不必要な善意 

わが庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々 (昭和天皇)

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◎  皇室と天皇の民の行く末 

近頃、皇室の話題が巷間を賑わせている。

このブログは社会・政治は別のブログ(花はそっと・・)

に委ね、歴史と身の回りの諸事を念頭に書いている。


1100年以上前、天皇家は今では想像も出来ない

波乱万丈の舞台となっていた。

もちろん、長屋の爺は『皇室』を批判する気は無く

むしろ皇室とともに日本人は生きるもの

そう物心ついた頃より、信じてきた。



では、9世紀中ごろ・・・・

時の天皇は弟56代『清和天皇』といい

わずか9歳で即位した。

この天皇、藤原家の野望に利用された御方である。

時代の背景を見ると、皇位の権威も確立され

皇統も安定した時代であり

何にもまして、藤原義房が摂政として権力の中心

として、文字通り”飛ぶ鳥 落とす”勢いの時代。


本来なら年上である異母兄 『惟喬親王(これたかしんのう)』

が次の天皇に就くはずであった。

惟喬親王は母親が紀氏の出であり、支える力が弱かった

藤原の野望が惟喬親王を遠ざけ、清和天皇の時代を実現させた


この天皇、御所には住まわなかった天皇でも有る。

外祖父である藤原義房の屋敷に住んでいた。

今で言うなら、皇居に天皇が住まいせず

総理大臣の私邸に住んでいたと考えればよい。

皇室(皇統)以外の人間が、皇室に力を注ぐ

その愚の証明であり、昨今の巷の憂いと似ている

眉をひそめる忌むべき事でも有る。


この藤原氏、祖は中臣氏と言われているが

これとて、眉唾物である!

確かに中臣氏は古代の豪族であり、神事・祭祀

を担った一族である。

藤原の祖は22代中臣鎌足からとされている。

この鎌足の出自がなぜか不明である。

半島人という説も根強くある。

古代史にも突然現れ、あっという間に

天智天皇の片腕に躍り出た。

国史に言うほど、巷の風聞は評価は高くない

中大兄皇子ともども最悪の評価する人も居る。

”白村江の戦い”の数年間、歴史から忽然と

姿が消える。

あやしさいっぱい の藤原の祖といえる。


皇統でも無い者が、皇室に深く関わると

ろくな事にならない、これは史実である。


この頃(清和天皇の御世)は、稀に見る凶作で

疫病も流行し、羅城門の上にまで死体が投棄され

都は死体で足の踏み場も無かったと・・・・。

いわゆる 『天譴災異思想(てんけんさいいしそう)』

あるいは 『天人相関思想(てんじんそうかんしそう)』

ともいわれた時代である。

天皇のふるまいが、天の意思に適っていないと

天変地異が起こるといわれ、藤原氏の専横を

民衆は憂いたのである。


今回の震災・原発事故は天皇家ではなく

政(まつりごと)が、民主党なる愚民によって

専横されたがゆえに、天がお怒りになったものであろう。


もしも次なる天変地異を誘引するとすれば

O家による、皇室への潜入であり、S学会の

皇統への不当な介入が危惧される。


天意(天罰)が今上天皇の民の上でなく

彼ら専横を画策する愚か者の上に下らんことを

心から願うものであります。
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◎  竹取物語と平安社会 


おとぎ話に触れたので、ひとつおとぎ話を・・・


『竹取物語』

日本人なら誰でもご存知の話

かの紫式部も絶賛したという名作である。

ここでの主人公は童子でも、小さい形(なり)をしている

ここに登場する貴族は実在の人をモデルにして

平安という時代の社会批判をしているという。



かぐや姫に言い寄った貴公子は5人

 1 石作りの御子

 2 右大臣阿倍のみむらじ

 3 大納言大伴のみゆき

 4 中納言石上麻呂足

 5 くらもちの皇子

彼らを8世紀初頭の、『公卿補任(くぎょうぶにん)』

と照らし合わせてみると・・・。

 1 左大臣多冶比嶋 (さだいじんたじひのしま)

 2 右大臣安倍御主人 (うだいじんあべのみうし)

 3 大納言大伴御行 (だいなごんおおとものみゆき)

 4 大納言石上麻呂 (だいなごんいそのかみまろ)

 5 大納言藤原不比等 (ふじわらのふひと)

2,3,4は 名も官職もそっくりである

1の多冶比嶋は、一族に『石作氏』がいることで石作りの御子

と考えてもよいと思う。

5の不比等については、諸説あるが母親の出が『車持氏』であり

くるまもち~くらもち と考えられなくもない。

時代背景を考えれば、藤原不比等を公然と批判できるわけもなく

遠まわしに言い換えたといったところであろう。


竹取物語の作者は”くらもちの皇子” に対し

『心たばかりある人にて』・・(くらもちの皇子は謀略好き)

と、悪し様に書き記している。

かぐや姫も皇子の嘘が露見した際

『愉快でたまらない』と発言している。

どうして作者は ”くらもちの皇子”を悪く書いたのだろう


時の権力者である藤原氏を憎む人間は多かったはず

その憎む誰か・・・その者が作者ではないかという。


物語の最後に、迎えに来た月の都の天人が言う台詞

『いざ、かぐや姫。穢き(きたなき)所にいかでか

   久しくおはせん』と語りかける。

この穢き所とは、平安の社会でありその社会を批判し

さらに権力者藤原を糾弾する目的で描かれている。



日本の古代史を抹殺・改竄・封印した張本人

藤原不比等

歴史の表舞台から消された豪族たちの恨みは

このような形で後世に語り継がれてきたのだと思う。

◎  おとぎ話とモノ 

古代史には歴史学、考古学、宗教学、哲学など

様々な知識が必要である。

自慢するわけではないが、長屋の爺はそのどれも

理解できていないものばかり

何せ、まともな高等教育や専門教育など受けたことなど無い

今現在、世界一無謀で無恥なブロガーといえる。


”人生という旅の 恥はかき捨て につき御免蒙る”

そんな心境である。


むかしむかし あるところに・・・・

おとぎ話の定番である書き出しだ

次には必ずと言ってよいほど、お爺さんとお婆さんが

出てきて、幼い童子が出てくるのである。

そして、その子供が鬼退治をするという話に発展する。

恐ろしい鬼をなぜ子供が退治できるのか?

その理由を考えてみたい


どの資料にも老人と子供は『神聖な者』とある

なぜ 神聖であるのか

それは、生と死の境に一番近いからだという

人間にとって生誕と死は人生の最大転換期と考えられ

奇跡の瞬間でもあったという。

つまりは『人間ではないもの』に最も近い者であり

『人間ではないもの』というのは、すなわち神という事になる

一神教の神のように、絶対的な正義・善を具現化するものとは違い

多神教の神とは、恵みをもたらす神と災いをもたらす鬼の両面を持つ


恐ろしい鬼を退治できるのは、鬼の力を持つ者

それが”人間ではないもの”に最も近い『童子』なのである


人間の思いなど無縁の『生命の誕生』という奇跡に

古代の人々は、自然の芽吹きと同じ神の存在を見ていたのか

子供は授かりものというより、神の化身とでも考えていたのだろう

そして老いたもの達が、やがて人では無くなり神の傍に行く

ゆえに老人も神に近い不思議な力を持った者と考えたのか

老人子供を大切にする

弱いから庇うのではなく、不思議な力を持つ

神に近い者だから大切にしていたと言う事なんだろう。

時を経て、いつしか老人子供は”か弱い者”と思われ

現在では大切にされることは無くなりつつある・・・・。

複雑な気持になるのは長屋の爺だけであろうか。





古代(7世紀ころまで)は鬼のことを、モノと呼んでいた。

神や精霊がモノに宿ると信じられていたからである。

石、川、山、草、海、空、雲・・・

多神教の神とは、大自然そのものだったわけである

ジブリのアニメ 『もののけ姫』のもののけとは

物の怪(もののけ)であり、モノの怪である。


余談になるが、『もののけ姫』はとてもよく出来た作品で

蝦夷一族の若者(アシタカ)が主人公であり

ヤマトに敗れ、虐げられ忘れ去られた名も無き民たち

踏鞴(タタラ)製鉄という文明の陰に失われていく自然

山ノ神(犬神)に育てられた女性(サン)

シシ神(でいだらぼっち)は生命の授与と奪取を行う神であり

人間の営みを司る、神と鬼の両面を持つ


ヤマト王権によって、排斥され虐げられた名も無き民

河童であり、山童、狐、蜘蛛、非民たちの背負う宿命

踏鞴製鉄の実体を描くなど、見所満載である。


モノ

物部という古代豪族がいる

この”もののべ”も”モノの部”であり

モノ、神(鬼)を司る一族のことではないだろうか

物部は もののぶ と読める

転じて もののふ となり

武力を司ることから、武司(ぶし) 武氏(ぶし)

あるいは武力使って仕えるから 武仕(ぶし)武使(ぶし)

なんていうのは如何だろう・・・。

武士を もののふ なんて読ませることに無理がある。

もののふは 物部であり

ぶしは 武使でどうか

言ったもの勝ちの長屋の爺論でした・・・・。 

◎  えびす 


三遍(さんべん)回って煙草にしょ

聞いた事のある方も居られるでしょう

江戸いろはがるたに使われている言葉である

休むことを急がず、念を入れて手落ちのないように気をつけよう

そんな意味だという・・・。



三遍回って・・・・。

これは古くには、棺おけを担いでから

三遍回ってから運んでいったという風習。

諸説あるが、二度とこちらに戻ってこないように

するためとも言われている。



言い伝えが時には、正反対の意味として

後の世に語り継がれているものがある。


以前書いた『節分会』 豆まきもそう言われていた。


現在 縁起が良いとされているものでも

さかのぼって調べてみると、案外縁起が悪い

なんてことも多々あるのである。


3月3日のひな祭り

これも本来とは違った縁起の良い祭りに変わっている。

雛とは形代(かたしろ)といわれ、罪や穢れを移して

川や海に流したことから由来している。

川・海に流すといえば、蛭子(えびす)を連想する

”ひるこ”とも言われ、イザナキ・イザナミの子

四肢欠損の出来損ないとされている。

私はこれは”騙り(かたり)”だと思っている。

”ひるこ”とは、”ひのこ”の事だと考えている。

太陽神の一人だった可能性は高い

ヤマト王権にとって、太陽神は一人で十分であり

余計な日の子など不都合だった

アマテラスを頂点に皇統を繋ぐには極めて不都合

イザナキ・イザナミの子供として不具の子として

貶めて船に乗せて流したのであろう。

船で流すと言う事は、あの世に送るということであり

抹殺したと言う事だと思う。

蛭子(えびす)とは、ヤマト建国以前から

民間に祭られていた日の神だったと考えられる。

それでなければ、ひるこを登場させる事が不可解だ

取るに足らないものや、縁起の悪いものなら

書き残さないという道を選んだだろう。

海に流されたことから、漁業の神さまとして信仰され

夷、戎、胡、蛭子、”蝦夷”、恵比須、恵比寿、恵美須

などと表記されている。

夷などという文字は、未開の民・異民族のことであり

意味を調べれば、低い、滅ぼし平らげるなどと書かれている。

蝦夷は 『えぞ』、『えみし』と読まれ

長屋の爺が思うには、エビのように曲がった思想の

未開の民を真っ直ぐにする。

若しくはエビのように体を曲げ、ひれ伏させる。

そういう意味の言葉に思えて仕方が無い。

文字ではなく、音で考えると違った世界が見えてくる。

歴史は文字だけでなく

音でも伝えられているのだと考えている。

◎  生け贄と人間 


生け贄

一神教の人から見れば、多神教を崇拝し野蛮で

生け贄を生み出す未開の地に文明を齎した

のは一神教だった。


そう言うだろう・・・・。

だが、長屋の爺は調べていくうちに

多神教、一神教にかかわらず、神は生け贄を

欲する、そう思えてきた。


見解の相違、観点の違いといえるかもしれないが

動物の命を奪うことにどれほどの差異があるのか

餌を与え柵の中で生きるもの

自然の中で自由に生きるもの

自然の中に居る動物はダメで、柵の中の動物は良い

不思議な理屈である。

捕鯨問題はまさしく、一神教と多神教の解釈の違い

だろうと思う。

鯨やイルカはダメで、牛や豚ならかまわない

傲慢な論理そのものである。

人はだれでも他の命をもらって生きている。

それが野の草であろうと、生きている『生き物』なのだ

植物は良くて、動物はいけない

ベジタリアンとか言う人たちはそういうのか


生け贄とは、人間の業

人間の宿命を教えているのではないだろうか

どんなに高尚な考えをしても

人間は命をもらって生きていくしかない

そういう宿命の元に生まれてきていると・・・。

もし、生け贄が神の教えであるなら

そう解釈するよりほかに思いつかないのである。

”その命をもらう”ことを否定することは

生きることを否定するようなものか

人は”仙人”のごとく、霞を食べては生きられない。

神前に捧げる”生け贄”は神に対する貢ぎではなく

神に命をもらって生きることの感謝だと思えてくる。



無信心・無知職ながら、漠然とそう思うのである。

◎  水と安全はタダだと思っている日本人 


  日本人は水と安全はただだと思っている!  



至極 名言であり、日本の現状を表している。

この言葉を書いたのは、ユダヤ人”イザヤ・ベンダサン”

『日本人とユダヤ人』という書の中で上記のように

的確に言い表している。


マイム・マイム

誰でも知っているフォークダンスの曲である。

このマイム・マイムがヘブライ語であるという話

初めて知った長屋の爺である。


歴史を尋ねるというのは

  無知(無智)との遭遇 

であることを思い知らされたのであります。

無知は無恥にあらず、知れば開ける・・・。

そんな言い訳が頭を過ぎってしまう。

話を戻そう・・・


マイムとはヘブライ語で『水』のことだという

マイム・マイムとは水・水ということか?


19世紀後半から20世紀にかけて、世界各国から

イスラエル建国のために帰還したユダヤ人が

当時は砂漠だった未開の地に水が湧き出た喜びと

開拓に励む素晴らしさを表現した踊りだという。


当然ながらこの曲にも歌詞は有る

その歌詞は三千年前に書かれたタナフの予言の書の一説

『ウシュアヴテン マイム ベサソン

 ミマヤイェネイ ハイェシュア ♪』

意味は

『あなたがたは 喜びをもって

  救いの井戸から水をくむ 』


イスラエルは乾燥地帯で水を確保するのは大変である。

いかに日本が恵まれているか、幸か不幸かは別として

アメリカの傘の下、平和が当然の日本人

イスラエルは水も平和も自ら手にしなければならない。


ドナ・ドナ

これも日本人がよく知る曲である。

子牛が荷馬車に乗せられて、市場に売られていく

悲しい歌詞の曲である。

NHKが公共放送だった昔に

みんなの歌で流れていたように思う


ところがヘブライ語で歌われるドナ・ドナ

もっと悲しい歌詞になっている・・・。

 ♪ ある晴れた 昼下がり 市場へ 続く道

   荷馬車が ゴトゴト 子牛を 乗せてゆく

   何もわからない 子牛だって

   殺されてしまうのが わかるのだろう

    ドナ  ドナ  ドナ  ドナ 

    悲しみに満ち溢れ

    ドナ  ドナ  ドナ  ドナ

    何というはかない命なのだろう

実はこの歌・・・・ユダヤの歌で



ホロコースト(大虐殺)のときにユダヤ人がナチス・ドイツの

兵隊によって、強制収容所に追い立てられていく時の歌だという

さらに、ドナ・ドナとはユダヤ人が神を呼ぶときに使う

『アド・ナイ(主よ)』をナチスに気付かれないように

ドナ・ドナと置き換えたともいわれている。

隠された真実を知らなくても、この歌に惹かれるのはなぜ?


日本各地に伝わる言葉・民謡で意味が不明なものは多い

日本語に残る ユダヤの残り香のあれこれ・・・

次の機会にそれらを紹介したいと思っています。

◎  狛犬・鳥居・賽銭箱 

狛犬

神社に行くと必ず眼にする石像である

ところがこの狛犬、犬と言うが犬ではない

どう観たって獅子のようである。

あれを犬だと主張する人を見たことが無い。

デフォルメされているが、紛れも無い”ライオン”だ

日本には虎はもちろん、ライオンも居ない

猛獣の類は

ヒグマとツキノワグマとニホンオオカミだけ

そう認識している。


この狛犬、どこの神社にもあるのだろうか?


起源については諸説あり、定説は無いという。


有力といわれる説・・

古代オリエントが起源といわれ

インドを経て中国大陸から朝鮮半島を経て伝来

それで高麗犬(こまいぬ)と呼ばれたとする説。

いささか腑に落ちない説である。


仏教絡みならその説も有りだが・・・。


ユダヤ教の経典タナフによると・・・

『神殿の玉座に六つの段があり、玉座の後ろに

 子牛の頭があり、座席の両側に肘掛があって

 肘掛のわきに二つの獅子が立っていた』

と、書かれている。

さらにこの後、

『このようなものはどこの国でも造られた

  ことは無かった』と記されてある。

神の両脇に獅子を据える習慣はユダヤ独自と

言えそうで、ユダヤと神社の繋がりが窺える。


タナフの記述には

神は箱を作らせて主の宮の門の外に置き

モーセがイスラエルの民に課税し

税金を持ってこさせ、民は喜んで箱に入れた。

あれ?

これって・・・もしかすると『賽銭箱』のこと

鳥居・・狛犬・・・賽銭箱

ユダヤが神社に神道・・いや浸透している。


鳥が止まるように・・・

高麗から来た・・・・

そんな説より、よほど説得力の有る仮説である。


古の日本人はユダヤの教義ではなく、ユダヤの風習

祭儀と形式だけを取り込んだ。

あくまでも支配されることを嫌い

神とともに生きる道、縄文の神道を貫いた

そのことが、後にヤマトとの争いの火種になったのか

抗うものは鬼となり、荒ぶる神になっていった。

これからも出てくるであろうユダヤとの関係

ユダヤから眼が離せない・・・・ようである。

◎  蘇民将来と過ぎ越しと鳥居 


蘇民将来子孫家門

聞いたことがある方も多いと思う

スサノオが宿を探して難儀している時

貧しい蘇民将来が一夜の宿を貸した。

スサノオは旅立つときに、門符を門口に架けておけば

子々孫々疫病から免れると言い残した。

以来、蘇民の子孫である証に門符をかけるという。

これは平安時代に疫病が流行しその祟りを鎮めるため

スサノオを祀った事に由来するという。


過越祭

イスラエルの民がエジプトで奴隷となって

苦しめられていた時、神がモーセに対し

羊を屠って、その血を家の入り口の柱に塗るように

命じた。

その教えを守ったイスラエルの民だけが神の裁き

を逃れることができたお祝いのことである。


じつに似かよった話である。

だがこれだけではない

この過越祭の血塗られた門こそ

日本の神社の鳥居の起源だといわれている。

鳥居については語源がはっきりしていない

鳥が止まる為などと意味不明な説まである(笑)


ところがである、ヘブライ語の方言のアラム語で

『入り口』のことを、『トリイ』という。

日本の鳥居の形こそ、過ぎ越しの夜に家々の

入り口に子羊の血で書いた図形とそっくりだと言う。


なぜ”とりい”と呼ばれるのか気になっていたが

ようやく腑に落ちる説が見つかった。


日本は古代、多神教であり、一神の支配は受けない


神は見えないモノであり、何処にでも、どんなもの

にも神が宿ると信じていた。



仮にユダヤ人が日本に渡来して居たとしても

ユダヤ教の神を受け入れることは無かったように

思っている。

だが、多神教の根幹にさえ触れなければ

どんなものでも受け入れる、そうやってユダヤの

信仰の一部が残されていったと考えられる。


◎  ユダヤ人と日本の神さま(弐) 


次は、諏訪大社 である

諏訪は謎が多い土地で、記紀ばかりを信じると

迷宮に誘われてしまう、用心・・・用心・・・。


イサクの燔祭

旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述 されている

宗教に疎い長屋の爺、朧な記憶でしか認知していなかった。

大雑把な記憶では思考が先へと進まない

一夜漬けという荒業では無理があり

関連書籍を引っ張り出しての考察となった。


イサクの燔祭の解釈について語るほど知識は無い


大体のストーリーは以下のようだったと・・・

アブラハムは神から奇跡の業によって生まれた

愛する息子イサクを生け贄として捧げよと

命じられる。

次の朝アブラハムは命じられたモリヤの山に向かい

イサクは無抵抗のまま父に縛られ祭壇に載せられた。

アブラハムが刃物を振り上げた瞬間、天から神の使い

が現れてそれを止めた。

周囲を見渡すと、茂みに雄羊が居たのでアブラハムは

その雄羊をイサクの代わりに捧げた・・・・。

これがイサクの燔祭の話である。


以前書いた、諏訪の御頭祭の祭儀の中の

『御幸(おこう)』と同じ状況なのである。

洩矢山(もりややま)とモリヤ山

生け贄、土壇場の解放劇、幼子

じつに類似点が多い、知らなければ無理とも

云える共通性は否定しようが無いだろう。


さらに面白い話がある。

ミシャグチ・・・モリヤ神と同一と言われる神

諏訪の土着神とも言われている。

『ミシャグチ』は、ヘブライ語で・・・・



『イサクの犠牲』という意味だというのだ!


ギリシャ神話にもイサクの燔祭 に似た話がある。

父アガメムノーンが娘イビゲネイアを生け贄にする

最後に娘は雌鹿と引き換えにアルテミスに救われる。

そういう話だそうだ・・・。


私はこの話をいくつか観て、あることに気付いた

生け贄・・・人柱の類の話

洋の東西を問わずあちらこちらに有ると言う事


それほど『神』は血の犠牲を欲するものか?


神は血を欲し、犠牲を要求し、何を与えてくれる


無心論者とおっつかっつの爺である。

神さまをもっと知らなければいけないのだろう。



◎  ユダヤ人と日本の神さま 


ユダヤ人と日本の神さまの接点はいくつかある

最初は『宇佐八幡宮』だろう

宇佐にまつわる説も多いのだが

まず、八幡神の起源からたどって見る


宇佐神宮

薦神社(こもじんじゃ)という処が期限とされる

この神社の御澄池(みすみいけ)にヤハタの神が

現れたという伝説から始まったのである。

池の中から美しい幼い男子が現れて

『私はヤハタの神である 私のために

  薦草(パピルス)で方舟(はこぶね)を作り

   御神体とせよ』

このとき以来神社では薦草で方舟を作り奉納

している。

パピルス~方舟~幼い男子・・・・。

まるでユダヤの指導者『モーセ』を連想させる。

ところでこの方舟なる物

養老三年(720年)の大隅・日向の隼人の反乱の時

朝廷軍は三角池(御澄池)に自生する真薦を刈って作った

枕形の御験、薦枕(こもまくら)を神体に、神輿を奉じて

日向まで行幸し乱を鎮めたと言われる。


たぶんこの薦枕とは方舟のことだと思う。

モーセの母が作ったという方舟は姿が見えていては

モーセが命を失う可能性があった状況で編んだもの

中が空洞の枕型であった可能性は高いのである。

この伝承はユダヤの匂いがプンプンする。


宇佐八幡宮のある場所は『綾幡郷』と呼ばれ

豪族 秦氏の居住地であった。

ヤハダ(綾幡)はヘブライ語の『イェフダー』

ユダヤ人という意味だという説がある。

ヤハタの神はイェフダの神ということになり

つまりはユダヤの神ということになる。

これだけを取り上げて、根拠といえば

『こじつけ』と言われよう・・・。

だが諸々のユダヤとの関連を見れば

一概に否定することはできないのである。


宇佐と強い結びつきを持つ 秦氏 

渡来人と云われ、諸説あるが

秦の始皇帝の末裔という説があるが

弓月国(クンユエ)の出身の説もある。

中央アジア、バルハシ湖の南の小国で

1世紀~2世紀に存在したキリスト教国

その国の出身だというのである。

その国に ヤマトゥ という地名があり

ヘブライ語で ヤ は神のことで

ウマトゥ は民族を表すと言うのだ

つまり、ヤマトゥは 神の民 の事だと・・

そして・・これがヤマトの起源かもしれない

そういう説もある。

じつに興味深い説得力のある話である。


秦氏については、景教徒だったという説もある

ユダヤ人のネストリウス派キリスト教徒

キリスト教はユダヤ教が元であるから

納得できる話ではある。


途中ではあるが、秦氏はユダヤ系渡来人

そう考えることが自然な気がする・・・・。

だがその反面、各地の秦氏が同族なのか

疑いたくなる伝承もあることが引っかかる。


秦氏については別の機会に考えることにする。




◎  古代日本にユダヤ人が渡来していた  


古代日本にユダヤ人が渡来していた


そういう説が実際にある。

信じるかどうかそれぞれ個人の問題である。

古くはヤマト以前にいろいろな民族が

この地に渡って来て住みついた

特別不思議なことでもない。

どう解釈しようと、この世に純血種が

存在することこそ疑うべきなのである。


これは日本人が言い出したことと聞いている。

ユダヤ人の間で言い伝えがあるそうだ

『失われた十部族が極東まで行き日本人になった』

『日のいずる国から救い主が現れる』

これは予言の一つだといわれている。


ユダヤ人渡来説の根拠は大まかに以下の通り


*神輿(みこし)の起源は失われたアーク

*神社の拝殿は『会見の幕屋』と類似

*伊勢神宮にもある『ダビデの盾』

*ヘブライ語と日本語の共通性

*日本各地に残る風習とユダヤ教の関係

*神道とユダヤ教の類似点

などなど・・・・枚挙に暇が無いほどだ


ヤマトにユダヤ人が来ていても不思議ではない

これを基本に考えてみたい


まずどれくらいの人(人数)だったか?

一人二人では大きな影響を残せたかどうか

だが、人数が百人・千人となれば

大きな影響力を持っていたことは考えられる。


彼らが持ってきたものは何だった?

身一つで海を渡ってきたとも思えない

技術なのか、食物であったのか

縄文人は異なる神を拒絶しない

受け止めて、後に受け入れる

アニミズムに収まるものは受け入れられる

これが多神教の特徴であろう。


まず神輿である

失われたアーク といえば

映画 『インディジョーンズ』 だろう・・・。

別名 神の箱

『十戒』と呼ばれる神の掟を書いた石盤

それを納めた箱のことであるという。

箱に貫きとおした二本の棒は抜いてはならない

棒をそのままに保管する

たしかに神輿の形に似通っている

画像で見る限り、正直なところ

似て非なるものという印象である。


神社の拝殿との類似はよく判らない

なにせユダヤの会見の幕屋を見たことがない

似ていると言われても、判断の仕様がないのだ


伊勢神宮にある『ダビデの盾』

簡単に言えば『六芒星 』、籠目紋である

Star_of_David_svg.png

石灯篭に六芒星が彫りこまれているが、戦後のもの

伊雑宮の御紋だといって彫らせたというから

正直なところ判断材料にはならないだろう。

根拠説を書いたら何冊かの本になりそうだが

面白いものもいくつかある。


生後30日目に子供を神社に連れて行く

『お宮参り』の風習がある。

この風習は世界で日本とユダヤにしか無い。

言い伝えで誰もが疑わずに連綿と継承しているが

これが日本だけでなく、ユダヤにもあるというのは

とても興味深い話である。


風呂の話である

日本人は湯船(バスタブ)に入る前に体を洗う

その後、湯船に入るのである。

ユダヤ人も体をまず洗ってから入るそうだ

西洋人は誰でもバスタブの中で体を洗う。

これも日本人とユダヤ人のみの習慣であろう。

だからと言って、汚れや清潔感の意識が

似ているだけなのか判断に迷う処でもある。


『虎の巻』

忍者などが筒状の巻物を咥えて呪文を唱える

あの巻物のことだ。

虎の巻って不思議な言葉である。

じゃあそれ以外の、熊の巻とか獅子の巻

狼の巻、聞いたことも無い。

イスラエルには、『トラー(モーセ五書)』がある

これは大きくて糸巻きのようである

細長い糸巻き2本に巻かれた書物

読んだら反対の巻き軸に巻いていく

そういうふうに見える。

このトラーは『トラーの巻物』といわれ

”トラー”は”トラ”とも言い、トラの巻物として

認知されているようだ。

トラーがトラで、虎になったとは納得である。

日本にはそもそも虎など居ない

関連無い虎を使う意味がやっと理解できた気がする。


ユダヤ教の教えにこういうのがあるそうだ

『刻んだ像を 拝んではならない』

偶像崇拝を極端に嫌うユダヤ教

神とは見えないもの、まさに縄文のアニミズム

と共通する教えである。

日本の神道も偶像崇拝はしない

世界中で日本神道とユダヤ教だけであろう。



次は具体的な日本の神さまとの関わりに

ついて考えてみたいと思う。

◎  伝えることの難しさ 

昔 ヤンキーとか族と言われた若者が

”夜路死苦”よろしく などと書いていた。

これを笑い飛ばしたり、嫌な顔をする大人は

身近な文字の不自然さに気付かない人である。


武士 これは”ぶし”と読む

一方でこれを”もののふ”と読む。

どうして?と思わない人が大半であろう。

この文字を観て、もののふと読む人がどうかしてる

当て字にすらなっていないのである。


水主 これは”かこ”と読む

ふつうは”すいしゅ””みずぬし”と読むはずだ

なぜ”かこ”なんだろうか?

水夫のことをかつてそう呼んだから、では納得できない


歴史を観るとき、常にぶつかる由来不明と

無理やりこじつけた定説の多さである。

歴史に答えは無い、若しくは数多く存在する

歴史は答探しでも正解が待っているわけではない

残された断片を繋いで、想像と願望を重ねる

それが人を古代へと誘う魅力なんだと思っている。


学問を離れれば、そこは自分だけの想像と

ロマンが待つ世界である。


自分のルーツ探しも一つのロマンと言える。

首をうなだれる、たら・れば ではなく

~かも・~だったら

歴史の魅力は顔を上げて空を見上げる

そんなものかもしれない・・・・。


漢字は後に当てはめられたものが大半である。

音・言葉が先に在った!

長屋の爺の不変の自論である。

漢字にすることにより、本来の音が変わり

意味することすら変えられた言葉も有る筈だ


昔の話である

テレビで『伝言ゲーム』のようなものがあった

ちょっとした文章を次々に耳打ちして

最後の人に正確に伝わるかを競っていた

そんな曖昧な記憶である。


同じ時間帯であっても、正確に伝える難しさ

これが何十年、何百年を経て繋がれる難しさは

不可能にも思えてしまう。

一子相伝でも大変であろうが

複数の人々に伝わる『口伝』ならなお難解ではないか

昔の言い伝えは信じるに足らずとは言わないが

どこまで正確に伝わっているかは疑問が残る。

それが『資料絶対論』、『資料至上主義』を唱える

”大人の事情”というやつかも知れない。

◎  諏訪大社と建御名方神 (参) 

諏訪大社 奇祭 『御柱祭』

細かくは記載しなくても承知の大祭である

ざっくりとお浚いすると・・・・。

上社(前宮・本宮)下社(春宮・秋宮)それぞれに

山から切り出した”御柱”4本 計16本を

引いてきて各社の四隅に立てられる。

TVで映像を観ても、荒々しい祭りだ

この御柱、諸説あり今なお不明という奇祭である。

御柱は四天王であるとか、監視役・警護の為とか異論多く

有力説は未だ無いに等しい


御柱を考えるとき忘れていけないのが

建御雷神と建御名方神である


もし建御名方神を監視するなら建御雷神であるべきだ

四天王などに任せなくても

なにせ腕を簡単に引きちぎるほどの神なのだから


ミシャグチ神では?

それこそ力勝負で敗れた神を建御名方神は恐れるだろうか

反対に蹴散らしてしまうだろうと思う。



伊勢の遷宮でも山から”御柱”を切り出してくる。

その際、諏訪のように手荒い扱いはしないのだ

御曳き車によって、丁寧に伊勢まで運ばれる。

この違いは何だろう?



興味深い説を見つけた・・・・・。

建御名方神は力勝負(闘い)で敗れたのではない

謀略によって封じられた、若しくは殺された

実力は建御名方神のほうが、建御雷神より上であると

するならば、どんなお目付け役を四方に配しても

何ら意味を持たないというのだ。

力の強い神を封じるのは、もっと強い神を監視役にする

力の強い神・・・・・怨霊である。

御柱は神ではない!

山から無理やり引き出された 『生贄』であるという

そして”人柱・生け贄”として葬られ

恨みと悔いを残し”怨霊として建御名方神を封じ込める

そのために道を綱で曳き歩き、坂を転げ落として

川で清め、頭を三角に切り削る。



観射山から切り出した御柱はミシャグチ神であり

守矢神でもあり、その神を崇拝する地元の末裔たち

その昔には、実際に人柱が立てられたのかもしれない

『御幸(おこう)』という8歳くらいの子供を生け贄に

したとも聞いた。

御頭祭でも

各地から小さな子供が集められ祭儀を執り行う

御贄柱にされたあと

最後には子供たちは解き放たれるという

『イサクの燔祭』のストーリーそのものである。



* あるブログ読者さまからの要望もあり

浅学な長屋の爺が厚顔無恥な自論を書くことに

到底話が収まる希望も無く

無謀な古代日本とユダヤ人に触れることを決めました。


専門学者の人々とは違った意識・観点から

”そんな気がする論”で書いてみたいと思います。

けっして 期待などしないよう

切にお願いいたします。

◎  ミシャグチ神 

ミシャグ 

沖縄県八重山地方では粟や米から作る酒をいう

作り方は粟・米を噛んで吐き出し

醗酵させて作ったという。

それを ”カンミシ”と呼んだ

カンミシは古代中国、日本、台湾、ミクロネシア

ポリネシア、南アメリカの原住民の間に広く分布し

酒を造るのは主に女性だったとされる。

豊年祭というミシャグを謡い囃すことで

穀霊の更新を促す祭儀がある。

その歌の中に

『粟で作ったこの御神酒を謡い囃しますと

  来夏世はきっと豊年です』

そういうくだりがあると言う。

ミシャグと粟は深い繋がりがあることがわかる。



ミシャグとは東北から沖縄まで広く浸透した

祭事には欠かせない酒(御神酒)だったのか?

精霊に捧げる御神酒が神の名に摩り替わった

本当の理由は不明であるが・・・。


諏訪のミシャグチ神は諏訪大社には祀られていない

守矢家の敷地(私有地)に建つ

『御頭御社宮司総社』と言われている小さな社だ

なぜ地主神だった神がこのような扱いを受けるのか?

非常に不可解なことである。


ヤマト建国前、諏訪の地には縄文人の部族

集合体のような勢力が多く居た

蟹河原の長者、佐久良の長者、須賀の長者、五十集の長者、

武居の長者、武居会美酒、武居大友主などである。

かれらはヤマト王国に加盟することを選び

守矢一族だけが反対したようである。

しかし言い伝えとしても、武居会美酒(えみし)

武居大友主(おおともぬし)とは凄い名である。

蝦夷(えみし)とも蛭子(えびす)とも解釈できるし

また、大友は大伴とも解釈できる。

須賀の長者も曾我・蘇我とも解釈できるのだ

この口伝が古いか新しいかは解るはずもない


ミシャグが”たな晒し”になっているようで

なんとも腑に落ちない話である。

◎  諏訪大社と建御名方神 (弐) 

みしゃぐち神

ミシャグジとも呼ばれ東日本で広く信仰される

諏訪地方ではソソウ神(蛇神)と習合され

白蛇の姿をしているとされる。

洩矢神(もりやしん)と同一視され

諏訪の祭神を建御名方神との戦いに敗れ

祭神から降ろされたという。


その洩矢神(守屋神)もミシャグチ神同様に

建御名方神と天竜川の近くで『力競べ』をして敗れ

建御名方神に服従することになったという。


この神を祀っていた神社では、一年交代で

前の神官を殺してしまう『一年神主』の伝承が残る。


みしゃぐ とは押しつぶすという意味があり

山口県柳井の方言でも

壊す 砕く 滅茶苦茶にする という意味で使われる。



ミシャグ神を考えるとき外せないのが

御頭祭 御柱祭 建御名方神 守屋山 旧御射山(霧が峰)

これらを書くというのは、ゆるくない作業である。

間を空けながらのんびり行こうと思っている。


御頭祭 諏訪上社 前宮十間廊で執り行われる大祭

かつては七十五頭の鹿の頭が供えられ

生兎、生鹿、切兎、兎煎る、鹿の五臓

鹿の脳和え、禽獣の高盛りも供えられたという

あとは根曲太刀、藤刀、重藤弓、鹿鏑矢、サナギ鈴

そして・・・ 『御贄柱(おにえばしら)』 

一名 おんねばしら 、『御杖(おつえ)』など

とにかく血生臭い祭りである。

どう考えても、単なる儀式とも思えないし

敬虔な祈りを捧げることすら感じさせないのだ

粛々と執り行う儀礼・・・・忌み事のようでもある。

御贄柱とは文字通り、人柱であろう

一説によれば、8歳の子供に紅い衣装を着せ

御贄柱に括り付けて、前述の肉盛りの上に供える

抗うことすら許さない非常の儀式からは

深い悲しみと怨念が涌いて来ることは想像できる。

何のための、誰の為の”生贄”なのか?

諏訪大社は面白い・・・。


◎  多神教の長屋の爺 


そもそも日本という国

多神教の地盤の上に成り立っていると思う。


多神教の民は絶対的なものに支配されない

何かに所有されないし、縛られないのである。

そのかわりどんなものでも拒絶しない

ぶっちゃけた話

とりあえず受け止めるが受け入れるかは別

一つのものが絶対的でない以上

数については問題にしない

それが多神教の多神教たる所以である。


縄文人と呼ばれる民も多神教であり

アニミズムと共に生きた。

アニミズムを崇拝する民を『野蛮人』

そう呼ぶ人たちが居る


私はそうは思わないのである。


一神教の神は民を所有する。

自ら信ずる神が唯一無二であり

それ以外を否定・排除する傾向にある。


多神教の民はどんな神でも拒絶しない

おおらかに共存の道を模索する。

それがいかに原始的と言われても

全てのモノに恐れを感じ

全てのモノに感謝をする

川に遊べば、川の神に

山に暮らせば、山ノ神に

畏怖と尊敬の気持ちを持ち続ける。

これは野蛮ではなく、素朴と表現すべきである。


人は死に臨んで、神と愛する人のどちらを想うか?

多神教の日本人は

アマテラスもオオクニヌシも天皇陛下も

想って死に臨むものは居ないと思う

浄土宗徒も日蓮宗徒も臨済宗徒でも宗祖の名は

思い浮かべないのである。

父や母、妻や子、兄弟を想い臨むのだと思う。


私は宗教とは無縁で人生を過ごしてきた

世間の常識すらあやふやである

まして宗教など門外漢、それ以前の朴念仁だろう

日本人の良さとは、自分の信仰を他者に強要しない


信じるものを見つけたゆえに信じる


それが自分だけのものであっても良いのである

私の人生を振り返ったとき

そうして生きてきたような気がする

宗教観・死生観とは他者に押付けられる物ではなく

自分で気付くものだとおもっている。


信仰に造詣の深い方が聞けば笑われよう

長屋の爺にはこれ位の理解しか出来ていない

そんな程度の人生である。

◎  少彦名神 

日本書紀と古事記を比較すると

古事記は出雲神話を多く取り上げ

天津神と国津神の統一を描き

オオクニヌシを偉大な神とすることにより

後に地上を平定した天皇の偉業を讃えた

そのために必要不可欠な題材であったわけだ


一方日本書紀は国家の歴史を残すという主旨であり

出雲神話が無くとも国家の歴史には問題が無く

且つ必要性が少ないと判断したことを感じる。


裏を読めば、書記に書かれていないから

信用できないとは言えないし

古事記に書かれているから事実とも言えない

その神がなぜ描かれなかったか

その話がなぜ取り上げられたのか

裏を推測しながら見比べると面白い。


さて少彦名神 【すくなひこなのかみ】

大国主命の国作りの重要な相方である

小さな体の神で、酒造りの神、温泉の神

医療の神とも言われている。


一説によると粟の殻の精霊とも言われ

粟を中心とした畑作による農耕活動を守護する神

ではないかとも考えられている。


名前であるが、”少”は”大”に対する比較であり

彦は”日子”、日の御子であり

小さな日の御子という名前の神

と言う事になる。

だがこの少彦名神は死んでいるのだ

粟茎(あわがら)に弾かれて常世(とこよ)国に行った

とされ、爺の基準では死ぬ神は存在しないから

実在の人、若しくは架空の神と言う事になる。

一寸法師のモデルになったとも

だがオオクニヌシほどメジャーな神ではなく

各地の伝承などに二神の活躍が残されている。

◎  鹿島神宮と香取神宮 

私の生まれ故郷では、神さまのことをこう呼ぶ


カムイ


言葉は文化であるが、不変というわけではない

誰・・・・だれと読む

しかし200年前なら、これは 『たれ』

そう読んでいたはずだ


建御雷神(たけみかずちのかみ)

出雲の国譲りの功労者である

この建御雷神を主祭神とする『鹿島神宮』

利根川を挟んで建つ『香取神宮』

主祭神は軽津主神(ふつぬしのかみ)である。

日本書紀によれば、この二神は同一神だという。

それゆえか、面白い仮説がある


鹿島は古くは『香島』と表記されており

書き継がれていく間に、『香鳥』と表記され

別々の神社になってしまったという。

香島は鹿島に変わり、香鳥は香取に変わったという。


同じ武神であり、すぐ近くに鎮座する両神宮

突飛な発想は爺の大好物である。



『セーマン・ドーマン』

陰陽道の呪法に用いられる図形である

安倍晴明から生まれたのがセーマン

『晴明桔梗』のことで、五芒星である

バン、ウン、タラク、キリク、アク

金剛界五如来の梵字を唱える

蘆屋道満(あしやどうまん)から生まれた

ドーマン、修験道で有名な九字を切る呪文

臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前

または

青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、南斗、北斗、三台、玉女

と唱えるともいう。


伊勢地方の海女たちに今も伝えられている

ドーマン(ドウマン)は

格子状の魔の入る隙間が無いとされ

セーマン(セイマン)は

一筆書きできるため潜っても必ず元に戻る

といわれ、海女の磯着に印して

両方で守護と魔よけのまじないとされている。

◎  大山祇神 


大山祇神(おおやまつみのかみ) 



日本全国の山の神の総元締めである。

山ノ神は女神であるとも言われ

醜女であるため自分より醜いものを好むとも

言われている

念のために言い添えておくが山ノ神とは

世間で言う、口やかましい妻のことではない。


八百万の神が居るといわれたこの国

大きな山・小さな山にもそれぞれ神が居る

なぜかその神々が大山祇神の指揮下に据えられた。


大山祇神の娘のコノハナサクヤ姫が天照大神の孫

皇室の祖先であるニニギノ尊の妻と言う事になっている

これには諸説あるが

天孫降臨で地上に降りたニニギノ尊は

美しいコノハナサクヤと出会う

ニニギはすぐに結婚を申し込んだ

それを聞いた大山祇神は姉のイハナガ姫も一緒に

差し出したという。

イハナガは醜かったためニニギは追い返してしまった


大山祇神はイハナガを追い返し

コノハナだけを残したことで

『 天ツ神の御寿(みいのち)は木の花のように

儚いものになるでしょう』 と言った。

これが天孫(皇統)が神であるにも拘らず

寿命が短くなった理由ということである



神の末裔なのに短い寿命の言い訳を姉妹の話として

大山祇神を絡めて創作したというべきだろう。

ニニギはイハナガを追い返したことで

不老不死を失い、寿命を持つようになった

これは東南アジアで見られる『バナナ型神話』

と同じだとも言う。


この話では大山祇神は『父神』とされているが

書記の一書によれば

コノハナは『天津神が大山祇神を娶って生まれた子』

として書かれている。

大山祇神は本当は 『女神』 だったとされている。

冒頭で書いた”山の神は女神”と符合するのである。



ここでも女神が登場した。

女神(女性)は命を産む

豊穣の根源が女神にたとえられているのか?

そもそも山の神とは水を麓に運ぶ

山の恵み(水)をもたらす神だったのであろう。

山ノ神 = 豊穣の神 

天孫の寿命問題に一役買った褒美に

全国の山の神の総元締めに押し上げられた

そんなところではないかと思う。

◎  鬼と蜘蛛と人でなし 


青丹よし 奈良の都は 咲く花の

 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり


      万葉集 巻三  小野老(おののおゆ)


この歌に出てくる”青”とは 上等な砂鉄 のことで

”丹”は、辰砂・・赤色硫化水銀のことである。

この歌は、『砂鉄や水銀を沢山持って

奈良の都は本当に栄えています』 という意味か?

砂鉄も水銀も当時はかなり貴重品であったという。

薫ふも元は”丹秀ふ”だったと言われている。



鬼と言って、連想するのは

青鬼 赤鬼 である・・・・・。

なぜ 青鬼・赤鬼なのか答えはこの辺りにあるのか



蜘蛛

字を分解すれば、朱を知る虫・・・・である。

蜘蛛と呼ばれる人たちは山に分け入り

丹や青の鉱脈を探す山師たちと考えられている。

弘法大師 空海も四国から紀伊半島にかけ

丹を求めて山岳修行を行ったという。

その成果ゆえ朝廷から”高野山”を布教の場として

認められたとも言われている。


聖武天皇の世 (750年ころ)

奈良の大仏造営に際して莫大な金が使われた

金色に輝く大仏だったことは知られている。

その陰で途方も無い”水銀”が使われていた。


380tの大仏に、金437キロ・・・

水銀が2,5tも使われたと言う。

水銀は金渡金に使用された

水銀に溶かした金を大仏に塗り熱して

水銀を蒸発させ、金だけを表面に残す方法である


そのように貴重な丹をめぐり

朝廷とヒトデナシの争いは繰り返されたのである。

ヒトデナシとは”官位五位未満”の人を云い

人権など無かったのである。


搾取する者と搾取される者

いつの時代も、程度の差こそあるが

変わらないと言う事なのだろう・・・・。

◎  素戔鳴尊と山田の案山子 


素戔鳴尊を考えると途方も無い荒野を行く

そんな心境になる



日本の神さまを観ると料理を思い浮かべる

素材ではなく、調理済みの料理のようなのである

また馬鹿なことを・・・と言われそうだ。


その原因は仏教と交じり合って素材以外のもの

尾ひれが付き、形を変えて

原型が留まっていないからであろう

さらに時代の経過により、時の人々の思惑が入り

訳のわからない神様になっている気がする。


素戔鳴尊は牛頭天王と同一といわれる。

牛頭天王とは”祇園精舎”の守護神である

これでは”白米”と”ナン”が同じものだと言っている

不自然なことを当たり前に受け入れる

古代とはそういう時代なのか?


素戔鳴尊と牛頭天王が同一という話

まさに”神仏習合”の副産物である。


素戔鳴尊の六代後に大国主命が登場する

大国主命は”国津神”であり

素戔鳴尊は”天津神”である

不可解きわまる系譜なのだが

出雲に降臨するなら、アマテラスの子孫

普通はそういう設定にするはずであろう

産地の違う素材を同じなべに入れてしまったのか?


神代の時代は”無国籍料理”、”ごった煮”状態だ

そう感じるのは爺だけか?



山田の中の一本足のかかし 天気のよいのにみの笠着けて 

朝から晩までただ立ちどおし 歩けないのか山田のかかし


山田の中の一本足のかかし 弓矢でおどして力んで居れど 

山では烏がかあかと笑う 耳が無いのか山田のかかし



これは唱歌の 『案山子』の歌詞である。

なぜ蓑笠をつけているのか不思議だった。

これも素戔鳴尊の関係か・・・。


日本書紀に書かれている・・・

素戔鳴尊が根の国に追いやられるとき

手足の爪を剥がされ青草を結い束ねた

蓑笠を着せられ風雨の中に追い出された

そのとき誰一人として一夜の宿を貸さなかった

以来、蓑笠姿で人を訪ねてはいけないといわれた。


なぜか、”蘇民将来”の匂いがしませんか?

蓑笠を着けているだけで『鬼』で

蓑笠姿は鬼の象徴であるなら

蓑笠をつけた案山子も鬼なのである。

子供たちにもからかわれ、貶められた案山子とは

崩え彦(くえびこ)といい


『山田のソオドなる者なり。この神は足は行かずと

いえども、天下のことを知り尽くせる神なり』



ソオド・・赭土(そおに)・・辰砂・・朱砂

水銀の原料である。

鉄も水銀も略奪され、山から田園に追いやられ

なおも鬼として貶められた山の民のことだろう。

一本足・一つ目は踏鞴製鉄の職業病であり

蓑笠はまさしく、朱砂の王・・・須佐の王

スサノオウを現しては居ないだろうか。



◎  素戔鳴尊と八岐大蛇 (弐) 

日本の神さまをこんなに複雑怪奇にした張本人

それは『日本書紀』であり、『古事記』である。

もっと言えば、藤原不比等と持統天皇である。


日本の神社をこうも複雑にしたのは明治政府

そして神社本庁と神社庁である。

総ての神社を天照大神の下に縛り付ける・・・・。


日本人の殆んどはヤンゴトナキ人々の末裔ではない

天照大神(太陽神)が皇祖神であることはかまわない

しかし、その土地に根を張り、脈々と続く鬼たちが居る

鬼には鬼の祖神が居り、蜘蛛には蜘蛛の祖神が居る

鬼が祀る神と皇家の祀る神は違って当たり前なのであり

それが一つの系譜になることはナンセンスといえる。

これは長屋の爺の個人的な思いであり

何ら万世一系に異を唱えるものではない・・・・。


神霊には『奇魂(くしみたま)』、『幸魂(さきみたま)』

『和魂(にぎみたま)』、『荒魂(あらみたま)』があり

天照大神・豊受大御神は『荒御魂(あらみたま)』であるという。

荒御魂とは荒ぶる神(荒々しい神)で

神威(しんい)が強く丁寧に祀らねばならない。


荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。

天変地異を引き起こし、病を流行らせる。

神の祟りは荒魂の表れである

和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。

神の加護は和魂の表れである

幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである

奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。

幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。


荒ぶる神と言えば 素戔鳴尊(すさのおのみこと)だろう。

乱暴が過ぎて、天照大神が天岩戸に隠れたと伝わる

素戔鳴尊といえば、八岐大蛇退治伝説が有名である。

その伝説とは、越から八つの頭と八つの尾を持つ大蛇

『八岐大蛇』がやって来て、娘を生け贄としてさらって行く

最後に残った八番目の娘(クシナダ姫)を奪いに来る

そいつを退治した、そんな話だった気がする。


これは神話である

八つの頭と八つの尾の蛇だという


八岐大蛇は真っ赤な目をして

体からコケやヒノキが生い茂り

腹はただれて血を滴らせているという。

体にコケやヒノキを生やすなら、山のようではないか

腹はただれて血を流し 山腹に赤いものが流れる・・・

砂鉄とか酸化鉄の類なのか?朱丹なのか?

赤い眼をしているとは、踏鞴の火のことか?

山の尾根が何本にも分かれ、その数が八つあると


越の国にあった鉄生産地のことを語っている

その鉄生産地を素戔鳴尊が手中にした話

ヤマトの国に『鉄』をもたらしたのは素戔鳴尊であり

越から奪ったとは書けないので、大蛇退治に摩り替えた

その素戔鳴尊の末裔が蘇我氏なのだろう

いや違う・・・その実行者は蘇我氏の祖先であり

蘇我の王・・・そがのおう・・・スガノオウ

スサノオだったのではないだろうか

藤原に滅ぼされた蘇我一族こそ『素戔鳴尊』だった

ヤマトには乱暴者であり、孝行者でもあった素戔鳴尊

ヤマト創建の功労者は『荒ぶる神』となった

記紀の裏側の長屋の爺の拙い仮説である。

◎  素戔嗚尊と八岐大蛇 

『日本書紀』と『古事記』には違いがある。

それぞれ書かれていたり、書かれていなかったり

不思議ではある

『出雲国風土記』というものがある。

713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により

出雲国国司は出雲国風土記の編纂を委嘱した。

733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと

神宅臣金太理の手によって出雲国風土記は編纂された。

伝わる風土記の中、唯一役人によって書かれなかった。


この出雲国風土記には、スサノオの話は全く出てこない。

『八岐大蛇』も無いのである。

え?って話である・・・。

出雲を代表する重要な神話である、書き落としたとは

到底考えられない。

何せ勅命の編纂・奏上なのである

沢山の宮廷人が知るところでもあるのだ。


ここに面白い仮説がある。

スサノオの八岐大蛇退治は大和の出雲で起こった

だから出雲国風土記には載っていない


ということだ。

真偽は置いといて

かつて都祁村という所が在り、その村の中心に神社がある。

その神社には古い大きな八岐大蛇退治の絵馬があり

近くには奇稲田姫(くしいなだひめ)の父母の

足名椎(あしなづち)、手名椎(てなづち)の祠が在るという。

『出雲神話の八岐大蛇退治はこの地で行われた』

村人はそう言っているとあった。

見方を変えれば理論が通る。

有りもしないことは書けない・・・。

受け取った側も、その事実を知るが故に

問題にすらされなかった、という事なのだろうか。

仮説やフィクションでもワクワクする話。

だから古代史は面白い・・・・。


出雲といえば、出雲大社

別名 『杵築 宮 (きづきのみや)』

この出雲大社、何度も倒壊しているという

1031年から1172年にかけて5回

台風でも地震でもない、理由の不明な倒壊である。

その都度再建されている・・・・。

出雲大社は川を渡り、本殿に向かって下りていく

祀った者の意思を感じる

川を渡るのは、川向こうである彼岸の地であろう

下りて行くのは祀られた者より、祀った者の優越感か

見下すと言う事なのだろう。

拝む相手が自分の目線より下にあるのはおかしいではないか

出雲はまだまだ不可思議である。



◎  野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)  


音(ことば)しか無かった時代

音と文字が在ったが、文字が残っていない時代

文字は在ったが、残っているものが少ない時代

文字が広く使われ書き記したものが多く残る時代


文字はどうして生まれたのか

『必要は発明の母』 と聞いたことがある

どうしても言葉に代わる”文字”が必要になった

それが何だったかなど解るはずもないが・・・。

覚えきれないものを何かに置き換えて記憶したか

長い話の要点だけを何かの形で置き換えたか

とにかく必要だったことだけは理解できる。

言葉は文字よりも先に使われていた。

これに異論は無いと思う。


言葉は何の制約も受けない

自分勝手に生み出し、他者が受け入れれば

その言葉は通用することになる

現代の若者言葉を聴けば、答えは出ている。

しかし文字は様々な制約・規則(文法)で縛られる

その制約こそ、誰かが定めた。

後の時代に決められた規則(解釈)に沿って

解読することの真偽に疑問を感じるのである。


相撲 これを素直に読めば”あいぼく”である

お互いに殴りあう、蹴りあうということか

なぜかこれを”すもう”と読ませる。

”住もう”とか”棲もう”という意味か?

ものの本によれば、”座まふ”すまうからという。

相撲をとるというのは騙りである。

そこに居させられる、じっとさせる

大きな力によって強制的に居させられる

さらに、注連縄で結界を張り、出ることを禁じた。


野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)

相撲取りの祖といわれる

日本書紀にはその対戦の模様を書き記してある

ところがである。

その日のうちに、出雲から野見宿禰を呼び寄せた

そしてその日に当麻蹴速と戦わせたとある。

(出雲から大和にその日のうちに召しださせた?)

その当時大和から辺境の出雲まで

どれくらいの時間が懸かったのか


以前書いた奈良県桜井市にある出雲

ここからなら、その日のうちに応じられるだろう。

書記に書かれている出雲とは桜井市の出雲のことではないか?

(時には丹波の出雲であったかもしれない。)

記紀が書かれた時代、出雲は大和と丹波にあった

それを野見宿禰が証明してくれた。


『大げさに書いただけだろう?』

あくまでもこれは史書であり

国史として勅命で編まれたものなのである。

奈良県内の移動によって、力勝負が行われた

そう考えるのが自然である。

日本書紀は総て嘘を記したのではない

こういうところに真実をちりばめている

調理しないで捨てるわけにはいかない

本当にやっかいな『歴史書』である。

◎  鬼と河童ときゅうり 

時期を外したが、『節分会』というものがある。

早く言えば、豆まきの事である。

鬼の面を被った人を裃姿の人が豆を撒いて追い払う




鬼とは昔、殿上人に土地を奪われ、追い散らされた人々

宮廷に抗った人たちのことである。

言い換えれば、現代の大和民族

ごく一握りの方々を除いて、おそらく鬼の末裔

そう言いきっても間違いではない。

その鬼の末裔たちが、鬼を追い払う

鬼を使って鬼を追い払う

これが『節分』、豆まきの正体である。


穢れを祓う

穢れた鬼を追い払うことは穢れに触れること

それを回避する手段が、鬼を持って鬼を制すること

やんごとなき殿上人はとにかく”けがれ”を忌み嫌った。



時代が進むにつれ、穢れを遠ざけることが常態化し

穢れたものは

 観ざる 言わざる 聴かざる

それは”犯罪”についても同じであった。

軍隊や警察といった組織を穢れに関わるもの

観たくない、聞きたくない、話題にしたくない

その結果、さぶろうもの(サムライ)が誕生し

穢れを担当することになる。

武士の世は、来るべくして来たと言う事か


今で言うなら、『現実逃避』というのか?

なにやら現代の”自衛隊反対”、”軍隊不必要論”

似通っていると思うのは爺だけだろうか・・・。


鬼とともに”人でなし”として区別されたのが

蜘蛛 狐 河童などである。


河童 (かっぱ)

誰もが知っている、あの河童である

川辺に住む虐げられた人々

好物は『きゅうり』 と言われている。

きゅうり - 原産地はネパール・北部インド

野生のきゅうりは食用には適さない

平安時代のきゅうりの栽培実験の結果

『苦くて 硬くて食べられたものじゃない』

と聞いている。

そんなきゅうりを河童は好んで食べたというのか?

事実は違うだろう

そんな食えないような物しか食べられなかった

『きゅうりでも食っていろ』

そういうことではなかったか?


われわれが知っている(と思っている)知識など

騙りごとばかりの物語(モノ騙り)である。


河童は河の民、河の衆である

河の衆・・・河衆(かわず)でもある。

かわず といえば蛙(かえる)のことだ

人でない者はいろんな呼び方で差別(区別)されたのである。


長屋の爺も、**藩の武士の末裔などと

語ってはいるが、所詮ヒトデナシの末裔に過ぎないのである。



神さまとちょっと離れた、息抜きのつまらぬ話でした。

◎  諏訪大社と建御名方神 

自分は古代史を調べている(取るに足らない類だが)

これはけっして神様を軽んじているとか

皇室に対して含むところが有るわけではない

独善的な解釈も多々あるのは覚悟の前だ



歴史を書き残すことができたのは勝者のみ

歴史書とは勝者に与えられた特権である。

敗者の歴史・主張は抹殺されていった

残された歴史書を鵜吞みにするばかりでなく

書き残されなかった部分を考える

それこそが歴史だと思う。

歴史は学ぶものでなく、考える・推理する

そういうものだと長屋の爺は考えている。


天照大神ースサノオー大国主命 とくれば

次は建御名方神(たけみなかたのかみ)だろう。

大国主命の子で、タテミカズチに腕を切り落とされ

出雲から諏訪に逃げたとされる神である

この逸話は 『古事記』 に詳しく出ている。

そう、古事記には出ている・・・・・・。

が、『日本書紀』 には見当たらないのである。

一説によると、出雲神話よりも前に諏訪にいた

土着神ではないかという話もある。

”御名方”は”水潟”のことで、諏訪湖の周辺を指し

古くから信仰を受けていたという説もある。

手をもぎ取られて出雲から諏訪まで逃げるなど

当時の状況では”ナンセンス”である。

江戸期でも遠くへ旅するのは”難儀”なこと

”水杯”で今生の別れをした話もある。

最初から諏訪の地に鎮座していた土着神

そう考えるのが自然である。

ではなぜ? 古事記にだけ記されたのか

日本書紀は一応”国史”の体裁をとっている。

書くことにいささか憚ったと言う事なのか

諏訪という地は東北への要の地である。

出雲勢力にとっても、大和勢力にとっても

大変重要な要所だったと思える。

そこを陰謀策略で手に入れたとは

国史としては二の足を踏んだという処ではないか?

そこで出雲の国譲りに引っ掛けて創作し挿入した

大国主命の息子など騙り以外考えられないと思う。

なぜか?

この建御名方神は、死んだという記述がどこにも無い

腕をもがれたとあるだけである

死ぬ神は存在しない、爺の持論である。

紛れも無く”建御名方神”は神さまとして崇拝されていた。

では腕とは何か?

有能な部下のことを”片腕”と呼ぶことがある。

想像するに有能な腹心が寝返ったか

あるいは惨殺されたか、人質にとられたか?

ここでは建御名方神はすでに神である

諏訪の社地を護る誰かが危難に遭ったと考えるのが妥当か

大和勢力が平和的にこの地を手にしたとは思えない。


この諏訪大社は歴代朝廷をはじめ

戦国時代の武将から崇められたという

東関東第一の軍神(いくさがみ)として

勝負神・武家の守護神として”日本第一軍神”

そう云われていた。

国譲りで負けた神が勝負神・軍神とは腑に落ちない話

謎は尽きないのである。


『お諏訪さま』も おもしろい・・・・・。

◎  古代のスーパーマン 聖徳太子 


古代史を独学で学んで不思議なことに気付いた

卑弥呼という名前の女性が出てくる

しかし他の人間の名前が出てこない

なぜ卑弥呼だけが出てきて

他の人の名前が出てこない?

はっきりと人の名前が出てくるのは

聖徳太子が最初である。


ヤマトの国は6世紀まで人には名が無かった?

若しくは人が居なかった?


どちらも有り得ない話である

本当は居たのだが、不都合があって残さなかった

そのまま書き残す事に差し障りがあり改竄した

そんなところだろう・・・と爺は思っている。


聖徳太子

一言で言えば、古代日本の超人である

生まれはキリストと同じ”馬屋”である

一度に10人の話を聞き分けたといい

とにもかくにも褒めちぎっている

偏屈なら人語に落ちない長屋の爺

どれもこれも気に食わないのである。

厩戸皇子は居たかもしれないが

”聖徳太子”なる人物は実在しなかった

そう思っている

『日本書紀』 のいう聖徳太子とその一族の話

どれもこれも疑わしいものばかり

わずか100年前のことである

そこまで賞賛し担ぎ上げるなら辻褄くらい

あわせても良いではないか

太子と山背大兄王の親子関係も明確に記されていない

信じるべきものがまるで見当たらない

それが爺が得た結論、”太子架空説”である



爺が古代史を観るとき気をつけているのは

名前に拘ることの危うさだ

現代でも”歌舞伎役者”の大看板など

同じ名前を代々名乗ることも知られている

何百年と生きたように伝えられる名前の持主

本当にそんなに永く生きれたものか?

偽りか、または同名異人しかないだろう

いろいろな呼ばれ方、とんでもなく長生きをした

そんな神さまや偉人たちは疑ってみるべきだと

爺は思っております。


とにかく政(まつりごと)に関わった人間が

後に神格化された者は間違いなく

『恨みを残して 死んでいった』

これは古代史の普遍の方程式である。

聖徳太子はおもしろい・・・・・。

◎  宇佐神宮の主神・比売大神とは 

宇佐神宮

別名 宇佐八幡宮

全国 にある八幡宮二万五千社(四万社ともいう)の総本社

八幡社の多くは村の鎮守様として親しまれている。

主祭神は八幡大神 (はちまんおおかみ)

    比売大神 (ひめのおおかみ)

    神功皇后 (じんぐうこうごう)

創建なども言い伝えの範囲でしか知られていない

それによると、神亀2年(725年)に一之殿が造営され

天平元年(729年)に二之殿が、弘仁14年(823年)に三之殿が造営されて

現在のような社殿の形が成ったという。


さて、この宇佐神宮と言えば、弓削道鏡の神託事件が有名である。

なぜ伊勢ではなく、宇佐だったのか?

素人である長屋の爺は腑に落ちないのである。

神護景雲3年(769年)に起きた僧道鏡を天皇にというご神託がでた

あの事件である。

これについても異論が多く、謎が多い事件である。

この事件の後、称徳天皇崩御の後、下野に流罪になってはいるが

道鏡が本当に皇位を望み・画策したのであれば

軽すぎる罰であり、単なる前帝の信任厚いものを遠ざけた

そう考えるのが至極妥当と言う気もする。

どうも古代史は”毛細血管”のように入り組んで枝分かれし

脱線することが多くて参ってしまう。

話を宇佐に戻そう

宇佐には10年ごとに式年祭という慣習がある。

断っておくが”式年遷宮”ではない

朝廷より勅使が派遣されるという事らしい

この慣習は平安時代まで続き

和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが

決まりであったと言う、和気清麻呂と言えば

神託事件の時、勅使として宇佐に派遣され

神託を覆したとされている、あの和気清麻呂である。


この神託事件をさかのぼる事25年ほど前のこと

天平十九年(747年)聖武天皇のとき

天皇は宇佐に使者を遣わして祈願したという

 『奈良の東大寺に大仏を造る』

その祈願を宇佐では、成就すると告げたと言う。

これも”騙り(かたり)”の一つと思える。

聖武天皇は宇佐に何かを無心した

『鉄』 であったか

『丹』 であったか、『金』であったのか?

そこで協力の同意を得た、爺はそう考えている。

なぜ応神天皇(誉田別命)が祀られているのか

なぜ神功皇后(息長帯比売命)が祀られているのか

宇佐の地にあった”名もない神”

それがトントン拍子に出世して

朝廷を鎮護する重要な神さまになった理由

東大寺の大仏が知っているはずである。


以前にも書いたが、主祭神が三神いたなら

中央に鎮座する神が一番高位なのである

家庭の三社神棚を見れば一目瞭然である。

宇佐の三神の中央(二之御殿)には比売大神が座す

応神天皇より神功皇后より高位の神さまである。

宇佐神宮の主神・比売大神とは、果して何者だろうか?


ある興味深い話を聞いた


小説家・伊沢元彦氏は

古代中国語で「比売大神」をなんて読むのか、ようやく調べ上げた。

中国の言語学者は、マイクの前で確かに、そして確実にこう発音した。


     「フィミカ」‥‥‥。


      フィミカ=卑弥呼

◎  緩やかな変革と王家の誕生 

王家(天皇家)は最初から大きな勢力だったのか

そうではなかったと思っている

王家は稲作と共にこのヤマトの地に渡ってきた

爺の私見であるが・・・


人は何でも括りたがる

縄文人と言う言葉さえ学者先生がご都合で命名

そう思っている

歴史は澱み(よどみ)なく流れる水の流れのよう

ある日突然は起こりにくいもの

ある時は緩やかに

またある時は激しく

時代は移って行ったのではないだろうか


この世に権力というものが無ければ

文明の発展も人類の繁栄も無かったであろう

その権力の源泉が『米(こめ)』であり

穀物の貯蔵ではなかったのか

今日という日を無心に生きる民

狩猟で獲物が獲れない時、悲嘆にくれただろう

明日があるかどうかも今日の結果に懸かっていた


稲作によって明日という日を生きることに

気付かされ誰もが希望を見出した

明日から更にその先へと思いが向かっただろう

そこに 『明日への光』 である米の貯えができた

貯えを持つことは即、他人より優位に立つと言う事

それこそが 『権力』 の誕生だったと思っている。

今日を生きるために必要な獲物だけを狩り

今日を生きのびた事を自然の総てに感謝し祈る


稲作の発達により今日を生きた結果とともに

明日を生きる願いを抱いた

新たな信仰の誕生かもしれない

大陸から稲とともに稲作の神も伝わっただろう

土着の民が思い描いた神とは違ったかもしれない

それでも民はそれぞれの神というモノに感謝し

喜びを伝えただろう


話を王家に戻そう

多くの貯えを持った部族が幾つもの地方に居た

それがある時結集した

そこに至るまでに、多くの血が流れたかもしれない

広い土地を求めて、他部族の領土を侵し

果て無き戦いが続いていたのではないか

その大きな集団こそヤマトといわれるクニ

ムラからクニに変わっていくのはその時だろう


最初から絶大な力を持ったクニが在った訳ではあるまい

緩やかな”合議制”のクニ

それがヤマトの最初であったと考えている

人は欲を持っている、誰しも他人より多くを望む

権力もまた然りである


新たな諍い(いさかい)の始まりである

穢れ(けがれ)と祟り(たたり)、醜い欲望の渦

大和朝廷はその風土から誕生している

正当性と言い訳、悔悟は恐れとなり

担ぎ上げる(祀る)事で天罰を逃れようとした

それが 『出雲』 であり 『伊勢』 なのだと思う

大国主命や天照大神を正面から拝むことを禁じ

本殿を建て替えることで 『贖罪』 を誓ったか?

自ら参ることを嫌い、豊受大御神を世話係として

外宮なるものを作り守させたと推測できる。


私幣禁断の制

庶民は勝手に幣帛を伊勢神宮に奉献してはならず、重い罪とされる。

諸侯や天皇の臣下も勿論禁止である。

皇太子、皇后・皇太后・太皇太后だけ

事前に天皇の許しがあれば、幣帛を奉献できるというものである。

これは天武天皇が定めたとある。

*(このことは別の機会にでも書いてみたい)

これも平安の時代以降には有名無実となり

平清盛や源頼朝や足利尊氏なども参拝・奉幣している。

伊勢神宮には拝殿が無い、以前書いたが

内宮・外宮ともに拝殿は存在しない

参拝したことがある方はご存知だろう

何に対して拝んでいるのか不明瞭なのだ

それも神殿途中までしか入れず

その先は下賤の者には窺い知れない

庶民は自宅の神棚の御札に参拝せよ

そう言う事かもしれない・・・。

◎  『お天道様が 見ている』 という自意識 


日本がまだ小さな集落単位で生活していた頃

アニミズム(自然崇拝)が全てであった時代

それぞれ集団(部落)ごとに違った神を祀っていた

山、川、海、それぞれが生活に密着した精霊を崇め

それぞれの呼び名で呼んでいたことだろう


稲作が渡来し、新たな神が現れ諍うことなく

自然に共存しただろう。


変革はクニと呼ばれる大きな集団が出来た頃か

一つだけだった信仰の対象が、複数になったかも

山ノ神と豊穣の神が同居するうち

一つになった神もあるかもしれないのだ


そしてヤマトの王家の誕生である

それまで地方豪族が各々に崇めていた神

それを王家の神の下に従わせる手段をとったか?

天照大神を頂点に、数多の神をその下に置いた

その作業を実行したのが、藤原不比等であり

持統天皇だったのではなかろうか?

数多居る地方の神々を、神話という手法を使い

皇祖神の下に位置づける説話を創作した

そこには史実を織り交ぜ、後ろめたいことも

自分たちに都合よく書き換え

最終的には 『よく知らない』 といい逃れた


この推測で考えれば、古代史が奇妙奇天烈

ちんぷんかんぷんの説明になり得るだろう


全部を創作したならば、もっと見応えのある

歴史書が完成されていただろう

『お天道様が 見ておられる』

頭の隅にちょっとだけ、天の怒りを危惧したのだろう

穢れ(けがれ)と祟り(たたり)の時代である

まして、言葉(ことのは)には、魂(たましい)が宿る

そう信じられていた時代でも有るのだから


日の光は、遍く(あまねく)人々を照らし

豊穣という喜びを与えてくれる

その太陽の化身、太陽神の末裔が王家(皇家)である

太陽神である天照大神を皇祖神に持ってきた理由

だが事実、恵みを与えてくれると同時に

大きな怒り(災い)をも齎す鬼でもある

その恐れの為、伊勢の地へと遠ざけた


伊勢皇大神宮

平安時代までは、一切の参拝立ち入りを禁じていた

『触らぬ神に 祟り無し』

長屋の爺はこれがこの言葉の起源だと思っている。


明治になるまで天皇の正式参拝がなかった理由でも有る


神とは大きな力で豊かさと救いの手を差し伸べる

反面その力は時として荒れ狂い大きな災いを齎す鬼となる

神は鬼であり、鬼は神なのである

中央(宮廷)の意に沿わない者は皆 鬼と呼ばれ

人間として扱われなかった

平安という呼び名には相応しくない時代

陰謀と殺戮と欲望が渦巻いていた時代

己の所業にいつ何時 『天罰』 『祟り』 が降りかかるか

そういう時代に神さまの体制が決められたのである。


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