不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  伊勢参り 


神宮は天皇以外参拝を許さなかった

時代は下って”武士”の世になり

宮廷貴族に代わって、サムライが力を持つように

そうなると武力に物を言わせ、有力な武将が

慣例を破って参拝・奉献するようになった。

更に時代は下り、江戸時代になると

朝廷の威厳は無きに等しく

町人たちがこぞってお伊勢参りをするようになる

どうして”猫も杓子もお伊勢参り”に出かけたのだろう

霊験あらたかな神社仏閣は他にもあっただろう

なぜ? 伊勢だったのか・・・・・。


かつて日本には有名な遊郭があった

長崎 丸山

長門 赤間関(下関)

京都 島原

江戸 吉原

そして・・・伊勢 古市 である

一説によれば、島原・吉原・古市 は三大遊郭という

熊さん 八つぁん 吾作どんもお目当ては 古市での

『精進落とし』と称する、遊里での乱痴気騒ぎが主題だったとか

それともう一つ、『伊勢白粉(いせおしろい)』

女性が顔や首に塗る、白粉のことである。

この伊勢白粉は丹(水銀)を原料として作られた

白粉の中でも伊勢国射和(いざわ)(三重県松阪市)付近

で作られていた白粉を伊勢白粉と呼ばれ、上等品とされた


伊勢にはそれほど庶民にとっての楽しみ

言い換えればご利益が有ったと言う事で

遠くまで足を運ぶに値する、魅力ある所だったのである。


刀自(とじ、とうじ)

刀自(とじ)とは、古語では戸主(とぬし)の事をいう。

日本古代において、家は女性が主で、男性はその女性のもとを

訪れる妻問婚が一般的であった。


古代では家で酒造りをし、神に供えて神祭りをするのは女性の役目

転じて、家事一般をとりしきる主婦のことを家刀自とも言った。

村を統率するような役割を担った女性を里刀自と言ったという。

酒造りの 杜氏 は 刀自(とうじ)が語源という説もある。

古より 女性が偉大なのは 不変と言う事だと思う。
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◎  なぜ伊勢の地が 

なぜ 伊勢だったのか

伊勢が海上交通の要路だったからという説が有る

たしかに伊勢湾に面し何処へ向かうにも便利だろう

それは人々が住み暮らす場所としての場合である。

元伊勢と伝えられている場所のどこがいけなくて

撰ばれなかったのかを説き伏せるには弱すぎる。


伊勢湾に面するこの地が、食の宝庫であったから

そういう説もある

これも説得力の薄い説である


さらに、この地が古より”太陽神”信仰が盛んだった

それ故、太陽神である”天照大神”が鎮座することになった

この説も裏読みすれば、先住の太陽神を排除して居座った

そう言っているようなものである。


高師小僧(たかしこぞう)と言う物がある

地下水中の鉄分が葦などの根の周りに水酸化鉄として

管状・紡錘状に沈殿したもののことである

通称 褐鉄鉱(かってっこう)とも言われ

愛知県豊橋市高師原で発見されたことでこの名がついた

古代 この物を総称して 『スズ』 と呼んだという

五十鈴川 の イスズ もここから来ていると思われる。


tako.jpg
高師小僧 (高さ45mm)

水が通った跡が中空になり、振ると乾いた音を発するという

葦が密生する場所に鉄分を含んだ水があれば

たくさん出来たのかもしれない・・・・。

この密生した塊りの様子が、スズナリ という語源だとも言う。

伊勢の地にもこの”鉄”があったから朝廷は人を近づけない

ように、この地を神域としたのかもしれない

神宮(内宮)の南側、五十鈴川の上流(源流)の映像を

観た事がある

通常は立ち入りなど出来ないのだそうだが

天下のNHK(笑)のおかげで、特別に許可された

私はその映像を見ることが出来た。

そこに映っていたものは、赤い石の間から

滾々(こんこん)と湧き出る水の流れだった

この伊勢は鉄の鉱脈がきっとあるのだと思う

五十鈴川 鈴鹿 どうしても鉄の匂いがするのである。


内宮の神域の広さは5500ha(55平方キロメートル)

東京都世田谷区の面積とほぼ同じという

参拝しようとしなかった神様の神域にしては

少々広すぎる気もするのだが・・・・。


◎  伊勢の疑問あれこれ 


どうして伊勢は、両宮(内宮・外宮)なのか

この疑問が残っている

本宮ひとつでは不都合な事情があったから

そうは言っても、どんな事情が有るというのだろう


一つにすれば、主祭神は 天照大神  

そして、相殿に 豊受大神 

さして不都合は感じない

とすれば、表向きの事情というより

裏の事情が大きいと言う事だろう。

前回書いた、元伊勢という言い方

本来なら、元神宮とか元皇大神宮と言うはず


さらになぜ 伊勢 の地が選ばれたのか

24箇所も巡幸したならば、適当な地が他にも

あったのではないのか


そう考えてみると伊勢は交通至便な土地とは思えない

今でこそ車や電車で行くことに不自由は感じないが

昔は辺境の地だっただろう

伊勢地方は紀州和歌山と並び台風が直撃する地で

私が幼少の頃の、『伊勢湾台風』は皆が知るところでも有る

そのような地をわざわざ選んだ理由とは何か

私は、たまたま伊勢に落ち着いたなどと思っていない

伊勢で無ければならない理由(わけ)

それも一つではないような気がする

そんな簡単な理由というか単純なら

長屋の爺が稚拙な解釈をするまでも無く

学者先生たちが解明しているだろう。


さてここで『物差し』を作りたい

囲碁や将棋のように、こう打てばあぁなるでは

何種類もの先読みを強いられる

外宮に祀られているのは ニギハヤヒと仮定する

そして内宮にはアマテラスということで話を進めたい。


この伊勢という地がスポットライトを浴びたのが

天武天皇が壬申の乱のとき伊勢神宮の天照大神を

『望拝(たよせにおがむ)』で勝利したとされる

その時からなのである。

望拝んだとは、遠くからその方角を拝むことで

実際には足を踏み入れてはいない


ついで持統天皇の行幸と続く・・・・。

それまでは天照大神も伊勢神宮を祀ったという

事実は見えてこない。

その当時は神宮そのものも存在していなかったからと

推測できる。

ではなぜ伊勢だったのか?

天武天皇が望拝んだという言葉の裏には

伊勢の地の製鉄集団の力を借りた

そして、壬申の乱に勝利した。

(壬申の乱については後々書くつもりなので

その時まで詳細は省くことにする。)

ここで二通りの仮説が頭に浮かぶ

一つ目は・・・

その後、伊勢の鉄を朝廷は召し上げてしまった。

そしてその裏では多くの犠牲があったと思う。

辺境の地であり、奪い取った土地

多くの霊を祀るために、祠しかなかった地に

大きな社を作り天皇以外の参拝を禁じた。

それでも祟りを恐れ、皇女を斎宮とし生贄として

伊勢の地で奉仕させることにした。

伊勢は天皇以外の参拝を禁じたが、武士の力が強くなり

次第に門戸を開くようになったという。

触らぬ神に祟りなし・・・・と言う事だろう。


もう一つ・・・・

壬申の乱の助力に報いる為、祠しかなかった地に

地元の民が崇拝していた神を社を作り祀った。

それを天武亡き後、持統天皇が内宮・外宮の交替をし

日の巫女だったヒルメノムチを天照大神とし

自分をモデルに架空の太陽神を作り出した。

そして、本来の太陽神ニギハヤヒの存在をかくすため

豊受大神なる神を移し、外宮の祭神と称した。

この秘密は口伝以外には存在しなかっただろうし

総てが闇から闇に葬り去られたのかもしれない。

籠神社の石碑以外には・・・・・・・・。


次のなぜは次回ということに・・・

◎  照る神と照らす神 

丹後一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)

祭神は 彦火明命 (ひこほあかりのみこと)

天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命ともいう。

この神社の境内に古い石碑が建っている

そこには

   『 天照坐豊受皇太神宮 』   

これをどう読み解くか・・・・

アマテラスが豊受皇太神宮に坐す

奇妙な話である

天照大神が内宮に居るなら 皇大神宮 に居る

 天照坐皇大神宮 と刻まれるだろう

そして、外宮に居るなら 豊受大神宮 に居る

 天照坐豊受大神宮 と刻むはずである


 天照坐豊受皇太神宮 とは不可解なり

アマテラスが外宮に居る・・・ということか


ある説によると・・

天照 をどう読むか

天照 をあまてらす と読まずに

素直に あまてる と呼ぶ

そうすると


【アマテル トヨウケノスメオホンカミノミヤ ニイマス】

  天照坐豊受皇太神宮とは

豊受大神宮 に 天照国照彦火明天櫛玉饒速日命 が坐す

そういう意味だというのである

表札は 豊受大神宮 だが、祭神は 饒速日命 である

この説を受け入れれば、総てが納得のいく解釈になる

外宮は 男千木 であり、外宮先祭の習わしがある

どう考えても男神を祀っているようにしか思えない

本来 太陽神(日の神)は男神が常識

天照、これは天上にあって光り輝く神であり

地上においてそれを照らす神が、天照らす神なのだろう


では内宮はどうなる

持統天皇の時代、禰宜の交代があったという

これが事実なら、禰宜の交代というより

祭神そのものの交替ではなかったのか?

内宮に 祀られていた太陽神 を外宮に・・・

外宮で太陽神を 祀っていた巫女 を内宮へ


それが禰宜の交代であり、内宮が女千木、外宮が男千木を

今でも改めようとはしない真実の証であると思う


『 アマテラスは昔は、何処にでも居た・・・・』

そんな話も聞いた

日本中の神さまを祀る(照らす)役目を担った巫女

日の巫女 が各地に居たのかもしれない

それを、人々は敬意をこめて・・・ひみこ と呼んだのか

卑弥呼は個人名ではなく、神さまの一番近くにいた女性

そう思えてならないのである。

◎  果てしなく・・・伊勢 

どうして伊勢だけが、内宮・外宮と二つに分けてあるのか

私の地元には、八~十二もの祭神がひしめいている神社が

幾つも有るのに・・・・。

伊勢の最大の不思議はこれだと思っている。

7世紀後半に忽然と現れた神宮

それも二つ、ほぼ同時期に持統帝の手によって


猿田彦神を一番最初に参拝する理由とは

主祭神を差し置いて、外宮を先拝する理由とは

主祭神である天照大神は男神?女神?なのか

伊勢津彦は常世に行ったとすれば何処に祀られている

当然、御霊であるだろうし丁重に祀られているはず

伊勢にはなぜ 鈴が無い

伊勢にはなぜ 賽銭箱が無い

伊勢にはなぜ 狛犬がいない

伊勢にはなぜ 注連縄が無い

持統天皇は伊勢に行幸してなぜ 参拝しない

解らないことだらけである。

いろいろな説はある、だがどうも腑に落ちない

まだまだ時間がかかりそうである。


元伊勢と呼ばれる神社が24社ある(諸説あるが)

素朴な疑問である・・・・・

   伊勢は動いていたのだろうか?

言葉を変えれば、たどり着いたところが伊勢

ならば、元神宮とかになりはしないのか

伊勢という土地が放浪したとはおかしな話

放浪したのはアマテラスであり

伊勢という土地では無いと言う事なのである


元伊勢と呼ばれる 『籠神社(このじんじゃ)』

主祭神は 彦火明命 (ひこほあかりのみこと)

相殿神は 豊受大神 (とようけのおおかみ)

     天照大神 (あまてらすおおかみ)

彦火明命 とは、あの 饒速日命 別名の

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊のことであり

もう一人の天照神でもある

元伊勢の主祭神が 饒速日命 というのは

伊勢の主祭神が 天照神 饒速日命と言う事なのか

それならば、外宮の先拝も男千木も理解できる

饒速日命は皇祖神より早くこの国に降臨した神

それを祀ることの意味は大きい。(つづく)



余談・・・

日本の言葉は時代によって解釈が変わる

その昔には、相応の意味があって言葉になった

それが現代では、差別・侮蔑の意味にとることもある

看護婦という言葉が使われなくなって久しい

この 婦 という文字、 女 に 帚(ほうき)である

女性蔑視とか差別といわれたが、とんでもない話である

帚というのは宗廟内を酒で清める『玉ははき』のこと

その役目が今で言う主婦の役目だったから 婦 を用いる。

その 婦 は一族を代表する地位でもあったという。

婦 という文字は誇り高き女性の尊称だともいう。

正しい意味を教える教育が、損なわれた結果の事象でもある。

◎  伊勢津彦と天日別命 


『伊勢国風土記』に記されている逸文がある


神武天皇が日向から東征するとき奈良県宇陀に入った

そのとき天皇は『天日別命(あめのひわけのみこと)』

に『空の彼方に国がある。その国を平定してくるように』

天日別命が東に数百里行くと、伊勢津彦なる神がいた。

天孫への国の献上を断った伊勢津彦を天日別命は軍勢を率いて

殺害しようとしたという。

伊勢津彦は献上を約束し、東の方角(常世)に去っていった


なんだか出雲の国譲りっぽい展開であり

献上という名を借りた 『強奪・略奪』の匂いがする。



ちなみに、天日別命の子孫が外宮の禰宜である

渡会氏である。


伊勢津彦という名前からして、この地を治めていた

神であり、伊勢を追い払われた伊勢の彦神だろうと思う。


このことから推測すると、外宮に祀られている神とは

伊勢津彦の可能性も出てきた。


先祖が殺めた地主神を子孫の手で祟らぬように

手厚く祀る宿命を持統天皇から負わされたのか。


外宮に祀られていると言う『豊受大御神』であるが

伊勢に呼ばれた事情も不可解だが、なぜ内宮より先に

お参りせねばならんのか・・・理解できない。

天日別命の子孫が他所から来た新参の神を祀る理由

それが見えてこないのである。


外宮は男千木である

男千木ということは『男神』を祀っている社のことだ

千年を超える年月、遷宮を繰り返してきたならば

女千木に建て替えても良かったはず

それを敢えて『男千木』にするには理由(わけ)があるはず

天照大神という神が女神であるなら食事の世話をする

神を遠くから呼ぶ必要も解らない。


天皇家は明治になるまで参拝した記録が無い

では何もしなかったかと言えば、NOである。

時の天皇の皇女が伊勢に赴き、『斎王』として仕えた

斎王が住まいする館を『斎宮(いつきのみや)』と呼び

斎王のことを斎宮とも呼んだと言う。


では、豊受大御神は必要だったのだろうか?

一説によれば、斎宮は天皇に代わって祭祀を執り行う

重様な役目を担っていた。


その裏に隠された本来の役目は、神に捧げる人贄(生贄)

だったともいう・・・。


え? 天照大神は女神だったはず・・・。

誰の為の生贄だというのだろう。

神のことを サ と言う事は前に書いた。

神の女 さめ 神の乙女 さおとめ がこれに相当する

未婚の処女で高貴な身分、一生結婚することは無かったとも

誰の為の 斎宮 であったのか気になる話である。



◎  禰宜と式年遷宮 

神宮の最高役職は 『禰宜(ねぎ)』である

伊勢神宮の禰宜は昔から、度会氏・荒木田氏と決まっていた。

山田の度会氏、宇治の荒木田氏

両家は 『神宮家』と呼ばれ高い家格を認められていた。

外宮の禰宜は渡会氏、内宮の禰宜は荒木田氏からしか出ない。


ところが・・・

その昔、外宮・内宮の禰宜が交代したという説が有る。

内宮の禰宜だった渡会氏が外宮に

外宮の禰宜だった中臣氏(荒木田氏)が内宮に


その時期は 『持統天皇』の御世であり

天皇は692年に伊勢に行幸したとされる

式年遷宮もこのときから始まっている。

もっと突っ込んで言えば

神宮の本殿が創建されたのはこの時だった

それまで伊勢の大神を祀ってきた禰宜が

後から来た新参の神の禰宜に降格することは

腑に落ちないのである。

ある方の説によれば

禰宜の交代はすなわち、主祭神の交代であった

祠に祀られていた主祭神が外宮へ

内宮には新たな主祭神が祀られた可能性もある

内宮は紀元前4年に創建されたと伝えられていて

外宮は478年に創建されたというが

記紀にすら神宮と言う扱いをされていない事実

甚だ疑問である。


式年遷宮について、専門家は伊勢の民の経済力の

消費説(参勤交代のような)をとるが

長屋の爺は、持統朝以前の伊勢の歴史に箔をつけ

古の色を隠す為、20年ごとに新しい宮を作り

新しい建物だけを見せ、あたかも紀元前から在ったという

言い伝えだけしか残さなかった。


だれが、いつ、伊勢にお参りしても眼にするのは

十数年の歴史しかない新しい建物なのである。

ところが、誰一人『新しい本殿』に違和感を持つことなく

ありがたく参拝するのである。

だから、伊勢神宮は特別なのであろう。


持統天皇が伊勢に行幸しても、参拝しなかったのは

目的が参拝ではなく、主祭神の交代、禰宜の交代を

自ら図ったためではなかろうか

政治的な意味の行幸であり、先祖の御霊に対する

真摯な行動が見えない理由であろう。


さらに言えば、外宮・内宮というのも

この時きちんと形を成した可能性すらある。

禰宜の交代ではなく、禰宜の任命

事の真相を天皇自らが禰宜に因果を含め

納得させたのではなかろうか。


そうなると・・・祀られている神さまを探さなければ

伊勢から離れられないのである。


ヒントは神社をお参りするときは

その神社の主祭神をお参りするのが最初で

それより優先されるのは、怨霊・御霊だけである。

伊勢にお参りするなら、二見浦を先にするのが本当

二見浦 → 外宮 → 内宮  となる。

二見浦は巣祭神が 猿田彦命 である

当然 怨霊であり祟る神さまなのだろう。

外宮はもちろん主祭神であるべき・・・・はずだ。


伊勢は腑に落ちないことばかりである。

次回にでも・・・・。

◎  十握の剣と天叢雲剣 


八岐大蛇を退治して、草薙の剣が出てきたのは有名である。

草薙の剣は別名  天叢雲剣( あめのむらくものつるぎ)

そのとき使った剣は”十握の剣(とつかのつるぎ)”と言い

別名 天羽々斬剣(あめのははきりのつるぎ)とも言う。

ハハ は蛇の古語であり、文字通り”大蛇を斬った剣”である。


草薙の剣は名古屋の『熱田神宮』に祀られている

では 十握の剣 はどうなっているのだろう?

日本書紀の一書によれば、『今、石上に在り』または

『今、吉備の神部(かんべ)のところに在り』と記される。

オロチ退治した由緒有る”剣”より、草薙の剣が大切にされる

草をなぎ払った剣のほうが、八岐大蛇を退治した剣より尊いのか?

素人ながら腑に落ちない話である。

石上神宮(石上坐布都御魂神社)では数ある剣の中でどれが

十握の剣であるかを特定できないようである。

ちなみにこの 石上神宮 は記紀によると神宮と呼ばれている。

伊勢が伊勢祠(いせのほこら)、伊勢大神祠(いせのおおかみのほこら)

などと呼ばれていた頃にである。

それほど丁重に祀られていた神宮だったと言う事なのか。

この神宮(石上神宮)はもともと本殿が無かったという。

現在の本殿が建っている所は『御本地(ごほんち)』という名の

禁足地を祀っていたらしいのである。


禁足地(きんそくち)

現在は『立ち入ってはいけない場所』と思われているが

本来、禁足地とは『そこから出てはいけない地』だと言う

何かを閉じ込めておく意味合いで使われる。

一説によると、閉じ込められている(祀られている)のは

経津主神(ふつぬしのかみ)だという。


建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に

オオクニヌシの国譲りに登場した神様である

国譲りをあっさり決心したのは、傍に居た腹心の経津主神が

大国主を裏切ったからだとも言われている。



長屋の爺は、建御名方神(たけみなかたのかみ)が腕をもぎ取られた

あの話の元は、腹心の経津主神の裏切りの比喩だったのでは

・・・・などと、妄想をめぐらしてみたり。

最後は裏切った者の宿命、用が済めば”お払い箱”

殺されて”禁足地”に封じ込められたと言う事なのだろうか


◎  アマテラスの遷幸 

神宮

人によっては『神宮』と聞けば、大学野球の聖地

スワローズの本拠地と思うだろう。

ところが、神宮と言えばこの日本では、伊勢のことなのである。

神宮に祀られている『天照大神』は皇祖神という事になっている。



その神宮に明治になるまで公式参拝が無かった。

熊野や高野山には天皇・上皇など数多くの行幸の記録がある

その熊野や高野山と眼と鼻の先くらいにある伊勢

どうして足を運ばなかったのか・・・・。


天皇家は大化の改新以前にはアマテラスを祀る習わしが無かった

当時のイセの大神の神領を天皇家は取り上げている

これはどう考えても、祖先に対する仕打ちではないだろう。


天照大神は宮廷から出され、60年(90年説もある)かけて

24箇所の地を巡ったと言う。

倭(笠縫邑)~

京都宮津 元伊勢籠神社~ 奈良桜井 与喜天満宮~

和歌山 日前・國懸神宮~ 岡山 伊勢神社~

奈良桜井 大神神社~ 奈良宇陀 阿紀神社~

奈良宇陀 篠畑神社~ 三重名張 宇流冨志禰神社~

三重伊賀 神戸神社~ 三重伊賀 都美恵神社~

滋賀甲賀 頓宮~ 滋賀坂田 坂田神明宮~

岐阜本巣 天神神社~ 愛知一宮 酒見神社~

三重桑名 野志里神社~ 三重鈴鹿 奈其波志忍山宮~

三重津 加良比乃神社~ 三重松阪 神山神社~

三重多気 竹佐々夫江神社~ 三重伊勢 磯神社~

三重度会 瀧原宮~ 三重伊勢 家田田上宮~

三重伊勢 五十鈴宮(伊勢内宮)


これは伝えられている、アマテラスが望んだ事とは思えない

まるで”逃亡劇”の足跡を観ているようである。

一所に2~3年で、追い立てられ逃げるように・・・。

この地より先に行くことは叶わなかった

この地、伊勢がまるで”彼岸”であるかの如く・・・。


京都から105kmの地にある

伊勢神宮と熱田神宮

伊勢には鏡が 熱田には剣が 祀られている

そして・・・京都御所には 勾玉 があった。

剣(父親)、鏡(母親)、そして勾玉(子)

まるで人質をとるように・・・・。




まだまだ伊勢は手強い・・・・のである。

◎  そもそも伊勢神宮とは 


伊勢神宮 正式には 神宮 と呼ぶ

ここで常識の話

伊勢神宮は皇祖神の天照大神を主祭神として

国家の安泰を担う日本の総社である。

創建は10代崇神天皇の御代と言われている。


これは誰でも知っている常識である。

ただし、日本人ならばであるが・・・・。


では何を根拠にそう教えられてきたのか?

長屋の爺もそう聞かされて育ったから

何の疑いもなく、最近までそう思っていた。

そうとしか答えようが無い・・・・。


じつは・・・

『古事記』『日本書紀』には伊勢についての

具体的な記事が何も載っていないのである。

外宮にしても、『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』

に初めて書かれている事なのだそうだ。


古事記の序文に天武天皇の言葉として書かれている


【 緒家に伝わる『帝紀』及び『本辞』には虚偽の記載が多い

  それゆえ正しい帝紀を撰んで偽りを削除し

  正しいものを後世に伝えようと思う。】


それなのに・・・伊勢神宮の具体的な記載が無い

皇家(宮廷)にとって、伊勢は取るに足らない

価値しかないと言う事だろう。

天照大神・・・神社その物も重要度の低いと言うのか

若しくは、記紀そのものが虚偽だらけと言う事か


徳川将軍家が家康のことを徳川実紀に載せないなど

有る筈も無い事であろう。

言い換えれば、そういう話なのである。


記紀編纂の時代、8世紀の頃は天皇家にとって

伊勢はどうでもよい、その程度の存在だった


逆に勘ぐれば、触れたくない特別な物だったのか

『その話は伊勢にしよう』

意味は、無かったことにしよう と言う事らしい。

当分、伊勢から離れられない気がしてきたのである。



お払い箱にする

いらなくなった物を捨てるときに使う言葉

昔、伊勢神宮では新年になると御師という人が

新しい御札や暦を入れた箱を配って歩いた。

この箱を『御祓い箱』と呼んだそうな。

この箱は毎年、新しい物に替えられ

古いものは処分されたことから

 『お払い箱』に変わったと言う話である。

◎  卑弥呼とは・・・ 

私は 邪馬台国 には大きな興味は無い

だが、卑弥呼にはすごく興味がある。


卑弥呼というのは邪馬台国の女王だった

だれでも 知ってる 日本の 常識・・・

その常識・・・自信をもって言えますか?


女王卑弥呼の根拠は『魏志倭人伝』にある

邪馬台国論争は”結果ありき”理論の上に立ち

その場所へ誘導する為の理論ばかり

都合が悪くなれば、勝手気ままな解釈をして

記述の間違い説まで出るにいたっては

笑うしかないのである。


ではその国の女王”卑弥呼”なる女性

どう書かれているのか調べてみた。


現代文のほうが解りやすいので現代文のほうで


その国はもともと男子を王としていた。

その状態が七、八十年続いた後、倭国は乱れて

互いに攻撃し合って何年も過ぎた。

そこで、一人の女性を共立して王とした。

名付けて卑弥呼といった。

鬼道を得意としており、それによって人々を

自在に操っている。

年齢はすでに長大であるが、夫はいない。

弟が居て政治を補佐している。



もうお分かりだと思う。

どこにも卑弥呼の治める国が”邪馬台国”とは

書いていないのである。

”その国”は倭国と書かれている

倭国の女王 卑弥呼 

ちいさな小国(部族)が乱立していた時代

邪馬台国もその小国の一つだった

乱れた倭国を纏める為に擁立された女性が

卑弥呼という女王だった・・・・。


今まで、邪馬台国の卑弥呼 そう思っていた。



日御子 日巫女 日皇子 日神子 日見子

魏の人はどんな姿を想像して 卑弥呼と書いたのか

『後漢書』倭伝には、何年も王が居ない時代が続いた

とあり、一人の女性を立てて王とした事情が書かれ

邪馬台国の名は何処にも出てこないのである


魏志倭人伝によると

南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。

女王の王宮がある場所、それが邪馬台国であり

これは倭国を指しているのではない。

邪馬台国の女王が倭国の王となり、倭国を治めた。

その女王の住んでいた場所が邪馬台国である。

邪馬台国に女王が居た

倭国には女王 卑弥呼がいた

その女王が同一人物だと思えるのだが

それすら憶測でしかないのである

何処を探しても、その事実は見つけられない

別の女王が同時期に存在した可能性もゼロではない
 
仮に邪馬台国の女王と倭国の卑弥呼が同じだとしても

邪馬台国を特定して、倭国の解明にはならない。


県知事が総理大臣になったからと言って、県のことを調べても

国の政治は解明できない。

爺の論理では、そういうことなのである。

だから、邪馬台国には惹かれないのである。



鉄の古語はたくさんあるという

テツ、タタラ、韃靼(だったん)、サヒ、サビ、サム

ソホ、ソブ、サナ、サニ、シノ、シナ、ニフ、ニビ

ニブ、ヒシ、ヘシ、ベシ・・・・etc

この名がつく地名、河川、山がとても多い

寒川、寒河江、祖父江・・・・など

志野焼などは下地に酸化鉄で文様を描くなど鉄と縁がある

信濃川(しなのがわ)、猿投山(さなげやま)等々・・・・。

身近なところにも、その名残があるかもしれない

ひらがなに変えてみると、見えてくるものもあります。

◎  日本と言う国の名付け親 


我々の住むこの島国 日本 

この国の名付け親とも言うべきなのは

誰か?


疑問である・・・・。

一説によると、日本という言葉を使った

最初の人は 饒速日命 だそうだ。

『先代旧事本紀』によれば

饒速日命が降臨する時の話として

32人の護衛を従えて天磐船に乗り 河内国に降り立った

さらに大倭国の鳥見に移った。

その時言った言葉が

 『 虚空(そら)見つ日本(やまと)の国 』

ここから 日本国 という名の国が誕生したと言う。


またある説によれば、天智天皇が大津に遷都した

頃につけられたというものもある。


日本書紀 はこの件については明言をしていない。

どのようにでも書き残すことができた記紀でさえ

後世に残さなかった理由はやはり・・・

饒速日命の説が有力なのだろうか。

本来ならば、神武天皇が定めたと書けば済む話だ

初代天皇なのだから当然と考えられる。


日本と言う国の名付け親である饒速日命

関西以外ではあまり知られてはいない。


天皇家創設に尽力した饒速日命

天皇家より先に、この国に降り立ち

日本の王でもあっただろう饒速日命である

どうしてこうもマイナーな神さまにされてしまったのか


ヤマトの国に君臨していた饒速日命である

存在そのものを消してしまわなかったのはなぜ?

それほど饒速日命の力が強かったと言う事なのか

『十種の神宝(とぐさのかんだから)』

を献上、若しくは奪われた饒速日命

きれいさっぱり消せなかったのは

無念の思いを持って身罷った(殺された)から

怨霊になったと考えるのが自然だろう。

祟りを恐れたなら、どこに祀ったのか・・・・。

不思議がいっぱいである。


天照大神  饒速日命  猿田彦命 

結局 伊勢に戻ってしまいそうである。



以前書いた 清水寺

この寺の創設者は 『坂上田村麻呂』だ

日本で最初の”征夷大将軍”である

あの蝦夷の首長『アテルイ(阿弖流為)』を

都に連行し、結局打ち首にした人物でもある。

結果として騙した罪の意識なのか

清水寺で阿弖流為の霊を弔っているという。

◎  神も乱れるこの季節 


何度も言うが、伊勢は不思議がたくさんあるところ

伊勢神宮と一般に呼ぶが、神宮と呼ぶのが正式である。



天照大神の両親はイザナキ・イザナミの二神で

当たり前のこととして知られている。

この二神は貞観元年(859年)まで

何処にでもある道端の神さまと同じ扱い

いわゆる『無品(むほん)』であったという

神社などに行くと、正一位とか従二位とか書いてある

あの官位というものが無かったということ

自分たちの祖神を無位のまま放置し

大切に祀らないと言うのは不思議である。


五月のよい季節を迎えた・・・・。

あちらこちらで田植えの光景が見られる

田圃で苗を植える女性を『早乙女』と呼ぶ

どうしてそう呼ぶのだろう



サと言う言葉は恐ろしい神を表す言葉だという

神の乙女 ・・・・ サ オトメ 早乙女 

神が降りる ・・・ サ オリ  さおり

神が乱れる ・・・ サ ミダレ 五月雨


あくまでも爺の私見だが・・・・

早乙女とは神の田で神に捧げる稲を収穫する為

神の苗(サナエ)を植える(奉仕する)女性を

指す言葉ではないだろうか


さおりとは本来、神が降りてきて憑依する巫女

のような女性をさして神降り(神居り)

サ降り(サ居り) と呼んだのではないか


五月雨とは、日が照り続けば稲が枯れる

かといって雨ばかり降っては稲が育たない

災いと恵みの両方をもたらす神

その神の仕打ちを”乱れ”と受け取ったのか

一説によれば、女性を求めて妄執に駆られる

そういう意味もあるという

◎  八咫烏 

ミサキ・・・御前

怨霊であり 先導役のこと

天孫降臨では『猿田彦』のことであり

神武東征では『饒速日命(にぎはやひのみこと)』

がミサキである。

烏(からす)はミサキの事だという。


八咫烏(やたがらす)

太陽の中にいるという 三本足の赤色 の烏のこと

金烏(きんう)とも言われ、太陽の象徴でもある。


八咫鏡(やたのかがみ)

三種の神器のひとつ

鏡は太陽を象徴し、蛇体を表しているともいう。


烏 = 太陽 = 鏡 

と考えるならば・・・・


八咫烏 = 八咫鏡  

と考えてもよさそうである・・・。


猿田彦と言えば・・・

上は高天原を照らし

下は葦原中つ国を照らす神と言われる

天照らす神でもあった。


もう一人、ニギハヤヒがいる・・・

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊と呼ばれ

天照る神でもあった。


片や天孫降臨に際し、先導役を勤め

もう一方は神武東征でヤマトの権力移譲

を行い、王権の成立に貢献した神である。

饒速日尊は『物部氏』の始祖といわれ

古代ヤマトの豪族、または王であったと

する説もある。

偶然にも、共に”天照”の呼び名を持つのだ

さぞかし、王権(皇統)から丁寧に祀られ

大切にされているはずであろう。

とくに饒速日尊は天磐船(あまのいわふね)に乗り

ヤマトに降臨した”天つ神”である

粗末な扱いを受けるはずが無い・・・。

饒速日尊を祭神とする主な神社は

籠神社、石切剣箭 神社、物部神社、高倉神社などである。


籠神社(このじんじゃ)

元伊勢籠神社とも称する古い神社で、興味深いのは

元伊勢という名前がつけられていることである。

天照の名を持つ神が”元伊勢”の祭神になっている。

天皇家より先にヤマトに降臨したとされる天つ神でもある。


饒速日尊とその周辺を調べてみたい

物部氏とは・・・饒速日尊とは・・いったい?



京都から伊勢神宮までの距離は

直線でおよそ105kmである


京都から熱田神宮までの距離は

直線で凡そ105kmである・・・??



偶然なのか、意図的に建てられた物なのか

さらに淡路島にある伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)も

京都から直線で凡そ105kmの距離に建っている。


偶然も3っつ重なると・・・・どう考える。

◎  お蔭参りをした犬  (壱) 


天皇も足を向けなかったお伊勢さん

ところが、犬が参宮していたとは驚きだ


最初に参宮したと言われる犬は

山城国、久世郡槙の島の住人で

高田善兵衛という者の飼い犬だったという。


明和8年(1771年)の4月16日

午の刻(正午頃)上方から犬が参宮したと

騒ぎがあったという


毛色は赤と白のまだら模様の小さな雄犬だった

外宮北御門口からまっすぐ手洗場(ちょうずば)に

向かいここで水を飲み、本宮で平伏し拝礼をした。

宮人たちは犬の首に御祓を括り付けて放したとある。

その場に居た神官たちが拝礼していると感じたとは

とても興味深い話である。

たかが犬と馬鹿にしてはいけない

犬と人間の付き合いは、縄文の時代から

文字通り『同じ釜の飯』を食べてきた間柄だ

人間以外で人の気持ちを一番理解できるのが

犬たちだと思っている。

話を戻そう・・・・


さて、首に御祓を括り付けてもらった犬だが

次に向かったのは内宮である。

内宮の宮人たちは、首の御祓を観て

子供の悪戯だと思い、箒で追い払ってしまった

ところが犬は、道を逸れて南から五十鈴川を渡り

内宮の本宮広前に平伏し、拝礼したという。

それを観た宮人たちは追い払う事もできず

犬は本道を通って来た道を引き返し

無事帰国したと記されている。

この犬、首に飼い主の名札をつけていたらしい

帰りの道中で犬に銭を与えた人が居たらしく

首に糸に通した銭が何百と下げられ

重くて大変だろうと、銀の小粒に両替して

首に括り付けてあったと言う。

誰一人、その銭を取る者も無かったというから

お蔭参りの犬として大事にされて旅したのだろう。


ではなぜ、犬がお伊勢参りをしたのか

いくら賢い犬でも、山城から伊勢まで

ざっと120キロの道のりである。

天の声を聞いたわけでもあるまい


ある仮説によると、当時はお伊勢参りが流行で

この犬の近所の顔見知りあるいは子供が

伊勢に向かったのを、匂いを追って後を追いかけて行った

結局、会えずじまいだったが、首の名札のせいで

みんなが山城まで誘導したのではないかと言うのである


すると、不可解なのは”平伏”と”拝礼”はどういうことか

後を追っていった犬の行動とは到底思えないのである。

長屋の爺は、この犬は自らの意思でお蔭参りに行った

そう思いたいのである。


伊勢参りの犬は吼えられない

見知らぬ土地に他所の犬が通りかかれば

地元の犬は吠え掛かる、これが普通だろう

ところが、伊勢参りの犬には吼えないと言う

これも伊勢参りの不思議の一つである。


これが伊勢に参宮した最初の犬の話である。

◎  PCと格闘すること6時間 


私事をちょっと・・・

今日は早く仕事が終わり、帰宅後PCの電源をON

ネットにつなごうとしたら全く繋がらず

今までPCと格闘しておりました。

考え付くあらゆる方法を実行して、ようやく復帰した

原因はウイルスが各種62個も紛れていた。

対策ソフト任せにした天罰か?

これからシャワーでも浴びて、あすの支度でも

して寝ちゃおうと思っています。(疲れた~~)


そんなわけで、本日の更新は明日に持ち越しと

させていただきます。

と言っても、期待されているなどと

間違っても思っていないのですが

数少ない閲覧者(応援団?)の方に弁解など

申し上げておきたいと思います。


『せっかく書いてるなら、何か書いとけよ』

そういわれそうなので、ひとつだけ・・・・


伊勢神宮では仏法や死に関する言葉はタブーである。


仏(ほとけ)・・中子(なかご)

お経 ・・・・ 染紙

塔  ・・・・ あららぎ

寺  ・・・・ 瓦葺(かわらぶき)

僧  ・・・・ 髪長(かみなが)

尼  ・・・・ 女髪長(おんなかみなが)

死  ・・・・ なおる


という忌み言葉で表現されたと言う。


さて伊勢神宮には老若男女こぞって参拝したと言う

なかでも特別な参拝は『 犬 』である。


伊勢にお蔭参りに行った犬の話である。


明和8年(1771年)、徳川家治の治世であり

田沼意次がこの世の春を謳歌していた時代のこと

この話、明日書こうと思っております。

◎  縄文の文化の素晴らしさを知る 

てるてる坊主

これも誰でも知っている童謡である

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに(注)
晴れたら金の鈴(すず)あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願(ねがい)を 聞いたなら(注)
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇(くも)って 泣いたなら(注)
そなたの首を チョンと切るぞ

ある説によると、これは人形の話ではなく

実際の人間の話だと言う

運よく晴れれば、金や酒を頂戴できるが

雨が降ろうものなら、命もとられたと言う

てるてる坊主というのは『聖』であり

『日知り』を生業(なりわい)にした者だった

一種の『生贄』とも考えられる。

おそらく、言霊 の時代の話ではないか・・・・。


縄文時代と聞いて、長屋の爺は悲しいかな

全く知識がなく、言葉の上だけ”弥生時代”の前

その程度の認識であった(一年前まで)

別に知らなくても生きてこれた

精一杯の強がりである。


学歴の無さより、真剣に学んでこなかったのだから

知らなくて当然、不思議でも何でもない・・・。


火炎土~1

これは縄文土器の一つ通称 『火焔土器』とよばれるもの

今から5500年前の土器だと言う事である。

これが未開の地に住む原住民と思われた

縄文の民の芸術であり、素晴らしい文化である

縄文は文化も低く、野蛮で粗末な暮らし

爺の認識はそんな程度だった事を恥ずかしく

反省したのである。



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これは土偶の一種、『縄文のビーナス』と呼ばれ

5000年前のものと言う事である

貴重な遺産で祭祀に使われた

可能性が高いと言う

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これも土偶の一種、『縄文の女神』と呼ばれるもの

現代の美術展に置いてあっても

違和感の無い姿である

4500年前縄文中期の頃のもの

『西ノ前土偶』という名前がついている。


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これは『合掌土偶』といわれ、詳しくは不明

3500年前の土偶

祈りをしている姿であるとか諸説ある

この土偶は女性だということだ

身体には、乳房や性器、肛門など人体的特長のほかに

一束ねにした髪型、入れ墨をした唇、首飾り

などがそれぞれ表現されているという。

また、この姿勢は『座産』あるいは、『仰臥産』

などの分娩姿勢を現しているとも考えられている。

祈りにしても、お産にしても古代の人は

何に対して祈ったのだろうか・・・・。


たまには、神社から離れてみたくなった

長屋の爺でした。

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◎  箸墓古墳と卑弥呼 

箸墓古墳

倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)

(紀元前3世紀頃の皇女)の墓ではないか

と言われている。


箸墓古墳は邪馬台国の卑弥呼の墓かもしれない

そんな話も有った

たぶんその可能性は限りなくゼロに近い

『魏志倭人伝』、『隋書倭国伝』によれば

当時の倭国では、『食事は手づかみで食す』

そう記されているという。

つまり、卑弥呼の生きた時代

この日本には 『 箸 』 が無かった!


だから、箸で陰部を突いて死んだのは

仏教と共に日本に箸が伝わったとされる

5世紀以降の事だと推測できるのである。

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるなら

それは『邪馬台国』の卑弥呼ではなく

別の”ひみこ”のものと言えるのである。

別の視点から考えれば、倭迹迹日百襲媛命の話も

5世紀以降に起きた事になるわけだ

言い換えれば、これが事実なら

大物主神も5世紀以降に居た神様と言う事に

なってしまうのである。

古代史は歴史学と考古学の共同作業なのである。

だが、なぜに宮内庁は発掘を拒むのか

宮内庁管理の「陵墓」に指定された古墳から

新たな日本古代史の新事実を期待できるのだ

ハッキリと**天皇陵墓と判明しているなら

それは躊躇うのも理解できる

通説や言い伝えを根拠に拒むのは解せないのである

墓であるなら、キチンと解明し丁寧に祀る

それが天皇の民の責務だと爺は思っている。



残すべきものは残し、改めるべきものは改める


平安の私念 明治の妄執

これ以上 歴史に眼を瞑る愚かさを

日本人は気付くべきではないか・・・・。



 『大師は弘法に奪われ、黄門は光圀に取られた』 


大師とは中国・日本において、高徳な僧に朝廷から

勅賜の形で贈られる尊称の 一種である


黄門とは中国皇帝に近侍して勅命を伝える職務であった

『黄門侍郎』の略

日本の中納言の唐名を「黄門侍郎」または「黄門」という


水戸中納言 ・・・ 水戸黄門

これはTVの影響か、水戸光圀のこととされた


空海(真言宗開祖) ・・・ 弘法大師

これは生前の偉業により天皇から贈られた諡号の

大師であり、本来は個人を指すものではなかった。


それがあまりにも有名になり、普通名詞が個人を

指す言葉になってしまった。


◎  猿田彦大神と天孫降臨 


天孫降臨の場面・・・

降臨を命じられたニニギが地上に降臨しようとした

そのときである・・・

天と地をつなぐ道が八方にわかれた場所に

上は高天原を照らし

下は葦原中つ国を照らす神がいた。

それが 『サルタビコ』 である。


猿田毘古神

猨田彦大神 (さるたひこのおおかみ)ともいう。

どの書を見ても、異形の神と書かれている

鼻の長さが七咫(ななあた)・・・

今の120センチもあったと言い

眼は丸く大きくて『赤酸漿(あかかがち)』

のようだったとある。

天狗 のモデルとも言われている

鼻が長くて、眼が赤く酸漿(ほおずき)のようとは

想像を絶する容姿だが、これも騙りなのだろうか?


ここで疑問なのは、天から降臨する神さまなのに

なぜ『道案内』など登場させたのか不思議である

なんとも人間臭い話に思えてしまう。

道案内を申し出た土着神ならば、もう少し容姿も

書きようがあったと思うのは爺だけか・・・。




猿田彦神社・・・三重県伊勢市にある神社

祭神は猿田彦大神である、公式HPを見て

驚いた・・・・

紹介されているのは、境内社の佐瑠女神社であり

絵馬・御神田・御神輿・方位石など・・・・。

本殿と思しきところは結婚式場の案内になっている。

時代と言えばそれまでか・・・・。

HPによれば

ものごとの最初に御出現になり

万事最も善い方へ“おみちび き”になる大神とあるが

アメノウズメの方が大事にされているような・・・


おそらく望んだ事とは違う人生をおくられた神なのだろう

万事善いほうへ導くとは、悪しき結果に泣いた神と言う事

今の扱いが、それを物語っているような気がしてしまう。


猿田彦とアメノウズメは結婚して夫婦になったという

ところがである、猿田彦神社を観てもわかるように

別々に祀られている。

それも、鳥居を潜ったすぐ右にアメノウズメは居る

まるで猿田彦を監視するかのように・・・・・。


このアメノウズメは二度大きな仕事をしている

一度目は天の岩戸でアマテラスを誘き出すため

乳を出し陰部をあらわにして踊ったと言う。

二度目は天孫降臨で高木神の命令で猿田彦に

詰問する役目を負わされた。

ところが、このアメノウズメの系譜は不明である。

一説によると、伊勢の土着神か巫女ではないかという

アマテラスを騙し、猿田彦を騙したと言うのだろうか

だいたいストリップをして、女神を誘い出すというのも

妙な話である、男神を誘い出すと言うなら理解もできる。

天照大神が男神ではないかという論拠にもなっている話だ。



この話の最初に赤字で書いた部分である。

照らす テラス 天地を照らす 

猿田彦は『天と地を照らす』神だったと

日本書紀は記しているのである。

深読みすれば・・・天 照らす 大神 

それが、猿田彦大神 だと暗示している気がする。

◎  アマテラスを考える 

歴史は面白い

古代史はさらに面白い

伊勢と出雲は謎だらけ・・・・


アマテラスと言えば、天の岩戸と天孫降臨である。

アマテラスがニニギに降臨を命令したと記しているのは

『日本書紀』第一の一書(あるふみ)だけである。

本書にはアマテラスの名前は見当たらない。

知らなかった常識、知らされなかった事実であろう。

天孫降臨は高皇産霊神がニニギに命令している。

アマテラスではないと言う事実どう捉えれば良いのか


高皇産霊神は『造化三神』の一人

天地の万物を創造し育てた神であるという

御巫(みかんなぎ)八神の一人

御巫八神とは皇室にとって非常に重要な八柱の神々

*神魂   (かみむすひ)

*高御魂  (たかみむすひ)

*生魂   (いくむすひ)

*足魂   (たるむすひ)

*玉留魂  (たまつめむすひ)

*大宮乃売 (おおみやのめ)

*大御膳都神(おおみけつかみ)

*辞代主  (ことしろぬし)

以上の八神を言う。

アマテラスの名はどこにも書かれていないのだ

推測するに、伊勢神宮のアマテラスは皇祖神でない

若しくは伊勢に祀られている神はアマテラスでない

どちらかという話になってしまう。


『続日本紀』によれば、伊勢神宮(内宮)の創建は

文武天皇の2年(698年)12月29日である。

神宮の大本は、滝祭神社と呼ばれたとされ

元伊勢の一つと考えられている。



興玉神(おきたまのかみ) 皇大神宮所管社

 大宮所の地主神。 

正宮の北側、御垣内西北隅の石畳に石神として西向きにご鎮座される。

同じ石畳に宮比神がご鎮座。

御垣内なので一般には参拝できない。

月次祭(つきなみさい・6月と12月)と神嘗祭では、

まずこの神に奉仕員一同が、真心こめて大祭に奉仕することを祈念する。


この興玉神は誰を祭っているのか・・・・。

一説によると、猿田彦命ではないかという。



宮比神(みやびのかみ) 皇大神宮所管社

大宮所守護の神。

正宮の北側、御垣内西北隅の石畳に石神として北向きにご鎮座される。

同じ石畳に興玉神がご鎮座。御垣内なので一般には参拝できない。

祭神はアメノウズメ、「大宮能売命 」(オホミヤノメノミコト)。


地主神に参拝できないのはなぜなのか・・・・。

これも 触らぬ神に祟りなし の一つであろうか

猿田彦命も祟る神さまであるのだろう。


天孫降臨とは別に、饒速日命の降臨説がある。

神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って

河内国に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

饒速日命の別名が『先代旧事本紀』では

天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊

(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)

と呼ぶ。

あまてる である、アマテラスではなく あまてる・・・。

どう違うのか? それとも同じなのか?




古代史を考えるとは、好みの食材・調理法・味加減で

メニューを考えるようなもので

専門学者の方から”嘲笑”されるような思いつきで

妄想する事かもしれない。


まだまだ 伊勢は面白くなりそうである。

◎  伊勢神宮の不思議  


再度 伊勢神宮 である

日本の神さまを考え、悩むと伊勢に戻ってしまう。

頭の中を整理するつもりで復習したい


本殿の千木(ちぎ)が外削(そとそぎ)は『男千木(おちぎ)』

と呼ばれ、鰹木(かつおぎ)が奇数本は『男神』を祀り

内削(うちそぎ)は『女千木(めちぎ)』と呼ばれ

鰹木が偶数本は『女神』を祀るといわれる。


ところが、伊勢神宮の内宮・外宮とも女神を祀っているが

内宮は『女千木』で、鰹木10本

外宮は『男千木』で、鰹木9本になっている。

外宮は『豊受大神』を祀っており、男神ではないのである。

内宮は紀元前4年に創建されたと伝えられていて

外宮は478年に創建されたという。

だが、外宮から参拝する習わしがあり

『外宮先祭(げくうせんさい)』と呼ばれている。

一般的に神社にお参りする際、主祭神を先に

お参りするのが常識である。

最初にその社の主(あるじ)に挨拶するのが基本。

通常、主祭神より先にお参りしなければ成らないのは

その地の地主神(じしゅしん)か、怨霊神である。

伊勢の主祭神は豊受大神とでも言うのだろうか?

そして、その神が男神だとは考えられないのである。


伊勢神宮には、『狛犬』がいない・・・。

注連縄も無い、賽銭箱も無い、御神籤も無い。

伊勢は不思議の宝庫でもある。


そもそも伊勢神宮と呼ばれたのは6世紀後半から

今のような大きな社になったのは天武朝以降という

さらに明治天皇が親拝するまで、歴代の天皇が

神宮の地を踏んだことがないのも不可解である。

まるで伊勢の地を踏むことも参拝することも

朝廷のタブーだったようにも感じてしまう。

伊勢は謎だらけである。


神道と言えば『天皇家』を連想する

意外なことに、天皇の葬儀は仏式で執り行われていた。

仏式で葬儀を取り入れたのは、聖武天皇と言われている

明治に亡くなられた孝明天皇まで延々と続いていたと言う。

◎  縁というもの 

日本の言葉は、最初に音があって

その後に文字が当てはめられたもの

古代においてはそれが正常だろうと思う。

漢字が入るまでは、音の世界であった

長屋の爺の自論である。


言葉遊びをしてみたい

縁 えん (えにしとも読む)

本来は 仏語(フランス語ではない)仏教から由来

間接的な原因という意味だそうである。

私は漢字を”かな”に置き換えて書いてみたりする

これが暇つぶしにはちょうど良いのである。

『えにし』 ホッとする響きである。

言葉は生き物、響きが何より大切だと感じる

ゑ・にし  ゑに・し   ゑ・に・し

ゑにしを適当な漢字に当てはめてみる

ゑ 会(え) 会うという意味

に 丹(に) 赤い色という意味

し 糸(し) 糸のこと

繋げると、赤い糸によって会う

運命の赤い糸 とでも解釈できる(笑)

縁 とは会うべくして会う者のことである。

爺らしからぬ軟らかい話になってしまった。



月下老人 又は 月下氷人 とも言う言葉がある


唐の時代、かの国に『韋固(いご)』という青年

が居て旅にでたそうな。

宋城というところで、袋に寄りかかって月明かり

で本を読む老人と出会った。

青年が何の本を読んでいるのか訊ねると老人は

 『結婚について調べておる、私が寄りかかる袋には

 赤い縄が入っており、私がこの縄で男と女を結べば

 仇同士の家の者であっても、どんなにはなれた土地

 に住んでいても、必ず結ばれて生涯別れることは無い』
 


と、答えたそうである。


さらに老人は

  『 そなたは北へ遠く離れた村で野菜を売る 陳 という

 娘と結ばれる運命にある』
 
 と言ったそうだ。


そして14年後・・・ 

韋固は地方長官王泰の娘と結婚することになった

娘に韋固が訊ねたたという

 『そなたは野菜を売っていたことは無いか?』 

娘が答えて言う・・・

 『私は長官の実の娘ではありません、姪です。』

『父は宋城で亡くなり、赤ん坊のとき乳母が野菜を

 売って育ててくれました』
 


韋固は14年前、月明かりで本を読んでいた・・・

あの老人を思い浮かべたということである。



 赤縄繋足(せきじょうあしをつなぐ)とも言う。 
 

男女の縁を取り持つ 仲人(なこうど)のことを

『月下老人』とも呼ぶそうである。

◎  「草薙の剣」 とヤマトタケル 

皇位継承の象徴とされる三種の神器の一つ「草薙の剣」

を神体とする熱田神宮(名古屋市熱田区)で8日、

剣がこの地に祭られたとされる年から今年で1900年を

迎えたことを記念した大祭が開かれた。


日本書紀は、日本武尊の死を悼んだ妻の宮簀媛命が113年に

生前の日本武尊から預かっていた草薙の剣を祭ったことが

熱田神宮の始まりと伝えている。


ヤマトタケル

ヤマトタケル(日本武尊)は第12代景行天皇の皇子で

小碓命(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)

景行天皇は3世紀末~4世紀前半に活躍したとある。

ここに大きな矛盾が見える。

200年ほど年代が狂ってしまう

さらに日本武尊の皇子が、後の第14代 仲哀天皇で

その后が 神功皇后 という事になるからだ。

これが神話の時代なら、どうと言う事は無い。

だが、これは歴史の問題なのである。

なぜ、景行天皇の皇子が神話もどきの話に登場するのか

眉唾物というより、騙りに近い話

恐れ多くも天皇家の皇子に纏わる話ではないか

景行天皇も日本武尊も仲哀天皇も神功皇后も架空?

そう受け取られても仕方ない記述と話の内容である。

神武天皇以降の記述は歴史として記している(日本書紀)


日本武尊の話は、大きく二つに分けられる

一つは西征であり、もう一つは東征である

簡単におさらいしよう

ヤマトタケルは父景行天皇から、兄の大碓命が

朝夕の食事に顔を出さないので、教え諭すように命じた。

ところが、ヤマトタケルは・・・

厠で待ち伏せして捕らえ、押しつぶして手足をもぎ取り

薦に包んで投げ捨ててしまった。

恐れた天皇は、服従しない九州のクマソタケル(熊曾建)

を討ち取ってくるように命じ、これを征伐した。

このときヤマトタケルは卑怯な手段でだまし討ちにしている。

殺し方は非情極まりない、熟した瓜を刻むように殺したとある。

古事記にだけ書かれている話では、出雲に立ち寄り

イズモタケルも卑怯な手段を使ってだまし討ちにしている。

英雄と呼ばれ、褒められる話の内容ではない。


ところがである、東征になると話は一変するのだ

相模の国で地元の民に欺かれ、草原で火を放たれる。

姉のヤマトヒメから授かった火打石・剣で危機を逃れた。

東国を平定し都に戻る途中、尾張でミヤズヒメに剣を渡し

その後、伊吹山で神の怒りに触れて亡くなってしまう。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

と読んだということである。

あきらかに創作神話の趣であり、詳細に見ると人名が土地の名

であったり、場所が曖昧で真実味が無いなど

歴史とは言えない代物ということになる。

引き続き、ヤマトタケル に拘ってみたい・・・。


小野小町(おののこまち)

天皇の更衣で、教養があり、見目麗しく、純粋な女性。

この小町の後世を知る人は少ない。

天皇のお傍近くで仕える女性を更衣と呼ぶ。

そして仕える天皇が亡くなれば、『更衣田(こういでん)』

を拝領し、一生平穏に暮らせるという。

ところが、小町は更衣田も貰えず、宮廷を追い出され

見知らぬ土地で行き倒れ、寂しい晩年であったという。

この小町、藤原義房にとって厄介な女性

『龍神の生まれ変わり』、『雨乞小町』といわれ

『言霊使い』として有名であった・・・・。

天つ風 雲吹き払え 久方の 

    月のかくるる 道まどはなん


この歌が、藤原義房等を朝廷から追放するよう

言挙げ(ことあげ)したといわれている。

こんな物騒な女性は一日も早く、宮廷から遠ざけたい

小野小町の不幸はこういう経緯があったからだと言われている。

◎  女神 天照大神の不思議 


古事記というものを知り

どうしても腑に落ちないことがある


天照大神は女神であると最初に言い出したのは

だれだったのか


天津神である、この世界の人間ではない

見たものが居たとでもいうのか


八百万の神の中で、女神といわれる神

比売神(ひめのかみ)とか比売命(ひめのみこと)

あるいは姫命(ひめのみこと)とかかれている。

それ以外はおよそ男神となっているのだ

にもかかわらず、アマテラスはなぜ女神というのだろう

諸説あるのだが、爺の腑に落ちない話ばかりである。


アマテラスは子供を天下りさせようとしたが

上手くいかず、孫を天下りさせた。

これが『天孫降臨』といわれるものだが

じつに不可解な話である。

神話なら子供が嫌がったとか、乗り気で無かった

そんな事を後世に残すのも納得できない話である。





とある説に行き会った・・・・。


古事記の編纂は時の女帝、元明帝の時代である

元明天皇は持統天皇の妹であり、共に天智天皇の娘

この天皇姉妹、いくつか共通点がある

持統天皇には『草壁皇子』という子供が居た

当然皇太子であり、次の天皇と思われたが

若くしてこの世を去った。

草壁皇子には子供が居て、『軽皇子(かるのみこ)』といい

後の『文武天皇』である。

文武天皇は持統天皇の『孫』である。

(元明天皇は文武天皇の后であり

  文武天皇からみると、后であり叔母でもある。)

文武・元明天皇には『首皇子(おびとのみこ)』という

皇子がいたが、文武天皇が亡くなった時は7歳

苦肉の策として、娘を『元正天皇』として皇位を継がせた

首皇子とは後の『聖武天皇』であり

聖武天皇は元明天皇の『孫』である。


なにやら複雑であるが

持統天皇の孫が文武天皇であり

元明天皇の孫が聖武天皇である。

この姉妹どちらも、孫に皇位を継がせる為

自ら皇位に就いた女帝なのである。



ここまで書けば、感のよい方は理解できるはず

天孫降臨の話は、つまるところ持統帝・元明帝の

境遇を書き記した、若しくは正当性を記したもの

そういう見方はできないだろうか・・・・。


それゆえに、アマテラスは女神なのであって

いや、女神でなければならない

必然性が滲み出ているのである。



天智天皇の血脈を連綿と繋ぐ為なのか

天武天皇の出生まであやふやにして

天智天皇を持ち上げる内容も、姉妹がかかわった

『日本書紀』『古事記』の各所に窺えるのである。

◎  稲羽の素兎と古事記 


稲羽の素兎 古事記にはこの話の最後にこう書いてある


『此れ稲羽の素兎なり。今者(いま)に菟神と謂ふ』


うさぎは単なるうさぎではなかった

神さまだったというのである。

私もつい最近までこの事実を知らなかった。


菟とは兎のことである。

『和名抄(わみょうしょう)』によると

兎 音度 宇佐岐 

和名 宇佐岐 子犬ニ似テ、耳長ク、唇ヲ欠ク

兎は宇佐岐であり 兎神とは宇佐岐神 ということだ


日本書紀の第三の一書によると

宗像三神は宇佐島にいるという

宗像三神のいる三つの島は宇佐島だというのである

兎とは宗像の神、宗像族とも考えられ

素兎の話は、『宗像族の大移動』の話ではないかという。

私はこの仮説に大変心を動かされた。

兎が神さまだったなどと、何処にも書いてないし

だれも教えてはくれなかった。

今まで童話とばかり思っていた『稲羽の素兎』

やはり、ヤマトとどこかで繋がっている。



正月元旦は一年の始まり

その年の始まりの日であり、初めの日でも有る。

2日の夜に観る夢を『初夢』という

なぜ? 元旦の夜ではないのか

常識の不思議である


宝船 七福神が描かれたあの絵である。



ある説によれば、これは夢たがいの一種だという

数々の畏るべき物、忌むべき物、穢らはしい物

そういった物を宝船に乗せて流し去るのだと・・・。

形代に穢れを擦りつけ水に流すのと同じだ

この宝船の絵、裏に呪文が書かれているという


 長き夜の 遠の眠りの皆目覚め 波乗り舟の 音の良きかな

なかきよの とをのねふりのみなめさめ なみのりふねの をとのよきかな


前から読んでも、後ろから読んでも同じである。

元旦に観る夢を『初夢』と呼ばないのは

宝船が穢れを運び去るのを一晩待つから

次の日は良い夢を観られると考えられ

2日に観る夢を、『初夢』と呼ぶそうである。

それがいつからか、枕の下に宝船の絵を入れて

眠ると良い初夢が観られるというように変わってしまった。

『宝船 → 穢れを乗せる → 流し去る → 良い夢』

『宝船 → 良い夢』 になったと言う事らしい。

◎  稲羽の素兎と沖ノ島 


イザナキとイザナミが初めて会って交わした言葉

『あなにやし えをとこを』とイザナミが言い

『あなにやし えをとめを』とイザナキが言った

この解釈はほとんどの書物に書かれている

『あぁ なんといいおとこなんでしょう』


まてよ・・・その解釈の理由が何処にも無いが

あなにやし を古語で言えば・・・とか

これは何とかと言う言葉の変化であり・・・云々

というものが見当たらないのである。

たぶんそういう意味ではないか? なのだろうか

へそまがりの長屋の爺である

調べてみました・・・・・。


これはヘブライ語の『アニーアシー』ではないかと言うのだ

ヘブライ語でアニーアシーとは『私は結婚します』

そういう意味だと言う

あなにやし えをとこを・・・・とは

『私は結婚します 素晴らしい男性と』

という解釈なのだそうである。

ここでもヤマトとユダヤの深いかかわり

そういう匂いがするのである。


古事記の『稲羽の素兎』

以前にもこの話の一説を書いたが

もう少し気になる事を調べてみた。

我々は『しろうさぎ』とは、白いうさぎを思い浮かべる

ところがである

上記のように古事記では 素兎 と記されている

兎は白色とも黒色とも茶色とも書かれていない

素としか書いてないのである

古事記の話の最初に

『裸(あかはだ)の菟(うさぎ)伏せりき』とあり

毛をむしられた兎であっても白いとは書いてない

裸の兎なのである。

爺は想像力が貧困なので、兎の裸を思い浮かばない

何度眼をつぶっても、”バックス バニー”が出てくる


さらに隠岐の島とされていた嶋の名も

『淤岐の島』と書かれていて、隠岐の島とは書いてない

古事記で”お”を表す字は『意』または『淤』を用いる

国生みの話のときは、隠岐の三子島と用いてあるが

隠岐の島については、隠岐と表記しているのである。

ならば、『淤岐の島』とは隠岐ではなく

単に 沖ノ島 のことを指しているのではないか

古代史でよく知られている沖ノ島

玄界灘に浮かぶ沖ノ島ではないかという

沖ノ島といえば、宗像三神のあの沖ノ島である

九州本土から60キロの海に浮かぶ孤島で

沖つ宮(奥津宮)があり、今でも女人禁制の島である。

菟は沖ノ島から九州本土に渡る特別な理由があった。

それもワニでもサメでもなく、舟に乗ってである。

そのときに何かのトラブルがあった

舟の雇い賃(見返り)でもめたのか?

それをオオクニヌシの逸話として描かれたのか

おおいに有り得る話だと思う。


この奥津宮(沖ノ島)

上陸はすべて神事の一環として行われるため、船で現地に着いた

あとは裸で海に入って禊をしなくてはならない。

昔はその禊を7日間続けなければならなかったという

塩水に浸かったあとの厳しさは菟でなくても辛いものだ

本当に厳しい『海神』である。

この島、「一草一木」たりとも持ち帰ることは許されない

持ち帰れば 祟り があるといわれ

文化財の保護に役立ち、『海の正倉院』と言われているのである。

◎   

邪馬台国

その国はどこにあったのか、未だに特定されていない

北九州説、畿内説などが有力とされている。



なぜ邪馬台国に人々は拘るのか?


歴史ロマンというならわかる

邪馬台国がどれほどの規模で、いつどのような国として

存在していたのか、まるで見えてこない。

爺から観ると、『竜宮城』でも探しているように

思えてしまうのである。

書いてあるから事実、書かれて無いから嘘

この論法は時として大きな誤解を生む。

そしてどこか整合性の無い結果に導かれる。


そもそも、二世紀後半から三世紀にかけて日本に存在した国

ただそれだけであり、小国(部族単位)が乱立していた

であろう時代の話であり、古代史の一ページである。

卑弥呼という呼び名も個人名なのか官職名なのかさえ不明だ

邪馬台国は専門家に委ね、爺は神話へと戻ってまいります。


神話は編まれたその時代にとって大事なのであって

その時代(王権)にとってどうでも良いことは軽視され

それをもって歴史書と解釈するには差しさわりがある。

だが、嘘 といって捨て去るわけにもいかない厄介なものだ


逆に考えれば、なぜ記紀に取り上げられたか

そこから考えていく方法もありだと思う。


古事記は一貫した物語として出来ており

日本書紀は『本書』と『一書』とに分かれている

とくに神話に関しては、一書に書かれていることが多く

時には複数の逸話になっているものまである。

想像するに一書とは、それまでに口伝で残っていた史実

それを書き起こした重要なメモ書きのようなものか

それらを解体し肉付けして、神話を創作し本書に残した

あるいは後の世に、口伝として残っていたものを

再度書き起こし、本書に添えて残されたものであるか

想像の範囲を超えることは出来ないのだが。


イザナキ・イザナミについて

古事記では、イザナミは出産の時の火傷がもとで亡くなる

しかし書記では死んだことになっていないのである

二人仲良く、日の神(大日孁貴おおひるめのむち)を産む

これは天照大神の別名とされている。

次に月読尊を産み、さらに蛭子を産み

最後にスサノオを産むのである。


とある説がある・・・

八岐大蛇(やまたのおろち)は無類の『酒好き』『女好き』

八つの頭でガブガブと酒を呑み、7人の処女を歯牙にかけた蛇

であった

酒好き・女好きは何処にでも居るが

酒と女が好きな『蛇』は少ないだろう

三輪山の御神体である大物主は蛇神である

これは記紀にも書かれていて有名な話

大巳貴とも書かれ、御神酒(おみき)の語源とも言われる

この神さま無類の酒好き・女好きである

現在でも三輪神社には酒と生卵が供えられるという。

この三輪山を八岐大蛇としてスサノオの話が語られているという

オオクニヌシは酒を造った神さまである

オオクニヌシは大物主であり、大物主は三輪山そのもの

その三輪山が八岐大蛇だというのである。

オオクニヌシはスサノオの父(日本書紀による)

あるいは6世前の先祖であるという(古事記)

子が父を退治したとでも言うのか?

親子関係そのものが疑わしい話になる。

スサノオは王権側の意の通り出雲の神(ヤマト政権に対抗する)

を排除した功労者である。

その末路はけしてハッピーエンドにはなっていない

髭(ひげ)や手足の爪を抜かれ、追放になっている。

利用されて捨てられた格好になるわけだが

この話、どこかで出てきた話なのである。

神武東征の後半、大和の支配者ナガスネヒコを

義弟であるニギハヤヒが寝返り殺してしまう

その結果ヤマトが一つに纏められ天下が治まった

あの話にダブって見えるのである。

思うに、大和地方の部族間抗争に乗じて

王権側が謀略をもって、纏め上げ中心に居座った

それが神武東征の大筋だったと思っている。

◎  天皇と記紀 

エジプトのピラミッド

日本の前方後円墳

とてもよく似ている

え????

そう言われそうであるが

形の話ではない

どちらも『王の墳墓』であり

次の世界でも同じ様に生きるいろいろなものを

その場所に埋葬する。

エジプトでは『王家の墓』という場所がある

日本では古墳群といわれている



エジプトに有って日本に無いもの


古墳をつぶさに調べ、全容を明らかにして

後世に伝える道を政府が閉ざしていること。

ほとんどの王墓(古墳)が立ち入り禁止であり

調査すら許されていないのが現状だ

何を恐れているのか解らないが

遺跡調査にどんな不都合があるというのか

道路工事で発覚した遺跡古墳はOKで

前方後円墳はNOという根拠が解らない。



さて神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)

父はウガヤフキアエズといい、その父は山幸彦として知られ

山幸彦と鮫(豊玉姫)の間に生まれた子である。

その鮫の孫が神武天皇であるわけだ・・・。

初代天皇とも言われる神武天皇は鮫の孫である。

なぜ、古事記は神武天皇が鮫の孫などと記したのか

初代天皇ならもっと脚色のしようもあったはずだが

なぜ鮫だったのか・・・

ウガヤフキアエズは母の妹である玉依姫を妻にする

叔母であり妻である玉依姫がなぜここで登場するのか

古事記の真意がわからない長屋の爺である。



初代神武天皇から続く歴代天皇だが

とても皆さん長寿であられ、百歳を超える方ばかり

今以上に長生きであったらしい

古事記には百歳を超える年齢が記されている天皇が

日本書紀では不明とされる天皇も少なくないのである

ようやく凡その生没年が判るのが

第30代敏達天皇くらいからか・・・。

ハッキリしているのは、33代推古天皇からだ

もっと言えば、天智天皇の生没年もあやふやで

天武天皇にいたっては没年は判っているが

生まれた年が不明なのである。

古事記・日本書紀の編纂を命じた天皇の

生没年が不明とは国史の体を成していないのである


清水の舞台といえば、京都清水寺

だれでも修学旅行で訪れた有名なお寺である

この舞台で記念写真を撮った方も多いはずだ

では、この舞台・・・何のために作られたのか?




じつは・・・・死体を投げ落とす為につくられたもの

という話がある

当時は一般庶民のための墓など無く

清水の舞台まで運び上げ、谷に投げ落とした

舞台の下の谷は『庶民の墓場』であったという

このような舞台、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺

にもある・・・。

長谷寺については、またの機会にでも・・・。

◎  三種の神器と神さま 


『日本の神さまを三人思い浮かべてください』


そう言われて誰を思い浮かべるか・・・・。


けっこう難しい問題である。

正解など存在しないのだが

有名どころ(不謹慎で申し訳ない)として

天照大神(あまてらすおおみかみ)が順当であろう

次に大国主神(おおくにぬしのかみ)あたりか・・・

次はおおいに悩むが、スサノオノミコトか?


普段から”神さま”になじみが無いと難問になる


アマテラスは太陽神であり、日御子(ひのみこ)でもある

祭祀を司る最高神として崇められている。

オオクニヌシは記紀・神話からも、豊穣・愛欲・医療

を司る神である

スサノオは言うまでも無く、武力の神であり

恐ろしい『チカラ』をもつ神である。


なぜ3人なのか?

それは『3』という数字に原因がある。

3・・・・

3といえば、『三種の神器』を思い浮かべる


結論から言えば、なぜ三種の神器なのかは

この三人の神が関わっているからであり

最初から三種ではなかったことでもある。


三種の神器

みくさのかむだから とも言われ

八咫鏡(ヤタノカガミ)

草薙の剣(クサナギノツルギ)

八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)

のことである。

th.jpg

八咫鏡をよく観ると、中央に描かれている図は

まさしく『照り輝く太陽』であり

そのままアマテラスを象徴してはいないだろうか


草薙の剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも言われ

天皇の持つ武力の象徴であるとされる。

神話では八岐大蛇の尾から出てきたとされている。

スサノオといえば八岐大蛇であり草薙の剣である。


八尺瓊勾玉は瑪瑙(めのう)で出来ているとも言われ

諸説あるが、形状が『胎児』を連想させることから

子孫繁栄の象徴とも考えられる。


以上のことを併せて考えると、あることに気付くのだが

アマテラスを象徴するのが 八咫鏡 であり

スサノオを象徴しているのが 草薙の剣 で

オオクニヌシを象徴しているのが 八尺瓊勾玉 ではないか

だから、二種でも一種でなく三種に落ち着いた理由

そのように思えてくる。


蛇は古語では、『ナガ』 『ナギ』と呼ばれ

後に『ハハ』 『カカ』 『ヌカ』等と呼ばれたそうである

それが変遷して、ハハは『ハフ(這う)』 『ハハツキ』

になったらしい・・・。

ハハツキとは『酸漿(ほおずき)』のことで

外見が蛇の頭に似ており、実は蛇の眼に似ている。


カカミ(蛇身)とはカガミであり、鏡のことになり

鏡餅(かがみもち)は蛇がとぐろを巻いた姿を

上から見た形であり、横から見た姿は山そのものである。

山が御神体である理由もここにあると言う。


鏡が蛇の体であるならば、剣は何になる?

見たとおり蛇の尾と考えられる

八岐大蛇の尾から出てきたことでも理解できる。

ある説によれば、蛇は『男性器』を連想させ

蛇そのものが子孫繁栄を表していると言う。

鏡が母体で、剣が男性器とするならば

そこから生じるのは『胎児』しか考えられない

胎児とは勾玉である。


三種の神器と三人の神さま

神話はこの結果から逆に『必然的』に創作された

皇統の子々孫々、栄え続くことを願ったものかもしれない。



『朝蜘蛛は仇と思っても殺すな 

    夜蜘蛛は親に似ていても殺せ』

朝出る蜘蛛は益虫だから殺してはいけない

夜出る蜘蛛は害虫だから殺しても良い


聞いた事があると思う・・・・。

これも騙りである!

朝出た蜘蛛が、夜出てきたら殺すのか?

『朝出てくる蜘蛛』とは、朝廷に利益をもたらす

虫(蔑まれた人々)と言う意味であり

『夜出る蜘蛛』とは、朝廷に反抗して害を成す連中

であり、見つけ次第殺してしまえ・・・と言う事である。


言い伝えにこそ

真実の歴史が隠されているという 見本 である。

◎  糾える縄の如し 

このブログを更新するとき

大筋のイメージを組み立ててから

キーボードに向かう

しかしである・・・歴史というもの

毛細血管のごとく、分岐し一つのことだけで

話を進めるのが難しいと長屋の爺は痛切に感じている。


歴史は 糾える縄の如し なんちゃって・・・・


古代史は言霊、謀略、権力闘争、祟り、恐れ、穢れ、騙り

それらが複雑に絡み合って形成されていると思っている。

上に記した事項を形ばかりでも認知していないと

歴史は見えなくなり、つまらない昔話に変わってしまう。

ヤマト王権成立の神々に戻る前に

これらを少しだけ、おさらいしたいと思います。


言霊

文字通り、言葉に霊が宿るという思想

これを知ることは、『呪(しゅ)』を知ることでも有る。


例えばである、毎日通っている道がある。

特別何の気遣いもなく利用している

そこで、爺がこう耳元で囁いたとする・・・・

『あの道の傍で、江戸時代に幼い子供を含め

  家族全員が殺されて 今も霊が成仏していないそうだ』

聞かされた人は、次の日から意識し始め、ついには・・・

そこを通ることに迷いが生じる。

これが『呪をかける』と言う事の例である。

これは、霊が成仏していないと言う言葉によって

そこにあたかも”霊が居る気がしてしまう”意識が

気持ちの中にふくらむことである。


もうひとつ・・・

娘が出かけようとしたとき・・・

母親があわてる様子を冷静に見ていて

『そんなにしてると、転ぶわよ』

そして・・・つまずき転んだとすると

『お母さんがへんなこと言うから転んだじゃないの』

と、娘は言うだろう

これが、『言霊』であり、『呪をかけられる』という

我々が気付かない日常の言霊とのふれあいである。


祟り

たたりである

祟りとは結果現象のことではなく

自らの心のうちに宿る『罪悪感』の変異であろう

人の命を理不尽にも奪ったことの罪の意識

物事を思考するとき、因果関係に罪悪感が加味増強され

すべての根源が罪に由来すると思い込むことによる

恐怖心の表れである。


穢れ

けがれである

古代日本にこのような思想があったのか疑問である。

死 病気 不潔 などを穢れとして忌むのは

仏教が渡来してからのように感じている。

仏教が庶民の身近になるのは随分後のことであり

浸透するまでの永い間に王権(朝廷)のあたりから

考えられた思想のような気がする。

多神教では、生~死~生~死というのは当たり前

死を特別に忌む必要も無かったはずである。

仏教が伝来し死に対する恐怖・不安が、死に臨み

嫌なこと避けたいこと、受け入れたくない事象として

穢れという意識・思想が生まれたと思っている。


騙り

かたりである

そもそも物語りとはモノを騙ることであり

フィクションそのものであった。

人は誰でも、自分に都合の良い解釈で事物を話す

これがいわゆる『語る』であり、その真意は騙るであろう

有能な人が弁舌をふるい、延々と語るうちに個人的観念が

はたらき、騙りに近づいていくことになる。


あるいは、権力の座に固執するあまり

自らの保身が無意識のうちに働き、不都合なことに身勝手な

解釈・改竄をして事実を曲げるときにも使われる。



旅行などに行き、森や林などを歩いていると

ふと回りに得体の知れない何か・・・

そういうようなものが居る気配を感じる事がある。

その感情が畏怖であり、恐れの源流だと思う。

古代の人はそれを霊として感じ

モノに宿る霊に畏敬の念を覚えたのであろう。


日本神道に教義と呼べるものは無いと思っている。

経典も教義も戒律も存在しない

しないが、宗教であるという。

これが、仏教やキリスト教、イスラム教などと違い

与えられた教えでない事に端を発すると思う

自らが感じる『畏敬の念』、これこそが日本神道であり

日本神道=宗教=道徳観念

そう考えている。

神道に入信した記憶も無く、誰かから誘われたことも無い

だが神社の拝殿の前に立つと、自然と手を合わせる

強引に理由付けしなければ、日本人として当然であり

息をするが如く、自身の内側から無意識にでる

自発行為である。

神は何処にでも居て、いつも観ていてくれる。

観ていてくれるだけである・・・・。

奇跡を起こすことを願っている者は少ないだろう。

神さまとは、自身を生かしてくれている存在

それ以上は 欲 であり、神にたいする誤解である。

信仰するとかしないとか、そんな想念とは関係なく

神は日本人の傍に必ず居る

その意識が日本人の道徳観の高さを表している

長屋の爺はそう信じております。


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