味だった

貧しい漁をする人間のことを いざり すなどり

と呼んだというのである。

そこから魚を引き寄せるために炊く火のことを


  いざりび ー いさりび ー 漁火 と言うようになった。 


back to TOP

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。